- 20.杉並区 阿佐谷・高円寺編 阿佐谷一周コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「20.杉並区 阿佐谷・高円寺編 阿佐谷一周コース」を歩きます。阿佐ケ谷駅北口をスタート地点として、駅近くのお寺や神社、それに巨木が生茂る屋敷林を巡ります。
「20.杉並区 阿佐谷・高円寺編 阿佐谷一周コース」の歩行距離は5.2km、歩行時間は1時間45分です。
スタート地点:阿佐ケ谷駅北口
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- 1.世尊院
- 1429年頃創立の不動明王を本尊とする寺で、現在の本堂は1935年に建立。明治・大正時代には杉並村の村役場が置かれていました。
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- 2.阿佐谷神明宮
- 旧阿佐ヶ谷村の鎮守社。秋の例大祭には豊年万作を祝い、江戸時代末期から伝わる「阿佐ヶ谷囃子」が神楽殿で奉納され大変賑わいます。
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- 3.けやき屋敷
- 旧阿佐ヶ谷村の名主宅の屋敷林で、現在でも樹齢400年・高さ40mと言われるケヤキの大木が十数本立っていて、昼でも暗い木陰をつくっています。
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- 4.Aさんの庭
- Aさんとは庭園を訪れる皆さんのことです。「トトロの家」として親しまれていた建物は火災で失われましたが、焼け焦げたクヌギは元気です。
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- 5.阿佐谷庚申堂
- 1700年頃の銘のある阿弥陀如来像・地蔵菩薩像・庚申塔が祀られています。石仏・石塔はまだ区内の路傍にありますので探してみましょう。
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- 6.蓮華寺
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- 7.松山通り
- 旧鎌倉街道で、法仙庵より南は商和会商店街、北は松山通り商店街。年3〜4回開催される「ゆうやけ市」はフリーマーケットで賑わいます。
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- 8.水路跡遊歩道
- 阿佐谷・高円寺に多くあった水路は全て暗渠の遊歩道となっていますが、 車止めに描かれた金太郎の目印も今は少なくなってしまいました。
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- 9.はなのオアシス
- 嗅覚をテーマにした4つのオブジェが置いてある休憩所。建物の扉の装飾には縦5本の線で構成される「源氏香」の図が使われています。
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- 10.つり掘(寿々木園)
- 1924年の創業で鯉池と金魚池があり、多くの釣り人に親しまれています。水路跡に隣接した池は、かつては阿佐ヶ谷田圃の一部でした。
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ゴール地点:阿佐ケ谷駅南口
スタート地点の阿佐ケ谷駅北口から歩き始めます。阿佐ケ谷駅の所在地の地名は阿佐谷ですが、駅名は「阿佐ケ谷」と「ケ」が入ります。ちなみに、「あさがや」という表記には三種類があります。小さい「ヶ」をつける阿佐ヶ谷、「ヶ」がつかない阿佐谷、それに大きい「ケ」をつける阿佐ケ谷です。
- 阿佐ヶ谷
- 銀行の支店名で使われています。
- 阿佐谷
- 役所関係で使われる書き方です
- 阿佐ケ谷
- 駅名で使われる表記です。
阿佐ケ谷駅の南口には長大な商店街の阿佐谷パールセンターがあり、8月の第1週目に阿佐谷七夕まつりが開催されます。多くの飾りや人形がアーケードを彩る他、駅構内にも七夕飾りが設置されます。一方、阿佐ケ谷駅の北口にはスターロードや北口アーケード街などがあります。どちらかというと、南口は健全な商店街、北口はディープな飲み屋街といった感じです。
