- 14.西荻南・久我山編 西荻窪・富士見ヶ丘コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「14.西荻南・久我山編 西荻窪・富士見ヶ丘コース」を歩きます。西荻窪駅南口をスタート地点として、神明通り・五日市街道・井ノ頭通り・人見街道を縦断し、西荻の緑溢れる住宅街を巡ります。
「14.西荻南・久我山編 西荻窪・富士見ヶ丘コース」の歩行距離は4.0km、歩行時間は1時間20分です。
スタート地点:JR中央線西荻窪駅南口
↓
- 1.西荻のあさ市
- 昭和五十年から毎月第3日曜日に神明通りの一部を車両通行止めにして、沿道の商店が朝市を開いています。
↓
- 2.西荻南一丁目歩道
- 中央線建設時の湧水や雨水を善福寺川に流すためにつくられた排水路(大宮下大下水)が暗渠化され遊歩道になりました。
↓
- 3.金魚屋養魚池
- 大量の水を流す銭湯や金魚の養魚池が排水路沿いにでき、昔は釣堀もしていましたが、現在は錦鯉を販売しています。
↓
- 4.五日市街道
- 新高円寺駅付近で青梅街道から分岐し、あきる野市に至る街道で、江戸時代には薪炭・農産物の運搬に使われました。
↓
- 5.井ノ頭通り
- 境浄水場と渋谷を結ぶ道路で、和田堀給水場までは水道管が道路下に敷設されており、以前は水道道路と呼ばれました。
↓
- 6.大宮前新田
↓
- 7.庚申塔
- 享保七年(1722年)に造立された区内最古の道標付庚申塔。左右の側面に井の頭と府中への道しるべが刻まれています。
↓
- 8.人見街道
- 区内の古道の一つで近世以前は東西を結ぶ重要な街道。道筋に神社・寺・石仏などの文化財が点在しています。
↓
- 9.東原遺跡
- 後期旧石器時代(約3万年前)からの遺跡。神田川両岸の台地上には、早期縄文時代の遺跡が集中しており、縄文人が定着していました。
↓
ゴール地点:井の頭線富士見ヶ丘駅北口
スタート地点の西荻窪駅南口から歩き始めます。西荻窪駅は、大正十一年(1922年)に鉄道省の駅として開業し、現在は杉並区およびJRにおける東京23区最西端の駅となっています。西荻窪駅周辺は道が狭く、特に南口は駅前広場も十分とはいえない広さです。しかし、そのことが西荻窪の独特な街の空気を醸し出しています。西荻窪は、アンティークショップや古書店が多いことで知られています。西荻窪駅の北と南に商店街が広がっていますが、北口が多種多様な業種の商店街であるのに対し、南口には飲食店が多く、商店街というよりは飲食店街といった方がいいかもしれません。西荻窪駅南口の三角地帯はバラックを起源とする小さな酒場が建ち並ぶ飲み屋街になっていて、その中でひときわ目立つ赤い看板のお店は、昭和四十八年(1973年)に創業した焼き鳥酒場「戎(えびす)」です。創業者が戎井さんだったことが店名の由来だそうです。今日はお散歩が始まったばかりなので立ち寄りはしませんが。
駅前の花壇の中に「西荻窪六童子めぐり」と題した案内板が置かれています。中野区の「鷺ノ宮駅〜野方駅コース」を巡った際に、都立家政商店街に「かせいチャン七福神」の像が置かれていましたね。西荻窪は七福神の代わりに童子像が置かれているそうです。全部で6体あるようですが、相互の関連はわかりません。
西荻窪六童子めぐり
彫刻家藪内佐斗司作「童子像」を西荻窪地域6箇所に設置しました。童子像を鑑賞しながら、まちめぐりをお楽しみ下さい。
- おすもう童子(西荻南児童遊園)
- 花の童子(JR西荻窪駅南口)
- 龍神童子(西荻北中央公園)
- 大朝露童子(井荻公園)
- 縁結び童子(地蔵坂)
- 上向き童子(西荻地域区民センター)
案内板の後ろに、小さな象のモニュメントが置かれています。「A花の童子」のようです。よくよく見ますと、象の背中に壺を抱えた子供が乗っています。壺の中には花が詰められていて、落ち込んだ人に花を配っていくのでしょうか?
