17.荻窪南編 一周コース 荻窪駅〜荻窪一周〜荻窪駅  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「17.荻窪南編 一周コース 荻窪駅〜荻窪一周〜荻窪駅」を歩きます。荻窪駅南口をスタート地点として、かっての文人・名士が居住した豪邸や寺社・仏閣など杉並区の伝統ある景色を楽しみます。  

「17.荻窪南編 一周コース 荻窪駅〜荻窪一周〜荻窪駅」の歩行距離は5.9km、歩行時間は2時間です。

スタート地点:荻窪駅南口
↓ 
 1.杉並「まち」デザイン賞 西郊ロッヂング
昭和初期に賄い付き高級下宿として建てられた建物です。国の登録有形文化財です。
 2.オーロラの碑
かつてここにあった区立公民館から原水爆禁止運動が発祥したことを記念して建てられました。
 3.読書の森公園
区立中央図書館に隣接し木陰で本が読める公園です。図書館側にガンジー像が建てられています。
 4.大田黒公園
 5.萩外荘(国指定史跡※現在は公開していません)
荻外荘は、昭和戦前期に総理大臣を3度務めた政治家、近衛文麿の別邸です。平成二十八年3月に国の史跡に指定されました。
 6.角川庭園
角川源義氏の旧邸宅を活かした庭園です。園内の幻戯山房は国の登録有形文化財です。
 7.田端神社
150mの桜並木の参道が続いており境内には木製の鳥居・力石・庚申塔などがあります。
 8.松渓公園
縄文中期の遺跡が埋蔵された都内初の遺跡公園です。ケヤキやコナラが多く武蔵野の風情を残しています。
 9.中道寺
黒眼の日蓮上人像が祀られており、鐘楼と山門を兼ねた鐘楼門は区内では珍しい建物です。
10.与謝野公園
与謝野鉄幹・晶子夫妻の旧居跡につくられた公園です。夫妻の歌碑があり、近くの桃二小の校歌は晶子の作詞です。
11.荻窪南口仲通り商店会
荻窪駅南口から南へ環八通り近くまで450m続く、何となく懐かしくほっとする活気もある商店街です。

ゴール地点:荻窪駅南口


スタート地点の荻窪駅南口から歩き始めます。荻窪駅南口には駅前広場がなく、南口に面して線路沿いに区道が通っていて、この通り沿いに路線バスの停留所やタクシーの乗り場が設けられています。荻窪駅は、明治二十四年(1891年)12月21日に甲武鉄道の駅として開業しました。当初、出入口は現在の南口のみでしたが、昭和二年(1927年)に北口が新設され、南口と北口は陸橋で連絡していました。昭和三十七年(1962年)1月23日に営団地下鉄荻窪線が開業し、現在はJR東日本と東京地下鉄(東京メトロ)の駅になっています。尚、JR東日本と東京メトロの駅は地下で隣り合っていますが、住居表示はJR東日本の駅が上荻一丁目、東京メトロの駅が荻窪五丁目となっています。JR東日本の中央本線は、中央線快速と中央・総武線各駅停車の2系統が別々のホームに停車します。土曜・休日の中央線快速は中野・荻窪・吉祥寺にのみ停車しますので、その間の高円寺駅・阿佐ヶ谷駅・西荻窪駅では中央・総武線の各駅停車しか利用できません。これが荻窪住民の自慢になっています。営団地下鉄(東京メトロの前身)の荻窪駅が開業したのは昭和三十七年(1962年)1月23日で、新宿駅〜荻窪駅・方南町駅間の区間は「荻窪線」と呼ばれていましたが、昭和四十七年(1972年)4月1日に「丸ノ内線」に名称が統一されました。東京メトロの管轄する駅および東京23区の地下鉄の駅としては最西端となっています。荻窪の街は、大正から昭和初期にかけて東京近郊の別荘地として「西の鎌倉、東の荻窪」と称され、以来文化人が多く住む閑静な住宅地として知られていますが、駅前周辺は東京で有数のラーメン(荻窪ラーメン)店激戦地となっています。また、飲み屋さんも多く、駅北口の線路沿いに小さなお店が密集していましたが、平成二十三年(2011年)北口広場の整備に合わせて全て撤去されました。尚、名物の焼き鳥「鳥もと」は北口の離れた場所に移動し、小綺麗になって営業を続けています。荻窪駅には、かって都電杉並線が乗り入れていましたが、丸ノ内線との競合により、昭和三十八年(1963年)12月1日に廃止されました。



