15.西荻南・久我山編 西荻窪・久我山コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「15.西荻南・久我山編 西荻窪・久我山コース」を歩きます。西荻窪駅南口をスタート地点として、焼き鳥の戎を横目にしつつ、西荻の落ち着いた住宅街を巡ります。  

「15.西荻南・久我山編 西荻窪・久我山コース」の歩行距離は3.6km、歩行時間は1時間10分です。

スタート地点:JR中央線西荻窪駅南口
↓ 
 1.旧円光寺歴住墓碑
明治初年に廃仏毀釈により廃寺された円光寺の歴代住職の5基の墓碑。本尊の馬頭観音は宮前にある慈宏寺に移されています。
 2.西高井戸松庵稲荷神社
旧松庵村の鎮守。境内にある元禄銘の庚申塔に松庵新田と刻まれており、松庵村は元禄より古いことが分かります。
 3.松庵二丁目の梅林
 4.立教女学院
明治十年(1877年)に創立され、関東大震災後、当地に移転してきた女子校(小中高・短大/幼稚園)。聖マーガレット礼拝堂は杉並区指定文化財です。
 5.三鷹台駅
 6.神田川
井の頭池に源を発し両国橋脇で隅田川に合流する長さ24.6kmの川。江戸時代は神田上水と呼ばれ、江戸市民の飲み水に利用されていました。
 7.久我山稲荷神社
旧久我山村の鎮守。7月の夏祭りには「湯の花神楽」が奉納され、額堂付神楽殿には多くの絵馬が保存されています。
 8.久我山の欅並木
 9.久我山地区の通称名称
その地域に住む一部の人だけが分かる「通称名称」があります。この地区は、通称名称を看板にしているので、探してみましょう。

ゴール地点:井の頭線久我山駅北口


スタート地点の西荻窪駅南口から歩き始めます。西荻窪駅は、大正十一年(1922年)に鉄道省の駅として開業し、現在は杉並区およびJRにおける東京23区最西端の駅となっています。西荻窪駅周辺は道が狭く、特に南口は駅前広場も十分とはいえない広さです。しかし、そのことが西荻窪の独特な街の空気を醸し出しています。西荻窪は、アンティークショップや古書店が多いことで知られています。



西荻窪駅の北と南に商店街が広がっていますが、北口が多種多様な業種の商店街であるのに対し、南口には飲食店が多く、商店街というよりは飲食店街といった方がいいかもしれません。西荻窪駅南口の三角地帯はバラックを起源とする小さな酒場が建ち並ぶ飲み屋街になっていて、その中でひときわ目立つ赤い看板のお店は、昭和四十八年(1973年)に創業した焼き鳥酒場「戎(えびす)」です。創業者が戎井さんだったことが店名の由来だそうです。今日はお散歩が始まったばかりなので立ち寄りはしませんが。



西高井戸松庵稲荷神社の境内に、見所ポイント1の「旧円光寺歴住墓碑」が建てられています。円光寺の開山と開基などは詳らかではありませんが、「新編武蔵風土記稿」に天照山円光寺として本尊や客殿などの記述があります。円光寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、歴代住職の墓は西高井戸松庵稲荷神社の境内に残されました。また、本堂は慈宏寺(宮前三丁目)の本堂(昭和四十六年まで存在)として移築されました。本尊の馬頭観音も慈宏寺に移され、現在は写経堂に安置されています。

