- 12.高井戸・浜田山編 高井戸・桜上水コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「12.高井戸・浜田山編 高井戸・桜上水コース」を歩きます。井の頭線の高井戸駅をスタート地点として、環八通りの東側を斜断し、神田川沿いの名所・旧跡を訪ね、京王線の桜上水駅に至ります。お花見の季節であれば神田川沿いの桜を愛でることもできたのでしょうけど、盛夏の季節にあっては、青々とした葉っぱを眺めるだけです。
「12.高井戸・浜田山編 高井戸・桜上水コース」の歩行距離は5.1km、歩行時間は1時間40分です。
スタート地点:井の頭線高井戸駅
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- 1.神田川
- 井の頭池を水源とし、善福寺川・妙正寺川と合流して隅田川へ注ぎ、江戸初期に神田上水として飲料水用に整備されました。
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- 2.山草園
- 三泉淵緑地と三泉淵第二公園の斜面林を利用して三泉淵緑地野草園を育てる会が約200種余りの山野草を育て、花を咲かせています。
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- 3.柏の宮公園
- 草地広場・未来の森21・疎林広場・水生生物の池がある公園で、園内の田んぼでは区民の方が田植えや稲刈りをします。
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- 4.林丘亭
- 柏の宮公園内の日本庭園内にある茶室です。小堀遠州の造営と伝えられ、昭和三十四年にこの地に移築復元されたものです。
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- 5.鎌倉街道
- 鎌倉〜室町時代に栄えた道です。鎌倉橋は江戸初期にはあり、近くにある鎌倉街道の碑は昭和六十三年に建てられたものです。
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- 6.藤和緑地
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- 7.下高井戸八幡神社
- 旧下高井戸村の鎮守で、太田道灌が江戸城築城に際して安全を願って、鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を迎えて創建したといわれます。
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- 8.「川は」像
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- 9.玉川上水第三公園
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- 10.荒玉水道道路
- 世田谷区砧と杉並区妙法寺脇を結ぶ直線道路で、荒川と多摩川(玉川)を結ぶ計画であった水道管が地下に埋まっています。
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ゴール地点:京王線桜上水駅北口
スタート地点の井の頭線高井戸駅から歩き始めます。高井戸駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、高井戸駅は京王井の頭線の駅となりました。高井戸駅は昭和四十七年(1972年)の環状八号線の供用開始に伴い、それまでの築堤上の駅から井の頭線では数少ない高架駅となり、環八通りの上に位置しています。平成十八年(2006年)に駅高架下の京王クラウン街のリニューアル工事が完了し、駅舍と一体化した京王リトナード高井戸が開業しました。
