22.阿佐谷・高円寺編 高円寺一周コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「22.阿佐谷・高円寺編 高円寺一周コース」を歩きます。高円寺駅をスタート地点として、高円寺の商店街やお寺巡り、蚕糸の森公園など杉並区の新旧の歴史を楽しみます。  

「22.阿佐谷・高円寺編 高円寺一周コース」の歩行距離は4.6km、歩行時間は1時間30分です。

スタート地点:高円寺駅南口
↓ 
 1.高円寺パル・高円寺ルック
今や全国的に有名になった高円寺阿波おどりは、1957年パル商店街の高円寺ばか踊りから始まりました。ルック商店街を含め800mの商店街。
 2.高円寺の寺町
明治末期から大正時代にかけて都心から移転してきた7つの寺院で構成され、江戸末期に建立された建造物もあり静かなたたずまいが楽しめます。
 3.妙法寺旧参道入口燈籠
高さ5.65mの青銅製の燈籠。1889年の中野駅の開業により新たに参道となった入口の標識として、信者の寄進によって造立されました。
 4.青梅街道
江戸城改修の石灰を青梅・成木から運ぶため1606年から整備され、その後江戸と近郊を結ぶ流通路として栄え、現在は杉並の大動脈です。
 5.堀之内新道・ニコニコロード
中野駅から妙法寺門前までの2kmを馬糧商関口兵蔵が私財を投じて整備したもので、青梅街道から北はニコニコロード商店街となっています。
 6.中央線跨線橋
 7.座・高円寺
杉並芸術会館の愛称で、舞台芸術の創造と地域文化活動の拠点として2009年に開設。阿波おどりホールもあり区民に親しまれています。
 8.高円寺駅ホームからの富士山
ホーム西端(立川寄り)から富士山が見えます。東端からは新宿の超高層ビル街がビルの谷間に見えます。阿佐ケ谷駅からも見えます。

ゴール地点:高円寺駅北口


スタート地点の高円寺駅南口から歩き始めます。高円寺駅は、大正十一年(1922年)7月15日に国鉄の駅として開業しました。お隣の中野駅が甲武鉄道の駅として開業したのは明治二十二年(1889年)4月11日で、高円寺駅の開業はそれより33年も後のことでした。甲武鉄道が開業した当時、中野・荻窪間4kmには駅がありませんでした。中間地点の馬橋に住んでいた人達は、目の前に線路が走っているのに延々と30分も歩いて中野駅か荻窪駅まで行かなければならず、汽車に乗れない不便さを味わっていました。この不便さに意を決したのが、馬橋村に住んでいた浅賀源太郎氏でした。浅賀氏は鉄道省へ新駅誘致を陳惰し、「将来新駅開設の場合は中野・荻窪間の中間地点に駅を設置する」との内示を得ることに成功したのです。ところがその2年後の大正九年(1920年)の春、鉄道省より「新駅用地提供願」の要請に馬橋村の一部に新駅誘致反対者が出ました。会合を重ねてみるものの駅の用地提供はまとまらず、新駅設置の情報は阿佐ヶ谷にいた相沢喜兵衛氏(「けやき屋敷の当主」)の耳に入ることとなりました。相沢氏は高円寺にいた伊藤兼吉氏等と共に運動を行い、政友会(政党)の古谷久綱・高木正年両代議士に頼み、高円寺駅と阿佐ケ谷駅の誘致運動を行い、遂に政治力で両駅の開設を実現させたのです。ちなみに、高円寺駅と阿佐ケ谷駅が開設されたことで、馬橋駅は幻の駅となりました。



「高円寺ストリート」は、高円寺駅の高架下に広がる商店街です。1番街から3番街に分かれていて、小さな飲食店が軒を連ねる通りは夜ともなると店々の灯りがともり、昼間とは違った雰囲気を醸し出します。アジア雑貨店のはしりといわれる「元祖仲屋むげん堂本陣(2021年11月にルック商店街に移転)」をはじめ、高円寺らしい雑貨店や古本屋も点在し、「日本のインド」ともいわれています。ラーメン好きの人気を集める「ラーメン横丁」は2番街の地下にありますが、2番街は高架下工事に伴い、2021年10月31日をもって閉館となってしまいました。



