21.阿佐谷・高円寺編 阿佐谷・高円寺一周コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「21.阿佐谷・高円寺編 阿佐谷・高円寺一周コース」を歩きます。阿佐ケ谷駅南口をスタート地点として、阿佐谷パールセンターのアーケード商店街、天保の新掘用水路跡遊歩道、桃園川緑道を経て高円寺の純情商店街を巡り、阿佐ケ谷駅北口に戻ります。  

「21.阿佐谷・高円寺編 阿佐谷・高円寺一周コース」の歩行距離は5.9km、歩行時間は2時間です。

スタート地点:阿佐ケ谷駅南口
↓ 
 1.天保の新掘用水路跡
天保十一年(1840年)に建設された善福寺川西田端橋と桃園川を結ぶ灌漑用水路の跡で、現在は暗渠化され馬橋児童遊園や遊歩道になっています。
 2.馬橋稲荷神社
旧馬橋村の鎮守で鎌倉末期の創建と言われ、都内最大の大鈴、区内一・二の大神輿、龍の刻まれた石造大鳥居(東京三鳥居)などがあります。
 3.桃園川緑道
 4.高円寺
三代将軍徳川家光公が鷹狩の折にしばしば立ち寄り、村名を小沢村から高円寺村に改名させたと言われ、高円寺の地名の由来となった寺です。
 5.高円寺氷川神社
高円寺と同時代に創建された旧高円寺村小名原の鎮守。境内にある末社の一つ、気象神社は気象の神様として全国的にも珍しい神社です。
 6.高円寺純情商店街・庚申通り商店街
高円寺純情商店街は、ねじめ正一氏の同名の直木賞小説に因んだ通称です。庚申塔のある庚甲通り商店街とともに、大変賑やかな商店街です。
 7.銭湯(なみのゆ)の煙突
白く塗られたコンクリート製の煙突は、端午の節句頃にはこいのぼりが泳ぎます。クリスマスにはサンタクロースが登るかも。
 8.馬橋公園
 9.屋敷林

ゴール地点:阿佐ケ谷駅北口


スタート地点の阿佐ケ谷駅南口から歩き始めます。阿佐ケ谷駅の所在地の地名は阿佐谷ですが、駅名は「阿佐ケ谷」と「ケ」が入ります。ちなみに、「あさがや」という表記には三種類があります。小さい「ヶ」をつける阿佐ヶ谷、「ヶ」がつかない阿佐谷、それに大きい「ケ」をつける阿佐ケ谷です。
阿佐ヶ谷
銀行の支店名で使われています。
阿佐谷
役所関係で使われる書き方です
阿佐ケ谷
駅名で使われる表記です。
阿佐ケ谷駅の南口には長大な商店街の阿佐谷パールセンターがあります。一方、阿佐ケ谷駅の北口にはスターロードや北口アーケード街などがあります。どちらかというと、南口は健全な商店街、北口はディープな飲み屋街といった感じです。



「阿佐谷パールセンター」は、阿佐ケ谷駅南口から青梅街道にかけて南北に約700メートルに亘り展開する商店街で、店舗数は約240店あります。昭和七年に、杉並町・和田堀町・井荻町・高井戸町の4町が東京市へ編入し、東京市杉並区が発足しました。阿佐ヶ谷駅周辺は新興住宅地として発展し、パールセンターの原型となる商店街には約120店舗が揃う東京有数の商店街となりました。しかし太平洋戦争の影響を受け、店舗の閉店が相次ぎ、強制疎開によって更地になってしまいました。戦後になって商店の営業が再開され、現在のパールセンターの前身に当たる「阿佐ヶ谷南本通商店会」が発足しました。昭和三十五年に「阿佐ヶ谷南本通商店会」の愛称を公募し「各店舗が真珠(パール)のように輝き、首飾りのように商店同士が協力し、結び合い、繁栄する」という願いを込め「阿佐谷パールセンター商店街」と命名されました。

