- 8.荻窪北・下井草編 荻窪・井荻コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「8.荻窪北・下井草編 荻窪・井荻コース」を歩きます。JR中央線荻窪駅をスタート地点として、白山神社・光明院・妙正寺などの寺社を巡り、杉並区の北部を縦断します。
「8.荻窪北・下井草編 荻窪・井荻コース」の歩行距離は4.2km、歩行時間は1時間30分です。
スタート地点:JR中央線荻窪駅西口
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- 1.荻窪白山神社
- 中世にはあったと言う旧下荻窪村の鎮守です。都内有数の大神輿・大太鼓があります。
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- 2.光明院
- 通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪の地名の由来と言われています。南北朝期の開創で、多くの仏像・石仏があります。
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- 3.清水の井戸
- 町名「清水」の由来となる、複数の遊水池がかつて存在し、地域の人々に親しまれてきました。
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- 4.妙正寺
- 650年程前に妙正寺池畔に建てられた堂が始まりです。三代将軍徳川家光公が鷹狩の途中で立ち寄り有名になりました。
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- 5.妙正寺公園
- 武蔵野台地の湧水池である妙正寺池を中心に、1963年に開園した公園です。現在の池の水は人工的に揚水しています。
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- 6.中瀬天祖神社
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- 7.井荻トンネルの南換気塔
- 環八通りは井荻駅を中心に1263mのトンネルとなっていますが、巨大な2本の換気塔が建てられています。
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- 8.下井草の畑
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ゴール地点:西武新宿線井荻駅南口
スタート地点のJR中央線荻窪駅西口から歩き始めます。荻窪駅には、東口改札と西口改札があります。多くの人は東口改札を利用しますので、西口改札はいつも空いています。東口改札は西口改札の5〜10倍位の利用客があるようです。東口改札を出ると左手にルミネの地下売場の入口があります。西口改札は、駅舎の北側出口から徒歩10秒でルミネと西友に入れます。ちょっと裏口感はありますが。
北側の階段を降りると、ごちゃごちゃとした商店街通りに出ます。飲食店が多いですね。その中に「なごみの湯」があります。岩盤浴やサウナや各種のお風呂が楽しめる本格的な天然温泉です。といっても、温泉は地下から湧き出たのではなく、奥多摩にある日の出町三ツ沢の地下1、500mから汲み上げたものを運んできているそうです。泉質はアルカリ性単純温泉で、肌の汚れや古い角質を落としてすべすべな肌にしてくれる効果があり、つるつる温泉と呼ばれています。そういえば、御岳山から日の出山を経て下山中に「つるつる温泉」という温泉施設がありましたね。都心からは無茶苦茶遠い山の中にあったと思うのですが、あんなところから荻窪まで毎日温泉水を運んでいるのでしょうか?
なごみの湯から少し歩いたところに見所ポイント1の荻窪白山神社があります。商店街の中に突如現れた緑の鎮守といった感じです。由緒書きによりますと、神社の起源は文明年間(1469年〜1486年)に関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が屋敷内に五社権現社を奉齋したのに始まり、後に中田一族が栄えてここに社殿を建てたといわれています。ここの神様のお告げで社前に生える萩(ハギ)で作った箸で食事をしたら歯痛が治った、という言い伝えがあります。でも、歯が痛かったら食事なんかできませんよね。
荻窪白山神社
この神社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命です。下荻窪村が中世に村をつくっていたことは、宝徳三年(1451年)の上杉家文書や、昭和五十四年に荻窪三丁目三十三番から宝徳前後の年号をもつ板碑が発見されていることからも知られます。当社の起源は、社伝によると文明年間(1469年〜1486年)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉斎したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたといわれます。当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の弟兵庫が、激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をすると不思議に歯の痛みが止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様として信仰厚く参拝者も多くなったといわれます。その萩もかつては境内に多く繁っていましたが、今では社殿北側の老松の根元に一株残っているだけになりました。昭和四十三年の社殿改築の折には、古い社殿の長押から納められた萩の箸が、たくさん出てきたといわれます。社屋や数多い奉納品の中、昭和三年に奉納された神輿は百五十貫余(約563キログラム)もあり、また大太鼓(直径149センチメートル)は、府中の大国魂神社の太鼓につぐ都内第二の大きさであるといわれます。昭和四十二年環状八号線拡張にともなって本殿・拝殿・社務所・玉垣などの増・改・修築や多くの奉納がなされ、今日の姿を得るに至りました。祭日は九月八日です。
荻窪白山神社のご祭神は伊邪那美命という女の神様で、毎年9月7日〜8日に挙行される秋季例大祭では「女みこし」が荻窪の町を練り歩きます。祭神が女神であることから、ぜひ女みこしを実現しようという声があがり、昭和五十四年から40年以上も続いています。境内の神輿庫には立派な大神輿が並んでいますが、女性が担ぐにはちょっと大き過ぎませんかね?
