10.荻窪北・下井草編 下井草・阿佐谷コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「10.荻窪北・下井草編 下井草・阿佐谷コース」を歩きます。西武新宿線下井草駅をスタート地点として、JR中央線阿佐ヶ谷駅まで南下しながら緑豊かな杉並区の住宅地を巡ります。尚、このコースは「下井草・井荻一周コース」と「荻窪・阿佐谷コース」の一部と重複した区間がありますので、見所ポイントは独自区間にあるものだけになっています。    

「10.荻窪北・下井草編 下井草・阿佐谷コース」の歩行距離は3.7km、歩行時間は1時間20分です。

スタート地点:西武新宿線下井草駅南口
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 1.大鷲神社
大正十年に畑の松に飛来した大鷲を仕留めたのち、祟りを恐れて祀った社です。11月の酉の日に熊手市がたちます。

ゴール地点:JR中央線阿佐ヶ谷駅北口


スタート地点の西武新宿線下井草駅南口から歩き始めます。下井草の町域は杉並区の北部に位置し、北側を西武新宿線、西側を環八通り、南側を早稲田通り、東側を中杉通りに囲まれています。町域の東南部を西南から東北へ向かって妙正寺川が流れ、西側にはかつて妙正寺川の支流である井草川が流れていました。現在井草川は暗渠化され、その上に遊歩道が整備されています。昭和二年(1927年)に川越鉄道村山線(現在の西武新宿線)が開通し、町域内に下井草駅と井荻駅が開業しました。ちなみに、「井草」という地名の由来には諸説あります。
  • この地が善福寺池・妙正寺池周辺の低湿地にあり、藺草(イグサ)が生えていた。
  • 池の草と呼ばれた葦(ヨシ)がたくさん生え茂っていて、池の草→葦草(いぐさ)となった。
  • 町域が善福寺池と妙正寺池との間の草原にあって、「池(井)」と草原の「草」を合わせた。
  • この地を開拓した長左衛門という人物が井口姓を名乗り、「草分け長左衛門」と呼ばれていたことから「井」と「草」を合わせた

  • 二番目のゴロ合わせがよく分かりませんね。




「旧早稲田通り」は、杉並区の早稲田通りの本天沼二丁目交差点から西武新宿線の下井草駅前を経て、練馬区の富士街道に至る延長5kmの往復1〜2車線の都道です。早稲田通りから下井草駅前を経て千川通りと交差する八成橋交差点までの間はセンターラインがひかれた往復2車線の道路になっています。ただ、歩道はあっても狭かったり、歩道がなくて路側帯に白線がひかれているだけの区間もあります。下井草駅の南側の商店街(ショボイ)で旧早稲田通りはクランク状に屈曲しています。



杉並区には、周囲を高い塀で囲った広大な敷地の屋敷が幾つか見られます。下井草駅近くの旧早稲田通りに面した「屋敷林」の敷地内には巨樹が生い茂り、まるで森林のような風景です。入口は長屋門風になっていて、なかなかの豪邸です。門前には枝振りの良い松の木が対になって植えられていて、植栽も美しく手入れされています。代々続く旧家なのでしょう。



下井草駅周辺は昭和初期に区画整理が行われ、碁盤の目のように整然と美しく、見通しのよい住宅街が形成されました。「区画整理のまち並」には、広い敷地に個性的な外観の一軒家がゆったりと建ち並んでいます。この区画整理事業を主導したのは、明治九年(1876年)に上井草村に生まれ、30歳という日本一の若さで井荻村の村長に就任し、町長・府議・市議・都議を経て都議会議長を歴任した内田秀五郎です。内田秀五郎は、都農業会会長・全国農業委員会協議会会長・東京青果協会会長などの農業分野の役職も務めました。関東大震災以降に進行が加速した東京近郊の都市化への対応に力を入れ、省線中央本線に西荻窪駅の設置を実現し、新たに開通した西武鉄道にも上井草・井荻・下井草の三駅を誘致しました。加えて村主導で大規模区画整理を手掛け、村長だった内田秀五郎が中心となって村全域を対象として計画されました。内田秀五郎は近い将来の都市化を見越して区画整理の必要性を説き、大正十四年(1925年)9月に「井荻村土地区画整理組合」を設立し、反対派を説得のうえ、昭和十年(1935年)、約10年間をかけて事業を完了しました。この時の区画整理事業の総面積は約880ヘクタール余りに及び、単一町村独自で行った事業としては全国屈指の大規模なものでした。現在の整然とした街並みもこのようにして実現されました。また、善福寺一帯を風致地区としたり、産業面でも井荻信用購買組合(現・西武信用金庫)や東京新宿青果(現・東京新宿ベジフル)を創立し、中島飛行機東京工場(跡地は現在の桃井原っぱ公園になっています)の誘致に成功しました。先見の明があった人だったんですね。