阿佐谷パールセンター 阿佐ヶ谷の由来

江戸時代、阿佐ヶ谷村は、武州多摩郡阿佐ヶ谷村と呼ばれ、幕府直轄の天領でした。寛永十二年(1635年)、三代将軍家光は、江戸城内紅葉山にあった江戸城の鎮守・山王日枝神社を麹町へ移し、寄進し、繁栄を祈願。以降、阿佐ヶ谷村を含む周辺四ケ村は、幕末まで山王日枝神社領となりました。江戸時代の阿佐ヶ谷村には、本村、小山、原、向の小名がありました。阿佐ヶ谷村の地勢が、桃園川の浅い谷地だったので、浅ケ谷と呼ばれ、古くは麻ケ谷、阿左ケ谷と書き、江戸時代から阿佐ヶ谷と書くようになったといわれます。明治二十二年に町村制が施行され、阿佐ヶ谷村を含む周辺六ケ村が合併し、杉並村となりました。パールセンターは、権現みちと言い、大昔からあった古道・いくさ道でした。この道は南へ進むと、青梅街道を横断し、府中から来た鎌倉街道に接続しています。北へ進むと、練馬貫井町の真言宗・円光院に突き当たります。円光院に祀ってある子聖(ねのひじり)大権現は、古来足腰の痛風にご利益があると言われ、大正時代までは阿佐ヶ谷村の人はもちろん、近在の村々から大勢の人がこの道を通って、円光院へお詣りに行ったので「子の権現への道」と呼ばれ、省略されて「権現みち」になったのでしょう。当時、道幅は二間でしたが、両側に溝があったので正味一間(1.8メートル)ぐらいだったそうです。大正十一年に阿佐ケ谷駅が開通すると同時に、三間通りに拡げ、この三間通りがパールセンターになったのです。翌年関東大震災が起こり、市内から郊外へ移住する人で杉並は新興住宅地へと変貌。中杉通りは、戦前、補助133号線として計画されていましたが、昭和二十年の春、太平洋戦争が激しくなり、空襲必至となったため、計画道路を防火帯にし、昭和二十七年六月に整備され、都道として開通しました。それから三十余年経ち、今では見事なけやき並木に成長して、「緑豊かな福祉文化都市」を目指す杉並区の名所の一つになっています。毎年八月七日を中心にして催される七夕祭りは、昭和二十九年八月に始めて以来、今日では東京の風物詩になり、仙台、平塚と共に日本三大七夕祭りの一つに数えられるようになりました。




阿佐谷七夕まつりには、毎年50万人もの来客者数があるといわれています(令和二年以降はコロナ渦で中止になっています)。多くの飾りや人形がアーケードを彩る他、駅構内にも七夕飾りが設置されます。このアーケード通りも今は閑散としていますが、七夕まつりの期間中には押すな押すなの人出になることでしょう。



戦後の昭和二十九年(1954年)、更地となっていた商店街跡地が地元有志によって再建され、商店街と並行して南北に延びる道路も整備されました。その道路が現在の「中杉通り」になっています。中杉通りには119本のケヤキが植樹され、「けやき並木の中杉通り」が誕生しました。現在は約270本のケヤキが植樹されています。



パールセンター商店街の中程に中杉通りに抜ける路地があり、入口に2体の石仏が置かれています。両方共建立されたのは江戸時代の元禄四年ですが、この場所に鎮座されたのは平成になってからのようで、施主になられた商店街の古参店主が設置に尽力されたようです。

青面金剛像
供養庚申講二世安楽修
元禄四年(1691年)
「庚申を供養したてまつる。二世にわたって安楽であることを願う」という意

地藏菩薩像
奉造立念佛講石燈一基二世安楽所
元禄四年 阿佐ヶ谷村
吉祥祈願
「念佛講のものたちで、二世にわたって安楽のため石燈一基を造りたてまつる」という意

参百弐年前に村の人々の発願で建てられたお地蔵様とお庚申様です。時代の流れをずっと見てこられました。このパールセンターは、昔、権現みちと呼ばれ、北は子の権現様へ、南は堀之内妙法寺へと大勢の人がお参りする道筋であり、大宮八幡宮大鳥居前で鎌倉街道に接続する鎌倉古道であると云われています。現在も多くの方々がお参りされています。末長く大切に守り伝えられますよう心より願い上げます。
合掌