荻窪駅南口から東へ歩くこと約3分、住宅街に一際目立つ17階建ての藤澤ビルが建っています。この建物の敷地の南側入口には、格式ある門と「明治天皇荻窪御小休所」と刻まれた石碑が残っています。かつて、この場所に明治天皇が行幸された際に休息所として利用されていた建物があったことの証です。明治天皇が利用したのは、明治時代以前からこの地域の名主を務めていた中田家の屋敷内の建物でした。長屋門の入口から休息された離れまでの約50mに亘り、朱の毛せんを敷き詰め、その上を明治天皇が通られたのだそうです。当時の当主だった中田村右衛門氏は、昭和二十一年(1946年)春に家屋敷を藤澤乙安氏に譲渡し、昭和六十二年(1987年)にこの地にアメリカン・エキスプレスなどがオフィスを構える高層ビルが建てられました。現在の御小休所と長屋門はこの建築の際にビルの南側に移築復元されたものです。江戸時代、杉並付近には善福寺池を中心として野鳥が多く、鷹狩の地となっていました。中田家は、第十一代将軍徳川家斉が寛政年間(1789年〜1801年)に鷹狩で度々訪れた際に休憩に立ち寄る場所だったと伝えられています。その折、地域の名家と云えども農家に将軍が立ち寄るのは威光に関わるということで、将軍家が中田家に命じて特別に武家長屋門を造らせました。このような経緯から、明治天皇行幸の際にも御小休所として指定されたと思われます。荻窪で明治天皇が休息されたのは、明治十六年(1883年)4月16日に埼玉県飯能の近衛師団演習統監に向かわれる途中でした。小1時間ほど中田邸で休息された後、名馬「金華山」に乗り換え、飯能に向かわれたそうです。また、1週間後には小金井の観桜会へ向かわれる途中で再び中田邸に立ち寄られました。この2回の行幸に際して金計七拾円が下賜され、以降明治天皇が崩御された明治四十五年(1912年)年まで、侍従らにより毎年行われた小金井観桜遠乗会の折にも必ずこの御小休所が利用されました。戦後、中田村右衛門氏は藤澤乙安氏へ同敷地を譲渡して三鷹市に移りましたが、その際に長屋門と御小休所はこのまま残してほしいと涙を流さんばかりに依頼したということです。藤澤氏はこの約束を守り、太平洋戦争後に文部省史跡指定が解除され、石碑取り壊しを命じられても応じず、長屋門と御小休所についても原状の保持に努めました。その結果、藤澤ビルの建設に伴って移築されたとはいえ、全体として今もなお昔の御小休所の姿をとどめていて、その重厚感は当時を彷彿とさせます。



見所ポイント1の「杉並「まち」デザイン賞 西郊ロッヂング」は、戦前の昭和十三年(1938年)に建てられ、平成十三年(2001年)に改修された後は賃貸アパートになっている貴重な洋風の建物です。住宅地の中に溶け込んでいますが、映画やテレビ等のロケにも沢山使われたかなり趣のある建物で、平成二十一年(2009年)11月に国の登録有形文化財に指定されています。西郊ロッヂングは、当初は本館のみで、後に新館が増築されましたが、現在では新館のみが西郊ロッヂングと呼ばれ、本館は「西郊」という旅館として営業しています。「西郊」は、大正五年(1916年)3月に文京区本郷で下宿屋として創業し、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災を契機に、昭和六年(1931年)に荻窪に本館を新築して移転し、「西郊ロッヂング」を開業しました。現在の西郊ロッヂングの建物はその後増築された新館になります。本館・新館ともに、当時は珍しかった全室洋間の高級下宿でした。昭和二十三年(1948年)に本館は旅館「西郊」に転業され、新館の西郊ロッヂングは従業員の宿舎等としても使用されました。西郊ロッヂングは敷地の北西角に沿うようにL字形に建てられ、木造2階建、建築面積は145u、部屋数13の建物です。ベージュの外壁の上部には銅板葺ドーム屋根を載せています。創業者である現在の経営者の祖父は宮内省から水道会社に転職した経歴を持ち、給水塔のデザインにならってドーム屋根が取り付けられたということです。眺めるにはいいのですけど、住み心地はどんななんでしょうね?



本館である西郊ロッヂングの隣の建物も新館と共に国の登録有形文化財に指定されていて、現在も割烹旅館「西郊」として営業しています。木造2階建、スレート一部鉄板及び桟瓦葺、建築面積473uで、1階は玄関・広間・厨房になっていて、2階に宿泊室があります。ベージュ色のモルタル仕上げの外観はミラノにある三ツ星レストラン「アンティカ・オステリア・デルポンテ」を思い起こさせます。塀際の建物は違うと思いますが。



見所ポイント3の「読書の森公園」にやってきました。入口の横に逆ハート形のモニュメントが置かれています。見所ポイント2の「オーロラの碑」だそうです。オーロラに見えないこともないのですが。

記念碑の由来

昭和二十八年十一月に開設した杉並区立公民館においては、区民の教養向上や文化振興を図るため、各種の教養講座が開かれ、また、社会教育の拠点として、区民の自主活動が行われてきました。これらの活動のなかでも、特筆されるものは、昭和二十九年三月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広範な区民の間で始まった原水爆禁止署名運動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われております。その公民館も老朽化により平成元年三月末日をもって廃館されましたが、その役割は杉並区立社会教育センター(セシオン杉並)に発展的に継承されております。ここに、公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。




読書の森公園は、杉並区立中央図書館に隣接し、図書館と一体となった公園という新しい考え方で造られました。ここでは、東屋や小川のほとり、またシンボルであるケヤキの木陰に座って、図書館で借りた本を読んで楽しむことができます。杉並ゆかりの作家や詩人のモニュメントが置かれ、アンネのバラも公園を飾っています。

