16.西荻南・久我山編 久我山・三鷹台コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「16.西荻南・久我山編 久我山・三鷹台コース」を歩きます。井の頭線久我山駅南口をスタート地点として、神田川沿いの京王電鉄車両基地、溢れる緑の緑地、北烏山の寺町を巡ります。  

「16.西荻南・久我山編 西荻窪・久我山コース」の歩行距離は3.6km、歩行時間は1時間10分です。

スタート地点:井の頭線久我山駅南口
↓ 
 1.富士見ヶ丘車両基地
 2.久我山ホタル祭り
毎年6月に地元で人工飼育したホタルなどを神田川と玉川上水に放流し、幻想的な光を楽しむために多くの人で賑わいます。
 3.斜面林
谷を縁取る斜面に広がる生態系に富む林。宅地化により多くが失われましたが、ここには500m程残っています。
 4.中央自動車道
高井戸と山梨県富士吉田市及び愛知県小牧市を結ぶ自動車専用道路です。高架下の一般道は幅の広い並木道にして、緑化に努めています。
 5.玉川上水
水路の両岸はみどり豊かな雑木林の風情を残しており、国の史跡に指定されています。その風情を保存した沿道整備計画が進んでいます。
 6.烏山寺町
関東大震災後に被害にあった都心の寺院が世田谷区北烏山に移転し、26の寺院が連なるこの場所は、世田谷の小京都と呼ばれています。
 7.妙寿寺
境内はうっそうとした大きな木が多く、客殿(旧蓮池藩鍋島家邸宅)は世田谷区指定有形文化財です。(客殿は非公開です)
 8.高源院
境内には植木が多く、湧き水の涸れることのない池は、冬に多くの鴨が飛んでくるので鴨池と呼ばれています。

ゴール地点:井の頭線三鷹台駅


スタート地点の久我山駅南口から歩き始めます。久我山駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、久我山駅は京王井の頭線の駅となりました。昔は久我山駅は地上駅舎になっていて南口はなく、線路の南側から駅に入場するには踏切を北側に渡る必要がありました。平成十七年(2005年)に駅舎が建て替えられて橋上駅舎になり、南口の新設と共に、駅舎内に飲食店や物販などのテナントが入居するようになりました。



神田川沿いの遊歩道を富士見ヶ丘駅方向へ進むと沢山の車両が見えてきます。フェンスはありますが、留置されている車両を間近で眺めることができます。見所ポイント1の「富士見ヶ丘車両基地」は、京王井の頭線の富士見ヶ丘駅と久我山駅間に並行して神田川沿いに位置し、夜間は全車両を留置できるだけの留置線を擁しています。開設は昭和四十一年(1966年)で、全般検査・重要部検査の一部も実施可能な設備を備えています。尚、富士見ヶ丘車両基地では行えない検査は、機器を取り外して稲城市に所在する若葉台工場にトラックで運び込んで行われます。



神田川の遊歩道には、よく手入れされた植栽が見られます。四季折々の花々が咲き乱れ、目を和ませてくれます。車も通りませんし、安心してお散歩が楽しめます。



見所ポイント2の「久我山ホタル祭り」は毎年6月初旬に神田川や玉川上水を舞台に開催されてきました。一昨年・昨年とコロナ渦で中止となっていましたが、2022年は3年ぶりに6月4日(土)・5日(日)の両日に開催されました。久我山のホタル祭りに登場するのはゲンジボタルで、商店街や学校で人工飼育したホタルが2日間で約2000匹放流されるそうです。神田川では清水橋下流付近、玉川上水では岩崎橋下流付近の2箇所でホタルが放流され、遊歩道から眺めるのがお勧めとのことです。神田川沿いでは、富士見ヶ丘車両基地近くの遊歩道が最高の鑑賞スポットになっています。淡い光が舞うホタル鑑賞には暗い場所が適していて、人家のあるところよりも、照明の少ない車両基地付近がホタル鑑賞にはうってつけだそうです。また、ホタルは午後8時前後に活発に舞いますので、その時間帯がお勧めとのことです。祭りの開催中は、フリーマーケットや塗り絵コンテスト・カルタ取り大会などが昼間から楽しめ、ビアガーデンも開設されますのでビール片手にホタル鑑賞なんていうのもいいですね。


この辺りがお勧め?


