5.永福・和泉編 永福一周コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「5.永福・和泉編 永福一周コース」を歩きます。京王井の頭線永福町駅をスタート地点として、神田川の遊歩道を散策し、永福町地域の寺町を巡った後、永福町の地名の由来となった永福寺を訪ねます。  

「5.永福・和泉編 永福一周コース」の歩行距離は5.4km、歩行時間は1時間50分です。

スタート地点:京王井の頭線永福町駅北口
↓ 
 1.屋上庭園ふくにわ
井の頭線永福町駅の屋上につくられた開放的な庭園で、富士山から新宿副都心までの眺望が楽しめ、夜は杉並の夜景が見渡せます。
 2.龍光寺
本尊の薬師如来は平安時代末期の造立です。区内最大の梵鐘は大晦日につくことができ、境内にある八十八ヶ所和泉霊場は土日・祝日に開場します。
 3.和泉熊野神社
旧和泉村の鎮守で、現在の社殿は文久三年(1863年)の造営です。境内からは縄文時代以降の遺物が出土し、クロマツの大木もあります。
 4.貴船神社
 5.杉並和泉学園付近の桜
 6.東京都水道局和泉水圧調整所
 7.井の頭街道碑
 8.幻の山手急行線の遺構
戦前に山手線の外側に急行環状線をつくり明大前を通す計画がありました。写真左2線分の使用されていない空間がその遺構です。
 9.水道鋼管
地下に埋設されている水道管が井の頭線を跨ぐために、上下二段の直径2.4m(上)と1.8m(下)の水道鋼管として地上に露出しています。
10.築地本願寺和田掘廟所
築地本願寺は関東大震災で焼失し、墓地は陸軍省火薬所跡の当地に移されました。樋口一葉をはじめ有名人の墓もあります。
11.永福町の寺町
この地区には多くの寺院が集まり静かな寺町のたたずまいを見せています。戦前に都心より移転してきて、戦災を受けその後再建されました。
12.永福寺
大永二年(1522年)の開創と伝えられ、村名もこの寺名に由来しています。古文書や文化財を多く所蔵し、西門脇には石仏が祀られています。

ゴール地点:井の頭線永福町駅南口


スタート地点の京王井の頭線永福町駅北口から歩き始めます。永福町駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業し、その後帝都電鉄が小田急と合併し、更に戦時下に小田急が東急に併合された後、昭和二十三年(1948年)6月1日に京王帝都電鉄として分離し、京王井の頭線の駅となりました。しかし、京王帝都電鉄という社名は平成十年(1998年)に「京王電鉄」に変更され、今日に至っています。



見所ポイント1の「屋上庭園ふく庭」は、平成二十三年(2011年)3月23日に開業した永福町駅ビルの「京王リトナード永福町」の屋上にあります。「リトナード(Retnade)」とは、スペイン語で「若い芽」を意味する「Reto(n)o」とフランス語で散歩道を意味する「Promenade」を組み合わせた造語です。屋上庭園「ふく庭」の名称は、一般からの投票により決められました。この場所から、幸「福」が街全体へ広がっていく庭にしたいという願いが込められています。シンボルツリーの桜をはじめ、四季折々の木々や花々が楽しめるほか、晴れた日には新宿副都心や富士山の景色が眺められます。



おおっつ!凄い迫力!でも、実際は左の写真はカメラの倍率を上げているだけで、肉眼で見たら右の写真のように見えます。ま、十分に眺望は楽しめますけどね。残念ながら、富士山は拝めませんでした。



大勝軒というと東池袋の大勝軒を思い浮かべますが、永福町大勝軒は池袋大勝軒とは全く関係のない店とのことです。創業は昭和三十年(1955年)ですから、昭和三十六年(1961年)に創業した山岸一雄氏の池袋大勝軒よりも前で、偶然同じ大勝軒という名前になったようです。創業者の草村賢治氏の家は杉並区堀之内で中華麺の製造・卸を営んでいました。その手伝いをし、父母から商人の心得を学び、永福町駅前で開業しました。開店してから暫くは、材料への拘りから、1杯35円のラーメンを作るのに27円掛けていたと言われています。これは開店から11年後の1966年に70円に値上げするまで続いたそうです。カツオ節や煮干など、魚介系のダシを使ったコクのある醤油スープと、他店の倍はある草村商店製の多加水の中細ちぢれ麺(20番)が永福町大勝軒のラーメンの特徴です。



見所ポイント2の「龍光寺」は真言宗室生寺派の寺院で、承安二年(1172年)に開創され、明応二年(1493年)に寂した龍観和尚が開山したとされています。元は和泉熊野神社・貴船神社の別当寺で、宝仙寺の末社(本社に付属し、その支配を受ける小社)でした。