読書の森公園は、平成十四年10月に荻窪在住の中田和夫氏のご厚意により寄贈を受けた土地を、区民がみどりに触れながら読書に親しめる公園として整備したものです。



公園内には水草が繁茂した小さな池(沼?)があり、岸辺には荻窪の名前の由来となった萩が植えられています。

荻(オギ)を植えました

荻は荻窪の地名の由来と言われる植物です。




荻窪在住だった井伏鱒二の随筆の一部がプレートに書かれています。

昭和三十二年十二月三十一日、荻窪病院に行く−−−。盲腸の手術で麻酔にかけられるとき、病院裏手の観泉寺で除夜の鐘が鳴りだした。大晦日の晩、いよいよ押しつまって手術してもらいに入院したわけであった。医者は私が深酒するたちだから全身麻酔にかけることにして、看護婦が「入歯があったら外して下さい」と言った。私は上下の総入歯を外して手渡した。看護婦が私の鼻先に漏斗のような器具を近づけた。こちらは手術台に乗せられて、観念の目を閉じていた。「一つ、二つ、三つ。ゆっくり数えて、この通り願います」看護婦はそう言って、「ひとォつ・・・」と言った。こちらも「ひとォつ」と言ったつもりだが、総入歯を外しているので「ひとォちュ」というような声になった。同時に観泉寺の除夜の鐘が「ごおん」と鳴った。看護婦が「ふたァつ」と言うので、その通りにすると「ふたァちュ」というような声になり、観泉寺の鐘が「ごおん」と鳴った。看護婦が「みッつ」と言った。私はもう沢山だという意味で手を振ったように覚えるが、後は細く光る一本の銀線か何かに伝って奈落へ消えて行くような気がした。「これだ、これだ、これに限る」と思ったきり、意識が無くなった。

新潮社 井伏鱒二 「荻窪風土記・荻窪」より




公園内の一画にガンジーの銅像と、建てられた経緯が記してあります。マハトマ・ガンジーは「インド独立の父」と呼ばれ、ロンドンの学校で法律を学んだ後に南アフリカで弁護士となり、インドに帰国後は民衆暴動やゲリラ戦の形をとるものではなく、「非暴力・不服従」を提唱してインドのイギリスからの独立運動を指揮しました。ちなみに、マハトマとは「偉大なる魂」の意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされるガンジーの尊称です。ガンジーの思想は、植民地解放運動や人権運動の領域における平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えました。尚、同じ名前で誤解されやすいのですが、インドの政治家一族として有名な「ネルー・ガンジー・ファミリー(インディラー・ガンジーら)」との血縁関係はありません。杉並区とガンジーの接点は、杉並区・杉並区日印交流協会・杉並区交流協会がインドの慈善団体である「ガンジー修養所再建トラスト(本部:デリー)」と交流を結んできたことによるものです。

マハトマ・ガンジー
1869年10月2日〜1948年1月30日

東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員故ニルマラ・デシュパンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを祈念して、贈る。

MAHATMA GANDHI
2 OCTOBER 1869 - 30 JANUARY 1948

STATUE OF MAHATMA GANDHI PRESENTED TO SUGINAMI CITY, TOKYO ON THE 6TH DAY OF NOVEMBER, 2008 IN THE MEMORY OF LATE DR. NIRMALA DESHPANDE, MEMBER OF PARLIAMENT AND FOUNDER PRESIDENT GANDHI ASHRAM RECONSTRUCTION TRUST, INDIA FOR PROMOTING GANDHIAN VALUES, WORLD PEACE AND UNDERSTANDING.




右側の石碑には、「7つの大罪」の言葉が記されています。最期の「原則なき政治」だけが異質ですね。

「7つの大罪」

汗なしに得た財産
良心を忘れた快楽
人格が不在の知識
道徳心を欠いた商売
人間性を尊ばない科学
自己犠牲をともなわない信心
原則なき政治

SEVEN SOCIAL SINS

WEALTH WITHOUT WORK
PLEASURE WITHOUT CONSCIENCE
KNOWLEDGE WITHOUT CHARACTER
COMMERCE WITHOUT MORALITY
SCIENCE WITHOUT HUMANITY
WORSHIP WITHOUT SACRIFICE
POLITICS WITHOUT PRINCIPLE




見所ポイント4の「大田黒公園」は、荻窪にある区立の公園で、昭和五十六年(1981年)10月1日に開園しました。音楽評論家であった大田黒元雄の自邸を整備し、敷地の30%を公園にして欲しいという彼の遺志に基づいて遺族から杉並区に寄贈された土地に、周囲の土地を合わせて公園として整備したものです。

大田黒公園について

この公園は、大田黒元雄氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備し、昭和五十六年10月1日に開園したものです。面積は8972.31uで、そのうち2679.63uは大田黒家から寄付されたものです。園内には、氏の仕事部屋であった記念館や蔵が保存されています。この記念館は、昭和八年に建築されたもので、当時のものとしては珍しい構造と意匠をもった西洋風の建築物です。大田黒氏は、47年有余にわたりこの部屋で音楽活動を続けられました。室内には、生前氏が使用されていたピアノや蓄音機などが残されています。

*大田黒元雄(おおたぐろ もとお) (音楽評論家・1893年〜1979年)

