- K新宿シティハーフマラソンコースをたどりスポーツの杜へ(2)
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津の守坂通りは、四谷二丁目付近の新宿通りから、曙橋付近の靖国通りまでを南北に結ぶ道路です。新宿通り四谷方向と靖国通り新宿方向・外苑東通り牛込方向を短絡する道としてよく利用されています。「津の守坂」は三栄町交差点から合羽坂下交差点にかけて緩やかに下る坂ですが、江戸時代に隣地(荒木町周辺)に尾張徳川家の分家である美濃高須藩主・松平義行(摂津守)の上屋敷があったことからこの名前が付けられました。
地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅前に丸正というスーパーがあります。その1階入り口に、その場の光景から切り離されたようにあるのが「お岩水かけ観音」です。名前からして「四谷怪談」ゆかりの土地なのかと思われますが、これは昭和四十六年(1971年)に丸正スーパーの社屋を建設する際、社長の肝煎りで建立されたそうです。特にここが何かの伝承地ということではないのですが、「四谷といえばお岩さん」という感覚でお店を目立たさせるために作られたみたいです。一応、本物のお岩稲荷から分祀はされているみたいなので、信心深い通行人は本物のお岩さんと思ってちゃんとお参りしています。
お岩水かけ観音由来
貞享年間(1684年〜1687年)、四谷左門町に住む御家人宮又左衛門の一人娘お岩は、迎えた婿養子伊右衛門の放蕩が原因で哀しくも狂乱行方知れずになり、それからと云うものは種々怪奇な事件が頻発したが、田宮家の菩提寺にてお岩の霊を供養したところ、ようやく平穏になったと伝えられています。この伝説をもとに脚色したのが鶴屋南北の東海道四谷怪談で、文政八年(1825年)三代目菊五郎の浅草市村座で初演、大評判を得ました。爾来約三百年、お岩稲荷は幾度か災禍をこうむり太平洋戦争でも焼失したが、地元世話人によって再建され、家庭円満無病息災商売繁盛などに霊験あらたかと言われ、参詣人はあとを絶たず崇敬者は広がって現在に至っております。当お岩水かけ観音は、縁あって再建の世話人をつとめた飯塚五兵衛が昭和四十六年九月二十五日丸正食品株式会社本社屋建築施行の際三年の願をかけ、昭和四十九年九月二十三日満願にあたりお岩稲荷と観音様の慈愛をこめて祈願成就のしるしとして新たに分祀建立したものです。
笹寺(正式名称は長善寺)は天正三年(1575年)甲斐国武田氏の臣高坂弾正昌信の住居に結ばれた草庵を起源とし、四谷付近では最古の寺院のひとつです。二代将軍徳川秀忠が長善寺に立ち寄った際に、笹が繁ったいたことから笹寺と称するよう命じられ、この名が付いたといわれています。一説には長善寺の笹が江戸城紅葉山に移植されたとも伝えられています。笹寺には、めのう観音像が祀られているとのことです。崇源院は浅井長政の三女で、母は織田信長の妹であるお市の方です。浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉の側室、次姉の常高院(初)は京極高次の正室です。
新宿区指定有形文化財 彫刻
長善寺(笹寺)のめのう観音像
赤めのうで彫られた珍しい観音菩薩像である。像高4.9センチの小像であるが、容貌は豊麗で精密な作品である。黄銅製の光背が付され、宝形造の屋根をもち、正面下に蓮華、左右下部に笹寺に因んだ笹の浮彫りがある台座に安置されている。本像は、二代将軍徳川秀忠の念持仏を、夫人の崇源院から賜ったものと伝えられている。
新宿通りと甲州街道が合流する地点には、かって四谷大木戸が置かれました。現在はその跡地に東京都水道局新宿営業所と四谷区民センターが建っています。四谷大木戸は、元和二年(1616年)に甲州街道の大木戸として設けられたもので、道の両側に石垣を築き、その間に木戸を設けて旅人を調べ、夜間の通行は原則として許さなれませんでした。四谷大木戸には玉川上水水番所も置かれていました。それを記念する巨大な石碑もあります。
玉川上水水番所跡
玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
定
此上水道において魚を取水をあび
ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷
並両側三間通に在来候並木下草
其外草刈取申間敷候事
右之通相背輩あらば可為曲事者也
元文四巳未年十二月 奉行
水道碑記
玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460センチ、幅230センチ。上部の篆字は徳川家達、碑文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(1895年)に完成したものである(裏面銘文)。
四谷大木戸跡碑
四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約80メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