見所ポイント1の「世尊院」は中杉通りに面した寺院です。永享元年(1429年)の頃にそれまで阿佐ヶ谷の地にあった宝仙寺の子寺として創建されたといわれています。江戸時代には除地450坪を賜っていました。かつては天沼熊野神社と天祖神社(現・阿佐ヶ谷神明宮)の別当寺で、祇海という名の住職の時代にお伊勢の森(杉並区立杉森中学校からお伊勢の森児童遊園にかけての一帯)にあった天祖神社を寺の隣に移したと伝わっています。「江戸名所図会」には、十二代景行天皇44年に日本武尊が蝦夷を征伐して凱旋の時、ここで休まれたので土地の人が尊の武功を慕って社をつくり、神明宮としたと書かれています。その後、建久年間(1190年〜1198年)にこの土地に住んでいた横井兵部という人が伊勢神宮の参拝に出かけ、勢州(今の三重県)能保野に泊った夜に大神宮のお告げがあり、伊勢の宮川から持ち帰った霊石を社に安置してご神体にしたとも書かれています。祭神が「天照大御神」で伊勢神宮と同じところから、土地の人は旧社地を「元伊勢」と呼んでいました。その後も「お伊勢の森」といって親しまれています。また、近くにあった電信隊の兵士がラッパの練習にきていたりしたので、「ラッパの森」ともいわれました。
世尊院
世尊院は阿谷山正覚寺ともいい、真言宗豊山派の寺で本尊は不動明王です。創立は、現在中野区にある宝仙寺が阿佐谷から移転した頃と伝えられ、武蔵名勝図会には、その時代を永享元年(1429年)頃と記されています。この移転以前の宝仙寺は、現在の阿佐谷南三丁目九番付近に山門をかまえ、当時の寺領は、中央線の阿佐谷駅付近にまで至る大寺であったといわれています。この宝仙寺が移転した後に、宝仙寺の子寺で、地元村民の寺として残されたのが世尊院です。本尊の不動明王立像、観音堂の聖観世音菩薩立像や阿弥陀如来坐像は、室町様式のうかがえるりっぱな仏様であります。なお明治二十二年から大正十一年まで、旧杉並村の村役場がこの寺の本堂におかれていました。現在の本堂は、昭和十年に再建されたものですが、都道133号線建設のため、昭和四十八年現在地に移築し、今日に至っております。
見所ポイント2の「阿佐ヶ谷神明宮」は世尊院の裏手にある広大な敷地の神社です。中杉通りから奥まったところにあるので、地元民でないとその存在に気づきません。
阿佐谷 神明宮
この神社は、旧阿佐ヶ谷村の鎮守で、主祭神は天照大御神です。天保七年(1836年)に刊行された「江戸名所図会」巻四によると、日本武尊が東征の帰途、阿佐谷の地で休息し、のちに尊の武功を慕った村人が旧社地(現阿佐谷北5−35付近、同周辺一帯をお伊勢の森と称した)に一社を建て、神明宮を勧請したのが当宮の始まりといわれます。建久年間(1190年〜1198年)には土豪横井兵部(一説には横川)が伊勢神宮に参拝した折、神の霊示をうけ、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられています。その後、江戸時代中頃に至り、祇(ころもへんに氏)海という僧が神告により社を現在地に移し、世尊院が別当職を勤めたといわれます。当宮は、村をこえた地域からの信仰も篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅籠屋中 仲下茶屋中」の文字が刻まれた文政十一年(1828年)の銅製の三本御幣が奉納されています。秋の例大祭に能楽殿で奉納される「阿佐ヶ谷囃子」(区登録無形民俗文化財)は、江戸時代末期からの伝統があり、区内では早くに伝えられた囃子です。ここから井草囃子をはじめ、鷺宮(中野区)、戸塚(新宿区)などに流布していったといわれます。
境内にはご神木の一対の欅の大樹が聳えています。
御神木 夫婦けやき
もともとは別だった二本の若木が長い年月の間風雪に耐え夫婦のように寄り添いやがてしっかりと一つに結ばれました。良縁成就また夫婦円満のご利益があるといわれています。
