- 9.荻窪北・下井草編 下井草・井荻一周コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「9.荻窪北・下井草編 下井草・井荻一周コース」を歩きます。西武新宿線下井草駅をスタート・ゴール地点として、杉並区の北部を一周します。
「9.荻窪北・下井草編 下井草・井荻一周コース」の歩行距離は5.6km、歩行時間は2時間です。
スタート地点:西武新宿線下井草駅南口
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- 1.旧早稲田通り
- 江戸とこの付近の村々を結ぶ主要道の一つで、沿道には文化財が点在しています。下井草駅付近は商店街です。
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- 2.屋敷林
- 農家は風を防ぐため家屋の周囲に木や竹などを植え屋敷林としましたが、現在は地域の貴重なみどりです。
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- 3.区画整理のまち並
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- 4.妙正寺川
- 妙正寺池を水源として東に流れ神田川に合流する約9kmの川です。両岸の遊歩道はしだれ桜がみごとです。
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- 5.妙正寺公園
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- 6.岩石園
- 中瀬児童遊園沿いに8種の岩石が展示されています。小柴昌俊博士の「夢のタマゴ」のモニュメントもあります。
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- 7.下井草の長屋門
- 武家しか建てられなかった長屋門を、村役人が領主の許可を得て建てたもので、出格子作りの武者窓が付いています。
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- 8.科学と自然の散歩道
- 小柴昌俊博士のノーベル賞受賞を記念してつくられ、井草川遊歩道・妙正寺川・科学館などを周遊しています。
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- 9.井荻駅
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- 10.教会の見える畑
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- 11.井草観音堂
- 久保の観音様とも呼び、江戸初期の建立といわれ、如意輪観音と地蔵菩薩の彫られた舟形石塔が祀られています。
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ゴール地点:西武新宿線下井草駅南口
スタート地点の西武新宿線下井草駅南口から歩き始めます。下井草の町域は杉並区の北部に位置し、北側を西武新宿線、西側を環八通り、南側を早稲田通り、東側を中杉通りに囲まれています。町域の東南部を西南から東北へ向かって妙正寺川が流れ、西側にはかつて妙正寺川の支流である井草川が流れていました。現在井草川は暗渠化され、その上に遊歩道が整備されています。昭和二年(1927年)に川越鉄道村山線(現在の西武新宿線)が開通し、町域内に下井草駅と井荻駅が開業しました。今回のコースは下井草駅から西武新宿線の南側を巡り、井荻駅を経て西武新宿線の北側(井草町域)を巡ります。ちなみに、「井草」という地名の由来には諸説あります。
- この地が善福寺池・妙正寺池周辺の低湿地にあり、藺草(イグサ)が生えていた。
- 池の草と呼ばれた葦(ヨシ)がたくさん生え茂っていて、池の草→葦草(いぐさ)となった。
- 町域が善福寺池と妙正寺池との間の草原にあって、「池(井)」と草原の「草」を合わせた。
- この地を開拓した長左衛門という人物が井口姓を名乗り、「草分け長左衛門」と呼ばれていたことから「井」と「草」を合わせた
