3.和田・堀ノ内編 新高円寺・方南町コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「3.和田・堀ノ内編 新高円寺・方南町コース」を歩きます。東京メトロ丸の内線新高円寺駅をスタート地点として、高円寺の寺社巡りと小沢川の痕跡探し、そして丸の内線富士見町車庫の壮観な赤電の隊列を楽しみます。  

「3.和田・堀ノ内編 新高円寺・方南町コース」の歩行距離は4.7km、歩行時間は1時間30分です。

スタート地点:東京メトロ丸の内線新高円寺駅【出入口2】
↓ 
 1.高円寺寺町
明治末期から大正にかけて7つの寺院が移転してきました。江戸時代の建物や境内林もあり、静かな寺町となっています。
 2.妙法寺旧参道入口燈籠
 3.蚕糸の森公園
昭和五十五年に筑波に移転した蚕糸試験場跡地につくられた公園で、旧正門・旧守衛所や桑の木などにその面影を残しています。
 4.小沢川跡の遊歩道
小沢川は真盛寺の新鏡ヶ池やその付近を水源とし、東に流れて神田川に合流する小さな川です。現在は暗渠化され遊歩道になっています。
 5.ぼたもち地蔵(長延寺)
 6.杉並能楽堂
明治四十三年(1910年)に本郷弓町に創建し、昭和四年(1929年)に現在地に移築再建された都内で二番目に古い能楽堂です。※内部は見学できません。
 7.和田のやすらぎ
 8.神田川・善福寺川合流点
写真の左を流れる神田川に、右から善福寺川が流れ込んでいます。
 9.地下鉄車両基地

ゴール地点:東京メトロ丸の内線支線方南町駅【出入口2】


スタート地点の東京メトロ丸の内線新高円寺駅出入口2から歩き始めます。但し、新高円寺駅には出入口1と出入口2があり、これとは別にエレベーター口が[池袋方面行]と[荻窪方面行]の2ケ所あります。この日は楽してエレベーター口[池袋方面行]からスタートしました。



前回の「2.和田・堀ノ内編 新高円寺一周コース」では、五日市街道入口交差点から五日市街道に入りましたが、今回は交差点のひとつ先の路地を北上し、高円寺寺町方面に向かいます。「杉並第八小学校」・「光塩女子学院」などがある高円寺南二丁目には、「長龍寺」・「宗泰院」・「松應寺」・「西照寺」・「福寿院」・「長善寺」・「鳳林寺」という、曹洞宗の6つの寺と日蓮宗の寺が隣り合うように集まっている、見所ポイント1の「高円寺寺町」と呼ばれる一画があります。江戸時代に格式のあった旗本寺が多く、石仏・仏像などの文化財も多数見ることができます。



西側から東側に向かって寺町通りを進みます。最初は西照寺です。

西照寺

当寺は普明山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば、日比谷村(現千代田区内幸町)の漁夫により海中から拾いあげられた阿弥陀如来像が安置された御堂を、天正二年(1574年)に、開山明堂文龍大和尚が一寺としたのが開創とされています。その後、徳川家康の江戸入府による江戸城大築営のため、寺域は武家屋敷地となり、慶長十七年(1612年)芝金杉(現港区芝一丁目)に移転しました。しかし、寛永二十年(1643年)類焼に遭い、寺地は御用地となり、拝領した代替地は狭くて本堂の再建も不可能なため、寛文五年(1665年)に芝白金台町(現港区白金二丁目)の地を買収して移転し、寺を再興しました。この再興に力を尽くしたのが、中興開基でもある旗本の岡田豊前守善政で、以来当寺は代々岡田家の菩提所となっています。この後、当寺は観音堂・鐘楼堂等の堂宇も整え、江戸西方三十三観音の第二十六番札所ともなり、門前には町屋が並び大いに賑わったと伝えられます。明治維新の折に、当寺は討幕派の放火によって伽藍を全焼しましたが、明治十年(1877年)頃には復興を果たしています。再建された堂舎には、当時、明治女学校の講師であった島崎藤村が寄宿していたといわれています。永く御府内にあった当寺も、東京発展のなかで寺域が区画整理の対象となり、明治四十四年(1911年)に現在の地へ移転しました。なお、当寺には室町末期の阿弥陀如来坐像、承応二年(1653年)銘の”とろけ地蔵”、南町奉行山村良旺や書家佐瀬得所の墓、江戸期建築の格式を持つ道了堂、心越禅師による山門額字の書幅など、多くの文化財が所蔵されています。