見所ポイント3の「けやき屋敷」は「相沢けやき屋敷」とも呼ばれ、阿佐ケ谷駅前の繁華街に隣接し、鬱蒼とした木々に囲まれた相沢家の屋敷地です。西隣に位置する杉並第一小学校よりも広い敷地に欅の大木が林立し、駅近くにあって貴重な緑地になっています。相沢家は旧阿佐ヶ谷村の名主で、戦前の邸内には樹齢400年余りの欅の大木が数十本はあったとのことですが、戦災に遭って本数は大分少なくなってしまいました。相沢家の先祖の相沢喜兵衛は大地主で、阿佐谷の「けやき屋敷」以外にも土地を持っていました。相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり、旧阿佐ヶ谷村に散在していた家墓を集め、村共有の地に貧富に関わらず地割を平等にして共同墓地を造りました。そして、墓地管理のため、相沢家の土地に本堂を建立し、それが旧中杉通りにある現在の「法仙庵」というお寺になっています。墓地には相沢家の墓も収められています。相沢喜兵衛の功績のひとつに阿佐ケ谷駅の開設があります。1920年代の中央線の中野・荻窪間4kmには駅がありませんでした。その中間の馬橋村に「馬橋駅」ができる予定でしたが、相沢喜兵衛が高円寺村の大地主と共同で政友会に働きかけ、高円寺村に「高円寺駅」、阿佐ヶ谷村に「阿佐ケ谷駅」のふたつの駅が設置されることになりました。この結果、馬橋駅は幻の駅となりました。
ところが、この緑溢れる「けやき屋敷」は杉並区の阿佐ケ谷駅周辺再開発計画により取り壊されることになりました。再開発計画は三段階の玉突きになっていて、第一段階(〜2025年)で東隣りにある「河北総合病院」がけやき屋敷の跡地に移築され、続いて第二段階(〜2028年)で西隣の杉並第一小学校が河北総合病院の跡地に移転し、最終的に第三段階(〜2032年)で杉並第一小学校跡地に商業施設が新設されるとのことです。
2022年9月12日時点のけやき屋敷の状況ですが、敷地は完全な更地にはなっておらず、杉並第一小学校に面した西側と屋敷塀が残る南側の私道沿いには未だ欅の大木が残されています。計画では、全ての立木を伐採するのではなく、西側と南側には木を残すようになっているのだそうです。今の景色がそのまま残ればいいのですが。
河北総合病院正門のはす向かいに五差路があり、その手前に玉乃湯があります。昭和二十八年に建てられた建物には、格天井やイルカをモチーフにしたタイルなど随所にレトロ建築の魅力が詰め込まれています。浴室には壁一面に広がる大きな富士山の銭湯絵が描かれています。銭湯といえば、壁画いっぱいに描かれた富士山の勇姿ですね。でも、なぜ銭湯に富士山の絵を描くようになったのでしょうか。銭湯のペンキ絵の発祥は、大正元年に神田猿楽町にあった「キカイ湯」が増築するにあたり、浴室の周囲の板壁を活かして何かできないかと考えた結果、背景画を掲げることになったから、というのが通説になっています。キカイ湯はすでに廃業しましたが、跡地に残された「キカイ湯跡」というプレートには、当時の店主がペンキ絵を描いたこと、その絵が大評判になって他の銭湯でも壁に絵を描くようになったことが書かれています。富士山は日本の象徴であり、縁起物としてたくさんの人に受け入れられていたため、色々な銭湯で描かれるようになったのでしょう。
住宅地の中に、植栽が美しい緑に囲まれた敷地の中に佇む一軒家があります。現在は見所ポイント4の「Aさんの庭」という名前の杉並区の公園になっていますが、それには経緯があります。
かって、ここには地域の人達から「ばらの家」と呼ばれた美しい洋館と庭園がありました。当時の邸宅の写真が添えられた杉並区による案内のプレートが石碑に貼られています。
「ばらの家」から「Aさんの庭」へ
かってこの地には昭和初期の杉並の文化・生活を今に伝える歴史的な住宅とみどり豊かな庭がありました。大正十三年(1924年)、東京市震災復興局で都市計画に携わっていた近藤謙三郎氏の設計により住宅は建てられました。外観は赤い素焼きの屋根瓦の洋風住宅でしたが、内部には和室も残し、当時の住宅の移り変わりを知る上でも貴重なものでした。バラの垣根越しに見える庭一面に美しいバラが植えられていたことから、道行く人からは「ばらの家」と呼ばれていました。近藤氏の姪英氏が受け継いだ後も、アニメ「となりのトトロ」に登場するトトロが喜んで住みそうな家として、宮崎駿監督著「トトロの住む家」で紹介されるなど、地域のみなさんにも親しまれ、住宅取り壊しの危機には、六千三百余の住宅保存の署名が集まりました。