- 2.和田・堀ノ内編 新高円寺一周コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「2.和田・堀ノ内編 新高円寺一周コース」を歩きます。東京メトロ丸の内線新高円寺駅をスタート地点として、高円寺の寺社巡りと和田掘公園緑地の散策を楽しみます。
「2.和田・堀ノ内編 新高円寺一周コース」の歩行距離は6.0km、歩行時間は2時間です。
スタート地点:東京メトロ丸の内線新高円寺駅【出入口1】
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- 1.富士の見える道
- 五日市街道が直線的に伸びる方向と、富士山の見える方向とが一致しているため、長い範囲にわたり道の真ん中に富士山が見えます。
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- 2.真盛寺
- 寛永八年(1631年)の建立。大正十一年に移転してきました。広い境内林と細川旧大名家下屋敷(区有形文化財)を有しています。
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- 3.福寿のねずみ(福相寺)
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- 4.妙法寺
- 英国人コンドル設計の鉄門は国の重要文化財であり、祖師堂・書院・仁王門は都の有形文化財です。梵鐘をはじめ区の有形文化財も数多くあります。
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- 5.和田商店街
- 妙法寺の堀之内道につくられた商店街の一つです。「街の力を助け合い事業」で第12回東京商店街グランプリ(平成二十八年)を獲得しました。
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- 6.妙法寺参詣道
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- 7.大聖堂
- 立正佼成会の本部です。みどりあふれる庭では、夏にはハスの花も楽しめます。周囲には関連する特徴的な施設が並んでいます。
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- 8.堀ノ内熊野神社
- 旧堀ノ内村の鎮守です。総欅造りの社殿は安政四年(1857年)の銘があり、石の鳥居は区内最古、狛犬石像は4番目に古いものです。
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- 9.済美教育センター
- 区立小中学校・子供園の教育・保育活動を総合的に支援する教育センターです。大きな木の林に囲まれ、この付近の善福寺川沿いの桜の花は見事です。
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- 10.親水施設(済美公園)
- 善福寺川の親水護岸は、川の近くまで降りられる構造になっており、水辺を身近に感じることができます。
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- 11.済美山自然林
- 和田堀公園内にあり、かつて薪や炭が生産されたコナラやクヌギの雑木林がそのまま保全され、鳥や昆虫が多く棲む地域となっています。
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- 12.大宮夕日が丘広場
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ゴール地点:東京メトロ丸の内線新高円寺駅【出入口1】