NHKラジオの人気番組「話の泉」(昭和二十一年〜三十九年)の解答者として活躍。19歳のとき、イギリスのロンドン大学に留学。「バッハよりシェーンベルヒ」の中で日本に初めてドビュッシーやストラビンスキーの名を紹介したほか、60有余年にわたって日本の音楽の育成に貢献した。

昭和三十九年 紫綬褒章   昭和四十二年 勲三等瑞宝章   昭和五十二年 文化功労者
おもな著作: 歌劇大観・歌劇大事典・バッハよりシェーンベルヒ・はいから紳士譚・西洋音楽物語、など




公園は可能な限り旧大田黒邸の庭園の原形を残し、回遊式日本庭園として整備されました。正門から延びるイチョウ並木をはじめとして随所に巨木が残るほか、当初からあった池が再現されています。日本式の庭園技法が活かされた和洋折衷公園であり、美観がよく維持管理され、見る公園として高く評価されています。公園内には、休憩室及び茶室や、昭和八年(1933年)に建てられたレンガ造洋館のアトリエを改装した記念館が設けられています。



池には、新潟県小千谷市にある錦鯉の里から寄贈された「泳ぐ宝石錦鯉」が見えます。池の水も綺麗ですが、錦鯉の色の鮮やかさには驚かされます。



「大田黒元雄年譜」によりますと、

明治二十六年(1893年)1月11日、東京に生れる。父重五郎、母らくのひとりっ子。結核療養中の母とともに幼少時を葉山で過ごす。父大田黒重五郎(1866年〜1944年)は実業家、芝浦製作所(現株式会社東芝)を育成するとともに、九州水力電気(現九州電力)をはじめとする各水力電気会社の設立にかかわった。作家二葉亭四迷とは東京外語時代以来の親友であった。昭和五十四年(1979年)1月23日86歳で死去しました。

とあります。



記念館には、スタインウエイ社製のピアノが置かれています。スタインウエイ社は、ドイツ人ピアノ製作者のヘンリー・E・スタインウェイによって設立されたピアノ製造会社で、高品質のピアノを制作することとピアノの発展に貢献した多くの発明で知られています。最高級グランドピアノ市場のスタインウェイ社の市場占有率は一貫して80パーセントを超えていますが、この支配的な地位がピアノの革新を妨げてきたとの批判もあります。スタインウェイ社にはスタインウェイ・アーティスト・プログラムというピアニストの囲い込み制度があり、契約するとピアニストが対価を支払うことなく、スタインウェイ製ピアノを所有することができます。このプログラムには、アントン・ルビンシテインやジョージ・ガーシュウィン、ウラディミール・ホロヴィッツ、ピアノ協奏曲第2番の作曲で知られるセルゲイ・ラフマニノフ、変わったところではポピュラー音楽のビリー・ジョエルが参加しています。

大田黒公園のピアノについて

このピアノは、音楽評論家の大田黒元雄氏(1893年〜1979年)が所蔵していたスタインウェイ社製のピアノで、氏の生前、友人たちを自宅に招いて行われた「ピアノの夕べ」などで使われていたものです。1900年にドイツ・ハンブルグ工場で組立てられ、外装はマホガニー仕上げとなっています。氏の没後、その屋敷跡は公園として整備され、ピアノは記念館の展示品となっていましたが、2000年にある熱心な調律師の手によりピアノは音色を取り戻し、年に数度その美しい音色を皆様に届けてまいりました。しかし100年を超え老朽化したピアノは、楽器としての役割を終えようとしていました。ピアノの音色の存続を願う地域の方々や演奏家により「大田黒公園のピアノを守る会」が設立され、ピアノ修復のためにコンサートなどの募金活動が行われました。「守る会」より杉並区に寄附された募金をもとに、大阪堺市の工房で修復されたピアノは、かつての輝かしい音色を取り戻すことができました。現在では手に入らないピアノの部品の耐久性を考え、演奏の機会は限られていますが、豊かで深い低音と柔らかな旋律を、今後も皆様のお耳に届けられるでしょう。




落ち着いた佇まいの住宅が建ち並ぶ道路沿いに、見事に伸びたアカマツと勢いの良いクロマツが立ち並んでいます。荻窪の松林は、平成五年(1993年)に、街の魅力に貢献している建物や地域活動を表彰する「杉並まちデザイン賞」に入賞しました。



見所ポイント5の「萩外荘(てきがいそう:国指定史跡)」は、荻窪の閑静な住宅街にあり、戦前に内閣総理大臣を3度務めた政治家の近衞文麿が昭和十二年の第一次内閣期から二十年12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所です。平成二十八年3月1日、こうした歴史を持つ「荻外荘(近衞文麿旧宅)」が日本政治史上重要な場所として国の史跡に指定されました。



案内板に、創建当時の邸宅の写真と間取り図、それに敷地の見取り図が添えられています。

国指定史跡 荻外(てきがい)荘(近衛文麿旧宅)

