- 7.荻窪北・下井草編 荻窪・阿佐谷コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「7.荻窪北・下井草編 荻窪・阿佐谷コース」を歩きます。JR中央線荻窪駅をスタート地点として、天沼・本天沼の閑静な住宅地を巡り、桃園川遊歩道を散策して、阿佐谷の七夕祭りに想いを馳せます。
「7.荻窪北・下井草編 荻窪・阿佐谷コース」の歩行距離は4.3km、歩行時間は1時間40分です。
スタート地点:JR中央線荻窪駅北口
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- 1.荻窪駅の「萩」
- 荻窪の地名の由来となった、水辺の湿地に生えるオギが植えられています。ススキに似た大型の多年草です。
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- 2.荻窪タウンセブン
- 戦後にできた新興マーケットが、1981年に7階建てビルになりました。屋上からの風景と魚屋が杉並百景です。
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- 3.教会通リ商店街
- 大正六年に設立された天沼教会が奥にあり、昭和の雰囲気と建物が残る、狭い通りの賑やかな商店街です。
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- 4.ときのオアシス
- 天沼もえぎ公園に併設された休憩所で、時の門・地界の天庭・日時計があります。すぐ隣に自然生態園もあります。
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- 5.天沼弁天池公園
- かって天沼弁天池と呼ばれる湧水池があり、中ノ島に弁天様が祀られ雨乞いも行われました。カルガモ親子がいるかも。
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- 6.郷土博物館分館
- 郷土博物館の分館として天沼弁天池公園内に建てられ、主として企画展や区民参加型展示が行われます。
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7.六叉路
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8.猿田彦神社
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- 9.蓮華寺
- 室町時代の創建と伝えられ、多くの文化財が所蔵されています。 かっては桃園尋常高等小学校分教場に使用されました。
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10.日大二高のイチョウ並木
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11.石仏
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- 12.桃園川遊歩道
- 天沼弁天池を水源とし中野・新宿区境で神田川に合流していた桃園川は、現在は暗渠化して遊歩道になっています。
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- 13.法仙庵
- 江戸時代末期に造られた共同墓地を管理するための寺院です。東側の塀に沿う道は権現道と呼ばれた古道です。
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ゴール地点:JR中央線阿佐ヶ谷駅北口
スタート地点のJR中央線荻窪駅北口から歩き始めます。荻窪駅はJR中央線(快速・緩行)が停車し、東京メトロ丸ノ内線の始発駅にもなってます。平日以外の快速運転が高円寺駅・阿佐ヶ谷駅・西荻窪駅を通過し、荻窪駅だけに停車するのが荻窪住民の自慢です。
