- 13.高井戸・浜田山編 浜田山・西永福コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「13.高井戸・浜田山編 浜田山・西永福コース」を歩きます。井の頭線浜田山駅をスタート地点として、三井の森公園の鬱蒼とした樹木林・神田川沿いの塚山遺跡・名もなき河川の跡・玉川上水第二公園の緑(春なら桜並木)・万葉植物園を経て井の頭線西永福駅に至ります。
「13.高井戸・浜田山編 浜田山・西永福コース」の歩行距離は4.7km、歩行時間は1時間30分です。
スタート地点:井の頭線浜田山駅
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- 1.アンネのバラ
- アンネの父のオットー・フランク氏から高井戸中学校へ贈られたバラが、平和のシンボルとして大切に育てられています。
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- 2.三井の森公園
- ほとんど人の手が入らず、見上げるような高木から足元の草木まで多種多様な植物が保存されてきた樹林地です。
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- 3.塚山公園
- 旧石器時代から縄文時代中期の集落の遺跡があり、その遺跡や樹林を生かした公園で、竪穴住居や土器類が復元展示されています。
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- 4.水路跡歩道
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- 5.玉川上水第二公園
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- 6.甲州街道
- 江戸五街道の一つで、この付近に最初の宿場として高井戸宿が設けられ、日本橋から4里目(16km)を示す一里塚もありました。
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- 7.宗源寺
- 本堂の前の樹齢400年というラカンマキは区の天然記念物です。高井戸の地名由来ともいわれる本覚院の不動堂も移築されています。
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- 8.荒玉水道道路
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- 9.万葉植物園
- 向陽中学校の敷地内にあり、万葉集の和歌とそれに詠まれた植物が展示されています。夏には大賀ハスの花も咲きます。
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- 10.理性寺
- 大正三年(1914年)に四谷大木戸から移転され、境内の大黒殿に「火伏せの大黒天」が防火の守り神として安置されています。
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ゴール地点:井の頭線西永福駅
スタート地点の井の頭線浜田山駅から歩き始めます。浜田山駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、浜田山駅は京王井の頭線の駅となりました。浜田山駅は駅の北側にしか入口がなく、杉並区内の地上駅5駅の中で唯一南北自由通路が整備されていません。朝夕のラッシュ時を中心に、駅前の踏切が「開かずの踏切」状態になることから、線路の反対側へ行く歩行者や、駅南側から井の頭線を利用する乗客にとって利便性が課題となっていました。そのため杉並区は、「多心型まちづくりの推進」の項目の中に整備事業を追加し、2022年度の予算に浜田山駅に南北自由通路の設置を盛り込み、駅南側から直接アクセスできる南口を新設するとともに、エレベーターを整備する事業を盛り込みました。完成は2024年度の予定です。
