J四季折々に美しい神田川沿いの遊歩道を歩く(2)  

コース 踏破記  

<<J四季折々に美しい神田川沿いの遊歩道を歩く(1)の続きです>>  

神田川から道路一本入ったところにある肥後細川庭園を訪れます。此の地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅がありました。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷のひとつとなり、明治時代には細川家の本邸となりました。1960年に東京都が土地を購入し、翌年に「新江戸川公園」という園名で開園しました。1975年に文京区に移管されて現在に至っています。公園は目白台からの湧水が豊富なところに位置していて、その湧水を活かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっています。江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来ます。

文京区立 肥後細川庭園

幕末、ここは肥後熊本藩細川家の下屋敷、抱屋敷であり、明治十五年(1882年)からは細川家の本邸となった。その後、都立公園として開園し、昭和五十年(1975年)、文京区に移管され、平成二十九年(2017年)に、文京区立肥後細川庭園と名称を改めた。正門の柱に掲げる園名板は、永青文庫理事長 細川護煕氏の揮毫である。




肥後細川庭園の西側は目白台の台地を登る急な坂となっていて、「幽霊坂」と呼ばれています。坂の両側には高い塀が続き、繁茂した大木が立ち並んでいるために昼なお暗いことから付けられた名前のようです。付近の町名は、かって高田老松町と呼ばれていました。

旧高田老松町 (昭和四十二年までの町名)

明治五年、高田四ッ谷町の内及び高田四ッ谷町下町を併せ、更に旧土井、小笠原、細川下屋敷と武家地を合併し、高田老松町と命名した。旧高田老松町76番地の細川邸の門前に昔二株の老松があり、鶴亀松と呼んだ。町名はこのめでたい老松からとったといわれる。




肥後細川庭園の中央には大池と中池が連なっていて、回遊式泉水庭園の趣を呈しています。新緑の緑と相まって、都心とは思えないほどの風景です。



肥後細川庭園には庭園の他に、松聲閣と永青文庫というふたつの歴史的建物があります。松聲閣は大名屋敷のような格式のある屋根が特徴です(写真は母屋のようで、庭園の正門に面して松聲閣の玄関があります)。永青文庫は庭園の奥の高台にあります(閉館中か何かで行きませんでしたが)。



肥後細川庭園の東側にも目白台の台地を登る急な坂があります。「胸突坂」と呼ばれ、一部は階段になっています。牛車は登れませんが、雨や雪の日にはなんとか歩いて坂上まで辿り着けたことでしょう。

胸突坂

目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので,別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。坂がけわしく,自分の胸を突くようにしなければ上れないことから,急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。




胸突坂の中腹に芭蕉庵があります。俳人の芭蕉ゆかりの庵がなんでここに?と思いましたが、松尾芭蕉は、この付近に3年ほど住んで神田上水の工事に関わったとされています。芭蕉は俳人だけではなかったんですね。

関口芭蕉庵

この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝五年(1677年)から延宝八年(1680年)まで、神田川改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。享保十一年(1726年)、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延三年(1750年)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。芭蕉庵の建物は、昭和十二年(1937年)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし、昭和二十年(1945年)5月の戦災で焼失した。敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。




駒塚橋の先に野間記念館があります。講談社初代社長野間清治氏が収集した「野間コレクション」と称される美術品を中心に展示し、講談社の出版事業にかかわる貴重な出版文化遺産も数多く展示されています。今は敷地内に展示館を新築するために休館中となっていますが、再開時期は未定だそうです。コロナ渦での休館ではないんですね。どうでもいいのですが、「期待にそう」にはふた通りの使い方があります。「期待に添う」は、積極的に期待に応えるという能動的な意思表示です。「期待に沿う」は、期待に応えられるよう努力しますという、どちらかと言えば受動的な意思表示です。さすがに文章が命の出版社が書かれたお知らせ文ですね。