銀杏稲荷神社は、相州(現在の神奈川県)から移り住んだ井口家の井口外記が元和二年(1616年)に創建したと伝えられています。棟札(むなふだ)とは、棟上げや再建時に工事の由緒や建築の年月などを記して棟木に打ち付ける札をいいます。相州(さがみ)三浦氏は、中世に活躍した相州の大豪族です。何故下井草くんだりに移り住んだのかはわかりませんが。戦いに敗れたのかな?御幣(ごへい)とは、神祭用具のひとつで、裂いた麻や畳んで切った紙を細長い木に挟んで垂らしたものをいいます。

銀杏稲荷神社

当社は旧下井草村の鎮守で、社名は神社の裏山にあった銀杏の大木に由来しています。創建は棟札に「抑当社勧請者元和二年(1616年)歳比、先祖外記造営(下略)」とあり、井口家の先祖である井口外記といわれています。井口家は相州(現神奈川県)の三浦氏の末裔といわれ、天正年間(1573年〜1592年)に当地に移り住んだもので、その一族の多くは名主・年寄役などを勤めました。井草の地名のおこりも井口姓を名乗った長佐衛門なるものが「草分け長佐衛門」と呼ばれたことからおこったという説もあります。村の鎮守として祀られた当社は、かつては境内も二百坪ほどあり、江戸時代には下井草村の妙正寺が別当として管理していましたが、現在は井口家を中心とする三十数軒の講中の稲荷として地元の人々に信仰されています。現在も残されている、文政十二年(1829年)二月に下井草村氏子中が奉納した「正一位銀杏稲荷大明神」の大幟は当時からも稲荷信仰が盛んだったことをうかがわせる貴重な資料です。毎年二月初午には世話役の頭を中心にして、この大幟と各講中持ち回りの幟を立て、井草八幡宮より御幣を載(戴?)き、御神酒及び種々の御供物をして、赤飯を子供達に与え、五穀豊穣・講中安全・子孫繁栄を祈願しています。祭礼は二月初午です。




松下下橋を渡って妙正寺川を越えます。妙正寺川は、妙正寺公園の中にある妙正寺池に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を合わせ、新宿区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流する一級河川です。川沿いには遊歩道が整備され、両岸に植えられたシダレザクラは妙正寺川の川面に枝を垂れ、桜の季節には絶好のお花見ポイントになります。



見所ポイント1の大鷲神社は、早稲田通りに面した下井草一丁目交差点脇にあります。

大鷲神社

当社は出世大鷲神社と称し、御神体は剥製の大鷲です。この地は天沼本村と呼ばれた農村地帯で、主に東京への野菜供給地でした。大正十年一月十一日、現在の本天沼二丁目三十七番付近の畑地にあった赤松に飛来した鷲を、村の人たちが悪戦苦闘の末仕留めました。羽を広げると二メートル以上もある大鷲でした。村中の人達が見物に来、村に祟りでもあると大変なので、おとり様としてお祀りしようと話がまとまり、一社を建立しました。その後毎年十一月の酉の日には市がたち、天沼本村だけでなく近郷近在の名物として狂言や踊りなどの余興を催したり、賑やかなお祭りがありました。今でも酉の日には、町の有志により商売繁盛を祈る熊手が売られています。石の鳥居は、昭和六十三年十月に建てられました。前を通る早稲田通りは拡張され、今では平坦な道となっていますが、昭和初期の区画整理前は、大鷲神社から西へ向うところは「げんぼう坂」と呼ばれ、かなり急な坂道で荷車を引く者にとっては難所の一つになっていました。




