- 4.永福・和泉編 西永福・方南町コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「4.永福・和泉編 西永福・方南町コース」を歩きます。京王井の頭線西永福駅をスタート地点として、東京のへそと呼ばれる大宮八幡宮に参拝し、神田川遊歩道を散策した後、南台の寺社仏閣を巡ります。
「4.永福・和泉編 西永福・方南町コース」の歩行距離は4.7km、歩行時間は1時間30分です。
スタート地点:京王井の頭線西永福駅北口
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- 1.高千穂学園武道場
- 大正二年に、ドイツ様式の最先端技術を用いて建てられた区内最古の木造学校建築物で、区の有形文化財です。見学は事前に電話予約が必要です。
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- 2.大宮八幡宮
- 平安時代の創建で、23区内3番目の広大な境内を持ち、大宮という地名にもなりました。大宮八幡社叢(社叢:神社において社殿や神社境内を囲うように密生してる林)は東京都の天然記念物です。
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- 3.大宮の杜緑地
- 和田堀特別緑地保全地区内の大宮八幡宮参道南側に、既存樹木を残して整備された緑地で、豊かなみどりの中を散策できます。
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- 4.大圓寺
- 徳川家康が開基となって建立されたといわれ、明治四十一年(1908年)に現在地に移転してきました。仁王尊をはじめ多くの石像があります。
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- 5.永福北ろーど
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- 6.送電鉄塔
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- 7.神田川
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- 8.かんがえる
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- 9.神田川・環状七号線地下調節池の取水口
- 神田川中流域の洪水対策として、環七通りの地下約50mに約54万立方メートルの洪水を貯留できる調節池がつくられています。
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- 10.東運寺
- 通称「釜寺」。山椒大夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を身代り地蔵尊が助けたという伝説から、本堂の屋根に釜が置かれています。
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- 11.大山神社
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- 12.方南銀座商店街
- 方南通りは新宿と井の頭線西永福駅前を結ぶ都道ですが、環七通りとの交差点の方南町駅付近は賑やかな商店街になっています。
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ゴール地点:東京メトロ丸の内線支線方南町駅出入口3a
スタート地点の京王井の頭線西永福駅北口から歩き始めます。かって、改札口は南口の一ヶ所のみで、ホームと駅舎間は地下道で結ばれていました。その後、バリアフリー対応と踏切による交通障害を解消するため、橋上駅舎化(北口開設・エスカレータやエレベーターの設置)と駅南北自由通路の設置が決定し、平成十九年(2007年)10月から工事を開始し、同年12月16日より、橋上駅舎改札と北口(北口エスカレータ・エレベーター・階段)と改札内エスカレータ・エレベーターの供用を開始しました(やけに早い!)。北口のエスカレータはスペースの都合上、上り方向のみの設置となっています。隣の駅の永福町駅とは700mしか離れておらず、浜田山駅も含めて両駅のプラットホームが見えます。
西永福駅に隣接して理性寺があります。大久保越中守忠辰・甚兵衛尉忠陰兄弟が両親の父荒之助忠富(法眞院日堯)・母久世氏(理性院日然)のために久世氏より土地を譲り受けて内藤新宿に創建したといわれています。大正三年に現在地へ移転しました。境内左手の大黒殿には「火伏せの大黒天」と呼ばれる高さ約12センチメートルの木彫りの大黒天が安置されています。寛政六年(1794年)に御殿医の木村検校により奉納されました。