青梅街道に出る手前でパールセンターのアーケード街を出て住宅地の路地に入ります。住宅の裏手が路地に向き合っていることと、路地の入口に杉並名物の「金太郎の車止め」が置かれていることから、この路地はかっての水路の跡にできた遊歩道のようです。これが「東京の河川を歩く」シリーズで探し求めて見つけられなかった見所ポイント1の「天保の新掘用水路跡」なんですね。昔、馬橋村と高円寺村のほぼ中央を西から東へ流れていた桃園川の水源は天沼弁天池と流域の湧き水でした。しかし、天沼・井草・阿佐ヶ谷村の山林が開墾されるにつれて湧水量が少なくなり、下流各村の水田は雨が降らなければ田植えが出来ないといった状況でした。宝永四年(1707年)、山王日枝神社領の天沼村と阿佐ヶ谷村は千川上水からの分水を許されましたが、高円寺・馬橋・中野の三つの村はその恩恵が与えられず、毎年水田の用水に苦労していました。天保四年(1833年)から天保十年(1839年)までの4カ月間に亘って日照りが続いたので、三つの村の名主や田持ち総代が協議して、水量の多い善福寺川から桃園川へ引き水する「新掘用水路建設計画」を立て、天保十一年(1840年)2月に幕府から金270両の助成金を受け、馬橋村の名主・大谷助次郎が工事を請け負い、馬橋村の水盛大工銀藏(川島氏)の設計・監督により工事を開始し、工事金287両余り、人足延べ2145人を使って、同年の10月に田端村の広場堰(現荻窪団地第2駐車場)から田端神社裏側・善福寺川上公園北側・成宗弁天池・区役所東側・長生湯南側・石橋湧水路に至る延長1260間(2270メートル)の用水路が完成しました。ところが、広場堰から善福寺川上公園までの用水路の土手はカワウソの巣になっていて漏水が激しい上、10月末の大雨で水路が崩壊してしまいました。これを補修するには建設する以上のお金がかかること、今後も度々崩壊する恐れがあることから、新しく広場堰から直接成宗弁天池へ流す直線の水路を掘鑿することになり、幕府から150両を拝借して、延長307間(560メートル)、その内の区間220メートルをトンネルで通すという大工事を完成させ、見事に善福寺川の水は桃園川に流れ落ちました。これにより、馬橋・高円寺・中野の三つの村の合計22町7反歩余りの水田は干魃の心配がなくなり、大正時代までその恩恵を受けました。



現在、天保の新掘用水路跡は遊歩道になっていて、馬橋児童遊園として活用されています。遊歩道には車が入り込まないように、しっかりと「金太郎の車止め」が設置されています。杉並区では、昭和四十年代から区内の河川や水路に蓋をする暗渠化が始まり、その上が遊歩道になった所に車の進入を防ぐための車止めが設置されました。このうち、子供が遊んだりよく通ったりする遊歩道には、昔話を知るきっかけにと金太郎のパネル付きのものが採用されたのです。金太郎が初めて登場したのは昭和五十年(1975年)の頃で、当時の杉並区広報には「悪質ドライバー阻止に金太郎さんの車止がお目みえ」という写真が掲載されています。金太郎車止めは今や杉並区の隠れキャラクターとなっていて、テレビや雑誌で紹介されるようにもなっています。この標識は年月の経過と共に腐食が進み、今では塗料も剥げかけています。



当時の車止めは鉄製で雨水などにより経年劣化しやすかったために、平成以降は順次ステンレス製に置き換えられています。この流れを受けて、かつて身近に見られたという金太郎も次第に姿を消し、現在では50個程度が残っているそうです。



杉並第六小学校の手前に「阿佐谷南の一本の木」が聳えています。杉並区の保護指定木第673号になっているこの欅の大木は、低層の建物が多い中で一際目立つ存在感を見せています。金正恩の頭のような刈り上げた感じで、ちょっと枝振りが物足りませんが。



桃園川緑道の南側の住宅地の中に、鮮やかな朱の一の鳥居が印象的な見所ポイント2の「馬橋稲荷神社」が鎮座しています。一の鳥居は、樹齢400年の檜葉の材を使用して、平成八年(1996年)に正参道正面に建立されました。

馬橋稲荷神社

当社は旧馬橋村の鎮守で、「新編武蔵風土記稿」には「除地一畝十二歩小名西ノ久保にあり村の鎮守なり本社二間四方拝殿四間に二間末申の向前鳥居をたつ鎮座の年代は詳ならす」とあり、祭神は宇迦之御魂神と大麻等能豆神です。天保二年(1831年)、拝殿改築に際し氏子五十三人が拠金して、京都白川神祇伯家御役所(神社を司る役所)に上申し、翌年「正一位足穂稲荷大明神」の御神号を拝受したと伝わります。明治四十年(1907年)、村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を相殿として合祀しました。当社の創建年代は不明ですが、由緒書によると、鎌倉時代末期の創建と伝わります。また、「寛永十六年、中川八郎右エ門が幕府の命を受けて検地をなせる際、境内地を除地せらる」とあり、このことから、江戸時代初期から当地に祀られていたことがわかります。昭和十三年(1938年)、茅葺屋根の社殿を、総桧入母屋流造りの現在の社殿に改修しており、昭和四十年(1965年)十月、住居表示の改正に伴い、馬橋の地名を保つため神社名を「馬橋稲荷神社」と改めました。本殿前の朱塗りの随神門は、昭和五十年(1975年)鎮座七百年記念事業として建立されたもので、左右の随神像に磐間戸神を祀り、中央天井に都内最大といわれる開運の大鈴(直径75センチメートル)が吊るされています。当社の神輿は、高さ2.5メートル、台幅1メートル、重さ1.5トンの白木造りの大神輿で、大正十一年(1922年)の平和記念東京博覧会に出品されたものです。正面の石造大鳥居は、高さ8メートルで昇龍・降龍が彫刻されており、東京三鳥居の一つといわれています。境内には、江戸末期から大正初期頃に男性の間で盛んであった力くらべに使用された力石や、絵馬・奉納額などが多数保存されています。