見所ポイント1の「高円寺パル・高円寺ルック」ですが、高円寺駅の南側には、アーケード街の「高円寺パル商店街」と桃園川緑道を挟んで「ルック商店街(新高円寺通商店街)」が青梅街道まで続いています。高円寺パル商店街は、JR高円寺駅南口とつながり、大きなアーケードが印象的な商店街です。阿波おどり用品専門店や雑貨店や大手チェーン店など、雨に濡れることなくショッピングが楽しめます。また「東京高円寺阿波おどり」の発祥の地でもあります。ここ数年は古着屋の出店が多く、古着を求める若者にも人気の商店街です。



高円寺パル商店街とルック商店街は、桃園川緑道によって分けられています。商店街に「宝橋」とは縁起がいいですね。



桃園川緑道を阿佐谷寄りに少し進むと「長仙寺」があります。参道から一段高いところに建てられた仁王門は朱と若竹色に彩られ、邪悪なものからお寺を守るために両脇でにらみを利かせている仁王像は、平成十年(1998年)に京都美術学院で作られました。長仙寺は高円寺四大祭りの際に場所を提供していて、特に東京高円寺阿波おどりでは、昭和三十二年(1957年)に「ばか踊り」と称していた当初から練習場所となっていました。境内に集合した商店街青年部員達は長仙寺で準備を整えてから祭りの会場に出発していたのです。

長仙寺

日王山阿遮院長仙寺は、真言宗豊山派の寺で不動明王を本尊としています。寺伝によると、宝永元年(1704年)、中野宝仙寺の住僧であった真秀(享保六年【1721年】没)が、この地に一庵を建て、日王山阿遮院と号したのが開創といわれます。その後、寺容も整い長仙寺と称してきましたが、寛政八年(1796年)本堂を焼失し、五十余年を経て嘉永三年(1850年)、明情和尚の代に再建されました。昭和になり、高円寺町の発展とともに寺勢再興し、昭和十年本堂を新築しましたが、同二十年四月戦災のため惜しくも堂字を全焼しました。現在の本堂(寝殿造り)は、昭和四十四年に建立されたものです。本尊の不動明王像は「新編武蔵風土記稿」に「本尊不動にて長一尺八寸の立像を安ず」と記されているように、木像五十五センチメートル程の立像で、室町時代の作といわれています。境内に安置されている如意輪観音の石仏は、享保九年(1724年)の造立で、裏に「高円寺村観音講中同行男女百人」という銘文が刻まれています。観音様がほほを押え、いかにも歯が痛むようなお姿をしているので、誰いうこともなく歯が痛むときお参りすれば、痛みを代って受けてくださるとして近在の信仰をあつくし、人々から親しまれました。




本尊の不動明王像は室町時代の作といわれ、本堂に祀られています。本堂・書院・庫裏は昭和二十年(1945年)4月の戦火により焼失してしまいましたが、この本尊は当時の住職が抱いて逃げたとされ、消失を免れました。境内に案内柱が立っています。

木造 不動明王立像 一躯(身に區)

本像は、当寺の本尊で彩色の寄木造り、像高は64.5cmです。頭の頂きには古様の莎髻(注1)をのせ、髪は渦巻型の巻髪であらわしています。面相は丸顔で忿怒の形相というより童顔といった方がふさわしいものです。それでも左右の歯牙は、それぞれ上下を向き、眉は太く逆立ち、玉眼の瞳には墨、白眼の部分には金泥をさし、眼光の鋭さを強調しています。裳裙(注2)には鮮やかに朱の色が残っています。全体像は格調の高い彫像に仕上げられており、洗練された彫法を示す貴重な室町時代の仏像です。
注1:莎髻
不動明王は、頭頂部の髪に髷を結った姿をしています。この髷は七つ結ばれていることから「七莎髻」と称し、悟りを得るために必要な七つの修行である「七覚支」を表しています。