理性寺
当寺は法華宗法真山理性寺といい、本尊は十界諸尊の曼荼羅です。「御府内備考続編」によれば、当寺は承応三年(1654年)、大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当夫妻を開基として、その菩提のために創立したものです。寺名は、夫妻の法名、法真院殿・理性院殿に因んで法真山理性寺としました。創立にあたっては、内藤新宿四谷大木戸(現新宿区新宿一丁目付近)に、大久保家下屋敷の名義をもって草創し、後に老中久世大和守広之の許可により、境内地として使用することになったと伝えられています。現在地に移転したのは大正三年(1914年)です。境内の左手には大黒殿があり、中には「火伏せの大黒天」と呼ばれる高さ約12センチメートルの木彫りの小さな大黒天が安置されています。この大黒天は、高祖日蓮の作と伝えられ、お経の「経」の字を形取っており、寛政六年(1794年)御殿医木村検校によって奉納されたものといわれています。「火伏せ」の由来については、当寺が新宿に在ったころ、近隣火災の折、大黒天が大団扇をもって現れ、類焼から守ったことによると言われております。以後、火伏せの守り神として今も、甲子の日に「大黒天甲子祭」が行われています。墓地には、戯作者伊庭可笑・幕府医官林恒斎・初代杵屋三五郎の墓等があります。
参道入口の脇には、「大黒尊天」と彫られた石碑が建っています。理性寺には、日蓮の作といわれる「火伏せの大黒天」という大黒天像が安置されています。この大黒天は、火災の時に大団扇をもって現れて、火災を防いだという逸話から「火伏せの大黒天」と呼ばれるようになりました。大黒尊天像は拝めませんでしたが。
日蓮大聖人御直作
開運火伏 經の字(お経の「経」の字を形取った)大黒尊天
当寺に安置し奉る大黒尊天御像は日蓮大聖人自ら御枕木を以って「經」の字をかたどり彫刻あそばされた尊き御像であります。この大黒尊天には「貧しき者には福を、病人には薬をあたえ、無知の者は知者に、短命の者は長命に、悪心の者は善心となす」という御誓願があり、深く信ずる者は「現世安穏。福祐自在。来世成仏。得脱疑無し」と考えられております。昔、四谷大木戸にあった当寺も大黒尊天安置以後は一度も火災にかかることなく、世の人は開運火伏の大黒天として尊崇したのであります。当寺におきましては毎甲子(キノエネ)の日に大祭を修行しております。是非御参詣の上福徳開運をお祈り下さい。
見所ポイント1の「高千穂商科大学武道場」は、鉄筋の建物ばかりの構内の奥にひっそりと佇むドイツ様式の木造洋風道場で、区内に残る学校建築物としては一番古い建物です。武道場は、大正二年10月に柔・剣道場として、高千穂商科大学の前身である高千穂高等商業学校の一連の校舎とともに建てられました。現在も建築当時のままの姿で、合気道場として利用されている貴重な文化財です。建築仕様は、木造・平家建、切妻、棧瓦葺、玄関張り出し付きで外壁は下見板張になっています。内部床も板張りで、床下にはスプリングを入れて衝撃の吸収を図り、また、甕を10ヶ所にいけて吸音効果を高めるなど、屋根を支える洋風小屋組とともに、当時のドイツ様式の設計による学校建築技法をよくとどめています。さらに、武道場は当初から現在地にあり、明治末期から大正初期にかけて、私立学校の郊外進出が盛んであったことを裏付ける歴史的資料でもあり、区内最古の木造学校建築物として建築史的にも貴重なものです。見学はおもんばかれましたので、敷地の外から建物の一部のみ見させてもらいました。
成田かっぱ公園は、民有の松林を買収して造られました。公園の名前は、昔近くの善福寺川でかっぱを見たという話に因んでいます。正面入口はモニュメントの建つ石張舗装のテラスで、奥に壁から滝が落ちる壁泉と池があります。壁泉の裏の植込みから石張りの流れがあり、夏には子供達がかっぱのように元気に水遊びをしています。流れのそばには石積みがあります。公園のほぼ中央に立つのが1本のクロマツの古木です。傍らにはすべり台つきの木製遊具があり、その周りにはエンジュ・スギ・エノキなどが立ち、地面にはクローバが植られています。一番奥は、パーゴラとベンチをそなえたテラスがあり、休憩するのに適しています。