龍光寺

当寺は、泉涌山医王院と号する真言宗室生寺派の寺院です。本尊は薬師如来立像で、杉並区内では珍しい平安時代末期(十二世紀前半)に造立されたものです。開創は、明治十年の書上げによると承安二年(1172年)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応二年<1493年>寂)と伝えられています。山号の「泉涌」は、和泉の地名の由来ともなった貴船神社(和泉三丁目−22)の泉に、院号の「医王」は、本尊の薬師如来に因むものといわれています。また寺号の「龍光」は、当寺すぐ下を流れていた神田川の源、井之頭池にすんでいた巨大な竜が川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。江戸時代、当寺の本尊は難病にご利益のある薬師如来として信仰あつく、護摩の煙が絶えなかったといわれています。戦時中の供出で今はなくなってしまった寛保二年(1742年)銘の梵鐘にも、「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と記されていました。なお現在の梵鐘は、昭和二十九年に造られたもので、区内では最も大きいものです。当寺に伝わる文化財としては、室町期に作られたといわれる興教大師像、文明二年(1470年)銘・明応五年(1496年)銘の板碑のほか、江戸時代の庚申塔・供養塔など多数が所蔵されています。また、当寺は明治初年に廃寺となった慈冠山日照寺を合併しています。




石組みの土台の上に建てられた鐘楼(しょうろう・しゅろう)には、かって寛保二年(1742年)の銘が刻まれていた梵鐘(ぼんしょう)が吊り下げられていました。しかし、戦時中の金属類回収令で供出したため、昭和二十九年(1954年)に、杉並区内では最も大きいとされる口径四尺二寸(127cm)、重量404貫(1、515kg)の梵鐘を再鋳造しました。全国の有名寺院百か寺の梵鐘を突き歩き、それを参考にして京都太秦の鋳物師に作らせたそうです。天女と龍の図柄も素晴らしいですが、負けず劣らず音色も美しいとのこと。ちなみに、一般的に2分程度である余韻が、ここ龍光寺では3分も続くそうです。



境内の奥には新四国八十八ケ所和泉霊場があり、入口には一緒に廻って道中を見守って下さる弘法大師が待っておられます。四国八十八ケ所巡りは、弘法大師・空海縁の札所を巡って四国を全周する、全長1400キロメートルの遍路の旅です。真言宗の開祖として知られる空海は、今から1200年ほど前の平安時代に香川県善通寺市に誕生し、「お大師さん」という愛称で親しまれ、没後は「弘法大師」という名前を授かりました。四国で修行を重ねた空海によって選ばれた八十八カ所の寺院を巡り、功徳を積むとして始まったのが四国八十八ケ所を巡る遍路の旅なのです。



霊場は、阿波乃国(徳島県)・土佐乃国(高知県)・伊予乃国(愛媛県)・讃岐乃国(香川県)に分けられ、四国の霊場巡りと同じ八十八寺院の御本尊様が順番に並んでいます。



それぞれの台座には、第一番・霊山寺(本尊釈迦如来)から第八十八番・大窪寺(本尊薬師如来)まで、八十八寺院の番号と寺院名と御本尊様が施主名と共に記されています。たまたま見つけたのですが、神仏習合の歴史を色濃く残して「三間のお稲荷さん」として親しまれている、宇和島市三間町の第四十一番札所「龍光寺」は、和泉霊場があるここ龍光寺と関係はあるのでしょうか?



最後に弘法大師の座像にお参りして、新四国八十八ケ所和泉霊場巡りは満願となります。



山門から出る手前に巨大な石灯籠が建ち、その前に大師燈籠と彫られた巨石が置かれています。見た目かなり不安定な石積みのように感じますが、安政の大地震や関東大震災にも耐えたのですね。ストーンヘンジの巨石ではありませんが、どうやって積み上げたのでしょうか?



見所ポイント3の「和泉熊野神社」です。龍光寺は、明治の神仏分離まで隣にある和泉熊野神社の別当寺でした。

和泉熊野神社

当社は旧和泉村の鎮守で、祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと)です。社伝によれば、文永四年(1267年)に紀州(現在の和歌山県)熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安七年(1284年)に社殿を修造し、その後、北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大掛かりな改修を加えたと伝えられています。江戸時代には寛永十六年(1639年)と元禄九年(1696年)の両年に社殿の改修をおこなったことが、棟札によってわかります。「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の当社について「除地三百坪、村ノ北ノ方ニアリ、上屋二間四方、本社も五尺四方、拝殿二間半二二間、社前二木ノ鳥居ヲ立」と述べています。現在の社殿は文久三年(1863年)の造営で、明治四年に修復が行われています。当社の境内からは、かつて縄文時代の土器・石器、古墳時代の土師器なども出土しており、古い時代から人々がこの地で生活していたことがわかります。また、境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息した時に植えたと伝えられる松の大木もそびえています。




文久三年(1863年)に造営された社殿は大木に囲まれていますが、社殿の左手に聳えるクロマツは、幹回りが3.1メートル・樹高は17メートルほどあり、樹齢は400年と推定されています。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、赤松に比べて大形で葉は大きく、樹皮が黒褐色をおびています。近年クロマツは環境の悪化により都内では年々少なくなってきていますが、このクロマツは徳川家光お手植えの御神木とされ、古くから氏子の人々によって手厚い保護を受け、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものとなっています。