注2:裳裙
古墳時代以来、上流階級や僧侶に用いられた腰から下の下半身を一周して覆う衣服。裳と裙は同じ意味。




ルック商店街は昭和三十七年に3つの商店会が統一したのをきっかけにできた商店街です。現在は150以上のお店が軒を連ねており、特にカフェや古着店などが多く、休日の午後には多くの人出で賑わいをみせています。比較的小さな個人経営のお店が多いのも特徴的で、ひとつひとつの店舗に根強いファンが多く、地域に根ざした個性的な商店街です。「珈琲亭七つ森」は昭和五十三年に創業した老舗喫茶店で、創業当時のレトロな雰囲気を変えることなく、長年地元の人々を中心に愛されています。木造の店内で使用されている家具はどれも年季が入ったものばかりで昭和の世にタイムスリップしたかのようです。今は需要が減り、見かけることが少なくなってきたマッチですが、七つ森ではふくろうが描かれたレトロな箱に入ったオリジナルマッチが健在です。雰囲気のある七つ森には文化人のファンも多く、森本レオさんもその一人です。今は亡き忌野清志郎さん率いるRCサクセションも七つ森に通っていたと言われています。ミュージシャンで作家の大槻ケンヂさんも七つ森のファンだそうです。そういうこともあって、遠方からわざわざ高円寺まで足を運ぶ方もいるそうです。



珈琲亭七つ森の角で左に曲がり、環七方向に進みます。「杉並第八小学校」と「光塩女子学院」の間の高円寺南二丁目には、「西照寺」・「松応寺」・「宗泰院」・「長龍寺」、その奥には「福寿院」・「鳳林寺」という曹洞宗の6つの寺と、日蓮宗の「長善寺」が隣り合うように集まって、見所ポイント2の「高円寺の寺町」を形作っています。江戸時代に格式のあった旗本寺が多く、石仏・仏像などの文化財も多数保存されています。



高南通りを渡って最初に見える「西照寺」は曹洞宗の寺院です。

西照寺

当寺は善明山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば、日比谷村(現千代田区内幸町)の漁夫により海中から拾いあげられた阿弥陀如来像が安置された御堂を、天正二年(1574年)に、開山明堂文龍大和尚が一寺としたのが開創とされています。その後、徳川家康の江戸入府による江戸城大築営のため、寺域は武家屋敷地となり、慶長十七年(1612年)芝金杉(現港区芝一丁目)に移転しました。しかし、寛永二十年(1643年)類焼に遭い、寺地は御用地となり、拝領した代替地は狭くて本堂の再建も不可能なため、寛文五年(1665年)に芝白金台町(現港区白金二丁目)の地を買収して移転し、寺を再興しました。この再興に力を尽くしたのが、中興開基でもある旗本の岡田豊前守善政で、以来当寺は代々岡田家の菩提所となっています。この後、当寺は観音堂・鐘楼堂等の堂宇も整え、江戸西方三十三観音の第二十六番札所ともなり、門前には町屋が並び大いに賑わったと伝えられます。明治維新の折に、当寺は討幕派の放火によって伽藍を全焼しましたが、明治十年(1877年)頃には復興を果たしています。再建された堂舎には、当時、明治女学校の講師であった島崎藤村が寄宿していたといわれています。永く御府内にあった当寺も、東京発展のなかで寺域が区画整理の対象となり、明治四十四年(1911年)に現在の地へ移転しました。なお、当寺には室町末期の阿弥陀如来坐像、承応二年(1653年)銘のとろけ地蔵=A南町奉行山村良旺や書家佐瀬得所の墓、江戸期建築の格式を持つ道了堂、心越禅師による山門額字の書幅など、多くの文化財が所蔵されています。