荻外荘は、昭和前期に総理大臣を3度務めた政治家、近衛文麿の邸宅です。当初は、昭和二年(1927年)に、大正天皇の侍医を務めた医師の入澤達吉が、義弟で建築家の伊東忠太に設計を依頼して建てた邸宅でした。昭和十二年(1937年)に近衛文麿が入澤から邸宅を譲り受け、その後、西園寺公望が「荻外荘」と命名しました。近衛は、ここで政治会談や第二次・第三次近衛内閣の組閣を行うなど、荻外荘は、近衛の主要な政治の場となりました。特に、昭和十五年(1940年)の「荻窪会談」は、第二次近衛内閣の基本方針が確認された会談として有名です。戦後、昭和二十年(1945年)12月16日に近衛は邸内の書斎で自決しました。平成二十八年(2016年)3月1日、昭和期の政治の転換点となる重要な会議が行われた場所として、国の史跡に指定されました。現在、建物部分は非公開ですが、史跡指定の趣旨に基づき、文化財として適切な復原整備と活用に向けた検討を進めています。

Tekigaiso (Former residence of Fumimaro Konoe)

Tekigaiso was the residence of three-time Prime Minister Fumimaro Konoe (1891-1945) in the first half of the 20th century. The home was originally designed and built in 1927 by the architect Chuta Ito (1867-1954), at the behest of his brother-in-law and imperial physician to the Emperor Taisho, Tatsukichi Irisawa (1865-1938). Konoe acquired the home from Irisawa in 1937. It was later named "Tekigaiso" by yet another Prime Minister, Kinmochi Saionji (1849-1940). Konoe used the home for political activities, including to form and meet with his second and third cabinets. It is perhaps best known for the "Ogikubo Meetings" of 1940 in which Konoe and his second cabinet laid out a basic policy for Japan. Konoe killed himself in his study on December 16, 1945, four months after Japan's defeat in WWII. The former site of the residence was named a Historical Site of Japan on March 1, 2016 because of the politically important meetings held there that changed the course of the nation in the early 20th century. At present, the buildings are closed to the public, as investigations pertinent to the purpose of the historical site designation are underway into how to restore and utilize the site as a cultural property.




創建当時の外観(External view of the residence around the time was built)です。



見所ポイント6の「角川庭園」は、杉並区が平成十七年に、俳人で角川書店の創業者である故角川源義(げんよし)氏の旧邸宅を遺族から寄贈を受けて整備した庭園です。四季折々の木々や草花を楽しめる庭園と、展示室や貸室がある「幻戯山房」があります。



見所ポイント7の「田端神社」は、足利持氏と上杉禅秀とが戦った際、品川左京の家臣良影が応永年間(1394年〜1427年)にこの地に土着し、京都の北野神社の分霊を祀って天満宮として創建したのが始まりといわれています。明治四十二年、田端村にあった小名関口の天祖神社(神明社)・稲荷社・小名高野ヶ谷戸の子ノ権現社・小名日性寺の山神社を合祀し、田端神社と改称しました。「田端」という名称は、昔この辺りは畑作の多かった杉並では珍しく水田が広がり、その端に集落があったことに由来します。

田端神社

当社は菅原道真公を祭神とした旧田端村の鎮守で、かつては北野神社(天満宮)とも呼ばれ、村の産土(うぶすな)神として崇められてきました。創建は応永年間(1394年〜1427年)といわれ、社伝によれば、武蔵国の有力者、品川左京の家臣良影という者がこの地に土着し、京都の北野神社の分霊を祀ったことにはじまると伝えられています。いつしか社が田の端にあることによって田端神社と呼ばれ、明治四十四年(1911年)にそれが社号となりました。それに先立つ明治四十二年(1909年)、当社は村内に鎮座してあった天祖社・稲荷社・子ノ権現社・山神社を合祀しました。これにともなって各社の祭神が当社に祀られ、現在の祭神は菅原道真公・天照皇大神(あまてらすおおみかみ)・豊受比売命(とようけひめのみこと)・大国主命( おおくにぬしのみこと)・大山祇命(おおやまつみのみこと)の五柱です。当社祭神のひとつ、大国主命は足痛・腰痛に霊験有りとして知られ、社蔵の木槌のご利益への返礼として奉納された木槌が多数残っています。文化財としては、延宝五年(1677年)銘・享保三年(1718年)銘の庚申塔、江戸時代に造られたといわれる木造鳥居、江戸末期から大正期にかけて奉納された力石などがあります。




境内には、延宝五年(1677年)と享保三年(1718年)銘の庚申塔が置かれています。この2体の庚申塔は、かって隣接した住宅地にありましたが、宅地造成によって神社内に遷移されました。



境内にある黒色の四足鳥居は江戸時代に造られた木造の鳥居で、現在でも健在です。



社殿に向かって左手に並べられた数個の力石は、江戸時代末期から大正時代に奉納されたもので、「五十五貫目(約206kg)」など、重さを表す文字がはっきりと読み取れます。

杉並区指定 有形民俗文化財
力石ならびに板絵着色力石持上図

力石十一個 ならびに 板絵着色力石持上図一面

力石は、若者たちが日常の遊びや、神社の祭礼の時などに担いでその力を競い合い、力試しをするために使った石です。田端神社の力石は二十八貫目(約105kg)から五十五貫目(約206kg)と刻まれている十一個があり、大正六年十一月に奉納された九個には一部朱が塗られていた痕跡が残っています。板絵着色力石持上図は、中型の絵馬で、社殿、鳥居及び三個の力石と、力石を持上げる若者の様子が描かれています。全国的にも珍しい画題で、力石を担ぎ上げる方法の一つがわかる貴重な資料です。