花の童子
象の背中に揺られつつ、あなたにお花を届けます。すこし沈んだこころにも希望の花が咲きますように。
洋菓子販売・フランス料理・喫茶の老舗店である「こけし屋」は、西荻窪に住んでいるなら知らない人はいないといっても過言ではないお店です。創業者の大石宗一郎さんは、早稲田大学の学生だった昭和二十二年(1947年)に、亡くなった両親が洋服屋を経営していた二階建ての木造建築の店舗で喫茶店を開きました。開店当初、こけし屋を有名にしたのは料理ではなく、待ち合わせや打ち合わせの場所として使われた文化人サロンでした。喫茶店を開業する前から、こけし屋の建物の二階では学者・芸術家・俳優などの文化人が週一回サロンを開いていました。昭和二十二年(1947年)に会が始まった当初、このグループは会場の隅に置かれた「こけし」の人形から「こけしの会」と命名されました。グループの会員達は日本の文化を復活させるため、新しい開放的で民主的な雰囲気を求め、流行音楽から難解な学問まで幅広い話題で会は賑わいました。昭和二十四年(1949年)に大石さんの喫茶店は「こけしの会」から「こけし屋」の名をもらい受けました。フランス通が多い常連客に触発され、大石さんは昭和二十六年(1951年)にフランスのベーカリー(ケーキ販売)を、昭和二十八年(1953年)にフランスレストランをオープンさせました。フランス文学者小松清志の妻の小松妙子さんは大石さんのコンサルタントとして働き、最初のメニューを作りました。フランスで長年暮らしてきた彼女のポリシーは、「レストランではホテルの料理を提供するべきではなく、家で食べるものを提供する」ことでした。そのポリシーを受け継ぎ、現在でもこけし屋で最も有名な料理は、ビーフ・ブルギニョン、ポトフ、カレー、タマネギ・オニオングラタンスープなどのフランス風家庭料理だそうです。昭和五十四年(1979年)に鉄筋コンクリートのビルに建替えられた本館は、老朽化により令和四年(2022年)3月末日をもって一旦営業を終了し、約3年の建替え工事期間を経て、また同じ場所で営業を再開するとのことです。再開を心待ちにしている常連客も多いことでしょう。
注記:私がコースを歩いたのは2021年7月24日で、当時は未だ営業中でした。
見所ポイント1の「西荻のあさ市」は、昭和五十年から毎月第3日曜日の朝8時から11時まで、西荻窪駅南口から徒歩2分の「神明通り」の一部の区間を車の乗り入れ禁止にして、沿道の商店が路上で開いている朝市です。魚や野菜といった生鮮食料品から日用生活品、地方からの産地直送品まで、豊富な品揃えと市価より割安の値段が人気となっています。こけし屋も朝市に出店しています。きっかけは、荻窪と吉祥寺の町がどんどん大きくなり、谷間となった西荻窪にどうしたらお客さんを呼ぶことができるかを社員全員で考えた結果、駐車場が空いている朝の時間帯に朝市みたいなものをやってみたらどうかということになって始めたのだそうです。最初は作ったものを売るだけだったのですが、そのうちに温かい料理を出すことになり、食べる場所を用意し、フランス料理にはワインと、どんどん広がっていき、今では凄い人数の人がやって来るとのこと。中には、朝市の他のお店で買ったお惣菜でワインを飲んでいる若い人のグループもいるのだとか。今では西荻窪の住民だけでなく、杉並区外からもお客さんがやってくるそうです。自由が丘の女神祭りの縮小版のような雰囲気ですかね。
通りに面して、樹木に覆われた洋風の一軒家が佇んでいます。看板には、「COZY」という店名が表示されています。「COZY」とは、「居心地の良い」という意味です。2016年2月に開店した喫茶と家庭料理定食のお店で、カフェや甘味処で経験を積みながら独立の夢を膨らませてきた店主の山下えみ子さんの理想だった、ご飯を食べ、お茶を飲み、情報交換のできるサロンのような空間を目指しているそうです。山下さんは、季節の変化を感じながら献立を立て、食材は自転車で通勤途中の八百屋や肉屋など地元で調達しているのだとか。西荻のイメージそのものですね。