スタート地点の東京メトロ丸の内線新高円寺駅出入口1から歩き始めます。高円寺は、弘治元年(1555年)、中野成願寺三世建室宗正により開山されました。将軍徳川家光が鷹狩りの際、雨宿りのために高円寺に立ち寄り、時の住職が家光を将軍としてではなく一般の雨宿りの客として、さりげなくもてなしたことが気に入られ、家光は鷹狩りの度に高円寺に立ち寄るようになったことで広く知られるようになりました。これが何年も続いたことで、家光は世話のお礼に宇治から茶の木を取り寄せ、自ら手植えをしたとされます。この「お手植えの茶の木」は今も境内に見ることができ、またこのような徳川家ゆかりの寺であることから「三つ葉葵の紋」を見ることができます。この地域は小沢村と呼ばれていましたが、家光が高円寺の寺名から高円寺村と改称したとされ、それが現在の「高円寺」の地名になっています。かつて高円寺の周辺には桃の木が多くあったために桃園とも呼ばれ、本尊は「桃園観音」、寺名は「桃堂」、門前を流れた川は「桃園川」と呼ばれていました。高円寺は、寛保二年(1742年)、弘化四年(1847年)、明治三十三年(1900年)、昭和二十年(1945年)と4度罹災し、堂舎や古記録類の多くを消失しましたが、昭和二十八年(1953年)に宮大工・中村青雲により現在の本堂が再建されました。
新高円寺駅の直ぐ近くの青梅街道上の交差点は五日市街道の起点になっています。五日市街道は、徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを江戸に運ぶために整備された街道です。五街道などのような幹線道路ではなく、農産物の運搬や小金井桜の花見など、沿道の村々の生活道路の性格を持っていました。江戸時代の街道の呼び名は、伊奈道・砂川道・青梅街道脇道・青梅街道裏道・江戸道・小金井桜道・長新田道・五日市道など様々でしたが、明治以降になって五日市街道に定着しました。杉並区梅里で青梅街道から分かれ、吉祥寺・砂川・牛浜の渡し・伊奈宿を経て五日市宿に達する街道です。善福寺川の七曲りや横田基地付近などの一部を除き、現在の五日市街道(都道7号杉並あきる野線)の道筋とほぼ一致しています。
五日市街道に入ったすぐ先で道路はクランク状に曲がり、南西方向に延びていきます。その曲がり角付近の奥の遊歩道の入口に「金太郎車止め」が置かれ、乗り物の進入を阻んでいます。昭和四十年代から区内の河川や水路に蓋をする暗渠化が始まり、その上が遊歩道になった所に車の進入を防ぐための車止めが設置されました。このうち、子供が遊んだりよく通ったりする遊歩道には、昔話を知るきっかけにと金太郎のパネル付きのものが採用されたのです。金太郎が初めて登場したのは昭和五十年(1975年)の頃で、当時の杉並区広報には「悪質ドライバー阻止に金太郎さんの車止がお目みえ」という写真が掲載されています。金太郎車止めは今や杉並区の隠れキャラクターとなっていて、テレビや雑誌で紹介されるようにもなっています。この標識は年月の経過と共に腐食が進み、今では塗料も剥げかけています。当時の車止めは鉄製で雨水などにより経年劣化しやすかったために、平成以降は順次ステンレス製に置き換えられています。この流れを受けて、かつて身近に見られたという金太郎も次第に姿を消し、現在では50個程度が残っているそうです。
金太郎車止めが設置されている遊歩道は、青梅街道から始まる神田川の支流だった小沢川を埋め立てて暗渠化した跡地に造られました。小沢川の名前は、かってこの地が小沢村と称されていたことに由来します。小沢川は、杉並区の梅里から流れ出し、杉並区和田の丸ノ内線支線の中野富士見町駅近くで神田川に注いでいた全長2kmほどの小川でした。現在では全区間が暗渠になっています。小さな支流ながら独立した呼称を持ち、なぜか暗渠好きの間では比較的有名な河川跡となっています。
五日市街道がクランク状に曲がった先に見所ポイント1の「富士の見える道」が延びています。今日は晴れてはいるのですが雲が多く、残念ながら富士山を拝めることは出来ませんでした。早春の晴れた日には冠雪した富士山を眺めることができるでしょう。
堀ノ内斎場は、斎場と火葬場の両方を備えた施設です。民間の会社が運営する6つの斎場の中では最も規模が小さく、かつては敷地の南側にレンガ色模様の火葬棟があり、2階の特別室へ向けて立派なスロープ付きの車寄せが備えられていました。平成四年(1992年)に、火葬棟と式場棟を一体化した建物に全面改築されました。6箇所の斎場の中で唯一、「特別殯館(都内の火葬場に設けられている最上ランクの火葬炉)」と呼ばれる施設が設けられていません。火葬そのものの手順が違うわけではなく、火葬炉前のホールや収骨室など使用する施設が豪華になるかどうかの違いとのことです。