浜田山地区には高層の建物が少ないため。高井戸駅近くに建つ杉並清掃工場の煙突がどこからでもよく見えます。杉並清掃工場は、かつて美濃部都政時代に東京ゴミ戦争のきっかけとなりましたが、現在は周辺の住民と清掃工場が共存し、ゴミを燃やした際の廃熱を利用した温水プールが地元民に利用されています。杉並清掃工場内にはその歴史を伝える「東京ごみ戦争歴史みらい館」が設置されています。
見所ポイント1の「アンネのバラ」は、杉並区立高井戸中学校の正門を入ってすぐの通路の両側に植えられています。アンネのバラは花の色が変化することで有名です。5月頃になるとバラが咲き始め、ピンク・オレンジ・黄色と次々に色が変化していきます。バラは「平和」を意味する花です。「アンネのバラ」は、第二次世界大戦の最中のユダヤ人の少女「アンネ・フランク」がルーツになっています。当時ユダヤ人はヒトラー率いるドイツ軍から迫害を受けており、アンネも逃亡生活を送っていました。その中で彼女が平和を祈り書いたのが「アンネの日記」です。彼女は15歳でこの世を去りましたが、アンネの死後にこの日記は世界中で読まれ、この日記に感銘を受けたある園芸家がアンネの父親に送った花が「アンネのバラ」です。今から40年ほど前、高井戸中学校の生徒が授業でアンネの日記を読み、その感想文をアンネの父親に送ったところ、そのお礼として父親からバラが贈られてきました。最初はわずか3株ほどしかありませんでしたが、現在は200株以上まで増えています。普段は部外者でも正門内に入ってバラを見ることができるようですが、残念ながら現在はコロナ渦の緊急事態宣言中で公開中止になっています。
植え込みの中に、「アンネ・フランクのバラ」の経緯を記した石碑が置かれています。
「アンネ・フランクのバラ」
このバラは、野バラをベルギーの園芸家デルフォルへ氏が品種改良し、アンネの父オットー・フランク氏に贈ったもので「アンネ・フランク」の薔薇と名付けられています。つぼみは赤く、花が咲くとオレンジ、やがてピンクとなって一週間ほどで散ります。1974年に国語の授業で「アンネの日記」とアンネの生涯について学んだ生徒たちが翌年、その感想文を文集にまとめオットー氏に贈りました。これがきっかけとなって、1976年6月12日、三株の苗木が高井戸中に贈られてきました。このアンネのバラは「世界の人々が手をつなぎ合って、永遠に幸せを守り続けられるように」と心からの願いをこめて、高井戸中学校の先輩から後輩へと受け継がれ、大切に育てられています。
見所ポイント2の「三井の森公園」は、かつてこの地にあった三井上高井戸運動場の跡地に平成二十二年(2010年)に開園した杉並区内でも最も広い樹林地のひとつです。昭和の初期から「三井の森」と呼ばれ、ほとんど人の手が入らず保存されてきた貴重な樹林地は、まさしく都会の「森」といえます。神田川によって削られてできた崖を覆う雑木林が葉を茂らせ、ウッドデッキからは水辺の観察もできます。今では都会ではあまり見られなくなった野生のランや草木類、トンボ類や甲虫類も見ることができます。レンガを埋め込んだお洒落な遊歩道の脇には、樹齢70年を越える桜並木が続き、初春に咲く樹高10メートルのコブシ、初夏に花をつけるホソバタイサンボクの大樹など、野趣あふれる公園です。
三井の森公園は地形を巧みに取り入れています。神田川がすぐ近くを流れていますので、長い間の川の浸食が崖線を造成し、そこに樹木が繁茂することによって、現在の緑の景観が生まれました。
崖線のみどりと生き物
正面に見える林は、神田川が削ってできた崖線のみどりです。柏の宮公園や塚山公園の林など、神田川沿いには多くの崖線のみどりのつながりが見られます。これらの林には、雑木林を構成する、イヌシディ、クヌギやアカマツ、暗い林の中でも生長するシラカシなどの木が生えています。かつて釣堀の一部として利用された正面の池は、動物のすみかや休憩所となり、ヒメガマなどの水辺に生える植物もあります。雑木林のみどりと水辺は、生き物たちが豊かに生きる環境を生み出しています。
崖線ってなに?