高井戸駅のすぐ横手には杉並清掃工場の煙突が聳えています。かつて美濃部都政時代に東京ゴミ戦争のきっかけとなりましたが、杉並清掃工場内にはその歴史を伝える「東京ごみ戦争歴史みらい館」が設置されています。現在は周辺の高級マンションと清掃工場が共存し、ゴミを燃やした際の廃熱を利用した温水プールが地元民に利用されています。
見所ポイント1の「神田川」は環八の下をくぐり、井の頭線とほぼ平行して流れています。高井戸駅付近の神田川遊歩道沿いは特に桜の木が密集していて、桜が満開の時期には桜並木のトンネルが出現します。ただ、遊歩道が狭いので、シートを敷いてのドンチャン騒ぎはできません。ま、そんな人はお上品な高井戸住民にはいないでしょうけど。
遊歩道脇に「神田川流域案内板B 周辺の紹介」と題した案内板が立っています。
@華麗な桜並木
環八通り(佃橋)から、下流(新宿方面)の鎌倉橋付近に向かって桜並木が連なっています。満開の季節、川へと伸びる枝ぶりは、訪れる人たちに自然の美しさや癒しを与えてくれます。
A高井戸駅と環八通りの変遷
高井戸駅の歴史は、昭和八年(1933年)に、現在の京王井の頭線が開通(渋谷〜井の頭公園)した時から始まります。当時は築堤式の駅でしたが、昭和四十七年(1972年)の環八通りの整備にともない、井の頭線では数少ない高架式の駅に変わりました。東京都道311号環状第8号線は、「環八通り」・「環八」と呼ばれ、大田区の羽田空港を起点として、北区岩淵町に至る、総延長31.830kmの都市計画道路です。昭和二年(1927年)に都市計画決定され、昭和二十一年(1946年)の東京戦災復興計画により、昭和三十一年(1956年)から着工され、平成十八年(2006年)に全線開通し、今では主要な道路を結ぶ東京の大動脈となっています。
武蔵野台地が広がる高井戸周辺には、1980年代のバブル前までは、旧日本興業銀行(現みずほ銀行)・旧三井グループ・東京電力・NHK・独立行政法人国立印刷局・王子製紙・旧富士銀行(現みずほ銀行)など、大手企業や行政関連の運動場(スポーツ施設)がたくさんありました。各企業が施設を取得した頃は高井戸は緑豊かな田園地帯で、宅地化もそれほど進んでいませんでした。その後、日本経済の成長とともに住宅地は郊外へ郊外へと広がり、施設の周りにもたくさんの住宅が建てられ、都市化が進みました。住宅ができ、街が発展すると、住環境の良い施設の周辺の地価は大幅に上昇し、施設の資産価値が高くなりました。1990年代になってバブル経済がはじけ、なかでも金融機関は大きな痛手を受け、国の支援を得ないと経営が成り立たない状況に追い込まれました。支援の前提として事業に直接関係のない資産の処分を求められたことから、運動施設も手放すことになりました。幸いにも、処分対象のうち規模の大きいものの多くが東京都や杉並区へ売却されたため、公園や公共の施設として利用されることになりました。
三泉淵緑地は、高井戸東小学校近くの神田川の南の北東斜面につくられた緑地です。幹周り3m弱の大きなクヌギやケヤキ、イヌシデなどが生い茂り、下草には種々の山野草が繁茂して生物多様性の豊かな緑地を形成しています。
その中に昭和四十九年に開設された見所ポイント2の「山草園」があります。山草園は、昭和十七年に桃井第二小学校の教諭であった西澤一郎先生が理科教育のために武蔵野の野草を集めて校庭に野草園を作ったのがはじまりです。その後、活動は万葉植物の収集へと幅を広げ、環境学習の場も教諭が転任されるごとにさまざまな学校へと移り、最後の落着先が三泉淵緑地でした。現在、野草は220余種あり、これだけの野草を見られるところはあまりないそうです。多くの草花が種類ごとにコンクリートなどの桝に植えられ、「三泉の野草を育てる会」の方々が毎月大切に野草をお世話しています。緑地内にはベンチもあり、静かで緑豊かな場所は、四季折々に美しく装う花たちが来園者を和ませています。
神田川から堂下橋を渡ってすぐの交差点角に三井の森公園の入口があります。レンガを埋め込んだお洒落な遊歩道の脇には、樹齢70年を越える桜並木が続き、初春に咲く樹高10メートルのコブシ、初夏に花をつけるホソバタイサンボクの大樹など、野趣あふれる公園です。三井の森公園は、かつてこの地にあった三井上高井戸運動場の跡地に平成二十二年(2010年)に開園した杉並区内でも最も広い樹林地のひとつです。昭和の初期から「三
