- 1.和田・堀ノ内編 南阿佐ヶ谷・方南町コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「1.和田・堀ノ内編 南阿佐ヶ谷・方南町コース」を歩きます。東京メトロ丸の内線南阿佐ヶ谷駅をスタート地点として、善福寺川松ノ木支流の痕跡を探し、和田堀公園を散策し、郷土博物館で杉並の歴史を学びます。
「1.和田・堀ノ内編 南阿佐ヶ谷・方南町コース」の歩行距離は4.8km、歩行時間は1時間40分です。
スタート地点:東京メトロ丸の内線南阿佐ヶ谷駅【出入口2B】
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- 1.ジーンズ像&お誕生日おめでとう像
- 区役所中杉通り側に建てられた佐藤忠良作の平和都市宣言記念像です。青梅街道側には津田裕子作の「お誕生日おめでとう」像もあります。
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- 2.天桂寺
- 慶長年間(1596年〜1614年)の開創と伝えられ、杉並の名の由来である杉並木を青梅街道に植えたと言われる岡部一族の墓があります。
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- 3.梅里中央公園
- 梅里中央公園のロウバイ。
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- 4.五日市街道
- 新高円寺駅付近で青梅街道と分岐してあきる野市を結ぶ街道で、江戸時代に薪炭・農産物の運搬や小金井桜の花見に使われました。
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- 5.松ノ木遺跡復元住居
- 方南峰遺跡で発掘された古墳時代後期の住居跡をモデルに復元されました。その横には松ノ木遺跡の古墳時代の住居跡が保存・展示されています。
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- 6.釣り堀
- 杉並区に二つある釣り堀の一つ。水田を据ってつくられた池で、コイやフナの釣りを楽しめます。池の真ん中で大きなサメが口を開けています。
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- 7.和田掘公園
- 善福寺川両岸に広がる26万uに及ぶ都立公園です。二つの島のある和田堀池の周辺に鳥が多く棲み、まれにカワセミも見ることができます。
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- 8.カワセミ
- (和田掘池)
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- 9.和田掘公園野球場
- (調整池)
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- 10.杉並区立郷土博物館
- 旧石器時代から現在までの歴史や人々の生活・文化を調査・研究して展示しています。江戸時代の長屋門と古民家が移築されています。
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- 11.荒玉水道道路
- 杉並区梅里から世田谷区喜多見にいたる約9kmの直線道路です。地下に水道管が埋設されており、車両の重量制限のある特例都道です。
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- 12.済美山運動広場
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- 13.善福寺川取水施設
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ゴール地点:東京メトロ丸の内線方南町駅【出入口1】
スタート地点の東京メトロ丸の内線南阿佐ヶ谷駅出入口2Bから歩き始めます。南阿佐ヶ谷駅の出入口は青梅街道に面した出入口1・出入口2aと、中杉通りに面した出入口2bがあります。見所ポイント1の「ジーンズ像&お誕生日おめでとう像」を見逃さないためには、出入口2bを使った方が確実です。私はマップをよく見ないで出入口1から歩き始めましたので、後から引き返して歩き直す羽目になりました。