二番目のゴロ合わせがよく分かりませんね。
見所ポイント1の旧早稲田通りは、杉並区の早稲田通りの本天沼二丁目交差点から西武新宿線の下井草駅前を経て、練馬区の富士街道に至る延長5kmの往復1〜2車線の都道です。早稲田通りから下井草駅前を経て千川通りと交差する八成橋交差点までの間はセンターラインがひかれた往復2車線の道路になっています。ただ、歩道はあっても狭かったり、歩道がなくて路側帯に白線がひかれているだけの区間もあります。下井草駅の南側の商店街(ショボイ)で旧早稲田通りはクランク状に屈曲しています。
杉並区には、周囲を高い塀で囲った広大な敷地の屋敷が幾つか見られます。見所ポイント2の屋敷林は下井草駅近くの旧早稲田通りに面しています。敷地内には巨樹が生い茂り、まるで森林のような風景です。入口は長屋門風になっていて、なかなかの豪邸です。門前には枝振りの良い松の木が対になって植えられていて、植栽も美しく手入れされています。代々続く旧家なのでしょう。
下井草駅周辺は昭和初期に区画整理が行われ、碁盤の目のように整然と美しく、見通しのよい住宅街が形成されました。見所ポイント3の区画整理のまち並には、広い敷地に個性的な外観の一軒家がゆったりと建ち並んでいます。この区画整理事業を主導したのは、明治九年(1876年)に上井草村に生まれ、30歳という日本一の若さで井荻村の村長に就任し、町長・府議・市議・都議を経て都議会議長を歴任した内田秀五郎です。内田秀五郎は、都農業会会長・全国農業委員会協議会会長・東京青果協会会長などの農業分野の役職も務めました。関東大震災以降に進行が加速した東京近郊の都市化への対応に力を入れ、省線中央本線に西荻窪駅の設置を実現し、新たに開通した西武鉄道にも上井草・井荻・下井草の三駅を誘致しました。加えて村主導で大規模区画整理を手掛け、村長だった内田秀五郎が中心となって村全域を対象として計画されました。内田秀五郎は近い将来の都市化を見越して区画整理の必要性を説き、大正十四年(1925年)9月に「井荻村土地区画整理組合」を設立し、反対派を説得のうえ、昭和十年(1935年)、約10年間をかけて事業を完了しました。この時の区画整理事業の総面積は約880ヘクタール余りに及び、単一町村独自で行った事業としては全国屈指の大規模なものでした。現在の整然とした街並みもこのようにして実現されました。また、善福寺一帯を風致地区としたり、産業面でも井荻信用購買組合(現・西武信用金庫)や東京新宿青果(現・東京新宿ベジフル)を創立し、中島飛行機東京工場(跡地は現在の桃井原っぱ公園になっています)の誘致に成功しました。先見の明があった人だったんですね。
子供・子育てプラザ下井草の裏に整備された下井草どかん公園は、2021年3月20日に開園した新しい公園です。その名の通り、公園内には大きな土管がゴロゴロと置かれています。かってプラザ下井草が下井草児童館だったころ、児童館の隣には向井公園(通称じゃり公)がありました。向井公園の場所に保育園が建てられることになり、代わりに遊び場112番という公園が出来ました。そしてその遊び場112番がさらに広くなって下井草どかん公園として再整備されることになりました。公園の名前は地域の人が案を募集し、区に提案して決められました。何故土管が置かれたのかはよく分かりませんが、単なる遊具なのかもしれません。杉並区では久我山東原公園を保育園に転用する際に激しい反対運動があったそうですが、ここではどうだったのでしょうか?
住宅地の一画に小さな地藏堂があります。石橋供養塔と石塔は見過ごしました。
地蔵堂
この地蔵堂は、正徳三年(1713年)六月に観泉寺(今川2−16−1)持として、旧下井草村字向井草の現在地に創立されました。別称・平等軒ともいわれ、本尊は地蔵菩薩です。「新編武蔵風土記稿」に「見捨地五畝 小名井草前ニアリ 四間二三間ノ堂ニテ南向 本尊木ノ立像ニテ長一尺七寸 遅野井村観泉寺持」と、この地蔵堂の記述があります。天保五年(1834年)二月には、観泉寺が下井草村の年寄田中惣兵衛にこの堂の管理をまかせていました。その後、天保十二年(1841年)に間口五間・奥行三間の堂を焼失してしまいました。翌天保十三年(1842年)九月、田中惣兵衛が村民の代表者となって、鳥見役にその再建を願い出たという記録が残されています。