見所ポイント3の「福寿のねずみ(福相寺)」と呼ばれる狛鼠像は、福相寺の山門を入って正面のところに鎮座しています。鼠は、古来より、神聖なものとか神の使いとして福をもたらすものと信じられてきました。日本神話では、根の国(日本神話に登場する異界:人間が周囲の世界を分類する際、自分たちが属すると認識する世界の外側)でスサノヲは広い野原の中に鏑矢を射込み、オオクニヌシにこれを取ってくるように命じ、彼が野に入ると、スサノヲは廻りに火をつけ彼を焼き殺そうとしました。このとき鼠が地下の洞穴に彼を導いて救いました。探していた鏑矢も鼠が持ってきました。このことから鼠は大国主之命の神使とされています、この鼠の石像は嘉永三年(1850年)につくられたとされ、大阪12名・京都3名・泉州堺1名・江戸18名の商人が願主となり、石灯篭には日本橋元大工町の石工であった金次郎の名前が刻まれています。
見所ポイント4の「妙法寺」にはいろいろな建物や文化財があります。境内の南正面に建つ「仁王門(山門)」は、天明七年(1787年)の再建で、二層造りのため桜門とも呼ばれ、上層に廻縁をめぐらし、獅子・龍・華などの彫刻が絢爛にほどこされています。仁王門の左右には、徳川四代将軍家綱公が妙法寺の地頭所日吉山王社に寄進したとされる金剛力士像(仁王様)が安置されています。その姿は筋肉隆々で、右の像は口を大きく開け「あ」と叫び、左の像は口を「うん」と固く結んで力強さを表しています。左右の像は「あ・うん」の呼吸で妙法寺をお守りしています。
妙法寺
本寺院は日円山と号し、日蓮宗の寺で十界諸尊と祖師像が祀られています。開基は不明ですが、中興開山は妙仙院日円といい、元和七年(1621年)寂したと伝えられています。寺伝によれば、祖師堂の日蓮像は、日蓮聖人が四十二歳の時法難にあい伊豆に流された折、同行を許されなかった日朗上人が、鎌倉の岸辺に流れ着いた霊木を得て、祖師の御影を刻んだものと言われております。その後、目黒の法華寺からこの寺に移され、俗に「堀の内厄除祖師」として信仰されてきました。十一代将軍徳川家斉や十二代家慶が当書院に立寄って休息されたことから、いっそう有名になりました。毎月の十三日、二十三日は縁日です。とくに元旦、節分会、八月の千部会、三月・九月施餓鬼会、十月の御会式には、江戸時代から善男善女、文人墨客(ぶんじんぼっかく:詩文や書画などの風流に親しむ人をいう。「文人」は詩文・書画などに親しむ人。「墨客」は書画をよくする人)で境内は足の踏み場もない程の賑わいで、浅草観音と並び称せられたと古書に記されています。現在当寺には、国指定重要文化財の鉄門をはじめ、都指定有形文化財の祖師堂、書院、仁王門、麻布油絵日蓮聖人像、その他仏像、絵馬堂、文人の碑など多くの文化財が保存されております。
仁王門をくぐると、目の前に見える妙法寺で最も大きなお堂が「祖師堂」です。正面の御簾の奥に「祖師御尊像」つまり「除厄け祖師像」が奉安されています。この祖師像は、「おそっさま」と呼ばれ、開帳(秘仏の帳(とばり)を開いて拝観させること)した参拝者はその尊顔を拝することができます。除厄け・家内安全・病気平癒の祈願はこの祖師堂で受けることができます。堂内は、天井や壁が金箔で覆われており、迦陵頻伽(仏教で極楽または雪山にいるという想像上の鳥)の彫物があり、まさに絢爛豪華なたたずまいをみせています。また仏の住む珠弥山の中腹にある東西南北の門を守護する四天王である廣目天(西方を守護し、災難から守る神)・増長天(南方を守護し、病を治す神)の像が堂内奥に奉安され、妙法寺を守護しています。祖師堂の本堂向拝には「五態の龍」が彫り込まれています。江戸時代から昭和にかけて房総半島を中心に、五代にわたり寺社の欄門や向拝を彫った宮彫り師一族の「波の伊八」の作品です。特に、初代の「武志伊八信由」は少年の頃より手先が器用で、19歳で鴨川市鏡忍寺祖師堂の飾りを彫り、73歳で没するまで数多くの作品を残しました。枠からはみだした「龍」など型にはまらない作風は、彼の天才ぶりを遺憾なく発揮しています。