見所ポイント1の「ジーンズ像」は、杉並区役所の中杉通り側のエントランス前に建てられています。上半身は服を着ていないので、どこがジーンズ像かと思ったのですが、よくよく見ると足に密着したジーンズを穿いています。台座のプレートには、「杉並区平和都市宣言」と書いてあります。平和宣言とジーンズって、何か関連はあるのでしょうか?ちなみに、「はく」の漢字表記ですが、「ズボンをはく」「スカートをはく」といった、足をとおして下半身に衣服をつける場合は「穿」の漢字を使います。一方、靴下やスリッパや靴などを足につける場合には「履」の漢字を使います。では、パンストは?パンストは衣服でなく靴下の範疇と考えられますので、「履」の漢字を使うのが正しいようです。ま、迷ったら平仮名で書けばいいんですけど。
衫並区平和都市宣言
世界の恒久平和は、人類共通の願いである。いま、私たちの手にある平和ゆえの幸せを永遠に希求し、次の世代に伝えよう。ここに杉並区は、核兵器のなくなることを願い、平和都市を宣言する。
青梅街道の北側に面して杉並区役所の正面入口があります。杉並区で一番大きな町は荻窪だと思うのですが、区の庁舎は南阿佐ヶ谷駅横にあるんですね。
正面入口の前に一際目を引く高い木が天を衝いています。皀莢(さいかち)の木だそうです。皀莢はマメ科の落葉高木で、幹や枝に小枝の変形した棘(とげ)があります。夏に淡黄緑色の小花を穂状につけ、ややねじれた豆果が実ります。豆果は石鹸の代用に、若葉は食用に、棘や鞘は漢方薬として使われます。植えられた経緯を書いたプレートが置かれています。
皀莢の由来
かつて区役所前の青梅街道際に皀莢の巨樹がありました。その樹は江戸時代に青梅街道の里程指標として植えられたと伝えられていたものです。おそらく一里塚というよりは半里塚的なものだったと考えられます。こうした伝承が生れたのは、その樹が街道の目印として人々に良く知られ、かつ親しまれていたことを物語るものと思われます。当初植えられた皀莢は昭和十四年枯死、二代目も病気となり、現在の皀莢はこの由来を後世に残すべく、新たに植えられたものです。
ちなみに、杉並区の区花は「さざんか」だそうです。杉並区の公共施設予約システムである「さざんかねっと」にも使われています。どういう経緯で区の花になったのかは不明です。
もうひとつの見所ポイント1の「お誕生日おめでとう像」は杉並区役所正面入口広場の隅にあります。円形の台座の上に立った若い男の子が恋人の女の子にお誕生日のプレゼントを渡そうとしています。お金がなく高価な品は贈れないので、その辺にあった林檎をプレゼントの品にするみたいです。女の子の期待に満ちた表情とポーズが何とも微笑ましいですね。もっとも、この後どうなったのか知りませんけど。。。
阿佐谷パールセンターは、阿佐ケ谷駅南口から青梅街道にかけて南北に約700メートルにわたり続く商店街です。商店街の名前には、「各店舗が真珠(パール)のように輝き、首飾りのように商店同士が協力し、結び合い、繁栄する」という願いが込められています。昭和二十九年から毎年8月7日を中日として5日間「阿佐谷七夕まつり」が開催されていて、仙台・平塚の七夕まつりと並び「日本三大七夕まつり」とされています。例年50万人以上が来客する都内有数の夏祭りです。
見所ポイント2の「天桂寺」は、青梅街道から南に入った住宅地の細い道路に面しています。
天桂寺
月光山天桂寺は曹洞宗の寺院で、聖観音像を本尊とし、正コ三年(1713年)銘の地蔵菩薩像も安置されて います。開創は、寛永十年(1633年)頃、北条氏の重臣松田尾張守康秀の家臣で、北条氏滅亡後に徳川氏の旗本になった岡部吉正が田端村の領主となった際に、中野成願寺六世鉄叟雄(さく:族に鳥)和尚を、開山としたのが始まりです。伽藍を整え、当寺の基を開きました。その際に氏祖岡部六弥太忠澄、および父忠吉を勧請開基としました。杉並の地名は、この岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並木に由来するといわれ、墓地には岡部家歴代の墓があり、区の指定文化財とされています。また、浮世絵師嶺斎泉里が描いた「岡部六弥太忠澄武者絵」は当寺の寺宝となっています。境内にある寛文四年(1664年)銘の聖観音石像は俗に「庚申観音」と呼ばれ、区の登録文化財となっています。当寺は安政三年(1856年)大暴風にあって、建物はすべて倒壊し、記録什宝類も破損腐朽してしまいました。現本堂は約六十年後の大正十二年(1923年)に建立したものです。
