19.杉並区 荻窪南編 東コース 阿佐ケ谷駅〜浜田山駅  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「19.杉並区 荻窪南編 東コース 阿佐ケ谷駅〜浜田山駅」を歩きます。阿佐ケ谷駅南口をスタート地点として、中杉通り、善福寺川緑地、浜田山の整然とした街区の住宅地を巡ります。  

「19.杉並区 荻窪南編 東コース 阿佐ケ谷駅〜浜田山駅」の歩行距離は5.8km、歩行時間は2時間です。

スタート地点:阿佐ケ谷駅南口
↓ 
 1.阿佐谷パールセンター
阿佐ケ谷駅から青梅街道まで700m続く賑やかなアーケード商店街です。8月に催される七夕まつりは有名です。
 2.天桂寺
杉並の由来となった杉並木を青梅街道沿いに植えたといわれている岡部氏一族の墓があります。
 3.海雲寺
本堂は明治二十年建立です。山門は江戸城内の紅葉山から移築した由緒ある建物です。
 4.須賀神社
旧成宗村の鎮守です。隣接して近世に水信仰の中心となっていた成宗弁財天社があります。
 5.善福寺川
 6.尾崎熊野神社
旧成宗村尾崎の鎮守です。境内から縄文前期の遺跡が発掘され、また黒松の巨木があります。
 7.宝昌寺
本堂は大正十年の再建です。多くの石造物があり、6基が区指定文化財となっています。
 8.神明通り
大宮前新田開発のときに作られた直線道路です。現在は緑の多い住宅街になっています。
 9.浜田山メインロード
京王井の頭線浜田山駅から井ノ頭通りまで300m続く、道幅も広く歩きやすい商店街です。
10.ライブタウン浜田山

ゴール地点:井の頭線浜田山駅北口


スタート地点の阿佐ケ谷駅南口から歩き始めます。阿佐ケ谷駅の所在地の地名は阿佐谷ですが、駅名は「阿佐ケ谷」と「ケ」が入ります。ちなみに、「あさがや」という表記には三種類があります。小さい「ヶ」をつける阿佐ヶ谷、「ヶ」がつかない阿佐谷、それに大きい「ケ」をつける阿佐ケ谷です。
阿佐ヶ谷
銀行の支店名で使われています。
阿佐谷
役所関係で使われる書き方です
阿佐ケ谷
駅名で使われる表記です。
阿佐ケ谷駅の南口には長大な商店街の阿佐谷パールセンターがあり、8月の第1週目に阿佐谷七夕まつりが開催されます。多くの飾りや人形がアーケードを彩る他、駅構内にも七夕飾りが設置されます。一方、阿佐ケ谷駅の北口にはスターロードや北口アーケード街などがあります。どちらかというと、南口は健全な商店街、北口はディープな飲み屋街といった感じです。



阿佐ケ谷駅の南口広場には高さ20m前後の5本の巨木が聳えています。杉並区の名前に「杉」が付いていることから、昭和四十八年に杉並区は「区の木」として、スギ・アケボノスギ・サザンカを選定しました。当時は高度経済成長に伴う公害問題は一段落していましたが、区内の都市化は留まるところを知らず、このままでは区内の緑がなくなってしまうであろうという危機感がありました。そんな中で緑の保護と育成を目的にして緑の条例が定められたのです。そんなこともあって南口広場に杉の木を植えようとしたのですが、杉は水分豊かな土壌と清浄な空気を好む樹木であったため、都市化の進む杉並区の環境では生育が難しく、代わりにヒノキ科のアケボノスギ(メタセコイア)が選ばれました。アケボノスギは杉並区の土壌である関東ローム層との相性がよく、また大木になることから学校や広場に植えられることが多かったのです。当初7本の苗木が植えられましたが、そのうちの2本はヒマラヤスギでした。ヒマラヤスギは名前は「スギ」ですがマツ科の植物で、植え方が杉の木と異なります。このこともあって、平成二十四年(2012年)の台風4号の強風で1本は倒木、もう一本は傾いて危険になったために伐採されてしまいました。それで、今広場に残っているのは5本のアケボノスギだけという訳です(*)。