境内の植栽がよく手入れされていて、檀家の方も心静かにお参りできることでしょう。



西照寺の東隣に松應寺があります。

松応寺

当寺は、万寿山と号する曹洞宗の寺で、現在の本尊は聖観音坐像です(戦火で本尊「釈迦牟尼仏」を焼失したため)。寺伝によると明暦二年(1656年)五月、浅草八軒寺町(現台 東区寿二丁目)に開創されました。開山は本寺大松寺(現北区西ヶ丘一丁目)五世の悦州舜喜大和尚で、開基は雪岩長卯大和尚です。山門に掲げる「万寿山」の山号は江戸時代の高名な書家高玄融の筆になるものです。江戸時代の当寺は、与力・同心など武家寺として栄えていましたが、墓地が狭小なことから大正七年六月に寺院の維持発展のため、現在地に移転して来ました。当寺の歴史については、昭和二十年の戦火で全焼し、本尊はじめ、寺宝・寺録などの全てを焼失したため、詳細は明らかではありません。現在の本尊は、禅宗様式の濃い仏像で、藤原時代の様式を模したと思われるふっくらした円満なお顔に特徴があります。なお、当寺には「農政本論」・「経済要録」・「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵(1850年歿)の墓があります。




こちらは山門前の大樹ですが、ここまでくるとワンちゃんのカット並みの技術ですね。



松應寺の東隣に宗泰院があります。

宗泰院

当寺は山号を永昌山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼仏です。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正十二年(1584年)、麹町表四番町(現千代田区四番町)に草庵を結んだのが始まりといわれています。開山は小田原万松院の格峰泰逸和尚で、文禄二年(1593年)に、幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整えました。その後、元和二年(1616年)に至り、寺地が旗本の屋敷地と定められたため、市ヶ谷左内坂(現新宿区市谷左内町)に境内地を拝領して移転、寺院の取り締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられています。当寺の檀家は旗本・御家人・尾張藩士などの武家三百五十家とその出入商人などで、本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれています。明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰えましたが明治二十年代には復興し、明治四十二年、陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転しました。宝暦七年(1757年)建立の本堂、寛延三年(1750年)建造の開山堂は、そのまま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物です。なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士鈴木派無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあります。




宗泰院の東隣に長龍寺があります

長龍寺

長龍寺は富聚山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば文禄二年(1593年)に心岩舜応和尚が麹町四番町(現千代田区四番町)に開創したと言われます。元和二年(1616年)に寺地が御用地となり、市ヶ谷左内坂(現新宿区市谷左内町)に境内地を拝領して移転しています。明治四十二年(1909年)、市ヶ谷の陸軍士官学校の拡張に伴い、この地に移転しました。宝暦六年(1756年)建造の本堂、元文二年(1737年)建立の山門は、この時に移築したもので、古い建造物の面影をよく伝えています。寺伝によると、元は「長隆寺」という寺名でしたが、開山した玄室宗頓和尚が本寺である雲松院境内の池に住む竜に偈(げ)を授け(神託を受け)、小蛇と化したところを捕えて当寺の寺宝とさせたことにちなみ、長隆寺の「隆」を「龍」に改めたと伝えられています。江戸時代の長龍寺は、開基である幕府御使番河野氏をはじめ、油川武田家を主体とした旧武田家臣団ならびに徳川の名門松平十四家である滝脇松平家(世良田家)、朱鎗の名家長坂血鎗九郎家、応仁の乱の西軍の将として有名な「山名宗全」を生み出した山名家の本家、その他旗本・名家七十六家の菩提所で、代々の住職は朝廷より勅賜号を賜わるなど、寺運は隆盛をきわめました。境内の地蔵堂には、山之手二十八番地蔵の第十一札所として著名な、宝永五年(1708年)造立の豆腐地蔵尊が安置されています。




門前に豆腐地蔵のいわれを記した案内柱が立っています。豆腐屋さんが小僧の耳を切り落としたとは物騒な話です。豆腐を切る包丁を使ったのでしょうか?残念ながら、境内は檀家以外立ち入り禁止で、豆腐地蔵を拝むことはできませんでした。