和泉熊野神社の少し先に、見所ポイント4の「貴船神社」があります。貴船神社は、京都市左京区にある貴船神社の祭神を勧請したものと伝えられています。京都の貴船神社は、全国に約450社ある貴船神社の総本社です。神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡ってかの地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えられています。社名の由来は「黄船」によるものとされ、奥宮境内にある「御船型石」が玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝えられています。

貴船神社

当社は和泉熊野神社の境外末社です。「新編武蔵風土記稿」は江戸時代の当社の姿を「除地一段、村の北の方にあり、小祠を東向に立つ」と記しています。創建は社伝では文永年間(1264年〜1275年)ともいわれますが、詳細は明らかではありません。祭神は高(おかみ)神(たかおかみのかみ)です。この神は山・谷あるいは川にすむ雨水をつかさどる竜神で、雨乞・止雨に霊力があるといわれています。当社はこの水を支配し豊饒を約束する神として信仰されていた、山城国(現京都府)の貴船神社の祭神を勧請したものと伝えられています。境内の池は御手洗の小池"と呼ばれ、かつてはいかなる干天にも涸渇することがなく、村民の雨乞を行う場所であり、その豊富な湧水から和泉"の地名は、この池に由来するともいわれています。また水質も大変良かったようで「豊多摩郡神社誌」は「里人は往昔此井より清酒を湧出せしなど云伝ふ」との伝説を伝えています。この伝説は今日も語りつがれています。しかし、この湧水も神田川の改修工事や周辺の宅地化にともない、昭和四十年頃以後は水が涸れてしまいました。当社は大正時代においても「木造萱葺、間口四尺、奥行三尺」という小祠にすぎませんでしたが、古くから和泉地域の人々の厚い信仰に支えられて今日に至っています。なお、現在の神明造りの本殿は昭和三十六年の造営で、落成を記念した石碑も建てられています。祭礼は五月五日です。




貴船神社の境内は狭く、路傍の社といった感じですが、その隅に「本殿落成の記念碑」なる板碑が建っています。昭和三十六年に建立されたようですが、碑文は殆ど消えかかっていて読み取るのは難しい状況です。

貴船神社

當社は文永年間の創(祀)と傅えられ、祭神は京都府鞍馬村貴船神社高(おかみ)神を奉済す。境内の泉池は水質清冽にして涸渇する事がなく、旧村名の和泉はこれに起因すると言われる。古来雨神として旱天には村人相集り雨乞を齊行し一般の尊崇するところであった。今回社殿の再建に當り、?家相寄り、これを記念して燈籠一封賽銭箱に奉納す。




小さな社殿の前に「御手洗いの小池」が枯れた状態で残っています。苔むしていますが、ついさっきまで水が湧き出ていたかのような感じがします。



今日は7月の中旬になろうとする日です。桜の木は青葉を通り越して夏仕様の緑葉になっています。見所ポイント5の「杉並和泉学園付近の桜」の木も夏の陽射しを浴びて光合成にやっきになっていますが、桜の季節にはさぞや絢爛たるお花見が楽しめることでしょう。



見所ポイント6の「東京都水道局和泉水圧調整所」は甲州街道と井ノ頭通りが交差する地点の北東側に広大な敷地を占めています。和泉水圧調整所は、和泉給水所とも呼ばれ、現在の上水道の水圧調整を行う施設です。この場所は、かつての上水道である玉川上水が江戸時代以来の旧水路と淀橋浄水場へ送水するために造られた新水路の分岐点となったところです。和泉給水所と甲州街道・井の頭線を挟んだ南側には和田堀給水所があります。大正十三年(1924年)3月30日に、羽村村山線導水路・村山上貯水池・村山下貯水池堰堤の下半分・境浄水場・境和田堀線送水管および導水路の一部とともに、和田堀浄水池として完成しました。このとき境浄水場と和田堀給水所をつなぐ直線の導水路を後に補強し、車両の通行ができるようにしたものが現在の井ノ頭通りです。



その和泉水圧調整所のフェンスの外に、見所ポイント7の「井の頭街道碑」が建っています。現在の地図では殆どが「井ノ頭街道」と表記されていますが、元々は「井の頭街道」という名称でした。井ノ頭街道は、境浄水場から和田堀給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路へ転用したため、以前は水道道路と呼ばれていました。そのため大半の区間が直線的な道路となっています。明治から大正期にかけての急速な人口増加により、当時の東京市は生活用水確保のために新たな水源を確保する必要がありました。そこで、東京市は狭山丘陵に上貯水池と下貯水池から成る村山貯水池(多摩湖)を設けて多摩川の水を貯め、その水を東京市へ給水することにしました。村山貯水池に貯めた原水は境浄水場へ送られて浄化され、和田堀給水所に貯留し、そして東京市の各家庭に給水されました。給水の開始は大正十三年(1924年)のことでした。村山貯水池から和田堀給水所へ至る導水管の埋設ルートのうち、村山下貯水池から境浄水場へ至るルートは村山境線、境浄水場から和田堀給水所へのルートは境和田堀線と呼ばれました。村山境線が埋設された地表面は、その後整備が進み、今日、「多摩湖自転車歩行者道」として多くの人々に親しまれています。境和田堀線も、埋設部地表面は当初から道路として利用され、周辺住民は「水道道路」と呼んで親しんでいました。しかし、昭和十三年(1938年)頃、近衛文麿元首相が荻窪に移り住み、自宅から議会へ車で通えるように、水道道路のうち、井の頭公園と和田堀給水所付近を結ぶ区間を舗装し「井の頭街道」と命名しました。井の頭公園を念頭に置いた命名で、井の頭公園より先の境浄水場は念頭になかったようです。昭和三十八年(1963年)、東京都は翌年に東京オリンピック開催を控えていたこともあり、東京の道路を分かりやすく、かつ親しみやすくするという目的で、1回目の通称道路名の設定を行いました。その会議で、井の頭街道へ和田堀給水所から渋谷駅前の井ノ頭通り入り口に至る区間の道路を新たに追加しました。これによって「井ノ頭通り」という名の道路が誕生したのです。