「蓮華寺」は花が美しいことで知られています。春には山門横をはじめとする桜の古木が咲き誇り、夜には提灯が灯ります。

蓮華寺

天沼山蓮華寺は、真言宗室生寺派の寺院で、開山は真長和尚と伝えられます。本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪蓮華峰王)で、本堂内陣の西脇間に安置されています。当寺開創の詳細は明らかではありませんが、室町時代の開創と伝えられています。当寺の墓地には、正長元年(1428年)銘の墓石があることや、過去帳に慶長十九年(1614年)、板倉周防守から寺地が寄進されたという記録があることからも、開創の古さが窺えます。寺伝によれば天和二年(1682年)に寂した中興開山鏡薫和尚の時代に、寺門は大いに興隆したといわれています。昭和三十七年(1962年)に再建された本堂中央の須弥壇には、秘仏の不動明王立像と御前立ち座像(前立仏)、そして、昭和十九年(1944年)、出羽湯殿山から請い受けた不動明王立像も安置されています。この立像は室町時代に作られたもので、「厄除不動」の名で呼ばれて厚く信仰されています。当寺には文化財も多く、天沼村関係古文書が所蔵されているほか、阿弥陀如来石像・馬頭観音石像・宝筐印塔等が境内に安置されています。なお、旧本堂は杉並第五小学校の前身である桃野尋常高等小学校の分教場に使用されました。堂前にその記念の石碑があります。




天沼村関係古文書について解説した案内柱が立っています。

杉並区指定有形文化財
蓮華寺所蔵文書 五四四点

当文書は天沼村(江戸時代は日枝山王の社領)で副戸長等を勤めた森田家の旧蔵文書で、当寺に寄進されたものです。年代的には、東京府設置から同府における郡区の設置期までの文書が多く、中でも地租改正関係文書が豊富で、幕府支配から明治政府の支配体制が整えられていく過程をさぐることが出来る行政文書です。社領時代の文書と明治政府成立後の文書により、天沼村の租税関係が、どのように変化したかを知ることが出来る貴重な資料でもあります。




熊野神社は旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命(いざなみのみこと)が祭神としてを奉られています。創立は、神護景雲二年(768年)で、東海道巡察使が武蔵国に来た時に氏神を勧請し、別当を置いたのが始まりと伝えられています。また一説には、元弘三年(1333年)に新田義貞が北条高時を討つために鎌倉へ軍を進める途中にこの地に陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。後に応永二年(1395年)に朝倉三河守がこの地に帰農した際、社殿を修理し、「十二社権現」と称するようになったと言われています。明治維新後、熊野神社と名称を改めました。

天沼熊野神社

この神社は、旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命を祭神としています。創立については詳らかではありませんが、社伝によれば、神護景雲二年(768年)、東海道巡察使が武蔵国に来た折に、氏神を勧請し、別当を置いたのがはじまりと伝わります。また一説には、元弘三年(1333年)、新田義貞が鎌倉幕府執権の北条高時を討つため、鎌倉へ軍を進める途中で、この地へ陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。その後、応永二年(1395年)、朝倉三河守という武将がこの地に帰農した際、社殿を修理し、十二所権現と称するようになったといわれています。熊野神社と名称を改めたのは、明治維新以後のことです。天沼は古くからの名称で、奈良時代末期の武蔵国の「乗潴(あまぬま)駅」から起こったといわれていますが、諸説あって定かではありません。周辺の地域からは中世の板碑が出土しており、その頃すでに開発が進んでいた地域であったと考えられます。蓮華寺の過去帳によれば、天沼村は慶長年間(1596年〜1615年)には成立していたものとみられます。境内には、直径2メートルにも達する幹をもつ大杉の切株が保存されています。社伝によれば、新田義貞がこの地を訪れた際、戦勝を祈願して手植えした杉と伝えられています。惜しいことに枯死したため、昭和十七年(1942年)に伐採され、今では切株で昔をしのぶだけとなっています。また、この大杉の手前には、文久二年(1862年)九月奉納の石造手水盤があります。




境内に大きな杉の根が保存されています。巨大さもさることながら、丁寧に洗い清められた杉の根は崇拝の対象にもなりますね。

「出世杉」の根

この古木は、写真左側の杉の木の根であります(昭和十六年頃)。写真二本の杉の木は、新田義貞公が鎌倉幕府を倒す為、鎌倉へ進軍中(1333年)、この天沼の熊野神社に立ち寄り勝利を祈願してお手植えしたと伝えられています。新田義貞公が、その願いを叶えた為、近隣の古老達は、この杉を「心願成就の杉」とか「出世杉」と呼んて大切にしてきました。残念なことに、昭和二十一年に枯れた為二本とも切ってしまいました。その後は、左の杉の切り株だけが残って、地上に顔を出していましたが、平成二年に掘り出された後、平成七年に整備され現在に至っています。皆様方も、この杉の木にご祈念なさって願い事を叶えてください。