祖師堂の北東奥にあるのが「本堂」で、三軌堂とも称され、主に檀家の法要行事などが営まれます。「三軌」とは、如来の衣・座・室を表し、法華経を信じ説く人の三つの心構えを表しています。文政二年(1819年)に建立された本堂は、絢爛さが目を引く祖師堂と対照的に、落ち着いた佇まいをみせています。
環七に面して、妙法寺の宝塔が建っています。この「宝塔」は高さ4.5mからなり、平成十四年(2002年)10月12日に行われた宗祖報恩御会式にあわせ、開眼除幕式が盛大に行われました。交通量の多い環七通りの安全を見守っています。
見所ポイント5の「和田商店街」は、妙法寺の宝塔と環七を挟んだ向かい側に商店街の入口があります。それほど賑わいもなく、アーケードなどの目立った構造物もありませんが、都内商店街の優れた取り組みを表彰し、商店街の役割や魅力について多くの人に知ってもらおうと東京都が主催した「第12回東京商店街グランプリ」で栄えあるグランプリを受賞しました。各区・市の推薦を受けた商店街事業31件の応募の中から、「街の力を育て合い事業」というタイトルで応募し、子育て×商店街のイベントが評価されてグランプリを獲得したのです。この事業では、若い新住民を対象にして個人商店の店主らが講師となり、店の技が体験できる「和田トライアルウィーク」や、地域の母親ネットワーク「わだっち」がプロデュースした「商店街クイズラリー」などを実施し、新規顧客の掘り起こしと、高齢化した店主が若い消費者ニーズを取り入る独自のアイデアを試す仕組みでした。「子育て世代を取り込む」というコンセプトの下で企画された点がユニークであることや、商店街と子育て世代の活発なコミュニケーションが街のさらなる発展につながっている取り組みであることと、商店街による地域への貢献性の高さが評価されました。
見所ポイント6の「妙法寺参詣道」は、堀之内道とも呼ばれ、妙法寺へ向かう代表的な参詣道のひとつでした。現在では、和田商店会通りの中程に和田帝釈堂があることから「和田帝釈天通り」と呼ばれています。
妙法寺参詣道(堀之内道)
この道は、江戸(東京)から日蓮宗妙法寺へ向かう代表的な参詣道で、「堀之内道」・「妙法寺道」と呼ばれていました。青梅街道から鍋屋横丁(中野区)でわかれ、堀之内村の妙法寺へと続く道でした。「新編武蔵風土記稿」和田村の項には「北ハ堀ノ内妙法寺道ヲ界トシテ」と、この道が和田村と高円寺村の村境であったことがわかります。江戸の町医者が記した随筆「塵塚談」には「堀の内祖師」について、昔は「地名を知れる人もなかりしに、近頃にたり祖師堂はもちろん堂宇の設けも伽藍の如くに造建し、新宿より寺の門前まで水茶屋、料理茶屋其外酒食の店、数百軒簷をならぶ、日蓮宗にかぎらず、諸宗門の人も尊敬して、年々月々に賑わしく繁栄なり」と、江戸時代後期、「厄除け祖師」として江戸庶民の信仰を集めた妙法寺とその参詣道の繁栄ぶりが記されています。堀之内道から少し南に位置しますが、平成十九年に実施された本村原遺跡C地点(現、女子美術大学内)の発掘調査では、「しがらき」とある茶碗が出土しました。江戸時代、妙法寺の参詣者
で賑わった堀之内道の水茶屋・料理屋の中でも、のっぺい汁をだす「しがらき」は有名で、天保十二年(1841年)には370人の客がいたと記されています(「江戸見草」)。明治に入り甲武鉄道(中央線)が開通すると、中野駅から妙法寺へ向かう道が開かれ(堀之内新道)、東京から歩いて向かう参詣道であったこの道の利用者は減少しました。現在、この道は「和田帝釈天通り」として、商店会通りの中程に位置する和田帝釈堂(ここより数十メートル先)を中心に地域の方々に親しまれています。