「講談社 野間美術館」は休館中です。

当館所蔵の美術品は、同敷地内に建設いたします新たな施設内において展示再開の予定です。今後につきましては、詳細が決まり次第、ホームページ等でご案内いたします。みなさまの長年にわたるご厚情に深く感謝申し上げます。新たな施設がご期待に添えるものとなりますよう鋭意取り組んでまいります。何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます。




野間美術館に隣接して、関口台地の地形を巧みに活かした造りの広大な椿山荘の敷地が広がっています。「椿山荘=ホテル」と思っていましたが、正式には椿山荘は「庭園」を指し、庭園に併設されているのが「ホテル椿山荘東京」とのことです。武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し、神田川に面したこの地は南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていました。江戸時代には久留里藩黒田氏の下屋敷でした。明治の元勲である山縣有朋は西南戦争の功により年金740円を与えられ、明治十一年に屋敷跡地を購入し、自分の屋敷として「椿山荘」と命名しました。椿山荘といえば、ホテルではなく「ホタル」ですね。例年5月中旬頃(2022年は5月20日)から蛍が見られるそうですが、ホテルではそれに合わせて特別ディナーが供されるそうです。蛍がどこから飛んでくるのか不思議ですが。

ほたるの夕べ ディナービュッフェ(2022年叛です)

開業70周年を記念し、ホテル椿山荘東京の伝統の味や人気の復刻メニューなどが勢揃い。サーロインローストビーフや特製ビーフシチュー、お好みで盛り付けられる海鮮ちらしほか、蛍見立てのあしらいを施した品々も。縁日風のフードコーナーでは、香港焼きそばや鯛焼き、ポテトフライなどのお料理を、お子様たちが一足早い夏祭り気分で楽しめるような趣向もご用意いたします。お食事後は、庭園にて蛍と東京雲海の幻想的な共演をお楽しみください。




神田川沿いの道路に面して、椿山荘の裏木戸になる「冠木門」があります。殆どのお客さんは目白通りに面した正面入口から入るのでしょうけど、ここから椿山荘に入るのも風情がありますね。現在は閉門されていて、中には入れないようですが。尚、庭園は無料公開ではなく、ホテルの利用者に限られるようですのでご注意を!



椿山荘の先に、神田川流域の中では最大規模と思われる江戸川公園があります。

江戸川公園案内図

関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園です。園内には、西洋風の山小屋を模した時計塔のある四阿(あずまや)、藤棚のテラスなどがあり、変化に富んだ景観となっています。テラスの先には石組みの池があり、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復元しています。斜面地には浮き橋状の遊歩道があり、斜面の樹木をいためないようになっています。川に沿ってソメイヨシノが続きます。

江戸川の桜ソメイヨシノ

江戸川公園周辺の神田川は、江戸時代には御留川(おとめがわ)と呼ばれ、その後昭和四十年までは江戸川と呼ばれていました。約500メートルの両岸にソメイヨシノなどの桜が多い時で241本あり、桜の名所となり新小金井といわれ夜桜見物の船も賑わっていました。その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園周辺の神田川沿いには、昭和五十八年に改めて桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。




「浮き橋状の遊歩道」と神田川沿いの桜並木です。何故か、川岸に植えられた桜の木の枝は川面に垂れ下がるんですよね。枝垂れ桜ではないと思いますが。



大洗堰は神田上水取入口でしたが、大滝橋付近にその堰を復元したものが展示されています。その横に案内板が立っています。

神田上水取入口大洗堰跡

徳川家康の江戸入りの直後、井の頭池から発する流れに善福寺池・妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和八年に取水口はふさがれた。上水道として最も古い神田上水の取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。




大洗堰の取水口には、上水の流水口を調節するための「角落」と呼ばれる板をはめ込むための石柱が設けられました。ここにある石柱は昭和八年に大洗堰が撤去された際に、移設・保存されたものだそうです。

神田上水取水口の石柱

井の頭池を源流とするわが国最初の神田上水は、関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下を樋で神田・日本橋方面に給水した。この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和八年大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。なお上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。