注記(*):木の本数が4本か5本かはっきりしなかったので、再度現地で確かめました。
ネットの情報によりますと、台風4号の強風で2本が被害を受けて撤去されたのは確かなようですが、2本ともヒマラヤスギだったかどうかははっきりしません。現在残っているのは5本のアケボノスギなので、逆算して7本の苗木が植えられたとしました。



見所ポイント1の「阿佐谷パールセンター」は、阿佐ケ谷駅南口から青梅街道にかけて南北に約700メートルに亘り展開する商店街で、店舗数は約240店あります。昭和七年に、杉並町・和田堀町・井荻町・高井戸町の4町が東京市へ編入し、東京市杉並区が発足しました。阿佐ヶ谷駅周辺は新興住宅地として発展し、パールセンターの原型となる商店街には約120店舗が揃う東京有数の商店街となりました。しかし太平洋戦争の影響を受け、店舗の閉店が相次ぎ、強制疎開によって更地になってしまいました。戦後になって商店の営業が再開され、現在のパールセンターの前身に当たる「阿佐ヶ谷南本通商店会」が発足しました。昭和二十九年には第一回阿佐谷七夕まつりが開催され、以降毎年8月に5日間に亘って50万人の来客者数を誇る都内有数の夏祭りとなり、仙台・平塚の七夕祭りと並んで「日本三大七夕まつり」といわれています(令和二年以降はコロナ渦で中止になっています)。昭和三十五年に「阿佐ヶ谷南本通商店会」の愛称を公募し「各店舗が真珠(パール)のように輝き、首飾りのように商店同士が協力し、結び合い、繁栄する」願いを込め「阿佐ヶ谷パールセンター商店街」と命名されました。



戦後の昭和二十九年(1954年)、更地となっていた商店街跡地が地元有志によって再建され、商店街と並行して南北に延びる道路も整備されました。その道路が現在の「中杉通り」になっています。中杉通りには119本のケヤキが植樹され、「けやき並木の中杉通り」が誕生しました。現在は約270本のケヤキが植樹されています。



パールセンター商店街の中程に中杉通りに抜ける路地があり、入口に2体の石仏が置かれています。両方共建立されたのは江戸時代の元禄四年ですが、この場所に鎮座されたのは平成になってからのようで、施主になられた商店街の古参店主が設置に尽力されたようです。

青面金剛像
供養庚申講二世安楽修
元禄四年(1691年)
「庚申を供養したてまつる。二世にわたって安楽であることを願う」という意

地藏菩薩像
奉造立念佛講石燈一基二世安楽所
元禄四年 阿佐ケ谷村
吉祥祈願
「念佛講のものたちで、二世にわたって安楽のため石燈一基を造りたてまつる」という意

参百弐年前に村の人々の発願で建てられたお地蔵様とお庚申様です。時代の流れをずっと見てこられました。このパールセンターは、昔、権現みちと呼ばれ、北は子の権現様へ、南は堀之内妙法寺へと大勢の人がお参りする道筋であり、大宮八幡宮大鳥居前で鎌倉街道に接続する鎌倉古道であると云われています。現在も多くの方々がお参りされています。末長く大切に守り伝えられますよう心より願い上げます。
合掌




見所ポイント2の「天桂寺」は、慶長年間に小田原北条氏の家臣だった岡部忠吉が先祖である岡部忠澄を偲び庵を結んだのがその創建であると伝わっています。その後、岡部忠吉の嫡男である岡部吉正(徳川幕府旗本)が中野成願寺より僧侶を招き、寛永十年に伽藍を整えるなどして本格的な寺院として整備しました。その縁もあり、天桂寺は岡部家の菩提寺となりました。安政三年(1856年)に暴風被害に見舞われ、建物は全壊し、所有する記録什宝類も破損腐朽するという憂き目に遭いましたが、明治時代になって再建が進められ、大正十二年(1923年)に本堂が再建されました。墓地には、大相撲の若貴兄弟の父親である第205代大関貴ノ花のお墓があります。