現在ではあまり見かけませんが、救世軍はクリスマスを中心に歳末の風物詩となっている募金運動「社会鍋」で知られています。救世軍(The Salvation Army)はキリスト教プロテスタントの一派で、世界131の国と地域で、伝道事業(宗教活動)・社会福祉事業・教育事業・医療事業を推進しています。軍隊を模した組織が特徴で、日本には明治二十八年(1895年)に伝来しています。救世軍は、1865年にイギリスのメソジスト教会の牧師であるウィリアム・ブースと妻キャサリンによって、ロンドン東部の貧しい労働者階級に伝道するために設立されました。設立当初は「キリスト教伝道会」(東ロンドン伝道会)と称する超教派の伝道団体でしたが、当時は教会が上流・中産階級のサロン的な場所となっており、庶民を教会に導いても伝道者や会員が受け入れに熱心ではありませんでした。そこで、「身分階級によらず、実績のみで評価される組織」として軍隊式の組織編制、メンバーの制服・制帽・階級章類の着用、軍隊用語の使用などを採用し、1878年に「救世軍」と改称しました。改称に当たってウィリアムは「義勇軍に非ず、救いの軍なり」という天啓を受けたといわれています。日本の本部は神田神保町に置かれ、杉並区の和田には救世軍士官学校やブース記念病院があります。また、救世軍男子社会奉仕センターにはバザー場が併設され、1969年から「人と物の再生」をテーマに、アルコール依存症者の回復と自立を支援する場として活用されています。
見所ポイント7の「大聖堂」は和田地区で一際目を引く建物です。日蓮系・法華系の新宗教である立正佼成会が大聖堂法華経の広宣流布をめざす根本道場として、全国の会員が一丸となって1964年に建設されました。堂内には立正佼成会の本尊である「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」が安置されています。法華経が「円教・・・欠けることのない完全な教え」と言われることから、円柱型に建設されました。
見所ポイント8の「堀ノ内熊野神社」は、善福寺川が西向きから北向きに流れを変えるところに鎮座しています。鬱蒼とした木々に埋もれた社殿は、現在ではあまり見かけない総欅造りだそうです。
堀ノ内 熊野神社
当社は旧堀之内村の鎮守で、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)・五十猛命(いそたけるのみこと)・抓津姫命(つまつひめのみこと)の三柱が祀られています。社伝によれば当社は文永四年(1267年)、紀州(現和歌山県)の熊野三社を勧請したことにはじまり、室町時代に北条氏綱が上杉頼興を破り、江戸を攻略した際に社殿を修築し祝祭を行い、江戸時代の寛永十一年(1634年)にさらに修繕を加えたと伝えられています。別当は村内の妙法寺が明治維新までつとめていました。江戸時代の当社の様子を「新編武蔵風土記稿」は「社は四尺に三尺南向、拝殿二間に三間・・・前に鳥居を立つ」と記しています。総欅造りの社殿は「安政四年二月吉日氏子当村住人井上龍三」と銘が刻まれ、その精巧かつ豪華なことは区内随一といわれています。また、桧造りの幣殿は大正十二年(1923年)の造営で、この時旧幣殿を現在の神楽殿に改修しました。昭和二十九年(1954年)、稲荷社・第六天王社の合殿社を改新築、同三十五年(1960年)、社務所の新築、社殿の整備を行い、同四十六年(1971年)、奥殿土台石の修復、神楽庫の新築等、今日の景観を整えました。当社にある文化五年(1808年)奉納の石鳥居は、区内で最も古いものといわれています。また、大正十二年九月一日の関東大震災の当日、浅草で買い求め猛火の中を無事帰着して納められた「火伏の神興」が祭礼の際には町内を渡御します。なお、当社には古くから奉納された絵馬・額等も多く所蔵されています。
二百年以上も風雪に耐えた鳥居はそれ自体が崇敬の対象になりますね。また、狛犬石像は区内で4番目に古いものだそうです。
見所ポイント9の「済美教育センター」では、杉並区内の各学校(園)の実情を踏まえたカスタムメイド型支援を充実させています。済美教育センターは、昭和二十五年に今井政吉が杉並区に土地や施設等の財産を寄贈したことが起源となっています。昭和二十六年に設立されたセンター内には、教育図書館・面談室・パソコン研修室・研究室・相談室などが備わり、6600uにも及ぶ敷地内には数多くの樹木が茂り、その中に建物が佇んでいる落ち着いた風景は安らぎを感じます。センターは教育委員会の出先機関や教育研究所の役割も兼ね備え、教職員の研修所とても活用されています。さらに指導行政機関の機能も備え、各学校(園)に教育・支援も行っています。今井政吉の教育理念は、済美小学校・大宮中学校・済美教育センター・済美養護学校などの教育施設として現在に受け継がれています。済美小学校では、毎年感謝の意を込めて今井政吉の命日(6月1日)に、子どもたちや地域の方が身近な花を持ち寄り、敷地内にある今井政吉の胸像に献花式を行っています。