「歴史と文化の散歩道」の案内碑も置かれています。こういう案内文のレイアウトは初めて見ました。取水堰では、大滝のごとく神田川が流れています。この取水堰が後の文京区関口というこの界隈の地名の由来になったんですね。 神田上水はここの堰で取水され、概ね神田川(江戸川)と並行して旧水戸藩後楽園内を地形等高線に沿って流れ、水道橋の掛樋に向かっていました。

大洗堰の由来碑について

かつてこの地には神田上水の堰があり、古来より、風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の改修工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は400m程上流に復元されています。大正八年東京市はこの土地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和十二年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して由来碑をたてました。左の碑文はその文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年この碑文のみが見つかりましたので、ここに設置しました。




「左の碑文」のプレートは、「歴史と文化の散歩道」の案内碑の横の石壁に埋め込まれています。

神田上水舊蹟碑記

徳川氏、府ヲ江戸ニ開クノ初、大久保主水忠行命ヲ受ケテ上水開設ノ工ヲ起シ、多摩郡井之頭池ノ水ヲ用ヒ、此処ニ堰ヲ設ケテ神田ヨリ市中ニ給水ス。神田上水即チ是ナリ。此処ハ地勢高峻老樹翁尉タル目白臺下ノ景勝ニ位シ、亦四季ノ景物ニ富メルヲ以テ古来江戸名所トシテ聞ユル事久シ。俳聖芭蕉嘗テ上水道修築ニ従ヒテ此処ニ寓シ、遺阯今ニ傳ヘテ風流ノ余韻ヲ慕フモノ尠カラズ。大正八年附近水道附属地ヲ江戸川公園ト為シ、上水史蹟ノ保存ニ努メシガ、昭和十二年三月江戸川改修ノ工成ルニ至ツテ遂ニ舊観ヲ失ヘリ。仍テ茲ニ舊洗堰遺材ノ一部ヲ用ヒ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ、以テ追憶ノ資トナス。




音羽通りに面した江戸川公園の入口広場に、公園のトイレとは思えないような立派な公衆トイレが設置されています。最近は駅とか公園のトイレもウォッシュレット化されていて、敦煌のトイレとは天と地ほどの違いです。欧米のトイレと比べてもケタ違いのレベルです。外国から訪日した観光客がこんなトイレに入ったら、トイレの展示館か何かと勘違いして使うことなく出て行くことでしょう。その横に銅像が建っています。神田川の治水に貢献した大井玄洞という人の功績を称えたものです。

目白台・関口の歴史 〜川の歴史に思いをはせる〜

大井玄洞の胸像

かつて江戸川と呼ばれていた神田川は、たびたび洪水をおこし、沿岸の人々にとって治水事業は、永年の願いでした。明治四十三年(1910年)の大洪水の後、大井玄洞(1855年〜1930年)は人々の願いをかなえるため、治水に尽力しました。大正二年(1913年)に護岸工事着手し、大正八年(1919年)に完成させています。人々は、この治水事業の功績を称え、昭和三年(1928年)神田川沿いの江戸川公園の当所に玄洞の銅像を建てました。

神田上水

日本最古の神田上水(神田川)は、徳川家康の命により大久保藤五郎によって開かれました。井の頭池を水源とし、下流の大滝橋あたりに大洗堰を築き、水位を上げて上水を水戸屋敷に入れ、樋で地下を神田や日本橋方面に流しました。園内の左手を進むと、石組みの池を見ることができます。その石組には、大洗堰の石柱を使用しています。更に、先を進むと「関口色蕉庵」や「水神社」に出会うことができます。「関口芭蕉庵」は、神田上水の改修工事に携わった松尾邑蕉が「龍隠庵」と呼ばれる水番屋に住んだといわれ、これがいつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれることになったそうです。「水神社」は、いい伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安奏なり」と告げたため、ここに水神を把ったといわれています。