見所ポイント1の「荻窪駅の萩」は、荻窪駅北口広場の線路沿いの植え込みの中に数株植えられています。「荻」とはイネ科の多年草植物で、ススキに似て河川敷などの湿地に群生します。飛鳥時代、仏像を背負った行者がこの地を通りかかった時、急に仏像が重くなったためこの地に何か縁があると信じ、窪地に繁茂していた荻を集めてお堂を建てました。通称「荻寺」と呼ばれるこの寺は現在の光明院で、このお寺の周辺を「荻窪」と呼ぶようになったといわれています。大正十二年(1923年)に発生した関東大震災以後、都心から多くの人が移り住むようになり、荻窪の街は発展しました。
見所ポイント2の「荻窪タウンセブン」は駅ビルの「ルミネ」と並んで荻窪の二大ショッピングタウンです。ルミネは専門店が多く入居してどちらかというと高級指向、荻窪タウンセブンはスーパーの西友を核にして日常的なお店が揃う庶民派指向とうまく棲み分けられています。かって、ルミネの正面口の向かいの雑居ビルの2階に漢珍亭という中華料理のお店がありました。漢珍亭は昭和二十四年(1949年)に創業したといわれていますが、惜しまれながらも2013年4月末で閉店してしまいました。漢珍亭は、歌手の森進一がデビュー前にアルバイトをしていたことでも知られています。あのダミ声で注文を訊かれるとちょっとビビリますよね。
北口広場と青梅街道を挟んだ向かいにドン・キホーテのお店があります。昔は何が建っていたのか思い出せませんが、2010年11月26日に「ドン・キホーテ荻窪駅前店」がオープンしました。店舗規模は大きくありませんが、1階に食品・日用品・雑貨などの生活最寄品、2階に家電製品・衣料品・スポーツグッズ・ファッション雑貨などの売り場があります。スーパーよりも日常的に、コンビニよりも便利に利用できる店作りを目指しているそうです。どこよりも安くボジョレーヌーボーを買うのならドンキですね。
見所ポイント3の「教会通リ商店街」は、荻窪駅の北口を出て青梅街道を渡ったところから始まる細長い商店街です。「教会通り」の名称は、商店街の先にあるセブンスデーアドベンチスト天沼教会に由来します。全長約500メートルほどの路地に、病院や銀行・薬局・不動産会社・美容院・衣料品店・飲食店・青果店・文具店・クリーニング店・コインランドリー、それにコンビニなどの個性的な約80店舗が軒を連ねています。作家の井伏鱒二が太宰治を連れ、商店街を抜け、弁天池を通り、阿佐谷まで飲みに通った道でもあります。井伏鱒二の「荻窪風土記」には「弁天通り」という名前で出てきますが、この弁天池は現在でも天沼弁天池公園の中に残っています。
「L’ABEILLE ラべイユ」は、約70年以上前に蜜柑の蜂蜜を採っていた愛媛の養蜂家からスタートし、今でも高尾山の山麓とその周辺で養蜂事業を続けています。「ラベイユ」とは、フランス語で「みつばち」のことです。世界12ヶ国80種類以上の蜂蜜を独自の品質基準で管理し、仕入れから販売までを一貫して行っています。
平成四年(1992年)、杉並区の「知る区ロード」の「オアシス」のひとつとして、見所ポイント4の「ときのオアシス」が開設されました。その後、地元の住民グループ「あまさんネットワーク」が「ときのオアシス」と近くの空地を一体化した整備を提案し、区と住民との話し合いを経て平成十一年(1999年)に天沼もえぎ公園が開園しました。「ときのオアシス」は、「知る区ロード」に4つ設置された「オアシス」のひとつで、「時」をテーマにしています。周辺住民への配慮から公園内には遊具を設置せず、自然の状態を保つ「自然生態園」として、手押しポンプ式の井戸や池、近隣の保育園で世話をしている小さな水田などが設けられ、昆虫やカエルなどの小動物が保護されています。南側入口付近には、大型のアーチ状のリングと床に描かれた時計の文字盤からなる時の門があり、時計の針は1945年8月6日に広島に原爆が投下された8時15分を指しています。リングは時計のフレームを表していて、やや傾いて設置してあります。初めて見たときは台風で傾いたのかと思いました。