天桂寺

月光山天桂寺は曹洞宗の寺院で、聖観音像を本尊とし、正徳三年(1713年)銘の地蔵菩薩像も安置されています。開創は、寛永十年(1633年)頃、北条氏の重臣松田尾張守康秀の家臣で、北条氏滅亡後に徳川氏の旗本になった岡部吉正が田端村の領主となった際に、中野成願寺六世鉄叟雄(族に鳥:さく)和尚を開山としたのが始まりです。伽藍を整え、当寺の基を開きました。その際に氏祖岡部六弥太忠澄、および父忠吉を勧請開基としました。杉並の地名は、この岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並木に由来するといわれ、墓地には岡部家歴代の墓があり、区の指定文化財とされています。また、浮世絵師嶺斎泉里が描いた「岡部六弥太忠澄武者絵」は当寺の寺宝となっています。境内にある寛文四年(1664年)銘の聖観音石像は俗に「庚申観音」と呼ばれ、区の登録文化財となっています。当寺は安政三年(1856年)大暴風にあって、建物はすべて倒壊し、記録什宝類も破損腐朽してしまいました。現本堂は約六十年後の大正十二年(1923年)に建立したものです。




墓地には、岡部氏一族の墓もあります。墓石が密集していますが、一族郎党全てのお墓が集まっているような感じです。ところで、「附位牌」って何ですかね?

岡部氏一族の墓    附位牌

この墓には寛永二年(1625年)から元禄十一年(1698年)にかけて、成宗・田端両村を知行した旗本岡部氏一族が葬られています。岡部氏は武蔵七党の一つ猪俣党の支族といわれ、吉正の時に成宗村を知行しました。この近世のみでも七代三八基におよぶ一族の墓は、杉並の一地域を知行した旗本歴代の墓としては観泉寺の今川氏のものと並ぶもので、采地朱印状(区指定文化財)とあいまって、区の歴史を理解するのに欠くことのできないものです。




見所ポイント3の「海雲寺」は、慶長十六年(1611年)に天徳寛隆によって開山されました。肥後細川家の一族「谿谷院殿月山窓雲大童子」の供養のために江戸八丁堀(現在の中央区八丁堀)に創建され、寛永十二年(1635年)に浅草八軒寺町(現在の台東区寿)に移転し、更に明治四十三年(1910年)に現在地に移転しました。墓地には、高柳藩初代藩主の丹羽氏音のお墓があります。高柳藩は江戸時代中期に越後国にあった藩で、首城藩とも言われます。丹羽氏音は美濃岩村藩第五代藩主となり、側用人に非門閥の山村瀬兵衛を抜擢して財政改革に当たらせましたが、山村への反対派がその排除を画策し、幕府に山村の専横を訴える騒動を起こしました。裁定の結果、山村は無罪となりましたが、氏音はその内乱を収められなかったとして越後国高柳藩1万石への移封を命じられました。宝永二年(1705年)に丹羽氏音が葬られて以降、海雲寺は丹羽家(一色丹羽氏)の菩提寺となりました。

海雲寺

当寺は、江月山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。慶長十六年(1611年)八月、江戸八丁堀(現中央区八丁堀)の地を拝領して開創されましたが、その後、寛永十二年(1635年)に御用地となったので同年五月、浅草八軒寺町(現台東区寿町)の地に移転し、明治四十三年(1910年)、区画整理のため現在地に移転しました。開山は、上野国(現群馬県)甘楽郡菅原村陽雲寺の天徳寛隆で、開基は渓谷院殿月山窓雲大童子(細川越中守子息)です。現在は慧越派または海雲寺派と称される曹洞宗の一派をなしています。本堂は明治二十年(1887年)に建立され、山門は江戸城内の紅葉山から移転したといわれる由緒ある建造物です。本堂の左手の御堂には木食上人像が安置され、境内の観音像には寛政十年(1798年)の銘と「武州多摩郡田はた村内せき口大場源左衛門」の造立者名がみられます。