区はこの地を買い上げ、公園として整備するために、地域のみなさんとともに公園計画の検討を進めました。しかし、平成二十一年二月、火災により住宅は焼失してしまいました。新たな公園計画を余儀なくされていた時、この地をよく知る宮崎監督から区へ公園デザインの提案の申出がありました。提案は、かっての住宅の雰囲気を風景として継承することを目的に、利用者のための便所と地域のための防災倉庫を兼ねた建物で住宅の雰囲気を再現し、既存のみどりを活かしたものでした。その後、多くの方々のご協力を得ながら、設計・整備を進め、開園へと至ることができました。公園の名称「Aさんの庭」は、宮崎監督の提案を受け、地域のみなさんで決めました。「Aさんの庭」が、みなさんの庭として、そして、次世代に向けた貴重な財産となるように、みなさんとともに、大切に育んでいきたいと思います。
現在の建物はトイレと防災倉庫として使われていますので、当時の洋館よりは遙かに小さくなっています。その分、庭は広々としていますね。
早稲田通りに面して、見所ポイント5の「阿佐谷庚申堂」が祀られています。
民間信仰石塔
ここに建立されている石塔は、元禄十年(1697年)銘の庚申塔及び宝永七年(1710年)・享保七年(1722年)銘の地蔵塔並びに、正徳五年(1715年)銘の阿弥陀塔計四基があります。庚申信仰は「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には本尊を青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍又は辻に多く建立されています。阿弥陀如来は西方極楽世界の本尊とされ、他力往生の誓願をたて、この仏を信じる者は、ただ念仏さえ唱えれば難行苦行を積むまでもなく、仏が大慈の光明を照らし、お迎えくだされるとされています。これらの石塔は、この辺りが武州多摩郡阿佐谷村字東原と称された頃、この地域の講中の人々によって悪病退散、村民安全などを祈願して建立されたものといわれています。現在でも十月二十三日には、旧阿佐谷村の人々が中心になって祭礼が行われています。なお、石塔の前の道は、かつての所沢道、左側の道は天沼から青梅街道に通じる旧道で、この附近は村の中心地でした。私たちもこのような文化財を一層大切に守りつづけたいものです。
杉森中学校の前に、「お伊勢の森」と題した案内板が立っています。世尊院・阿佐ヶ谷神明宮のところでも出てきましたね。
お伊勢の森
区立杉森中学校からお伊勢の森児童遊園にかけての一帯です。阿佐谷北1−25(JR中央線、阿佐ケ谷駅北側)にある阿佐谷天祖神社の旧社地です。「江戸名所図会」には、十二代景行天皇四十四年に日本武尊が蝦夷を征伐して凱旋の時、ここで休まれたので土地の人が、尊の武功を慕って社をつくリ、神明宮としたと書かれています。また、その後、建久年間(1190年〜1198年)この土地に住んでいた横井兵部という人が伊勢神宮に参拝に出かけ、勢州(今の三重県)能保野に泊った夜、大神宮のお告げがあり伊勢の宮川から持ち帰った霊石を、社に安置して御神体にしたとも書かれています。祭神が「天照大御神」で伊勢神宮と同じところから、土地の人は旧社地を「元伊勢」と、呼んでいました。その後も、「お伊勢の森」といって親しまれています。また、近くにあった電信隊の兵士が、ラッパの練習にきていたりしたので、「ラッパの森」ともいわれました。「天祖神社旧地」と彫られた玉石と角柱形記念碑は、現在は、阿佐谷天祖神社に安置されています。記念碑の裏面には、
老松や 青く茂りて 御伊勢山
ときの巣造る 神徳の松
と、刻まれています。今では、貴重な存在となった特別天然記念物の「トキ」がすむほどに、静かな森であったようです。
早稲田通りを越えて、杉並区から中野区大和町に入ると、見所ポイント6の「蓮華寺」があります。蓮華寺は、万治元年(1658年)に本門寺十四世日優上人によって小石川関口台に開基された日蓮宗の寺院です。朱塗りの山門をくぐると、目の前に鬱蒼とした樹林と自然の湧水池が現れます。徳川三代将軍家光の側室の阿楽の方が出産に悩み、諸寺に祈願しましたが効き目はありませんでした。そんな折、阿楽の方の母の泉光院増山氏が日優上人の大徳なるを聞き、日優上人に祈願を願い、それにより阿楽の方は安産することができました。この時生まれた子供が後の四代将軍家綱です。このことがあって以来、阿楽の方や泉光院は日優上人に帰依し、蓮華寺を建立しました。蓮華寺は明治四十一年(1908年)に小石川関口台から現在地に移転しました。