井の森」と呼ばれ、ほとんど人の手が入らず保存されてきた貴重な樹林地は、まさしく都会の「森」といえます。神田川によって削られてできた崖を覆う雑木林が葉を茂らせ、ウッドデッキからは水辺の観察もできます。今では都会ではあまり見られなくなった野生のランや草木類、トンボ類や甲虫類も見ることができます。
見所ポイント3の「柏の宮公園」は、かって日本興業銀行が所有していたグラウンドが同行のリストラ(みずほ銀行との統合)の際に杉並区に売却され、それを杉並区が公園として整備したものです。平成十六年(2004年)に開園し、敷地面積は4.3ヘクタールと、杉並区立の公園としては最大規模を誇ります。草地広場や池、テニスコート、日本庭園や茶室などに加え、区の防災施設として災害備蓄倉庫や防災井戸も設けられています。案内板には「柏の宮公園」の園名の由来が記されています。
園名の由来
「柏の宮」の名は室町時代、太田道灌がこの地に、鎌倉鶴岡八幡宮の別殿(現在の下高井戸八幡神社)を柏木左右衛門に建立させたことまでさかのぼります。江戸時代、下高井戸八幡神社は「柏木之宮」とも呼ばれ、神社のあるこの地域は「柏之宮」と呼ばれていました。大正時代になると、高井戸村正用で事業を営んでいた横倉善兵衛(先々代)氏が、この地を整備して数寄屋を建て、「柏ノ宮園」と名づけ、東京から文人墨客を招いて歌会、観月会などを催しました。昭和初期には東京名所の一つとして絵はがきにもなりました。戦後、この地は旧日本興業銀行に売却され「柏ノ宮総合グランド」と呼ばれるようになりました。杉並区では地域の旧名称をできるだけ継承していくために、小字名であった「柏の宮」の名称を公園名として残すことにしました。
公園の中心には草地広場があり、真夏の日差しに緑が眩しく映えています。
旧日本興業銀行時代には茶室として使われたであろう、見所ポイント4の「林丘亭」の建物も公園内に残されています。
林丘亭の由来
この茶室は寛永年間、若狭小浜藩主酒井忠勝が新宿区矢来町にあった酒井家の江戸下屋敷内の池畔に、小堀遠州に命じて造営したものと伝えられています。当時は「洋の茶屋」と呼ばれ、将軍家光なども御成りになったといわれています。八畳室は、江戸中期の書院造りで、その後江戸末期に水屋、点前席などを増改築したとのことです。のちに、酒井家の江戸下屋敷の一部が旧日本興業銀行矢来寮になり昭和三十四年十二月、当時の頭取が武蔵野の面影を残すこの地に茶室を移築復元し「林丘亭」と名づけられたといわれています。
公園の南端には、地形を巧みに活かして日本庭園も設けられています。
日本庭園の横には田んぼもあります。環境にうるさい杉並区民のこと、自然を尊重した本格的な有機栽培で米作りがなされているとのことです。
ここは「冬期湛水不耕起栽培」の田んぼです。平成十六年10月30日の公園開園以来、柏の宮公園自然の会が杉並区みどり公園課のご協力とご支援を得て、昭和四十年頃までこの神田川沿いに広がっていた田んぼ風景を再現し、みどり豊かな武蔵野の里の姿を残していこうと努力を重ねています。最初は田んぼの水漏れが激しかったので、粘土で底やあぜを塗り固めるなど、苦労しました。現在は、田んぼに穴をあけてしまう外来生物アメリカザリガニがいつのまにか増えてしまい、その駆除には苦労していますが、メダカやドジョウ、カエル、ヤゴなど、いろんな生き物がいっぱいの楽しい田んぼになりました。また、毎年、近くの小学校やご近所の方にも掲示板などでお知らせして、一緒に田植えや稲刈り、脱穀、もみすりを行っておりますので、皆さまもどうぞ、ご参加下さい。
「冬期湛水不耕起栽培」の田んぼって?
原則的に耕さないで、稲刈りをした後は冬の間も田んぼに水を貯めておきます。刈り取った後の稲株もそのままにして、収穫した稲のワラと米ぬかとオカラやニガリ、薫炭など自然の肥料を少しだけ加えて、田んぼの中の小さな生き物達に土づくりをおまかせします。また、ここでは、化学肥料や殺虫剤、除草剤は使っていません。沢山の生き物に育まれて、安心して食べられる美味しいお米ができます。いろいろな生き物達に感謝しましょう!
