- K新宿シティハーフマラソンコースをたどりスポーツの杜へ(1)
- コース 踏破記
- 今日は新宿区の「K新宿シティハーフマラソンコースをたどりスポーツの杜へ」を歩きます。JR中央本線・総武線信濃町駅をスタート・ゴール地点として、四谷の坂道をめぐり、新宿御苑の外周に沿って歩き、最後は神宮外苑の新緑に癒やされます。
「K新宿シティハーフマラソンコースをたどりスポーツの杜へ」の歩行距離は約10.6km(約15、100歩)、歩行時間は160分、消費カロリーは約480kcalです。
- スタート地点:JR中央本線・総武線信濃町駅
- 新宿シティハーフマラソンコースをたどって歩きます(大会当日のコースとは異なります)
↓ (約7.3km:約110.0分)
- @国立競技場
- 東京2020オリンピックパラリンピック競技大会はここで開催!
↓ (約1.2km:約18.0分)
- A明治神宮外苑いちょう並木
- 絵画館を望む約300mのいちょう並木は、四季を通じて多くの人々に愛されています。黄葉の頃にいちょうのトンネルを歩けば、気分はドラマの主人公
↓ (約1.2km:約18.0分)
- B聖徳記念絵画館
- 明治天皇と昭憲皇太后の業績を後生に伝える目的で大正十五年に建造された、明治の歴史が一目でわかる巨大壁画80枚が展示されています。
↓ (約0.4km:約 6.0分)
ゴール地点:JR中央本線・総武線信濃町駅
スタート地点のJR中央線信濃町駅から歩き始めます。信濃町駅といっても大して話題性はありませんが、新宿区で最南端となる鉄道駅であること、中央線で東京から数えて初めて他の路線との乗り換えがない駅である、ということがユニークな点です。鉄道マニアならご存じだと思いますが。
信濃町といえば、某宗教団体の本拠地であることと、慶應義塾大学病院があることで知られていますね。普通、大学病院といえば「XX大学医学部附属病院」という名称になりますが、「慶應義塾大学病院」とストレートな名称になっています。一日の外来患者数が約3千人といいますから東京でも指折りの大規模病院のひとつといえます。石原裕次郎・夏目雅子・藤子不二雄(藤子・F・不二雄)・岡本太郎・遠藤周作・田中角栄・坂井泉水など、多くの芸能人・著名人・政治家が入院したことでも知られています。1981年5月8日、47歳の石原裕次郎は胸部大動脈瘤という難病で倒れ、慶應大学病院に運ばれました。生存率5%もない手術に15人の外科医が病院の威信をかけて挑みました。手術は成功し、その後石原裕次郎は慶應大学病院の屋上に姿を見せ、手を振った姿が印象的でしたね。ちなみに、信濃町という地名は、江戸時代に幕府の役人だった永井尚政の屋敷があり、その官位名だった「従五位下信濃守」に由来するとされています。長野県にも信濃町という町名がありますが、それとは関係ないそうです。
慶應義塾大学病院の隣に巨大な煉瓦壁が異彩を放つ「信濃町煉瓦館」のビルが目を引きます。何の建物なんだろうと不思議に思いますが、実は分譲賃貸マンションなのです(オフィスとしても使われています)。一見住居とは思えない外観や内装に工夫を凝らしたデザイン性の高い高級マンションで、なんといっても一際目を引くのは円形にくりぬかれた大胆なデザインです。また、煉瓦造りの壁面はアンティークな雰囲気を醸し出しています。信濃町煉瓦館は、慶應義塾大学病院の旧食養研究所跡に建てられ、敷地は慶應義塾大学病院の一部なんだそうです。
外苑東通りからひとつ入った小路に面して陽運寺があります。四谷怪談お岩さま縁の寺と謳われていますが、いろんな話があって本当のところはよく分かりません。。。
お岩さまと縁結び
「東海道四谷怪談」でおなじみのお岩さん。この怖いお岩さんが出てくる四谷怪談はじつは後世の人が創作した物語なのを知っていますか?舞台であるここ、四谷は東海道ではないことからも後に作られた物語だということがわかります。江戸時代に実在した女性「お岩」は家庭をとても大事にした貞淑な妻だったとも伝えられています。このお岩さまを祀る陽運寺は、「えんむすび」の寺としても全国に知られています。悪縁を切り、良縁を結ぶお岩さま。厄除け、縁結び、芸道上達、また新たに出会いを望まれる方もぜひ、本堂からご参詣ください。
境内にはお岩様縁(とされる)の手水鉢が残されています。
龍神様の手水
お岩様も使用したと伝わる御霊水です。御手を清め、本堂よりご参拝下さい。
こちらはお岩さま縁(とされる)の井戸だそうです。
お岩さま縁の井戸
現在も御霊水として使われています。
お岩さまは、人々の悪縁を切り、良縁を結ぶ有難い菩薩様です(お岩様と縁切りには関係はないとの話もあります)。古今東西、悪縁を切りたい人は多いようで、板橋宿にも縁切り榎がありますね。お酒と縁を切る、ギャンブルと縁を切る、ゲームと縁を切る、悪友と縁を切るなどなど。悪縁は数多くありますが、良縁は少ないもんですね。
「於岩稲荷 水かけ福寿菩薩」
お題目(南無妙法蓮華経)を唱えながら、お水をおかけ下さい。あなたの厄が除かれ、あなたに福寿(幸福)が訪ずれます。
陽運寺は山門の隣に壁がありません。この境内のオープンスペースにお寺カフェが誕生したのは2020年のことです。表にはメニューを紹介した看板が立てられ、軽食や甘味や飲み物の品々が目を惹きます。「うくらいま食堂」ととはどういう意味なのでしょうか?実は意味のない言葉なんだそうです。「うくらいま」という言葉は、お店のオーナーのお子さんが言葉を覚え始めたころに「うくらいま」と言っては、笑いころげていたそうです。その光景は家族にとって幸せの記憶そのものなんだとか。そんな幸せな気持ちにあふれた食事・空間を提供したいとの想いからこの名前が付けられたとのことです。