武蔵野の雑木林の中で、斜面にある森林は「斜面林」と呼ばれています。見所ポイント3の「斜面林」は、富士見ヶ丘車両基地と神田川を挟んだ反対側の斜面に緑濃く連なっています。



高井戸公園は、計画面積13.7ヘクタールの区内最大の公園で、昭和三十二年(1957年)に運動公園として都市計画決定されました。計画地の大部分には王子製紙富士見ヶ丘グラウンド・国立印刷局久我山運動場・NHK富士見ヶ丘運動場の3つが所在していましたが、長年着手されていなかったことから、南西部には住宅街が形成されています。平成二十三年(2011年)の東日本大震災を契機に防災公園の必要性がクローズアップされ、優先整備地区に指定されました。都市計画上は神田川の北側に位置する京王電鉄富士見ヶ丘検車区の大部分も高井戸公園の計画範囲内となっていますが、当面は川の南側のみが整備範囲とされ、そのうちの北側を芝生ゾーン、南側をスポーツゾーンとして整備する計画となっています。2020年6月に北地区東側園地、2021年6月に北地区西側園地、2022年8月に南地区東側園地が開園されました。今後、2022年〜2024年に順次南地区の開園が予定されています。



見所ポイント4の「中央自動車道」は、高井戸ICから愛知県小牧市の小牧JCT、および途中の山梨県大月市の大月JCTで分岐して山梨県富士吉田市の富士吉田ICを結ぶ高速道路です。東名は高速道路ですが、中央道は自動車道となっています。開通当初は中央高速道路という名称でしたが、高規格幹線道路(自動車が高速かつ安全に走行できるような構造となっている道路)でありながら中央自動車道に名称が変更されたのには理由があります。大月〜河口湖間が開通した昭和四十四年(1969年)から中央道では事故が多発し、「高速」という名称は危険走行を助長しかねないと問題になり、その結果中央自動車道に改称したとのことです。中央道は建設費削減のため、大月から河口湖までの区間で2車線(上下1車線)の先行整備を行いました。本来は上下2車線ずつ4車線を造る計画でしたが、最初に上り線の2車線のみを整備し、これを上りと下りの両方向の車が利用することになったのです。そのことで、高速道路であるにもかかわらず中央に仕切りがない片側1車線の対面通行となり、しかも追い越しが可能でした。その結果、正面衝突事故が相次ぎ、社会問題となりました。そこでセンターポールを設置して追い越しを禁止にし、名前を中央自動車道と改め注意を喚起したということです。この区間の4車線化が完了したのは昭和五十七年(1982年)のことでした。しかし、中央高速道路に名称が戻ることはありませんでした。中央道といえば松任谷由実の「中央フリーウェイ」が思い浮かびます。当時八王子に住んでいたユーミンは荒井由実の名前で最後となるアルバム「14番目の月」にこの曲を収録しています。曲を発表した時点ではまだ中央道は開通していませんでしたが、ユーミンはまるで車に乗っているような感覚で歌詞を作っていますね。


写真手前の水路は玉川上水、その奥に見える緑色の高架が中央自動車道です。


見所ポイント5の「玉川上水」は、2020年の「東京の河川を歩く」で、四谷大木戸から羽村堰まで歩いた思い出の川です。玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つでした。江戸時代前期の承応二年(1653年)に多摩川の羽村から四谷までの高低差92.3メートルの間に全長42.74キロメートルが築かれました。取水口から送水先までは全て現在の東京都内にあり、一部区間は現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されています。羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、現在の四谷四丁目交差点付近の四谷大木戸に付設された「水番所(水番屋)」を経て江戸市中へと分配されていました。羽村市から大木戸までの約43キロメートルは全て露天掘りで、水番所以降は木樋や石樋を用いた地下水道になっていました。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれていました。享保七年(1722年)以降の新田開発によって、野火止用水や千川上水など多くの分水(用水路)が開削され、武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献しました。