杉並区指定有形民俗文化財 石造地藏菩薩立像 一基

本像は、江戸時代の宝永五年(1708年)に造立された等身大の石仏です。像容は端正で、容貌も整って尊願を表し、衣紋などの彫刻も丁寧で流麗に仕上げられています。本像の右耳は欠失していますが、当寺の「長龍寺縁起」にその由来が記されています。由来によると、元文年間(1736年〜1741年)の頃、小僧に化けた地蔵が豆腐を買いに行ったが、木の葉の銭を使用したため怪しまれ斬られたというもので、そのことから本像は豆腐地蔵と俗称されています。




青梅街道と環七が交差する高円寺陸橋下交差点の近くに小さな石仏堂があります。

民間信仰石塔

ここに建立されている石塔は正徳三年(1713年)銘、元禄七年(1694年)銘の庚申塔、寛文十年(1670年)銘、享保六年(1721年)銘の阿弥陀塔と享保十三年(1728年)銘の供養塔計五基があります。庚申信仰は「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間に広まり、江戸時代には本尊を青面金剛とし、不見(みざる)、不聞(きかざる)、不言(いわざる)の三猿と日月二鶏を配する塔が一般的に造られるようになりました。阿弥陀如来は四方極楽世界の本尊とされ、他力往生の誓願をたて、この仏を信じるものは、ただ念仏さえ唱えれば難行苦行を積むまでもなく、仏が大慈の光明を照らし、お迎えくだされるとされています。これらの石塔は、この辺りが武州多摩郡高円寺村といわれた頃、地域の人々によって、悪病退散・村民安全などを祈願して建立したものと思われます。昭和四十二年、崇敬者が相計り、特に交通安全を祈願して南向きだった社殿を環状七号線に向けて改修整備しました。昭和五十七年から例祭日を十一月二十三日と決め、お札やお供物を配るようになりました。




左の写真が二基の庚申塔、右の写真が阿弥陀塔二基と供養塔です。



見所ポイント2の「妙法寺旧参道入口燈籠」は、青梅街道に面した「蚕糸の森公園」と「お茶の大森園」の間に建っている、基台から宝珠まで総高5.6mの青銅製の一対の大燈籠です。明治二十二年(1889年)に甲武鉄道(現在の中央線)中野駅が開業すると、青梅街道の鍋屋横丁からの道に替わって、中野駅からの道が新たな参道(桜新道)となりました。しかし道筋がわかりにくく参詣人がまごつくため、明治三十六年(1903年)8月にまず木製の常夜燈が立てられ、その後、明治四十三年(1910年)8月に至って、信仰者の中の花柳界の人々が中心となって、青銅の燈籠を造立しました。しかし、桜新道は環状七号線の完成により分断され、往時の面影をすっかり失っています。大燈籠の裏面には、造立の経緯と共に、寄進した人達の名前が刻まれています。



見所ポイント3の「蚕糸の森公園」は、明治四十四年(1911年)5月に設置された「農商務省原蚕種製造所」に起源を持ち、大正三年(1914年)に「農林水産省蚕業試験所」、昭和十二年(1937年)に「蚕糸試験場」に改称した旧研究所跡地に設置された区立公園です。昭和五十五年(1980年)に蚕糸試験場が茨城県つくば市へ移転(農業生物資源研究所を経て現在は農業・食品産業技術総合研究機構)したことに伴い、跡地を防災公園として再整備したものです。公園の名称は蚕糸試験場に由来し、煉瓦造りの旧試験場の正門は現在でもそのまま残されています。恥をかかないために申し添えしておきますが、「蚕糸」は「さんし」と読みます。蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった糸の意味で、絹糸・生糸と呼ばれます。



蚕糸試験所には本館など貴重な建物もあったのですが、防災上の理由により殆どが取り壊され、今はかつての守衛所だった小さな建物が管理事務所として残るのみです。



蚕の食べ物は桑の葉ですよね。公園内には桑の木も栽培されています。

クワとは・・・

ひとくちにクワと言っても、和紙の原料となるコウゾや甘い実のなるイチジク、観葉植物として有名なインドゴムノキなど、クワの仲間にもいろいろあります。その中で養蚕用に使われているクワは、クワ科クワ属のヤマグワなどを原種として、多くの品種改良を重ねて作られたものです。クワの木は、自然の状態では10メートルを越す大木にもなりますが、養蚕用には枝を摘みやすくするために多くは低く仕立てられており、こちらの方が一般的には馴染みが深いようです。ここに植えられているクワは、その養蚕用の仕立桑を再現したものです。クワには雄株と雌株があり、雌株は夏になると甘くて食べられる赤い実がたくさんなるので、昔はクワの実を食べて口のまわりを赤くした子供が見られたものです。