岡部氏一族の墓は墓地の奥まったところにあります。大名のお墓かと見間違える程の立派さです。コの字型に建ち並ぶ墓石はどれも年季が入っていて、形状も凝っています。家系図と照らし合わせないと誰の墓石か分からないような感じです。
杉並区指定史跡 岡部氏一族の墓 附位牌
この墓には寛永二年(1625年)から元禄十一年(1698年)にかけて、成宗・田端両村を知行した旗本岡部氏一族が葬られています。岡部氏は武蔵七党の一つ猪俣党の支族といわれ、吉正の時に成宗村を知行しました。この近世のみでも七代三八基におよぶ一族の墓は、杉並の一地域を知行した旗本歴代の墓としては観泉寺の今川氏のものと並ぶもので、采地朱印状(区指定文化財)とあいまって、区の歴史を理解するのに欠くことのできないものです。
見所ポイント3の「梅里中央公園」は、国立視力障害者センターが移転した跡地につくられました。日本庭園風の池、明るい土の広場、草地の広場、そして木製遊具の広場と、中規模ながら見所の多い公園です。公園の外周には、クチナシ・アベリア・カンツバキなどの背の低い木々が生け垣をなし、その上にサクラ、エンジュ、ケヤキなどの高木が濃い緑陰をつくっています。「杉並区を花いっぱいに」のスローガンと共に、各地で花の名所づくりに取り組んでいます。この梅里中央公園は、「ロウバイの名所」にすべく取り組んでいるみたいです。
梅里中央公園の斜(はす)向かいに小さな地藏堂が建っています。「関口のお地蔵様」というのだそうです。自転車に乗ってやってきたお婆さんがホースを使って隅から隅まで堂内外を洗い清め、お花を取り替えて、最後は長いことお祈りしています。約20分位待ちました。。。堂内の由緒書きには、清掃・献花などの維持管理は檀家の方数名によって奉仕されていると、願主の十代目施主の言葉が記されています。
関口のお地蔵様
今から二百七十年前、関口(この土地の地名)のお母さん達、住民二十六名が念仏講中というグルーブを作り、毎日の食事から少しずつけずった稗や粟(農家の常食)を提平右エ門宅へ持ち寄り、お金に替えて貯え、五・六年かかって、元文二年(1737年将軍吉宗の時代)十月に子供の守り本尊として、このお地蔵様を建立しました。このお地蔵様には、亡くした親の悲しみと、今、生きている子供の成長を祈る親の願いがこめられています。「この世で、わずかしか生きられなかった子供たちの魂を、救ってくださったり、今、生きている子供たちが、健やかに育つよう、いつも見守ってくださっております。」
見所ポイント4の「五日市街道」です。10年ほど前に「街道を歩く」シリーズで、全長約42kmの距離を約12時間かけて踏破しました。五日市街道は、徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを江戸に運ぶために整備された街道です。五街道などのような幹線道路ではなく、農産物の運搬や小金井桜の花見など、沿道の村々の生活道路の性格を持っていました。江戸時代の街道の呼び名は、伊奈道・砂川道・青梅街道脇道・青梅街道裏道・江戸道・小金井桜道・長新田道・五日市道など様々でしたが、明治以降になって五日市街道に定着しました。杉並区梅里で青梅街道から分かれ、吉祥寺・砂川・牛浜の渡し・伊奈宿を経て五日市宿に達する街道です。善福寺川の七曲りや横田基地付近などの一部を除き、現在の五日市街道(都道7号杉並あきる野線)の道筋とほぼ一致しています。
成田東三丁目1番地にある喫茶店の横から細い路地が延びています。住宅地の道路のように直線的でなく、一見して最近出来た道ではなさそうです。蛇行の様子からして、川を埋め立てて、その跡を遊歩道にした感じです。マンホールがあちこちに見られますので、現在は地面下は暗渠になって下水道として使われているのでしょう。この遊歩道がかっての善福寺川松ノ木支流の跡だそうです。