一の鳥居の内側には、石造の二の鳥居が控えています。鳥居の柱には、高さ8mの昇龍・降龍が彫られています。龍の巻いた鳥居は、品川神社と高円寺境内にある稲荷社と馬橋稲荷神社の3つしかないので、東京三鳥居のひとつといわれています。



神社の境内に小さなせせらぎが造られています。これはかって神社の近くを流れていた桃園川を偲んで人工的に設けられたとのことです。

桃園川の流れに思いを馳せて

かつて馬橋稲荷神社の神殿の先には桃園川が流れ、田んぼが広がっていました。馬橋稲荷神社はその河川に迫り出した台地の上に鎮座し、農耕の神として祀られていました。桃園川は馬橋の郷にとって幾代にわたり、大切な命の川でありました。古老の伝えではその流れは清く澄み、綺麗な水にしか生息しないイトヨという魚もいたそうです。しかし関東大震災以降、馬橋は急速に宅地化し、農地が失われ、不要となった河川はコンクリートの擁壁に囲まれ本来の流域を失いました。川は生活排水のため、どぶ川となってしまいました。また度重なる氾濫により、川は蓋をされ今はその流れすら見えません。当社では馬橋の命の川、桃園川に思いを馳せ、参道に小さなせせらぎを作りました。ここに失われた水の流れを感じ、メダカのたわむれる小川を大切にしたいと思います。




昭和五十年(1975年)に完成した随神門は、向かって右に豊磐間戸命、左に奇磐間戸命の像を祀り、中央天井には直径75センチの開運鈴を吊るしています。その大きさは都内最大であるといわれています。



阿佐谷南地域には緑に囲まれた邸宅が見られます。ゆったりとした敷地に生け垣は映えますね。



馬橋稲荷神社の北には、見所ポイント3の「桃園川緑道」が東西に延びています。緑道の下はかって桃園川が流れていました。桃園川の名称は、川の近くに位置していた高円寺の境内に桃の木があったことに由来しています。

桃園川

この桃園川は、弁天池と呼ばれた湧水池(天沼三丁目二十三番)を水源とし、ほぼ東流しつつ神田川に合流します。桃園川の名の由来について、「江戸名所図会」には、桃の樹が多かったことから「桃園」と称されるようになったとの記述があります。流域には、縄文時代後期(約4500年〜3300年前)の小山遺跡(阿佐谷北五丁目三番付近一帯)をはじめ、主に縄文時代の埋蔵文化財包蔵地が点在しており、桃園川周辺の台地上は、古くから狩猟や生活の場として利用されていたことが分かります。桃園川は、主に周辺の人々の水田灌漑用水として利用されてきましたが、その水田も今は埋め立てられています。桃園川も天沼、高円寺地域の発展とともに、生活用水の流れ込む下水化した川となり、性格そのものを変化させてしまいました。そのうえ、川底の浅い小河川であったため、台風や大雨時の氾濫は枚挙に暇がなく、生活をおびやかす存在となりました。そこで、昭和三十年代半ばから行われた河川改修工事によって、桃園川は地上から姿を消し、暗渠(地下水路)へと変貌しました。現在は、歩道あるいは公園となり、今までとは違った姿で区民と接しています。




桃園川緑道の両側には綺麗に手入れされた植栽が続いています。



中央線の高架近くに桃園川緑道の沿革を記した石碑が置かれています。かって架けられていた橋の名前も全て網羅されています。添えられた写真を観ますと、川の両側には野菜畑が拡がっていたことがわかります。