見所ポイント2の「大宮八幡宮」にやってきました。南参道入口は自動車社会に対応するために、昭和五十八年の御鎮座920年記念事業で整備され、そこに聳える朱色の大鳥居は日本初のステンレス製の鳥居として建立されました。今日は6月30日です。参道脇には夏越大祓の幟がずらりと並んでいます。大祓は、罪や穢れを祓うための行事で六月と十二月の晦日に行われる行事です。六月の大祓は夏越大祓(なごしのおおはらえ)、十二月の大祓は年越大祓(としこしのおおはらえ)と呼ばれています。大祓は、701年の大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定めらました。衣服を毎日洗濯する習慣や水などのない時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい服に替える事で疫病を予防する意味があったとされています。
結婚式場がある清涼殿を出た右手には「幸福撫でがえる」石があります。清涼殿を出た後には誰にでも幸福が得られるようにと名付けられたそうです。
清涼殿には、ティーラウンジと共にお土産コーナーがあり、「幸福がえる バームクーヘン」も売られています。大宮八幡宮は東京の「臍」に相当する位置にあるとかで、ラウンジでは胡麻で覆われた求肥(粉状のもち米や白玉粉に水飴または水や砂糖を入れ練り上げたもの)に包まれた粒あんが臍を想わせる「へそ福餅」も頂けます。
車も夏越大祓が受けられる?神社の大祓はあちこちで見かけましたが、車用は初めてみました。でも、大祓の作法に則った茅の輪くぐりではなく、あくまでもお祓いだけのようです。さすがに車を運転して茅の輪くぐりはできないでしょう。
大宮八幡宮は緑濃い樹林に覆われていますが、社叢そのものが東京都の天然記念物に指定されています。
東京都指定天然記念物 大宮八幡社叢
大宮八幡宮の参道や社殿を取り囲む社叢です。昭和八年10月に指定されたもので、指定当初は、マツ(クロマツと思われる)やスギの見事な社叢が見られたとされます。現在は、ヒノキが最も多く、ヒノキは本殿裏の樹林地に集中しています。全体としてはクスノキやシラカシなどの常緑広葉樹、ソメイヨシノなどの落葉広葉樹の社叢へ変わってきています。しかし、隣接する和田堀公園と一体となった樹林帯は貴重な空間となっています。
Natural Monument (Plant)
Omiya Hachiman Shaso
This forest surrounds the approach and the shrine buildings in Omiyahachimangu. It was designated a natural monument in October 1933. It is said that the splendid forest consisted of pines (probably Japanese black pine) and cedars at that time. Now Hinoki cypress are the main trees, which grow especially behind the main hall. As a whole, it is changing to broadleaf forest with evergreen broad-leafed trees such as camphor laurel and quercus myrsinaefolia blume, and deciduous broad-leaved trees such as Yoshino cherry. This woodland, which spreads to the next Wadahori
park, provides a precious space.
「茅の輪くぐり」は、素盞鳴尊とされる武塔神に善行を施した蘇民将来が、茅の輪を腰につければ疫病に掛からないと言われた古事に由来するとされています。
大祓・茅の輪神事について
大祓は年二回(六月三十日午後四時・十二月三十一日午後四時)私どもが知らず知らずにおかすいろいろの罪穢を人形に移して祓い清め、更に茅の輪をくぐる事によって罪を祓い、幸福と繁栄を祈る日本古来の年中神事です。
戌(犬)はお産が軽く、一度にたくさんの子犬を産むことから、昔から安産の象徴とされてきました。干支の「戌の日」は12日に一度あり、安定期に入る妊娠5か月目の最初に迎える戌の日に神社へ安産祈願のお参りをする「戌の日参り(帯祝い)」が昔からの慣習として伝わっています。戌の日参りでは、まず安産祈願のご祈祷を受け、妊婦のおなかに腹帯(岩田帯)と呼ばれる帯を巻きます。最近は帯を頂くだけの場合もあります。神社での行事はここまでですが、お参りのあとに祝い膳として食事会を行うことも多いようです。妊婦さんはお酒は御法度ですが。境内には安産を願う妊婦さんの絵馬がびっしりと掛けられています。