川に沿って形成された階段状の地形を段丘とよびます。段丘の急な斜面が線状に連なっている場所を崖線といいます。
「柏の宮公園」は、かって日本興業銀行が所有していたグラウンドが同行のリストラ(みずほ銀行との統合)の際に杉並区に売却され、それを杉並区が公園として整備したものです。平成十六年(2004年)に開園し、敷地面積は4.3ヘクタールと、杉並区立の公園としては最大規模を誇ります。草地広場や池、テニスコート、日本庭園や茶室などに加え、区の防災施設として災害備蓄倉庫や防災井戸も設けられています。案内板には「柏の宮公園」の園名の由来が記されています。
柏の宮公園
園名の由来
「柏の宮」の名は室町時代、太田道灌がこの地に、鎌倉鶴岡八幡宮の別殿(現在の下高井戸八幡神社)を柏木左右衛門に建立させたことまでさかのぼります。江戸時代、下高井戸八幡神社は「柏木之宮」とも呼ばれ、神社のあるこの地域は「柏之宮」と呼ばれていました。大正時代になると、高井戸村正用で事業を営んでいた横倉善兵衛(先々代)氏が、この地を整備して数寄屋を建て、「柏ノ宮園」と名づけ、東京から文人墨客を招いて歌会、観月会などを催しました。昭和初期には東京名所の一つとして絵はがきにもなりました。戦後、この地は旧日本興業銀行に売却され「柏ノ宮総合グランド」と呼ばれるようになりました。杉並区では地域の旧名称をできるだけ継承していくために、小字名であった「柏の宮」の名称を公園名として残すことにしました。
見所ポイント3の「塚山公園」の敷地はかって農場でしたが、昭和七年頃から土器や石器が出土し、その後多くの竪穴式住居跡が発見されたことから、縄文時代中期の遺跡のあるところとして知られていました。昭和四十八年に国が土地を取得し、官舎の建設計画を発表しました。これを契機に地元で遺跡と樹林の保存運動が起こり、杉並区議会と区民が協力して国に働きかけた結果、公園を造ることで払い下げになりました。
下高井戸塚山遺跡
この遺跡は、区立塚山公園敷地一帯を中心とした旧石器時代(約三万年前)から縄文時代中期(約三千五百年前)にかけての集落跡です。遺跡は、神田川と湧水によって侵食形成された舌状台地上全域に分布しており、遺跡の一部は公園南側の住宅地域にまで広がるものと推定されます。昭和初期に発見されたこの遺跡は、代々所有者が替わった後も開発を免れ、全国でも屈指の縄文時代中期の環状集落として保存されてきました。環状集落は、数世代から数十世代に亘って同一台地上で転々と地点を移動しながら集落を構成するため、最終的に台地の中央部(祭祀の場)以外は、住居で埋め尽くされてしまう特徴をもっています。また、本遺跡の場合は、数少ない環状集落である上に、台地縁辺部から内側に向かって時代が新しくなる傾向と未調査部分を含め、二百基程度の住居址が埋蔵されていることが解りました。この下高井戸塚山遺跡は、縄文時代中期の環状集落として著名でしたが、昭和五十九年からの発掘調査では、ローム層中からナイフ形石器を初めとする多数の旧石器時代の遺物が出土しました。特に、ローム第×層下部から出土した局部磨製石斧とナイフ形石器は、出土位置および形態から推定すると武蔵野台地では最古の石器と思われます。なお、この局部磨製石斧とナイフ形石器は、杉並区指定文化財とされ、区立郷土博物館に縄文土器とともに展示してあります。
塚山公園は、遺跡の保存とコナラやアカマツなどの樹林を有効に活用することを主眼におき、復元住居や出土品の展示、それに1ヘクタールを越える「遺跡と野鳥の森」の設置などがおこなわれています。
塚山公園の樹林の特徴
塚山公園の樹林
塚山公園の樹林は、自然の林が人の手によって伐採された後にできた二次林と呼ばれる林です。高木はアカマツ・ミズキ・ソロ・コナラなどで構成され、林床はアズマネザサでおおわれています。かつては、アカマツは建材や鉄道の枕木、コナラはたきぎや炭の材料として利用され、私達の生活と深くかかわっていました。
縄文時代は1万年近く続きましたが、その間の植生には大きな変化がありました。
縄文時代の植生
約1万年も続いた縄文時代は、いつも同じような気候ではなく寒期と暖期のくり返しで、集落のまわりの植生も変化に富んだものでした。縄文時代中期は、今よりも涼しかったと考えられており、今の武蔵野の雑木林のような、櫟(くぬぎ)、樫、椎、栗、橡(とち)などの、縄文人にとって大切な食料となっていた樹木が生えていました。
縄文時代の人々の生活ぶりを解説した案内板が立っています。
縄文時代の説明