「西田端橋」というバス停は、この後に歩く西コースのゴール地点です。杉並区の散歩道は、全てアクセスの良い駅をスタート/ゴール地点にしているのですが、唯一西コースだけがこのバス停をゴール地点にしています。なので、西コースを踏破した後は関東バスのお世話になります。



見所ポイント8の「松渓公園」は、昭和五十一年4月に縄文遺跡を地下にそのまま保存して造られた公園です。道路より一段高い敷地に、緑に囲まれた静かな佇まいをみせています。

松渓公園と縄文時代の暮らし

この公園の地下には縄文時代の人々が暮らした跡が眠っています。昭和四十九年、この土地を発掘してみたところ、縄文時代早期(8500年前頃)の土器の欠片や、縄文時代中期(5000年前頃)の住居の跡が発見されました。住居跡は三軒が発見されました。当時の住居は、地面を半地下に掘り窪めて床を作り、木の柱を立てて屋根を葺いた「竪穴住居」と呼ばれる形の家でした。また、土器を作って煮炊きや木の実などの貯蔵に使い、石器を作って狩りや生活の様々な道具として使っていました。例えば石器には、石を上手に打ち欠いて作った打製石斧や石の鏃などがあります。打製石斧は、住居に使う木を切ったり、地面を掘る時に使ったりといった道具と考えられています。石の鏃を使った弓矢は、ウサギやシカなどの動物を狩るのに便利な道具でした。また、長い縄文時代の中でも特に縄文時代中期は、土器に立体的な模様を様々に付けた時期で、造形は見事です。今から、5000年ほど前の縄文時代中期と呼ばれる時代、善福寺川の流れを目の前にしたこの高台には、縄文人たちが豊かな自然に育まれて生活していました。発見された遺跡は西田小学校北遺跡と呼ばれ、公園の地下に保存されています。




案内板の隣には、縄文時代の暮らしをイメージしたイラストがあります。描かれている川は5000年前の善福寺川をイメージしたものでしょうか。このイラストは、昔人気のあったアニメ「はじめ人間ギャートルズ」の作品を描いた園山俊二氏が制作されたものです。「ゴン」・「父ちゃん」・「母ちゃん」・「ピー子ちゃん」など、妙に人間味溢れるキャラクターが印象に残るアニメでしたが、こちらのイラストもそのタッチが存分に感じられるものとなっています。



見所ポイント9の「中道寺」は、大光院日道がこの地に天正十年(1582年)に草庵として建立し、その弟子の日法が元和二年(1616年)に大光山中道寺と寺号を称し、寛永十三年(1636年)に土着していた千葉氏の家臣宇田川茂右衛門から旧主下総国の豪族千葉氏の菩提供養寺として土地の寄進を受けて堂宇を整えたといわれています。当寺の本尊日蓮上人像は「願成の祖師」とか「黒眼の祖師」と称され崇敬を集めています。



本堂正面にある鐘楼門は、安永二年(1773年)に十九世凌善院日喜上人が発願し、天明元年(1781年)に二十世太沖院日精上人の代に完成しました。鐘楼と山門とを兼ねる珍しい建築様式は、杉並区有形文化財(建造物)に指定されています。

中道寺鐘楼門

この鐘楼門は、天明元年(1781年)に竣工した表門と鐘楼を兼ねたもので建築当初の姿をよくとどめています。一間一戸の楼門形式の四脚門ですが、上層は鐘楼で桁行三間・梁間二間、下層は桁行一間・梁間二間とし、上層に腰組付の縁を廻していますが高欄はありません。建築様式は基本的には禅宗様で、肘木は和様とし下層の頭貫上に蟇股(かえるまた・蛙股:横木【梁・桁】に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材です。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから「蟇股」と呼ばれています)を入れ、江戸期の折衷様の特徴を示しています。本鐘楼門は都内においては珍しい建築遺構であり、建築史上からも大変貴重なものです。




鐘楼門の上層が鐘楼になっていて、釣り鐘と撞木(しゅもく:鐘突き棒)が見えます。梵鐘を突く撞木にはシュロの木が多く使われています。



不動堂の創建年代は不詳ですが、この不動堂の中には宝暦六年(1756年)に造立された「南無妙法蓮華経不動明王 上荻久保村別当仲道寺」と刻まれた高さ六尺(1.8メートル)の石碑が納められています。不動堂が現在の地に移されたのは大正末年の区画整理の時で、かつては現在の荻窪高校付近にあったといわれています。「新編武蔵風土記稿」にある「除地百六十八坪村ノ東北ノ方ニアリ不動ト云文字ヲ梵字モテエリシ石標アリ今ハ堂ヲ廃セリ」という不動堂が現在のものとの考えもありますが、詳かではありません。不動明王は法華経の守護神として信仰され、現世利益信仰を代表する明王で、除災得幸・厄除安全・戦勝祈願・病魔退散・修行者守護・所願成就など、種々の願事に応じる仏として修験者や祈祷師を通じ人々に広く信仰されました。この不動明王も下荻窪村に熱病が流行して多くの村人が亡くなった時に村人達が浄財を出しあって石碑を造りお祈りしたところ、熱病の流行がピタリと止んだという話が今も残っており、別名を「護施不動明王」と名づけられています。それ以後、下荻窪村はもちろん近在の村でも熱病がはやると、このお不動様へ願をかけてお祈りしたそうです。