神社の狛犬は一対になっていて、口の開いている方が雄、閉じている方が雌となっています。狛犬の起源は古代インドで、仏様の両脇の守護獣としてライオンの像を置いたのが始まりと言われています。古代エジプトやメソポタミアでもライオンの像が神様のそばにいて、ギザのピラミッドのそばにあるスフィンクスも本当は2体あって、狛犬のようなものだったという説もあります。日本に狛犬が伝わったのは飛鳥時代で、獅子(ライオン)として伝わりましたが、獅子がいない日本では犬と勘違いされたようです。当初、狛犬は左右の姿に違いはありませんでしたが、平安時代には形が変わってきました。一般的に、狛犬は向かって右側が阿形(あぎょう)、左側が吽形(うんぎょう)といいます。阿吽(あうん)は仏教用語で、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音です。なので、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉となっています。そのため、右側の阿形は口を開けて、左の吽形は口を閉じている形になりました。同じように、仁王像も、阿形像が口を開き、吽形像は口を閉じています。ということで、本来は狛犬には雌雄の区別はないということになります。
見所ポイント2の光明院はJR中央線の線路に接しています。環八北側から駅の西口に通じる道路がないので、線路添いの境内の通路が地元民の往来の抜け道になっています。
光明院
慈雲山光明院は、真言宗豊山派の寺院で通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708年)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝期にさかのぼるものと考えられます。今も寺の周辺に残る「四面堂」・「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。なお、嘉永三年(1850年)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治二十一年(1888年)甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。
門前の横に3本の案内柱が立っています。観音菩薩座像は本尊ですので拝謁は叶いませんでしたが、板碑と手水鉢は境内にあった筈ですが見落としました。観音菩薩座像の小面は十一体とありますが、左右の垂髻部に二面・地髻部に八面と、どう足しても十一面にはならないのですが?