銀杏の木には水分が豊富に含まれていることが知られています。なので、銀杏の木は燃え難いのです。銀杏の木に雷が落ちても燃え上がったりしないばかりか、落ち葉ですら燃えません。燃えにくい樹木を敷地内に植えることで、大切な建物に火災が発生しないよう願いが掛けられているのです。大宮八旛宮の境内には一対の夫婦銀杏の大木が聳えています。「夫婦はかくのごとく仲むつまじくあるべし」と、梢高く茂り合っています。十一月ともなると、秋風に色づいて境内に彩りをそえてくれます。男銀杏の高さは約26mだそうです。落ち葉と銀杏の実の掃除が大変そう。
参道を進んで正面に見えるのが、総檜造りの大宮八幡宮の社殿です。現在の社殿は、鎮座900年を記念して造営され、昭和四十年に竣功しました。
大宮八幡宮には、境内社として大宮天満宮が鎮座しています。大宮天満宮は、学問の神様として知られる菅原道真公を祀る神社です。京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮、大阪の天満宮などが有名ですが、大宮天満宮でも合格祈願のお詣りが盛んです。案内板の読み取りは途中で挫折しました。
大宮八旛宮の表参道には第一鳥居が聳えています。昭和二十九年に再建されたもので、柱の径は90cm・高さは8mの大鳥居です。第一鳥居から社に向かって250m程の石畳の参道が続いています。頭上には桜が枝を伸ばし、4月には満開の桜が参拝者の目を楽しませてくれます。また、表参道の両脇には沢山のつつじが植わっています。社叢につつじが多いのは、徳川三代将軍家光公の発願で千本の山つつじが植えられ、満開時には境内が紅に輝いて「山照らし」と称されたという由緒によるものです。その後もつつじが植えられ、5月の連休中には「わかば祭り(春の大祭)」として、5月1日の朔旦祭に併せてつつじ育木祭を、5月4日には全国植樹祭に合わせ植樹祭が行なわれています。5月3日にはお稚児さんが稚児衣装に着飾って色とりどりのつつじの咲き乱れる中を練り歩きます。
見所ポイント3の「大宮の杜緑地」は、大宮八幡宮に隣接した鬱蒼とした樹林が茂る緑地です。面積2.9ヘクタールの和田堀特別緑地保全地区内に公園があることから、可能な限り既存樹木を残し、緑豊かな緑地として整備されています。坂を上がった先には木陰を提供してくれる大きな楠が聳え、その先にはモミジが水面に映る池がひっそりと佇んでいます。
大宮八幡宮参道と荒玉水道の通りの小さな交差点に「祭馬塔」があります。宮家から拝領し、陸軍将校が乗ってきた馬が骨折してここで亡くなったことから建てられたそうです。現在は交通安全の守り観音になっています。
東京でも珍しくなった足袋屋さんが今も営業しています。神社にお祭りはつきものなので、まだまだ需要はあるのかも。
八幡太郎義家が鞍を掛けたという松の木が民家の一角に聳えています。根元はぐにゃりと曲がっていますが、その先は真っ直ぐに伸びて、建物の屋上よりも高く枝を広げています。それと似たのが北千住の清亮寺門前に植わっていた「槍かけ松」です。清亮寺の門前の老松は、枝を四方に張り、幹が2メートル程の高さから屈曲して水戸街道の上に覆いかぶさっていました。ある年、江戸入府のために水戸を出発した徳川光圀の行列がこの寺の近くに来ました。行列の槍持は、どんなことがあっても槍を傾けたり倒すことはできません。しかし、そのまま槍が進むと清亮寺の老松の幹にぶつかってしまうのです。普通の大名ならば、天下の往来を妨げ、行列の邪魔だからと、文句を言わせずに松の幹を切らせてしまうところですが、光圀は休憩の命令を出したかと思うと、問題の大槍を老松の幹に立てかけさせました。そして、お供の者たちと老松の風雅な容姿やこの辺の景色を眺めながら、お茶をすすったということです。出発するときには反対側から槍を持ち替えました。この風流を解した光圀の名采配ぶりにお供の者はもちろんのこと、住職や付近の村人たちまでが感涙にむせんだということです。このようなことがあってから、いつとはなしに、老松を「槍かけ松」とよぶようになり、清亮寺は槍かけ松のある寺として有名になり参詣人も多かったということです。
鞍掛けの松
この前の道は、大宮八幡宮の参道です。参道に面して、「鞍掛けの松」があります。この松の名称は、平安時代の武将・源義家(1039年〜1106年)が、奥州遠征の折、この松の枝に馬の鞍を掛けた、という伝承に由来します。この伝承は、「江戸名所図会」(江戸時代の地誌)にも紹介されています。松そのものは代替りしていますが、こうした伝承が地元に長く語り伝えられてきたことは、この地の歴史の古さを物語るものといえます。