珍しい桑の木として「枝垂桑」も植えられています。

枝垂(しだれ)桑

当地には、昭和五十四年(1979年)までの七十年間、国立蚕糸試験場が置かれ、蚕XXX生糸についての研究が行なわれていました。桑については、我が国内はXXてなく、全世界から多数の種や品種を導入し、桑品種改良にもちいられました。そのなかに枝が下垂する珍しい品種があり、鑑賞用として保存され、蚕糸試験場の玄関を飾ってきました。この枝垂桑は、1883年にアメリカで、ダッタン桑の実生から発見されたものです。ここに植えられている桑は、普通の桑XのXに枝垂桑を接ぎ木しています。




公園の奥まったところに、巨大な石でできた記念碑が置かれています。

蚕糸科学技術発祥の地

明治四十四年(1911年)、この地に農商務省原蚕種製造所が創設され、一代交雑種の原蚕種配布を開始した。その後、蚕業試験場・蚕糸試験場と改められたが、一貫して蚕糸科学技術の研究を進め、世界の先端を行く蚕糸技術を開発してきた。この業績は蚕糸業ばかりでなく、我が国の近代化と経済の発展に大きく貢献した。昭和五十五年、蚕糸試験場は筑波研究学園都市へ移転し、杉並区立蚕糸の森公園がここに設けられた。この地に生まれた蚕糸科学技術がますます発展することを願い、ここに記念碑を建立する。




蚕糸の森公園の「つどいの広場」に公園のシンボルともいわれる滝がつくられています。幅30メートル・高さ3メートル超で、1分間に最大11.5立方メートルの水が流れ落ちています。新宿西口公園にある「新宿ナイアガラの滝」に対抗して、「杉並ヴィクトリアの滝」とでも命名したら如何でしょうか?



公園内には、滝から流れ出た水を利用した小川や東屋を備えた池も造られています。昔は蚕糸試験場だったので水とは縁がなかった筈ですが、この水はどこから来ているのでしょうか?



公園の出口近くに「歴史と文化の散歩道」の案内碑が置かれています。この出口に面した道路は、かっての妙法寺参道の跡です。

蚕糸の森公園と妙法寺旧参道金銅燈籠

蚕糸の森公園は、蚕糸試験場跡地に造られた防災公園です。蚕糸試験場は蚕糸技術開発のために明治四十四年(1911年)に原蚕種製造所として設立されたものですが、現在では筑波学園都市に移転しています。この公園の西側の道は、青梅街道から妙法寺へ通じる参道として明治三十六年(1903年)に開設され、その目印として青梅街道に面した入口に一対の木製燈籠が立てられましたが、明治四十三年(1910年)に青銅製になりました。しかし、関東大震災で倒壊し、現在のものはその後に改鋳されたもので、区有形文化財に指定されています。

Sanshinomori Park & Kyu Sando Kana-toro

The Sanshinomori Park is the former site of a sericulture (silkworm raising) experiment station, built in 1911 for the development of Sericulture technology and now relocated to Tsukuba. The Kyu Sando Kana-toro are a pair of bronze lanterns marking the turnoff on Ome kaido Ave. to the former pilgrimage road to Myohoji Temple.




蚕糸の森公園を出て住宅地を進みます。蓮光寺というお寺がありますが、お寺には珍しいインド人の銅像が建っています。

蓮光寺

当寺は、頂光山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊です。「文政寺社書上」によれば開創は、文禄三年(1594年)、両国矢ノ倉(現中央区東日本橋)で、開基は、源受院日宝と言われています。正保元年(1644年)には、浅草新寺町(現台東区元浅草)に、境内地を拝領して移転し、境内には円理院・受教院・専玄房・了寿房などがあり、寺運の隆盛があったと伝えられますが、文化三年(1806年)に火災により焼失したので、詳細なことは明らかではありません。大正四年七月に、浅草の区画整理のため現在地に移転しました。当寺で有名な「開運大黒天」は、浅草新寺町時代の地名の俗称に因んで、通称「土富店の大黒天」とも言われ、江戸庶民の信仰をあつめました。この「大黒天」は、(当初、)日蓮上人が母妙蓮尼の病気平癒を祈願して彫ったものと伝えられております。また、開基日宝が、小湊巡錫の折に、庄屋の娘の難産に会い、祈祷して助けました。その際に、床柱が光を発し、この家に伝来不明となっていた「大黒天」が再び発見され、これをもらい受けて江戸に持ちかえり、蓮光寺建立の際、奉安したものと伝えられます。本寺は、江戸時代旗本寺としても栄えました。なお昭和五十年記念碑として、ネタジ・スバス・チャンドラボースの碑が建立されています。