旧円光寺歴住墓碑・供養塔

ここに建てられている墓碑五基は、明治初年までこの付近にあった天台宗寺院、杉仙山(「新編武蔵風土記稿」は「天照山」)円光寺の歴代住職の墓です。墓碑には、元禄九年(1696年)、享保八年(1723年)、元文三年(1738年)、宝暦十年(1760年)、文化四年(1807年)の没年銘がみられます。また中央の五輪塔は、戦後、地元の人々が歴代住職の霊を慰め、手厚く供養する目的で、この墓地を整備した際に建てた供養塔です。円光寺の開山、開基などは詳らかではありませんが、「新編武蔵風土記稿」には、本尊、客殿に関する記述がみられます。寺は、明治初年に廃寺となりましたが、歴代住職の墓は現在地に残されました。また、本堂は慈宏寺(宮前三丁目)の本堂(昭和四十六年まで存在)として移築されました。本尊の馬頭観音もまた同寺に移され、現在は写経堂に安置されています。円光寺には、「江戸紫染め」にまつわる次のような伝承があります。元禄・宝永(1688年〜1710年)のころ、松庵新田の豪農であった仙蔵(のち杉田屋仙蔵)は、京都知積院の僧、円光の指導を受け、苦労の末に「江戸紫染め」を完成させたといわれます。仙蔵没後、その子が「江戸紫染め」を広め、大変栄えたということです。円光寺は、この仙蔵が円光に感謝し建立したとも、また円光が仙蔵の菩提を弔い、仙蔵が生前大切にしていた馬頭観音を本尊として建立したものともいわれています。




見所ポイント2の「西高井戸松庵稲荷神社」の創建年代は不明ですが、松庵村が開村した万治年間(1658年〜1660年)以降にこの地に創建された円光寺の境内に松庵村内鎮守として創建したと考えられています。昭和九年に旧中高井戸村鎮守の稲荷神社を合祀し、西高井戸松庵稲荷神社と称しました。

西高井戸松庵 稲荷神社

この神社は旧松庵村の鎮守で祭神は受持命です。松庵村は万治年間(1658年〜1660年)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある萩野松庵がその人ともいわれています。境内入口には元禄三年(1690年)、元禄六年(1693年)銘の庚申塔があり、元禄三年のものには「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄三年以前にはすでに新田開発の村として開かれていたものと考えられます。この神社は、明治維新の際に廃寺となった円光寺(天台宗・江戸八丁堀湊町普門院末)の境内にあったもので「新編武蔵風土記稿」の松庵稲荷の項には「上屋二間ニ二間半内ニ小祠ヲ置社前ニ鳥居ヲ立村内ノ鎮守ニシテ例祭ハ其日ヲ定メズ」と記されています。昭和九年に、隣村中高井戸村の鎮守稲荷神社を合祀以後、西高井戸松庵稲荷神社と称し、同十年には社殿を改築し、今日にいたっています。社前の五日市街道は江戸時代には「青梅街道脇道」とも呼ばれ、炭をはじめとする生活物資の輸送に大きな役割をはたしてきました。なお、神社の北側裏手に円光寺歴住の墓地があり、元禄九年をはじめとする没年が記されているのが見られます。祭日は九月十五日です。




鳥居の西側に、昭和三十六年(1961年)に建立された「お狐さまのミイラ」を祀る末社があります。非公開ながら、狐のミイラがこの祠の中に前足を口に咥(くわ)えたままの状態で真綿の上に安置されているといわれています。祠の前には狐の置物が沢山並んでいます。よくよく見ますと、狛犬と同様に子狐が親狐の前足を咥えているように見えます。これには次のようないわれがあるそうです。まだ円光寺があった頃、円光寺には大きな築山があり、その築山に狐が穴を掘り子狐を育てていました。ある時、隣村の村民が子狐を捕らえて食べてしまい、更に明治三十年(1897年)には円光寺が廃寺となり、築山を取り去る事となりました。親狐は子狐と別れた悲しみのあまり、前足を咥えた状態で拝殿の床下から発見されました。昭和九年に西高井戸松庵稲荷神社を合祀するに際し、本殿造営と共に末社を新築し、古来からお稲荷様のお使い姫と言い伝えられるこの狐をおさめてお祀りしているとのことです。



稲荷神社の境内入口に元禄三年(1690年)と元禄六年(1693年)銘の庚申塔が置かれています。元禄三年の庚申塔には「武州野方領松庵新田」と刻まれていることから、かつては農地として開墾された「松庵新田」と呼ばれた地域の鎮守だったことが窺え、その後松庵村として成立したと考えられます。



見所ポイント3の「松庵二丁目の梅林」は松庵二丁目にあり、23区内とは思えないほど緑の濃い梅林です。今は広大な梅園ですが、令和四年春に「松庵梅林公園」として整備される予定です(注記:公園は、令和四年4月2日に開園しました)。