本堂の横に「山荘の碑」が建っています。「山荘」とは、徳川幕府によって厳しく取り締まられたキリスト教徒を拘置した切支丹屋敷のことです。
山荘の碑
「山荘」は山屋敷・切支丹屋敷ともいわれ、キリスト教徒を禁固した初代切支丹奉行井上筑後守政重の別邸(現・文京区茗荷谷)をいいます。徳川幕府はキリスト教の日本侵略をおそれ、外には鎖国政策をとり、内には踏絵・宗門改・寺請制などきびしい取り締りをおこないました。切支丹屋敷は、寛永二十年(1643年)に密入国した布教者(伴天連)のうち、マルケスやキアラほかの棄教者を収容し、宗門改などの情報を集めたことにはじまります。のちに一人で密入国したシドッティを収容、これを訊問した新井白石が「西洋紀聞」を書いたことは有名です。シドッティは、鎖国の理由となった侵略説を否定、近代科学への目をひらかせるなど、白石に大きな影響をあたえました。この碑は、屋敷が大江政晴のものとなったとき、獄死した人びとをいたんで建てられたわが国の文化史上重要な遺跡を語るものです。のちに蓮華寺に移され、同寺とともに当地に移されました。
見所ポイント7の「松山通り」は阿佐ケ谷駅から本天沼方面へ延び、「阿佐谷商和会」・「阿佐谷松山通り商店街(交友会)」・「北松山通り親交会」といった商店街が続いています。通り名は、かって松林があったことに由来し、お寺への参詣道にもなっていて、江戸時代にはすでに縁日などで賑わいを見せていました。今のような賑わいになったのは、関東大震災後に被害に遭った人たちが移住してきたことがきっかけでした。それから約2年後の大正十四年(1925年)に現在の商店街の原型が整ったといわれています。ちなみに、現在の中杉通りが開通する前は、こちらが中杉通りと呼ばれていました。現在の阿佐谷松山通り商店街(交友会)の名物といえば、平成十二年(2000年)から始まり、年4回開催される「ゆうやけ市」です。阿佐谷らしく、ジャズをBGMにした商店街の特売やフリーマーケットが繰り広げられ、いつもに増して活気づいています。写真からはそんなには見えませんが、阿佐谷駅近くの松山通りの両側には多種多様なお店が集まっています。
見所ポイント8の「水路跡遊歩道」は、中杉通りを横断して東西に流れていた桃園川を暗渠化して造られた遊歩道です。阿佐ケ谷駅の東側で桃園川緑道となり、中野区と新宿区の境界に架かる末広橋付近で神田川に合流しています。中杉通りの手前までは川筋の跡は辿れるのですが、中杉通りを越えた先から桃園川緑道に接続するまでの区間をどう流れていたのかを探求するのが暗渠ハンターの腕の見せ所です。
法仙庵は、「けやき屋敷」の当主だった相沢喜兵衛が旧阿佐ヶ谷村共有の土地に造成した共同墓地を管理するために、自らの所有地を提供して開創した庵が起源となっています。
法仙庵
当庵は、釈迦如来坐像を本尊とする寺院です。その初めは文久年間(1861年〜1863年)阿佐ヶ谷村名主・第十代・相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり散在していた家墓を集め、村共有の地に貧富に関わらず地割を平等にして造った共同墓地です。そして、墓地管理のため、相沢家の土地に本堂を建立し慶応年間(1865年〜1868年)江戸浅草・海運寺(現杉並区成田東四丁目十八番九号)末寺・観音庵(現新宿区新宿七丁目三番十三号)より実山見道尼を初代庵主として招いて、開創したのが当庵です。本堂は戦災で焼失したため昭和三十一年(1956年)に再建されたものです。東側の塀に沿った道は、権現道と呼ばれた古道で練馬・円光院子の権現(貫井五丁目七番三号)におまいりに行く参詣道でした。今は賑わっているパールセンターの通りも権現道で、大正の初めごろは、雑木林や畑の中の道でした。また、当庵墓地の北側は茅山で、狐がすんでいたということです。このような昔の姿は失われましたが、わずかに、その狭い道幅や曲がりぐあいが、古道の面影を残しています。当庵の文化財としては、文保二年(1318年)・元徳三年(1331年)・宝徳元年(1449年)銘及び年代不明の板碑五基があります。この板碑については「新編武蔵風土記稿」阿佐ヶ谷村小名小山の頃にも「此所二古碑五基アリ三基ハ文字摩滅シテ見ヘス二基ハ文保二年元徳三年トシルセリ」とあり、また、「武蔵名勝図会」にも同様の記述があることから、これらの板碑は、この地域を知る上で極めて貴重な資料と言えます。