〜天沼もえぎ公園の成り立ち〜
この公園は、地域のみなさんが中心となって平成八年5月から平成九年10月まで21回に渡る話し合いを重ねた結果、このような形になりました。一般の公園のようにブランコや滑り台などはありませんが、緑の少ない都市の中に小さな自然を呼び込めるように、「自然生態園」をもうけ、池をつくり、多くの種類の木を植えました。自然生態園は、自然の状態を保てるように、通常は閉鎖していますが、手入れや観察などの活動をする時には中に入ることができます。この運営については、天沼三丁目あかるい町会やもえぎ公園利用者の会等有志の方々が協力して行っています。
荻窪には未だ昔ながらの銭湯が残っています。藤乃湯は昭和元年に開業し、昭和六十二年に現在の形に改修されました。夕陽の差す大海原に浮かぶ帆船のシルエットがロマンティックなタイル絵を始め、赤がテーマカラーになっています。「リラックス&コミニティ広場」、「ファミカ風呂」の看板を掲げ、改修に際して風呂屋の定番である番台を廃し、フロント式になりました。「ファミカ風呂」は、家庭風呂のファミリーを取り込みたい、リラックスしてコミュニケーションの取れる場所にしたいという思いで名付けられました。トレードマークの高い煙突は、今も薪で湯を沸かしている証です。
天沼八幡神社は、旧天沼村字中谷戸の鎮守で天正年間(1573年〜1591年)の創建と伝えられています。明治四十年(1907年)に四面道の鎮守厳嶋神社を合祀し、昭和二年(1927年)に村社(一地方の氏神として仰がれる社)となりました。境内には大鳥神社があり、毎年11月の酉の日には酉の市が開かれ、熊手などが売られます。
天沼八幡神社
この神社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡天沼村の条に記載されている八幡社で、「除地、百五十坪、コレモ中谷戸ニアリ此所ノ鎮守ナリ本社ハ三尺四方二テ覆屋二間二三間南向例祭九月ニテ下ノ稲荷十二所権現ト交ル々々行ヘリト云フ」とあるように、旧天沼村字中谷戸の鎮守で、天正年間(1573年〜1591年)の創建と伝えられています。主祭神は第十五代応神天皇(誉田別命)で、地元からは武運の神として崇敬を集めました。そして、明治四十年(1907年)九月には、字四面道の鎮守であった厳嶋神社(祭神市杵嶋比売命)が合祀されました。市杵嶋比売命は合祀以来、水神・安産の神として深く信仰され、雨乞いの行事なども古くから伝えられています。昭和二年(1927年)四月には村社となりました。現在の本殿は昭和五十二年(1977年)に、神楽殿は平成十六年(2004年)に改築が行われました。江戸時代に天沼村が麹町日枝神社(現、赤坂日枝神社)の社領であったため、日枝神社は古くから末社としてこの地に奉斎されました。日枝神社の他に、須賀神社・金山彦神社(以上合殿)があります。境内末社として他に、稲荷神社(三殿)、境内摂社として大鳥神社があります。大鳥神社(祭神日本武尊)は、商売繁盛の神社として信仰され、毎年十一月の酉の日を祭日として熊手市がたち、当社では開運熊手守・福桝等を授与しています。社殿は平成二十八年(2016年)に改築されました。
見所ポイント5の「天沼弁天池公園」ですが、かつてこの公園の南側広場辺りにはこんこんと水の湧き出る「天沼弁天池」と呼ばれる池がありました。池は、広さ約300坪(直径35メートル程度)の円形で、約5坪(直径4〜5メートル)の中ノ島には弁天様が祀られていて、大正の半ば頃までは日照りが続くと大勢の農民が集まって弁天様へ雨乞いの行事も行なわれていました。この池は桃園川の水源のひとつでもあり、天沼の地名の起こりになったともいわれています。こうした由緒ある土地の由来を将来に伝承するために「天沼弁天池公園」と名付けられました。
その天沼弁天池ですが、現在ではかなり規模が小さくなってはいるものの、かっての形状はそのまま保たれています。案内板が立っています。