見所ポイント4の「立教女学院」は、中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校で、立教大学への推薦入学制度もあります。明治十年(1877年)に英国国教会(イングランド国教会)の流れを汲む米国聖公会の宣教師チャニング・ウィリアムズとその協力者であるクレメント・T・ブランシェ長老により、日本の女子の教育機関のさきがけとして、現在の文京区湯島に設立された立教女学校を前身とする伝統校です。閑静な住宅街の中に位置し、四季折々の草花に木々が彩る緑豊かな自然と、歴史と伝統ある校舎群が織りなす環境は洗練された美しさと清楚な雰囲気があり、豊饒な学びの場を作り出しています。スパニッシュコロニアル様式の高等学校校舎と講堂は、昭和五年(1930年)に竣工しました。ロマネスク様式の聖マーガレット礼拝堂(左の写真の中央の建物)は、昭和七年(1932年)に竣工し、杉並区指定の有形文化財となっています。いずれの建物も聖路加国際病院のチャペルや立教大学のいくつかの建物なども手掛けたバーガミニーが設計した建造物です。卒業生には、野際陽子・市毛良枝・松任谷由実などの有名芸能人を多数輩出しています。



見所ポイント5の「三鷹台駅」は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、三鷹台駅は京王井の頭線の駅となりました。駅前には商店が並んでいますが、少し駅を離れると閑静な住宅街が広がっています。三鷹市と杉並区の区界付近に位置し、北口の立教女学院より北側は杉並区、北西側は武蔵野市となります。地形的には神田川の谷に当たる部分のため、駅より北側は急な上り坂となり、南側も上り坂になっています。ちなみに、井の頭線は三鷹台駅の渋谷寄り手前で神田川を斜断し、井の頭公園駅先で再び神田川を斜断して吉祥寺駅に向かいます。



見所ポイント6の「神田川」は、井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して東へ流れ、台東区・中央区・墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流しています。流路延長は24.6km、流域面積105平方キロメートルと、都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにもかかわらず全区間にわたって開渠になっています。神田川はかつては平川と呼ばれ、現在の飯田橋付近から日本橋川を通って日比谷入江に流れていましたが、江戸幕府による度重なる普請と瀬替えが行われ、現在の流路となりました。江戸市中への上水が引かれてからは上流を神田上水、下流を江戸川と呼び、さらに開削された神田山から下流は神田川と呼ばれるようになりました。明治になり神田上水が廃止されてからは上流も神田川と呼ばれるようになり、昭和の河川法改正によって全て神田川の呼称で統一されました。杉並区内の神田川に沿って遊歩道が整備され、休息所も設けられています。



見所ポイント7の「久我山稲荷神社」の創立年代は明らかではありませんが、古来より久我山村の鎮守として祀られていました。「新編武蔵風土記稿」によりますと、別当寺は新義真言宗久盛山弥勒院光明寺(明治時代に廃寺・中野宝仙寺の末寺)でした。本殿前に鎮座する石狐は明治二十八年(1895年)に奉献されました。例年7月24日の夏祭りには、杉並区では唯一の湯立て神事「湯の花神楽」が奉納されます。また、金玉均が同地出身の「小笠原の砂糖王」こと飯田作右衛門の親を想う心に打たれて書いた手跡を刻んだ「人心同」の石碑が建立されています。約120キログラムの力石も安置され、病気平癒祈願に基づいたものとされています。元禄十六年(1703年)建立の庚申塔は養蚕の円満なることを祈願したものと伝えられています。

