- 6.永福・和泉編 方南町・明大前コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「6.永福・和泉編 方南町・明大前コース」を歩きます。東京メトロ丸ノ内線方南町支線方南町駅をスタート地点として、環七に沿って南下し、玉川上水跡に造られた遊歩道を散策し、杉並区と世田谷区の境界を巡ります。
「6.永福・和泉編 方南町・明大前コース」の歩行距離は4.2km、歩行時間は1時間20分です。
スタート地点:東京メトロ丸ノ内線方南町支線方南町駅出入口1
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- 1.方南銀座商店街
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- 2.大山神社
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- 3.東運寺
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- 4.方南小学校のむさし野の森
- PTA・教職員・地元住人の努力により、ホタルやカブトムシが棲むような、児童が自然と触れ合う環境が整えられています。
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- 5.玉川上水新水路跡(水道道路)
- 旧玉川上水に替えて、代田橋から旧淀橋浄水場まで新水路を構築しましたが、地震で破損したため廃止して道路となりました。
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- 6.多数のマンホールのある水路跡歩道
- この付近には水路を暗渠にした狭い歩道が続いており、非常に多くのマンホールの蓋が並んでいます。
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- 7.沖縄タウン
- 代田橋駅近くの和泉商店街の路地に、平成十七年につくられた沖縄商店街です。うりずん祭り・かりゆし祭り・エイサーなども催されます。
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- 8.史跡玉川上水
- 甲州街道から京王線南側までの150m程に、樹木に覆われた玉川上水の面影が残されており、この開渠部は国の史跡に指定されています。
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- 9.ゆずり橋
- 稲田石とレンガタイルで飾られた歩行者専用橋で、子ども達のアイデアやデザインが多く採り入れられています。平成三年完成。
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- 10.和田掘給水所(工事中)
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ゴール地点:京王電鉄京王線明大前駅
スタート地点の東京メトロ丸ノ内線方南町支線方南町駅出入口1から歩き始めます。方南町駅は東京メトロの駅では数少ない他の地下鉄や鉄道路線と接続がない単独終端駅になっています。現在では方南町駅の他は千代田線の北綾瀬駅のみです。昔は3両編成の電車しかありませんでしたが、ホームが延伸された結果、現在では(一部)6両編成の池袋方面行の直通電車が運行されています。
方南通りと環七が立体交差する方南町交差点では、歩行者用信号が青になると歩行者はスクランブル交差点のように横断しますが、実はスクランブル交差点ではありません。スクランブル交差点とは、横断歩行者と自動車の交通を完全に分離する方式の歩車分離式信号機が使用される交差点です。一般的な交差点においては、交差する交通が交互に通行するよう信号機が制御されていて、十字交差点で歩行者が斜め向かい側(対角線上)に渡る場合、2回道路を横断することになります。スクランブル交差点では、信号機標示のうち一時的に交差点へ流入する車の流れを全て止めると共に、歩行者信号がすべて青信号となる状態が設けられていて、歩行者はこのときに交差点内のあらゆる方向へ自由に横断することができます。人通りの多い繁華街の交差点において主に採用されていて、歩行者の多いことで知られる渋谷駅前交差点には昭和四十八年(1973年)に導入されました。渋谷スクランブル交差点は日本で最大規模のスクランブル交差点で、1回の青信号で多い時には約3000人が通行するといわれています。信号の切り替わりとともに大勢の人々が一斉に歩き出す様子は、巨大都市東京を象徴する光景として紹介されることが多く、訪日外国人旅行向けの観光ツアーの日程にも組まれるほどとなっています。