見所ポイント5の「鎌倉街道」が神田川と交差する地点には鎌倉橋が架かっています。
橋の袂に鎌倉橋の案内板が立っています。
鎌倉橋
神田川にかかるこの鎌倉橋について、「武蔵名勝図会」には、「上高井戸の界にあり。古えの鎌倉街道にて・・・いまは農夫、樵者(しょうしゃ:山林の木を切るのを業とする人・きこり)の往来道となりて、野径の如し」とあります。鎌倉街道は、東国御家人と鎌倉を結ぶ道で、鎌倉〜室町時代に繁栄しましたが、江戸時代以降、次第に衰え、後半期には前述の「野径の如し」といわれるように、一部分を残すだけとなりました。また、この付近には、鎌倉時代に陣屋櫓が作られ、後に太田道灌の支配地になってからは、家臣某が任に当っていた、という伝承が残されています。橋名の由来については、同書多摩郡之部高井戸宿の条に「鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という」と記されていることから、鎌倉橋と名付けられたという説があり、また一説には、長禄元年(1457年)、太田道灌が江戸城を築く際、工事の安全を願い、家臣に命じて下高井戸八幡神社を建立させ、武士の信仰の厚い鎌倉八幡宮の神霊を勧請したおりに、鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名付けたと言われています。また、延宝二年(1674年)四月の「武州多摩郡下高井戸村御縄打帳」には、「鎌倉橋北側」・「鎌倉橋南側」という小字名がみえています。このことからみても、江戸時代初期には、すでに「鎌倉橋」という字名がついていたと言えるでしょう。なお、「豊多摩郡誌」は、大正初期の鎌倉橋について、「木造、延長三間、幅員一間」と当時の様子を伝えています。
遊歩道脇に「神田川流域案内板C 周辺の紹介」と題した案内板が立っています。「乙女橋」の嬌名は、新宿区にある「おとめ山(御留山:立ち入り禁止の場所)公園」と同じような由来となっていますね。
@塚山遺跡
神田川沿いの緩やかな台地上のこの地で、昭和七年(1932年)頃から土器や石器が出土し、その後多くの竪穴式住居跡が発見されたことから縄文時代中期の遺跡であることがわかりました。遺跡周辺の神田川の豊富な水を利用し、エゴマやリョクトウ、ヒョウタンなどの有用植物を栽培していたようです。現在では遺跡公園として保存されており、資料館では石斧や土器の展示があり、復元された住居には当時の人々のくらしぶりが演出されています。
A杉並累層第一発見地点
平成十二年(2000年)の秋、区内在住の地質研究者の方が、八幡橋〜むつみ橋の間の河床に、延長約200mにわたり、自然の地層が現われ(て)いることに注目し、そこに生痕化石(生物が活動した痕跡)があることを発見しました。その後、調査分析をした結果、およそ10万年〜1万年前の地層(杉並累層)であることがわかりました。
B乙女橋
乙女橋の左岸側一体は、江戸時代、徳川家のご三卿(田安、一橋、清水)の鷹場として将軍家が定めた場所で「お留め場」といわれていました。「お留め場」は、その中で行う農耕、 建築など日常の生活に厳しい規制がありました。この橋は自由に通行できない「お留橋」でしたが、慶応三年(1868年)に鷹狩り制度が廃止された後「おとめ」の音を当てはめて「乙女橋」と名づけられたそうです。
神田川沿いに見所ポイント6の「藤和緑地」があります。園内には緑が一杯で、歩くだけで気分が新たになります。歩きやすく舗装されていますので、小さな子どもと一緒にお出かけをしても安心です。まさに都会の中のオアシスとして地域住民に親しまれています。
遊歩道に沿って竹林も植栽されていますので、春には筍も見られることでしょう。また、水の流れもありますので、暑い時期には子供達の水遊びもできます。
藤和緑地の奥に、見所ポイント7の「下高井戸八幡神社」が鎮座しています。「下高井戸浜田山八幡神社」と、「浜田山」を挟む表記もあります。
下高井戸八幡神社
この神社は、旧下高井戸宿の鎮守で、祭神は応神天皇です。社伝によると、長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築いた際、工事の安全を願い、鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を勧請(迎えてまつる)して創建したといわれます。本殿は、棟札から弘化四年(1847年)の再建であることがうかがわれ、現在の拝殿・覆殿は昭和三十四年(1959年)に落成しました。境内には末社として、天祖神社・御嶽神社・稲荷神社のほか、当神社に功労のあった人々を祀る祖霊社があります。神田川沿いの台地や斜面では、旧石器時代から古墳時代に至る遺跡が各所で発掘されています。当社の近くからも集落跡が発見され、石器・土器等の出土もあることから、古くより人間が居住するのに適した環境であったことが窺われます。中世以降、村落の発達とともにこの地に神社が奉斎され、村の鎮守として尊崇を厚くしてきました。昭和初期まで当社の宮司を務めた斎藤守高氏(現宮司の曽祖父)は、俗に「面芝居(仮面をつけて演じる地狂言)」とも呼ばれた神楽の元締で、芸名を「中村縫之助」といい、鼓・太鼓・三味線に合わせて踊る芸の師匠でありました。面芝居は、明治末から昭和初期にかけて流行しましたが、今は絶えており、残された数個の面から往時をしのぶことができます。