新宿三丁目交差点の角の歩道に、「新宿元標ここが追分」というプレートが埋め込まれています。追分という言葉には、「牛馬を追い、分ける場所」という意味がありました。これが転じて、「道が二手に分かれる地点」のことを追分と言うようになったそうです。そこから街道の分岐点も意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿三丁目交差点が新宿追分と呼ばれるようになりました。
新宿四丁目交差点で甲州街道を越えた先に天龍寺があります。繁華街の中で周囲をビルに囲まれたお寺です。天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺とされ、徳川家康の側室である西郷局(於愛の方)の父の菩提寺でした。西郷局は後に江戸幕府第二代将軍徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府に際し遠江国から現在の牛込付近に移されました。同時に寺名を天龍寺と改めましたが、これは法泉寺の近くを流れていた天竜川に由来するとされています。その後、天龍寺は天和の大火により焼失し、現在地へ移転しました。境内には、江戸三名鐘のひとつとされている梵鐘の「時の鐘」が現存し、大晦日には除夜の鐘でその音色を聞くことが出来ます。江戸の外れに存在したため、通常より早く鐘を鳴らし、内藤新宿で遊行する人々に「追出しの鐘」と呼ばれたということです。また、かって境内にあった池は渋谷川(穏田川)の源流のひとつになっていました。
明治通りから外れ、中央線の高架に沿って千駄ヶ谷方向に進みます。右手に塀に囲われた国立能楽堂があります。国立能楽堂は、能楽の保存と普及を図ることを目的として1983年9月に開場しました。日本の伝統芸能のひとつである能楽は世界の古典劇のなかでも極めて古い歴史を誇るものであり、簡素で集約された演技・演出による独特の舞台芸術として後世に永く受け継がれるべき貴重な文化です。能舞台の床材には木曽の樹齢400年の尾州檜を、柱その他は台湾の大雪山系の檜で樹齢2000年のものを使用しています。鏡板揮毫は森田曠平画伯が担当し、見所(客席)は627席でゆったりとした雰囲気で観能を楽しめるようになっています。
千駄ヶ谷といえば津田塾大学のキャンパスですよね。私も会社が終わった後で英語講座に通ったことがあります。津田塾大学は全学部が千駄ヶ谷キャンパスにあると思っていたのですが、本部キャンパスは小平市にあるんですね。「千駄ケ谷キャンパス」自体はこれまで主に社会人向け大学院や公開講座の拠点として使用されていました。学部学生は長い間ほとんど使うことのないキャンパスだったのです。千駄ヶ谷キャンパスの歴史は、戦後の混乱期に母校の財政的援助をするためにと、1946年に同窓会理事長となった広瀬千代子氏の尽力により、同窓会が運営する英語スクール「津田英語会」が設けられたことに始まります。この土地は鷹司侯爵邸の跡地で、鷹司家から一坪あたり1円で借り受けることができたそうですが、当時は資金と物資の調達がままならない時代でした。広瀬氏の言葉に尽くせない労苦が実り、木造の建物が完成し、1947年に津田英語会を開講することができました。戦時中は敵性語として排斥された英語ですが、戦後はその必要性の高まりから多くの受講生を集めることができました。津田塾会はその後、財団法人となって同窓会から独立、津田英語会の他、専門学校津田スクール・オブビジネスや津田ホールの運営などを行いました。そして、2008年3月、財団法人津田塾会の歴史的使命は終了したということで解散し、その残余財産(土地・建物等)は津田塾大学に寄贈され、津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスとして再スタートしました。大学はその間、新たな教育活動を展開するための検討を重ね、総合政策字学部開設を決定。2015年4月に旧校舎の解体と新校舎の建築が開始され、2017年1月に校舎が完成し、什器や視聴覚設備・情報関連機器が整備されました。
千駄ヶ谷で一番景観が変わったのは新国立競技場一帯ですね。国立競技場は東京2020オリンピック大会のメインスタジアムとして建て替えが計画され、すったもんだの挙げ句に完成した曰く付きの施設です。デザインは「木材の魔術師」と評される隈研吾が担当し、周辺との調和を目指した「杜のスタジアム」をコンセプトとしています。木材は日本全国47都道府県から集められた杉材およびカラマツを使用し、塗装により本来の木材よりやや白みがかったものとなっています。オリンピックは無事に終わりましたが、その後の活用計画が迷走しているようです。
新国立競技場の直ぐ近くには、日本スポーツ協会・日本オリンピック委員会新本部が入居するジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエアの真新しい建物があります。
建物にはオリンピック博物館も新設されています。オリンピック熱もすっかり冷めてしまいましたが、大丈夫でしょうか?