久我山稲荷神社

久我山稲荷神社は、「新編武蔵風土記稿」の多摩郡久ヶ山村の条に稲荷社として掲載され、「除地、二段五畝十五歩、堂屋舗にあり、小社にて上屋九尺に二間、拝殿二間に三間、南向、前に鳥居を立つ、石階鳥居の外に三級内に二十級あり、村の鎮守、例祭十一月にて日定らず、光明寺の持」と記されています。創建の由来については詳かではありませんが、古来からの久我山村の鎮守で、祭神は保食命です。明治四十年(1907年)四月に字北原にあった天祖神社(祭神大日【雨・口が3つ・女:レイ・リョウ】貴命)が合祀され、昭和十六年(1941年)二月に村社となりました。境内末社には八雲神社・天満天神社があります。例祭日は十月一日ですが、本社では、七月二十四日に夏祭りが行われ、「湯の花神楽」が奉納されます。湯の花神楽は、大釜に熱湯を沸かし、小笹を浸して打ち振りながら行われます。杉並区内では極めて珍しい行事で、その昔、この地に疫病が流行した際、村人が神楽を奉納し、祈願したところ、疫病が止んだという故事によるものです。境内には明治三十二年(1899年)に氏子が奉納した、金玉均(日本に亡命した朝鮮の李王朝末の政治家)の筆跡を刻んだ「人心同」の碑があります。金玉均は、久我山に生まれて幼くして小笠原にわたり、砂糖王と呼ばれた飯田作左衛門から、「遠く離れている父に朝夕仕えることもできず、心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不孝をわびる石碑を建ててくれ」と頼まれ、その心根に強く打たれてこの筆跡を残しました。なお、境内には元禄十六年(1703年)造立の庚申塔があります。かつて村人がこの庚申様に砧の槌を納めて養蚕の無事を祈願したと言い伝えられています。また、昭和五十七年(1982年)に新築された「額堂付神楽殿」には多数の絵馬が保存されています。




境内の囲いの中に大きな釜が据えられています。この大釜で湯を沸かし、小笹を浸して「湯の花神楽」が奉納されるのでしょう。

湯の花神楽について

この久我山稲荷神社には古くから七月二十四日に八雲大神をお祀りし、湯の花神楽を奉納して健康を祈願する夏祭が行われて参りました。これは昔此の里に疫病が流行し、多くの人が亡くなりました。困り果てた人々は氏神様に集まり御神楽を奉納し御祭を致しました所、疫病を防ぐ事が出来ました。喜んだ人々は毎年このお祭を行って参りましたが、明治二十年代に一度中止した事がございます。この年再び疫病が蔓延し、驚いた人々はその後絶やす事なく此の夏祭を行って参りました。此の時行われます湯の花とは、湯立行事と申しまして、大釜に熱湯を仕立て小笹をもってその湯の滴を全身に浴し、誠心誠意を神明に誓うものでございます。古くは盟神探湯と申しまして、熱湯を探り正邪を神前に証した事から起ったもので御座います。尚当社では御神楽の最後に神前にお供えした御餅を撒き、此のお祭の行事を終ります。




境内の一画に大きな石碑が建っています。案内板には、「人心同」の碑と書いてあります。「人心同」とは、体は遠く離れていても心は同じという意味です。即興の文とは思えないですね。

「人心同」碑

この石碑には、日本に亡命した朝鮮李王朝末期の政治家である金玉均が小笠原で友好を結んだ久我山出身の飯田作右衛門に頼まれて揮毫した漢文が刻まれています。久我山と金玉均との繋がりから生まれた石碑には次のように書かれています。

同心人

余至小笠原島与飯田作右衛門君結識君天性至
孝間里称之君嘗言我生幼而多病成童以来従事商
務無一所出現寄寓于此島然有老父年踰七旬家住東
京之武藏国遠不能晨昏侍陪只切堂雪之私言念鞠
育劬労之恩昊天罔極思欲竪一碑於老父所居之地銘
載吾不孝之罪以戒示子孫君其為我記之余實感其言遂即
席書此以贈

戊子七月上(さんずいに幹:カン:【上澣】とは、月の初めの10日間の意味で、上旬のこと)金玉均
明治廿一年書
明治三十三年飯田作右衛門建設

【和訳】

私(金玉均)は小笠原に来て、隣近所から君子と評される飯田作右衛門君と知り合いになった。彼は幼い頃には病がちで、また若くして家を出て商売を行ったため、親孝行もできず、今は小笠原島に身を寄せている。年老いた父親は、遠い武蔵国に住んでいて、そばにもいられず、ただ気持ちを表すのみである。報いたくても報いきれないほど大きな親の恩のため、老父の住む所に自分の不孝を記した石碑を立てて、子孫への戒めにしたいから碑文を書いてくれと頼まれた。私はその心根に強く打たれ、その場でこの文を書いて贈る。