天沼弁天池について
昔、この公園の敷地にはこんこんと水の湧き出る「天沼弁天池」と呼ばれる池があり、天沼の地名の起こりになったと言われています。場所は、公園内南側の現在は広場になっているあたりで、広さ約300坪(直径35m程度)の円形で、約5坪(直径4〜5m)の島には弁天様が祀られていました。池の水は桃園川の水源のひとつで、大正の半ば頃までは、流域の農民にとって重要な役割を果たしていたことから、雨乞いの行事も行われていました。昭和三十五年頃までは、スイレンなどが咲き、魚も泳ぎ、子供たちの遊び場ともなっていました。その後、都市化の進行とともに、農地が減少し地下水は枯れ、荒れてしまった池は埋め立てられました。現在の池は公園になる以前、人工的に作られた池を残したもので、井戸水を利用しています。
見所ポイント6の「郷土博物館分館」は、区民に身近で親しまれる博物館を目指して、平成十九年(2007年)4月7日に区立天沼弁天池公園と同時にオープンしました。和田堀公園に隣接し、杉並区の歴史や地理にまつわる資料を展示する郷土博物館本館とは趣向が異なり、イベントなどの区民参加型展示が中心となっていますが、独自企画展や本館との巡回企画展なども開催しています。公園の中には日本庭園と休憩所があり、休憩所では地元・杉並の紙芝居一座による講演が定期的に行われています。
杉並百景20番に選定された「荻窪税務署のうこんの桜」ですが、荻窪税務署は令和元年に移転し、跡地には子育て支援などの複合施設「ウェルファーム杉並」が建てられました。私が歩いた時は見つけることはできませんでしたが、建替えに伴って伐採された鬱金桜は3本が移植保存されているそうです。
東京には所々で「五叉路」は見かけますが、「六叉路」以上はなかなか出会えません。天沼中学校近くの見所ポイント7の「六叉路」は住宅地の中にあり、一枚の写真には収まりませんが、確かに6方向の道路が交差しています。この2枚の写真を頭の中で立体的に組み立て、六叉路をイメージできたらあなたには数学の才能があります。
本天沼稲荷神社は旧天沼三丁目(昔の天沼村字本村)の鎮守で、祭神は「保食(うけもち)の神」です。明治初年に山王社(現在の千代田区日枝神社)から内殿を移築して本殿を建立したと記録されています。畳二畳もある「大絵馬」には、天沼村と日枝神社との強い関係を示す賑やかな「山王祭」が描かれています。平成十五年9月に社殿を造営した際に、内殿の棟に「葵」の紋が確認されました。山王社は徳川家から篤く崇敬されていましたので、内殿は徳川家が山王社に奉納したもののひとつといえます。昭和三十八年から始まった地名変更により、旧天沼一丁目・二丁目・三丁目も町名の変更を迫られ、旧天沼三丁目は、昔「天沼村字本村」という地名でしたので、その「字本村」の「本」の一文字を使って本天沼と地名を変更しました。現在の町名は道路で区切られていますので、旧天沼三丁目の中でも下井草や清水の町名に変わったところがあります。町名が変わっても稲荷様と旧天沼三丁目の人々との繋がりは今でも変わりありません。
本天沼稲荷神社
当社は旧天沼村字本村の鎮守です。祭神は保食神(うけもちのかみ)で、境外末社として猿田彦神社(猿田彦命、本天沼2−26)、市杵嶋神社(市杵嶋比売命、本天沼2−5−15)、三峰神社(伊弉諾命・伊弉冊命、本天沼2−5−15)を祀っています。創建年代は当社の別当職をつとめていた蓮華寺の過去帳に「慶長十九年(1614年)、板倉周防守より本社境内を除地とする」と記録されていることから、それ以前とも考えられますが、詳しいことは明らかではありません。しかし、社伝によれば、稲荷信仰が村内に広まったのは、寛永十二年(1635年)に当地が赤坂山王社領となってからと、伝えています。また、江戸時代の当社について「新編武蔵風土記稿」には「除地百五十坪、小名本村ニアリ、此所ノ鎮守ナリ、本社三尺四方、上覆二間二三間」と記されています。現在の本殿は、明治初年に前記の山王社の内殿を譲りうけて移築したもので、社殿は、平成十五年に新たに造営されたものです。文化財として、内殿移築と同じ頃に山王社から奉納された祭礼の様子を画いた畳二畳ほどの大絵馬(区指定文化財)、弘化五年(1848年)二月奉納大幟、文政六年(1823年)四月銘の手洗水盤などがあります。