阿佐ヶ谷出張所のエントランスに、見所ポイント9の「はなのオアシス」があります。杉並区内には善福寺川緑地や神田川沿いの遊歩道、歴史をたどる史跡めぐりなど、さまざまな散歩コースがありますが、そのひとつに「知る区ロード」があります。昭和六十三年(1988年)にルートが設定され、全長約36km、東西輪が重なるようにしてつながる散策路になっていて、杉並区内の主な名所旧跡や大きな公園、区の施設などを巡ることができるようになっています。このルートには、人間の五感をテーマにした休憩所である「ときのオアシス」・「はだしのオアシス」・「みみのオアシス」・「はなのオアシス」が設置されています。「はなのオアシス」の「はな」は「鼻」の意味で、エントランスには嗅覚や鼻に効くツボ押し器具が設置されています(柱の間に見える奇妙な形の器具です)。テーブルの上には、これまた奇妙な形の四角錐の置物と灰皿をひっくり返したような形の置物が置かれています。
はなのオアシス
【香卓】
この台には、中心に香時計、周囲に4つの香炉が置かれています。「知る区ロード」のイベント時などに御香や、香りのする草や木などを焚いて香りを楽しむことができます。(通常時は使用できません)
- 香時計:
- 時香盤あるいは常香盤と呼ばれ、抹香の燃えた長さで時間を計る道具として、江戸時代から明治初期まで使われていたようです。庶民的な時計であり、抹香の代わりに合歓の木の葉を乾燥させ粉末にした自家製のものを使うことが多かったと言われています。
阿佐ケ谷駅の南口に、サトーブリアンという超高級焼肉店があります。都内には超一流の焼肉店はたくさんありますが、極上のお肉をこの値段とこのサービスで提供するお店はなかなかないという評判です。お店がオープンしたのは東日本大震災の3ケ月後の2011年6月で、当時は外食自粛ムードが未だ続いていました。渋谷の焼肉店店長を10年ほど務めていたオーナーの佐藤さんがおっしゃるには、開店当初はお客さんが全くいない日もあったそうで、お店の前を通り過ぎていく人は見えても誰も入ってこなかったのです。暇でしょうがないので余っていた肉でメニュー開発し、そこで生まれたのが今名物となっているヒレスキやブリカツなんだそうです。そして、繁盛する転機になったのは芸能界のグルメ王として有名なアンジャッシュの渡部建さんのラジオ番組でした。そこから鰻登りに人気が出て、あっという間に予約の取れない超人気店になったというわけです。ちなみに、店名の「サトーブリアン」ですが、牛のヒレ肉(テンダーロイン)のうち、中央部の最も厚みがあり肉質のよい希少部位である「シャトーブリアン」に引っかけたような気がしますが、本当のところはどうなんでしょうか?
見所ポイント10の「つり掘(寿々木園:すずきえん)」は、阿佐ケ谷駅南口から徒歩3分に立地する大正十三年創業の老舗の釣り堀です。以前はもっと広く、釣り池の数も多かったようですが、現在は水槽の種類は2種類のみで、10m四方ほどの金魚の池と、その2倍の大きさのフナや鯉が釣れる池があります。人気は金魚の池だそうで、金魚すくいの定番である和金だけでなく、大きな蘭鋳(ランチュウ)や琉金(リュウキン)など、1万円越えの価値のある金魚も泳いでいるみたいです。
ということで、阿佐谷の北側を中心に歩いて阿佐ケ谷駅に戻ってきました。
「阿佐谷一周コース」を歩いたのは2021年8月24日でしたが、このコースの踏破記を書いたのは1年後の2022年9月17日です。歩いた時は「けやき屋敷」の取り壊しが始まってまもなくでしたが、その後の様子が知りたくて現地を再訪しました。敷地は既に更地になってしまっていたのかと思ったのですが、思いのほか緑が残っていました。環境保全にうるさい杉並区民が貴重な屋敷林を守れなかったのは残念ですが、駅から至近の距離にある土地だけに仕方のないことかもしれません。残された欅の大木が移転してきた河北総合病院の入院患者の癒やしになればいいですね。
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