今は初夏の青葉の季節ですが、周辺の善福寺川沿いは桜の名所となっています。
済美教育センターと道路を隔てた向かい側にある済美児童遊園の中には、向山遺跡があり、案内板が立っています。
向山遺跡
向山遺跡は、杉並区堀ノ内二丁目五番に所在する区立済美教育センター(旧区立済美教育研究所)の敷地一帯を中心とした、古墳時代後期(約1400年前)を主体とする集落跡で、昭和六十二年に発見されたものです。本遺跡周辺には、善福寺川の蛇行によって形成された沖積低地が広がり、水源豊富な低地上に集落が営まれていました。昭和六十二年に実施された発掘調査では、古墳時代後期の住居跡二軒および平安時代の住居跡一軒のほかに、縄文時代中期の土器片、江戸時代後期のゴミ捨場一箇所、明治から大正にかけて使用されていた灌漑用水路が検出され、この遺跡が複合遺跡であることもわかりました。検出された古墳時代の住居は、灌漑用水路によって一部破壊されていましたが、床上や貯蔵穴内からは、当時の日常的な雑器である甕(かめ)・甑(こしき)・杯(つき)・椀(わん)等の土師器(はじき)類、糸を紡ぐ道具である紡錘車も出土しています。また、江戸時代のゴミ捨場には、当時の日常的な雑器である瀬戸・美濃系の陶器類、キセル・かんざし・刀子(とうす)・釘等の金属器類、泥めんこ・泥人形・土笛等の土製玩具類とその抜型、釜・土瓶等のミニチュア
の飯事道具類が一括して廃棄されている状況が確認されました。本遺跡は、杉並区内で江戸時代の遺構が発見された数少ない遺跡です。
見所ポイント10の「親水施設(済美公園)」は、善福寺川沿いの南側に位置し、イチョウ並木やスダジイなどの大木が生い茂った自然豊かな公園です。善福寺川の護岸整備に伴い、公園も整備され、河川の親水護岸と一体的な公園として平成二十五年にリニューアルオープンされました。公園の中心となる水遊び場では、夏季には花崗岩が敷き詰められた円形広場の周りから水が噴き出し、子ども達が水遊びを楽しめます。また、背伸ばしベンチなどの健康遊具や滑り台が付いた複合遊具などもあります。善福寺川の親水護岸は、川の近くまで降りられる構造になっており水辺を身近に感じることができます。公園内にシリーズ8番目の善福寺川のあらましと題した案内板が立っていて、見所が三箇所紹介されています。
善福寺川のあらましG
A バードサンクチュアリ
郷土博物館横の観察の森(旧嵯峨邸跡地)は、バードサンクチュアリ(野鳥の保護区)とされています。この周辺では絶滅の恐れのあるオオタカが、 平成二十四年1月に実施した杉並区の水鳥一斉調査で確認されています。その他にも観察の森の近くの済美山自然林もバードサンクチュアリとして活用されています。
B 親水施設
東京都は、善福寺川整備事業の中で、水害に備えるとともに、潤いのある水辺空間を創出するため「親水施設」の整備を行いました。済美公園の一部を利用して、河川と一体的に整備を行い周囲と調和した区民の憩いの空間を創出しています。
C 武蔵野橋
武蔵野橋は平成二十一年度に架け替えましたが、歴史を刻んだ浮彫が施された親柱を再利用しています。
親水施設では、護岸から川面に下りられる階段が設けられています。武蔵野橋は架け替えられてからそれ程日は経っていないのですが、この親柱を見た経緯を知らない人にはそうは思えないでしょう。価値ある歴史遺産を再利用するのは素晴らしいことです。