大絵馬を解説した「板絵着色祭礼図」の案内柱が鳥居の後ろに立っています。
杉並区指定有形民俗文化財
板絵着色祭礼図 一面
本大絵馬は、明治初年旧天沼村の氏子中が奉納したもので、桧板三枚を横矧(幅方向のみ数枚の板を接着すること)にし、飾金具を配した漆塗りの額で装飾されています。横長の画面には幟を立てた社殿、赤丸に「天」と染め抜いた半天を着た人々、裃(かみしも)姿の武士、そして山車上の囃子方など、祭礼の情景が生き生きと描かれています。作者の「陸齋」はどのような人物であったか不詳です。画面の「玉村作」は裏面の墨書から額師と考えられています。祭礼の情景を描いた区内唯一の絵馬で、また絵師・額師名も記された貴重なものです。
見所ポイント8の「猿田彦神社」は本天沼稲荷神社の少し先にあります。天を突く大樹に囲まれ、小さな社は昼なお暗し一画に鎮座しています。猿田彦神社は全国に約二千社あり、猿田彦大神(さるたひこおおかみ)を祀っています。猿田彦大神は啓行(みちひらき)の大神といわれており、日本神話における天孫降臨の際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けた瓊杵尊(ににぎのみこと)を高千穂へと導いたのが猿田彦大神とされています。「みちをひらく」ことから、学業や仕事をいい方向へと導いてくれるという言い伝えがあります。余談ですが、恵比寿に本店がある「猿田彦珈琲店」は元々は猿田彦神社と関係はなかったのですが、最初にコーヒーショップを開店する際に店名を決めないままロゴマークのデザインをヒロ杉山さんに頼んだところ、ヒロ杉山さんが店名を猿田彦としたらどうかと提案され、猿田彦珈琲という名前にしたのだそうです。後日、伊勢神宮の隣にある猿田彦神社の宮司さんが、「よかったら一緒にやりませんか?」とお店を訪ねて来られ、猿田彦神社公認の猿田彦珈琲として営業していくことになったとのことです。私はカルディー一途で、まだ猿田彦珈琲を飲んだことはありませんが。
見所ポイント9の「蓮華寺」は花が美しいことで知られています。春には山門横をはじめとする桜の古木が咲き誇り、夜には提灯が灯ります。
蓮華寺
天沼山蓮華寺は、真言宗室生寺派の寺院で、開山は真長和尚と伝えられます。本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪蓮華峰王)で、本堂内陣の西脇間に安置されています。当寺開創の詳細は明らかではありませんが、室町時代の開創と伝えられています。当寺の墓地には、正長元年(1428年)銘の墓石があることや、過去帳に慶長十九年(1614年)、板倉周防守から寺地が寄進されたという記録があることからも、開創の古さが窺えます。寺伝によれば天和二年(1682年)に寂した中興開山鏡薫和尚の時代に、寺門は大いに興隆したといわれています。昭和三十七年(1962年)に再建された本堂中央の須弥壇には、秘仏の不動明王立像と御前立ち座像(前立仏)、そして、昭和十九年(1944年)、出羽湯殿山から請い受けた不動明王立像も安置されています。この立像は室町時代に作られたもので、「厄除不動」の名で呼ばれて厚く信仰されています。当寺には文化財も多く、天沼村関係古文書が所蔵されているほか、阿弥陀如来石像・馬頭観音石像・宝筐印塔等が境内に安置されています。なお、旧本堂は杉並第五小学校の前身である桃野尋常高等小学校の分教場に使用されました。堂前にその記念の石碑があります。
天沼村関係古文書について解説した案内柱が立っています。
杉並区指定有形文化財
蓮華寺所蔵文書 五四四点