陽運寺の少し先に「お岩稲荷田宮神社」という小さな神社があります。こちらが本物のお岩稲荷のようです。
東京都指定旧跡 田宮稲荷神社跡
田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永十三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(1825年)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治十二年(1879年)に火事で消失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(1931年)に(何に?)指定されました。戦後、昭和二十七年(1952年)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。
Historic Places
Tamiya Inari Jinja Ato
(The remains of Tamiya Inari Shrine)
Tamiya Inari Shrine, commonly known as Oiwa Inari, used to be in the premises of Tamiya family, of Osakitegumi doshin (military officer in the Edo period) at Yotsuya Samon-cho. An old story is passed down that Oiwa (died in 1636), a daughter of Tamiya Matazaemon, worshipped at the shrine and restored her family with Iemon, her husband. Therefore, the shrine was gradually worshipped as "Oiwa Inari" by people. There was yet another story to attract further worshippers the ghost story "Tokaido Yotsuya Kaidan" written by Tsuruya Nanboku was staged in 1825 and was very popular. However, it was written after 200 years of time when Oiwa and Iemon actually lived. Unlike the famous ghost story, their marriage in reality was enjoyable. After Inari Shrine was lost by a fire in 1879, it moved to Shinkawa in Chuo Ward. The present shrine was rebuilt here at Yotsuya in 1952.
四谷三丁目交差点角に消防博物館があります。正式には東京消防庁消防防災資料センターといいます。東京の安全と安心を進める消防がまるごとわかる広報・教育施設として1992年12月3日に開館しました。消防博物館には、消防関係の資材や書籍などを含む、約8,000点の資料を所蔵していて、江戸の消防に関する錦絵・瓦版・古文書・消火道具、明治時代から現在に至るまでの消防ポンプ・防火衣・消防活動資器材などの実物を中心に展示しています。
新宿で粋な大人の街といえば荒木町ですね。荒木町一帯には、江戸時代に美濃国高須藩藩主・松平義行の屋敷がありました。この屋敷には滝を伴った大きな池があり、この池で徳川家康が乗馬用の策(ムチ)を洗ったことから、「策の池」と呼ばれました。明治時代には屋敷が退き、池や庭園が一般にも知られるようになりました。そのため、荒木町一帯は東京近郊でも名の知られた景勝地となり、料理屋が軒を連ね、芸者らが行き交う風情ある花街となりました。関東大震災後に最盛期を迎えましたが、戦災で壊滅し、戦後復興を果たしましたが、昭和五十年代末には花街は終焉を迎えました。そんな歴史ある荒木町に荒木公園があります。元々は金丸稲荷神社の敷地であった土地を地元住民からの要望を受けて新宿区が買収し、開園した公園です。公園の奥に案内板が立っています。
美濃国高須藩主松平摂津守家上屋敷跡について
江戸時代、荒木町一帯には、美濃国高須藩主(現在の岐阜県海津市付近を領地とした藩)松平摂津守家(近くの津の守坂はこれに因む)の上屋敷がありました。屋敷内には滝を伴った大池があり、回遊式庭園となっていましたが、この池は徳川家康が鷹狩りの帰りに策(むち)を洗ったという伝承があり「策の池」と呼ばれます。池は、明治時代には一般に開放され、景勝地、花街として賑わいました。「策の池」は現在もその一部が残っており、「カッパ池」と「津の守弁財天」として親しまれています。なお、荒木町の「車力門通り」は、上屋敷の甲州街道口にあった「車力門」に因むものです。慕末期、藩主松平義建の子としてこの屋敷に生まれた兄弟のうち、二男慶勝は尾張徳川家、五男茂徳(後の茂栄)は御三卿一橋家、七男容保は会津松平家、八男定敬は桑名松平家を継承しました。兄弟は慕府方と新政府方に分かれ、立場を異にしましたが、「高須四兄弟」と呼ばれ、激動の時代を生き抜きました。
案内板には、松平摂津守上屋敷にあった「策の池」の絵図と、現在残っている池の一部の写真が添えられています。