甲州街道と井ノ頭通りが交差する地点の北西側に甘酒屋という酒屋さんがあります。別に甘酒専門の酒屋さんということではなく、ちゃんとしたワインが売られています。30年位前にワインを買ったことがありますが、手頃で美味しいモーゼルワインでした。懐かしいですね。



和泉水圧調整所と井ノ頭通りを挟んだ反対側に、玉川上水公園の入口があります。玉川上水は江戸時代に江戸の町に飲料水を供給するために造られた上水路で、現在は一部が暗渠となって杉並区内を通っています。その暗渠の上に東京都水道局から借地してつくられた3つの公園と1つの緑地があります。下流から玉川上水公園、玉川上水永泉寺緑地、玉川上水第三公園、玉川上水第二公園の順に並んでおり、その全長は約2、000メートルにもおよびます。玉川上水公園は、井の頭線の明大前駅付近にあり、道路をはさんで3つの区画に分かれています。入口の先にあるのがステンレスパイプのモニュメントと色鮮やかな花壇が目を惹く広場です。真ん中の広場には大きなすべり台とクジラ・カニ・カメの遊具がおいてあり、とりわけクジラのつくりは見事です。東端にあるのがコンクリートと土の広場で、そこには砂場と擬木の登はん木があります。広場の前は明治大学和泉校舎で、もと徳川幕府から明治政府まで続いた兵器廠のあったところです。



見所ポイント8の「幻の山手急行線の遺構」です。永福町駅のところでも触れました帝都電鉄は、当初東京山手急行電鉄という社名でした。東京外周に約50kmにわたる環状鉄道路線を建設しようとしましたが、世界恐慌から波及した昭和金融恐慌の影響で計画は頓挫しました。計画の名残りとして、井の頭線が京王線・玉川上水の下をくぐる明大前駅付近の構造物には複々線分の用地があり、これは現在の井の頭線に加えて東京山手急行電鉄免許線が通ることを考慮した設計であったといわれています。



掘割のような半地下を通る井の頭線を跨いで、陸橋が架けられています。その欄干に沿って蔦のような植物に覆われた見所ポイント9の「水道鋼管」が線路上空に渡されています。一本に見えますが、上下2本が渡されているとのことです。上部は大口径の鋼管製水管橋で、今も現役で使用されているようです、下部はコンクリート管で、昭和四十年に淀橋浄水場が廃止になるまで水道原水をこの形で送り続け、今に残る玉川上水路の遺構となっています。



明治大学和泉キャンパスでは、法学部・商学部・政治経済学部・文学部・経営学部・情報コミュニケーション学部の1・2年生が学んでいます。学生の間では、駿河台への3年次進級後に和泉の必修科目を再履修することを「和泉返し」、留年することを「和泉止まり」と呼んでいるそうです。明治大学は駿河台における校舎用地不足から、昭和五年(1930年)に、予科校舎の和田堀町和泉新田旧火薬庫跡地への移転を決定しました。この地は江戸時代から武庫司所管の「御焔硝蔵」があった場所で、明治維新後も陸軍省の「火薬庫敷地」として利用されていました。京王電気軌道社長だった井上篤太郎の尽力もあり、昭和九年(1934年)に予科校舎が竣工し、翌年には最寄り駅として明大前駅が開業しました。



見所ポイント10の「築地本願寺和田掘廟所」は築地本願寺の分院です。大正十二年(1923年)の関東大震災で築地本願寺は壊滅的打撃を受けました。築地本願寺本寺は現地で再建されることになりましたが、築地本願寺の中にあった小寺院は各地に分散し、墓地は別の場所に移転することを検討することになりました。そんな折、陸軍省火薬庫跡地の払い下げ計画が出て築地本願寺が出願し、昭和五年(1930年)に払い下げが決まりました。昭和九年(1934年)に正式に開所し、2年前まで東京府豊多摩郡和田堀町だったことから「和田堀廟所」と名付けられました。



墓地には、佐藤栄作(元首相・ノーベル平和賞受賞者)、樋口一葉(作家)、九条武子(歌人・教育者)など多数の著名人の墓があります。また、築地本願寺の前身の「浜町御坊」時代に再建等に尽力した江戸佃島(現・東京都中央区佃)住民の墓もあります。