西照寺の隣には「松応寺」があります。

松応寺

当寺は、万寿山と号する曹洞宗の寺で、現在の本尊は聖観音坐像です(戦火で本尊「釈迦牟尼仏」を焼失したため)。寺伝によると明暦二年(1656年)五月、浅草八軒寺町(現台 東区寿二丁目)に開創されました。開山は本寺大松寺(現北区西ヶ丘一丁目)五世の悦州舜喜大和尚で、開基は雪岩長卯大和尚です。山門に掲げる「万寿山」の山号は江戸時代の高名な書家高玄融の筆になるものです。江戸時代の当寺は、与力・同心など武家寺として栄えていましたが、墓地が狭小なことから大正七年六月に寺院の維持発展のため、現在地に移転して来ました。当寺の歴史については、昭和二十年の戦火で全焼し、本尊はじめ、寺宝寺録などの全てを焼失したため、詳細は、明らかではありません。現在の本尊は、禅宗様式の濃い仏像で、藤原時代の様式を模したと思われるふっくらした円満なお顔に特徴があります。なお、当寺には「農政本論」・「経済要録」・「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵(1850年歿)の墓があります。




松応寺の隣には「宗泰院」があります。

宗泰院

当寺は山号を永昌山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼仏です。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正十二年(1584年)、麹町表四番町(現千代田区四番町)に草庵を結んだのが始まりといわれています。開山は小田原万松院の格峰泰逸和尚で、文禄二年(1593年)に、幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整えました。その後、元和二年(1616年)に至り、寺地が旗本の屋敷地と定められたため、市ヶ谷左内坂(現新宿区市谷左内町)に境内地を拝領して移転、寺院の取り締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられています。当寺の檀家は旗本・御家人・尾張藩士などの武家三百五十家とその出入商人などで、本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれています。明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰えましたが明治二十年代には復興し、明治四十二年、陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転しました。宝暦七年(1757年)建立の本堂、寛延三年(1750年)建造の開山堂は、そのまま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物です。なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士鈴木派無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあります。




宗泰院の隣には「長龍寺」があります。

長龍寺

長龍寺は富聚山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば文禄二年(1593年)に心岩舜応和尚が麹町四番町(現千代田区四番町)に開創したと言われます。元和二年(1616年)に寺地が御用地となり、市ヶ谷左内坂(現新宿区市谷左内町)に境内地を拝領して移転しています。明治四十二年(1909年)、市ヶ谷の陸軍士官学校の拡張に伴い、この地に移転しました。宝暦六年(1756年)建造の本堂、元文二年(1737年)建立の山門は、この時に移築したもので、古い建造物の面影をよく伝えています。寺伝によると、元は「長隆寺」という寺名でしたが、開山した玄室宗頓和尚が本寺である雲松院境内の池に住む竜に偈を授け、小蛇と化したところを捕えて当寺の寺宝とさせたことにちなみ、長隆寺の「隆」を「龍」に改めたと伝えられています。江戸時代の長龍寺は、開基である幕府御使香河野氏をはじめ、油川武田家を主体とした旧武田家臣団ならびに徳川の名門松平十四家である滝脇松平家(世良田家)、朱鎗の名家長坂血鎗九郎家、応仁の乱の西軍の将として有名な「山名宗全」を生み出した山名家の本家、その他旗本・名家七十六家の菩提所で、代々の住職は朝廷より勅賜号を賜わるなど、寺運は隆盛をきわめました。境内の地蔵堂には、山之手二十八番地蔵の第十一札所として著名な、宝永五年(1708年)造立の豆腐地蔵尊が安置されています。




豆腐地蔵尊のいわれを記した案内柱が門前に立っています。この話はどこかで聞いたような。。。

杉並区指定有形民俗文化財
石造地藏菩薩立像 一基

本像は、江戸時代の宝永五年(1708年)に造立された等身大の石仏です。像容は端正で、容貌も整って尊願を表し、衣紋などの彫刻も丁寧で流麗に仕上げられています。本像の右耳は欠失していますが、当寺の「長龍寺縁起」にその由来が記されています。由来によると、元文年間(1736年〜1741年)の頃、小僧に化けた地蔵が豆腐を買いに行ったが、木の葉の銭を使用したため怪しまれ斬られたというもので、そのことから本像は豆腐地蔵と俗称されています。