日本大学第二中学校・高等学校は、中高一貫の男女共学校です。あだち充の代表作「タッチ」で、主人公の上杉達也や浅倉南らが在籍する「明青学園」のモデルとなったことで知られています。高校野球の強豪校であり、プロ野球の選手も多く輩出しています。芸能人の卒業生も多く、オードリーの若林正恭・春日俊彰、女優の松坂慶子、キャンデーズの伊藤蘭、コメディアンの三波伸介など多彩です。



「日大二高のイチョウ並木」は、杉並区の保護樹林に指定されています。



三角形の狭い敷地に、屋根だけ付いた祠があり、「石仏」が並んでいます。

民間信仰石造物

ここに建立されている石塔は、宝永元年(1704年)銘・元文五年(1740年)銘の庚申塔、享保十五年(1730年)銘の地蔵塔、宝暦九年(1759年)銘・享和三年(1803年)銘の百番観音供養塔です。いずれも天沼村の村民が現世での幸運と来世での往生安楽を願って造立したもので、当時の人々の信仰心の一端を伝えています。庚申信仰は、人の中に棲むという三尸の虫が眠っている間に抜け出して、天帝にその人の罪科を告げ、早死にさせるというのを防ぐために、庚申の夜は身を慎んで眠らずに過ごすという民間信仰です。江戸時代には、各地に講がつくられ、庚申塔の造立も盛んに行われました。この二基の庚申塔は青面金剛・三猿等を浮彫りにした一般的な塔で、講中による造立です。地蔵菩薩は人間の苦を除き、楽を与え六道衆生を救済する仏として地域の人々の信仰を集めました。また、村境や辻に建てられ、境の守護と村の安全の守護を行う仏として大切にされてきました。百番観音信仰も江戸時代には庶民の間に浸透しました。特に関東地方では西国・坂東・秩父の百ヶ所霊場巡拝が盛行し、巡拝記念あるいは巡拝と同じ功徳を得るための百番観音供養塔が造立されました。この享和三年銘の供養塔は百番観音信仰と光明真言信仰とを一体にしたもので、区内では数少ない作例です。これらの石造物は地域の区画整理の際に集められたもので、庚申塔は南方の桃園川辺の路傍、地蔵塔と供養塔は西方の熊野神社際の路傍から移転されたものです。なお、石造物隣の区画整理記念碑は、整理の完了した昭和十三年(1938年)に建てられたものです。




桃園川は天沼弁天池公園付近より東へ約1.5kmほど流れ、阿佐ケ谷駅の北の中杉通りを越えたあたりから周囲より谷を深くして南下し、杉並区立けやき公園のところで中央線を南東にくぐってからは「桃園川遊歩道」となります。そこから東南東へ転じ、環状七号線を越えたところからはほぼ大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断し、東中野駅南側にある末広橋付近で中野区と新宿区の境界を流れる神田川に合流します。現在では全区間暗渠化され、桃園川幹線という下水道となっています。神田川への開口部は桃園川汚水幹線からの分水になっていて、本来の桃園川の水とは異質のものとなっています。



阿佐ヶ谷北にある「法仙庵」は、阿佐谷村名主・第十代相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり創設した共同墓地を管理するため、観音庵(現新宿区新宿7−3−13)から実山見道尼を初代庵主に請じて慶應年間(1865年〜1868年)に創建したといわれています。

法仙庵

当庵は、釈迦如来坐像を本尊とする寺院です。その初めは文久年間(1861年〜1863年)阿佐ヶ谷村名主・第十代・相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり散在していた家墓を集め、村共有の地に貧富に関わらず地割を平等にして造った共同墓地です。そして、墓地管理のため、相沢家の土地に本堂を建立し慶応年間(1865年〜1868年)江戸浅草・海運寺(現杉並区成田東四丁目十八番九号)末寺・観音庵(現新宿区新宿七丁目三番十三号)より実山見道尼を初代庵主として招いて、開創したのが当庵です。本堂は戦災で焼失したため昭和三十一年(1956年)に再建されたものです。東側の塀に沿った道は、権現道と呼ばれた古道で、練馬・円光院子の権現(貫井五丁目七番三号)におまいりに行く参詣道でした。今は賑わっているパールセンターの通りも権現道で、大正の初めごろは、雑木林や畑の中の道でした。また、当庵墓地の北側は茅山で、狐がすんでいたということです。このような昔の姿は失われましたが、わずかに、その狭い道幅や曲がりぐあいが、古道の面影を残しています。当庵の文化財としては、文保二年(1318年)・元徳三年(1331年)・宝徳元年(1449年)銘及び年代不明の板碑五基があります。この板碑については「新編武蔵風土記稿」阿佐ヶ谷村小名小山の項にも「此所ニ古碑五基アリ三基ハ文字摩滅シテ見ヘス二基ハ文保二年元徳三年トシルセリ」とあり、また、「武蔵名勝図会」にも同様の記述があることから、これらの板碑は、この地域を知る上で極めて貴重な資料と言えます。