境内には力石の碑もあります。力石は多くの神社に奉納されていますが、今まで見たのは全て地面の上に並べられていました。こんな立派な石の台座に乗せられている力石は初めて見ました。表面には、「三十二貫目 ?太郎」と書かれています。

力石(ちからいし)

明治、大正時代、村の若者がこれを担ぎ上げ、力を競って楽しんだものです。石の表には、その重さと担ぎ上げた人の名が刻んであります。古来病人ある時、これを持ち上げれば全快するとした「石占い」に由来するとと云われています。この石の重さは、百二十キログラム有ります。




「久我山地藏堂」と掲額された祠の中に十体の地蔵様が安置されています。いろんな所から集められてきたんでしょうね。

民間信仰石塔

小堂内には、奥壁向って左から寛文五年(1665年)銘庚申塔、宝永五年(1708年)銘念仏供養塔、享保四年(1719年)銘地蔵菩薩、寛文十年(1670年)銘日侍塔、入口近くの左右に三基ずつ並んだ享保八年(1723年)銘六地蔵菩薩の石塔十基が安置されています。これらの石塔は、銘文などから旧久我山村の各所にあったことがほぼ確認できます。寛文五年銘の庚申塔は、未だ青面金剛神ではなく地蔵菩薩を尊像とする比較的古い型の供養塔です。享保四年銘の地蔵菩薩には、茶燈料として土地を永代寄進したことが刻されており、当時の信仰の形態がうかがわれます。寛文十年銘の日侍塔は、聖観音菩薩を刻んでいます。日侍塔は、全国的にみても比較的少ない供養塔です。宝永五年銘の念仏供養塔と享保八年銘の六地蔵菩薩には、光明寺の住職と村人との騒動にまつわる供養塔であるとの伝えがありますが、定かではありません。光明寺は、この墓地の南側にありましたが、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。この石塔群は、時代的・地域的にまとまっており、いずれも江戸時代中期の標準的な作風を残すものであり、また、当時の久我山地域の信仰形態や風俗を示すものとして貴重なものです。




堂内の壁には、地藏堂の落慶式や法要の様子を映した写真が添えられた額が掲示されています。地域の人達の信仰心の篤さが見て取れます。



見所ポイント8の「久我山の欅並木」は、久我山駅の北側道路脇に聳えています。周辺は住宅地なのですが、このような大木がよくぞ生きながらえてきたものです。通り名表示板の下に、春夏秋冬の季節毎の通りの様子を紹介した写真付のプレートが貼られています。それぞれの季節の町の表情がよく分かりますね、案内文には、「このけやき並木は、四季折々の姿を楽しませてくれます。道を挟んだ木曽石の生垣も、空間を共有している感じがします」と書かれています。



前回のコースでも見かけた防災避難路の案内を兼ねた通り名のプレートが貼られています。「馬車みち」は見所ポイント9の「久我山地区の通称名称」のひとつで、「明治の頃、井の頭行の馬車が通った道」と解説されています。



ゴール地点の久我山駅北口に着きました。南口は何度も来ましたが、北口は初めてです。久我山駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、久我山駅は京王井の頭線の駅となりました。昔は久我山駅は地上駅舎になっていて南口はなく、線路の南側から駅に入場するには踏切を北側に渡る必要がありました。平成十七年(2005年)に駅舎が建て替えられて橋上駅舎になり、南口の新設と共に、駅舎内に飲食店や物販などのテナントが入居するようになりました。



ということで、「西荻南・久我山編 西荻窪・久我山コース」を歩き終えました。何度も通ったところもありましたが、久我山駅の北側は初めて歩きました。緑の多い成熟した住宅地といった感じでした。戎に立ち寄れなかったのは残念でしたが。。。




戻る