建物前の広場には、日本のオリンピック初参加に尽力した嘉納治五郎や、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いたクーベルタン男爵の銅像も建っています。「このおじさん、だ〜〜〜れ?」と訊かれてお母さんがスマホで調べているようです。
嘉納治五郎初代会長の後を承けて日本体育協会二代目会長に就任し、日本のスポーツ界の発展に尽くした岸清一の銅像もあります。
岸清一先生は、本会創立者嘉納治五郎初代会長の後を承け、二代目会長として、半生をわが国のスポーツ発展に捧げられ、偉大な業績をのこし、今日の基礎を確立した。岸先生の遺志による寄附金をもって、昭和16年お茶の水駅前の、狂歌で名高い蜀山人終焉の地跡に、九千五百六十平方米の土地を求め、本会と傘下各競技団体の総合事務所として、「岸記念体育会館」を建設し、今日まで、わが国アマチュアスポーツの大本山として、重要な役割を果たして来た。岸先生は、オリンピック東京大会招致が実現した暁には、大会運営の総本部を本会の事務所と同じ建物のうちに置くことを念願とされていたので、オリンピック東京大会の開催を機に、岸先生の遺志を体し、本会運営の利便をはかるため、由緒あるお茶の水の「岸記念体育会館」とその土地を二十五億円で売却して、東京大会の中心となるこの地に四千二百平方米余の土地を求め、新「岸記念体育会館」を建設した。残余の十億円は、本会の基本金百万円に加え、これを十億百万円とした。日本アマチュアスポーツ育ての親、岸先生の偉業を偲び、新「岸記念体育会館」の落成に際し、この像を建立する。
建物と道を隔てて神宮球場と神宮第二球場が隣り合っています。神宮球場は、大正十五年(1926年)に開場してから大学野球の主要球場として長年使用され、東京六大学野球の他、東都大学野球1部リーグとその入替戦を中心に今日まで使用されています。日本国内では阪神甲子園球場と共に「野球の聖地」といわれるスタジアムです。ネットの情報では、神宮外苑地区の再開発計画により、将来的に解体されて現在の秩父宮ラグビー場の跡地に新球場が建設されるとのことです。一方、明治神宮第二球場は昭和三十六年(1961年)に完成したやや小ぶりなスタジアムです。元々は明治神宮相撲場として開設されましたが、その後野球場に改築されました。球場の用地が狭い上に、外野後方には道路が通っているために外野スタンドがなく、フェンスに沿って高い防球ネットが張られています。また、神宮第二球場は明治神宮外苑ゴルフ練習場(外苑ゴルフクラブ)の西練習場を兼ねていて、一塁側ダッグアウト付近から右翼ポール際にかけてゴルフ練習用の打席が121打席設置されています。しかし、2019年11月3日の秋季東京都高等学校野球大会準々決勝日大三対帝京戦を最後に野球場としての使用は終了し、球場を解体した後に新秩父宮ラグビー場が建設されるとのことです。歩いた時は気が付きませんでしたが、写真をよくよく見ると球場の入口は工事用のフェンスで囲われていますね。
紅葉の神宮外苑もいいですが、新緑の季節もいいですね。木陰のカフェでランチとか、パリの風景を想い起こさせます。
青山二丁目交差点から眺めた絵画館に続く銀杏並木はいつ見ても美しいですね。銀杏並木の入り口の両脇には城門跡のような石積みの土台が築かれています。これがまた構図に新旧のアクセントを添えています。計算された構図ですが、その美しさを保つのに大変な労苦がかかっています。石積みの土台の奥の植え込みの中に、銀杏並木の経緯を述べた案内板が立っています。
銀杏並木
いちょう(銀杏・公孫樹)
銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生代ジュラ紀(一億五千万年前、巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従つて、その化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられており、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど植えられておりません。
並木の総本数は一四六本(雄木44本・雌木102本)
四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年(1926年)十月二十二日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。この外苑の銀杏樹が、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年八十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(1908年)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数1600本にもなりました。外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十二年(1923年)に植栽したものです。直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至る二条の並木も同時に植えられております。最高二十四メートル・目通り周り二メートル八十センチ、最低十七メートル・目通り周りーメートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従つて植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。