江戸川の桜

下の絵(案内板の中の絵)は、明治三十九年頃の江戸川橋下流にある「中之橋」付近の景色を描いたものです。見事な夜桜と船から花見を楽しむ様子が描かれ、かつての名所・盛り場としての姿を伝えています。残念ながら大正末期頃の護岸改修により、この景色は失われましたが、当時の面影を惜しみ、現在の江戸川公園沿いに桜を植樹し、新たな桜の名所としました。




トイレの前の板塀に付近の名所を紹介した案内板が何枚か並んでいます。なにもトイレの目隠し板に取り付けることもないと思いますが。

@肥後細川庭園

熊本藩主細川家の下屋敷で、1882年に細川家の本邸となった地です。起伏の変化を利用した回遊式泉水庭園で、素朴さの中に江戸時代の武家庭園の面影をとどめています。

Higo-Hosokawa Garden

This was the suburban residence and became the principal residence in 1882 of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto. This circuit style garden utilizes the ups and downs and still keeps the Edo period Samurai garden in simplicity.

A松聲閣

旧熊本藩細川家の学問所として使用されていました。現在の建物は、歴史性を活かして保存・修復を行うとともに、耐震性を確保し、平成二十八年にリニューアルオープンしました。

Syouseikaku

It was used as a school of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto. This building reopened in 2016 after completing the preservation renovation and acquiring the earthquake resistance without losing historicity.

B関口芭蕉庵

江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉は、1677年からの3年間、神田上水の改修工事に携わり、この地の「水番屋」に住んだといわれています。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家が建てられました。

Sekiguchi Basho Hut

Matsuo Basho who represents haiku poet of Edo period is said to have been involved in the renovation work of Kanda-Waterworks for 3 years from 1677, and lived in "Mizu-Banya" here at this place. People who worshiped him later built a house called "Ryuin-Ann" here.

C永青文庫

熊本藩主細川家の下屋敷跡です。刀剣や美術工芸品など、細川家伝来の文化財と16代護立氏のコレクションを収蔵し、展示公開しています。国の重要文化財クラスも数多く所蔵しています。

Eisei-Bunko Museum

The former residence of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto was located here. The collection of the museum includes important cultural heritages like swords and arts of Hosokawa family as well as collections of the 16th lord Moritatsu. There are a lot of nationally important cultural properties.

D野間記念館

講談社創業者の野間清治氏が収集した「野間コレクション」や出版文化資料を中心に、珠玉の作品が展示されています。季節を彩る庭も見どころのひとつです。

Noma Memorial Museum

Here, works of art mainly from "Noma Collection", which was gathered by Seiji Noma who was the first president of Kodansha, and publication culture assets are exhibited. The garden, to show case the four seasons, is also a must-see.

E成瀬記念館

赤煉瓦のロマネスク調の記念館では、日本女子大学創立者・成瀬仁蔵の生涯を紹介する常設展に加え、企画展も随時開催しています。

Naruse Memorial Hall

This is a Romanesque memorial Hall of red Brick. In addition to the permanent exhibition to introduce the life of Jinzo Naruse, the founder of Japan Women's University, planned exhibition is also held time to time.

F鳩山会館

1924年に政治家・鳩山一郎が建てた鳩山家の洋館です。ハトをモチーフにしたステンドグラスとバラが美しい庭は必見です。

Hatoyama Hall

Ichiro Hatoyama, a politician, constructed this Western-style house in 1924. The beautiful garden with a pigeon motif stained glass and roses is a must-see.

G東京カテドラル 聖マリア大聖堂

ドイツ・ケルン市の信者たちの寄進をもとに、1964年に丹下健三の設計で建造されました。ステンレス・スチール張りの外装で、内部には1本の柱もないというユニークでダイナミックな造りです。

St. Mary's Cathedral Tokyo

It was constructed after Kenzo Tange's design in 1964, on the basis of donations by believers in Cologne, Germany. The structure of the building is dynamic and unique with stainless-steel-walled exterior, and there is no pillar inside.