ここ塚山遺跡で見つかった集落の跡は、今から約四千年くらい前の縄文時代中頃のものです。この時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか。この頃は、長い縄文時代の中でも、徐々に涼しくなって、人々にとっては最も生活がしやすく活気にあふれていた時期です。そのため杉並区をはじめ全国いたるところでおおきな集落がつくられています。普通集落は、多くても十数軒でつくられ、30人から40人しか住んでいませんでした。それはこれくらいの人々が暮らしていくための食べ物を取ったり蓄えたりすることしかできなかったからです。そして人々はここに復元したような家に住んでいました。それは寝るためのほかに雨や雪をしのぐところであったり、食事や家族の語らいの場として、今よりも限られた使われ方をしていました。この時代には縄文土器と呼ばれる技術的に優れた美しい縄目模様の土器が作られています。それには、食べ物を煮たり蓄えたりする土器や、食べ物をもるための土器などいろいろな使い道に合わせたものがありました。また、土器とともに大切な道具である石器も作られました。石器の中には、穴を掘ったり木を切ったりする石斧、獲物をとるための矢じりや、木の実などをすりつぶす石皿などがありました。このような道具を使って人々は日の出とともに外に出て、水辺に集まる動物を獲ったり、川で漁をしたり、また林で木の実を採ったりして食べ物を得ていました。そして、仕事の合い間には、自分たちの身を飾るペンダントや耳かざりなどを作っておしゃれをしたり、年に何回かの豊作や豊漁を願うお祭りをしたりして結構楽しく暮らしていたのかもしれません。
The Jomon Period (16,500-3,000 years ago)
The remains of an ancient community found in Tsukayama Ruins was formed about
4,000 years ago in the middle of the Jomon Period. ("Jomon" means cable design.)
How did people live in those ancient days? During this time in Jomon Period, the climate gradually became cooler and it was the most comfortable time for people to live and their lives were filled with vigor. Large sized communities were formed not only in Suginami but also all over Japan because of the nice climate. Usually, there were about ten houses in one community of 30 to 40 people. They could only earn and stock food for these small number of people. People lived in the house restored here. It was used to sleep, keep away from rain and snow, eat meals and enjoy talking with family. In this period, "Jomon pottery (or Jomon Doki)" was made, which was technically accomplished, and had beautiful cable design. Jomon pottery were made in different shapes for multiple purposes such as to cook, serve and stock. At the same time, essential stone tools were made. They were stone axes for digging holes and cutting trees, arrow-heads for hunting, dishes for grinding nuts. People woke up in sunrise and worked outside with these tools. They hunted animals by the water, fished in the river, and picked nuts in the woods. They made accessories such as pendants and earrings during free time to make themselves beautiful. They enjoyed festivals praying for full harvest and great catch of fish several times a year.