参道を抜け、大宮八幡入口交差点からお洒落な永福通りに入ります。「赤酒の店」という酒屋さんがあり、ショーウインドウに日本酒が並べられています。見たところ、ボトルに入っているお酒は普通の透明な色で、赤酒は店内で売られているようです。赤酒は古くから熊本地方に伝わる酒で、灰持酒(あくもちざけ)といわれる酒の代表的なものです。米を原料に、清酒と同じような工程で仕込み、「もろみ」に木灰を投入することで、酸敗を防ぎ保存性をよくするという、日本古来からの製法を受け継いだ酒です。もろみに木灰を入れるという日本の酒の製法は、古くは平安時代の「延喜式」の中の記述にまでさかのぼることができます。酒に熱を加え保存性を高める「火入れ」という方法が確立するまで、酒は今で言う「生」のものが普通でしたが、当時の環境ではややもすると「火落ち」が起こりました。火落ち菌により酒が酸敗しそうになったときに、強アルカリ性の木灰を投入することで酒の酸を中和して保存性を高めるという先人の知恵はその後長く日本の酒造りで取り入れられ、中世の頃は灰を入れないでできた酒が上等で、灰を入れた酒は下等酒とされていました。熊本では、加藤清正が熊本城を築城した頃にはすでに赤酒が庶民の酒として親しまれており、またその頃加藤家から大阪の豊臣家に熊本の名産として献上されたという記録もあります。江戸時代になると肥後細川藩では赤酒を「お国酒」として保護し、赤酒以外の酒の製造を禁じ、また他藩からの酒の流入も禁じました。気候の温暖な熊本では、せっかく仕込んだ酒が火落ちしてしまうことも多く、貴重な酒を無駄にしないための、藩の政策だったと考えられます。明治時代になり、他県から製法の改良により酒質が向上した清酒が流入してくると、酒の需要は清酒に傾き、旧来型の仕込みで造られた粘重な酒である赤酒の需要は大きく後退しましたが、それでも昭和初期まで赤酒は熊本の多くの蔵で造られていました。しかし、その後第二次大戦中、ついに赤酒は製造が禁じられ、一時は完全に市場からその姿を消してしまいました。戦後「やはり熊本の地酒は赤酒。お屠蘇や御神酒には赤酒がないと寂しい。」という声に押され、赤酒を復活させたところ、御神酒やお正月のお屠蘇酒として、また熊本ならではの料理酒としてその需要を回復しています。熊本では「料理に赤酒」というのは昔からの習慣でしたが、近年その調味効果が注目され、全国の板場で使われる料理酒としてその需要が年々拡大し、「肥後の伝統酒」から「板前さんの料理酒」へと活躍の場を広げています。
見所ポイント4の「大圓寺」は永福通りの入口近くにあるお寺です。
大圓寺
当寺は泉谷山と号する曹洞宗(禅宗)の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば、慶長八年(1603年)に徳川家康が開基となって、江戸赤坂溜池のあたりに大渕寺の名で建立されました。開山は諦巌和尚(武田信玄の弟)と伝わります。しかし、寛永十八年(1641年)正月に発生した江戸の大火で諸堂を類焼し、跡地は御用地として召し上げられ、その代地として伊皿子に寺地を拝領して移転しました。そのころ、大渕寺の寺名を大圓寺に改めています。江戸で死去した薩摩藩主島津光久の嫡子綱久の葬儀を延宝元年(1673年)に行って以来、藩邸に隣接する当寺は、島津家の江戸における菩提寺となりました。寺内には薩摩家代々の位牌堂が設けられています。このころ、当寺に塔頭として福寿院(本尊・釈迦如来)、門能院(本尊・阿弥陀如来)の二院が建立され、それぞれ大名の保科、旗本の五井・松平・本多・土方の諸家中、町人衆を檀徒として隆盛を極めました。明治四十一年(1908年)、寺院の発展をはかり、この二院の塔頭を併合して現在地に移転し、今日に至っています。境内には、石像の仁王尊や寛永二年(1625年)に芝浦の海中から出現したといわれる塩見地蔵尊石像、また島津家寄進の宝筐印塔・六地蔵尊があり、墓地には益満休之助他七十五名の名を刻んだ「戊辰薩藩戦死者墓」並びに横山安武・八田知紀等の墓があります。ほかに、当寺近辺から出土した板碑も所蔵されています。
見所ポイント5の「永福北ろーど」は、方南通りから井ノ頭通りに向かって約1km続く商店街です。平成二十六年(2014年)に電柱・電線の地中化と路面のカラー舗装が完了しました。確かに、上空がスッキリ見えていますね。
見所ポイント6の「送電鉄塔」です。普段はあまり空を見上げることがないので気が付きませんが、永福町には巨大な送電鉄塔が林立している場所があります。地図を見ますと、大圓寺の奥の方に東京電力の和田堀変電所があるようです。水力・原子力発電所は多くの場合、電力消費地から離れた場所に設置されます。また臨海部の火力発電所も発電出力が大きく大容量の送電では送電線の発熱が問題になります。このため、送電する際はより高電圧かつ低電流に変換して送電ロスを低下させる方法をとっています。消費地の真ん中に変電所を設けるのは、少しでも電力を無駄にしないためなのです。
見所ポイント7の「神田川」の遊歩道を歩きます。そろそろ巣立ちの時期でしょうか、親鴨が一列に並んだ子鴨に向かってこれからの生き方を説いています。
見所ポイント8の「かんがえる」が遊歩道の脇の草むらで何か考え事をしています。今夜は赤ワインにするか白ワインにするか、はたまたスパークリングワインにするか?