松ノ木公園は住宅地の中にあり、公園の外周にはビョウヤナギ・ヒョウガミズキ・ジンチョウゲ・サツキなどの植込みがあります。四角い広場には、アケボノスギが数本立ち、緑の木陰をなしており、その下の砂場に連なるようにすべり台とブランコがあります。この辺り一帯の町名は「松ノ木町」と住居表示されていますが、その由来は単にかって松の木が生えていたということだけらしいです。それにしても巨大な松ぼっくりですね。
一軒の民家の敷地内に立派な大木が聳えています。マップには「松ノ木住宅」と紹介されていますが、屋敷内に松の木の巨樹があるということではなく、松ノ木町域を代表する旧家ということらしいです。確かに、これらの巨樹を維持するためには相当にお金がかかることでしょう。
松ノ木住宅の直ぐ先に小さな祠があります。「松ノ木の庚申塔」として知られていますが、綺麗な花が飾られ、見た目にも清掃が行き届いているのが分かります。庚申堂の中には3基の庚申塔が並んでいて、堂内に簡単な紹介文が貼られています。
右端の庚申塔が建てられたのは、五代将軍綱吉の貞享二年のことですから、2005年の今年で建立320周年になります。この庚申塔は、300年を超える年月、阿佐ヶ谷から永福町に至るこの鎌倉道を行き交う人々を見守ってきたのです。
配置
左端
庚申塔
松木・三猿
享保五年(1720年)第八代将軍徳川吉宗
中央
青面金剛像
右端
庚申塔
三猿
第五代将軍徳川綱吉
善福寺川に沿う形で広がっている見所ポイント7の和田掘公園に入ります。和田堀公園は、和田堀池を中心にしてスポーツ施設や調整池を含む都立公園として整備され、現在では隣接する善福寺川緑地とともに武蔵野の自然が調和した公園となっています。和田掘公園の中には、武蔵野園という見所ポイント6の釣り堀があります。この武蔵野園にあるつり堀は、池の真ん中に映画でお馴染みのジョーズが聳え立つ珍しいつり堀です。ジョーズの迫力満点な姿を見ながら釣りを楽しめるというのはここだけかもしれません。襲われないように注意が必要ですね。武蔵野園に併設されている食堂武蔵野園は様々なメディアで紹介されています。中でも「孤独のグルメ」で主人公が食べた親子丼が人気のメニューのひとつになっています。他にもオムライスやカツカレー、定食やラーメンなど、豊富なメニューが揃っています。昼間からビールを飲むことも出来ます!
見所ポイント5の「松ノ木遺跡復元住居」は和田堀公園の中にあります。案内板にある「復原」という言葉は、文化財建造物の修理の際に用いられます。建物の改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。但し、遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から上部構造を考えるという意味では「復元」という言葉を使います。その意味で、竪穴式住居などを建てる場合は、「復元」という言葉を使う方が正しいといえます。
松ノ木遺跡 古墳時代の住居と生活
この復原住居は、方南峰遺跡で発掘された古墳時代後期(6世紀頃)の住居址を推定復原したもので、武蔵野台地における典型的な庶民の住居の形をしています。一辺が約5m、床まで約50cm方形に掘られ、屋根は住居内にある4本の柱で支えられています。北側には粘土で「カマド」が作られ、その東側には貯蔵穴(食物貯蔵庫)があり、古墳時代の特徴を示しています。ウインドー前のボタンを押すと、解説が流れます。
隣には、古代住居跡を保存した屋根付の施設があります。
古代住居跡
昭和二十九年4月杉並区遺跡保存会により発掘された古墳時代(約1400年前)の堅穴住居跡です。東西約5.3m・南北約3.9mの長方形で、南側の入口わきに「かまど」があるのがめずらしく、また柱穴の位置が普通と違うので建築史学上貴重な資料とされました。昭和四十三年12月、補修工事の際、まわりの壁・出入口・かまどなどを復元しました。
和田堀公園は善福寺川を取り囲むように広がっていて、松ノ木遺跡のすぐ近くには大きな和田堀池(通称:ひょうたん池)があります。これは古代から存在したものではなく、昭和三十年代の善福寺川改修工事の際に作られた人工池だそうです。池の中に大きな島がふたつあり、その島にも多種多様な木々が生い茂って、さまざまな野鳥がやってきます。とりわけ、見所ポイント8のカワセミ・ウォッチングのポイントとして知られています。最近では水質の悪化により、2020年に「かいぼり」が行われたそうです。昭和十三年頃、浅草の「花やしき」なども手がけていた「日本娯楽」という会社が土地の所有者から依頼を受け、公園内に豆汽車・豆自動車・木馬・射的場・映画ボックスなどを設置し、娯楽施設の運営を始めたとのことです。以前からあったプールの上には、ウォーターシュートまで作られ、人気を博しました。