見所ポイント2の「西荻南一丁目歩道」は、松庵川を暗渠化した上に造られました。松庵川は善福寺川の支流で、中央本線建設時に湧き出た水や雨水・排水を集めて善福寺川へと流す目的で大正時代後期に開削されたといわれています。その後、周囲の急速な宅地化で昭和初期には下水化され、戦後になって氾濫対策として神明通りの本流から北に分かれて、神明中学校の東側から善福寺川に至る暗渠の放水路も作られました。大正時代には「悪水堀」、昭和時代には「宮前ドブ」、あるいは単に「ドブ」とか呼ばれました。高井戸第四小学校前の流域が暗渠化された際には、暗渠上が生徒の通学路としてガードレールで区切られ安全性が確保され、同校生徒の公募により「そよかぜ通り」と名付けられました。松庵川という名称は、西荻窪で「大宮下水溝」とか「大宮前下水」とも呼ばれていたものが、後になってある郷土史家が「松庵川」と仮称し、それが広まったとされています。
高井戸第四小学校の東の松庵川沿いに、見所ポイント3の「金魚屋養魚池」の関口養魚場があります。表からは見えませんが、物置の裏に池があって鯉が泳いでいるみたいです。その昔は釣り堀をやっていた時代もあったとのことです。
見所ポイント4の「五日市街道」は、徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道です。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展しましたが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転し、五日市街道という名称になりました。道筋は、現在の都道7号杉並あきる野線の本線とほぼ一致しています。
見所ポイント5の「井ノ頭通り」は、境浄水場から和田堀給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路へ転用したため、以前は水道道路と呼ばれました。そのため大半の区間が直線的な道路となっています。昭和十二年から荻窪の閑静な住宅街にある「荻外荘」に居住していた近衛文麿元首相が議会へ通うのに利用していた無名の水道道路に「井の頭街道」と命名し、さらに東京都により「井ノ頭通り」の通称が制定されました。
昔、富士見ヶ丘に住んでいた頃、井ノ頭通りを挟んだ一帯に宮前という地名がありました。その宮前の地名の由来となったのが見所ポイント6の「大宮前新田」です。この一帯はもともと江戸幕府御用達の茅刈場(武蔵野御札茅場千町野の一部)で、茅の刈り取りが禁止されていました。明暦三年(1657年)の明暦の大火の後、江戸市中での茅葺屋根が禁止されたために茅刈場の必要性がなくなり、またその頃に玉川上水が引かれたこともあって、新しく農地が開拓され、この農地が大宮前新田という村になりました。大宮前新田は、武蔵国豊島郡関村(現在の練馬区関)の名主で、武蔵野御札茅場千町野の野銭を徴収し代官に納める野守であった井口八郎右衛門が万治元年(1658年)頃に五日市街道沿いの開墾の成功を祈願して建てた春日神社に由来します。井口八郎右衛門ほか2名の百姓は、900両の上納金をもって武蔵野御札茅場千町野の開拓を行い、大宮前新田・無礼(牟礼)前新田・連雀前新田ならびに関前の4村および屋敷184戸の村を作りました。未開墾地に村立の設計を立て、屋敷地・農地および採草地を合理的に設営した近世の特徴的な村でした。幅2間の砂川道(現在の五日市街道)の両側に、60戸の屋敷地を間口20間ずつ割り当て、奥行250間の短冊型の長地割(のぼり)で屋敷地5畝10歩の後に、上畑・中畑・下畑および林と続いて1戸としました。また、名主および寺社は間口を2倍としました。