見所ポイント9の「神田川・環状七号線地下調節池の取水口」です。最近はあちこちの都市河川で調節池が造られ、上部は公園などに活用されています。しかし、都心部ではなかなか用地が確保できず、奇想天外にも環七の地下に調節池を造るといった仰天アイデアが実現しました。シールドマシン等の大型掘削機がなかった時代には考えられなかったことです。
神田川・環状七号線地下調節池
神田川・環状七号線地下調節池は、環状七号線の道路下(約40m)に延長4.5km、内径12.5mのトンネルを設置し、水害が頻発している神田川流域の洪水を貯留するものです。
- 1)第一期事業
- 第一期事業は、神田川の洪水を約24万立方メートル取り入れる神田川取水施設とその洪水を貯留する延長2.0kmのトンネルを設置しました。昭和六十三年度から事業着手し、平成九年3月に完成および同年4月より調節池として供用を開始しています。これにより、調節池下流では、洪水に対する安全性が大きく向上しています。
- 2)第二期事業
- 第二期事業は、善福寺川の洪水を約30万立方メートル取り入れる善福寺川取水施設とその洪水を貯留する延長2.5kmのトンネルを設置するものです。平成七年度から事業着手し、善福寺川取水施設の立坑工事および妙正寺川発進立坑工事やトンネル工事の早期完成をめざします。
この環七の地下50mに総延長4.5km、内径12.5mのトンネルがあるとはドライバーの皆さんは想像もつかないでしょう。東京に核攻撃があった際には、何万人かは避難できそう。もっとも、そういった目的の緊急用出入口が設けられているかは知りませんが。
神田川流域案内板 神田川の治水
戦後の急激な人口増加は、それまで雨水を保水・浸透していた田畑や湿地を宅地に変えることとなりました。そのため、雨水が短時間で川に流入し、いっぱいになった水があふれ出し川が氾濫する、「都市型水害」が頻発するようになります。美しい田園風景が失われるにつれて、人々は川に「利水」(灌漑用水他)の役割よりも「治水」(排水機能)の向上を求めるようになりました。そして、昭和三十三年(1958年)9月の狩野川台風(22号)による記録的な被害を機に、川の幅や深さを広げるなど、本格的な河川改修事業が始まりました。ここ方南・和泉地区の流域では、その後も度々、浸水被害を受けましたが、河川改修事業の促進や平成二十年に完成した環状七号線地下調節池により、水害の軽減が図られ、安全性が大きく向上しています。
見所ポイント10の「東運寺」です。環七を走るバスに乗っていると、「次は釜寺ですぅ」というアナウンスがあります。釜寺って何だろうと思っていましたが、東運寺のことだったんですね。「釜寺」の通称で親しまれている念仏山東運寺は、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺で、「釜寺」という通称の由来となった「身代わり地蔵尊」が安置されています。戦国のころ、天正元年(1573年)に備前の僧一安上人が安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を奉じてこの地に来ました。これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたのが東運寺の開創と伝えられています。この「身代わり地蔵尊」は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王をお坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで東運寺本堂の屋根に釜を置いたといわれています。現在の大釜は、昭和二十年の空襲で本堂が焼失した後に地域の信者が寄進したもので、米一俵を炊くことができるということです。
東運寺
当寺は、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺院で、「釜寺」という通称で親しまれています。元禄十四年(1701年)頃に当寺の住職であった祐梵上人筆の由緒書によると、天正元年(1573年)、備前(岡山県)の僧一安上人が当地に来て、安寿と厨子王の守り本尊「身代り地蔵尊」を奉じ、これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進、念仏堂としたのが当寺の開創と伝わります。大正十一年(1922年)、下谷入谷町にあった東運寺(慶安四年<1651年>、茂山上人開山)と合併し、念仏山東運寺と山号と寺号を改めました。