和田堀池(ひょうたん池)
昭和三十年代、善福寺川の河川改修工事の際に作られた人工池。面積は約5,200u。南北に長く約137m・東西約65m。水は善福寺川からポンプで汲み上げた河川水と井戸水を利用している。水深は約30cm・最深部で約70cm。カワセミをはじめ数多くの野鳥が訪れ、野鳥愛好家に人気がある。
昔、昔から人が住んでいました
川が近く、日当たりのいい南向きの斜面があったこの周辺では、縄文以前から集落が形成されていました。南側台地にある松ノ木遺跡は杉並区内では最大の集落跡であり、対岸の大宮遺跡は支配者階級(王様?)のお墓といわれています。
最先端のアトラクションも
昭和初期。今の和田堀池周辺はボート乗り場やウォーターシュート・小動物園などを備えたレジャー施設があり、休日は多くの人で賑わいました。ウォーターシュートは、スタート台からボートが一気に落下、着水時に大きな水しぶきを上げる大人気・・・
見所ポイント9の和田掘公園野球場の敷地は周囲よりも一段低くなっています。傾斜がある訳でもないので、練習や試合には不都合はなさそうです。大雨の時に善福寺川の水を一時的に貯留する目的のために敷地を低くしていますので、年に何回も使えなくなることはないでしょう。土地の有効活用といえます。
和田堀第六号調節池
この施設は大雨の時、洪水を一時貯留する施設で、日頃は野球場として利用できます。
和田堀第六号調節池概要
和田堀第六号調節池は、和田堀調節池群の一つとして善福寺川の洪水を貯留するもので、昭和五十七年〜昭和五十八年度に貯留量25、700立方メートルで設置しました。(昭和五十四年度〜昭和五十六年度に小型調節池【第二、第三号】設置)また、平成十七年9月の集中豪雨のため、河川激甚災害対策特別緊急事業により、平成十八年度〜平成十九年度に貯留量を48、000立方メートルに増強しています。なお、晴天時は野球場として多目的利用しています。
善福寺川の案内板が立っています。「善福寺川のあらまし」は「東京の河川を歩く」で上流から下流に向かって幾つか見たのですが、河川工事箇所もあってか全部は網羅できませんでした。
善福寺川のあらましF
昭和四十年代に初めて「親水」という概念が提案され、都内の中小河川ではその概念を取り入れる出発点となった河川です。
(A)砂洲
善福寺川は都内の中小河川としては大変珍しく、特徴的な大きな蛇行を持つ川といえます。蛇行が顕著な箇所においては、上流より流されてきた砂などが堆積し、大きな砂地を形成しています。これは「砂洲」と呼ばれ、水鳥たちの格好の休息場所となっています。ここ和田堀公園沿川の所々で見ることができます。
(B)和田堀調節池
和田堀公園内に、洪水時に川の水を貯留する3つの施設が整備されています。普段は野球場(第六)、テニスコート(第二)、壁打ちテニス(第三)に使用されていますが、洪水時には調節池より下流域の水害を軽減する効果を発揮します。写真の和田堀第六調節池は平成十九年度に貯留量をさらに増やすための掘り下げを完了しています。
(C)区立郷土博物館
杉並の風土や歴史を知ることができる博物館です。博物館では、ひとめぐりすると原始・古代から中世、近世、近現代の杉並の歴史が理解できる常設展示のほか、企画展や特別展、時節に応じた年中行事などさまざまな行事が行われています。また、土・日・祝日午後1時頃から古民家の囲炉裏に火を入れており、ゆっくりとくつろぐこともできます。
見所ポイント10の杉並区立郷土博物館にやってきました。善福寺川の遊歩道から一段高い位置に建つ立派な施設です。一度来てみたいなと思っていましたので楽しみです。
杉並区立郷土博物館には入口が2ケ所にあります。ひとつは善福寺川の遊歩道から上がってきた正門、もうひとつは住宅地に面した長屋門です。長屋門は元々は区内にあった民家の表門で、寄贈されて郷土博物館に移築されたとのことです。相当な豪邸だったのでしょうね。
杉並区指定有形文化財(建造物) 旧井口家住宅長屋門