見所ポイント4の「須賀神社」は、承平天慶の乱の後、天慶四年(941年)に安房守平公雅によって創建され、慶長四年(1599年)に再建されたと伝えられています。近世初期に社殿を造営したともいわれていますが、安政年間に記録を焼失したために確証はありません。しかしながら、近世初期にはすでに建立されていたものと考えられ、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていました。社名は出雲の須賀神社(須我神社)にちなんでいて、別当寺は宝昌寺でした。昭和三十三年(1958年)に社殿を新築し、同時に旧拝殿を神楽殿に改築しています。牛頭天王(ごずてんのう)は武答天王の一人息子で、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあったといわれています。「垂迹」とは、仏や菩薩がその衆生を済度(さいど)する目的で、神や人間などの姿となって仮に現われることです。素戔鳴命が牛頭天王の垂迹とされたことから、素戔鳴命を祭神と祀る須賀神社が牛頭天王社と呼ばれたんですね。理解するのに随分と時間がかかりました。

須賀神社

この神社は旧成宗村本村の鎮守で、祭神は素戔鳴命です。社名は祭神が同じ素戔鳴命である出雲の須賀社にちなんだものです。当社の由緒については、寛永期(1624年〜1643年)に社殿を造営したとも、あるいは天慶四年(941年)に創建され、慶長四年(1599年)に再建されたとも伝えられていますが、安政年間(1854年〜1859年)に記録を焼失したため明らかではありません。江戸時代の当社は牛頭天王社と呼ばれていました。これは仏教では素戔鳴命が牛頭天王の垂迹(すいじゃく)であるという神仏混淆の考えによるものです。「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の当社について「字本村に鎮座し、社は二間半に・・・社から二〇間ばかり離れて鳥居を立つ、例祭は不定、農間に神酒を供す」と記しています。明治維新後、当社は成宗村の村社として人々の信仰を集め、昭和三十三年(1958年)には社殿を新築、同時に旧拝殿を神楽殿に改築するなど、現在の景観を整えました。また境内末社としては御嶽神社と稲荷神社があります。




境内の一画に「水琴窟 成宗の滴」と書かれた案内板が立っています。水琴窟は水滴の音を楽しむ装置ですが、竹の筒だけというのは初めて見ました。

遠い出雲の地から飛んできた雲から雨滴が一滴、二滴、水琴窟に落ちていると想像しながら、竹筒に耳を当て滴の奏でる音色に聞き入るうちに、清々しい(須賀々々しい)気分になることが出来ましたら、これ以上の喜びはございません。



水琴窟(すいきんくつ)は日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもっています。水琴窟という名称の由来は不明ですが、洞水門とか伏鉢水門、または伏瓶水門ともいわれます。



境内社として、御嶽神社と稲荷神社があります。



成宗弁財天社の創建年代は不明ですが、成宗村の開村と同時期に水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池:現在は神社裏手の住友銀行社宅内にある)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられています。

成宗弁財天社

当社は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが、詳細は不明です。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある、素焼きの曼陀羅像です。近世の当社は、近在の村々の水信仰の中心地で、日照りが続くと人々は雨乞いのため、弁天社にお詣りし、弁天池の水を持ち帰る習慣であったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士登山・榛名詣り・大山詣り等の際には、弁天池で水ごりをして、道中の安全を願ったということです。この弁天池は天保十一年(1840年)、馬橋村等が開さくした新堀用水の中継池として利用されましたが、その際池を掘り上げた土で、富士講のための築山をつくりました。成宗富士と呼ばれた富士塚がそれです。この富士塚は、大正七年頃にとりこわされましたが、境内の大日如来像・惣同行の碑・浅間神社・手水鉢などは、かつての成宗富士のおもかげを伝えています。また、鳥居前に残る石橋・水路跡は天保用水の名残りで、板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。当社は、弁天講中の人々により手厚く守られて来ましたが、現在は隣接する須賀神社役員により引きつがれ、維持管理されています。




この路地は川の跡のような曲がり具合をしています。案内板にあった天保用水の水路跡なのでしょうか?