見所ポイント11の「済美山自然林」は、その名の通り、済美山地区にある自然林です。バードサンクチュアリになっていて、クヌギやコナラを中心とする雑木林では四季を通じて色々な種類の野鳥が観察できます。蛇足ですが、バードサンクチュアリとは、野生鳥獣類の生息地の保全を第一の目的として確保された区域のことで、「野鳥の聖域」を意味します。鳥獣保護区とは異なり,単なる環境保全にかぎらず,バードウォッチングや野鳥と触れ合うなどの自然体験ができる場としても機能しています。拠点施設であるネーチャーセンターにはレンジャーと呼ばれる専門職員が常駐し,環境の調査やパトロール、教育・体験活動・情報提供の手助けを行っています。国内では1981年に日本野鳥の会が北海道苫小牧市のウトナイ湖にバードサンクチュアリを設置したのが最初とされています。
見所ポイント12の「大宮夕日が丘広場」は、文字通り夕日を眺める絶好の場所です。和田堀公園の高台の丘に造られた広場で、遠くには高井戸の清掃工場の煙突も見えます。普段は人影もなく閑散としていますが、 休日の晴れた夕方には多くの人々が訪れます。近くのグランドや公園からの帰りの人とか、犬の散歩の途中の人などがやってきては足を止めて日の沈む様を眺めています。わざわざ夕日を見るためだけに訪れる人もいるそうです。夕日の良く見える気象条件は、「雨上がりの日の夕方、天気の良い日」だそうです。朝日は海岸や山頂から眺めるのが一番ですが。
善福寺川に架かる大松橋は現在掛け替え工事中ですが、ここは森の切れ目から西新宿の高層ビル群が眺められます。大松橋から見た都庁の夜明けは絶景だそうですが、早朝のお散歩ならまだしも、わざわざ早起きして行くほどのことはないように思えます。夕方の夜景の方がいいかも。
新高円寺駅に戻る途中に、木々に覆われた屋敷があります。松島家という地元の旧家のようで、塀の内側には桜の木が枝を広げています。御所桜という案内板が塀の中から顔を出しています。塀で隠れた文字がありますので、私なりに文脈から補足しました。
御所桜
この桜は明治天皇御大葬の際、当時和田堀内村の村長だった私の祖父松島長五郎が葬儀に招待され、その参列記念として御下賜になった京都御所宮殿の右近の桜の子孫であります。この様に貴重な桜であり、又この辺には類を見ない見事な桜であることから、枝を折ったり木に登ったりしないようにして下さい。近隣の皆さんも御一緒に明治天皇の御遺徳を(偲)び、毎年末永く天皇陛下御下賜の桜を楽しみましょう。
住宅地の一画に石仏が並んでいます。墓地らしいのですが、石塔を保存した広場のような感じです。
民間信仰石塔
この墓地に向って右側に建立されている六基の石塔は、右から(植栽に隠れて見えませんが)元禄四年(1691年)銘の聖観音塔、享保八年(1723年)銘の地蔵塔、宝永五年(1708年)銘の庚申塔、そして大正十四年(1925年)銘・嘉永四年(1851年)銘・明治十一年(1888年)銘の馬頭観音塔です。これらの石塔は、かつては松ノ木2−27にあったといわれ、道路の拡張により移されて来たものです。聖観音は様々な種類のある観音像の中でも最も基本的なもので、衆生の悩みを救済する仏とされています。この塔は区内の聖観音塔の中では古いもののひとつです。地蔵は冥界と現実界の境に立って人々を守護することから、村の安全を守る仏とされ、村の境や辻などに多く立てられました。また、この塔の立てられた時期は、地蔵信仰が民間に広まった頃で、庶民のあらゆる希望をかなえてくれる祈願の対象として造立されました。庚申塔は体内の三尸(さんし)の虫が庚申の夜にその人の悪行を上帝に告げ、寿命を縮めるという道教の教えから、人々が徹夜で庚申待を行い、その供養として立てた石塔です。この塔には「二世安楽道行十一人」と記され、地元の人々十一人によって造立されたことがわかります。馬頭観音は、頭の宝馬が四方の四魔を駆逐することを表わしています。そのために牛馬の守護神と考えられ、牛馬の供養や無病息災を祈願して造立されました。なお、正面に建っている墓石が法華衆(日蓮宗)のものであることから、この土地は「ほっけばか(法華墓)」と呼ばれています。
新高円寺駅に戻ってきました。改めてマップを見ますと、見所ポイント2の「真盛寺」に立寄るのを忘れていました。また、妙法寺では「英国人コンドル設計の鉄門」を見落としています。残念ですが、またの機会に訪れることとしましょう。
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