大宮前新田
大宮前新田は、ほぼ現在の宮前地域にあたり、万治年間(1658年〜1660年)に開発された新田村です。幕府御用の茅の採取地として「千町野」「札野」と呼ばれていた原野を、関村(現練馬区関町)の井口八郎右衛門、高井戸村の河原九郎兵衛ら四名が中心となって開発したといわれます。村の開発や慈宏寺の開創に尽力した彼らの供養塔が慈宏寺にあります(区指定文化財)。新田は、村の中央を東西に走る五日市街道の南北に、間口20間(約36m)、奥行250間(約450m)の短冊型の土地を一戸分として、ほぼ均等に割付けられ、街道に面する位置に屋敷、その裏に耕地が配置され、路村的な村落景観をなしました。この短冊型の長地割は、現在も五日市街道沿いにその姿を残しています。大宮前新田は明治二十二年(1889年)、新しい地方制度のもとで、周辺五か村と合併して高井戸村を結成しました。これにより村の名は、高井戸村大字大宮前新田となり、ついで高井戸町大字大宮前と改称、昭和四十四年には住居表示で宮前と省略され、大宮前の名称は消滅しました。村名の大宮前は、大宮八幡宮の前面の村ということに由来するとも言われ、また一説には鎮守春日神社の前の意味で名付けられたとも伝えられています。なお、この地には春日神社を中心に、大宮前里神楽(区指定文化財)、大宮前囃子(区登録文化財)などの郷土芸能が、保存会の人々によって継承されています。
住宅街の道路に面した壁に「通り名」を記したプレートが貼られています。ナマズの絵が添えられていますので、防災時の避難路の案内も兼ねているようです。「新田縁通り」の説明書きには、「徳川家綱の代(1660年頃)に開墾された大宮前新田の南端の道」と記されています。また、「開閉塔通り」の説明書きには、「東京電力の開閉鉄塔のある道」と記されています。「開閉鉄塔」とは、送電線の入り切りの機能を持たせ、複数の回線のどちらにでも切り替えて接続できるような仕組みを持った鉄塔のことをいいます。工事で送電を停止した際や、突発事故の際に予備回線としての冗長性を持たせています。片側の回線が使えなくなってしまった時に発電所から送電できなくなるということでは困りますからね。
見所ポイント7の「庚申塔」は人見街道の分岐点に建っています。杉並区内で最も古く、移設・撤去された庚申塔が多い中、この庚申塔は造立当初から殆ど位置が変わっていないそうです。
享保七年銘 道標付庚申塔
この庚申塔は、道標付庚申塔として、区内で最も古く、享保七年(1722年)に造立されたものです。庚申信仰は「長生きするためには、庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始ったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して、庶民の間にひろまりました。江戸時代には、ここに見られるような青面金剛を本尊として邪鬼を踏まえ、不見(みざる)・不聞(きかざる)・不言(いわざる)の三猿、二鶏等が彫られるようになり、石塔を造立し、悪疫退散、村内安全等の祈願を行うことが盛んになりました。この庚申塔は、道標として側面に、「これよりみぎいのかしら三(み)ち」・「これよりひだりふちう三(み)ち」と刻まれ、かっては、井の頭弁財天信仰者の道しるべとなっていたように思われます。また、この庚申塔は、当初からこの分岐点に造立され、願主名も列記されており、近世における久我山の歴史や交通路を知るうえで、一つの重要な資料といえます。以上のことから、この庚申塔は、杉並区有形文化財として登録されました。今後とも、このような文化財を一層大切に守りつづけたいものです。
