11.杉並区 高井戸・浜田山編 高井戸・上北沢コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「11.杉並区 高井戸・浜田山編 高井戸・上北沢コース」を歩きます。井の頭線高井戸駅をスタート地点として、環八通りの西側を縦断し、甲州街道を渡って世田谷区境を京王線に沿って歩き、上北沢駅に至ります。  

「11.高井戸・浜田山編 高井戸・上北沢コース」の歩行距離は5.6km、歩行時間は1時間50分です。

スタート地点:井の頭線高井戸駅
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 1.吉祥院
高井戸不動尊として親しまれ、本堂は文化三年(1806年)の建築で、成田山を模して造られたといわれる石仏山があります。
 2.山中公園のゴリラ像
 3.浴風園
大正十四年(1925年)に関東大震災の被災老人援護のためにつくられた施設で、本館は東京都選定歴史的建造物に指定されています。
 4.歴史と文化の散歩道
都内に残されている歴史的・文化的資源を系統的に結ぶ散歩道です。神田川遊歩道などが杉並コースに入っています。
 5.上高井戸天神社
明治以前は第六天神と呼ばれた旧上高井戸村の鎮守です。社殿前に明和八年(1771年)銘が刻まれた狛犬が配置されています。
 6.野菜畑と石仏
最近は宅地化が進みマンションも建ってきていますが、野菜畑や屋敷林、石仏などかつての風景が残っています。
 7.医王寺
本尊の薬師如来は眼病に霊験あらたかで、江戸時代以降「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」と呼ばれています。
 8.長泉寺
本堂前の観音堂は享保十三年(1728年)の建立で、境内には石像や庚申塔が多く、区内では珍しい十六羅漢もあります。
 9.松沢病院
前身は明治十二年(1879年)に上野公園内に設置され、大正八年(1919年)に当地に移設された都立の精神科専門病院です。

ゴール地点:京王線上北沢駅南口


スタート地点の井の頭線高井戸駅から歩き始めます。高井戸駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、高井戸駅は京王井の頭線の駅となりました。高井戸駅は昭和四十七年(1972年)の環状八号線の供用開始に伴い、それまでの築堤上の駅から井の頭線では数少ない高架駅となり、環八通りの上に位置しています。平成十八年(2006年)に駅高架下の京王クラウン街のリニューアル工事が完了し、駅舍と一体化した京王リトナード高井戸が開業しました。高井戸駅のすぐ横手には杉並清掃工場の煙突が聳えています。かつて美濃部都政時代に東京ゴミ戦争のきっかけとなりましたが、杉並清掃工場内にはその歴史を伝える「東京ごみ戦争歴史みらい館」が設置されています。現在は周辺の高級マンションと清掃工場が共存し、ゴミを燃やした際の廃熱を利用した温水プールが地元民に利用されています。



高井戸駅のすぐ先で環八と神田川が交差しています。環八から一歩入った南西側は住宅地になっていて、神田川沿いには建替えられたばかりの真新しい都営住宅の敷地が広がっています。公園も整備され、周辺は高級分譲地のような佇まいを見せています。



見所ポイント1の「吉祥院」は、成田山不動尊を深く信仰した上高井戸の住人並木卓善が明治八年(1875年)に成田山新勝寺系の講「成田山新省講」を結成し、寺院を創立しようとしたものの、当時は国策により寺院の新設が禁止されていたため、寺の再興という名目で廃寺を物色することになりました。当初は成田山新勝寺が属する真言宗の寺院を望んでいましたが、適当なお寺が見つからず、谷中にあった天台宗の廃寺「吉祥院」の再興という体裁をとり、二世晃恭が住職となって明治十六年(1883年)に高井戸に移転させたといわれています。そういう経緯から、天台宗の寺でありながら成田山を模した築山があるなど、真言宗色が強い寺となっています