案内板の横には一本のナツメの木が植わっています。「ナツメ」の名前の由来は「夏に芽が出る」ということですが、本当かなぁ。ナツメは秋になると小さな赤い実をつけます。私は生で食べたことはありませんが、とても甘く、風味はリンゴのようなさわやかさで美味しいそうです。また、ナツメの実を干したものは漢方薬としても使われ、胃腸の調子を整えたり、心を穏やかにする効能があるそうです。このナツメの木はロシアから持ち込まれたナツメの木の二世だそうです。案内板にその由来が記してあります。
ナツメの木の由来について
この木は、明治三十八年(1905年)一月五日に、日露戦争で旅順攻略の任にあった乃木希典日本陸軍第三司令官(”指令管”ではない)と露西亜軍ステッセル軍司令官が旅順開城規約締結の会見を行った水師営(現在の大連市水師営鎮小南村)の民家にあったナツメの木の二世として、地元に古くから語り継がれている木である。このナツメの木は、かつて市ヶ谷にあった大日本帝国軍司令本部の士官が、会見が行われた水師営の民家を訪れた際に、記念の証としてナツメの苗木を日本へ持ち帰り、士官たちがよく通った荒木町の料亭の庭先に植えられた。その後、成長したこのナツメの木は、関東大震災の難も逃れ、東京大空襲では痛手を被ったが、奇跡的に芽を噴出し蘇ったと伝えられている。平成十二年には、マンション建設のため、一時は、伐採の危機にも見舞われたが、地元の熱意により、この木は、無事に荒木公園内に移植され、老木にも係らず、毎年可憐な実を実らせ、来園者に親しまれている。水師営のナツメの木は、「昨日の敵は、今日の友」で有名な小学唄歌「水師営の会見」の歌詞の一節に「庭に一本棗(ひともとなつめ)の木・・」と謳われている。作詞をした歌人であり国文学者であった佐佐木信網は、作詞にあたって、正確を期すため、乃木大将から当時の会見模様を直接伺った折に、会見場所の庭の木について尋ねたところ、「そう言えばナツメの木が一本あったのう」と答えられた"と、後年著書で記している。日露戦争をはじめ、荒木町の歴史遣産として、この名木の由来を、後世に語り次ぐ。
今はお昼時で人影もありませんが、夜な夜な酔客が千鳥足で彷徨う荒木町の裏通りです。
ガウディのマンションも建っていますね。荒木町だからこそですが、周囲の景観に溶け込んでいます。
靖国通りと外苑東通りが立体交差をしている地点に架かる陸橋の曙橋を渡ります。橋を渡った先はT字型の交差点になっていて、右手から坂が合流しています。
坂の名前は合羽坂といい、全長50mほどの短い坂です。江戸時代、この坂の南東(合羽坂下交差点付近)に蓮池と呼ばれる大きな池があり、大雨が降るとこの池からカワウソが現れることがあったそうです。周辺の住民がカワウソを「この坂付近には河童が出る」と勘違いしたことに由来するといわれています。坂を下って行きますと、坂の由来を記した大理石の碑が建っていて、碑文には同じような内容が書かれています。
合羽坂
新撰東京名所図会によれば、「合羽坂は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより、坂の呼名と・・・。転じて、合羽の文字を用い云々」。何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。
坂を下りたところには、植え込みの中に河童の頭を模した大理石の石像があります。まさか椅子代わりに座る人はいないと思いますが。
合羽橋下交差点から靖国通りに入ります。左手の高台には広大な防衛省の敷地が広がっています。25ヘクタールもの広さだそうですが、こんなに広大な敷地をどうやって手に入れたのだろうと思いましたが、ここには明治七年(1874年)12月に陸軍士官学校が設置されたんですね。防衛省市ヶ谷庁舎には、防衛省本省だけでなく、陸上・海上・航空の3幕僚監部とこれらを統帥する統合幕僚監部が置かれ、日本の防衛の中枢となっています。庁舎B棟の屋上に設置された防衛省市ヶ谷無線鉄塔は、建物部分を含め220メートルの高さがあり、高層ビルが建ち並ぶ都心でもひときわ目を引く存在です。
「サッシペレレ(Saci Perere)」は、外堀通りに面したブラジル音楽と料理のお店です。壁に描かれている巨大な嘴を持つ鳥は「トゥカーノ」です。ブラジルではアマゾンや内陸部を中心に生息し、ブラジルを代表する鳥になっています。ちなみに、ブラジルの国鳥になっているのは「サビア」という小鳥で、歌うような可愛い鳴き声が特徴です。数々の有名な詩人がサビアを題材にした詩を残しています。
四谷見附交差点の手前に新宿通りに平行して細い通りがあり、飲食店が密集しています。通りの入口には「しんみち通り」と書かれたゲートが飲兵衛を誘い込んでいます。お昼は近所のサラリーマンのランチで賑わいますが、ネオン灯る夜ともなれば風景は一変します。
コースから外れますが、アニメ映画「君の名は」のスポットを訪ねてみたいと思います。津之守坂交差点から須賀神社に向かいます。四谷は読んで字のごとく、地形が起伏に富んでいます。交差点の先には円通寺坂が延びています。
円通寺坂
新宿通りから、四谷二丁目と三丁目の境界を南に円通寺前に下る坂。坂名は、この円通寺に因むものである。
「君の名は」では、四谷の坂道が多く登場します。東福院坂(天王坂)も「君の名は」に出てくる坂です。東福院坂が登場するのは映画のラストシーンで、三葉(東京に暮らす少年瀧と入れ替わりとなる飛騨の山奥で暮らす少女)が東福院坂を走って上っていく様子が描かれています。山奥育ちなので駆け上がれたのでしょうけど、都会の人間には無理な急勾配の坂です。それにしても、東福院は民家と見間違えそうな小さなお寺ですね。
東福院坂(天王坂)
坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭(ごず)天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。