明治初年には、観泉寺庵室となり、慈照という尼僧が住むようになりました。その当時は、境内は九十坪の年貢地でしたが、明治十年代初めには、境内は百三十坪となり、信徒も三十一人を数えるにいたりました。その後、観泉寺から独立し、現在の境内は三坪、堂宇は二間四方となりました。平成の初め頃までは、約三十人で結ばれた地蔵講中があり、毎年十一月二十四日に夜、堂前左右に行燈を立て、燈明を献じ、般若心経を唱和した後、酒食を共にするならわしがありました。現在は、地元有志の方によって大切に管理されています。なお、堂前、左側の石造物は、宝暦八年(1758年)八月建立の地蔵菩薩を刻した石橋供養塔で、右側の二基は、江戸時代の石塔です。
妙正寺川に面してわかたけ公園があります。園内にはタイヤが半分埋まっている遊具があり、飛んだり乗ったりと様々な遊びが楽しめます。園名の「わかたけ」を表しているのか、石銘板の上には筍が2本生えています。名称を彫り込んだだけの石銘板が多いのですが、こういう遊び心も面白いですね。
わかたけ公園のすぐ近くに等正寺があります。墓地に眠る三代目都々逸坊扇歌(1829年〜1880年)は、上方出身の僧侶とも、日本橋室町の乾物屋の子で名を米吉ともいわれます、14歳の時に荷物の上で飛び跳ねて遊んでいて足を痛め、障害不自由になったので座ってできる仕事ということで常磐津の家元に弟子入りし、常磐津米太夫という名取になりました。その後無断で寄席に出たために米太夫の名を剥奪され、四代目船遊亭扇橋(または初代扇歌)の門に入り、都川扇三郎の名で正式に寄席に出演しました。足が不自由だったので、寄席掛け持ちの際は駕籠を使っていました。慶応初年にはすでに扇歌を襲名していました。
等正寺
当寺は応供山と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は江戸期の作といわれる木造阿弥陀如来立像です。「御府内備考続編」および寺伝によれば、元和八年(1622年)江戸湯島(現文京区本郷一丁目)に開創されました。開山は不退院玄証で、足利義満の家臣であった浅野民部大輔永慶の九代の末裔と伝えられています。元禄十六年(1703年)、類焼に遭い、ついで翌十七年(1704年)二月には寺地が御用地となったため、同年三月同所興安寺の隣(現文京区本郷二丁目)に寺地を拝領して移転しました。創建当初は東本願寺に属しましたが、宝暦九年(1759年)八世敬胆律師の代に西本願寺に帰山しました。現在の本尊はこの時に本山から下附されたものです。天保十一年(1840年)の再度の火災によって、それまでの記録類や宝物などの大半を失いました。大正十二年(1923年)の関東大震災で罹災、その後本郷地区の区画整理のため、昭和四年(1929年)に井荻町中瀬(現清水3−23)へ移り、同十六年(1941年)四月、現在の地に再移転しました。現在の本堂は、昭和四十六年(1971年)の建立です。墓地には、狂歌師三陀羅法師(文化十一年【1814年】没)、三代目都々逸坊扇歌(明治十三年【1880年】没)の墓碑があり
ます。
見所ポイント4の妙正寺川は、妙正寺公園の中にある妙正寺池に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を合わせ、新宿区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流する一級河川です。川沿いには遊歩道が整備され、両岸に植えられたシダレザクラは妙正寺川の川面に枝を垂れ、桜の季節には絶好のお花見ポイントになります。
妙正寺川
妙正寺川は、妙正寺池を水源とし、区内北部をほぼ東へ流れる延長約9キロメートル(区内部分約1.2キロメートル)の川で、中野区・新宿区を経て神田川に合流し、最後は隅田川にそそぎ込みます。武蔵野台地上にある杉並区では、地下6〜7メートルに武蔵野砂礫層が堆積しており、その中を流れる地下水が、標高約50メートル付近にある窪地から地表に湧き出て、飲料水などとして利用されてきました。この湧水も現在ではほとんど見ることができませんが、妙正寺池もその一つです。