見所ポイント1の「方南銀座商店街」は、方南町駅から延びる方南通り沿いの商店街・西口商店街・中央通り商店街・ファミリー商店街を合わせた名称です。カラー舗装された道路の両側には、日常生活に密着した日用品店や青果店から飲食店まで、いつも賑わう多種多様なお店が150店舗ほど建ち並んでいます。街路灯がともり、夜まで明るく安心して日常の買い物ができる商店街です。
テレビ東京の「出没!アド街ック天国」やBSテレビ東京の「ワカコ酒」でも紹介された「やしろ食堂(定食のヤシロ)」は、゛旨い・安い・早い゛を掲げる昔ながらの「ヤシロチェーン」の食堂です。安くてボリュームのある定食とか、晩杯屋並みのお値段の種類豊富なおかずとか、まさに大衆食堂といった感じのお店で、しかも昼飲みを楽しむこともでます。方南町店の他、高円寺・荻窪・練馬高野台にも系列のお店があるそうです。ちょっと一杯。。。という誘惑を抑えつつ、お散歩を続行します。
見所ポイント2の「大山神社」は、釜寺として知られる東運寺に隣接する小さな社です。元々は東運寺の境内社だったのが、明治の神仏分離令で境内外に出されたという経緯があるようです。小さな境内には「榛名山・御嶽山・大山合併記念之碑」が建っていますが、かっては別々にこの3つの神社があり、それが合併して現在の大山神社になったのではないかと思われます。
大山神社の狛犬はちょっと変わっています。狐ではなく、オオカミなのです。牙があり、足のつめも鋭く、「大山神社のおおかみ狛犬」と呼ばれています。
環七を走るバスに乗っていると、「次は釜寺ですぅ」というアナウンスがあります。釜寺って何だろうと思っていましたが、見所ポイント3の「東運寺」のことだったんですね。「釜寺」の通称で親しまれている念仏山東運寺は、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺で、「釜寺」という通称の由来となった「身代わり地蔵尊」が安置されています。戦国のころ、天正元年(1573年)に備前の僧一安上人が安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を奉じてこの地に来ました。これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたのが東運寺の開創と伝えられています。この「身代わり地蔵尊」は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王をお坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで東運寺本堂の屋根に釜を置いたといわれています。現在の大釜は、昭和二十年の空襲で本堂が焼失した後に地域の信者が寄進したもので、米一俵を炊くことができるということです。
東運寺
当寺は、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺院で、「釜寺」という通称で親しまれています。元禄十四年(1701年)頃に当寺の住職であった祐梵上人筆の由緒書によると、天正元年(1573年)、備前(岡山県)の僧一安上人が当地に来て、安寿と厨子王の守り本尊「身代り地蔵尊」を奉じ、これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進、念仏堂としたのが当寺の開創と伝わります。大正十一年(1922年)、下谷入谷町にあった東運寺(慶安四年<1651年>、茂山上人開山)と合併し、念仏山東運寺と山号と寺号を改めました。「釜寺」という通称の由来となった「身代り地蔵尊」には、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれています。現在の大釜は、昭和二十年(1945年)の戦災で本堂焼失後、当地の檀徒が寄進したもので、米一俵(60キログラム)を炊くことができるといいます。当寺には、元禄二年(1689年)の刻銘のある半鐘や江戸初・中期の庚申塔や石仏などが保存されています。また、「鉦冠薬師」と呼ばれる木造仏も安置されており、本像は寺伝によると徳川第十三代将軍家定公に縁があるとされています。山門は、一関藩主であった田村右京太夫建顕の江戸屋敷脇門を移築したもので、赤穂藩主であった浅野内匠頭長矩が切腹の折に通ったと伝わります。そのほか、中国山東省の孔子家より贈られた銘木「楷樹」が数株植えてあるのも珍しいです。
東運寺の御本尊である「身代わり地蔵尊」には、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王をお坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあります。辺境に流罪となった父を尋ねて母・姉(安寿)・弟(厨子王)が奥州を旅立ちますが、途中で人買いに騙され、母は佐渡、姉・弟は丹後の山椒太夫のもとに奴隷として売られます。姉の計らいで弟・厨子王は脱走し、運命に導かれて丹後の国守に出世し、姉の救出をはかりますがすでに彼女はこの世になく、山椒太夫を罰した厨子王は佐渡に赴いて母と再会するという物語です。「山椒大夫」は、説話「さんせう太夫」をもとにした森鴎外による小説で、鴎外の代表作のひとつになっています。御本尊の「身代わり地蔵尊」は15cm位の黒いお地蔵さまで、本堂で厨子に入れられているとのことです。毎年4月8日にご開帳されるようです。お寺の前に「身代わり地蔵尊」の石仏がありますが、これは別に作られたもので、伝えられる本尊の「身代わり地蔵」ではありません。
山門はもと田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠頭が通ったと伝えられる)でしたが、その縁の人々の冥福を祈って寄進保存されたものです。
山門縁起
この山門は元禄の頃、芝田村屋敷の脇門にして、浅野内匠頭是れを通ると伝う。明治末葉、三井総本家これを今井町に移し、元織田有楽斎如庵の茶室(国宝)の表門となせるも、用うること稀なりしが為め、「開けずの門」と称すと。戦中解体保管しあるを、適々昭和二十八年同家御当主元男爵三井高公(襲名八郎右衛門)殿より当山中興精誉桂巌上人に寄進せらる。因に 当山門は、屋根瓦は当初田村公の時、明治末三井家の時、当山に再建の時の三種あり、釘は全く用いず、組合せ式。門自体約五分内側へ傾けてある由。門扉開閉確実の為めとは古昔の工匠修錬実績の智慧に無限の敬意を表せんものを。茲に、昭和三十年七月七日建立、落慶法会を修す。
私は見ませんでしたが、半鐘も保存されているようです。山門の前に案内柱が立っています。
元禄二年銘半鐘
当半鐘は口径三十三センチ、高さ五十八センチで良く整った形をしています。龍頭は双頭を背合せにし、その上に蓮座をもつ宝珠を置き、笠形は饅頭形で甲盛りが高く、池の間には元禄二年(1689年)、中興開山定蓮社正誉幡可和尚の時に方南村の当寺に寄進された旨が鮮明に刻されています。鋳造者は湯島霊雲寺の梵鐘で著名な江戸の鋳物師田中丹波守重行です。本鐘は区内に所在する梵鐘のなかで最も古い年記を持つもので、銘文により東運寺の歴史を示す貴重な資料です。
磯野霊山(1878年〜1932年)は、九州佐賀に生まれ、東京美術学校を卒業後、権力争いを繰り返す中央画壇に嫌気がさし、創立間もない長岡市の高田日報に入社し、10年余り新聞記者として滞在しました。晩年の越陳人をたずねて深く心酔し、私淑したエピソードが残っています。東京に戻ってからは小川芋銭と生涯にわたり交流を続けました。
磯野霊山
(明治十一年六月二十九日生〜昭和七年七月十一日)
佐賀県生まれの俳画家、禅画家、書家。親交のあった吉川英治氏に「水墨の自由と玄味をあれほど画精進ににじみ出してみせた芸術家は、近代画家中において、磯野霊山を第一に推し(て)もいい」といわれる。東京美術学校を卒業後、新潟県高田日報にて記事挿絵を描く。当寺第三十三世桂巖と親交があり一時境内に居を構えて創作活動に励む。独自の芸術への信念を貫き通し、五十五歳で亡くなり当寺墓地に眠る。正面の霊山子之碑、