杉並区指定有形文化財 夜念仏供養結衆交名板碑 一基
室町時代の東国の民間習俗を伝える板碑は、宗教行事に伴って造立されたもので、念仏・夜念仏・月待などのものがあり、本板碑はその中でも早い時期に出現した夜念仏供養板碑の代表的なものです。碑面には、阿弥陀三尊種子と光明真言の月輪、三具足、そして文明三年(1471年)十月十三日夜念仏供養逆修敬白の記銘と、結衆七人の名などが刻まれています。本板碑は、室町時代に杉並にも夜念仏信仰のあったことを示す貴重な資料です。
杉並区指定有形文化財 木造千手観音菩薩座像 一駆
本像は当寺の本尊で、十一面四十二臂、寄木造りの、像高78cmの像です。千手観音像では比較的少ない坐像の形をとっています。本来は、全体に漆を塗って金箔をおいた漆箔造りですが、永年の香煙が体を厚く覆って、くすんだ色になっています。此仏は頂上仏を中心に、左右の垂髻部に二面、地髻部に八面の十一体の小面を差し込んであります。像容は洗練された手法を示し、彫眼でやや伏目なお顔は端正です。本像は、区内には数少ない室町時代の作で、格調ある仏像として貴重です。
杉並区指定有形文化財 天和二年銘手水鉢
手水鉢としては区内最古となる天和二年(1682年)の銘を有し、江戸近郊では希少とされる元禄年間(1688年〜1703年)以前の石造物である。正面・左右面には、蓮華の意匠が厚く浮彫りされており、勢いよく力強い図柄は、直線上の手水鉢の底部とともに、江戸時代前期における石造品の特色を示す。銘文には「荻(ママ)窪村」(荻窪村)の村名や願主、江戸木挽町の石工の名があり、左面にみられる「當寺朝善」は、光明院住職と考えられる。この手水鉢は、江戸時代前期の遺品として貴重であり、上荻窪村の様子を物語る文化財としても貴重である。
ところで、萩寺というくらいなので境内に萩が密集していると思っていたのですが、萩は何処に?ちなみに、この通路が地元民が利用する抜け道です。
旧杉並公会堂は1957年に開館し、当時の東京には千席以上の大ホールは戦前からの日比谷公会堂しかなかった中、1、176席のホールを有し、音響設備等が優れた最先端ホールとして「東洋一の文化の殿堂」と呼ばれました。旧公会堂では、1966年7月9日に「ウルトラマン子ども大会」が開催され、ウルトラマンが初めて一般にお披露目されました。その模様は「ウルトラマン前夜祭」として本放送開始の1週間前にあたる翌7月10日にテレビ放送されました。1970年8月8日には「8時だョ!全員集合」(TBS系)の公開生放送が行われ、以後数々のテレビ番組の収録が行われてきました。現在の公会堂は、2003年に旧公会堂を取り壊して改築し、2006年6月1日にリニューアルオープンしたものです。
ウルトラマン誕生
「特撮の神様」と言われた円谷英二が設立した「円谷プロダクション」により制作された「ウルトラマン」。その第一話放送に先立つ1966年7月10日に放送された「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」(TBS系)という番組PRイベントがここ杉並公会堂で、前日の7月9日に収録されました。このプレートは、杉並公会堂が「シリーズ初放送『ウルトラマン誕生』の舞台となった地」であること、及び2016年7月9日・10日に50年記念催事「ウルトラマンの日 in 杉並公会堂」を実施した事を記念して設置されました。
アキダイさんは練馬区関町に本店があるスーパーマーケットチェーンですが、荻窪にも青梅街道に面してお店があります。都内に本店を置いているために在京キー局から近いことや中小企業が故に取材がし易いこともあり、天候の影響による農作物の値上げや消費増税などの話題の際にテレビ局のニュース・情報番組から取材を受ける事が多いことで知られています。2019年の新語・流行語大賞では、「軽減税率」で名物の秋葉社長が受賞しました。
最近では、コロナ渦やロシアによるウクライナ侵攻により原材料価格や物流費・資材費などが高騰し、また円安の影響で年内に値上げされる食品は1万品目以上になるとみられ、価格転嫁が難しい中でお店の負担は極めて大きいとのことです。