本川の流域には、小規模な縄文・古墳時代の遺跡が点在しており、古代から人々の生活に適した環境をつくり出していたものと思われますが、水量はそう多くはなかったので、江戸時代になって、千川用水より引水し、神田川上水の助水として利用されてきました。しかし梅雨の頃になると水量が増えるので、人々が集まり、竹竿の先につけたジョレンなどを使い、川をさらったり、長く伸びた川藻を刈取ったりしました。又昔は、神奈川県の大山阿夫利神社を信仰する人が多く、その講中の人々は、代参人を大山に送る時、下流の寺前橋付近にあった「清めの不動様」を祀る大水門で、水垢離をとったと伝わっています。日照りが続くと阿夫利神社からの神水と、妙正寺から借りた太鼓を先頭に、大水門から村中を練り歩き、最後にその神水を川に流し、雨乞いをしたといわれています。
そのシダレザクラですが、老齢化が進み、倒木の危険性もあることから、今後植え替えが計画されているとのことです。
妙正寺川のシダレザクラについて
妙正寺川のシダレザクラは、植樹されてから25年以上経過し、立ち枯れたものやキノコが寄生したものが増えてきました。また、強風による倒木などもありました。杉並区では平成三十年度・三十一年度に、河川沿いの高木について樹木医による樹木診断を実施しました。今年度、その診断結果に基づき、幹の中が腐っており倒木の危険がある高木の伐採を行います。今まで伐採や倒木したシダレザクラについては、令和三年度から補植をしていく予定です。
遊歩道の脇に、妙正寺川流域案内板が立っています。この後でも度々出会う井草川は、妙正寺公園付近で妙正寺川に合流していました。内田秀五郎の業績については、見所ポイント3の「区画整理のまち並」で記した通りです。
妙正寺川の水源
妙正寺公園の中にある妙正寺池が妙正寺川の水源です。現在は地下水を汲み上げて放流しています。かつては湧水がみられ、池の中島には水の神「弁天様」が祀られていました。戦前までは、この池の湧水と玉川上水の分流により人々は水田を耕し、生活を営んでいました。
井草川遊歩道
旧井草川を整備した遊歩道です。かつて、上井草四丁目の切通し公園を水源とし、妙正寺公園内(付近?)で妙正寺川に合流する「井草川」という川がありました。かつて井草川に架かっていた道灌橋の名前が公園名に残されています。現在、井草川は暗渠化され、川の流れを見ることはできませんが、緩やかに蛇行した緑豊かな遊歩道を散歩してみてはいかがでしょうか。
井荻町土地区画整理事業
井荻地区の区画整理事業は旧井荻村全域を区画整理の対象としたもので、当時井荻村長だった内田秀五郎らによって計画されました。大正十四年には内田を組合長として井荻村土地区画整理組合(後に井荻町)を設立し、昭和十年に完了させました。総面積は888町歩(約888ヘクタール)に及びました。完成を記念した井荻町土地区画整理碑が、青梅街道沿い井草八幡神社の境内に建てられています。
妙正寺川の遊歩道には、様々なモニュメントが置かれています。これらの人形は日常生活の一コマを表現しているようです。
「科学と自然の散歩みち」は、ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士の提案で実現したお散歩コースですが、その案内板は井草地区のあちこちに置かれています。ここには小柴昌俊博士が語った「夢のタマゴ」をイメージしたモニュメントも置いてあり、台座には「宇宙 人間 素粒子」という言葉が刻まれています。
「科学と自然の散歩みち」は、小柴昌俊博士のノーベル賞受賞と名誉区民称号贈呈の記念事業として行いました。地域の貴重な資源(井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館など)をつなぎ、誰もが楽しく周遊できる「散歩みち」です。
ふれあい・協力
「散歩みち」には、草花を植え育てる花壇やビオトープ、子どもたちの創作品の展示など、住民参加や学校の学習の場づくりとして、地域の方々が交流を深められる場所があります。
「夢のタマゴ」
小柴博士は、「何かやりたいことを見つけ、目標になるいくつかの夢のタマゴを自分の中に持ち続けて欲しい。」とメッセージを送っています。その「夢のタマゴ」をイメージしたロゴマークやモニュメントに「散歩みち」を歩いていると出会うことができます。
子供のモニュメントと共に、短い詩が添えられた石碑も置かれています。誰の作品でしょうかね?