見所ポイント5の「善福寺川」は、練馬区と武蔵野市の境界にほど近い杉並区の善福寺公園内にある善福寺池が源流となっていて、下池東端の美濃山橋が上流端とされています。この基準では善福寺川の全長は10.5kmとなりますが、杉並区が設置している案内板では、更に0.8km上流にあり、善福寺池の水源とされる遅の井の滝を善福寺川の起点にしており、全長は11.3kmと表示されています。杉並区を北西から南東に貫くように流れ、ここ善福寺川緑地を経て、中野区の地下鉄丸ノ内線中野富士見町駅(中野検車区)付近で神田川に合流しています。善福寺川緑地は緑溢れる広大な公園で、人家の密集した住宅地を縫うように流れてきた善福寺川が最も美しく眺められる場所です。



見所ポイント6の「尾崎熊野神社」は、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が紀州の熊野権現をこの地へ勧請して創建したといわれています。境内にそびえる樹齢約400年とされるクロマツの大木は尾崎熊野神社の御神木となっていて、杉並区の指定天然記念物にも指定されています。

尾崎熊野神社

この神社は、五十猛命・大屋津比売命・抓津比売命の三柱を祭神とし、旧成宗村字尾崎の鎮守でした。当社の創建年代は詳らかでありませんが、大宮八幡宮・同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝えられています。「新編武蔵風土記稿」の成宗村熊野社の条には「除地五畝小名尾崎ニアリ、社ハ二間二二間半、神体白幣・・・村内宝昌寺ノ持ナリ」とあり、江戸時代には、宝昌寺が別当を務めていました。明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり、明治四十一年、付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀し、現在は境内末社として祀っています。地名の「尾崎」は、尾崎=小さな崎の意で、崎とは舌状にのびた台地突端部をあらわし、このあたりの地形に由来したものと考えられています。昭和四十三年秋、境内から縄文時代早期(井草式)の土器片、縄文時代前期(諸磯式)・土師器時代(鬼高式)の住居址が発掘され、古くからこの地には、人間が住んでいたことがうかがわれます。なお、境内にそびえるクロマツの大木は、当社の御神木で、樹齢約四〇〇年と言われ、区内でも有数の樹木の一つです。例祭日は、九月上旬です。




社殿に向かって左側に、樹高30mを誇るご神木のクロマツが立っています。正面から眺めると真っ直ぐに立っているように見えますが、横から眺めると随分と斜めに傾いています。これだけ高くて斜めなのに支柱がないのは不思議です。

尾崎熊野神社のクロマツ 一本

このクロマツは、幹周囲(目通り)3.27m、根本幹周園5.5m、樹高32m、樹齢は400年以上と推定されます。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大型で葉は大きく、樹幹も太く、樹皮が黒褐色をおびています。近年、クロマツは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきています。このクロマツは、御神木として古くから氏子によって手厚い保護を受けており、樹冠面積は十分な広がりを持ち、樹勢も優れ、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。




クロマツの根元に神社の沿革を記した石碑が建っています。内容的には案内板と似かよっています。

尾崎熊野神社沿革

当社ハ、五十猛命・大屋津比売命・抓津比売命ノ三柱ノ神ヲ祀リ、古クカラ尾崎ノ地ノ鎮守トシテ崇敬サレテイル。尾崎ノ地名ハ善福寺川岸ノ突出シタ舌状台地ノ地形ニ由来スル。昭和四十三年秋、境内カラ縄文時代早期ノ井草・・・土師器須恵器ニイタル各時代ノ土器類ト縄文時代前期ナラビニ土師器時代ノ住居址トガ発掘サレルニオヨビ、コノ地ニハ数千年来人煙ノ絶エナカッタコトガ明ラカニナッタ。当社ノ草創ハ、安藤本家文書オヨビ宝昌寺境内カラ出土シタ板碑ニヨレバ、鎌倉時代末期(十四世紀初)ニ鎌倉から移住シテキタ武士ガ、代々崇敬スル紀州ノ熊野権現ヲコノ地ヘ勧請シタノニ基クト伝エラレル。江戸時代ニハ、天和三年、宝暦四年、文化八年ノ棟札ガアッテ住民ノ力デ当社ガ維持サレテキタコトヲ物語ッテイル。維新前ニハ成宗村内ノ須賀神社(牛頭天王社)・白山神社トトモニ白竜山宝昌寺ヲ別当寺トシテイタガ、明治ノ初メ神仏分離ニヨリ大宮八幡宮ノ兼務トナリ、ノチ附近ニ散在シテイタ稲荷社・猿田彦社・御嶽社ヲ境内ニ合祀シテ現在ニイタッテイル。コノ地ハ豊多摩郡杉並村大字成宗字尾崎デ、明治ノ初メニハ三姓(蕪山・石原・安藤)十八家ノ住ム小聚落デアッタガ昭和七年二区制ガ施行サレテ杉並区成宗二丁目トナリ、サラニ昭和四十四年ニハ成田西一・二・三丁目ト改称サレ、人家ノ密集シタ市街地トナッテイル。昭和四十四年十一月一日ニ新社殿ガ落成シタノヲ記念シテ住民有志ガ熊野会ヲ結成シ、マタ地元ノ杉並古代文化研究会ヘ依嘱シテ尾崎熊野神社誌ヲ刊行シタ。ココニ碑ヲ建立シテ当社ノ沿革ヲ記録スルモノデアル。