蓮光寺の境内には、お寺には珍しいインド人の銅像が建っています。ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースはインドの独立運動家で、インド国民会議派議長や自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官を歴任しました。何故彼の記念碑が遠く離れた日本のお寺にあるのかといいますと、インドがイギリスから独立する過程において様々な出来事があり、日本と関わりを持った彼が太平洋戦争末期に台北で軍用機の事故に遭い大やけどを負って亡くなった後、遺骨が日本に送られ、蓮光寺の住職望月教栄が葬儀を引き受けた経緯が関係しています。蓮光寺には、インドのラージェーンドラ・プラサード大統領、ジャワハルラール・ネルー首相、インディラー・ガンジー首相などの日本を訪問した歴代首脳が訪れており、その時の言葉も碑文として残されています。

注記:
 ラジェンドラ・プラザットは、インド共和国の初代大統領でした。
 ジャワハルラル・ネルーは、インドの初代首相でした。
 インディラ・ガンジーは、インドの第五代・第八代の首相でした。
 パジパイ(アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー)は、インドの第十三代・第十六代の首相でした。

當寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸福とするところであります。
1958年10月14日 ラジェンドラ・プラザット大統領

佛陀の使命が人類に平和をもたらす様に祈ります。
1957年10月13日 ジャワハルラル・ネルー首相

御仏の光が真心と平和に向って人々のために永久に私達を導かれんことを。
1969年6月26日 インディラ・ガンジー首担

インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュチャンドラボースの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います。
2001年9月12日 パジパイ首相




見所ポイント4の「小沢川跡の遊歩道」を歩きます。神田川の支流だった小沢川跡に造られた遊歩道は、環七と接する地点から始まっていますが、実際の起点は青梅街道の五日市街道入口交差点付近です。前回の「2.和田・堀ノ内編 新高円寺一周コース」で歩いたのは、その始まりの区間です。環七の先には、前回立寄るのを忘れていた真盛寺があります。真盛寺は、延宝元年(1673年)に三井高利が日本橋に越後屋を創業して以来の三井家一門 の菩提寺で、俗に三井寺とも称されています。真盛寺の境内には新鏡ヶ池という放生池(捕らえた魚類などを放してやるための池)があり、小沢川の水源のひとつとなっていました。フェンスの脇から遊歩道に降り立ちます。



遊歩道は住宅地の中を縫うように延びています。石段の下はかって洗い場があったのでしょうか?車道と交差する地点の車止めには金太郎ではなく、ステンレス製の車止めが使われていますね。



小沢川跡の遊歩道から離れて、かっての妙法寺参詣道を進みます。常仙寺というお寺があります。

常仙寺

石雲山常仙寺は曹洞宗の寺院で、開山は本寺である中野の竜昌寺三世祥岩存吉和尚です。開創は慶長七年(1602年)といわれ、当初は江戸麹町(現在の千代田区)に創建されていました。明治四十一年(1908年)に、現在の地に移転しました。本尊は行基作と伝えられる薬師如来坐像で、この薬師のいわれについて「江戸名所図会」に「この霊像、永禄の頃までは参州鳳来寺の山麓に立たせ給ひしが、往古当寺開山祥岩存吉禅師、参州新城にありていまだ凡俗たりし頃、この霊像虎に化現し給ひ、狼の難を遁れしむ。依つてその後法恩の為に出家し・・・(中略)・・・当寺を開いて、この本尊を安置せしとなり。」とあり、小像 ながら秀麗な仏像です。こうした由来から、この薬師は俗に「寅薬師」と呼ばれ、災難除けの仏として江戸時代から広く人々に親しまれてきました。また、区の登録文化財として指定されています。なお、境内には延宝八年(1680年)銘の庚申塔のほか、如意輪観音・六地蔵などが祀られ、墓地には国文学者塩井雨江の墓碑があります。