「釜寺」という通称の由来となった「身代り地蔵尊」には、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれています。現在の大釜は、昭和二十年(1945年)の戦災で本堂焼失後、当地の檀徒が寄進したもので、米一俵(60キログラム)を炊くことができるといいます。当寺には、元禄二年(1689年)の刻銘のある半鐘や江戸初・中期の庚申塔や石仏などが保存されています。また、「鉦冠薬師」と呼ばれる木造仏も安置されており、本像は寺伝によると徳川第十三代将軍家定公に縁があるとされています。山門は、一関藩主であった田村右京太夫建顕の江戸屋敷脇門を移築したもので、赤穂藩主であった浅野内匠頭長矩が切腹の折に通ったと伝わります。そのほか、中国山東省の孔子家より贈られた銘木「楷樹」が数株植えてあるのも珍しいです。
山門はもと田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠頭が通ったと伝えられる)でしたが、その縁の人々の冥福を祈って寄進保存されたものです。
山門縁起
この山門は元禄の頃、芝田村屋敷の脇門にして、浅野内匠頭是れを通ると伝う。明治末葉、三井総本家これを今井町に移し、元織田有楽斎如庵の茶室(国宝)の表門となせるも、用うること稀なりしが為め、「開けずの門」と称すと。戦中解体保管しあるを、適々昭和二十八年同家御当主元男爵三井高公(襲名八郎右衛門)殿より当山中興精誉桂巌上人に寄進せらる。因に 当山門は、屋根瓦は当初田村公の時、明治末三井家の時、当山に再建の時の三種あり、釘は全く用いず、組合せ式。門自体約五分内側へ傾けてある由。門扉開閉確実の為めとは古昔の工匠修錬実績の智慧に無限の敬意を表せんものを。茲に、昭和三十年七月七日建立、落慶法会を修す。
私は見ませんでしたが、半鐘も保存されているようです。山門の前に案内柱が立っています。
元禄二年銘半鐘
当半鐘は口径三十三センチ、高さ五十八センチで良く整った形をしています。龍頭は双頭を背合せにし、その上に蓮座をもつ宝珠を置き、笠形は饅頭形で甲盛りが高く、池の間には元禄二年(1689年)、中興開山定蓮社正誉幡可和尚の時に方南村の当寺に寄進された旨が鮮明に刻されています。鋳造者は湯島霊雲寺の梵鐘で著名な江戸の鋳物師田中丹波守重行です。本鐘は区内に所在する梵鐘のなかで最も古い年記を持つもので、銘文により東運寺の歴史を示す貴重な資料です。
磯野霊山(1878年〜1932年)は、九州佐賀に生まれ、東京美術学校を卒業後、権力争いを繰り返す中央画壇に嫌気がさし、創立間もない長岡市の高田日報に入社し、10年余り新聞記者として滞在しました。晩年の越陳人をたずねて深く心酔し、私淑したエピソードが残っています。東京に戻ってからは小川芋銭と生涯にわたり交流を続けました。
磯野霊山(明治十一年六月二十九日生〜昭和七年七月十一日)
佐賀県生まれの俳画家、禅画家、書家。親交のあった吉川英治氏に「水墨の自由と玄味をあれほど画精進ににじみ出してみせた芸術家は、近代画家中において、磯野霊山を第一に推し(て)もいい」といわれる。東京美術学校を卒業後、新潟県高田日報にて記事挿絵を描く。当寺第三十三世桂巖と親交があり一時境内に居を構えて創作活動に励む。独自の芸術への信念を貫き通し、五十五歳で亡くなり当寺墓地に眠る。正面の霊山子之碑、
「おれとして にらめくらする 蛙かな 霊山子」
碑に向かい合うように蛙石がおかれている。
見所ポイント11の「大山神社」の狛犬がちょっと変わっています。狐ではなく、オオカミなのです。牙があり、足のつめも鋭く、「大山神社のおおかみ狛犬」と呼ばれています。
多田神社は中野区の南台にあります。長〜〜〜い由緒書きには、平安時代中期の武将源満仲(多田満仲公)の功績が長々と記されています。
多田神社御由緒