「おれとして にらめくらする 蛙かな 霊山子」
碑に向かい合うように蛙石がおかれている。
最近はあちこちの都市河川で調節池が造られ、上部は公園などに活用されています。しかし、都心部ではなかなか用地が確保できず、奇想天外にも環七の地下に調節池を造るといった仰天アイデアが実現しました。シールドマシン等の大型掘削機がなかった時代には考えられなかったことです。環七の地下50mに総延長4.5km、内径12.5mのトンネルがあるとはドライバーの皆さんは想像もつかないでしょう。東京に核攻撃があった際には、何万人かは避難できそう。もっとも、そういった目的の緊急用出入口が設けられているかは知りませんが。
環七の歩道から奥に延びる遊歩道があります。「上水橋緑地」は、神田川の旧水路を緑地化した公園のようです。距離は短いですが、ベンチも設置してあり、ちょっとした散策が楽しめます。「上水橋」の橋名は神田上水に因むものと思われます。
見所ポイント4の「方南小学校のむさし野の森」は、環七から一歩入った路地に面する方南小学校の裏門付近にある樹木林です。方南小学校の前身である方南尋常小学校が開校したのは昭和十四年(1939年)1月9日で、創立80周年以上の歴史をもっています。しかし、「むさし野の森」ができたのは昭和五十三年(1978年)11月1日だそうですので、元々植わっていたものではなく、子供達に昆虫や小鳥に触れあい、都会の中で自然を感じてもらうために造られたもののようです。
方南児童館の壁に向方南遺跡の案内板が掛かっています。この付近一帯からは、縄文時代の遺跡が多く発掘されています。
向方南遺跡
この遺跡は、区立方南小学校から区立方南児童館一帯にかけて広がると推定される、縄文時代後期(約二千五百年前)を主体とする遺物散布地で、昭和五十七年に発見されたものです。遺跡は、神田川の蛇行と侵食によって形成された、区立方南小学校の低地部分と区立方南児童館の台地部分とに別れています。昭和五十七年に実施された方南小学校部分の発掘調査では、縄文時代後期当時の川岸と考えられる砂層から、三点の完形土器と約七万点の土器片、石鏃(せきぞく)・磨製石斧・打製石斧等の石器類が約二十点出土しました。また、この砂層(現在の校庭面から約三メートル下にある)からは、当時神田川の川岸に生えていた葦等の植物遺存体とともに、炭化したクルミ・トチ・シイを初めとする木の実類、化石化した小動物の歯や小骨片類が多量に出土しています。これら木の実類や小動物は、縄文人が食糧にしていたものでしょう。昭和六十三年に実施された児童館部分の発掘調査では、完形土器五点を含む約三千点の土器片、磨製石斧・打製石斧・石皿等の石器類および装飾品である土玉等が出土しています。今のところ、両地点とも住居跡は発見されていませんが、児童館部分では焼土が遺されていた炉穴が検出されています。おそらく、両地点とも集落からはずれた土器捨場か、一時的なキャンプサイトの性格を有していたものと思われます。どちらにしても、本遺跡は区内で初めて発見された低地遺跡として注目されています。
住宅地の中に、朱色の幟が沢山はためいています。お狐さんを保護する檻まで朱色に塗られています。谷中稲荷神社は、大宮八幡宮の境外社で、その昔、太々講(伊勢講)に行った人々が京都伏見稲荷大社の御分霊を勧請し創建したと伝わっています。鳥居の奥に聳え立つ大きな桜の木が印象的です。木の説明がかかれたプレートが幹に貼り付けてあります。
陽光(ヨウコウ)
天城吉野(アマギヨシノ)に台湾緋桜(タイワンヒザクラ)を交配して、作られた栽培品種。ソメイヨシノより少し先に咲き、花の色が濃く、大きい目の花です。つぼみは濃い赤紫ですが開花すると鮮やかなピンク色に。
道路から細い路地が分岐しています。杉並区和泉二丁目1番地に流れを発し、渋谷区笹塚・幡ヶ谷・本町を経由して新宿区西新宿五丁目20番地付近で神田川に注いでいた全長およそ3kmほどの「神田川笹塚支流」(「和泉川」とも呼ばれていました)の跡と思われます。神田川笹塚支流は、「東京の河川を歩く」の一番最初に歩いた川なのですが、何故か書き忘れた幻の川です。その時はこの地点を通っていませんでしたので、この路地は神田川笹塚支流のそのまた支流跡のようです。