築地本願寺 和田堀廟所

当廟所は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、阿弥陀如来立像が本尊として安置されています。大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災によって、築地本願寺は、(寺)中五十七の子院と共に焼失しました。その再建については、他に移転の議もありましたが、結局現地復興となり昭和十年(1935年)インド様式の大本堂の完成を見ました。墓地については、他に移転することにしていたところ、陸軍省火薬庫跡であった当地が払下げられることになり、昭和四年(1929年)出願が許可され、翌五年当地を所有し、地名にちなんで和田堀廟所と名付けました。12、000坪(39、600平方メートル)の広さを有し、富士が望める閑静な近代的公園式墓地として注目されました。ところが昭和二十年(1945年)五月二十五日、空襲により建物はことごとく焼失しました。しかし、幾多の困難の中バラック建の仮本堂を建てて宗教活動を続けました。ようやくにして昭和二十八年、本堂が再建され、更に門信徒会館等が建てられ今日に至っています。墓地には樋口一葉・九条武子・海音寺潮五郎・古賀政男・水谷八重子・服部良一等有名人の墓があります。また、明暦の大火(1657年)で焼失した築地本願寺(当時は浜町御坊)の再建に力を尽した佃島の人々の墓地があり、その佃島の祖先三十三名の由来が書かれた石碑も建てられています。




見所ポイント11の「永福町の寺町」が始まります。いろんな宗派のお寺が集まっているようですが、浄土宗のお寺が目立ちます。



最初は真教寺です。

真教寺

当寺は三宝山と号する浄土真宗本願寺の寺院です。寺伝によれば、開基は黒田甲斐守の嫡子で、出家して真了法師と名乗り、江戸麻布宮村(現港区元麻布)に文禄三年(1594年)に創建しました。寛永五年(1628年)頃も麻布にあり、その後、浜町(現中央区東日本橋三丁目)の本願寺の寺内に移りましたが、いわゆる明暦の大火(1657年)で焼失、万治年中(1658年〜1660年)に本願寺とともに築地へ移転しました。明治十三年(1880年)の文書によれば、本願寺内末寺の一寺で境内八十坪余檀家三十六戸の寺容でした。ところが、大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で全焼、仮本堂を建てて引き続き築地に寺をかまえていましたが、区画整理事業のため昭和三年(1928年)現在地に移転しました。同年本堂や庫裡の落成を見ましたが、昭和二十年(1945年)五月二十五日の空襲により焼失してしまいました。現在の本堂は、昭和三十五年(1960年)に建立されたものです。本尊の阿弥陀如来立像は、寛永七年(1630年)に西本願寺より開山真了に下附されたもので江戸初期の作です。木造・玉眼・上品下生の来迎印を結んでいます。光背と台座は後補です。また当寺には、宗祖親鸞上人が八十歳の時の自作と伝えられる親鸞坐像、九条摂関家家司田村采女正の作と言われる親鸞上人室玉日姫君坐像、関白九条道家が作らせたと称する玉日姫父九条兼実坐像の三体が安置されています。当初は京都嵯峨の寺にありましたが、昭和十年(1935年)ごろ那須家より当寺に奉納されました。




次は託法寺です。

託法寺

当寺は、光栄山と号する真宗大谷派の寺院です。本尊は、阿弥陀如来立像で像高90センチメートル、寄木作り、彫眼で江戸末期の作と言われています。寺伝によれば、開山は寛永十一年(1634年)、江戸四ッ谷永住町(現新宿区四谷四丁目)に浄円によって開創されました。浄円は俗姓を本多と称したと伝えられています。開山当時の様子は明らかではありませんが、江戸期の「御府内沿革図書」の四ツ谷大木戸附近の部を見ると、東長寺(現存)の説明に嘉永元年(1848年)、境内の西方を託法寺に貸した旨の記載があります。また、文久二年(1862年)の江戸切絵図には、東長寺境内の一部が当寺借地分として区画されています。明治十三年(1880年)の「寺院明細帳」には罹災の為か本堂の記載がなく仮庫裡三十三坪(約108.9平方メートル)となっています。また神田の町人幸助という人が寄附した六坪(約19.8平方メートル)の門があり、檀家は三十一戸でした。大正に入り、東京市の都市計画事業により移転を命ぜられ、大正十一年(1922年)、近隣の栖岸院所有地千余坪(約3300平方メートル)を得て、当地へ移転しました。これは区内浄土真宗移転寺中、最も早い移転と言えます。しかし、昭和二十年(1945年)五月二十五日に空襲を受け全焼してしまいました。昭和二十八年(1953年)八月に復興し、今に至っています。