当文書は天沼村(江戸時代は日枝山王の社領)で副戸長等を勤めた森田家の旧蔵文書で、当寺に寄進されたものです。年代的には、東京府設置から同府における郡区の設置期までの文書が多く、中でも地租改正関係文書が豊富で、幕府支配から明治政府の支配体制が整えられていく過程をさぐることが出来る行政文書です。社領時代の文書と明治政府成立後の文書により、天沼村の租税関係が、どのように変化したかを知ることが出来る貴重な資料でもあります。
熊野神社は旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命(いざなみのみこと)が祭神としてを奉られています。創立は、神護景雲二年(768年)で、東海道巡察使が武蔵国に来た時に氏神を勧請し、別当を置いたのが始まりと伝えられています。また一説には、元弘三年(1333年)に新田義貞が北条高時を討つために鎌倉へ軍を進める途中にこの地に陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。後に応永二年(1395年)に朝倉三河守がこの地に帰農した際、社殿を修理し、「十二社権現」と称するようになったと言われています。明治維新後、熊野神社と名称を改めました。
境内に大きな杉の根が保存されています。巨大さもさることながら、丁寧に洗い清められた杉の根は崇拝の対象にもなりますね。
「出世杉」の根
この古木は、写真左側の杉の木の根であります(昭和十六年頃)。写真二本の杉の木は、新田義貞公が鎌倉幕府を倒す為、鎌倉へ進軍中(1333年)、この天沼の熊野神社に立ち寄り勝利を祈願してお手植えしたと伝えられています。新田義貞公が、その願いを叶えた為、近隣の古老達は、この杉を「心願成就の杉」とか「出世杉」と呼んて大切にしてきました。残念なことに、昭和二十一年に枯れた為二本とも切ってしまいました。その後は、左の杉の切り株だけが残って、地上に顔を出していましたが、平成二年に掘り出された後、平成七年に整備され現在に至っています。皆様方も、この杉の木にご祈念なさって願い事を叶えてください。
日本大学第二中学校・高等学校は、中高一貫の男女共学校です。あだち充の代表作「タッチ」で、主人公の上杉達也や浅倉南らが在籍する「明青学園」のモデルとなったことで知られています。高校野球の強豪校であり、プロ野球の選手も多く輩出しています。芸能人の卒業生も多く、オードリーの若林正恭・春日俊彰、女優の松坂慶子、キャンデーズの伊藤蘭、コメディアンの三波伸介など多彩です。見所ポイント10の「日大二高のイチョウ並木」は、杉並区の保護樹林に指定されています。
桃園川遊歩道に出る手前に、見所ポイント11の「石仏」が並んでいます。
民間信仰石造物
ここに建立されている石塔は、宝永元年(1704年)銘・元文五年(1740年)銘の庚申塔、享保十五年(1730年)銘の地蔵塔、宝暦九年(1759年)銘・享和三年(1803年)銘の百番観音供養塔です。いずれも天沼村の村民が現世での幸運と来世での往生安楽を願って造立したもので、当時の人々の信仰心の一端を伝えています。庚申信仰は、人の中に棲むという三尸の虫が眠っている間に抜け出して、天帝にその人の罪科を告げ、早死にさせるというのを防ぐために、庚申の夜は身を慎んで眠らずに過ごすという民間信仰です。江戸時代には、各地に講がつくられ、庚申塔の造立も盛んに行われました。この二基の庚申塔は青面金剛・三猿等を浮彫りにした一般的な塔で、講中による造立です。地蔵菩薩は人間の苦を除き、楽を与え六道衆生を救済する仏として地域の人々の信仰を集めました。また、村境や辻に建てられ、境の守護と村の安全の守護を行う仏として大切にされてきました。百番観音信仰も江戸時代には庶民の間に浸透しました。特に関東地方では西国・坂東・秩父の百ヶ所霊場巡拝が盛行し、巡拝記念あるいは巡拝と同じ功徳を得るための百番観音供養塔が造立されました。この享和三年銘の供養塔は百番観音信仰と光明真言信仰とを一体にしたもので、区内では数少ない作例です。これらの石造物は地域の区画整理の際に集められたもので、庚申塔は南方の桃園川辺の路傍、地蔵塔と供養塔は西方の熊野神社際の路傍から移転されたものです。なお、石造物隣の区画整理記念碑は、整理の完了した昭和十三年(1938年)に建てられたものです。