東福院坂の中程には愛染院というお寺もあります。墓地には、新宿区の「@新宿御苑から新宿の発祥内藤新宿をめぐる」でも登場した、浅草阿部川町の名主喜兵衛(のちの高松喜六)のお墓があるそうです。世の中狭いものですねぇ。
新宿区指定史跡 高松喜六の墓
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄十年(1697年)に同志四人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。喜六は正徳三年(1713年)八月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。
新宿区指定史跡 塙保己一の墓
「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享三年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた。姓は荻野、幼名は辰之助といった。五歳で病にかかり、七歳で失明したが、十三歳のとき江戸に出て雨富検校(平安時代・鎌倉時代に置かれた荘官で、社寺や荘園の監督役職名です。室町時代以降、盲官(盲人の役職)の最高位の名称と定着しました。)須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。優れた記憶力を認められて学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。天明三年(1783年)に検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけたが、寛政五年(1793年)には和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。文政二年(1819年)に「群書類従」を完成させ、同四年には惣検校となったが、同年九月に「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年七十六歳であった。墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが、明治三十一年(1898年)に廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。
観音坂も「君の名は」に登場します。三葉がやっとの思いで四ツ谷に辿り着き、瀧くんを探すのですが、坂道を上ったり下ったりする中で観音坂も通っています。
観音坂
西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音にちなむ。別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が「潮踏の里」と呼ばれたことにちなむ。潮踏観音は、潮の干満につれ像の台石が湿ったり乾いたりするので潮干観音とも呼ばれた。
行寺坂も「君の名は」に出てきます。
戒行寺坂
戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(「御府内備考」)。別名「油揚坂」ともいわれる。これは昔、坂の途中に豆腐屋があって、質の良い油揚げをつくっていたから、こう呼ばれたという(「新撰東京名所図会」)。
須賀神社には、他の神社と同じように男坂と女坂があります。男坂といっても平らな坂でなく、階段になっています。「君の名は」では、映画のラストシーンで主人公の宮水三葉と立花瀧が再会する重要なシーンの舞台として描かれています。三葉は須賀神社の男坂の上で瀧くんを待ちます。一足遅れて到着した瀧くんと運命の再会を果たすもすれ違いになりかけますが、瀧くんが「あのぉ、俺、君をどこかで」と話しかけた事で。。。
須賀神社は江戸初期より四谷の地に鎮座する四谷十八カ町の鎮守様です。毎年六月に行われる御祭礼は、古くは四谷の「天王祭り」といわれ、江戸の五大祭りのひとつとして有名でした。社名の須賀とは、須佐之男命が出雲の国の簸の川上に八俣の大蛇を討ち平らげ、「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り、宮居を占めた故事に基づき名付けられた名称です。
須賀神社 由緒
須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、後、寛永十一年に江戸城外堀普請のため当地に移されたものである。須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年島原の乱に日本橋大伝馬町の大名主馬込勘由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した(のを)機に、寛永二十年、神田明神社内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神を地元氏の総発意により、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永二十一年六月十八日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった。通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た。明治元年に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戦後は制度改正により旧社格は撤廃された。戦災前の御社殿は文化十一年八月に起工し、十五年の歳月をかけ、文政十一年十二月に竣工、社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが昭和二十年五月二十四日の東京大空襲の折、御本殿並びに御内陣と(”木”ヘンに耳が3つ【音読み:ショウ、訓読み:このはがうらがえる】)社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した、然し戦後氏子崇敬者の赤誠によリ、今日の複興を見るに至った。