長龍寺から北側の路地に入ったところに「福寿院」があります。

福寿院

当院は、祥雲山と号する曹洞宗の寺院です。本尊は、像高46センチメートルの金銅釈迦如来像(江戸期)で杉並区内においては、たいへんめずらしい「金銅仏」です。江戸時代の「御府内備考続編」には、当寺の起立は不詳としながらも天正十九年(1591年)に境内地を拝領したのを開創としています。一方明治十年の「寺院明細帳」には、明確に慶長十九年(1614年)四月を開創としており、何等かの根拠に基づいているようですが、くわしいことは明らかでありません。寺伝によれば開山は雪底春積(寛永四年【1627年】寂)と伝えられ、徳川幕府創業に功績のあった伊賀藩士の慰霊のために、同藩士の三浦氏等十二人が開基となって開創したとされています。当院は、「文政寺社書上」によると、麹町十三丁目(現新宿区四谷二丁目)に境内拝領地五四九坪を持ち、間口八間半奥行五間の本堂と、他に鎮守堂、薬師堂が建てられていました。明治四十年四月区画整理のため現在地に移りました。現本堂は、昭和十一年類焼で失い昭和三十九年再建されました。文化財として、地蔵菩薩立像(江戸初期)地蔵菩薩半跏像(江戸初期)などがあります。本堂の裏に「東京都指定旧跡(昭和十五年二月指定)」となっている「溪齋池田英泉之墓」があります。英泉(1790年〜1848年)は江戸星ヶ岡(現千代田区永田町)に生まれ、多くの美人画、絵本や木曽街道六十九次などの風景画を描いた、江戸時代後期の代表的な浮世絵師でした。




福寿院の隣には「長善寺」があります。七つのお寺の中で唯一の日蓮宗の寺院です。朱塗りの門塀が目立っていますね。

長善寺

当寺は如法山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊と日蓮聖人坐像です。寺伝によれば天正十八年(1590年)、円立院日義によって江戸府内の谷中(現台東区谷中)に開創され、はじめは実蔵坊と称していましたが、二世長善院日行の時に現在の寺号になったと伝えられています。その後、五世日成の時代に谷中本村(現荒川区東日暮里)の地に移転しています。しかし、近代に入り国鉄線路拡張のために再び移転をよぎなくされ、大正十五年に高円寺の寺町の一角を占める現在の地に移りました。昭和二十年末、火災で堂宇を焼失し現在の本堂は昭和三十四年に再建されたものです。本堂左手前の三十番神堂は「新編武蔵風土記稿」に谷中本村の鎮守と記載されているもので、天保四年(1833年)再建の古い建物です。堂内には法華経を守護するという三十体の番神が祀られていますが、当寺のように三十番神像が全部揃っているのは都内でも珍しいといわれます。文化財としては江戸時代からすでに知られていた十羅刹女像・毘沙門天像が安置されているほか、鬼子母神像や板碑も所蔵されています。なお、墓地には徳川幕府の鍛金打物師として名高かった家城源七(文化十三年【1816年】没)の墓があります。