Hホテル椿山荘東京

起伏に富み、山の造形美を誇るこの庭園は、推定樹齢500年の椎の木、100種1,000本の椿の他、桜やモミジなどの木々が茂り、さながら森のような都会のオアシスです。国登録有形文化財の三重塔や、伊藤若沖下絵の羅漢石など、木・石造の史跡も点在しています。

Hotel Chinzanso Tokyo

This hilly garden reminds one of the beauty of mountains. In this urban oasis, you feel like you are in the woods with a vertebral tree estimated 500 years old, 1,000 camellia trees of 100 different kinds, cherry blossoms and maples. There are also historical sites made of wood and stone, such as the national registered three-story pagoda and the Rakanseki by Jyakuchu Ito.

I水神社

言い伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたため、ここに水神を祀ったという神社です。

Sui Shrine

According to the legend, God stood in the Hachiman Shrine's Chief Priest's dream, and said "I'm Water God. If you enshrine me at this land, I'll be the Weir's Guardian God and save the town of Edo and the villagers". And thus, this shrine was built here.




南北から神田川を挟んだこの地域は、かって関口水道町と呼ばれていたそうです。

旧町名案内 旧関口水道町(昭和四十一年までの町名)

むかし、関口村の内であった。鷹匠細田加右衛門他2名の知行所であったが、延宝年間(1673年〜1681年)以前から村方町屋となった。貞亨二年(1685年)町屋が許され、町奉行・代官両支配となった。そして、武蔵国豊島郡関口水道町となる。明治五年、造兵司(江戸末からの大砲製造所−明治二年政府の東京関口製造所と改称、同三年竹橋内吹上に移転、砲兵工廠の前身)や武家屋敷地その他を併せた。明治十一年、小石川区に編入した。江戸時代に水番所があり、大洗堰の神田上水の水門の差蓋揚卸の役を勤めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので、水道町の町名ができたといわれる。




公園を出て江戸川橋を渡ります。渡った先に大きな交差点があり、東方向と北方向に目白通り、西方向に新目白通り、南方向に江戸川橋通りが延びています。交差点の角には、明治時代に日本で初めて本格的なフランスパンを製造・販売した「関口フランスパン目白坂本店」がお店を構えています。江戸川橋通りを少し進んだ先の左手に「地蔵通り商店街」が延びています。明治初期から続く歴史のある商店街で、飲食店の他、肉屋・魚屋・八百屋・和菓子屋などの生活に身近な店舗が通り沿いに約70店舗並んでいます。また、「地蔵の横町便」というお買い物宅配サービスがあり、子育て世代や高齢者を始めとした近隣住民が安全に楽しく買い物ができるように配慮がされています。毎月第4日曜日に開催される「マルシェ青空市」など、商店街では季節ごとにお祭りやイベントも開催されています。



山吹町交差点を右折して早大通りに入ります。交差点から先の早大通りには緑の中央分離帯があり、欅並木が続いています。ヨーロッパの街並みのように美しい風景です。



歩道の脇には動物をイメージしたブロンズ像が置かれています。パブリックアート作品でしょうか?



早大通りは、文字通り早稲田大学の構内に直結しています。早稲田大学のシンボルである大隅講堂にやってきました。チューダー・ゴシック様式の大隈講堂は、受験雑誌でよく見る特徴的な外観をした建物です。昭和二年(1927年)に建てられたのですか?そんな年季を感じさせないですね。実は、大学の創立125周年(2007年)記念事業に向け、2006年から2007年にかけて再生工事が行われたのです。外観と大講堂の歴史的な意匠を保存しつつ、耐震補強や文化ホールとして多機能化を行われたそうですので、外観が新しく見えたのも再生工事の結果かもしれません。ちなみに、創立125周年は、大隈重信が唱えた人生125歳説を基にしたもので、早稲田大学の第二世紀の幕開けを記念したものだそうです。