須賀神社といえば「三十六歌仙絵」ですね。天保七年に画かれた三十六歌仙は、戦時中に御内陣金庫の中に納められていたために災火を免がれ、現在須賀神社の社宝として残っています。三十六歌仙絵は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、この方式は鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を見ました。境内の奥まったところに大きな展示板があり、原画のコピーが貼られています。一枚一枚に歌人の名前と和歌の印字体が添えられていて、万葉仮名が読めなくても和歌の内容が分かるようになっています。
新宿区指定有形文化財・絵画 須賀神社の三十六歌仙絵
三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966年〜1041年)が、過去及び同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の三名が、平安時代前期の「古今和歌集」・「後撰和歌集」頃から紀貫之・在原業平・小野小町ら三十三名が選ばれている。須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55センチメートル、横37センチメートルの絹地に彩色したものを、額装して拝殿内に掲げている。天保七年(1836年)に奉納されたもので、当時、文人画家として高名だっ四谷大番町(現在の大京町)の旗本大岡雲峰(1764年〜1854年)が絵を、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797年〜1854年)が書を担当した。四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財のひとつである。なお、三十六枚の作品の詳細については、新宿ミニ博物館「須賀神社三十六歌仙絵」の掲示板とパンフレットに解説を掲載している。
※三十六歌仙絵は、拝殿で儀式を行っている時は拝観できません。また、神社の許可なく昇殿することはできません。
Portraits of the Thirty-Six Immortals of Poetry at Suga Jinja Shrine
Designated Tangible Cultural Property (Paintings) of Shinjuku City
The Thirty-Six Immortals of Poetry were selected as exemplars of Japanese poetic ability by the court noble, Fujiwara no Kinto (966-1041) during the mid-Heian period. They include Kakinomoto no Hitomaro, Yamabe no Akahito, Otomo no Yakamochi, three poets represented in the Manyoshu collection, and 33 poets represented in the early-Heian period Kokinshu and Gosenshu collections. Among the latter group were Ki no Tsurayuki, Ariwara no Narihira, and Ono no Komachi. These poets are displayed in 36 individually framed silk paintings in the Suga Jinja Shrine. Each of the paintings mounted around the walls of the main building measure 55 by 37cm. Oka Umpo (1764-1848), a shogun's retainer from Obancho (now Daikyocho) in Yotsuya and well-known artist of the time, painted these portraits. Lettering by the court noble Chigusa Arikoto (1797-1854) accompany them. They were completed in 1836 and donated to the shrine. This set of cultural treasures is a sign of the prosperity of the community whose faith supported this tutelary shrine.
境内には梯子塚もあります。江戸時代の火消し五番組「く組」の梯子塚だそうです。
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