この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境・手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしようが、よき所で、よく育てられ、よき揚所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしょう。同じ時期に、同じ苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましょう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしよう。
平成御大礼の日 之を建つ
平成二年十一月十二日
明治神宮外苑
その隣には、神宮外苑の成り立ちを記した巨大な石碑と解説板も立っています。
石碑碑文の大意
明治四十五年(1912年)七月三十日に、明治天皇(第百二十二代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正三年(1914年)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(1920年)十一月一日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動カとなられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正十五年(1926年)十月に、明治神宮外苑は完成しました。苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が揚げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球揚、競技揚その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛練の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
Uターンして絵画館方向に戻ります。その途中に明治天皇縁の榎が聳える一画があります。
御観兵榎について
この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵揚で、明治天皇の親臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(1890年)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(1906年)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(1995年)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。平成八年(1996年)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
銀杏並木の奥に佇む円屋根・白堊・石造の建物は、神宮外苑のシンボルとなっている聖徳記念絵画館です。中に入ったことはありませんが、幕末・明治の歴史が大壁画に描かれているそうです。
聖徳記念絵画館
徳川幕府を改め、日本史上空前の大改革・明治維新が断行され、西欧の諸国が300年を
要した国家の近代化を、僅か40年ばかりで成しとげた輝かしき明治の時代。当代一流画
家の筆に成る館内展示の80面の大壁画が、明治天皇を中心に、わが国近代化へと飛躍の
姿・歴史事件の数々を静かに語りかけてくれます。生きた明治史の教室といえましょう。
絵画館広場前の歩道脇に石碑が建っています。オリンピック開催中の最中、神宮から駒沢まで歩いたんですか。。。
あるけあるけ
日本ウオーキング協会は、東京オリンピック開催中の昭和三十九年(1964年)10月17日に、ここ新宿区の明治神宮外苑絵画館前から世田谷の東京五輪記念世界青少年キャンプに向けて第1回大会を開催しました。私たちは、運動発足40周年を記念して、八田一朗初代会長による機関紙の題字「あるけあるけ」を掲げ、ウオーキング運動発祥記念碑といたします。
絵画館の周辺の植え込みの中には、いわれのある木があちこちに見られます。鷹に「遊女」なんて名前付けますかね?