見所ポイント7の「宝昌寺」の創建年代は不明ですが、当初は真言宗の寺院だったと推測され、その頃の旧本尊の大日如来像や板碑が残っていて、杉並区の有形文化財に指定されています。文禄三年(1594年)頃に葉山宗朔によって中興され、その時に曹洞宗に転宗しましたが、度々暴風や火災などの災害に遭って古記録を失ってしまったこともあり、創建時の様子はよく分かっていません。

宝昌寺

白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像です。当寺は、文禄三年(1594年)頃、中野成願寺五世葉山宗朔によって開創されました。曹洞宗となる以前は、真言宗の寺であったと伝わり、室町期作の旧本尊である木造大日如来坐像(杉並区指定文化財)が現存しています。江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころであり、また村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもありました。安政三年(1856年)に火災に遭い、伝来の古記録類は消失しましたが、境内には多数の板碑のほか、区内で最古といわれる地蔵尊や庚申塔など多くの文化財を所蔵しています。現在の本堂は大正八年(1919年)の火災の後、大正十年(1921年)に再建されています。境内に奉安する豊川稲荷殿は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊饒を祈願して、愛知県の豊川稲荷(豊川閣妙厳寺)から分霊したものです。その利益は著しく、大正時代頃から近在諸村に豊川稲荷信仰が広まったといわれています。




有形文化財の大日如来坐像と民間信仰石造物の案内柱が立っています。

杉並区指定有形文化財 木造 大日如来坐像 一(躯:く)

本像は頭に五智宝冠を頂き、智挙印を結ぶ、金剛界大日如来をあらわした像高18cm、寄木造りの菩薩形像です。製作は室町時代と考えられ、豊満な肉付け、膝前をひろくした体躯の表現に、平安前期のわが国密教像の古様を再現したあとがうかがえます。小像ながら技法は精巧で、格調ある作柄を示しています。禅寺宝昌寺は戦国時代末頃までは真言宗の寺院であったと伝えられており、現在位牌堂に安置されているこの像は美術的のみならずそうした寺の古い来歴を物語る貴重な遺品です。

杉並区指定有形民俗文化財 宝昌寺民間信仰石造物 六基

当寺の境内にある六基の石造物は、寛文三年(1663年)から正徳三年(1713年)にかけて造立され、境内あるいは近隣の辻や塚にあったものです。四基の庚申供養塔は尊像が地蔵であったり、四臂や坐像の青面金剛であったものから、典型的な六臂立像の正面金剛へと変って行く経過を示しており、又六基の各々には、村の旧家や、中世の地名を残す表記、あるいは願主が女性である事を示す「内方」という銘が刻まれ、当時の当地域に於ける信仰・習俗・社会構造を知る上で貴重な資料です。