不動堂

この不動堂は、別名「護施不動尊」といい、堂内には宝暦六年(1756年)に造立された「南無妙法蓮華経不動明王 上荻久保村別当仲道寺」と刻まれた高さ六尺(約1.8メートル)の石塔が納められています。この石塔には、江戸時代に下荻久保村に熱病が流行し、大勢の人が亡くなった時、村人達が浄財を出し合って石塔を建立し祀ったところ、それから直ぐに熱病がピタリと止んだという話が伝えられており、それ以後近郷近在では熱病が流行ると、ここで祈りを捧げたといわれています。現在でも多くの方のお参りが続いていて、霊験のあらたかさを物語っています。不動堂が現在地に移されたのは大正時代の末で、当時の区画整理の折に、それまで都立荻窪高校のあたりにあったものが、当地に移転したと伝わっています。不動明王はサンスクリット語で、アチャラナータ(揺るぎない守護者)といい、仏法の障りとなるものに対しては怒りを持って屈服させ、逆に仏の道に入った者には、常に守護して見守るとされます。不動明王は、真言密教の要素が強いのですが、日蓮宗でも曼荼羅の脇座に据えられており、祈祷本尊となっています。特に除災得幸、厄除安全、戦勝祈願、病魔退散、修行者守護、所願成就などに利益があるとされます。日本では平安時代頃より信仰され、現在でも「お不動様」の名前で広く親しまれています。なお、境内にある祈念碑は昭和五十二年(1977年)に不動堂の再建を記念して建立されました。




見所ポイント10の「与謝野公園」は、かつてこの地で晩年を過ごした与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻の家の跡地に造られ、昭和五十七年に「南荻窪中央公園」として開園しました。平成二十四年4月に再整備した際、「与謝野公園」と名称を変更しました。園内には、二人が詠んだ歌碑などがあります。

与謝野寛(鉄幹) 晶子旧居跡

かつて、この地には与謝野寛(※鉄幹)晶子夫妻が、晩年を過ごした家がありました。二人は明治から昭和初期にかけて、短歌、評論、古典文学研究、詩などの分野で活躍しました。

※明治三十八年に鉄幹の雅号を廃し、この年より本名の寛を名のりました。

敷地に向かって左方にある門を入るとサクラ、アカシアなどがあり、砂利の通路が玄関へと続きました。玄関には、アケビの棚があり、庭には、センダンやイイギリの大木、タイサンボク、カエデ、紅白のウメ、ロウバイ、カキ、クリなどたくさんの樹木があり、青葉の季節には、外から家が見えないほどでした。ブドウ棚の下には池があり、その少し北よりには、大きな藤棚もあり、夏になると、二階の窓からは、地面は見えないほどでした。晶子は、自然のままに育てた庭木の姿を好ましく思っていたからです。秋には、ドウダンツツジの垣根が美しく紅葉し、冬には、椿の一種、ワビスケの花が咲きました。敷地内には、遙青書屋、采花荘、冬柏亭の三つの建物があり、昭和十年に寛、昭和十七年に晶子が死去した後も敷地内には遙青書屋が、昭和五十五年頃まで残っていました。その後、昭和五十七年に、土地の一部を除き、杉並区立「南荻窪中央公園」として開園しました。平成十九年十一月には念願でありました晶子の「歌の作りやう」の碑が地元の荻窪川南共栄会商店街により建てられました。さらに隣地の空地を取得し、与謝野夫妻ゆかりの地として再整備してほしいという強いご要望があり、長きにわたる構想と地域の皆様の熱い思いを受けて、この度名称変更をし、晶子没後七十年の節目の年に「与謝野公園」として生まれ変わりました。当時の建物や庭を再現したものではありませんが、与謝野邸の庭を訪問するような趣向として、入口には門柱を立て、玄関へと続く通路を造りました。庭には夫妻が好んだ樹木を植栽し二人が詠んだ歌碑などを建立しました。これら様々なものから往時の雰囲気を味わっていただけることと思います。ゆっくりと与謝野邸への思いをはせてください。

公園整備にあたりましては、地域の皆様や与謝野夫妻のご親族、関係者の皆様のご理解とご協力のもと、実現することができました。歌碑作成にあたりましては、松平盟子さん(歌人)、萩原茂さん、平出洗さん各氏に何万首ともいわれる二人の歌から、時代を追って恋、夫婦、子供、家のことなど、終焉の地としてふさわしい歌を、選んでいただきました。ここに、厚く感謝申し上げます。