この建物は、もと宮前五丁目、井口桂策家の表門でしたが、昭和四十九年に杉並区へ寄贈されたものです。この門は長屋門といい、中央を通路、右手を土間の納屋とし、左手の蔵屋には年貢米を収納していました。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々、名主を勤めた井口家の格式の高さがうかがえます。建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804年〜1829年)頃と推定されています。なお、屋根はもと茅葺でしたが、防火上、茅葺屋根の形に銅板で葺かれています。
杉並区には、かって日本で有数の養蚕・紡績の研究施設がありました。明治四十四年から昭和五十五年まで、杉並区に70年ちかくあった原蚕種製造所(後の蚕糸試験場)は日本の重要な産業を支える組織の中心的な役割を果たしていました。郷土博物館には、その頃使われていた器具類が保存・展示されています。
機織機(はたおりき)
布を織るための道具で、地機(じばた)や高機(たかばた)などの種類があります。展示している機織り機は高機で、「腰掛け板」に座って織るタイプの機織り機です。設置している糸は絹糸です。織る前に、「ちきり」に巻いた経糸(たていと)を、「間丁」を経て「綜絖」と「筬(おさ)」に通し、「布巻き」に結び付け、糸の張りを調整します。経糸を張ってから、「腰掛け板」に腰掛け、「踏み木」を踏んで経糸を上下に開口し、その間に緯糸(よこいと)が巻かれた「杼(ひ)」を通します。通した緯糸を筬で打ち、織り目を詰めます。ある程度まで織ったら、布を「布巻き」に巻きつけて織り進めます。
敷地内に「民間信仰石塔」が保存・展示されています。配置図には11基の石塔の解説が書いてありますが、どう見ても10基にしか見えません。木の後ろに隠れているのでしょうか?
【一列目左から】
@庚申供養塔 元禄六年(1693年)
道教では、60日に一度回ってくる庚申の日の夜、人間の体の中に棲んでいる「三尸虫(さんしちゅう)」が体を抜け出し、その人間のした悪事を天帝に報告するといわれています。その罪科によって寿命が縮められるので、虫が抜け出さないよう、講中が集まり、徹夜で青面金剛の像を拝むというのが庚申信仰です。そのような行事を何度か繰り返すと、記念にこのような石造物を立てたといわれています。久我山3−14から移転してきました。
A地蔵菩薩供養塔
Cの道標の上に乗り、一組になっていました。
B不動明王供養塔 正徳元年(1711年)
不動明王としては区内最古の年銘が刻まれていますが、「正覚院」を特定することはできません。寄贈される前は久我山3−14にありました。
C道標 寛政十二年(1800年)
元はA地蔵菩薩の台座として一組になっていました。四面に道標が彫られ、願主銘に「第六天」(高井戸天神社)とあることや、高井戸東一丁目で発見されたことから、そのあたりの旧道脇に立てられていたものと思われます。
【二列目左から】
D馬頭観音供養塔 明治四年(1871年)
農耕に使う牛馬の供養と無病息災を願って立てられたものです。「上高井戸宿原」とある所やCと一緒に発見されたことから、高井戸東一丁目付近の旧道脇にあったものと思われます。
E石橋供養塔 文化三年(1806年)
石橋を架けた時に、その永続を願って立てられたものです。「当村念仏女講中」と記され、女性と橋(水)との関係を窺わせ、「金一両和泉村・二朱大宮村・・・」と碑建立の費用を記しています。「永福寺村願主・・・」とある所から永福寺村に立てられていたものと思われます。
F川中投身亡者供養塔 明治二十六年(1893年)
玉川上水で死んだ人を弔うために、環八中の橋(高井戸西1−1)に立てられていたものです。
【三列目左から】
G庚申供養塔 寛政四年(1792年)
庚申信仰の主神、青面金剛立像を刻んでいます。銘文から上高井戸下宿講中の建立であることがわかります。環八と甲州街道の交差点北側辺りにあったといわれています。
H富士信仰碑 安政三年(1856年)
富士浅間神社の祭神、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を信仰して立てられたものです。安政二年十月二日夜大地震「御山振崩」と安政大地震の様を記しています。久我山3−14から移転してきました。
I五輪塔 寛永十八年(1641年)