荻窪駅北口の青梅街道から教会通り商店街が始まりますが、その先にあるのがセブンスデー・アドベンチスト天沼教会です。東京衛生アドベンチスト病院はその附属病院で、セブンスデー・アドベンチスト教団系の医療法人財団アドベンチスト会が運営しています。地元では衛生病院と愛称されています。昭和四年(1929年)に現在の地に20床で開設され、昭和二十年(1945年)には一度閉鎖されましたが、2年後の昭和二十二年(1947年)11月には30床で再開され、平成八年(1996年)には産科棟を新築したのと同時に、産科棟のみ専用入口を設けているのが特徴です。同年6月にはホスピスを併設するようになり、平成二十年(2008年)には186床に増床されました。平成三十一年(2019年)に「東京衛生病院」から「東京衛生アドベンチスト病院」に改称されています。
日大二高通りの北側、環八の東側に沿って「清水」の町域が広がっています。見所ポイント3の清水の井戸は、清水の町名の由来となりました。
町名「清水」の起こり
当地には、現在も湧き水が出ており、ここから湧き出た水は、四面道から流れてくる小川に合流し、妙正寺池の下手にある井草川から早稲田・飯田橋・水道橋と流れている川まで続いている。現在では暗渠となっているが、その上に造られた遊歩道で、昔の小川の存在を確認することができる。明治二十二年に四ヶ村合併で「井荻村」が誕生するまで、当地は「東京府下豊多摩郡、井荻町、大字下井草、字沓掛」と呼ばれていた。そして、この地域には、このような湧き水が数ヶ所あったため、この付近の数軒の農家を指して、「清水側三軒」とか「清水側五軒」と呼んでいたという。昭和七年十月一日に杉並区が誕生し、東京市に編入され、昭和十八年には、東京府と東京市が合併して東京都が誕生した。その後、現在の清水一丁目〜三丁目という住居表示が使われるようになったのは、昭和四十年頃からのことである。当地のような湧き水が、現在の清水の森の西側をはじめ、数ヶ所存在していた事から、正式な地名が「清水」となった。湧き水というのは、水温が低く清冽すぎる事から、稲の育ちが悪いため良田とはならず、昭和十年頃には、当時の所有者が南側一帯から土を運び、畑に作りかえたこともあった。しかし、「昔からあった泉を暗所に閉じ込めてしまうのは、自然の摂理に反すること、これは水の神に対する冒漬になる」という話を受けて、敗戦後の食糧不足の最中ではあったが、直径2メートル、深さ21メートルほど土を除き、漬物石などですり鉢型に土どめを施し、現在のような浅い堀り井戸のように形を変えた。そして、現在でも清らかな水が湧いているが、この湧き水をみても、「清水」の地名の起こりとして恥ずかしくないと思っている。また、現在の竹林は、石神井から運ばれ移植したもので、幼児などが転落する危険防止の目的も兼ねている。竹は、松や梅と並びおめでたいものの代表でもあり、冬の寒さにも負けない強い生命力と見た目の美しさから、家族や近隣に住む者たちに癒しを与えてくれたものである。
荻窪にはまだまだ武蔵野の面影が残っています。住宅地の合間にも規模は小さいですが、畑が見られます。緑は貴重ですよね。
「清水森」公園は、用地のほぼ半分ずつを昭和五十七年と昭和六十一年の2回にわたり民間から買収してつくられました。公園となる前は、借地の時代も含めて昭和五十五年から遊び場として開放されていました。起伏のある敷地には、コナラ・エノキ・シラカシなどの落葉樹のほか、シイノキ・サワラなどの常緑樹がこんもりと繁っています。高木の大部分は在来のもので、木立の下に広がる広場にはいろいろな施設があります。子供達の人気となっているのは流れと木製遊具で、流れの水源は広場の中央の植込みのそばにもうけられたバードバス(鳥の水飲み場)です。水は岸辺の石を洗い、左右に蛇行して広場の西端まで流れています。角材でつくられた「冒険デッキ」と呼ばれる木製遊具は、やぐらとすべり台を組み合わせたもので、流れの近くに2つもうけられています。