杉並第二小学校脇に、「三年坂」という道路が通っています。昔は鬱蒼とした森の中にあった急坂だったらしいですが、今では子供達が通う開けたなだらかな坂になっています。

三年坂

この右手の坂道は「三年坂」と言われていますが名称の由来は、はっきりしていません。三年坂と呼ばれている坂は、京都や熊本地方などにも数多くあり、坂名の由来について様々に言われているようです。東京では、江戸時代より三年坂と呼ばれていた坂は、旧東京市内に六か所ほどあるようです。いずれも、地域の境界にあり、昔は急坂で、寺院や墓地がそばにあったり、または、寺院から見えるところにある坂ばかりです。この坂で転んだものは、三年きり生きられないとか、三年たつと死ぬとか言われた伝承がありました。当地のこの坂も、ほぼ同様のいい伝えが残されており、かつては、尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村の村境に位置していたと思われます。明治時代のころの地図でみますと、崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で、宝昌寺のうっそうとした森と杉二小の崖に挟まれた昼でも暗い、気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。そこで、人々は坂の往き来に用心が必要だということから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。通称地名には、昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。この坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。




善福寺川緑地は、善福寺川に沿う形で広がっている都立公園です。昭和三十九年(1964年)8月1日に開園しました。杉並区の成田地区一帯は古くから水はけが悪く、蛇行しながら流れる善福寺川周辺には自然溜池ができるなど水害の多い地域でした。下流に隣接する和田堀公園は溜池を中心として造成されたのに対し、善福寺川緑地は植物を中心に造成された公園となっています。荻窪一丁目の神通橋から五日市街道の尾崎橋までの約1.5キロメートルの間には約400本の桜並木が続き、都内有数の花見の名所として知られています。近隣住民の憩いの場としてだけでなく、遠方から植物や野鳥を鑑賞するために来訪する人も多くなっています。



「尾崎」とは突き出た台地の先を意味する古い地形用語です。善福寺川の左岸台地がその特徴を持っていることに因んで「尾崎橋」という橋名が付与されました。橋の上を通っているのは五日市街道です。

尾崎橋

上流に向って左側の台地が尾崎と呼ばれています。「おさき」とは、突き出した台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居址からみて、この台地には約八千年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾のあたりを尾崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和三年(1803年)の文には次の様に記されています。「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく。」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畔をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」




五日市街道は、徳川家康の江戸入府後に五日市(現在のあきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道です。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展しましたが、修築が終わって木炭輸送が主流になるにつれて伊奈と五日市の重要性が逆転し、五日市街道と呼ばれるようになりました。武蔵野台地の新田開発が進むにつれ、五日市街道は多摩地域と江戸を結ぶ街道のひとつとして発展しました。

五日市街道

この前の道は、五日市街道です。五日市街道は、地下鉄新高円寺駅近くで青梅街道から分かれ、松庵一丁目を通り武蔵野市・小金井市を経てあきる野市に達する街道です。江戸時代初期は伊奈道とよばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などいろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。この街道に沿っていた区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができます。「新編武蔵風土記稿」によると、当時の道幅は、馬橋村と成宗村は三間(約4,4メートル)程で狭く、大宮前新田・中高井戸村・松庵村は八間(14.4メートル)とあります。これは三ヵ村が、新田開発により開村された寛文(1661年〜1672年)初年の頃、道幅を拡げたものと考えられます。明治以後さらに整備舗装され、現在は全長約52キロメートル(杉並区内約8キロメートル)が都道(主要地方道杉並五日市線)に指定されています。武蔵野台地を西から東へ相添って走る五日市街道と玉川上水は、多くの新田開発を促し、多摩地域の発展に大きな力を与えてきました。沿道にそびえる欅並木は、この長い歴史の足跡を静かに眺めていることでしょう。




尾崎橋近くの大木に囲まれた一画に3体の石塔が建っています。昔は五日市街道に面して、道行く人々の安全を見守っていたのでしょう。

民間信仰石塔

ここに建立されている石塔は、向って右から元禄十一年(1698年)十一月二十日銘の地蔵塔、宝暦十年(1760年)十月吉日銘の馬頭観音塔、宝暦三年(1753年)十月吉日銘の地蔵塔です。これらの石塔には、何れも「念仏講中」「念仏講中拾六人」等と記され、ここ武州多摩郡成宗村白幡の人々が、現世での幸福と来世での往生安楽を願い、講を組織し、建立したものであることがわかります。地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村の安全を守護する菩薩とされ、村の境や路傍又は辻に多く建立されました。馬頭観音は、頭に頂く宝馬が四方の四魔を馳駆することを表わしていますが、そのために馬の守護神と考えられ、路傍や馬捨場などにも建立されました。石塔の南側の道路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の道路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。これら石塔を建立した白幡念仏講中も、昭和十五年頃までは、毎月この場に集い、念仏供養を行っていましたが、現在では毎年十月十五日に供養会を盛大に行っています。