銘文から、父を供養するため、息子が建立したことがわかります。環八と甲州街道の交差点辺りにあったといわれています。
【最後列】
J御嶽信仰碑 嘉永五年(1852年)
「小御嶽石尊大権現 大天狗 小天狗」とあることから、青梅の御岳神社と神奈川県の大山阿夫利神社を信仰して立てられたものと思われます。久我山3−14から移転してきました。
郷土博物館に入ります。杉並区立郷土博物館は、平成元年(1989年)に都立和田堀公園の中に開館しました。杉並区にはおよそ3万年前に人々が住み始めましたが、郷土博物館では、このときから現在までの杉並の歴史、人々の生活や文化についての資料を集め、調査・研究・展示をしています。また、講演会を開いたり、本にまとめて刊行したりもしています。
館内には原始・古代から近世・近現代までの杉並の歴史や人々の暮らしをパネル化し、写真と解説で分かりやすく紹介しています。
昭和三十年代頃の一般家庭の風景なのでしょうか、当時の生活様式が窺えます。ちゃぶ台にミシンにテレビに柱時計。畳に座って家族団らんのひとときを過ごしていたのでしょう。ポリ袋もなかった時代ですから、お買い物には竹籠が必需品でした。今の時代のマイバックよりは遙かに衛生的だったですね。冷蔵庫は氷で冷やすタイプが主流で、お魚は七輪で焼いていました。よくこれだけの品を集めたもんです。
見所ポイント11の荒玉水道道路に出ます。「荒玉水道」とは、大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を世田谷区砧から中野区野方と板橋区大谷口に送水するために使用された地下水道管のことです。当時、東京の発展に伴う人口の増加による上水の需要増により敷設されました。「荒玉水道道路」は、砧から杉並区梅里までの地下に埋設された水道管の上に造られた道路です。送水管が直線的に敷設されていますので、道路も東京屈指の直線道路になっています。水道管は口径1.1mあり、保護のために4t以上の車の通行は禁止されています。ちなみに、「荒玉」の「荒」は荒川、「玉」は玉川つまり多摩川を指しています。
見所ポイント12の済美山運動広場は荒玉水道道路に面しています。広場の中央には広大な第二競技場があります。競技場を取り囲むように散策路が整備されています。遊具も備えてありますので、家族連れでも楽しめます。
特筆すべきは見晴らしの良さです。視界の中に障害物がないので、新宿副都心の高層ビルが手に取るように眺められます。
この辺り一帯には、善福寺川に囲まれるようにして済美台遺跡が点在しています。広場の入口に案内板が立っています。
済美台遺跡
済美台遺跡は、大宮一丁目・堀ノ内一丁目の北部に広がる遺跡で、旧石器時代の終わり頃(15000年前頃〜23000年前頃)、縄文時代前期から後期(6000年前頃〜4200年前頃)、弥生時代後期(1800年前頃)、古墳時代後期(1400年前頃)、中世、近世といった様々な時代の資料が発掘されています。発掘調査で発見された主要な資料として、弥生時代の環壕集落があります。環壕集落は、周囲を深い壕で取り囲んだ集落で、弥生時代に特徴的に現れます。この壕は集落境や防衛などの目的で造られたと考えられ、区内では、本遺跡の他、方南町の方南峰遺跡、浜田山の鎌倉橋上遺跡で発見されています。また、古墳時代の資料として、多量の滑石製の石製品が出土しています。白玉と呼ばれる穴が開いた玉や、剣や鏡をミニチュア化して模造したとされるものがあり、祭祀に用いられた道具と考えられています。本遺跡ではこのような資料が発見されていますが、旧石器時代から近世に至る各時代で生活の舞台とされたことも大きな特徴といえます。本遺跡付近では善福寺川が大きく蛇行することによって、台地が舌状に張り出した形になっており、西・北・東の三方を川に囲まれた地形となっています。また、川が流れる低地部分は比較的広い湿地となっていたものと考えられます。このような地形は、獲物や食糧・水などを得る、集落を造って暮らす、田畑を耕作するといった、各時代のライフスタイルのどの場面にあっても最適な環境を提供していたものと考えられます。