塚山遺跡の案内板と案内柱も立っています。
塚山遺跡について
塚山遺跡は縄文時代中期(約3500〜4500年前)の集落跡で、昭和十年秋に江坂輝彌氏によって紹介されました。その後、昭和十三年に明治大学の後藤守一氏によって、初めて本格的な発掘調査が行われ、4軒の竪穴住居跡が発見されました。昭和四十四年10月には、江坂氏の指導のもと区教育委員会によって、台地の東側斜面が調査され住居跡が1軒発掘されました。また、昭和四十八年秋には西側斜面が調査され、住居跡20軒が発見されました。これらの調査により、塚山遺跡が縄文時代中期の環状集落であることがわかりました。
杉並区指定 史跡 下高井戸塚山遺跡
本遺跡は塚山公園の北側に突出する台地部分に広がる、縄文時代中期前半から中頃(約4500年〜3500年前)にかけての集落遺跡で、数度の学術調査により出土した多くの土器や石器とともに、全国的にも数少ない環状集落跡として知られています。遺跡は中央部分に広場を形成し、縁辺部周辺に住居を構築する景観的特徴を持つもので、現在の公園の下には広場や200軒を越す堅穴住居跡がそのまま大切に保存されています。その全体像は都内でも屈指の大規模集落と推定されています。
公園内には復元された住居が展示されていて、ガラス窓越しに当時の生活ぶりが見て取れるようになっています。建物は半地下になっていて、地面に敷かれた莚(むしろ)に座っていたようです。調理は地面に設えた竈で行い、土器の鍋も使われていました。展示では大きな肉の塊が焼かれていますが、こんなご馳走は滅多に出会えなかったことでしょう。
縄文時代中期の復元住居
この復元竪穴住居は、昭和四十八年に発掘された1号住居跡をモデルに、不燃化材で建てたものです。この様式は、武蔵野台地におけるこの時期の典型的なもので、住居床上の中央部やや奥に「石囲い」の炉を掘り込み、住居の四隅がやや円いことから「隅丸方形」型と呼ばれています。縄文時代中期の住居址を見てみると、前葉から中葉にかけての住居形態は円形を基本としていますが、後葉になると次第に方形へと変化していきます。このような住居形態の変化は、気候の変化に関係があると言われていますが、この程度の大きさ・空間の住居であれば、日常的な道具(土器や狩猟道具等)を収納しても、親子3人から4人でも、充分に生活できたと考えられています。
「鎌倉街道」が神田川と交差する地点には鎌倉橋が架かっています。
橋の袂に鎌倉橋の案内板が立っています。
鎌倉橋
神田川にかかるこの鎌倉橋について、「武蔵名勝図会」には、「上高井戸の界にあり。古えの鎌倉街道にて・・・いまは農夫、樵者(しょうしゃ:山林の木を切るのを業とする人・きこり)の往来道となりて、野径の如し」とあります。鎌倉街道は、東国御家人と鎌倉を結ぶ道で、鎌倉〜室町時代に繁栄しましたが、江戸時代以降、次第に衰え、後半期には前述の「野径の如し」といわれるように、一部分を残すだけとなりました。また、この付近には、鎌倉時代に陣屋櫓が作られ、後に太田道灌の支配地になってからは、家臣某が任に当っていた、という伝承が残されています。橋名の由来については、同書多摩郡之部高井戸宿の条に「鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という」と記されていることから、鎌倉橋と名付けられたという説があり、また一説には、長禄元年(1457年)、太田道灌が江戸城を築く際、工事の安全を願い、家臣に命じて下高井戸八幡神社を建立させ、武士の信仰の厚い鎌倉八幡宮の神霊を勧請したおりに、鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名付けたと言われています。また、延宝二年(1674年)四月の「武州多摩郡下高井戸村御縄打帳」には、「鎌倉橋北側」・「鎌倉橋南側」という小字名がみえています。このことからみても、江戸時代初期には、すでに「鎌倉橋」という字名がついていたと言えるでしょう。なお、「豊多摩郡誌」は、大正初期の鎌倉橋について、「木造、延長三間、幅員一間」と当時の様子を伝えています。
遊歩道脇に「神田川流域案内板C 周辺の紹介」と題した案内板が立っています。「乙女橋」の嬌名は、新宿区にある「おとめ山(御留山:立ち入り禁止の場所)公園」と同じような由来となっていますね。
@塚山遺跡
神田川沿いの緩やかな台地上のこの地で、昭和七年(1932年)頃から土器や石器が出土し、その後多くの竪穴式住居跡が発見されたことから縄文時代中期の遺跡であることがわかりました。遺跡周辺の神田川の豊富な水を利用し、エゴマやリョクトウ、ヒョウタンなどの有用植物を栽培していたようです。現在では遺跡公園として保存されており、資料館では石斧や土器の展示があり、復元された住居には当時の人々のくらしぶりが演出されています。
A杉並累層第一発見地点
平成十二年(2000年)の秋、区内在住の地質研究者の方が、八幡橋〜むつみ橋の間の河床に、延長約200mにわたり、自然の地層が現われ(て)いることに注目し、そこに生痕化石(生物が活動した痕跡)があることを発見しました。その後、調査分析をした結果、およそ10万年〜1万年前の地層(杉並累層)であることがわかりました。
B乙女橋
乙女橋の左岸側一体は、江戸時代、徳川家のご三卿(田安、一橋、清水)の鷹場として将軍家が定めた場所で「お留め場」といわれていました。「お留め場」は、その中で行う農耕、 建築など日常の生活に厳しい規制がありました。この橋は自由に通行できない「お留橋」でしたが、慶応三年(1868年)に鷹狩り制度が廃止された後「おとめ」の音を当てはめて「乙女橋」と名づけられたそうです。
見所ポイント4の「水路跡歩道」は、鎌倉橋近くから住宅地の間を縫って流れていた川の跡らしいのですが、ネットでいろいろ調べてみても川の名前はわかりませんでした。神田川の支流だったのかな?