次は善照寺です。この寺町にある寺々は火難の相があるようです。

善照寺

当寺は本光山と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は江戸期の作といわれる阿弥陀如来立像です。「府内誌残編」によると、相州小田原に開創されましたが、天正十八年(1590年)七月、豊臣秀吉の小田原城攻略の際に罹災し、堂宇を焼失しました。その後、江戸に移り再興されましたが、その場所は詳かではありません。慶長年間(1596年〜1614年)より、木挽町(現中央区銀座東辺り)、神田金沢町(現千代田区外神田三丁目)、下谷七軒町(現台東区元浅草一丁目)、新堀端(現港区南麻布二・三丁目)等へ移転し、現在の築地本願寺の前身である浜町御坊(江戸浜町・現中央区東日本橋三丁目)の子院となりました。しかし、ここでもまたいわゆる「振り袖火事」(明暦三年<1657年>)にあい、浜町御坊とともに焼失しました。万治年中(1658年〜1660年)、八丁堀先の海辺を埋め立てた代地(現中央区築地三丁目)に浜町御坊が移転するのに伴って、当寺もその寺中に移りました。大正十二年九月、関東大震災で築地本願寺やその子院とともに全焼し、昭和三年八月九日、区画整理のため現在地へ移転して来ましたが、昭和二十年五月二十五日夜、焼夷弾の集中投下により、またしても堂宇ことごとく鳥有(うゆう)に帰しました。その後、昭和四十五年二月本堂を落慶し、ここに迦藍を再興しました。




次は浄見寺です。このお寺も何回も大火に遭っていますね。

浄見寺

当寺は、柳水山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院です。開山は、釋教心で慶長十五年(1610年)二月、現京都市伏見区深草の地に開創されました。その後、元和七年(1621年)三月、築地本願寺の前身である江戸浜町御坊が創建されるとこの寺中に移転しました。御坊中門の左手に、間口十八間(約32.4メートル)奥行二十間(約36メートル)の敷地をもち、寺中二十八ヶ寺中でもかなりの寺容でした。ところが明暦三年(1657年)いわゆる明暦の大火に遭い、御坊もろ共焼失してしまいました。そして、築地本願寺が新たに現在の地に建立されるのに伴い、当寺も同寺の西門前に移りました。明暦の大火後は三度も火災に見舞われ、更に大正十二年九月には関東大震災で罹災し、震災後区画整理事業のため昭和三年八月、現在地に移転しました。昭和二十年五月二十五日の空襲で焼夷弾を受けて再び全焼しました。現在の本堂は昭和三十五年に、庫裡は昭和五十四年に完成したものです。本尊は阿弥陀如来立像で明和五年(1768年)五月十日、西本願寺十七世法如上人が当寺に下げ渡したもので、その署判入りの下附状が当寺に保存されています。像高六十四センチメートル玉眼作りの美しい仏像です。なお墓地には、書家・狂歌師として当時有名であった中井董堂(文政四年<1821年>没)の墓があります。




次は法照寺です。歌舞伎立役とは、歌舞伎における尋常な成年男子の役、またはその役を演じる役者のことをいいます。対象とならない役は、芯からの悪人(敵役)、滑稽を主とするもの(道化役)、老人(老役)ですが、現在では役者の職掌としての敵役・道化役はなくなり、立役役者がこれを兼ねているものの、役には区別があり、その役柄の階級は武士から町人にいたるまで幅広く、多く劇中において善人方として振る舞い、白塗りのこしらえをもっぱらとしています。立役役者は歌舞伎における中心的な存在であり、ほかの職掌にある役者よりも高い地位にあるものとされています。通常、立役が座頭を務めます。

法照寺

当寺は寂静山潮音閣と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は阿弥陀如来立像です。開基は明教(寛永五年<1628年>九月四日寂)といわれますが詳細は不明です。寺伝によれば、当寺は相州鎌倉に開創され、天正十八年(1590年)武州豊島郡湯島(現文京区本郷)へ移転し、元和七年(1621年)浅草浜町(現中央区東日本橋三丁目)に浜町御坊(現築地本願寺)が創立されると、その寺中に移りました。明暦三年(1657年)いわゆる「振り袖火事」で浜町御坊とともに全焼し、浜町御坊が八丁堀先の海辺を埋め立てた代地(現中央区築地三丁目)に移ると、当寺も寛文年間(1661年〜1672年)その寺中に移りました。浜町御坊の時代、本願寺第二十代法主・広如上人が当寺に寄られた折、よせる波の音を聞かれて、その記念に「潮音閣」という閣号とそれを認めた掛軸を授けられ、以来「潮音閣」と号し、その掛軸も今に伝えられています。大正十二年九月、関東大震災により築地本願寺やその子院とともに当寺も全焼し、その後、昭和三年五月区画整理のため現在地へ移転して来ましたが、昭和二十年五月二十五日夜、焼夷弾の集中投下により、堂宇ことごとく灰燼に帰しました。昭和三十九年本堂を新築し、ここに伽藍を再興しました。なお当寺の墓地には、荒事を能くした歌舞伎立役の名優、初代市川団蔵(1684年〜1740年)や囃子方で鼓の名手といわれた寶山左衛門(二代目・1835年〜1910年、三代目・1859年〜1914年)などが眠っています。




次は栖岸院(せいがんいん)です。栖岸院の案内板には他のお寺と違って火災に関する記述がありません。築地本願寺との関わりがないようなので、振袖火事や関東大震災や戦災に巻き込まれなかったのか、あるいは「火伏観音」をお祀りしている御利益からでしょうか?