神田川笹塚支流は、見所ポイント5の「玉川上水新水路跡(水道道路)」の盛土の下に出ます。百メートルほど水道道路の盛土下を平行して流れ、その後水道道路下を潜って南側に流れを変えていたようです。というか、水道道路が出来たのは明治に入ってからのことで、それまでは自然な川の蛇行だったのでしょう。明治以降の生活様式の近代化と都市への人口集中に伴い、上水道への需要が高まりました。一方で水源地の不足や河川の汚染などにより原水の確保が難しくなってきました。そこで東京では水源地・浄水場・配水拠点の整備が行われ、各施設間には新たな水路が確保されました。この水路跡に造られた道路を「水道道路」と呼び、多くは一直線の道路となっています。「玉川上水」もその内のひとつで、明治三十一年(1898年)に淀橋浄水場が新設され、現在の和泉給水所地点から玉川上水を分岐させ、「玉川上水新水路」として、淀橋浄水場まで定規で引いたような一直線の水路が開削されて水を供給しました。関東大震災で盛土が崩壊し、決壊するなどしたため、その後、新水路に代わるものとして、昭和十二年(1937年)に甲州街道に導水管を埋設して玉川上水新水路は廃止されました。しかし戦中・戦後の混乱の中で新水路の撤去は未完に終わり、盛土の多くの区間がそのまま残されました。現在、盛土上は通称「水道道路」と呼ばれる道路になっています。
神田川笹塚支流は、水道道路を越え南側に出ると再び西へと流れていました。路地の両端にはかつて水が流れていた頃の護岸の石組みが残っていて、川の跡地をアスファルトで塗りつぶしたかのような感じです。環七通りで一旦遮られますが、その先の路地にも川の跡が見所ポイント6の「多数のマンホールのある水路跡歩道」となって続いていきます。
見所ポイント7の「沖縄タウン」は、杉並区が東京23区内で最も沖縄関係の在住者が多く、沖縄料理の店も一番多いという特徴から、町おこしのテーマを「沖縄」に特化して「都会の人が出会ったことのない沖縄の発見と体験ができる街」をコンセプトに平成十七年に誕生した街です。商店街の入り口には首里城を模した街路灯が設置されていたり、各店舗のテントが沖縄伝統織物である「みんさー織柄」で統一されるなど、まさに沖縄にいるかのような雰囲気が味わえます。
甲州街道を横切り、反対側の歩道を進んだ先に緑が生い茂る小さな公園があります。甲州街道の地下を暗渠で流れてきた玉川上水はここで開渠となりますが、現在の玉川上水は緑に覆われた峡谷下を流れるように、水面は殆ど目に触れることはありません。柵の前に見所ポイント8の「史跡玉川上水」の案内板が立っています。
玉川上水の由来
今から300年以上昔、徳川四代将軍は、江戸の水不足を補うために多摩川から水を引くことを計画しました。そこで、松平伊豆守信綱の家臣安松金右衛門の技術指導を受けた玉川兄弟によって、羽村から四谷大木戸まで武蔵野が掘り割られ、江戸八百八町に水を供給する水路が築造されました。これが玉川上水です。防水(火?)用水としても使われていたということです。現在では、その下流はほとんどが埋め立てられ、世田谷区内を通る約950mの区間も上部が緑の散歩道として生まれ変わっています。
玉川上水は公園のすぐ先で緑が途切れ、京王線の代田橋駅端の鉄橋下を流れます。
京王線を越えた先に真新しい橋があります。見所ポイント9の「ゆずり橋」です。
玉川上水「ゆずり橋」のお話し
江戸時代、多摩川の水を江戸のまちへ飲料水として引いてくるためにつくられた玉川上水。この上水から分水した水路がその後何本もでき、世田谷区内でも北沢用水(北沢川)、烏山用水(烏山川)などが農業用水として使われました。やがて明治時代になって東京の人口がますます増え、他にもたくさんの給水路ができてくると、玉川上水はだんだん使われなくなり、下流部分はふたをして道路や緑道になってしまいました。しかし、長い歴史をもつ玉川上水とその周囲の自然を残そうという人々の願いから、昭和六十一年(1986年)、約20年ぶりに水を流すようになりました。区内では代田橋駅付近からゆずり橋までが、昔ながらの水路となっており、下流は概ね緑道となっています。この橋は地域の方々に「ゆずり橋」という愛称をつけてもらいました。以前この橋は幅が狭く、ゆずり合って橋を渡っていました。ゆずり合う心のやさしさと、代々子どもたちにこの橋をゆずっていく、という2つの意味が「ゆずり橋」にこめられています。