玉川上水は江戸時代に江戸の町に飲料水を供給するためにつくられた上水路で、現在は一部が暗渠となっています。その暗渠の上に東京都水道局から借地してつくられた3つの公園とひとつの緑地があります。下流から玉川上水公園、玉川上水永泉寺緑地、玉川上水第三公園、見所ポイント5の「玉川上水第二公園」の順に並んでおり、その全長は約2kmにもおよびます。玉川上水第二公園は、玉川上水第三公園と荒玉水道に隣接した公園です。園地は道路より少し高くなり、鉄平石を張った道から始まり、自然の土と小砂利を敷いた小道と園路もさまざまに変化します。園路は左右にうねり、場所によっては二筋、三筋に分かれて緑の木々の間を進みます。見所のひとつは人工の流れと池で、植込みの中の古銭をかたどった円形の泉に発した流れは岸辺を岩でふちどられた流れとなり、あずまやの建つ池にそそぎます。
見所ポイント6の「甲州街道」は江戸から甲斐国(山梨県)へつながる道で、江戸幕府によって整備された五街道のひとつです。慶長七年(1602年)に開設され、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたといわれています。その為に街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷が連ねられました。開設と同時に高井戸宿が置かれ、2年後に上高井戸宿と下高井戸宿に分けられました。下高井戸宿は日本橋から4里のところにあり、宗源寺の西隣の「富よし」に本陣が置かれました。本陣前に高札場が設置され、本陣向かい側の少し日本橋寄りに問屋が置かれました。問屋の役割はふたつありました。ひとつは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶというものです。もうひとつは幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務で、継飛脚といいました。
見所ポイント7の「宗源寺」は、慶長年間(1596年〜1615年)、光伯院日善によって開山されました。光伯院日善の祖先は畠山重忠の子孫の吉田宗利とされ、宗利が出家して「宗源」と名乗ったのが寺名の由来となっています。境内には不動堂があり、これは明治初期に廃寺となった修験道の本覚院にあったもので、俗に「高井堂」と呼ばれていました。これが地名の「高井戸」の起源という説もあります。
宗源寺
叡昌山と号する宗源寺は、十界諸尊を本尊とする日蓮宗の寺院です。当寺の檀家であった有名な地理学者志賀重メが記した「宗源寺開基碑」によると、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族江戸遠江守太郎判官重永の孫で、甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利とされます。寺名は宗利が法華宗に帰依して法名「宗源」と称したのに因み、末孫の日善が慶長年間(1596年〜1615年)の初めに、この地に当寺を開いて寺名としたと伝えられます。境内の不動堂は、この近くにあった修験道の本覚院(明治五年【1872年】廃寺)のものでしたが、明治四十四年(1911年)に現在地に移し、昭和四十二年(1967年)に改築したものです。この不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。当寺の文化財としては、南北朝初期の板碑や滝沢求馬(正徳三年【1713年】没)の筆になる釈迦涅槃図が保存されています。
宗源寺の隣に覺蔵寺があります。
覚蔵寺