遊歩道脇に案内板が立っています。

玉川上水

玉川上水は、多摩川の水を江戸市中に供給するため、承応二年(1653年)、庄右衛門・清右衛門兄弟(後の玉川兄弟)が江戸幕府から下命され開削した上水路です。西多摩郡羽村(羽村市)から四谷大木戸(新宿区内藤町)まで約四十三キロメートルを開水路で導水し、そこから先は石管や木管によって江戸市内に給水しました。杉並区内の流れは、牟礼橋から代田橋に至る約六キロメートルです。工事はわずか一年有余というおどろくべき早さで完成しました。江戸市内への都市生活用水の供給という本来の目的を果たす以外に、水の乏しかった武蔵野台地の村々に分水することで、飲料水・灌漑用水・水車の動力として新田開発 をうながし、武蔵野台地の原野を畑作地帯へと変化させました。玉川上水の分水口の数は、「上水記」によると、最古の野火止用水をはじめ最盛期には総数三十三ヵ所にものぼり、杉並区内には、下高井戸村分水・烏山村分水・上北沢村分水の取水口がありました。この説明板の前方に見えるのが烏山村分水口跡で、上北沢村分水口跡(現在地より下流へ約四十メートル)とともに貴重な遺構です。このうち上北沢村分水には途中に三左衛門水車が設置され、近郷近在の人々に親しまれ、「車堀」と呼ばれました。江戸の人々の暮らしを支えた玉川上水は、明治三十一年(1898年)、東京に近代水道が完成したため、同三十四年(1901年)に廃止されましたが、水路は大部分がそのまま淀橋浄水場への導水路として使用されていました。新宿副都心計画にともない、昭和四十年(1965年)に淀橋浄水場が廃止されると、流路はさらに短縮され、現在では小平監視所(小平市中島町)から上流域のみを水道導水路とし、中流域は東京都の清流復活事業により、水再生センターの高度処理水が導水されています。玉川上水は、平成十五年(2003年)八月、江戸・東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、国の史跡に指定されました。説明板の右手にある「岩崎橋」は、明治の中頃まで通称「庄ちゃん橋」と呼ばれ、農作業用に使用されていました。その後「樋口橋」と名を変えますが、昭和十四年(1939年)、現在の鳥山に工場を建設した「岩崎通信機株式会社」の名をとって、現在に至っています。




現在、玉川上水の約43kmのうち、24kmが玉川上水緑道として開園され、水路に沿って遊歩道が整備されています。特に、久我山地区の遊歩道はよく整備され、緑濃い素晴らしい景観となっています。



見所ポイント6の「烏山寺町」は、世田谷区北烏山二丁目・四丁目・五丁目および六丁目にかけて、妙高寺から一番北にある高源院まで26の仏教寺院が建ち並ぶ地域の通称です。寺町の成立は関東大震災後の大正十二年(1923年)に浅草・築地・本所・荒川などにあった寺院が集団で移転してきたのが直接的な契機とされますが、関東大震災の前から計画されていた東京の都市基盤の整備とも密接に関わっています。寺院の建築と緑豊かな環境が調和した烏山寺町の一帯は「世田谷の小京都」などと呼ばれ、昭和五十九年(1984年)には「せたがや百景」に選定されました。昭和五十年(1975年)には、「烏山寺町の環境を守る会」が結成され、「烏山寺町環境協定」が締結されています。



幸龍寺は、日蓮宗に属し、創建は天正年間(1573年〜1593年)です。当初は浜松にあり、後に駿府に移り、天正十九年(1591年)に江戸湯島に移築され、徳川将軍家の信仰が厚かったと伝わっています。江戸の度重なる大火や関東大震災の被害によって、徳川家から寄進された寺宝のほとんどが失われ、関東大震災罹災後の昭和二年(1927年)に烏山への移転を開始し、昭和十五年(1940年)に移転を終えました。

日蓮宗 妙祐山 幸龍寺

幸龍寺の創建は、天正七年(1579年)徳川家康が浜松城主の時、正心院殿日幸(秀忠の乳母)の願いにより、玄龍院日x(にっしゅん)を招いて城下の半頭町に伽藍を整え、祈願所として開山されたことにはじまると伝えられます。のちに家康が駿府へ移ると寺も移転、更に天正十八年(1590年)家康の関東入国の翌年、神田湯島三丁目に移りました。二代将軍秀忠は、正室・崇源院殿懐妊に際し安産を祈願、無事に世嗣・家光が誕生すると、鬼子母神像などを寺に奉納しました。つづく家光は、浅草に約八千坪の土地を寄進し、寺は神田湯島から移転しました。五代将軍綱吉は、さらに二千五百坪の境内地を寄進し、三代将軍家光の側室・順正院殿(六代家宣祖母)の廟所を設け、幸龍寺は徳川家の香華院の列に加わり、日蓮門下江戸五山の一つに数えられるほど隆盛しました。大正十二年(1923年)の関東大震災で多くの堂宇が罹災したため、昭和二年(1927年)より現在地に移転を開始し、今に至っています。墓域には、順正院殿墓、旧唐津藩主小笠原家累代墓所、「江戸名所図会」の挿絵師・長谷川雪旦、雪堤父子の墓、江戸後期の随筆「嬉遊笑覧」の著者・喜多村(竹冠に均:いん)庭などの墓があります。