ゆずり橋を渡った先に小さな広場があり、地藏堂が建っています。堂とはいっても、屋根も壁もなく、藤棚を屋根代わりにしているような感じです。藤棚の支柱に手書きの由来板が掛かっています。古い文体の上に文字も消えかかっていてよく判別できませんが、読み取れる範囲で再現してみました。
向岸地蔵尊の由来
今から二百有余年前、えばら郡北の里、今では世田谷大原の玉川のほと(り)に住む名前向岸と云ふ一人身の人であったが、如何なる前世の因縁か身体が右に曲がって居る事を深く悲しみ居りました。ある夜大慈大?の地蔵尊が右手に錫枝、左手に宝珠を「ほしい物?思いのまゝに出せると云う玉」乗せてほゝ笑み、????と出で給いつゝ、「如何に老人悲しむやぞ?。たわすでに世を修め、此れから先は世の為めに日夜念佛を唱えれば異状苦言を救いて身も叶うべし」。末来の望みもこれで向岸悟り得て、あゝありがたやありがたやと大師たち其数あまたましませど、身も心も地蔵菩薩の心にて?くて念佛唱え励み此れを聞き伝うるに日毎にして忽まちに二百余の講中となって住人に日毎に増して忽ちに念佛の絶る事なし。?日向岸は疾り病気を病自分からつらく思う事に老少不定遠からず、菩薩の教えを伝えんと講中の人にぞ悟りけり。私が此の世を去りたらばわしの姿にも石に堀り刻み必ず此の処に建立して務めて念佛をおこたるな。万遍ことのくどくにて重き病や心の悩み其の他如何なる事にても叶えさせんと誓って大往生成しとげた。聞くに向岸此の人は地蔵菩薩の心が通じ、これに講中の人々が生前の徳をしたいて、此の事に享保元年の秋、今より二百六十四前、遺言通り地蔵尊を建立し、日夜をとはず唱える聲が絶えざりし。其の頃より徳が表われし。日に?しに参詣多くなり、此の事世間に伝わりて、我れも徳をさずかりたいと、永い病も直さんと、家宝者となりたいと、老若男女ちりまじり、楽や法華を手に下げて遠いもいとわず真心こめたる心願やお礼詣り人々のいつもたえる事なし。??を思う人々心こめて願うべし。
身丈四尺八寸
真言 おんかかかびさんまえいそわか
戒名 法連者清栄向岸大徳居士
玉川上水跡は環七を横断します。勿論、地下を通るのですけど。人間は横断歩道を渡るのですが、横断歩道は交差地点から少し離れたところにあるので不便です。今までは横断歩道を渡っていたのですが、地下歩道があるのに気づきました。地下道をくぐると直ぐに環七の反対側に出れます。玉川上水跡は環七を越えた先も真っ直ぐに和田堀給水所の方向に延びています。
井ノ頭通りの道筋は、見所ポイント10の「和田掘給水所(工事中)」の敷地に沿って細く曲がりくねっています。元々、井ノ頭通りは境浄水場から和田堀浄水池を結ぶ送水管の上を補強した道路でしたので、境浄水場から和田堀給水所までは真っ直ぐな道筋でした。戦後、和田堀給水所から渋谷までの区間が井ノ頭通りへ編入されましたが、和田堀浄水池の敷地を通ることができなかったために敷地に沿って迂回する道筋になったのです。現在は和田堀給水所の改修に合わせて道路工事が進んでいますが、将来的には和田堀給水所の南側に道路用地を確保して、環七通りの大原二丁目交差点から甲州街道の松原交差点へなだらかにカーブする道筋にする計画のようです。京王線も高架工事が進行中で、全て完成した暁には井ノ頭りは快適な運転ができる道路になることでしょう。和田堀給水所の柵越しに見える塔の先端部分は、解体中の一号円形配水池の上部排気塔です。
羽根木神社の創建年代は不詳ですが、当所周辺にあった誰かの内宮の鎮守として稲荷神を勧請して創建したといわれています。そのため、昔は羽根木稲荷神社と称していました。その後、細野嘉十郎・稲山新太郎の所有の土地となり、その特志によって寄附されました。
ゴール地点の明大前駅にやってきました。はるか昔に利用していた駅ですが、駅の周辺と駅の構造は基本的に変わっていません。ただ、落ち着いていた駅前広場の風景は大分ケバケバしくなって、雑居ビルが建ち並んでいます。山岡荘八の徳川家康全26巻を買った本屋さんは今はビルの中に移ったようです。
ということで、「6.永福・和泉編 方南町・明大前コース 」を歩き終えました。思いもかけず、神田川笹塚支流に再会できて懐かしかったです。明大前駅も外から眺めるのは久しぶりでした。時代の流れは感じましたけどね。
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