吉祥院

当院は象頭山遍照寺と号する天台宗の寺院で、本尊は不動明王坐像です。中興開山は上高井戸村の並木卓善で、明治十六年(1883年)に開創されました。並木卓善は成田山不動尊を信仰し、明治八年(1875年)に成田山新省講を結成、さらに講中の寺院を創設しようと図りました。しかし、当時は寺院の新設は禁止されていたため、谷中(現台東区)の吉祥院(江戸初期に霊岸島に開創され、のち谷中に移転、寛政年間に松平定信の崇信を受け大寺席となったと伝えられます)の住職に二世晃恭が就任し、当地に移転するという形で、明治十六年に開かれたのが当院のはじまりです。当院は、新省講の祈願寺として信徒の信仰を集めました。大正五年(1916年)に刊行された「東京府豊多摩郡誌」では、そうした当院の様子を「毎月廿八日賽客多し、殊に節分会及二月十五日は信徒の詣づもの頗(すこぶ)る多く境内立錐の地なし」と伝えており、今日でも東京西北部一帯の人々に広く信仰されています。現在の本堂は文化三年(1806年)の建築で、開創の年に移築したものです。また、境内の諸石像を配置した築山は、成田山を模して造られたものといわれています。なお、当院は信徒から寄進された多くの記念石碑のほか、江戸時代につくられた大日如来像、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像などの仏像も所蔵しています。




境内に造られた築山には、信徒から寄進された多くの記念石碑が置かれています。石碑がなければ富士塚かと思いましたよ。



見所ポイント2の「山中公園のゴリラ像」です。山中公園は住宅地の中のなんということもない小さな公園ですが、入口脇の植え込みの中にゴリラ様が鎮座しています。何故ここにゴリラ像が置かれたのか経緯は不明ですが、不審者から子供達を守るために四六時中監視しているのかもしれません。結構怖そうな顔をしていますから、不審者はビビリますよね。



杉並区にはまだまだ農地が残っています。緑地保全の後押しもあるのでしょうけど、ちゃんと野菜なども作られています。生産地表示に「高井戸産」と記されていれば、ちょっと買ってみようかなと思いますよね。きっと、山の手の高級な味が感じられる筈です。



高井戸周辺には、広大な緑に覆われた高齢者向けの施設があります。いわゆる老人ホームですが、敷地一杯に建てられたビルではなく、低層のゆったりとした建物が主流です。浴風会は歴史が古く、大正十二年(1923年)9月1日に発生し、関東一円を襲った関東大震災により自活できなくなった高齢者の援護を行うために、御下賜金と一般義捐金(災害の被害者の生活を支えるための団体に寄せられる寄付金のこと。「捐」の字が当用漢字に含まれていないために新聞などでは「義援金」と表記されていますが両方とも同じ意味です。)を財源として大正十四年(1925年)1月15日に内務大臣の許可を受けて財団法人として設立されました。当初は内務省社会局に本部事務局が置かれ、初代会長には若槻禮次郎が就任しました。戦争中は施設建物の大半が軍に接収され、資産が凍結されるなど、その事業は不振を極めました。昭和二十一年(1946年)9月、生活保護法による保護施設として再生復興することとなり、昭和二十七年(1952年)には社会福祉法人に改組されました。昭和三十八年(1963年)8月、老人福祉法の施行に伴い、老人福祉施設として発展してきました。平成十二年(2000年)4月の介護保険法施行により、介護老人福祉施設や在宅サービス事業を開始し、平成二十六年(2014年)には老朽化した浴風会病院を新設の介護老人保健施設と老健くぬぎと合築した高齢者保健医療総合センターとして再編成しました。「浴風会本館」は、大正十五年(1926年)、内田祥三により設計され、現在も浴風会本部事務局や各事業所の事務棟として使用されています。平成十三年(2001年)3月には、東京都から東京都景観条例に基づく第37番目の「東京都選定歴史的建造物」の指定を受けました。史跡建造物であるため、多くのドラマにおいて「大学」や「研究所」等のロケ地舞台に使用されています。



見所ポイント3の「浴風園」は、浴風会が運営する養護老人ホームです。養護老人ホームとは聞き慣れませんが、身体的・精神的・環境的・経済的な理由があり自宅で生活することができない高齢者を受け入れて社会復帰を目指す入所施設です。一般の老人介護施設とは異なるため、提供されるサービスに介護サービスは含まれません。そのために低い利用料で経済的支援が受けられますが、入居者が自立した生活を送れるように支援する、いわゆる「社会復帰」を促すことを目的にしているために長期的に利用することはできません。敷地内には、有料の老人ホームもあります。黒光園はかって寄附により設置された老人ホームでした。