住宅地の中に川の流路の跡に造られたと思われる遊歩道が見られます。記憶がはっきりしませんが、「東京の河川を歩く」で通ったことがある井草川遊歩道のようです。
路地の交差点角に小さな祠があり、石仏と板碑が収められています。祠の中の壁には「杳掛庚申塔」という案内板が掛けられていますが、なかなか読み取り難く、別のコースでご紹介したいと思います。祠の横の茂みの中には案内板が埋まっています。ちなみに、「杳掛:くつがけ」とは、旅人などが道中の無事を祈願して道祖神・庚申・山の神などに草鞋(わらじ)や馬沓の類を掛けて手向けることや、掛けたものをいいます。
民間信仰石塔
ここに建立されている石塔は、向かって右が宝永五年(1708年)銘笠付角柱庚申塔(帝釈天)、左が安永十年(1781年)銘角柱型廻国供養塔です。かつてはここより北西約百メートルの現NTT井草ビル北西角(旧称馬場下道の路地角)に造立されていましたが、大正から昭和初めに行われた土地区画整理の際に当地に移されました。庚申塔は、庚申の夜に体内にいる三尸(さんし)の虫が、その人の悪業を天帝に告げ、寿命を縮めるという道教の説から、人々が集まって夜を明かす庚申待を行った講中が、供養のために建てたものです。この塔は、青面金剛や三猿が彫刻された庚申塔で、「奉造立帝釈天王講中」と刻まれています。一般に庚申信仰では青面金剛が主尊とされますが、日蓮宗では帝釈天を庚申信仰の対象としています。この塔からも、日蓮宗での帝釈天信仰と庚申信仰の結びつきがわかります。また、青面金剛は六臂のものが一般的ですが、これは八臂の青面金剛で区内でも珍しいものです。廻国供養塔は、西国三十三観音などの霊場巡拝を遂げたことを記念して建てたものといわれます。西国三十三観音に加え、江戸時代には坂東三十三観音、秩父三十四観音が設けられ、百観音巡拝の観音信仰が盛んになりました。この塔も、百ヶ所を巡拝したことを記念して建てたものと思われます。塔上部の八字の梵字は、聖観音真言をあらわしています。真言とは、口で唱えると仏と一体となれると考えられている、仏の教えを表現する梵語です。なお、花立にはこの辺りに落ちた焼夷弾の残骸を使用しています。
住宅地の中に年代物の巨大な長屋門が建っています。長屋門は江戸時代の武家屋敷の門として多く建てられ、家の格式や禄高によって仕様が決められていました。領主が許せば武士以外の農民なども長屋門を建てることが出来、「杉並風土記」によれば、杉並区には10棟の長屋門があったそうです。多くは豪農や名主などの屋敷に建てられていました。井口家の長屋門は、白壁で優雅な造りになっています。現在は門だけが残され、屋敷は更地になっています。杉並区には「井口」という名字が多く、この井口喜容家は江戸時代に「虫切り」療法で有名で、屋号も「虫切り」だったそうです。長さ10cmの針で乳児の指の関節を刺す療法に効き目があると評判になり、患者が列をなしたといわれています。古今東西乳児の「虫」に悩む人は多いようですが、長針を乳児に刺すという療法は想像しただけでもゾッとしますね。
杉並区指定有形文化財 井口喜容家所藏文書
当家に所蔵されている古文書は、江戸初期の寛永十二年(1635年)から明治三十五年(1902年)にかけての旧下井草村の地方文書で、点数は約500点におよびます。特に「名寄帳」・「御用控帳」など近世後期の村政関係のものが豊富で、旧下井草村の村落概況などを知る、基本的な文書の一つです。また、江戸時代の高家−朝廷への使節、勅使の接待、儀式などを司った幕府の職名−今川氏支配の実態を知るうえでも貴重な資料です。
道路脇に「科学と自然の散歩道」の案内板が置かれています。下井草地区にはあちこちに置かれていて、お散歩の際のガイドになっています。「科学と自然の散歩道」は、ノーベル物理学賞を受賞し、杉並区内に在住した小柴昌俊博士が「ぐるっと回れる散歩道があれば」と提案したことがきっかけで誕生しました。駅前や周辺の公園を周遊できるように道がつながり、小柴博士の手形が刻まれたタマゴの石像や地元の小学生らが作ったオブジェも沿道に置かれています。