存明寺は浄土真宗大谷派に属し、本山は東本願寺、山号を「桜田山」といいます。正保四年(1647年)に武蔵国豊島郡桜田(現在の警視庁付近)に創建され、後に芝金杉を経て明治三十一年(1898年)に麻布区麻布富士見町(現在の天現寺橋付近)に移転しました。関東大震災罹災後に境内地のほとんどが道路に接収されたため、残された土地に存明寺麻布説教所を設けました。この説教所は今も佑浩寺(港区南麻布)という寺院となって現存しています。昭和二年(1927年)に烏山の現在地に移転しました。

存明寺について

存明寺は、開基・願龍法師により江戸初期の正保四年(1647年)に江戸城の桜田郷(現在の警視庁のある場所)に建立されました。その後、芝金杉や麻布に移転し、関東大震災後の区画整理によって、昭和二年(1927年)に現在の地・烏山にやってきました。建立以来370年の間、親鸞聖人の教えを伝える聞法(もんぽう)の道場として歩み続けています。お寺では、ご法事やお葬式・お彼岸やお盆などの仏教行事のほか、法話会やグリーフケアのつどい、こども会やこども食堂などの活動をしています。目指すは、「親鸞と出遇うお寺」「開かれたお寺」です。




称往院は、浄土宗に属し、本山は知恩院、山号を「一心山」、寺名を「極楽寺」といいます。慶長元年(1596年)、江戸湯島に創建されました。明暦三年(1657年)の明暦の大火で堂宇を焼失し、浅草柴崎村へと移りました。称往院の旧末寺には道光庵・良狭庵の2寺院がありましたが、道光庵は明治六年(1873年)に称往院と合併しました。良狭庵(良狭院)は台東区西浅草に現存しています。称往院は関東大震災罹災後の昭和二年(1927年)に烏山の現在地に移転しました。かつて「そば切り寺」の異名があり、門前に由来の石碑が立っています。

一心山極楽寺 称往院(浄土宗)

当寺は慶長元年(1596年)白誉称往上人により湯島に創建されたが、明暦の大火で浅草に、さらに関東大震災により昭和二年当地に移転した。本尊は丈六の阿弥陀如来である。浅草のころ当寺は、寺内の道光庵庵主のつくるそばが有名となり「そば切り寺」として知られたが、修行の妨げになるとして天明六年(1786年)「そば禁制」の碑が当寺住職により建てられた。この碑は同庵にあった俳人宝井其角の句碑・墓とともに現在、当寺に残されている。




専光寺は浄土宗の寺院で、山号を「霊照山」といいます。慶長九年(1604年)の創建時は品川、後に馬喰町、浅草新寺町と移転しました。関東大震災によって堂宇や庫裏などをことごとく焼失し、昭和三年(1927年)に烏山の現在地に移転しました。昭和二十年(1945年)の空襲で本堂と庫裏を全焼しましたが、昭和三十三年(1958年)に本堂を再建しました。境内墓地には浮世絵師として知られる喜多川歌麿の墓があり、「歌麿寺」の通称で知られています。



喜多川歌麿の墓前に立寄ります。墓石の台座には大きく「北川」と書かれています。ちょっと珍しいと思うのですが、墓石には地蔵菩薩の像が浮き彫りになっています。歌麿が美人画を得意としていたからでしょうか?