清月山覚蔵寺は日蓮宗の寺で、本尊は十界曼荼羅・宗祖日蓮聖人像です。当寺はもと真言宗の寺でしたが、慶長年間(1596年〜1614年)に日蓮宗に改宗、中興開山は実成院日相と伝えられています。当寺に安置されている鬼子母神像は、日蓮聖人の直刻と伝えられています。このことは「江戸名所図会」にも記載されているもので、文永八年(1271年)聖人が龍ノ口法難にあわれる前、馬に乗せられ鎌倉の町を引きまわされて刑場に向う途中、一老女からごまのぼた餅を供養され、そのお礼として手渡したものであるといわれています。この像は江戸時代の中頃に、鎌倉の妙法寺から当寺に安置され、それ以降開運鬼子母神として、人々の信仰を集めるようになり、寺運も大いに栄えたといわれています。境内の日蓮聖人五百遠忌塔は、天明元年(1781年)頃に建立されたもので、昭和五十六年(1981年)は聖人七百遠忌の年にあたり、それを記念して銅像を建立しています。また、開山日相聖人塔は三百五十遠忌の年(昭和四十一年)に建立されたものです。なお、当寺は大本山池上本門寺の末で、現本堂は昭和三十一年に改築されたものです。
見所ポイント8の「荒玉水道道路(都道428号高円寺砧浄水場線)」は、世田谷区砧と杉並区妙法寺脇を結ぶ道路で、地下に現役の水道管が敷設されています。そのため、重量制限を超える車両は通行禁止になっています。但し、甲州街道や京王線と交差していますので、その区間は特別な補強がなされているようです。ちなみに、「荒玉」の「荒」は荒川、「玉」は玉川すなわち多摩川を指しています。多摩川を水源とする水道を荒川流域の町まで引水し、放水路が整備されつつあった荒川を水源とする水道と合流させ、関東大震災後に拡大しつつあった東京西北部の水需要に対応するという壮大な構想に基づいていたのです。
万葉植物園の名称は全国に40余りあるそうです。見所ポイント9の「万葉植物園」は、校庭の隅での幅3メートル弱の杉並区の遊歩道に面して百メートルほど続いています。歌と植物名を書いたプレ−ト板が敷地の内外から見られるようにしてあります。これは当時万葉学界を代表されていた国学院大学の桜井満博士から「本邦初の開かれた万葉植物園」だと言われ、「まちデザイン賞」や「杉並百景」への入選に繋がりました。
創立四十周年記念 万葉植物園
- この植物園は向陽中学校の創立四十周年を記念して、学校、PTA、地域の協力のもとに開園しました。
- 日本最古の歌集である「万葉集」に詠まれた植物を集めたこの万葉植物園が、自然に親しみ、古典にふれる、ゆとりとうるおいの一隅となれば幸いです。
’95 第二回 杉並まちデザイン賞入賞
(平成三年二月二十二日 杉並区)
杉並区特別区制施行六十周年記念事業 杉並百景入選
(平成五年一月一日)
歌には、作者と植物名が記されています。
ひ(檜) ヒノキ ヒノキ科
巻向の檜原もいまだ 雲居ねば 小松が末ゆ 沫雪流る
(巻向の檜原に未だ雲はないのに、思いがけなく小松の梢に淡雪が降ってきた驚きと喜び)
柿本人麻呂(巻10−2314)
あふち(阿布知・棟) センダン・センダン科
妹が見しあふちの花は散りぬべし わが泣く涙 いまだ干なくに
(妻が生前に見たセンダンの花はもうすぐ散ろうとしているよ。私の泣く涙はいまだ乾かないというのに)
山上憶良(巻5−798)
西永福駅に隣接して見所ポイント10の「理性寺」があります。大久保越中守忠辰・甚兵衛尉忠陰兄弟が両親の父荒之助忠富(法眞院日堯)・母久世氏(理性院日然)のために久世氏より土地を譲り受けて内藤新宿に創建したといわれています。大正三年に現在地へ移転しました。境内左手の大黒殿には「火伏せの大黒天」と呼ばれる高さ約12センチメートルの木彫りの大黒天が安置されています。寛政六年(1794年)に御殿医の木村検校により奉納されました。