黒光園跡

この一画に、昭和三十年から昭和五十四年まで有料老人ホーム「黒光園」がありました。新宿・中村屋、元社長相馬愛蔵氏御夫妻等の御寄付により建設されたものです。




敷地の一画にクヌギの巨木が聳えていたそうです。クヌギは里山の雑木林を構成する代表的な樹木で、建築材や器具材・家具材・車両・船舶に使われるほか、薪や薪炭・椎茸栽培の榾木(ほだぎ)として用いられます。また、幹の一部から樹液がしみ出ていることがあり、クヌギの樹液はカブトムシやクワガタなどの甲虫類やチョウ・オオスズメバチなどの好物になっていて、これらの昆虫が樹液を求めて集まります。土地を売却した地主さんもクヌギを大切にしていたのでしょう。

「杉並区貴重木」くぬぎの由来 樹齢百五十年以上

「この木は、此処が丘畑であった昔からあり、敷地を買う折に、この木も買わなければ土地も売らぬ、とゴテられた思い出のあるもの」で「開園当時、長岡隆一郎さん(当時の社会局長官)がポケットマネーをお出しになって地主さんから買ってくださったもの」です。
(「浴風会三十年の歩み」から)

(樹高二十メートル)

☆平成二十三年9月21日の台風15号で倒壊してしまいました。




見所ポイント4の「歴史と文化の散歩道」は、都内に残されている歴史的・文化的資産を系統的に結ぶ散歩道として、昭和五十八年から平成七年にかけて整備が行われました。しかしながら、整備終了から20年以上が経過し、標識等の盤面滅失・摩耗等の劣化や、周辺環境の変化による表示内容の齟齬が拡大しており、利用者に誤解を与える恐れもでてきました。また、各区市において独自に歴史や文化にとどまらず、幅広く観光拠点を紹介する散策ルートが多数設定され、ホームページなどで掲載されています。これらを踏まえて、東京都は本事業の維持及び広報を終了することとなりました。今後は、都が都道や都立公園に設置した標識等は原則撤去れれることになっています。私のお散歩の原点である「歴史と文化の散歩道」がなくなってしまうのは寂しい限りです。都民の知的探求の場として、また足腰を鍛えて健康増進を図るためにも、発展的に継続して頂きたいものです。ちなみに、このルートは「14.杉並コース 新井薬師前駅−千歳烏山駅 15.9km」の「烏山寺町散歩」の一部になります。



見所ポイント5の「上高井戸天神社」の創建年代は明らかではありませんが、鎌倉時代の頃と言われており、永禄二年(1559年)の小田原衆所領役帳において「高井堂」との記載がなされています。また、古くから旧上高井戸村の鎮守社であったと伝えられていて、明治時代以前には「第六天神」と呼ばれていました。

天神社

この神社は旧上高井戸村の鎮守で、祭神は面足之命(おもたるのみこと)、煌根之命(かしこねのみこと)です。明治以前は第六天神と呼ばれていました。創立年代は詳(つまび)らかでありませんが、鎌倉時代の頃ではといわれています。天保年間(1830年〜1843年)には本殿、拝殿が焼失してしまい、しばらく仮殿がありましたが、安政三年(1856年)に現在の本殿ができ、最近更に中央高速道路新設にともない、鉄筋の覆殿が昭和五十年にできました。明治以前の祭日は十一月二十二日で、宵宮になると農作業を終えた近所の人たちが、当番制で五人ずつ拝殿にこもり、お神酒を飲みながら世間話に興じ夜を明かしたということです。この「おこもり」の風習も昭和四十年頃には途絶えてしまいました。また昭和の初め頃まで「雨乞い神楽」がありました。これはお祭りをすると必ず雨が降ると言伝えられていたため、日でりが続くとお祭りをして神楽を奉納しました。




鳥居から拝殿に向かいますと、二対の狛犬が置かれています。手前(一対目)の大きな狛犬は大正六年(1917年)に造られ、奥(二対目)の小さめの狛犬は明和八年(1771年)に造られました。奥の狛犬について、案内柱が立っています。

杉並区指定有形文化財 明和八年銘 石造狛犬

安山岩製のこの狛犬は、阿形、吽形が対峙形に配置され、犬座姿勢をとっています。小ぶりな頭部で、立ちは低く、やや長めな体躯です。全体的に誇張が少ない素朴な狛犬ですが、彫りは入念に施されています。また銘文から、天神社の旧名大六天宮や、医王寺との関係、造立年(明和八年【1771年】)のほか、願主、作者等が確認できます。屋外に安置されている狛犬としては、杉並区内で最も古く江戸時代中期の作風が如実に表れている貴重なものです。