桃園川緑道の沿革

「桃園川緑道」は元来、天沼弁天池(天沼三丁目地内)を水源として東流し、末広橋(中野区内)で神田川に合流する「桃園川」と呼ばれた小河川でした。「桃園川」の名は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の樹が多かったことから、将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があったことに由来しています。(その後、「桃園」は中野に移されています。)江戸時代中期には「千川上水」から分水したり、「善福寺川」から「新堀用水」を開削し、導水するなどして、「桃園川」沿いの新田開発が、進められました。大正末期には、この付近も関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理が行われ、数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それに伴い水田風景も姿を消しました。その後、「桃園川」は宅地化の進む中で大雨の度に氾濫を繰返し、川沿いの地区に被害をもたらしましたが、昭和四十二年、東京都下水道局により桃園川幹線として暗渠化され、以降、水害も治まり河川としての使命を終えました。杉並区では、昭和四十四年、この地上部分を中野区境から中央線までの区間、整備し、「区立桃園川公園」として開園しました。その後、施設の老朽化に伴い、平成元年より五ヵ年をかけ再整備を行い、緑と花のプロムナード「桃園川緑道」として新しく生れ変わりました。




馬橋が架かっていた辺りがかっての馬橋村の中心だったのでしょうか?



高円寺駅の南側には、アーケード街の「高円寺パル商店街」と桃園川緑道を挟んで「ルック商店街(新高円寺通商店街)」が青梅街道まで続いています。高円寺パル商店街は、JR高円寺駅南口とつながり、大きなアーケードが印象的な商店街です。阿波おどり用品専門店や雑貨店や大手チェーン店など、雨に濡れることなくショッピングが楽しめます。また「東京高円寺阿波おどり」の発祥の地でもあります。ここ数年は古着屋の出店が多く、古着を求める若者にも人気の商店街です。



一方、ルック商店街は昭和三十七年に3つの商店会が統一したのをきっかけにできた商店街です。現在は150以上のお店が軒を連ねており、特にカフェや古着店などが多く、休日の午後には多くの人出で賑わいをみせています。比較的小さな個人経営のお店が多いのも特徴的で、ひとつひとつの店舗に根強いファンが多く、地域に根ざした個性的な商店街です。



見所ポイント4の「高円寺」は、徳川三代将軍家光が鷹狩りの際に雨宿りのために立ち寄り、時の住職が家光を将軍としてではなく、一般の雨宿りの客として、さりげなくもてなしたことが気に入られ、家光は鷹狩りの度に高円寺に立ち寄るようになったことで広く知られるようになりました。これが何年も続いたことで、家光は世話のお礼に宇治から茶の木を取り寄せ、自ら手植えをしたとされます。この「お手植えの茶の木」は今も境内に見ることができ、またこのような徳川家ゆかりのお寺であることから「三つ葉葵の紋」を見ることができます。それまで此の地は小沢村と呼ばれていましたが、家光が高円寺の寺名から高円寺村と改称したとされ、それが現在の「高円寺」という地名の由来となっています。かつてお寺の周辺には桃の木が多くあり、桃園とも言われました。そのため、本尊は「桃園観音」、寺は「桃堂」、門前を流れていた川は「桃園川」と呼ばれました。

高円寺

宿鳳山高円寺は、弘治元年(1555年)中野成願寺三世建室宗正によって開山された曹洞宗の寺です。本尊は観音菩薩像で、室町期の作と伝えられる阿弥陀如来坐像も安置されています。かつてこの地は、周辺に桃の木が多くあったことから桃園と称され、本尊は桃園観音、寺は桃堂の名で呼ばれていました。当寺が広くその名を知られるようになったのは、第五世耕岳益道の時、三代将軍徳川家光の知遇を得たことによります。現本堂裏の高台が「御殿跡」と呼ばれるのは、家光が遊猟のおり当寺に立ち寄り休息した茶室跡に由来するといわれ、付近には「御殿前」の名称もありました。境内にある茶園の名残も家光の寄進と伝えられます。また、それまで小沢村と呼ばれた村名を、寺名をとって高円寺村と改めさせたのも家光といわれています。当寺は今日まで寛保二年(1742年)、弘化四年(1847年)、明治三十三年、昭和二十年と四度も罹災し、堂舎と共に古記録類の多くを焼失しました。現在の本堂は昭和二十八年に建立したものです。




高円寺中央公園の中に、高円寺の歴史を記した「歴史と文化の散歩道」の案内板が置かれています。写真は、昭和十一年(1936年)8月時点の現在の高南通り付近の様子です。