理性寺
当寺は法華宗法真山理性寺といい、本尊は十界諸尊の曼荼羅です。「御府内備考続編」によれば、当寺は承応三年(1654年)、大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当夫妻を開基として、その菩提のために創立したものです。寺名は、夫妻の法名、法真院殿・理性院殿に因んで法真山理性寺としました。創立にあたっては、内藤新宿四谷大木戸(現新宿区新宿一丁目付近)に、大久保家下屋敷の名義をもって草創し、後に老中久世大和守広之の許可により、境内地として使用することになったと伝えられています。現在地に移転したのは大正三年(1914年)です。境内の左手には大黒殿があり、中には「火伏せの大黒天」と呼ばれる高さ約十二センチメートルの木彫りの小さな大黒天が安置されています。この大黒天は、高祖日蓮の作と伝えられ、お経の「経」の字を形取っており、寛政六年(1794年)御殿医木村検校によって奉納されたものといわれています。「火伏せ」の由来については、当寺が新宿に在ったころ、近隣火災の折、大黒天が大団扇をもって現れ、類焼から守ったことによると言われています。以後、火伏せの守り神として今も、甲子の日に「大黒天甲子祭」が行われています。墓地には、戯作者伊庭可笑・幕府医官林恒斎・初代杵屋三五郎の墓等があります。
参道入口の脇には、「大黒尊天」と彫られた石碑が建っています。理性寺には、日蓮の作といわれる「火伏せの大黒天」という大黒天像が安置されています。この大黒天は、火災の時に大団扇をもって現れて、火災を防いだという逸話から「火伏せの大黒天」と呼ばれるようになりました。大黒尊天像は拝めませんでしたが。
日蓮大聖人御直作
開運火伏 經の字(お経の「経」の字を形取った)大黒尊天
当寺に安置し奉る大黒尊天御像は日蓮大聖人自ら御枕木を以って「經」の字をかたどり彫刻あそばされた尊き御像であります。この大黒尊天には「貧しき者には福を、病人には薬をあたえ、無知の者は知者に、短命の者は長命に、悪心の者は善心となす」という御誓願があり、深く信ずる者は「現世安穏。福祐自在。来世成仏。得脱疑無し」と考えられております。昔、四谷大木戸にあった当寺も大黒尊天安置以後は一度も火災にかかることなく、世の人は開運火伏の大黒天として尊崇したのであります。当寺におきましては毎甲子(キノエネ)の日に大祭を修行しております。是非御参詣の上福徳開運をお祈り下さい。
ゴール地点の西永福駅に着きました。京王井の頭線西永福駅は、かって改札口は南口の一ヶ所のみで、ホームと駅舎間は地下道で結ばれていました。その後、バリアフリー対応と踏切による交通障害を解消するため、橋上駅舎化(北口開設・エスカレータやエレベーターの設置)と駅南北自由通路の設置が決定し、平成十九年(2007年)10月から工事を開始し、同年12月16日より、橋上駅舎改札と北口(北口エスカレータ・エレベーター・階段)と改札内エスカレータ・エレベーターの供用を開始しました(やけに早い!)。北口のエスカレータはスペースの都合上、上り方向のみの設置となっています。隣の駅の永福町駅とは700mしか離れておらず、浜田山駅も含めて両駅のプラットホームが見えます。
ということで、「13.高井戸・浜田山編 浜田山・西永福コース 」を歩き終えました。他のコースと重なるところもありましたが、また新たな視点で見ることができました。神田川の遊歩道は何度も歩いたのですが、周辺には今まで知らなかった名所や旧跡が幾つもあります。また、季節を変えて歩いてみたいものです。
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