見所ポイント13の善福寺川取水施設は善福寺が環七にぶつかる地点に設けられています。何故この地点に設けられたかといいますと、大雨時にここで取水された増水を環七の地下に掘られた調節池に取り込むためなのです。地下の池というと不思議に思えますが、長大な地下トンネルに一時的に水を貯める施設というと分かりやすいでしょう。誰が考えたか知りませんが、万里の長城に匹敵する大規模工事です。尚、案内板のタイトルは「神田川・環状七号線地下調節池」となっていますが、「善福寺川・環状七号線地下調節池」の案内も含まれています。
神田川・環状七号線地下調節池
神田川・環状七号線地下調節池は、環状七号線の道路下(約40m)に延長4.5km、内径12.5mのトンネルを設置し、水害が頻発している神田川中流域の洪水を貯留するもので、洪水に対する安全性が大きく向上しています。
- 1)第一期事業
- 第一期事業は、神田川の洪水を約24万立方メートル取り入れる神田川取水施設とその洪水を貯留する延長2.0kmのトンネルを設置しました。昭和六十三年度から事業着手し、平成九年4月より神田川からの取水を開始し、調節池として供用を開始しています。
- 2)第二期事業
- 第二期事業は、善福寺川・妙正寺川の洪水を約30万立方メートル取り入れる善福寺川取水施設・妙正寺川取水施設とその洪水を貯留する約2.5kmのトンネルを設置しました。平成七年度から事業着手し、平成十七年9月より善福寺川、平成十九年5月より妙正寺川からの取水を開始し、調節池として供用を開始しています
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善福寺川に架かる定塚橋を渡って階段を上ります。その先の泉南中学校の敷地の中に方南峰遺跡があります。学校の敷地の外からは遺跡の痕跡は見当たりませんが、フェンスに案内板が掲げられています。余談ですが、方南通りに「峰」という名前のバス停があります。方南峰遺跡と同じく、「峰」はこの辺りの古い小字(こあざ)の名称なのだそうです。更に言うと、方南通りを尾根道として東に突き出た舌状台地を「峰」と呼んでいたことに因むようです。地名からかっての地形が推測できるもんなんですね。
方南峰遺跡
方南峰遺跡は、善福寺川と神田川の合流地に形成された、通称「峯台地」と呼ばれる舌状台地一帯に広がる複合遺跡「方南町峰遺跡群」のうちの一つです。この遺跡は、旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡で、特に縄文時代中期(約5000年〜4000年前)の集落跡および弥生時代(約2500年〜1600年前)〜古墳時代(約1600年〜1300年前)の集落跡として知られています。泉南中学校の敷地内では、昭和二十五年から平成十四年までの四次にわたる発掘調査によって、縄文時代中期・弥生時代〜古墳時代にかけての住居跡が合計六十二軒発見されています。弥生時代〜古墳時代の大型の溝跡も発見され、所謂、環濠集落としても著名な遺跡です。弥生時代の住居からは広口壷・台付甕(がめ)・坩(かん)・高坏(たかつき)・鉢、古墳時代の住居からは長胴甕・甑(こしき)・鉢・「椀(わん)」・坏・土製支脚が出土しています。これらはそれぞれ一家族分の土器セットであり、当時、日常使用されていた土器の組み合わせが良くわかります。その他には、愛知県を中心とする東海地方系の土器片も出土しており、当時の人々の交易・交流の広さを知ることができます。近年の発掘調査では縄文時代の集落が環状七号線の東側、弥生時代〜古墳時代の集落が西側を中心に広がっていることや、弥生時代の集落が環濠の外側にも広がっていることがわかってきています。
ゴール地点の方南町駅にやってきました。方南町駅は丸ノ内線分岐線の終点になります。「方南町」一帯は、もともと和田村と呼ばれていました。「方南」の名称は、字(あざ)として江戸時代から知られていました。「和田村から見て南に向かった方角にあるから」など、地名の由来には諸説ありますが、詳細は不明です。
ということで、杉並区の第一弾「1.和田・堀ノ内編 南阿佐ヶ谷・方南町コース」を歩き終えました。都心と違って郊外の部類に入る杉並区には大して名所・旧跡はないだろうと思っていましたが、どうしてどうして見所満載でした。杉並区の散歩道は28コースで構成されていますが、この調子で書き続けていったら最後のコースに辿り着くのに何時までかかるのでしょうか?
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