高円寺界隈の発展

高円寺駅の開設は大正十一年(1922年)です。当時、北口の現在の純情商店街一帯には熊笹が生い茂っていました。南口は長仙寺から続くくぬぎの林で、現在のパル商店街は荷車がやっと通れるぐらいの小道でした。駅から桃園川(現在は暗渠化し、緑道となっている)までの間には商店はわずか5軒、街灯もなく、夜は駅への行き帰りに提灯が必要でした。翌年関東大震災が起こり、被害を免れた高円寺には都心部から多くのひとが移り住み、杉並が区になった昭和七年頃には新しい住宅地になっていました。人口も急に増えて、南北商店街の整備も進みました。戦後、焼け跡には闇市がおこり、細い路に小規模な店舗がひしめく独特の街並が形づくられました。北口の一部に、その頃の面影をとどめています。その後、駅周辺は区画整理が行われ整った街並に変わってきました。昭和三十二年(1957年)には、夏の一大イベントである「高円寺阿波おどり」が始まり、今日ではますます盛んになっています。




見所ポイント5の「高円寺氷川神社」は、源頼朝が奥州征伐(文治五年【1189年】)の際に此の地に立ち寄り、安達藤九郎盛長に命じて社殿を建立させた、または、随伴していた村田兵部某が此の地で帰農し、大宮高鼻より勧請して社殿を建てたともいわれています。高円寺村小名原郷の鎮守となり、明治時代になると村社になりました。戦災で社殿が焼失しましたが、昭和四十六年(1971年)に現在の社殿が再建されました。

高円寺 氷川神社

この神社は、旧高円寺村小名原の鎮守で、祭神は素盞鳴命です。創建について口碑によれば、天文年間(1531年〜1544年)、村内曹洞宗高円寺の創建と同じ頃といわれます。また社伝によれば源頼朝が奥州征伐の際、この地に着き、安達藤九郎盛長に命じて社殿を建立させたとも、家臣の村田兵部某が高円寺村にとどまり農民となった時、大宮の氷川神社を勧請して社殿を建立したのが起源ともいわれています。しかし、詳細なことは詳かではありません。当社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡高円寺村氷川社の条に「除地四段三畝十歩、外二供免一段五畝、小名原ニアリ、是モ鎮守ナリ、本社三尺四方南向、上屋二間二三間、木ノ鳥居ヲタツ、村内高円寺ノ持」と記されており江戸時代には、原の鎮守様として農民の信仰を集め、高円寺が別当職を務めていたといわれます。明治七年、村社となりました。境内には、三社の末社が祀られていますが、なかでも気象神社(祭神・八心思比顕命)は、全国でも数少なく、非常に珍しい神社です。この社は、戦時中、旧馬橋四丁目にあった陸軍気象部内に祀られたものですが、戦後、関係者の要請で当神社の境内に遷されました。例祭日は、八月二十八日です。




同じような内容ですが、本殿の前にも案内板が立っています。

氷川神社について

江戸名所図会(絵は誤り)によれば、その昔源頼朝奥州征伐のとき武蔵国杉並の地に至り給う際、随兵の中に当高円寺村にとゞまり終りに濃民となる者あり・・・と記されている。一説によれば村田兵部某云々ともいわれ(因みに村田姓は高円寺の旧家なり)その時武蔵国大宮高鼻の本社よりの御神意の使者が同氏に伝え、この高円寺村の位置高く燥松杉稠茂し遠く水田を望みて風致絶佳とされる当地に社殿を建立したのが起源といわれている。御祭神は素盞鳴命で国土開発、災難除けの信仰がある。氷川神社の御分社は約一千社あり関東地方が大部分を占めている。当社の創建された時期は不詳であるが、口碑によれば天文年間曹洞宗高円寺の創建と同時に剏祀(ソウヒ又はショウヒ?:初めて祀られること)されたといわれている。末社には気象神社、稲荷神社、御嶽神社、日枝神社が祀られている。昭和四十六年十月十四日、社殿、社務所、神楽殿、神輿庫、手水舎が新しく御造営され、今日に至る。例大祭は毎年八月二十七・二十八日に行われる。




気象神社は本殿の横奥に鎮座しています。元は馬橋四丁目(現在の高円寺北四丁目)にあった大日本帝国陸軍の陸軍気象部の構内に昭和十九年(1944年)4月10日に造営されたものです。この神社前で勤務前に気象観測員が気象予報の的中を祈願したといわれています。戦後の神道指令で撤去されるはずでしたが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残存しました。そこで当局に申請して払い下げを受け、昭和二十三年(1948年)、当時は9月18日だった例大祭の際に現在の氷川神社に遷座しました。老朽化のため、遷宮55年記念として平成十五年(2003年)6月に再建されました。例大祭は6月1日の気象記念日に行われています。一般の知名度はさほど高くありませんでしたが、気象予報士の制度が始まると日本で唯一の気象(天気)の神様として気象予報士を目指す受験生などに存在が知られ、合格祈願や快晴祈願などで参拝されています。