重要文化財 早稲田大学大隅記念講堂
Waseda University Okuma Auditorium

早稲田大学大隈記念講堂は、創立者である大隅重信に対する記念事業として計画され、同大建築学科の佐藤功一教授と佐藤武夫助教授が設計し、同教授の内藤多仲が構造を担当し、昭和二年10月15日に竣工した。 早稲田大学大隈記念講堂は、早稲田大学のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品として、高い評価がある。また早稲田大学建築学科で永く教鞭をとり、多くの建築家を育てた佐藤功一の代表作としても重要である。




講堂脇の植え込みの中に「早稲田の栄光」と題した学生歌の歌詞を刻んだ石碑が置かれています。ネットで聴いてみたのですが、全く知らないメロディーでした。早稲田大学の校歌は馴染みがありますけどね。ちなみに、「早稲田の栄光」は、昭和二十七年(1952年)の早稲田大学創立70周年記念事業の一環として、校歌以外に学生が歌えるカレッジソングをとして歌詞を公募し、当選した岩崎巌氏の詩に、西条八十氏による補助作詞と芥川也寸志氏による作曲が行われて完成したものです。それ以降、早慶戦に勝利した際や、卒業式の最後に歌う曲として歌い続けられています。

早稲田の栄光

作曲・芥川也寸志 作詞・岩崎 巌

栄光はみどりの風に
花ひらく若き日の歌
重ね来し 歴史尊く
承け継ぎて輝く早稲田
早稲田 早稲田 我らの早稲田

ふり仰ぐ時計の塔に
青春の眸は澄みて
雲と湧く 文化の理想
担い立つ 我等たくまし
早稲田 早稲田 我らの早稲田

昂然と高張る胸に
伝統の息吹通いて
翻えす 校旗の紅に
感激の血潮は沸る
早稲田 早稲田 我らの早稲田

先哲の面影偲ぶ
なつかしき真理の杜を
彩るは 七色の虹
とこしえに輝く 早稲田
早稲田 早稲田 我らの早稲田




大隅会館入口横に小洒落た感じのお店があります。学内ショップ&カフェみたいです。外のテラスでお茶するなんて、パリのカフェみたいですね。早大生には似合わないかも。



早稲田大学の正門は大隅講堂のはす向かいにあります。普通、大学の正門には守衛所が設けられ、一般人は簡単には入れません。早稲田大学の正門は開放的で、ゲートもなければ監視の人もいません。極めて開放的な敷地になっています。正門の脇の壁に早稲田大学の教旨(大学に於ける教育の趣旨)が掲げられています。教旨には二種類があって、一方は戦前に制定されたもの、もう一方は戦後に改訂されたものです。漢字は新旧で一部異なりますが、内容は「帝国の臣民」を削除した以外はほぼ同じになっています。

教旨

早稲田大学は学問の獨立を全うし、学問の活用を鼓し、模範国民を造就するを以て建學の本旨と為す。早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て、之が自由研究を主とし、常に獨創の研鑽に力め以て世界の学問に裨補せん事を期す。早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学理として研究すると共に、之を實際に応用するの道を講し、以て時世の進運に資せん事を朞す。早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、立憲帝國の忠良なる臣民として個性を尊重し身家を發達し、國家社會を利済し、併せて廣く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。




もうひとつの教旨は、戦前の教旨が書かれたプレートの下方に、改訂の趣旨と共に掲示されています。

建学の碑

「建学之碑」は、1937年11月に、本学の創立者大隈重信の生誕百年の記念事業として建立されたものである。この碑には1913年10月の創立30周年記念の際に制定された教旨が、当時の総長田中穂積の揮毫により刻されている。そこには、創立以来の理念が、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」の三大教旨として凝縮され、早稲田大学の建学の理想として高らかに唱いあげられている。しかし、第二次世界大戦の終結にともない、新しい理念による国の建設と、教育のあり方の一新により、大学は、教旨改訂委員会を設け検討した結果、第匹節の「立憲帝国の忠良なる臣民として」の字句を削除したものを新教旨としたが、この碑自体は「歴史的文書」として建立当初のままの形で保存することに決定した。この「建学之碑」を現在の場所に移すにあたり、以上の経緯を明らかにするものである。