科学と自然の散歩みち
「科学と自然の散歩みち」は、小柴昌俊博士のノーベル賞受賞と名誉区民称号贈呈の記念事業として行いました。地域の貴重な資源(井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館など)をつなぎ、誰もが楽しく周遊できる「散歩みち」です。
遊歩道の入口に金太郎さんの車止めが設置されています。金太郎が登場したのは昭和五十年(1975年)頃です。当時の杉並区広報に「悪質ドライバー阻止に金太郎さんの車止がお目みえ」という写真が掲載されています。昭和四十年代から杉並区内の河川や水路に蓋をする暗渠化が始まり、その上が歩道になった際に、車の進入を防ぐ車止めが設置されました。このうち、子供が遊んだりよく通ったりする遊歩道には、昔話を知るきっかけにと金太郎のパネル付きのものが採用されたそうです。当時の車止めは鉄製で、雨水などにより経年劣化しやすかったため、平成以降は順次ステンレス製に置き換えられています。この流れを受けて、かつて身近に見られた金太郎の車止めも次第に姿を消し、現在では50数基になっています。
見所ポイント4の妙正寺は、近隣にある妙正寺池(妙正寺公園)やそこを水源とする妙正寺川の名の由来となっています。墓地には、江戸時代の囲碁棋士で、後に六世本因坊となった本因坊知伯の墓があります。
妙正寺
法光山妙正寺は、日蓮宗の寺で十界諸尊を本尊とし、ほかに大黒天・鬼子母神・三十番神・弁財天などの諸像が祀られています。約六百年前の丈和元年(1352年)、中山法華経寺(千葉県)の第三世日祐上人が、妙正寺池のほとりに堂を建て、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大神など三十番神を勧請したのが草創であり、正保三年(1646年)中興開山日明が社殿再建してから、広く信仰されるようになったといわれます。慶安二年(1649年)、三代将軍徳川家光が鷹狩りの折、神前に武運長久を祈願し、葵の紋幕と朱印地五石を寄進してからは、「御朱印寺」として一層有名になりました。現在でも、毎年十月二十五日に三十番神堂に、葵の紋幕を掲げて一般に公開する法会が行われています。天保元年(1830年)に本堂は古文書類と共に焼失しましたが、天保三年には再建され、昭和六年に改築して今日に至っています。また、三十番神堂及び鐘楼は安政三年(1856年)の大暴風で倒壊し、安政六年に再建されました。なお、現在の鐘楼は、昭和三十八年に新しく建て替えられました。当寺に伝わる鎌倉期から室町期の板碑八基は、妙正寺池周辺の古い村落のことがうかがえる貴重な文化財です。鬼子母神像は、「生毛鬼子母神」と称され、安産に霊験ありとして、江戸城大奥にありましたが、天保改革(1841年)の大興粛清の時、この寺に移されたもので、それ以来この地域の人々に「安産の神」として親しまれてきたといわれます。なお、弁財天像は、もと妙正寺池の弁天島に祀られていたものです。
安政六年に再建された鐘は戦時中の金属類回収令によって取り外され、牛車にひかれて供出されたそうです。現在の鐘桜堂は昭和三十八年に建替えられました。
見所ポイント5の妙正寺公園は、妙正寺川の水源になっている妙正寺池を中心にした公園で、池の周辺の休息コーナー、木製遊具・砂場などの遊具コーナー、そしてゲートボールなどのできる運動コーナーの3つの広場があります。公園の中の池は、湧水によってつくられた池でしたが、近年になって湧水の量が少なくなったため、近くに井戸を掘り地下水をくみ上げて池の水の大部分をまかなっています。岸辺はツツジや花壇でかざられ、その周りには舗装した園路がめぐらされています。園路の外側にはアケボノスギ・サクラ・ケヤキなどの大木が立ち並んでいます。池の中には大小2種類の噴水が設けられ、いろいろな形の水しぶきをあげています。また、池には円い中島が浮かんでいて、そこには水辺の植物とマツが植えられ、池の周辺の景観に彩りをそえています。