常仙寺のすぐ近くに、長延寺があります。

長延寺

当寺は、万昌山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によると、文禄三年(1594年)、市谷(現新宿区市谷長延寺町)に境内地を拝領して本寺長年寺(現群馬県高崎市)十世喚英長応によって開山されました。当地には、明治四十二年(1909年)に移転してきました。開基は、尾張犬山城主成瀬隼人正正成ですが、成瀬家が当寺を離壇してしまったため、寛文元年(1661年)に幕府高家であった今川直房(今川義元の曾孫)が当寺に葬られてからは、直房をもって中興開基としたと伝えられています。以来、幕府高家今川家の菩提寺となりました。境内には江戸時代市谷で特に有名だった「ぼたもち地蔵」があります。その由来は、当時、門前に信心深い夫婦が住んでおり、この地蔵に願いをかけて男児を得たが、産後の肥立ちが悪く、母子ともに明日をも知れない容態になったところ、地蔵が化身した小僧がぼた餅を持って現れ、それを食べた母子がともに元気になった。以来この地蔵は子育て地蔵として信仰を集めたと伝えられています。また当寺には、江戸時代初期に造られたとされる不動明王坐像や、国学者鈴木重胤の墓があります。




小さなお堂の中には、見所ポイント5の「ぼたもち地蔵」様が立っておられます。どの地蔵様かは分かりませんが。



女子美術大学は昭和二十四年(1949年)に設置され、大学の略称は「女子美(じょしび)」です。東京5美術大学(多摩美術大学・武蔵野美術大学・東京造形大学・日本大学芸術学部)の一校となっています。明治三十三年(1900年)、当時男子校で女学生の入学を認めていなかった東京美術学校に対峙して創設された「私立女子美術学校」が前身となっています。私立美術学校としては最も歴史が長く、多くの女性美術家やデザイナー、クリエーターを輩出しています。また、日本で唯一の美術大学付属校として女子美術大学付属高等学校・中学校を併設しています。



見所ポイント6の「杉並能楽堂」は東京で二番目に古い能楽堂です。杉並能楽堂舞台は、狂言大蔵流山本東次郎家に伝存されてきた能舞台で、明治四十三年(1910年)本郷弓町に見所付能舞台として建てられ、震災後の昭和四年(1929年)に杉並区和田に移築再建されました。都内に現存する能舞台としては、靖国神社の芝能楽堂に次いで古く、舞台と見所を別棟として建てられた江戸時代の「式楽」としての演能形式をとどめるものとして、演劇建築史上からも貴重な遺構となっています。

杉並能楽堂

能楽堂は、能・狂言の上演のために作られた劇場で、屋根のある能舞台と見所(観客席)とを、ともに屋内に設けた建物です。この能楽堂は、能楽師、大蔵流狂言方二世山本東次郎則忠が、明治四十三年(1910年)、弟子の渡辺勝三郎(銀行頭取)の援助で、本郷弓町(現文京区本郷二丁目)に創建したものです。その後、昭和四年(1929年)当地に移築再建されました。都内にある能楽堂の中で二番目に古く、また自然光の中で能・狂言を鑑賞できる東京で唯一の舞台と言われています。創建にあたっては、二世と懇意の彦根藩井伊家に残る江戸城三の丸の図面をもとに、舞台はもちろん橋掛り(舞台左手の渡り廊下、実質上は舞台の延長)に至るまで、当時そのままに再現されたといいます。鏡板(舞台正面の羽目板)の老松も下図どおりに描かれ、絵筆をとったのは弟子の正木白羊です。当時若かった三世(現当主四世の父)も絵の具を溶いたりして手伝ったそうです。松の緑の葉の絵具は、緑青を使っています。能舞台に出入りするロは、鏡の間(出演前の控えの間)から橋掛りへ出る幕口、舞台右側の地謡座の奥の貴人口、更にその奥の切戸口の三つがあります。貴人口は広く、切戸口は狭く作られており、江戸時代の名残をとどめています。舞台の床下は束柱を立てない特殊構造で、甕がうめてあり、共鳴効果を高めています。この能楽堂では、狂言大蔵流の東の名家として、四世山本東次郎氏を中心にした狂言会の他、能・狂言を愛好する一般の方々の発表会にも利用されています。