満仲公は第五十六代清和天皇の御曾孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で、国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き武門の棟梁たる勅諚を賜わり、国家鎮護の大任を果されたるのみならず、或は沼池を開拓して広大な田畑を造成し、或は河川を改修して農耕の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその威力は関東に及び、特に雑色村の文化向上に尽された事蹟は尠少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。その第二子は歴史上著名なョ光公であり第四子頼信公は平忠常を討ち、関東を平定した。続いて頼義、義家の父子二公は前九年、後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴き、その凱旋の帰途、寛治六年(1092年)祈願達成の報賽として大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料(領?)の地である当地に日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には「多田権現稲荷合社」と記されている。慶長二年社殿を再建、更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治十四年改築し、また明治四十四年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦後、氏子の急増により昭和三十五年社殿を改築したのが現在の社である。
「雑色」とは鎌倉時代に宮中の雑役を務めた職位ですが、当時の関東地方にそのような役割の人が住んでいたとは思えず、地名の由来は分かりません。
雑色村と多田神社
現在の南台の地域は、古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は、約九百年前、寛治六年(1092年)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正十九年(1591年)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。「雑色」とは、皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。
多田神社の狛犬は子持ちファミリーです。母狛犬は子をあやし、父狛犬はボール遊びに誘っています。
寶福寺の創建年代は不明ですが、寺伝によりますと、聖徳太子が諸国巡遊している際に、この地に寶福寺を建てたとされています。隣にある多田神社の旧別当寺でもありました。境内には筆塚碑が建っています。
筆塚碑
この「筆塚」の字は、戸村直衛という人が書いたもので、明治の初めに建てられたと考えられます。戸村氏は、明治三年(1870年)、雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園学校」の教師も務めました。身分・経歴は明らかではありませんが、家塾開業願や小学校設立伺書などによれば、若いころに幕府の関係者から、数学・書道・洋学を学んだ知識人であったことがうかがえます。江戸時代から明治五年(1872年)に学制が発布されるまで、庶民教育は民間の塾や寺子屋で行われていました。明治初め、中野にも戸村塾など数か所の私塾があったといわれています。明治四年当時、戸村塾の生徒は二十五名で、教場は宝福寺や村内の民家をあて、学制発布後も存続しました。この筆塚は、師弟の使用した毛筆を納めて供養し、学業上達を願ったものと考えられます。これは、中野の初等教育を物語るゆかしい記念碑です。
見所ポイント12の「方南銀座商店街」は、東京メトロ丸ノ内線支線の方南町駅から延びる方南通り沿いの商店街・西口商店街・中央通り商店街・ファミリー商店街を合わせた名称です。カラー舗装された道に並ぶ加盟店は、日常生活に密着した日用品店や青果店から飲食店まで、いつも賑わう多種多様なお店が150店舗ほど建ち並んでいます。街路灯がともり、夜まで明るく安心して日常の買い物ができる商店街です。
ゴール地点の方南町駅にやってきました。方南町駅は東京メトロの駅では数少ない他の地下鉄や鉄道路線と接続がない単独終端駅になっています。現在では方南町駅の他は千代田線の北綾瀬駅のみです。昔は3両編成の電車しかありませんでしたが、ホームが延伸された結果、現在では(一部)6両編成の池袋方面の直通電車が運行されています。
ということで、「4.永福・和泉編 西永福・方南町コース」の歩きを終えました。青梅街道周辺のビルが建ち並ぶ景観と違って、井の頭線沿線の住宅街は何となくお洒落で落ち着きます。中野区の散歩道と重なるところもありますが、山の手のお散歩を楽しみましょう。
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