長善寺の隣には、七つ目のお寺の「鳳林寺」があります。

鳳林寺

鳳林寺は瑞祥山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像(宋朝風蓮華上宝冠の華厳会釈迦如来像)です。当寺は永禄元年(1558年)、江戸牛込御門外舟河原(現新宿区市ヶ谷の飯田橋駅周辺)へ草創され、後に本寺吉祥寺(現文京区本駒込)八世の松栖用鶴大和尚(1630年歿)が開山となり寺容を整えました。開基は旗本の荒川長右衛門重照(1657年歿)で、中興開基は、御蔵奉行をつとめた旗本の長田新右衛門房重(1693年歿)です。寛永十二年(1635年)に寺域が幕府の御用地となったため、新しく拝領した牛込七軒寺町(現新宿区弁天町)に移りました。明治の末頃に、弁天町通りの拡張に伴い寺域が狭くなったため、大正三年(1914年)に、二百八十年を過ごした牛込から、現在地に再度移転しました。明治七年(1874年)、現新宿区西早稲田にあった夾山寺(吉祥寺末)が、当寺に合併しています。境内には、厄除け子育ての延命地蔵尊を安置するお堂があります。「大石仏の地蔵」と言われる延命地蔵尊は、行者晴雲が願主となり、諸国の神社仏閣巡拝で受けたお札を納めるため、元文二年(1737年)に夾山寺へ造立されました。以前は、家庭和合を守る愛染明王像を安置したお堂も境内にありました。現在、愛染明王像は本堂に安置されています。墓地には幕末の医家多賀谷楽山、書家の多賀谷向陵と画家の多賀谷酔雪親子、詩人の金井莎邨等の墓があります。また、太田蜀山人の師である内山賀邸も当寺に葬られ、過去帳に名をとどめています。




環七に面して「六つ塚跡」の案内板が立っています。

六つ塚跡

図書館前の路を北に60メートルほど行った辺り(名取眼科医院付近)に、かって六基の塚があり、地元の人々はそれを「六つ塚」と呼んでいました。塚はいずれも土まんじゅうのような円墳型をしており、四基は小塚でしたが二基は高さ四メートル、直径が六メートルほどの大塚で、頂には木が生え、裾には小さな窪みがあったと伝えられています。雑木林の中にあったこの塚は、その頃はまだ当図書館の場所にあった杉並第三小学校の児童たちの恰好の遊び場で、腕白どもは学校の行き帰りや休み時間に、よく塚に登って遊んだということです。また、当図書館の一帯が昭和の初め頃まで、「むつづか」の通称で呼ばれていたのも、この塚に由来していたのです。しかし大正末年頃、塚は区画整理事業による桃園川流域低湿地埋めたてのため、崩されてしまいました。その際、塚からボロボロになった刀などが出土したといわれ、こうした出土品などから、塚は太田道灌と豊島氏との戦の死者を葬った墓ではないか、との説もありますが、真偽のほどは不明です。なお、六つ塚に近く、長く当図書館の地にあった杉並第三小学校(前身は高円寺小学校)は、明治二十六年に開校した古い歴史を持ち、昭和三十三年に現在の高円寺南一丁目へ移転した学校です。




高円寺陸橋下交差点の角のビルの横に石仏を収めた朱の鳥居の庚申堂があります。庚申堂に鳥居って、あまり見かけませんね。

民間信仰石塔

ここに建立されている石塔は正徳三年(1713年)銘、元禄七年(1694年)銘の庚申塔、寛文十年(1670年)銘、享保六年(1721年)銘の阿弥陀塔と享保十三年(1728年)銘の供養塔計五基があります。庚申信仰は「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間に広まり、江戸時代には本尊を青面金剛とし、不見・不聞・不言の三猿と日月二鶏を配する塔が一般的に造られるようになりました。阿弥陀如来は四方極楽世界の本尊とされ、他力往生の誓願をたて、この仏を信じるものは、ただ念仏さえ唱えれば難行苦行を積むまでもなく、仏が大慈の光明を照らし、お迎えくだされるとされています。これらの石塔は、この辺りが武州多摩郡高円寺村といわれた頃、地域の人々によって、悪病退散・村民安全などを祈願して建立したものと思われます。昭和四十二年、崇敬者が相計り、特に交通安全を祈願して南向きだった社殿を環状七号線に向けて改修整備しました。昭和五十七年から例祭日を十一月二十三日と決め、お札やお供物を配るようになりました。




奥に二基の庚申塔、右側に阿弥陀塔二基と供養塔が建っています。庚申塔は板碑の表に青面金剛と三猿が彫られています。青面金剛の耳は石板に埋没していますので、マスクを掛けられず、ヒモで石板にくくりつけられています。そこまでしなくても。。。