春夏秋冬と
季節は流れる
春は花をかざり
夏は空をうつし
秋は風とはしり
冬は魚とともに
川は流れる
見所ポイント5の妙正寺公園は、妙正寺川の水源にもなっている妙正寺池を中心に遊具や広場が整えられていて、周辺住民の憩いの場になっています。妙正寺池は古来より武蔵野台地の湧水池のひとつで、1352年に池のほとりに日蓮宗の寺院である妙正寺が建てられました。妙正寺池の名前は妙正寺に因んでいます。妙正寺は現在でも池の南側にあり、杉並区でも有数の由緒ある寺として知られています。付近の宅地化とあわせて公園として整備され、昭和三十八年(1963年)4月1日に開園しました。現在では湧水量が減り、妙正寺池の水は人工的に揚水した地下水で賄われています。妙正寺池の中には大小2種類の噴水が設けられ、いろいろな形の水しぶきをあげています。また、妙正寺池には円い中島が浮かんでおり、そこには水辺の植物と松が植えられ、池の周辺の景観に彩りをそえています。公園に面した橋の名前が「落合橋」になっていますが、ここで妙正寺川と井草川が落ち合っていたのでしょうか?
井草川は上井草四丁目にある切通し公園付近を水源とし、全区間が杉並区内を流れていた妙正寺川の支流でした。現在は暗渠化され、一部の河道上が井草川遊歩道として整備されています。
下井草駅脇を通っているのは旧早稲田通りですが、妙正寺公園の北方を横断しているのは本線の早稲田通りです。「早稲田」の地名は、神田川に近く川が入り組んだ地形のため水稲の田園が多くあり、凶作に備えて普通の田植えより早い時期に植える田があった事に由来します。なお、案内板では起点が新宿区下宮比町となっていますが、行政上は千代田区九段北の靖国通りの田安門交差点が起点となっています。また、終点は正確には杉並区上井草の青梅街道の井草八幡前交差点となっています。
早稲田通り
早稲田通りは新宿区下宮比町を起点とし、神楽坂〜早稲田〜小滝橋を通り、区内に入っては中杉通り・妙正寺川・環状八号線を横断、今川四丁目で青梅街道にドッキングしています。区内の延長は約4.3キロメートルほどです。旧来の早稲田通りは下井草一丁目で北上し、下井草駅を通り、石神井台に至る主要地方道25号線の通称名でしたが、昭和五十九年その一部を分離し、西方に接続する特別都道438号線を加えた現路線に変更されました。区内北部を東西に走る早稲田通りは、近世以来の古い道をベースにしており、かつては旧早稲田通り分岐点辺を境に東は「所沢通り」あるいは「大場通り」、西は「井草通り」などと呼ばれていました。そして、区内がまだ近郊農村であった時代、この道は沿道の村々と江戸・東京とを結ぶ主要な交通路のひとつで、荷車などによる農産物や下肥の運搬に広く利用され、農民の生活と産業を支えてきたのです。今日のような道筋が整えられたのは昭和初期のことで、現在の早稲田通りはマイカーやバスの幹線道路として、区内のベットタウン化に対応する新たな機能を果しています。なお、この通りの沿道には文化財が点在しており、阿佐谷北五丁目に東原の地蔵堂、本天沼二丁目・上井草四丁目に各々庚申塔があるほか、下井草一丁目には、大正十年創建の出世大鷲神社が鎮座しています。
中瀬中学校脇の交差点角に、無添加ハムソーセージ工房の「ぐるめくにひろ」のお店があります。平成十一年(1999年)創業の手作りハム・ソーセージが売りのようです。ソーセージは普通生で売られていますが、「焼きたてオーブン焼きソーセージ」もあるそうです。オーダーカットされるそうですから、ミートローフのような感じかな?ギフト用の詰め合わせもあるそうなので、誰かお中元で贈ってくんないかなぁ。。。
中瀬児童遊園は遊具のある普通の公園ですが、公園前の歩道脇の小広場に様々な形状をした、飛騨片痲岩・緑泥片岩(三波石)・蛇紋岩など8種類の岩石が並べて展示されています。見所ポイント6の岩石園と呼ばれています。
岩石群の横に案内板が置かれています。岩にもいろんな種類があるんですね。