世尊院は中杉通りに面した寺院です。永享元年(1429年)の頃にそれまで阿佐ヶ谷の地にあった宝仙寺の子寺として創建されたといわれています。江戸時代には除地450坪を賜っていました。かつては天沼熊野神社と天祖神社(現・阿佐ヶ谷神明宮)の別当寺で、祇海という名の住職の時代にお伊勢の森(杉並区立杉森中学校からお伊勢の森児童遊園にかけての一帯)にあった天祖神社を寺の隣に移したと伝わっています。「江戸名所図会」には、十二代景行天皇44年に日本武尊が蝦夷を征伐して凱旋の時、ここで休まれたので土地の人が尊の武功を慕って社をつくり、神明宮としたと書かれています。その後、建久年間(1190年〜1198年)にこの土地に住んでいた横井兵部という人が伊勢神宮の参拝に出かけ、勢州(今の三重県)能保野に泊った夜に大神宮のお告げがあり、伊勢の宮川から持ち帰った霊石を社に安置してご神体にしたとも書かれています。祭神が「天照大御神」で伊勢神宮と同じところから、土地の人は旧社地を「元伊勢」と呼んでいました。その後も「お伊勢の森」といって親しまれています。また、近くにあった電信隊の兵士がラッパの練習にきていたりしたので、「ラッパの森」ともいわれました。

世尊院

世尊院は阿谷山正覚寺ともいい、真言宗豊山派の寺で本尊は不動明王です。創立は、現在中野区にある宝仙寺が阿佐谷から移転した頃と伝えられ、武蔵名勝図会には、その時代を永享元年(1429年)頃と記されています。この移転以前の宝仙寺は、現在の阿佐谷南三丁目九番付近に山門をかまえ、当時の寺領は、中央線の阿佐谷駅付近にまで至る大寺であったといわれています。この宝仙寺が移転した後に、宝仙寺の子寺で、地元村民の寺として残されたのが世尊院です。本尊の不動明王立像、観音堂の聖観世音菩薩立像や阿弥陀如来坐像は、室町様式のうかがえるりっぱな仏様であります。なお明治二十二年から大正十一年まで、旧杉並村の村役場がこの寺の本堂におかれていました。現在の本堂は、昭和十年に再建されたものですが、都道133号線建設のため、昭和四十八年現在地に移築し、今日に至っております。




本尊の不動明王立像は本堂の奥に鎮座されているようです。旧杉並村の村役場もここに置かれたのでしょうか?落ち着いて不動明王様にお参りもできなかったことでしょう。



阿佐ケ谷駅北口にやってきました。駅の所在地の地名は阿佐谷ですが、駅名は「阿佐ケ谷」と「ケ」が入ります。ちなみに、「あさがや」という表記には三種類があります。小さい「ヶ」をつける阿佐ヶ谷、「ヶ」がつかない阿佐谷、それに大きい「ケ」をつける阿佐ケ谷です。
阿佐ヶ谷
銀行の支店名で使われています。
阿佐谷
役所関係で使われる書き方です
阿佐ケ谷
駅名で使われる表記です。
阿佐ケ谷駅の南口には長大な商店街の阿佐谷パールセンターがあり、8月の第1週目に阿佐谷七夕まつりが開催されます。多くの飾りや人形がアーケードを彩る他、駅構内にも七夕飾りが設置されます。阿佐ケ谷駅の北口にはスターロードや北口アーケード街などがあります。どちらかというと、南口は健全な商店街、北口はディープな飲み屋街といった感じです。あくまで個人的な感想ですが。。。



ということで、「10.荻窪北・下井草編 下井草・阿佐谷コース」を歩き終えました。今回のコースは、「9.荻窪北・下井草編 下井草・井荻一周コース」と「7.荻窪北・下井草編 荻窪・阿佐谷コース」を組み合わせたような構成になっていますが、新たな発見もありました。これで「荻窪北・下井草編」は完歩したことになります。次は「高井戸・浜田山編」となり、しばらく杉並区の南側エリアを歩きます。




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