東京都指定旧跡 喜多川歌麿墓

喜多川歌麿(1753年?〜1806年)は、江戸時代中期の浮世絵師で浮世絵喜多川派の祖とされています。出生地については、いくつか説があり、出生年も定かではありません。大首絵と呼ばれる美人画で、当時人気を得ました。歌麿の作品は、天明・寛政期の浮世絵版画の黄金時代を築きました。また、歌麿の作品は、フランス印象派の画家たちに強い影響を与えたことでも有名です。文化元年(1804年)に「太閤五妻遊」を描き、入牢に処せられました。文化三年(1806年)に亡くなり、浅草専光寺に葬られましたが、関東大震災後の区画整理により、昭和三年(1928年)に現在の場所に墓が移転されました。

Historic Places
Kitagawa Utamaro Haka (The grave of Kitagawa Utamaro)

Kitagawa Utamaro (1753?-1806) is an Ukiyoe artist in the middle of the Edo period and the founder of Kitagawa School. Neither place nor date is sure about his birth, he won popularity by Bijinga (Ukiyoe of beautiful woman) in the style of Okubie (close-up portrait). His works established the golden age of Ukiyoe between the Tenmei and Kansei terms (1781-1801); besides they are well known to have strongly influenced on the French Impressionist painters. He was sent to prison in 1804 because of drawing "Taikogosaiyu". He died in 1806 and was buried at Senkoji Temple in Asakusa, but was moved here in 1928 on the occasion of land readjustment after the Great Kanto Earthquake of 1923.




見所ポイント7の「妙寿寺」は、法華宗本門流に属し、山号を「本覚山」といいます。寛永八年(1631年)に創建した当初は「妙感寺」と号しました。当初は江戸谷中清水町(現在の台東区池之端)にありましたが後に猿江村(現在の江東区猿江)に寺を移転しました。そのときに一度寺号を「妙情寺」と改めましたが、さらに「妙寿寺」と改めています。関東大震災によって堂宇や寺宝などをことごとく焼失し、昭和二年(1927年)に烏山の現在地に移転しました。客殿は旧蓮池藩鍋島家住宅で、世田谷区指定有形文化財に指定されています。

世田谷区指定有形文化財(建造物)
妙壽寺客殿 一棟

本覺山妙壽寺は、寛永八年(1631年)江戸谷中清水町に開基された法華宗本門流の寺院です。寛文二年(1662年)には深川猿江村に移りました。後に、猿江村鎮守稲荷社別当となり、元禄四年(1691年)にはこれを合併し、以降明治期・大正期を通じ隆盛しました。その後、大正十二年(1923年)の関東大震災で諸堂宇が焼失し、当地へ移転することとなり、かつて東京市麻布区飯倉狸穴町(現、港区麻布台二丁目)の蓮池藩鍋島家邸宅にあった二階建ての和風住宅(明治三十七年築)を昭和二年(1927年)に移築し庫裡としました。平成七年(1995年)には庫裡を別棟で新築し、以後これまでの庫裡は客殿として利用されております。移築の際、二階建ての和風住宅に式台のある平屋の棟を足したようで、それぞれ屋根の形状や使われている木材の材料が異なります。二階建て部分は主に栂材を使った贅沢な普請で、内部は一階に座敷や台所を配し、二階には二十四畳の大広間と十二畳の次の間が配されています。二階大広間は一間半幅の床の間と、天袋、違い棚の付く床脇、付書院が備えられ、天井は折上げ格天井、壁には蟻壁長押をまわす書院で、この住宅の上座敷となっています。かつて鍋島家では天井の高い大広間に椅子とテーブルを置き、和室でありながら洋風の接客をしていました。明治中期以降の華族や上流階級の生活様式を、建物を通しうかがい知ることができます。客殿は移築当時の姿を良く残しており、意匠や技法にも優れ、烏山寺町の初期形成期の歴史を知る上でも重要な建物です。今日このような明治期の遺構は都内では少なくなり、建築史学上貴重な建築であることから、区指定有形文化財に指定されました。




境内に、中澤道二の墓があります。太田近江大掾藤原正次作の梵鐘についても解説されています。

妙壽寺の文化財

心学者 中沢道二翁の墓

中沢道二は享保十年(1725年)京都の機織りを営む家に生まれました。四十一歳で家業を離れたのち、手島堵庵の弟子となって「町人のための哲学」といわれた石門心学の修業に励みました。安永八年(1779年)堵庵の命により関東に下り、四年後には江戸日本橋に心学講舎・参前舎を設けています。ここを拠点に教化活動を行い、道二の心学は庶民をはじめ各層に広まりました。享和三年(1803年)六月十一日に没し、妙壽寺に葬られました。