園内には幾つかの案内板が立っていて、夫妻が住んでいた住居の解説が記されています。

三つの家

大正十二年の関東大震災を機に、大正十三年に与謝野夫妻はこの地(東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪)を借り、まもなく、その一部に洋風の家「采花荘」を建て、長男と次男を住まわせました。昭和二年には、与謝野一家は、晶子が自ら図面を書き、西村伊作設計による洋館に転居します。寛が、晴れた日には二階から秩父連山、富士山、箱根山脈までが遠望できるということで、「遙青書屋(ようせいしょおく)」と名づけました。この家は、クリーム色の壁に赤い屋根、窓のよろい戸が緑色の鮮やかな二階建ての大きな洋館でした。一階は、広々とした廊下、応接間、書斎、客間用のベランダと夫妻の部屋、二階には日本座敷が二間、階上階下に子供たちがそれぞれの好みで和風洋風の部屋を持っていたようです。そして、屋上には、「鶯【ケン:山へんに見る】台(おうけんだい)」と呼ばれる物見台がありました。四男アウギュストと五男の健、二人の名前に因んで覚が名づけました。鶯のさえずりを聞いたり、遠くの山々を眺めみるという意味もありました。

昭和四年には、晶子五十歳の賀のお祝いに弟子たちから五坪ほどの一棟が贈られ、夫妻は「冬柏亭(とうはくてい)」と名づけました。冬柏亭は六畳と三畳の二間からなり、書斎や茶室として使用されました。「冬柏」とは、夫妻の好きだった「椿」を意味しています。現在、この「冬柏亭」は、京都の鞍馬寺に移築され、唯一現存している建物です



左の写真:遙青書屋の前に立つ与謝野夫妻


園内の歌碑に、「みだれ髪(明治三十四年)」に収録された「やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君 昌子」という短歌が刻まれています。与謝野晶子は、「男女七歳にして席を同じうせず」という風潮の中、激しい恋心と官能を歌にして浪漫派の歌人として名を馳せました。「みだれ髪」は、明治三十四年(1901年)に刊行された与謝野晶子の処女歌集で、女性の恋愛感情を率直に表現した斬新な作風は当時賛否両論を巻き起こしました。この歌は直訳すると、「この私の柔らかい肌の熱い血のたぎりに触れてもみないで寂しくはないのですか?人の道を説いているあなた。」となります。意訳すると、「目の前にいる男性が作者に向けて熱く人の道を語っている。しかし、私が欲しているものはそんなものではない。この私の内にどんな想いが秘められているのかあなたは知らないのですか?」と訴える、胸にたぎる想いを表現した歌だと解釈できます。明治の歌とは思えない現代的な表現ですね。

与謝野寛(号・鉄幹)・晶子旧居跡

現在、公園となっているこの場所は明治・大正・昭和にわたり近代詩歌に輝くような功績を残した与謝野寛・晶子夫妻が永住の居として自ら設計し、その晩年を過ごした家の跡です。関東大震災の体験から、夫妻は郊外に移ることにし、当時井荻といわれたここに土地を得て、昭和二年、麹町区富士見町より引越してきました。甲州や足柄連山を眺める遙青書屋と采花荘と名づけられた二棟のこの家に、夫妻は友人から贈られた庭木のほか、さまざまな花や雑木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でました。当時の荻窪を夫妻は次のように描いています。

私は独りで家から二町はなれた田圃の畔路に立ちながら、木犀と稲と水との香が交り合った空気を全身に感じて、武蔵野の風景画に無くてはならぬ黒い杉の森を後にしてゐた。私の心を銀箔の冷たさを持つ霧が通り過ぎた。

「街頭に送る」 昭和六年 晶子



大いなる爐の間のごとく武蔵野の
     冬あたたかに暮るる一日
              寛

井荻村一人歩みて蓬生に
     断たるる路の夕月夜かな
              晶子

また、この家で夫妻は歌会を催したり「日本古典全集」の編纂や歌誌「冬柏」の編集をおこない、各地へ旅行して歌を詠み講演をしました。昭和十年三月二十六日、旅先の風邪から肺炎をおこして入院していた寛は、晶子を始め子供達や多くの弟子達に看取られながら六十二年の生涯を閉じました。寛亡きあと、晶子は十一人の子女の成長を見守りながらも各地を旅し、また念願の「新々訳 源氏物語」の完成(昭和十四年)に心血を注ぎました。昭和十七年五月二十九日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地に六十四年の生涯を終えました。




見所ポイント11の「荻窪南口仲通り商店会」は、再開発により高層ビルや商業施設も多く建ち並ぶJR中央線と東京メトロ丸ノ内線「荻窪」駅周辺の中で、かつての荻窪を彷彿とさせるような存在になっています。駅南口のエスカレーターを出て、善福寺川方面へ下っていく道の入口に、七色の光を放つアーチが架かってます。荻窪高校と住宅街が近いため、四季の花が飾られた通りは常に人が行き交い、賑やかです。若い人向けの飲食店と昔ながらのお店が通りに沿って新旧入り混じり、新しくも懐かしい、ほっとするような雰囲気を作り出しています。



荻窪の南半分を巡って荻窪駅南口に戻ってきました。荻窪には文化人や著名人が多く住み、特に中央線の南側エリアは都内でも屈指の高級住宅地になっています。それにしても、大田黒元雄氏とか角川源義氏とか近衞文麿元首相とかの邸宅は破格の広さですね。遺族の寄附もあったのでしょうけど、跡地を細分化してミニ住宅にせず、そのまま公園にした杉並区の取り組みは素晴らしいものがあります。荻窪ラーメンにばかり目が行きますが、整備された都市基盤にも目を向けてもらいたいものです。






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