下高井戸八幡神社周辺では、「高井戸節成キュウリ」の栽培が行われていました。
江戸・東京の農業 高井戸節成キュウリ
旧豊多摩郡高井戸村(現在の杉並区上高井戸・下高井戸)付近は、江戸時代に開拓されました。甲州街道に面し江戸にも近く、古くから野菜の産地でした。キュウリは明治になってから大量に消費されるようになりましたが、高井戸キュウリは「節成り」といって、親づるの節ごとに雌花をつける性質があり、栽培がしやすい品種で、明治の中頃から昭和の中頃まで、この地を中心に高井戸節成キュウリと呼ばれ、広く栽培されていました。南に隣接する旧荏原郡馬込周辺(現在の大田区東馬込・西馬込)では、節成りで果実の下半分が白い、馬込半白節成キュウリが栽培され、北に隣接する旧北豊島郡(現在の練馬区)では、親づるには雌花をあまりつけず、子づるに雌花をつける豊島枝成キュウリが栽培されていて、その合流地であったこの地で両者の長所を持ったキュウリが育成されました。この特産地も、都市化や、ハウスなどの施設栽培の普及、消費者ニーズの変化などにより、東京農業の歴史に名を止めるだけになってしまいました。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO Takaido Cucumber ('Fushinari' cucumber)
The area of Kami-Takaido and Shimo-Takaido was brought under cultivation during the Edo Era. Facing to the Koshu Highway and close to Edo, it was a concentrated vegetable production area from early days. Consumption of cucumber in Edo started to increase in 1870s. The Takaido cucumber was a high-yielding
'Fushinari' type in which fruit was borne on every node of vines one after another. It was easy to grow and widely cultivated throughout the area during the years 1990-1940.
神田川には、ところどころに鯉が住み着いています。水面から顔を出している鯉もいますね。餌をねだっているのでしょうか?
幸福橋の袂に桃の木が植えられています。向陽橋の桃の木の子孫だそうです。桃の木といっても、実を採るためではなく、その花を観賞するための「ハナモモ」の木らしいです。向陽橋から弥生橋にかけて、紅白やピンクの花を咲かせるハナモモの木が群生しているとか。花もいいけど、私は果実の方かな。
遊歩道の脇に、見所ポイント8の「川は」像が建っています。子供の恰好をしていますが、何を言いたいのかよく分かりません。手の平に持っているのは蛙かな?
下高井戸おおぞら公園は、神田川沿いの旧東京電力総合グラウンド跡地に、「大空のもと、みんなのびのび、安全安心な広場」のコンセプトのもとに平成二十九年(2017年)に開園しました。広さは約3万uとそれほど大きな公園ではありませんが、敷地の大部分を占める広々とした芝生広場のほか、巨大なネット遊具をはじめ、年齢や体力に合わせて楽しめる遊具も充実しています。敷地内はたくさんの木々に包まれ、周囲に高い建物がないためにとても開放的な公園になっています。
見所ポイント9の「玉川上水第三公園」は、首都高4号新宿線の高架と下高井戸公園に挟まれた旧玉川上水跡に造られました。玉川上水は、江戸時代に江戸の町に飲料水を供給するためにつくられた上水路で、現在は一部が暗渠となって杉並区内を通っています。その暗渠の上に東京都水道局から借地してつくられた3つの公園と1つの緑地があります。下流から玉川上水公園、玉川上水永泉寺緑地、玉川上水第三公園、玉川上水第二公園の順に並んでいて、その全長は約2kmメートルにもおよびます。
見所ポイント10の「荒玉水道道路」は、世田谷区砧と杉並区妙法寺脇を結ぶ道路で、地下に現役の水道管が敷設されています。そのため、重量制限を超える車両は通行禁止になっています。但し、甲州街道や京王線と交差していますので、その区間は特別な補強がなされているようです。ちなみに、「荒玉」の「荒」は荒川、「玉」は玉川すなわち多摩川を指しています。多摩川を水源とする水道を荒川流域の町まで引水し、放水路が整備されつつあった荒川を水源とする水道と合流させ、関東大震災後に拡大しつつあった東京西北部の水需要に対応するという壮大な構想に基づいていたのです。
甲州街道を横断し、桜上水商店街を通ってゴール地点の京王線桜上水駅北口に着きます。
ということで、「12.高井戸・浜田山編 高井戸・桜上水コース」を歩き終えました。比較的地味なコースでしたが、環八の西側に比べて緑地や公園が多かったように感じます。
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