桃園川は天沼弁天池公園付近より東へ約1.5kmほど流れ、阿佐ケ谷駅の北の中杉通りを越えたあたりから周囲より谷を深くして南下し、杉並区立けやき公園のところで中央線を南東にくぐってからは見所ポイント12の「桃園川遊歩道」となります。そこから東南東へ転じ、環状七号線を越えたところからはほぼ大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断し、東中野駅南側にある末広橋付近で中野区と新宿区の境界を流れる神田川に合流します。現在では全区間暗渠化され、桃園川幹線という下水道となっています。神田川への開口部は桃園川汚水幹線からの分水になっていて、本来の桃園川の水とは異質の物となっています。
阿佐ヶ谷北にある見所ポイント13の「法仙庵」は、阿佐谷村名主・第十代相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり創設した共同墓地を管理するため、観音庵(現新宿区新宿7−3−13)から実山見道尼を初代庵主に請じて慶應年間(1865年〜1868年)に創建したといわれています。
法仙庵
当庵は、釈迦如来坐像を本尊とする寺院です。その初めは文久年間(1861年〜1863年)阿佐ヶ谷村名主・第十代・相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり散在していた家墓を集め、村共有の地に貧富に関わらず地割を平等にして造った共同墓地です。そして、墓地管理のため、相沢家の土地に本堂を建立し慶応年間(1865年〜1868年)江戸浅草・海運寺(現杉並区成田東四丁目十八番九号)末寺・観音庵(現新宿区新宿七丁目三番十三号)より実山見道尼を初代庵主として招いて、開創したのが当庵です。本堂は戦災で焼失したため昭和三十一年(1956年)に再建されたものです。東側の塀に沿った道は、権現道と呼ばれた古道で、練馬・円光院子の権現(貫井五丁目七番三号)におまいりに行く参詣道でした。今は賑わっているパールセンターの通りも権現道で、大正の初めごろは、雑木林や畑の中の道でした。また、当庵墓地の北側は茅山で、狐がすんでいたということです。このような昔の姿は失われましたが、わずかに、その狭い道幅や曲がりぐあいが、古道の面影を残しています。当庵の文化財としては、文保二年(1318年)・元徳三年(1331年)・宝徳元年(1449年)銘及び年代不明の板碑五基があります。この板碑については「新編武蔵風土記稿」阿佐ヶ谷村小名小山の項にも「此所ニ古碑五基アリ三基ハ文字摩滅シテ見ヘス二基ハ文保二年元徳三年トシルセリ」とあり、また、「武蔵名勝図会」にも同様の記述があることから、これらの板碑は、この地域を知る上で極めて貴重な資料と言えます。
世尊院は中杉通りに面した寺院です。永享元年(1429年)の頃にそれまで阿佐ヶ谷の地にあった宝仙寺の子寺として創建されたといわれています。江戸時代には除地450坪を賜っていました。かつては天沼熊野神社と天祖神社(現・阿佐ヶ谷神明宮)の別当寺で、祇海という名の住職の時代にお伊勢の森(杉並区立杉森中学校からお伊勢の森児童遊園にかけての一帯)にあった天祖神社を寺の隣に移したと伝わっています。「江戸名所図会」には、十二代景行天皇44年に日本武尊が蝦夷を征伐して凱旋の時、ここで休まれたので土地の人が尊の武功を慕って社をつくり、神明宮としたと書かれています。その後、建久年間(1190年〜1198年)にこの土地に住んでいた横井兵部という人が伊勢神宮の参拝に出かけ、勢州(今の三重県)能保野に泊った夜に大神宮のお告げがあり、伊勢の宮川から持ち帰った霊石を社に安置してご神体にしたとも書かれています。祭神が「天照大御神」で伊勢神宮と同じところから、土地の人は旧社地を「元伊勢」と呼んでいました。その後も「お伊勢の森」といって親しまれています。また、近くにあった電信隊の兵士がラッパの練習にきていたりしたので、「ラッパの森」ともいわれました。