奥の狛犬は焼失した旧社殿よりも前に造られた貴重なもので、杉並区の指定文化財にもなっています。



見所ポイント6の「野菜畑と石仏」は杉並区内のあちこちで見かけます。耕作地が多く残っているのと、区内に古道が通っていたことも両者のマリアージが生まれた要因でしょう。はっきりとは見えませんが、堂内の石像は青面金剛(しょうめんこんごう)像の庚申塔のようです。



見所ポイント7の「医王寺」ですが、「医王寺」という寺名は全国各地に数多くあります。御本尊は薬師如来が多く、薬師如来は大医王とか医王善逝(いおうぜんぜい)とも称されるように、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったとされています。立像では、手に薬壺もしくは丸薬の入った鉢を持つお姿が多いようです。高井戸の医王寺は眼病に霊験あらたかということで信仰を集めています。江戸時代以降、この寺が「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれ、寺の境内に毎月12日、“十二日市”という市が開かれ、現在では毎年10月12日「おめだま薬師大護摩供」が修行されて参詣者で賑わっています。また旧境内の薬師の池は湧水であったので渇水することがなく、また眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説があります。

医王寺

この寺は明星山遍照院医王寺といいます。寺伝によると、承和元年(834年)弘法大師が東国を巡行した際、箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚がここ上高井戸に草庵を建て、本尊として安置したといわれています。墓地から出た板碑の中に、文和五年(1356年)と応永七年(1400年)のものなどがあり、開創時期の古さを物語っています。また本堂は西に向いており、別名「西向き薬師」ともいわれます。江戸時代以降、本尊の薬師如来が眼病平癒に良く効くとされ、「おめだま薬師」と親しまれてきました。現在では毎年十月十二日「おめだま薬師大護摩供」が行われて参詣者でにぎわっています。また開創期からある旧境内の湧水池(薬師池)に眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説があります。明治の初め廃寺になりましたが、本堂は高井戸学校の前身であった高泉学校の仮校舎として使用されました。薬師堂だけは大正十二年(1923年)の関東大震災まで、現在地より南側の甲州街道に面したところに残っていました。その後大正十三年、今の場所に再興しました。本尊は昭和六十年(1985年)三月に区の有形文化財に登録されています。




見所ポイント8の「長泉寺」は、京王線の芦花公園駅近くにあるお寺です。烏山にあった「お伊勢の森」という地名は、阿佐ヶ谷や武蔵村山市などにも見られます。伊勢神宮 と同じ「天照大御神」を祀る神社が境内に広大な樹林や樹齢の高い神木などを有している場合、その地を「元伊勢」とか「お伊勢の森」とかの尊称で敬い親しまれてきました。

長泉寺

萬年山長泉寺は曹洞宗の寺院で、本尊は大日如来坐像です。開山は和泉村(現狛江市)の泉龍寺二世欄室関牛といわれます。当寺は慶安元年(1648年)、世田谷区の烏山にあった通称「お伊勢の森」に開創しましたが二年後火災に遭い、明暦元年(1655年)にこの地に移ったと伝えられ、現在の本堂、客殿、庫裏は、平成二十三年十月に整備されたものです。本堂前の観音堂は「円通閣」といい、享保十三年(1728年)に建立されたもので、西国三十三か所の観音像を安置しています。また、堂内に納められている板絵着色西国巡礼図(区指定文化財)は、狩野派の絵師中田小左衛門が描いたもので、近世の風俗を知る上で貴重な資料です。このほか、文化財としては承応三年(1654年)、貞享元年(1684年)銘の地蔵をはじめ石像や庚申塔も多く、本堂の前には区内でもめずらしい十六羅漢の石仏も保存されています。また、境内の老松の下には徳本行者真筆による石塔(文化十四年【1817年】)や、天保十一年(1840年)に造られた釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊仏があり、墓地にはかつて上高井戸宿の本陣であったといわれる「武蔵屋(並木氏)」の墓(区登録文化財)があります。なお、かつて当寺の境内では四月に「長泉寺の馬駆」、八月に「長泉寺の相撲」が行われ、近村にも有名でありましたが、明治末から大正の初め頃いずれも廃絶してしまいました。




長泉寺の観音堂には、「板絵着色西国巡礼図」という板絵が奉納されているとのことです。西国三十三所とは、観音巡礼のひとつで、観音菩薩を祀る近畿地方2府4県と岐阜県の三十三箇所の札所寺院と三箇所の番外寺院からなる観音霊場のことです。日本で最も歴史がある巡礼であり、現在も多くの参拝者が訪れています。「三十三」とは、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うときに33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与(あずか)るために三十三の霊場を巡拝することを意味しています。西国三十三所の観音菩薩を巡礼・参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされています。