栖岸院

当寺は村高山と号する浄土宗の寺で、本寺は京都の知恩院です。寺伝によれば当寺はもと三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺という浄土真宗の寺で、天正十九年(1591年)麹町八丁目に寺地を拝領して江戸に移りました。元和七年(1621年)老中安藤重信が葬られ、以来同家の菩提寺となり、寛永十六年(1639年)には重信の子重長が中興開基となって、父を開基、妙誉秀慧を開山に招へい、浄土宗の寺として改めて開創されたといわれます。現寺名の゛栖岸院゛(重信の法名に由来)も、この時から用いられたと考えられます。江戸時代の当寺は、住職が将軍に単独で拝謁のできる゛独礼の寺格゛を許され、安藤家・高木家(丹南藩主)をはじめ多くの旗本諸家の香華寺として市中に知られていました。当時の寺の様子を「江戸名所図会」(天保初年刊)は「当寺に頼朝の念持仏と称する聖観音の霊像を安置す。(龕前に安置する所の観音の像は楠正成尊信の霊像なりといふ。)七月十日は千日参と唱へて参詣頗る多し」と記しています。明治維新後は武家の凋落、市街の変化などの影響をうけざるをえず、寺院の発展を図る為、大正九年現在地に移転しました。観音堂に安置する聖観世音菩薩は、「火伏観音」と呼ばれる鎌倉時代後期作の端正な仏像で、区の指定文化財となっています。




門前には「聖観音菩薩座像」の案内柱が立っています。

杉並区指定 有形文化財 木造 聖観音(しょうかんのん)菩薩座像

本像は、像高47cmの小像ですが、眼鼻立ちの整った、たいへん気品のある仏像で、宝冠、胸飾り(瓔珞)をつけた菩薩形をとり禅定印を結んでいます。納衣は両袖が膝の横から垂下しており、ここに、この仏像の特徴が見られます。これは宋朝の仏像彫刻の影響をうけたもので、鎌倉時代後半の特徴を残すものです。像容は、宝冠釈迦如来坐像と呼ぶのが、ふさわしいかもしれませんが、宋文化を取り入れた当時は、根強い観音信仰があり、聖観音として造立されたものと思われます。




次は永昌寺です。お寺の案内板には昭和二十年(1945年)五月二十五日夜の空襲によって焼失したと記されています。他のお寺と同じ地域にあったのですから当然でしょう。とすると、栖岸院も戦災にあったのかもしれません。

永昌寺

当寺は、天長山と号す曹洞宗の寺院で、本尊は木造釈迦如来坐像です。開創年代は明らかではありませんが、「続御府内備考」及び寺伝によると、寛永元年(1624年)四月、江戸四ッ谷塩町三丁目(現新宿区愛住町)に開創したといわれています。開山は、当寺の本寺である龍昌寺の五世明岩舜洞で、寛永十二年(1635年)七月に亡くなっています。明治四十三年(1910年)、下高井戸二丁目にあった永泉寺を合併し、当地へ移転してきました。合併に際し、永泉寺に伝来する玉石薬師と呼ばれる玉石も合祀しました。この玉石は、玉川上水の永泉寺付近工事の際に土中より発見され、その光沢の中に薬師像が浮き出たといわれています。永泉寺は工事の無事竣工を念じ、この玉石を供養したことから、近隣の信仰を集め、これに因み丸薬も作られたと伝えられます。昭和二十年(1945年)五月、永昌寺は戦災に遭い、この玉石は、本堂とともに焼かれて光沢を失ったものの、今なお、大切に安置されています。また、当寺の門前と境内には、江戸時代に建立された四基の庚申塔と二基の地蔵塔があります。




江戸時代に建立された四基の庚申塔と二基の地蔵塔です。



栄福寺寺町最後のお寺です。ゲートのような現代風の山門の前に狛犬が鎮座しています。母親の狛犬には子供がいて、「子連れ狛犬」と呼ばれています。足であやしているような姿をしていたり、乳を飲ませていたりするものがあります。「子連れ狛犬」には、「子孫繁栄」のご利益があると言われています。父親の狛犬はボールのような丸い球の上に足を乗せています。鞠で遊んでいるように見える様子から、「運気がよく転がるように」という意味合いで、「家運隆盛」をもたらすと言われています。

龍泉寺

当寺は、嶺玉山と号する曹洞宗寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。開創年代は、元禄・享保の二度の火災により記録を焼失したため明らかではありません。寺伝によれば、慶長八年(1603年)八月、江戸麹町(現千代田区紀尾井町)に開創されたと伝えられています。開山は、当寺の本寺であった江戸四ッ谷北寺町(現新宿区舟町)の雄峰山全勝寺二世晋庵瑞迪大和尚で、元和七年(1621年)三月に亡くなっています。寛永年間(1624年〜1644年)に、江戸麹町から四ッ谷南寺町(現新宿区須賀町)に移転し、更に明治四十二年(1909年)、同地の区画整理に伴い当地へ移転しました。この門前を流れていた玉川上水には、木造の龍泉寺橋が架かっていて、春は桜が清流に映え、六月は河岸を蛍が飛び交い、杉並でも指折りの景勝地でした。また、当寺には「六地蔵」と共に、「北向地蔵」と呼ばれる高さ1メートルの石造地蔵菩薩像があり、江戸時代から額に北風を受けることから、熱病などに大変霊験あらたかと、篤い信仰を集めていたと伝えられています。