早稲田大学教旨

早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を効し、模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す。早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て、之が自由研究を主とし、常に独創の研鑽に力め必て世界の学問に裨補せん事を期す。早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学理として研究すると共に、之を実際に応用するの道を講し、以て時世の進運に資せん事を期す。早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、
【削除:立憲帝国の忠良なる臣民として】 個性を尊重し身家を発達し、国家社会を利済し、併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。

THE MISSION OF WASEDA UNIVERSITY

WASEDA UNIVERSITY HOLDS AS ITS FOUNDING PRINCIPLES. THE PRESERVATION OF THE INDEPENDENCE OF SCHOLARSHIP, THE PROMOTION OF THE PRACTICAL APPLICATION OF SCHOLARSHIP, AND THE FOSTERING OF GOOD CITIZENS. HOLDING THE INDEPENDENCE OF SCHOLARSHIP AS A CENTRAL PRINCIPLE, WASEDA UNIVERSITY PLEDGES TO CONTRIBUTE TO THE SCHOLARSHIP OF THE WORLD BY REGARDING FREEDOM OF RESEARCH AS ESSENTIAL AND DEVOTING ITSELF CONSTANTLY TO ORIGINAL RESEARCH. HOLDING THE PRACTICAL APPLICATION OF SCHOLARSHIP AS A CENTRAL PRINCIPLE, WASEDA UNIVERSITY PLEDGES TO CONTRIBUTE TO THE PROGRESS OF THE TIMES BY ESTABLISHING A PATH FOR THE PRACTICAL USE OF SCHOLARSHIP AS WELL AS PURSUING THEORETICAL RESEARCH FOR ITS OWN SAKE. HOLDING THE FOSTERING OF GOOD,CITIZENS AS A CENTRAL PRINCIPLE, WASEDA UNIVERSITY PLEDGES TO CULTIVATE PEOPLE OF CHARACTER WHO CAN RESPECT INDIVIDUALITY, DEVELOP THEMSELVES AND THEIR FAMILIES, BENEFIT THE NATION AND SOCIETY AND BE ACTIVE IN THE WORLD AT LARGE.




早稲田大学ではキャンパスそのものをミュージアム化することを目標のひとつにしており、坪内博士記念演劇博物館や會津八一記念博物館に加え、早稲田キャンパス1号館1階に3つ目のミュージアム「早稲田大学歴史館」を2018年に開館しました。歴史館では、早稲田大学の歴史(過去・現在・未来)に関する資料や情報を単なる事実の展示ではなく、来館者がそれぞれの関心に応じて新たな発見ができるよう、多様な切り口で提示しています。さまざまなデジタル媒体なども活用しつつ、展示内容を随時更新し、テーマ展示や企画展示なども組み合わせて、何度も訪れたくなる知的刺激に満ちた施設となるように工夫されています。館内は常設展示3エリア(「久遠の理想」・「進取の精神」・「聳ゆる甍」エリア)と企画展示ルームのほか、映像プログラムを視聴できるシアタールーム、早稲田の歴史等を調べることができるリサーチルームにより構成されています。また、早稲田グッズショップやカフェを併設し、単に展示を見て終わるだけではなく、いつでも立ち寄って楽しめるミュージアムを目指しています。



早稲田大学から地下鉄早稲田駅に向かう途中に、早稲田中学校・高等学校の校舎があります。名前の通り、中高一貫教育の男子校です。中高一貫校では、中学と高校でそれぞれ生徒を募集するところもありますが、早稲田校は中学校のみ生徒を募集する完全中高一貫校となっています。早稲田中学校・高等学校は、坪内逍遥・市島謙吉・金子筑水らが大隈重信の教育理念に基づき、東京専門学校(現在の早稲田大学)関係者と大隈重信の尽力により、明治二十八年(1895年)に創立されました。古くから「東洋のイートン校」を標榜し、「人格の独立」を謳い、リベラルを旨とする創立120年を超える伝統校です。尚、制服は男子校の伝統でもある金ボタン5個の黒学ランとなっています。ちょっと令和の時代にはそぐわなくなっていますね。