気象神社由緒
御祭神 八意志兼命(知恵の神)

この気象神社は、旧陸軍気象部の構内(旧馬橋四丁目、現在高円寺北四丁目)に昭和十九年4月10日造営、奉祀され、途中空襲に因る焼失、再建されたが太平洋戦争の終結に依り気象部隊解散に伴い旧気象部隊関係者によって払い下げを受け当高円寺氷川神社に昭和二十三年9月18日遷宮祭を執行し、移設されたものである。以来気象部隊関係者を始め多くの方々のご参拝、奉仕を受けて参りましたが月日の経過と共に社殿の腐蝕が甚だしく遷宮55年を記念して新しい社殿の御造営に着手し、平成十五年6月1日の気象記念日に竣工式を挙行した。




願掛けの絵馬は普通扇型または角形の板に願いを書きますが、天気予報は下駄を投げて行うものなので、気象神社の絵馬は下駄に書くことになっているようです。



高円寺駅は、大正十一年(1922年)7月15日に鉄道省の駅として開業しました。私は全く気が付かなかったのですが、毎年8月に高円寺駅周辺で「東京高円寺阿波おどり」が開催されていることに因んで、1・2番線のホームでは2004年から阿波踊りの囃子をアレンジした発車メロディを使用しています。当初は8月中限定でしたが、2016年8月1日からアレンジを変更して通年で使用されています。東京高円寺阿波おどりは、毎年8月下旬(最終の土曜・日曜)に開催される阿波踊りで、東京周辺では最大規模となっています。JR高円寺駅前から東京メトロ新高円寺駅にかけての商店街および高南通りを舞台に開催され、開催年を経るごとに知名度が上がり、現在では阿波踊りの本場である徳島県からも集団参加が見られるなど、遠方からの参加者も多くなっています。例年同日に行われる浅草サンバカーニバルと共に、東京の代表的な夏祭りのひとつになっています。約1万人の踊り手が参加し、東京の晩夏の風物詩として定着しています。東京高円寺阿波おどりは、高円寺の商店街(現在のパル商店街)の青年部が町おこしとして、高円寺の氷川神社の例大祭に併せて昭和三十二年(1957年)に第一回を開催し、当時の名称は「高円寺ばか踊り」でした。当初は隣町の阿佐谷七夕祭りに対抗した夏のイベントでしたが、高円寺ばか踊りが阿波踊りに似ていたことから、やがて都内在住の徳島県出身者から指導を受ける形で「阿波おどり」として発展しました。昭和三十八年(1963年)に「高円寺ばか踊り」を現在の「東京高円寺阿波おどり」に改称し、現在は地元商店街や町会が中心となって発足したNPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会が主催しています。今日は8月24日なので、高円寺駅の構内では阿波踊り写真展が開催されています。



高円寺駅北口にやってきました。駅前広場に面して高野青果のお店があります。店頭からはみ出した果物や野菜はどれも超激安です。軒を連ねたお隣には鮮魚と精肉のコーナーもあります。店頭のケースに収められたその日の鮮魚特売品は特にお勧め。年末には数の子の醤油漬けが激安で並びます。大抵の生鮮食料品はこのお店で調達できます。



見所ポイント6の「高円寺純情商店街・庚申通り商店街」ですが、「高円寺純情商店街」の元々の名前は「高円寺銀座商店街」でした。作家のねじめ正一の実家は乾物屋で、商店街の中にお店を構えていました。ねじめ正一は、1986年から1988年にかけて小説新潮に3篇の短編を掲載し、その後書き下ろした3篇を加えた連作短篇「高円寺純情商店街」によって、1989年に第101回直木賞を受賞しました。小説はねじめ正一本人の実家の乾物屋と商店街での話が元になっていて、舞台となった商店街はこの作品に因んで「高円寺純情商店街」となりました。「庚申通り商店街」は高円寺純情商店街から続き、早稲田通りまで延びています。商店街の途中に庚申塚があり、それが通りの名前の由来になっています。