見所ポイント3の「妙法寺旧参道入口燈籠」は、青梅街道に面した「蚕糸の森公園」と「お茶の大森園」の間に建っている、基台から宝珠まで総高5.6mの青銅製の一対の大燈籠です。明治二十二年(1889年)に甲武鉄道(現在の中央線)中野駅が開業すると、青梅街道の鍋屋横丁からの道に替わって、中野駅からの道が新たな参道(桜新道)となりました。しかし道筋がわかりにくく参詣人がまごつくため、明治三十六年(1903年)8月にまず木製の常夜燈が立てられ、その後、明治四十三年(1910年)8月に至って、信仰者の中の花柳界の人々が中心となって、青銅の燈籠を造立しました。しかし、桜新道は環状七号線の完成により分断され、往時の面影をすっかり失っています。大燈籠の裏面には、造立の経緯と共に、寄進した人達の名前が刻まれています。



「蚕糸の森公園」は、明治四十四年(1911年)5月に設置された「農商務省原蚕種製造所」に起源を持ち、大正三年(1914年)に「農林水産省蚕業試験所」、昭和十二年(1937年)に「蚕糸試験場」に改称した旧研究所跡地に設置された区立公園です。昭和五十五年(1980年)に蚕糸試験場が茨城県つくば市へ移転(農業生物資源研究所を経て現在は農業・食品産業技術総合研究機構)したことに伴い、跡地を防災公園として再整備したものです。公園の名称は蚕糸試験場に由来し、煉瓦造りの旧試験場の正門は現在でもそのまま残されています。恥をかかないために申し添えしておきますが、「蚕糸」は「さんし」と読みます。蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった糸の意味で、絹糸・生糸と呼ばれます。



蚕糸試験所には本館など貴重な建物もあったのですが、防災上の理由により殆どが取り壊され、今はかつての守衛所だった小さな建物が管理事務所として残るのみです。



公園の奥まったところに、巨大な石でできた記念碑が置かれています。

蚕糸科学技術発祥の地

明治四十四年(1911年)、この地に農商務省原蚕種製造所が創設され、一代交雑種の原蚕種配布を開始した。その後、蚕業試験場・蚕糸試験場と改められたが、一貫して蚕糸科学技術の研究を進め、世界の先端を行く蚕糸技術を開発してきた。この業績は蚕糸業ばかりでなく、我が国の近代化と経済の発展に大きく貢献した。昭和五十五年、蚕糸試験場は筑波研究学園都市へ移転し、杉並区立蚕糸の森公園がここに設けられた。この地に生まれた蚕糸科学技術がますます発展することを願い、ここに記念碑を建立する。




蚕の食べ物は桑の葉ですよね。公園内には桑の木も栽培されています。

クワとは・・・

ひとくちにクワと言っても、和紙の原料となるコウゾや甘い実のなるイチジク、観葉植物として有名なインドゴムノキなど、クワの仲間にもいろいろあります。その中で養蚕用に使われているクワは、クワ科クワ属のヤマグワなどを原種として、多くの品種改良を重ねて作られたものです。クワの木は、自然の状態では10メートルを越す大木にもなりますが、養蚕用には枝を摘みやすくするために多くは低く仕立てられており、こちらの方が一般的には馴染みが深いようです。ここに植えられているクワは、その養蚕用の仕立桑を再現したものです。クワには雄株と雌株があり、雌株は夏になると甘くて食べられる赤い実がたくさんなるので、昔はクワの実を食べて口のまわりを赤くした子供が見られたものです。




珍しい桑の木として「枝垂桑」も植えられています。

枝垂(しだれ)桑

当地には、昭和五十四年(1979年)までの七十年間、国立蚕糸試験場が置かれ、蚕・桑・生糸についての研究が行なわれていました。桑については、我が国内ばかりでなく、全世界から多数の種や品種を導入し、桑品種改良にもちいられました。そのなかに枝が下垂する珍しい品種があり、鑑賞用として保存され、蚕糸試験場の玄関を飾ってきました。この枝垂桑は、1883年にアメリカで、ダッタン桑の実生から発見されたものです。ここに植えられている桑は、普通の桑樹の枝に枝垂桑を接ぎ木しています。




蚕糸の森公園の「つどいの広場」に公園のシンボルともいわれる滝がつくられています。幅30メートル・高さ3メートル超で、1分間に最大11.5立方メートルの水が流れ落ちています。新宿西口公園にある「新宿ナイアガラの滝」に対抗して、「杉並ヴィクトリアの滝」とでも命名したら如何でしょうか?