見所ポイント8の「神明通り」は、旧名を「新田道」あるいは「北街道」というそうです。神明通りは五日市街道の裏通りであり、元々は大宮八幡宮への道でした。西荻窪駅付近では毎月あさ市が開催され、地元民だけでなく杉並区内外からも多くの人が訪れます。



人見街道は、杉並区大宮の大宮八幡宮と府中市八幡とを結ぶ古くからの街道です。別名、「大宮街道」・「下総街道」・「府中道」・「八幡通り」とも呼ばれます。「下総街道」と呼ばれたのは、人見街道が下総国へ向かっていたからとされています。人見街道の名称は旧人見村を通っていたからといわれており、その人見村という地名は武蔵七党のひとつであった猪俣党の人見氏一族に由来するとされています。一説には浅間山の別名人見山(小高い丘から敵の情勢を見る意味)に由来するともいわれています。



京王井の頭線「浜田山」駅の南側と北側の駅前通りにはそれぞれに商店街があり、北側の駅改札から井の頭通りへ向かう道に沿って約300メートル続く商店街が見所ポイント9の「浜田山メインロード」です。古くから存在する商店街で、レンガを敷き詰めた道沿いには昔ながらの商店と24時間営業のスーパーマーケットやドラッグストア・高級食品スーパーなど、新旧の店舗が50店以上混在し、昔懐かしい雰囲気と今どきの空気が混在しています。



見所ポイント10の「ライブタウン浜田山」は、昭和五十二年(1977年)3月に建てられた16棟からなるタウンハウスです。平屋1階建てとメゾネット構造の2・3階建てで構成されています。



ライブタウン浜田山はレンガ色と白の独創的な外壁をもち、周囲の植栽とのコントラストが印象的な外観です。建設当時よりさらに魅力を増し、風格さえ漂わせています。浜田山駅から徒歩1分の好立地にありながら、緑に囲まれた公共の庭が3ヶ所備えられています。居住者以外は敷地内への立ち入りが禁止されていて、住民は気兼ねなく憩いの空間を楽しむことができます。



ということで、ゴール地点の浜田山駅北口に着きました。駅前には24時間営業の西友やお惣菜で人気の高級食品店の成城石井もあります。浜田山駅は、昭和八年(1933年)8月1日に帝都電鉄の駅として開業しました。帝都電鉄の前身は東京山手急行電鉄で、かつて東京外周に約50kmにわたる環状路線を建設しようとした鉄道事業者ですが、計画は世界恐慌の影響で頓挫し、後に帝都電鉄と改称して現在の井の頭線を建設しました。昭和二十三年(1948年)6月1日、京王帝都電鉄が発足し、浜田山駅は京王井の頭線の駅となりました。浜田山駅は駅の北側にしか入口がなく、杉並区内の地上駅5駅の中で唯一南北自由通路が整備されていません。朝夕のラッシュ時を中心に、駅前の踏切が「開かずの踏切」状態になることから、線路の反対側へ行く歩行者や、駅南側から井の頭線を利用する乗客にとって利便性が課題となっていました。そのため杉並区は、「多心型まちづくりの推進」の項目の中に整備事業を追加し、2022年度の予算に浜田山駅に南北自由通路の設置を盛り込み、駅南側から直接アクセスできる南口を新設するとともに、エレベーターを整備する事業を盛り込みました。完成は2024年度の予定です。



阿佐ヶ谷駅から浜田山駅まで南北に歩きましたが、緑溢れる落ち着いた住宅地が多く、旧跡も楽しめました。今回で荻窪南編は終了となり、次は中央線文化の中心である阿佐ヶ谷・高円寺周辺を誹諧します。




戻る