呑兵衛の御用達の晩杯屋もしっかりありますね。ちなみに、店名は「立ち呑み晩杯屋 高円寺純情店」です。残念ながら、コロナ渦により9月中旬まで臨時休業のようです。高円寺純情商店街がクランク状に庚申通り商店街と交わる角に「jump」という精肉店があります。常に行列のできる人気店です。関東地方を中心にして一都六県に店舗を展開していますが、ここはジャンプの高円寺本店になっています。午前中と夕方に激安タイムセールを行なっていて、毎週土曜日には金券も発行されます。



こうしん通りの一角に小さなお堂が建っています。お堂の中には、通りの名前の由来となった庚申塔が鎮座しています。



よく見えませんが、お堂の中には三匹の猿と青面金剛の石像があるようです。乳飲み子を抱いたお地蔵様には幼子がまとわりついているような。子持ちのお地蔵様は珍しいですね。

庚申塔

この庚申塔は正徳六年(1716年)、高円寺村の講中十人が、悪病退散・村民安全を願って建立したものです。庚申塔は庚申待供養のために、江戸時代さかんに建立されました。本尊は青面金剛が多く、不見、不聞、不言の三猿が刻まれていることもあります。庚申待とは庚申信仰の行事の一つで、六十日に一回めぐってくる庚申の夜に、講中の人々が集まって、寝ずにお経を唱えたり、酒食を共に語り合いながら一夜を過ごしたといわれています。当初は現在の場所で真南に向って鎮座していましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災で横転してしまい、その後西向きに建立されました。また、昭和二十年(1945年)の東京大空襲の際には、戦火によって塔の一部が破損しました。現状の如く修復されたのは昭和三十七年(1962年)のことです。現在も、庚申通り商店街の守り本尊として、地元の人々に朝夕熱心に信仰されています。




住宅街の一角に、隠れ家的なレストランを想わせる建物があります。白い壁にお洒落な敷石のアプローチ。標札には「Palacio de Hiro」と書いてあります。ネットで調べたら、レストランではなくて高級賃貸マンションのようです。普通なら頑丈な門を入口に設けるところですが、自由に出入りできる雰囲気です。さすが高円寺というか。ちなみに、「Palacio」とはスペイン語で「宮殿とか城」の意味です。英語では「Palace」ですかね。



見所ポイント7の「銭湯(なみのゆ)の煙突」は、住宅街の夜でも光り、4月から5月に煙突に掲げられる大きな「こいのぼり」や12月から1月にかけてのイルミネーションなど近隣住民を楽しませてくれます。銭湯のお湯は軟水かつ弱アルカリ性のミネラルたっぷりの飲用にも適した地下水を使っています。ロビーの物販は、銭湯とは思えないほど豊富な駄菓子やドリップ用のコーヒー・Tシャツ・女将さんの実家がある佐渡のコシヒカリなど、他の銭湯にはないユニークな品揃えです。銭湯のペンキ絵は雄大な富士山を壁一杯に描くところが多いのですが、なみのゆのペンキ絵は赤富士と共に、絵本のようなフェリーがかわいらしく描かれ、レトロな雰囲気を醸し出しています。



見所ポイント8の「馬橋公園」は、気象庁の気象研究所があった敷地跡を公園として整備したものです。気象研究所は1980年につくば市に移転し、1985年3月30日に馬橋公園が開園しました。防災空地をかねた公園としての役割もあり、付近の住民の一時避難所にもなっています。公園内は広場や樹木や池などかあり、高円寺北部の貴重な緑地スペースとして近隣住民の憩いの場となっています。戦前には旧陸軍気象部があり、高円寺氷川神社に遷された気象神社は、元は旧陸軍気象部の敷地内に祀られていました。



広場にいる人達が空を見上げています。今日は東京パラリンピックの開会式に先立ち、都心上空にブルーインパルスの編隊が五輪のマークを描いているのです。



馬橋公園の先に、鬱蒼と木々が生い茂っている見所ポイント9の「屋敷林」があります。邸内の建物が樹木に押しつぶされそうに見えますが、住人の方は大丈夫なのでしょうか?都会の緑も大事ですが、人間の生活も大切にしないと。



ということで、阿佐ケ谷駅に戻ってきました。阿佐谷の南側と高円寺の北側を巡りましたが、同じ中央線沿線でも街の雰囲気は大分違っていますね。私は物価の安い庶民的な高円寺の方が好みですけど。



ということで、「21.阿佐谷・高円寺編 阿佐谷・高円寺一周コース」を歩き終えました。 次回は高円寺の寺町を巡り、杉並区の東部地域とお別れします。




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