お鷹の松
大正七年(1918年)明治神宮外苑競技場(現国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(1603年〜1651年)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止ったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定200年・高さ4メートル)は昭和三十九年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。
近くには巨大な球状の大木が聳えています。シロマツというのだそうです。日本では珍しいのですが、中国では湖北省や陝西省を中心とした北部から西部地域に分布し、王宮や寺院などに多く植えられているのだそうです。確かに、人々に畏敬の念をおこさせる容貌をしていますもんね。
「なんじゃもんじゃ」は日本では愛知県・岐阜県・対馬にだけ自生する希少種の木のひとつで、5月初旬〜中旬に真っ白い花を咲かせます。奇妙な名前ですが、その由来については諸説あります。水戸黄門として知られる徳川光圀が時の将軍に「あの木はなんじゃ」と聞かれてとっさに「なんじゃもんじゃ」と答えたというものや、木が神事などに使われたために名を呼ぶことをはばかったというものなどです。
ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)
この木は、和名「ヒトツバタゴ」俗名「ナンジャモンジャ」と呼ばれるたいへん珍しい木で、五月初旬の満開時には、白い清楚な花が、まるで雪を被ったように美しく咲き誇ります。幕末(1860年代)の頃、ここから南へ約400メートル行った六道の辻という場所(現在のテニスクラブ付近)の近くに「六道木」と呼ばれる珍しい名木(なんじゃもんじゃ)がありました。明治三十六年(1903年)、樹齢百数十年と言われたこの木の価値に注目した白井光太郎博士(元帝国大学教授)が、国に対して、この木の保護を願い出た結果、大正十三年(1924年)十二月、天然記念物の指定を受けましたが、昭和八年(1933年)、遂に枯死しました。その後、白井博士が根接ぎ法により得たと伝えられる「二代目六道木」を昭和五十三年(1978年)に、ここ絵画館前に植樹し、多くの方にご覧いただいておりましたが、平成二十六年(2014年)、その木も寿命を迎え枯死しました。そして、平成二十八年(2016年)、明治神宮外苑創建九十年を記念し、二代目六道木の実生を苑内で育てた「三代目六道木」をここに移し植えています。初代の勇姿は、今も聖徳記念絵画館の洋画七十四番「凱旋観兵式」(小林万吾画)でご覧いただけます。
信濃町駅と外苑東通りを挟んだ向かい側に何軒か飲食店が並んでいます。熱烈中華食堂日高屋の前の植え込みの中に滝沢馬琴の案内板が立っています。
新宿区指定史跡 滝沢馬琴終焉の地
この地は、「南総里見八犬伝」の著者として有名な江戸時代後期の戯作者滝沢馬琴(1767年〜1848年)が、天保七年(1836年)から嘉永元年(1848年)に亡くなるまでの約十二年間暮らした場所である。馬琴は、江戸深川で旗本の用人の子として生まれた。名は興邦、後に解と改め、曲亭馬琴、著作堂主人、篁民などと号した。天保六年(1835年)に嫡男の宗伯が病死したため、幕府の御家人株を買い、翌年、神田同朋町の屋敷から四谷信濃町の四谷組同心屋敷へ転居した。四谷に移転してからは、婿、妹、妻が相次いで亡くなり、自身も目を患い失明に近い状態であったが、嫁の路に口述筆記させ「南総里見八犬伝」を完成させた。
Designated Historical Site of Shinjuku City
Death Place of Takizawa Bakin
Takizawa Bakin (1767-1848), the famous late-Edo period author of popular fiction such as Nanso Satomi Hakkenden (The Eight Dog Chronicles), lived the last 12 years of his life at this location from 1836-1848. Bakin was the son of a samurai in the service of a shogun's retainer who lived in the Fukagawa District of Edo. He was given the name "Okikuni" but later took on the name "Toku" and used various
pennames, including “Kyokutei Bakin," “Chosakudo Shujin," and "Komin. "The death of his son and heir, Sohaku, from illness in 1835 led Bakin to purchase a heritable
samurai rank in order to ensure his family name would continue. The next year, he changed houses and moved from Dobocho, Kanda to this location. The move was followed by the successive deaths of his son-in-law, younger sister, and wife. Due to his failing eyesight, he completed Nanso Satomi Hakkenden by dictating it to Sohaku's wife.
ということで、信濃町駅に戻ってきました。今日の「K新宿シティハーフマラソンコースをたどりスポーツの杜へ」で新宿区のお散歩は終了となります。新宿を歩き尽くしたという感じです。次は杉並区を歩きます。こちらも多彩なコースが揃っていて、見所満載です。
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