中瀬中のこみち岩石園
〜いろんな石にさわってみよう!〜
岩石の種類 −岩石には大きくわけて火成岩・堆積岩・変成岩の3種類があります。−
- 火成岩
- 火山の活動によってできた岩石(マグマが冷えて固まったもの)。マグマが地表まで出てきて固まった火山岩と、地下深くで固まった深成岩とに大きく分けられます。
- 堆積岩
- 堆積物が固まってできた岩石。砂や泥、礫が固まった砕せつ岩や、火山噴出物(火山灰や軽石など)が固まった火山砕せつ岩、生物の遺骸などが固まってできた生物岩などに大きく分けられます。
- 変成岩
- 火成岩や堆積岩などが、地下で高温や圧力によって変化した岩石。
- @花崗岩(火成岩の中の深成岩)
- 花崗岩は、主に石英カリ長石・斜長石・黒雲母を主成分鉱物とする岩石です。鉱物の粒の大小や、長石の色などによって石の風合いが変わります。花崗岩の代表的な石である御影石はもっとも広く使われ、よく目にする石材です。磨くと美しい光沢面が得られます。真壁御影は白色の御影石で、燈篭や墓石に使用されています。また、敷石やモニュメントには、「錆御影や桜御影といった色の違う御影石(中国産)を使用しています。
- A安山岩(火成岩の中の火山岩)
- 日本の火山岩のなかではもっとも多い岩石で、通常、灰色の石基(非常に小さな結晶や結晶になれなかったガラス質の部分)の中に、白と黒の斑晶(大きな結晶)鉱物が散らばって含まれているのが特徴です。小松石は灰色の輝石安山岩で、墓石などに使われています。中瀬児童遊園の石積に使用されているものも安山岩です。
- B玄武岩(火成岩の中の火山岩)
- 玄武岩の緻密なものには、溶岩が冷却するときにできた六角形の柱状の割れ目(柱状節理)が発達することがあります。それを利用して、六万石と呼ばれる柱状の岩石が得られます。磨き面は黒く、公園のベンチなどにも利用されています。
- C礫岩(堆積岩)
- 粒径2mm以上の岩の破片(礫)が堆積して固まった岩石です。岐阜県のさざれ石は、灰色の石灰角礫岩です。
- D砂岩(堆積岩)
- 粒径約0.06mm〜2mmの砂粒が堆積して固まった岩石です。多胡石は凝灰質に石英の粒が入っている砂岩で、主に建材用として内装の貼石に使用されます。
- E蛇紋岩
- 蛇紋石を主成分鉱物とし、主にカンラン岩が変化して生じた岩石です。一種の変成岩と言われています。模様が美しく、大理石などと共にビルの内外装などに多く使用されます。
- F緑泥片岩(変成岩)
- 結晶片岩の一種で、緑泥石を主成分鉱物としています。比較的高い圧力の条件でできた広域変成岩です。青石と呼ばれ、日本庭園の庭石には欠かせないものとなっています。
- G飛騨片麻岩(変成岩)
- 比較的高い温度の条件でできた広域変成岩で、日本最古の岩石と言われています。高温で変成したために硬い性質を持っています。飛騨片麻岩の強固な岩盤と豊富な地下水を利用して、小柴博士は、岐阜県飛騨市の神岡鉱山の地下1000mにカミオカンデを建設しました。この石は、その神岡鉱山から採取したものです。
岩石群の横には、台座に小柴博士の「やればできる」という文字を刻んだ夢のタマゴのモニュメントも置かれています。何か、コロンブスの卵に見えてきました。
とある民家の門柱の上に、三体の黄金の仏像が鎮座しています。その下には、お坊さんの活動を伝える写真が添えられています。ここはラオス仏教協会の支部みたいです。ラオスはインドシナ半島に位置する社会主義共和制国家で、首都はヴィエンチャンです。フランスの植民地を経て、1953年に独立し、ラオス王国になりました。その後、1975年に王政が廃止され、社会主義体制のラオス人民民主共和国が成立しました。現在はラオス人民革命党による一党独裁体制が敷かれています。様々な理由で難民として日本に身を寄せる人も多く、ここもその人達の心の拠り所になっているのでしょうか?