太田近江大掾(だいじょう)藤原正次作の梵鐘

太田近江大掾藤原正次は、深川の上大島町に居住し、釜屋六右衛門(通称釜六)とも称しました。茶釜などの制作を生業として名をなしましたが、梵鐘も手がけ、区内における作例としては、豪徳寺の梵鐘が知られています。妙壽寺の梵鐘は、制作年代が享保四年(1719年)十一月で、鐘の表面に「武州葛飾郡本所猿江稲荷別当本覚山妙壽寺」と刻まれています。これは、寺がかつて本所猿江村に所在していた重要な記録となっています。




その梵鐘は、天井から吊されてはなく、地面に置かれた台石の上に鎮座しています。掲額には関東大震災によって破損したと書いてありますので、吊り下げるだけの強度が残っていないのでしょう。

妙壽寺梵鐘

この梵鐘は享保四年江戸時代中期(西暦1719年)に鋳造されたものです。大正十二年九月開束大震災時、隣接のガス会社より流出したコールタール等により猛火につゝまれ破損したので当時の被害の甚大であったことが想像出来るのであります。




見所ポイント8の「高源院」は、臨済宗大徳寺派に属し、本山は大徳寺、山号を「瑞泉山」といいます。開基は筑後久留米藩の第四代藩主有馬頼元で、開山として大徳寺の怡渓宗悦を迎えました。元禄十六年(1703年)の創建で、旧地は品川でした。明治二十六年(1893年)に無住となり、本寺であった祥雲寺の住職が兼務することとなりました。昭和十一年(1936年)、復興のために現在地に2000坪の土地を購入しました。その際寺院の敷地内に泉水を掘り、中央に弁天堂を建立しました。この泉水は昭和五十九年(1984年)に「烏山の鴨池」として、「せたがや百景」に選定されました。



烏山の鴨池は中央に弁天堂を配し、水面に深紅の影を落とした堂は池の周囲の緑と絶好のコントラストを醸し出しています。

せたがや百景
43 烏山の鴨池(Kamo-ike Pond, Karasuyaria)

寺町の北の外れにある高源院の鴨池には、秋も深まるとたくさんの鴨がシベリアから飛んで来ます。コガモ・カルガモ・マガモなどが浮御堂が映した水面を泳ぎます。夏にはスイレンなどが咲き乱れ、赤い欄干にもたれていつまでも見飽きません。湧き水の涸れることのないこの池は、地域住民の環境協定で守られています。また、昭和六十年3月には世田谷区の特別保護区にも指定されました。




今は真夏なので、池には鴨の姿は見えず、水草で覆われています。これはこれで絶景なのですが。



玉川上水を兵庫橋で渡ります。兵庫橋は「上水記」にも記載されている古くからある橋です。橋名は、小田原北条氏の家臣でこの地に土着した大熊兵庫が架橋したことに因んでいます。



この辺りには農地が多く残っています。網が掛けられた果樹はブルーベリーでしょうか?そういえば、三鷹地域にはキュウイワインが生産されていましたね。ブルーベリーワインって造っていないのでしょうか?



神田川に戻ってきました。緑橋から先は三鷹市になります。



三鷹台駅に着きました。昔は冴えない古びた地上駅だったと思うのですが、いつのまにか超お洒落な駅舎に変わっています。三鷹台駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、三鷹台駅は京王井の頭線の駅となりました。駅前には商店が並んでいますが、少し駅を離れると閑静な住宅街が広がっています。三鷹市と杉並区の区界付近に位置し、北口の立教女学院より北側は杉並区、北西側は武蔵野市となります。地形的には神田川の谷に当たる部分のため、駅より北側は急な上り坂となり、南側も上り坂になっています。「台」が付いていますが、実際は谷底にあるのです。ちなみに、井の頭線は三鷹台駅の渋谷寄り手前で神田川を斜断し、井の頭公園駅先で再び神田川を斜断して吉祥寺駅に向かいます。



ということで、「西荻南・久我山編 久我山・三鷹台コース」を歩き終えました。昔歩いたことのあるところも多く、懐かしかったです。今回で西荻南・久我山編は終了となりますが、杉並区の中でも緑多い地域を巡れて癒やされました。公園の数も多く、広さも半端なかったですね。都心と郊外の境に位置していることから、昭和の時代までビルや民家が建つでもなく、広大な土地に広い運動場が散在したのが良かったのでしょう。また、都や区が積極的に運動場跡を公園化したのも大きかったと思います。杉並区の散歩道はまだまだ続きますが、楽しんで歩きたいものです。




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