世尊院
世尊院は阿谷山正覚寺ともいい、真言宗豊山派の寺で本尊は不動明王です。創立は、現在中野区にある宝仙寺が阿佐谷から移転した頃と伝えられ、武蔵名勝図会には、その時代を永享元年(1429年)頃と記されています。この移転以前の宝仙寺は、現在の阿佐谷南三丁目九番付近に山門をかまえ、当時の寺領は、中央線の阿佐谷駅付近にまで至る大寺であったといわれています。この宝仙寺が移転した後に、宝仙寺の子寺で、地元村民の寺として残されたのが世尊院です。本尊の不動明王立像、観音堂の聖観世音菩薩立像や阿弥陀如来坐像は、室町様式のうかがえるりっぱな仏様であります。なお明治二十二年から大正十一年まで、旧杉並村の村役場がこの寺の本堂におかれていました。現在の本堂は、昭和十年に再建されたものですが、都道133号線建設のため、昭和四十八年現在地に移築し、今日に至っております。
阿佐ヶ谷神明宮は世尊院の裏手にある広大な敷地の神社です。中杉通りから奥まったところにあるので、地元民でないとその存在に気づきません。
阿佐谷 神明宮
この神社は、旧阿佐ヶ谷村の鎮守で、主祭神は天照大御神です。天保七年(1836年)に刊行された「江戸名所図会」巻四によると、日本武尊が東征の帰途、阿佐谷の地で休息し、のちに尊の武功を慕った村人が旧社地(現阿佐谷北5−35付近、同周辺一帯をお伊勢の森と称した)に一社を建て、神明宮を勧請したのが当宮の始まりといわれます。建久年間(1190年〜1198年)には土豪横井兵部(一説には横川)が伊勢神宮に参拝した折、神の霊示をうけ、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられています。その後、江戸時代中頃に至り、祇(ころもへんに氏)海という僧が神告により社を現在地に移し、世尊院が別当職を勤めたといわれます。当宮は、村をこえた地域からの信仰も篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅籠屋中 仲下茶屋中」の文字が刻まれた文政十一年(1828年)の銅製の三本御幣が奉納されています。秋の例大祭に能楽殿で奉納される「阿佐ヶ谷囃子」(区登録無形民俗文化財)は、江戸時代末期からの伝統があり、区内では早くに伝えられた囃子です。ここから井草囃子をはじめ、鷺宮(中野区)、戸塚(新宿区)などに流布していったといわれます。
境内にはご神木の一対の欅の大樹が聳えています。
御神木 夫婦けやき
もともとは別だった二本の若木が長い年月の間風雪に耐え夫婦のように寄り添いやがてしっかりと一つに結ばれました。良縁成就また夫婦円満のご利益があるといわれています。
阿佐ヶ谷駅北口にやってきました。駅の所在地の地名は阿佐谷ですが、駅名は「阿佐ケ谷」と「ケ」が入ります。ちなみに、「あさがや」という表記には三種類があります。小さい「ヶ」をつける阿佐ヶ谷、「ヶ」がつかない阿佐谷、それに大きい「ケ」をつける阿佐ケ谷です。
- 阿佐ヶ谷
- 銀行の支店名で使われています。
- 阿佐谷
- 役所関係で使われる書き方です
- 阿佐ケ谷
- 駅名で使われる表記です。
阿佐ヶ谷駅の南口には長大な商店街の阿佐谷パールセンターがあり、8月の第1週目に阿佐谷七夕まつりが開催されます。多くの飾りや人形がアーケードを彩る他、駅構内にも七夕飾りが設置されます。阿佐ヶ谷駅の北口にはスターロードや北口アーケード街などがあります。どちらかというと、南口は健全な商店街、北口はディープな飲み屋街といった感じです。
ということで、「7.荻窪北・下井草編 荻窪・阿佐谷コース」を歩き終えました。日大二高通りは何度も通ったのですが、北側エリアにはあまり踏み込んだことはありませんでした。荻窪にも結構昔の面影が残っているように感じました。
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