前回のコースで井口家の長屋門を訪れましたが、ここにも見所ポイント7の下井草の長屋門があります。門前の植栽の手入れが行き届いていて、屋敷全体が巨樹に覆われています。現在も住居として使われているそうですので、維持費は莫大でしょうね。
田中家長屋門
長屋門は江戸時代に大名や旗本の武家屋敷の前面に建てられた門で、門番の家臣や下男が住む長屋が棟続きに設けられていたことから長屋門といわれます。その形式や規模はその武家の身分・格式によって異なり、厳しい定めがありました。ですから本来長屋門は武家以外の家では建てることはできませんでした。ところが江戸時代後期になると、領主の許可により村役人(名主・年寄・組頭)層も建てられるようになりました。当家は初代田中市郎兵衛(貞享二年没)以来村役人を勤めてきた旧家です。井草村領主今川氏は代々幕府高家(儀礼を司る官職)として日光東照宮や伊勢神宮などに将軍の代参をしましたが、その折有力農民を士分としてとりたて従者に加えました。田中家もたびたびそのお供をしました。また御用金を献上するなど領主のために大いに貢献しました。このようなことから長屋門を建てることが許されたのだと思われます。特にこの長屋門には、庶民には禁止されていた出格子作りの武者窓がつけてあるのが特徴です。間口十間(約18メートル)奥行2.5間(約4.5メートル)建坪約28坪の風格ある造りは屋根こそ瓦葺になったとは言え創建当時の姿をよくとどめています。記録がないので正確にはわかりませんが、当主の六代前(江戸末)に建てられたと言われる貴重な文化財です。
門の中は公開していません。入場はご遠慮ください。
ここにも、見所ポイント8の科学と自然の散歩道になっている井草川遊歩道が通っています。
小柴博士が若い世代に語った夢のタマゴが置かれています。タマゴの殻には小柴博士の手形が押されています。どうやったら石の表面に手形が残せるのでしょうか?
「夢のタマゴ」
小柴博士は、「何かやりたいことを見つけ、目標になるいくつかの夢のタマゴを自分の中に持ち続けて欲しい。」とメッセージを送っています。その「夢のタマゴ」をイメージしたロゴマークやモニュメントに「散歩みち」を歩いていると出会うことができます。
井草駅へは、商店街になっている駅前通りと井草川遊歩道のどちらを通っても行けます。前回に続いて今回も井草川遊歩道を歩きます。
見所ポイント9の井荻駅南口に着きました。今回は途中のポイントなので、環八の歩道を通って北口に出て、西武新宿線の北側地区を巡ります。
道路に面して小さな祠が建っています。井草二丁目お地蔵様と呼ばれているのだそうです。案内板がないので由来はわかりませんが、敷地の中に道標らしき石柱が建っています。残念ながら、右・左が何処への道を指し示すのか読み取れませんでした。「右・やくし道・」と読めないこともないのですが。
井草二丁目お地蔵様の近所に、もうひとつの祠が建っています。堂内は見れませんが、石塔が収められているとのことです。堂前の松の木が今にも倒れそうに傾いています。槍掛けの松のようですね。ちなみに、八成という地名は、観泉寺の住職が千川上水に架かる橋の名前を経典から八成(はっせい)橋と命名し、住民が「はちなり」と読み、それがいつしか地名になったと伝えられています。明治に入り井荻村(のちの井荻町)大字下井草の小字となり、昭和七年の杉並区制定に際し八成町に引き継がれましたが、現在の住居表示には採用されませんでした。しかし、今でも八成小学校の名前に残ってます。
民間信仰石塔
堂内の石塔は、寛保元年(1741年)銘の庚申塔と寛政五年(1793年)銘の念仏供養塔です。これらは、この辺りが武州多摩郡下井草村字八成といわれた頃、地域の人々によって悪疫退散・村内安全等を祈願して建立されたものといわれています。庚申信仰は、「六十日に一度廻ってくる庚申の夜には身を慎しみ、徹夜をする」という中国の道教説が日本に伝わり、仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまったもので、江戸時代には、青面金剛を本尊とし、不見(みざる)・不聞(きかざる)・不言(いわざる)の三猿が彫られた庚申塔の建立が盛んになりました。念仏信仰は「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀仏を信じれば浄土に導かれるという信仰で、念仏供養塔も各所に多く建立されています。