見所ポイント8の「人見街道」は、杉並区大宮の大宮八幡宮と府中市八幡とを結ぶ古くからの街道です。別名、「大宮街道」・「下総街道」・「府中道」・「八幡通り」とも呼ばれます。「下総街道」と呼ばれたのは、人見街道が下総国へ向かっていたからとされています。人見街道の名称は旧人見村を通っていたからといわれており、その人見村という地名は武蔵七党のひとつであった猪俣党の人見氏一族に由来するとされています。一説には浅間山の別名人見山(小高い丘から敵の情勢を見る意味)に由来するともいわれています。
「たぶち通り」という通り名もあります。説明書きには、「昭和三十年までこの道を境に南側が田園だった」と記されています。田園の縁を通るというそのまんまの名前ですね。古老の話として、「たぶち通りは、巾2m位で荷車がやっと通る程じゃった。荷車の轍が2本、中央に人の道が1本の道筋があった。丈夫な道草が長く延び、その先を結ぶと輪ができ、人が足を入れるとよく転んだもんだ。だから、子供たちはアッと言って手を前に出し、転び方が上手になったもんじゃ。」と伝わっています。それって、悪質なイタズラでは?
久我山小学校の脇に、見所ポイント9の「東原遺跡」の案内板があります。杉並区には古代の遺跡が数多くあったんですね。
東原遺跡
この遺跡は、区立久我山小学校から都営富士見住宅一帯にかけて広がる後期旧石器時代(約三万年前)、縄文時代草創期・早期・前期・中期・後期(約一万二千年〜三千年前)、江戸時代の複合遺跡です。遺跡は、神田川によって形成された北岸の台地上に沿うように営まれており、昭和五(十)一年には小学校部分が、平成四年には都営住宅部分が発掘調査されました。小学校部分の調査では、縄文時代中期終末の加曽利EW期から後期初頭の称名寺期の文化を中心とする土壌(墓)や土坑(貯蔵穴)が多数検出されています。特に、中期終末文化では石棒を伴っていることから、祭祀的な性格をもっていたかもしれません。都営住宅部分の調査では、台地南側の先端部付近において関東ローム層第X・W層内からナイフ形石器・スクレーパー(皮剥)を伴うユニットと複数の礫群(バーベキューの跡)が検出されています。一方、台地北側部分では、今のところ区内で唯一の草創期の住居跡が検出されています。この住居跡は、一辺が約3メートル、深さは約10センチメートル程掘り込まれたもので、不整方形をしたものでした。住居の内部から当該期の土器は出土していませんが、床上からこの時期特有の石器である「有舌尖頭器(弓か槍の先)」が出土しています。近年、神田川上流に沿った久我山から下流の高井戸一帯にかけて縄文時代草創期の遺跡が集中していることが解ってきました。その中で、全国的にも数少ないこの時期の住居跡が東原遺跡で発見されたことは、区内最古の縄文人が神田川流域に定着したことを意味する貴重な遺跡と言えます。
富士見ヶ丘駅北口に着きました。富士見ヶ丘駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、浜田山駅は京王井の頭線の駅となりました。私が住んでいた頃は地下に改札口があり、北口から南口に通り抜けることができました。平成二十二年(2010年)12月に橋上駅舎が完成しましたが、現在も南北自由通路として使われているそうです。富士見ヶ駅は小さい駅ですが、駅の西側には広大な富士見ヶ丘検車区があります。そのため、富士見ヶ丘駅始発の電車が多く、通勤・通学にはすこぶる便利です。
ということで、「14.西荻南・久我山編 西荻窪・富士見ヶ丘コース」を歩き終えました。富士見ヶ丘には2年ほど住んだことがあり、見覚えのある風景も多くありました。久しぶりに訪れて、懐かしくもあり、いろいろあった当時の思い出が切なく蘇ってきました。
戻る