見所ポイント12の「永福寺」は三度の災害に遭ったと記されていますが、昭和二十年(1945年)は空襲で、文禄二年(1593年)と元文三年(1738年)は火災で焼失したようです。江戸時代は近くに類焼を引き起こすような建物もなく、単独の火災だったと思われます。

永福寺

万歳山永福寺は曹洞宗の寺です。本尊は十一面観音像で、脇侍の不動・毘沙門両像とともに、鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられています。寺伝によれば、開創は大永二年(1522年)で、開山は秀天慶実と伝え、永福寺村の村名もこの寺名に由来します。永福寺の名は、永禄二年(1559年)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見え、開創は寺伝の伝える時期に近い頃のことであったと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣であった安藤兵部丞は、当寺の住職を頼ってこの地に帰農して永福寺の檀家となり、村の開発につとめたといわれます。中興開基は幕府御馬預役の加藤重勝で、下高井戸村に拝領地を持ち、当寺を菩提寺としました。当寺は、文禄二年(1593年)・元文三年(1738年)・昭和二十年(1945年)と三度の災害に遭いましたが、天正十六年(1588年)の「検地書出」をはじめ、二十数点の文書が無事保存されており、永福寺村を知る貴重な資料となっています。また、その他の文化財も多くみられ、境内には「子授け地蔵」の名で村人に信仰された正徳五年(1715年)銘の地蔵菩薩石像等があります。寺の西門脇には、正保三年(1646年)・天和元年(1681年)銘の庚申塔、元禄四年(1691年)銘の地蔵石像が安置されています。




寺の西門脇には、天和元年(1681年)の庚申塔、正保三年(1646年)の五輪塔、元禄四年(1691年)の地蔵石像が安置されています。左側の庚申塔は高さ105cmほどの笠付の角柱型で、青面金剛・二鶏・三猿が彫られています。江戸時代前期の庚申塔は石の質がとてもよく、保存状態も良好です。中央の五輪塔型庚申塔は高さ137cmあり、杉並区最古の庚申塔で杉並区の指定文化財になっています。武пi武州:現在の東京都・埼玉県のほとんどの地域・および神奈川県の川崎市・横浜市の大部分を含む地域)多東郡養福寺村の銘がありますが、多東郡というのは江戸時代以前の地割りで、鎌倉時代から室町時代には東京の西部は多西郡と多東郡に分かれていました。多東郡は多摩地区に加えて杉並区・中野区・世田谷区の一部を含んでいました。右側の舟型の地蔵菩薩立像は、自然風化は進んでいますが保存状態は悪くはありません。裾脇に念仏講中のものと思われる両側合わせて16人の願主銘が彫られています。中央の五輪塔型庚申塔については、石像の前の案内柱に解説があります。

正保三年銘 五輪庚申供養塔

この石塔は、正保三年(1646年)に造立された、区内最古の庚申塔で、江戸初期の庚申信仰の普及状況を示す貴重なものです。又、五輪塔形式の庚申塔というのも非常に珍しく、中世の名残をみせる「武州多東郡養福寺村」という地方銘を刻んだものとしても数少ないものです。この庚申塔は、当初、永福一丁目27にあった修験儀宝院(廃寺)持の塚(永福三丁目42)にありましたが、昭和三十年頃から現在地に安置されています。




永福寺西門の前に永福稲荷神社があります。

永福稲荷神社

当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡永福寺村の条に稲荷社(永福寺境内)と記載があり、「上屋二間二十一間半、内二小祠ヲ置、拝殿三間二十二間、社前二鳥居ヲ立、村内ノ鎮守ナリ」と紹介されている旧永福寺村の鎮守で、祭神は宇迦之御魂大神です。社伝によれば、享禄三年(1530年)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、京都伏見稲荷大社より宇迦之御魂大神を勧請創建し、寛永十六年(1639年)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったといわれています。明治維新後、永福寺から分離して一社となり、今日に至っています。境内末社として、天王社・白山神社(以上合殿)、白鳥神社(一殿)、及び明治四十年(1907年)十月に同村字水久保にあった北野神社(祭神・菅原道真公)が合祀されています。また境外末社には、御嶽神社(永福一丁目39−17)があり ます。




永福稲荷神社の狛犬は多産系のようです。普通は母親の狛犬と一緒にいますが、父親の狛犬にも2匹の子供がまとわりついています。しかも、一匹は神聖な玉を咥えて遊んでいる!行儀が悪いですね。



永福町駅に戻ってきました。



永福町と和泉町の一部を巡りましたが、神社仏閣・神田川・玉川上水・給水施設など、見所満載でした。築地本願寺と末寺の火難の歴史には同情を禁じ得ません。焼失の度に再建に取り組んだのは、信仰のたまものなのでしょう。




戻る