石塔の側面にはそれぞれ、庚申塔には「右 たなか道」「左 志やくじ道」、念仏供養塔には「右 新高野へのミち」「左 中野へのミち」等と彫られており、近隣の田中村・石神井村・中野村などへの道標の役割も果たしていました。八成地域は中野〜阿佐ヶ谷〜石神井〜保谷〜所沢を結ぶ所沢道の道筋にあたり、この場所は、かつての所沢道と府内十七番札所東高野山長命寺(現練馬区)への巡礼道の交差点で、往来の人も多く、近くには茶屋もありました。なお、堂外にも正面に道標を刻んだ石塔があります。道標銘付の石塔群としては、区内でも珍しく、八成と呼ばれていた当時の往来の姿を示す貴重な資料です。
新青梅街道を越えた辺りには、長閑な野菜畑が広がっています。見所ポイント10の教会の見える畑で、建物の向こうには教会の尖塔が見えます。
畑が散在する住宅地に遠くからでも見えるこの教会は、昭和二十三年(1948年)に設立され、昭和二十四年(1949年)4月17日の復活祭に認可された東京教区第18番目のサレジオ会の下井草教会です。ソールズベリー大聖堂ほどではありませんが、近くから見ると高い尖塔が天を突いています。現在の聖堂は昭和三十一年(1956年)10月21日に完成しました。建設資金の募金を得るために尽力したマンテガッツア司祭の出身地カルダノ教会と姉妹教会になっていて、高い鐘楼から鳴り響く3個の鐘と、パイプオルガン・聖堂前の無原罪の聖母像・大理石の正面祭壇などがカルダノ教会から寄贈されています。練馬区境に近い杉並区の辺境の地によくぞこのような立派な教会が建ったものです。
見所ポイント11の井草観音堂は、下井草駅北口から所沢道と呼ばれた古道(現在の旧早稲田通り)を挟んだ反対側の西武新宿線踏切脇にあります。今川氏は静岡県の駿河・三河・遠江を支配していた今川義元の家系で、江戸時代は高家旗本になっていました。高家旗本とは江戸幕府の儀礼などを司る役目を負う旧名門の家格出身者で、吉良氏・畠山氏・武田氏、それに今川氏などが就きました。
井草観音堂
「久保の観音様」とも呼ばれる井草観音堂は、江戸初期に建立されたといわれています。その当時、この辺りは今川氏の所領で、下井草村字久保と呼ばれていました。お堂の中には、浮き彫りされた高さ1メートルの如意輪観音像と地蔵菩薩像が納められています。ともに寛文七年(1667年)という造立年が刻まれており、区内に現存する石塔の中ではかなり古い年代の石造物とみることができます。このお堂や石像は、この地の農民によって造立されたものと思われます。観音像には、「おくに」「おたつ」など女性の名前と思われる文字がかすかに見られることから、これらの女性を供養するために造立されたものと考えられ、正面左側には「榎本半内」という願主名も刻まれています。また地蔵菩薩像には「同行十六人」という銘文があり、下井草村字久保と字向井草の十六軒の農家が講中を作って造立したものといわれています。地元では「子育て地蔵」と呼ばれ、観音様とともに幼児の虫封じ・歯痛・夜泣きにご利益があるとして親しまれてきました。日露戦争のあった明治三十七年〜三十八年(1904年〜1905年)頃、付近一帯に疫病が大流行し、村中で「観音様」と「お地蔵様」の供養をしたところ、次第に病気が治って一層信仰が盛んになったという話が伝わっています。昭和初期までは、「念仏講」も行われました。双盤と呼ばれる大きな鉦をたたいて講中の家々を供養してまわった後、このお堂で「百万遍のお数珠」とよばれる大きな数珠を廻しながら念仏供養をすることがならわしであったといわれています。現在のお堂は、昭和五十六年(1981年)に改築されたものです。
下井草駅南口に戻ってきました。西武新宿線を挟んで下井草と井草の町域を一周したことになります。
ということで、「9.荻窪北・下井草編 下井草・井荻一周コース」を歩き終えました。西武新宿線沿線は中央線沿線と違って、山の手の下町といった感じがします。区画整理された住宅地の中に屋敷林や長屋門が散在し、江戸時代の面影が残されているのも魅力です。よく手入れされた妙正寺川や井草川遊歩道を散策するのもいいですね。
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