杉並区指定有形民俗文化財 板絵着色西国巡礼図

当寺の観音堂に奉納されている二枚一対のこの板絵は、狩野家二代目養朴門人、絵師中田小左衛門吉信の享保十三年(1728年)の作です。表面に巡礼姿の行列図と西国三十三番霊場の詠歌が書かれ、裏面には上高井戸村講中の個人名や絵師名などの墨書銘があります。この板絵は狩野派の珍しい風俗描写の作品であるとともに、江戸時代中期すでに観音信仰による高井戸宿講中が組織され、西国巡礼などの活動があったことをうかがわせる貴重なものです。




境内の小さな堂に地蔵様が祀られています。貞享元年(1684年)に造立されたという地蔵様でしょうか?本堂の前にも小さな石仏が並んでいます。「十六羅漢の石仏」らしいのですが、見たところ8体しかありません。調べてみましたら、本堂の左右に8体ずつ、計16体置かれているようです。見落としたのかな?ちなみに、羅漢とは阿羅漢(あらはん)の略で、サンスクリット語の「アルハット」が語源となっています。「・・・するに値する人」・「受ける資格のある人」という意味で、これから発展して「修行を完成して尊敬するに値する人」・「悟りを得た人」・「悟りをひらいた高僧」を指します。お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢といいます。これに対し、五百羅漢とは,初めての経典編集に集まった弟子達のことで、いずれもお釈迦様の教えを後世に伝える大切な役割を担っています。



見所ポイント9の「松沢病院」は都が設置・運営する病院のひとつで、精神科専門病院であるとともに他の診療科を備えた総合病院となっています。大正八年(1919年)に「東京府松澤病院」として診療を始めたのが始まりです。松沢病院は敷地面積61,000坪に分棟式の建物が並び、当時から開放病棟や作業場が建てられるなど、先進的な精神病院として開院しました。敷地面積6万坪は、入院患者600名に対し、ひとり100坪を確保するということで算出されました。



松沢病院の広大な敷地内には、将軍池と呼ばれる人工の池があります。将軍池とは何かいわれがありそうな名前ですね。将軍池は大正十年から十五年にかけて患者の作業療法の一環として造られた池です。地面を掘り下げて地下水を湧出させ、掘った土で池の真ん中に築山(加藤山:作業を指導した医長の加藤普佐次郎氏に由来)を造成しました。山は当初、富士山の形でしたが、関東大震災で崩れ、なだらかな姿になってしまったということです。池畔に四阿(あずまや)なども配置し、4年の歳月を経て庭園として完成されました。この庭園は原田治郎氏の英文による著書「Japanese Gardens」によって、精神障害者の造った素晴らしい庭園として広く世界に紹介されました。「将軍池」の名は、作業に参加した患者で自称「将軍」の芦原金次郎にちなんだものです。葦原金次郎は明治後半から昭和にかけての日本の皇位僭称(詐称)者で、20歳の頃に精神病(誇大妄想)を発症し、「芦原将軍」や「芦原天皇」を自称するようになったといわれています。1882年から数度の脱走期間を含め、1937年に88歳で亡くなるまで松沢病院に入院していました。松沢病院の敷地一帯はもともと湧水のある湿地帯で、北沢川(目黒川の上流、今は暗渠となっています)の水源地帯でもあり、将軍池の水も北沢川の水源になっていました。



京王線の線路沿いに歩き、上北沢駅に着きました。上北沢駅は大正二年(1913年)の開業で、駅があった場所が荏原郡松沢村上北沢だったことから「上北沢駅」と命名されました。一時期「北沢駅」と改称された期間はありましたが、1932年の東京市編入に際して「下北沢駅」周辺の地名が下北沢から北沢となったため、混乱を避けるために上北沢駅の駅名に戻されました。



ということで、「11.杉並区 高井戸・浜田山編 高井戸・上北沢コース」を歩き終えました。見所が少なく、比較的地味なコースでしたが、杉並区に残る緑地や特色のある神社仏閣など、初めて訪れた場所もあって楽しめました。あちこちで石仏を見かけましたが、かっての信心深い農村地帯の名残りかもしれません。




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