地下鉄早稲田駅は早稲田通りの地下にあります。地上出入口は早稲田駅前交差点に面しているのですが、その交差点から南方向に延びている坂は夏目坂という名前です。交差点角にある酒屋さんの隣の「ごはん処 やよい軒」の店先に、「夏目漱石誕生之地」の石碑が建っています。石碑の下部には漱石の略歴が記されています。

夏目漱石誕生之地

夏目漱石は、慶応三年(1867年)一月五日(陽暦二月九日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ、明治の教育者・文豪として不滅の業績を残し、大正五年(1916年)十二月九日、新宿区早稲田南町七において没す。生誕百年にあたり、漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ。




石碑の後には案内板も立っています。

新宿区指定史跡 夏目漱石誕生の地

夏目漱石(本名金之助)は、慶応三年(1867年)一月五日に、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末っ子としてこの地に生れた。夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、喜久井町の名は夏目家の家紋「細井筒に菊」に因んで名づけられ、夏目坂も夏目家に因んで命名されたという。漱石は生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出されたが、すぐに生家にもどり、再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になった。九歳のとき塩原姓のまま実家に戻り、二十一歳のとき夏目家に復籍している。この地での幼少期のことは、大正四年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳しく記されている。この記念碑は昭和四十一年(1966年)に漱石生誕百年を記念して新宿区が建立したもので、題字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。

Birthplace of Natsume Soseki
Designated Historical Site of Shinjuku City

The novelist Natsume Soseki was born Natsume Kinnosuke at this location on January 5, 1867. He was the youngest child of five sons and three daughters. Shortly after his birth, Soseki was placed in the foster care of the owner of a secondhand shop in Yotsuya. However, he was brought back to his natal home soon after and was later adopted by Shiobara Masanosuke, the village head of the Naito-Shinjuku District. At the age of nine, he was returned to his biological parents. Soseki used the Shiobara family name until the age of 21, when he returned to his biological family register. He describes his childhood with his biological family in his essay collection, Garasu Do no Uchi (Inside My Glass Doors), which was published in 1915. The Natsume family held the hereditary position as village head for the eleven neighborhoods of the Ushigome-Babashita-Yokomachi District in Edo. The name of the town Kikuicho (Chrysanthemum Well) comes from the Natsume family crest, which depicts a chrysanthemum enclosed within a square well design. The nearby street Natsumezaka (Natsume Slope) is another legacy of the family. This memorial was erected by Shinjuku City in 1966 for the 100th anniversary of Soseki's birth. The lettering is in the hand of his pupil, the educator and statesman, Abe Yoshishige.




石碑の横には、「硝子戸の中」で詠われた俳句が彫られた石碑が置かれています。「参差」とは、高さや長さが不揃いで色々なものが混ざっているという意味です。月の光が照らす中、三本の松の木の影が字面に写っていて、その影の長さが不揃いであるものの、その不揃いさが逆に味わいになっているという意味らしいです。

影参差 松三本の 月夜かな 漱石

私の家は綺麗に取り壊されて、其あとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。・・中略・・三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児の様になってゐたが、何処か見覚へのあるやうな心を私に起させた。昔し「影参差 松三本の 月夜かな」と詠ったのは、或いは此松の事ではなかつたらうかと考えつつ、私はまた家に帰った。
「硝子戸の中」より抜粋




ということで、「J四季折々に美しい神田川沿いの遊歩道を歩く」の歩きを終えます。



今日のコースは距離も少し長めでしたが、途中に見所が沢山ありました。今までに歩いた区間もありましたが、また違った発見があって面白かったです。次は新宿区最後のコースになります。段々と書く内容が細かくなってUPするのに時間がかかるようになりました。果たして最後まで書き上げることができるのでしょうか?




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