妙正寺公園の直ぐ先に見所ポイント6の中瀬天祖神社が鎮座しています。中瀬天祖神社の創建年代は不詳ですが、妙正寺が十羅刹堂として創建したと考えられています。明治維新後の神仏判然令により天祖神社と改称し、井草八幡宮の兼務社となりました。
中瀬天祖神社
当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡下井草村の条に「十羅刹堂」とあり、「妙正寺ヨリ三町程北ノ方小名神戸ニアリ 妙正寺御朱印地ノ内ナリ 即此ノ寺ノ持」と記されています。十羅刹とは、もと人を食う悪鬼でしたが、後に法華経を守る守護神となった十人の羅刹女といわれています。このことから、日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀ったものと思われます。明治以前は十羅刹様、神明様などと称していましたが、維新後の神仏分離令(明治元年)によって天祖神社と改称されました。祭神は大日(れい)貴神(おおひるめむちのかみ:天照大神の別の尊称)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと:天照大神の姫神)・保食神(うけもちのかみ:穀物や食物の神)の三神です。また、このほかに市杵嶋神社・稲荷神社合殿の境内社が一社あります。「神社明細帳」の由緒には「当社は井草八幡宮の境外神社で井草川の西岸神戸坂の上に在り、極めて古き社にして、神体は一大石剣なり。」とあります。この神体を霊石とする伝説があり、昭和二十年頃までは例祭日には社前で餅をつき“下ベロ餅”という丸餅を参拝者に配りました。この餅を食べると子宝が授かるといわれ遠方からも多数の参拝者があり「神戸の鎮守様」として昔から親しまれてきました。天祖・稲荷それぞれに講中があり、百余名の氏子が熱心に維持管理に当っています。例祭日は十月十五日です。
下井草地区には遊歩道があちこちに見られます。ここは井草川本流とは離れていますので、支流か何かの跡と思われます。
見所ポイント7の井荻トンネルの南換気塔は今回のコースから外れた環八上にありますので、うっかりして見落としてしまいました。写真は後日別のコースで訪れた際のものです。南換気塔は、北換気塔と共に井荻トンネル内の排ガスを出し外気を入れる施設です。井荻トンネルは、環八(都道311号)が西武新宿線・早稲田通り・新青梅街道・千川通り・旧早稲田通りの下をくぐっている道路トンネルで、杉並区と練馬区にまたがって全長が1263mあります。将来、車が全て電動化された暁には撤去されるのでしょうか?
下井草地区には、道路から外れたところに農地が散在しています。見所ポイント8の下井草の畑はファミリー農園のように雑然としていますが、一応「生産緑地地区」の指定は受けているようです。
再び、「科学と自然の散歩みち」の案内板が立っています。ゴール地点の井荻駅まではもう少しです。
井荻駅に行くには、駅前通りを歩くか、井草川遊歩道を歩くかの2通りがあります。折角なら、緑濃い遊歩道を歩きたいですね。
ゴール地点の井荻駅は環八に隣接した西武新宿線の駅です。南口新駅舎は平成九年(1997年)5月13日に使用が開始され、小綺麗な外観をしています。それまでは線路の北側に改札口がなく、駅の北側から上り電車に乗車するには、一旦環八の踏切を渡って駅の南側に出てから改札を通り、今度は構内踏切を渡って線路の北側へ戻るといった不便を強いられていました。環八と西武新宿線の立体化工事が行われるまでは環八通りでも有数の開かずの踏切だったため、朝のラッシュ時などは駅の北側に住む利用客は大変な思いをしたことでしょう。
「8.荻窪北・下井草編 荻窪・井荻コース」は、荻窪駅から井荻駅までほぼ直線的に北上しますが、都会的な中央線文化からローカルな西武新宿線文化への変化が面白かったです。井荻駅南口にはこの後も何回か訪れます。
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