杉並能楽堂の少し先に地藏堂があります。「十貫坂」の地名の由来は、昔、中野の長者が十貫文の銭を埋めたとか、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったとか、付近から十貫文の入った壷がでてきたとか、幾つかの説があります。「中野長者」とは、紀伊国に生まれ、後に中野に移り住んで馬の売買や当時荒地だった中野付近の開拓を行い、財を成した鈴木九郎のことです。

民間信仰石塔

ここに建立されている石塔は、元禄五年(1692年)銘・正徳二年(1712年)銘の庚申塔、享保二年(1717年)銘の地蔵塔、建立年代不明の庚申塔一基と、地蔵塔二基の計六基があります。庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には本尊を青面金剛とし、不見(みざる)、不聞(きかざる)、不言(いわざる)の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍又は辻に多く建立されています。ここの石塔は、この辺りが武州多摩郡和田村字本村、又は砂利田と称された頃、この地域の講中の人々によって悪病退散、村民安全などを祈願して建立されたものといわれます。現在でもこの信仰の気持は変わらず、参拝に来る人も年々増えているとのことです。私たちも、このような文化財を一層大切に守りつづけたいものです。




マルエツプチ杉並和田一丁目店の外壁に緑の植栽がなされています。見所ポイント7の 「和田のやすらぎ」というのだそうです。外壁を凹ませて、そこに土壌を造成して何かを植えたみたいです。いろんな植物が混在してかなり手が込んでいますが、これで安らぎを感じる人はいるのかな?



中野富士見町駅に出ました。駅のすぐ横に神田川に架かる富士見橋があります。橋の名前の由来は、現在の都立富士高校南側あたりの高台から富士山が見えたことに因むということですが、昭和四十一年の住居表示の施行までは地下鉄の駅名が示すように富士見町という旧町名がありました。富士見橋の杉並区側には、区画整理を記念した大きな石碑が建ち、神田川の護岸の上には何ケ所かコンクリート柱が飛び出していて、その上に蟹・蛙・魚・亀などを形どった金属の飾りが据え付けられています。昔は長閑な田園地帯だったのでしょうね。この橋から中野新橋までの区間は、神田川の真下を地下鉄丸の内線支線が走っているということです。



見所ポイント8の「神田川・善福寺川合流点」は、中野区と杉並区の区境に位置する和田廣橋の地点で、ここから下流は神田川に一本化されます。善福寺川源流の遅野井の滝からは、11.3kmの地点になります。右の写真の上側が神田川、下側が善福寺川になります。



見所ポイント9の「地下鉄車両基地」は、神田川に沿って広がる広大な車両基地です。中野車両基地は、中野区弥生町五丁目にあり、東京メトロの車両基地および車両工場の総称です。車両基地の中野検車区と車両工場の中野工場から構成され、丸ノ内線の車両が所属しています。方南通り上に架けられた歩道橋から車両基地の全体が見通せます。



方南通りに面して広町みらい公園があります。広町みらい公園は、国家公務員宿舎の跡地に令和元年(2019年)9月23日に開園したばかりの、住宅地に広がる憩いとにぎわいの空間として整備されました。子どもから大人まで誰もが緑の心地よい空間の中で、余暇やレクリエーションを楽しむことができ、傾斜地に設置された大型複合遊具や壁のぼり遊具など、楽しく遊べる遊具がそろっています。災害時に一時的に避難ができる公園として、災害用マンホールトイレなどの防災設備を設けています。公園の入口横には、体験学習センターの建物があり、音楽や工作・ヨガなどのスポーツの教室など様々なイベントが開催されています。公園奥の高台には、東京都住宅供給公社のコーシャハイム中野弥生町の高層住宅が聳えています。眺望最高、駅近、方南通りには巨大ホームセンター、そして目の前に広い公園、若い子育てファミリーには最高の環境です。



ゴールの方南町駅にやって来ました。方南町駅には何ケ所かの出入口がありますが、出入口2は方南銀座商店街の中程にあります。かなり窮屈な場所ですが、お帰りの買い物には便利ですね。



ということで、「3.和田・堀ノ内編 新高円寺・方南町コース」を歩き終えました。和田・堀ノ内編はこれで最後で、次は「永福・和泉編」となります。杉並区のまた違った一面が見られるのではないかと楽しみです。




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