蚕糸の森公園に面して、見所ポイント4の「青梅街道」が通っています。

青梅街道

この前の道は青梅街道です。青梅街道は慶長十一年(1606年)、江戸城修築の城壁用に武州多摩郡の上成木村・北小曽木村(現青梅市)産出の石灰を運ぶ道(初期には成木街道とよばれた)として、大久保石見守長安によって開かれたと伝えられています。石灰輸送は城の修築等のほか、民間の需要も多く、最盛期には年間二万俵以上にも達したといわれます。道中には中野・田無・小川・箱根ヶ崎・藤橋等継送りのための宿駅がおかれ、区内の田端・成宗・馬橋・和田の四箇村は中野宿の定助郷(江戸時代、宿駅常備の人馬が足らず指定されて応援の人馬を負担する課役)と定められ、一か月十日間の伝馬継立を行っていました。江戸中期以降、青梅街道は江戸の都市域の拡大と経済の発展にともなって、江戸と近郊農村との商品流通路・甲州への脇往還(甲州街道)としての性格を強め、一方、御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても発展しました。御嶽参詣の道中を記した天保五年(1834年)刊行の「御嶽菅笠」は、「荻久保(窪)の中屋の店に酔伏て」と、当時のにぎわいの様子を伝えています。維新後、本道の重要性はさらに高まり、明治時代には乗合馬車が走り、大正十年には淀橋〜荻窪間に西武電車が開通しました。西武電車は戦後都電となり、昭和三十九年に廃止されました。なお、杉並の名称は、江戸初期に成宗村・田端村の領主となった旗本岡部氏が、村境の印として、青梅街道沿いに杉の木を植えたことに由来するといわれています。




見所ポイント5の「堀之内新道・ニコニコロード」は、平成六年(1994年)に「東高円寺駅通り商店会」の通称とキャラクターを公募し、約300通の中から「ニコニコロード」とキャラクター「ニコちゃん」が決定されました。同時に「ディズニーランドのように明るい楽しい商店会になるように」との願いを込めて、緑や黄色の明るい色の街頭に新調しました。



大久保通りを越えたところに、田中稲荷神社があります。田中さんを祀った神社ではありません。田んぼの中にあったので田中稲荷神社と呼ばれたのです。神社の前を通って「ニコニコロード」に続く道は「堀之内新道」です。

田中稲荷と堀之内新道

田中稲荷神社は、「受持神」を祭神とした旧高円寺村の農家の守り神で、高円寺天祖神社(高円寺南1−16)の境外末社です。創建等の由緒については不詳ですが、桃園川ぞいに広がっていた水田の中にあったことから、田中稲荷の名で呼ばれるようになったといわれています。以前は、毎年二月最初の午の日(初午)に村の家々で赤飯を炊いておむすびを作り、神前に供えて豊作を祈願したとのことです。現在でも「稲荷講」として、一月遅れの三月の初午の日に、近くの商店や町会の人々によって続けられています。当社の前の道は、「堀之内新道」です。この道は、中野で馬糧商を営み、日蓮宗の熱心な信者で妙法寺の檀家総代をしていた関口兵蔵が、明治二十九年に私財を投じて作ったものです。中野駅から田中稲荷神社の前を通り、現在の蚕糸の森公園の西側を経て堀之内妙法寺の門前までの農道を整備して、道幅四間(7.2メートル)距離約2キロメートルの新道を作りました。「かいば屋」の叶屋が開いた道なので、通称「かいばや道」つまって「かいば道」といわれました。新道は、参詣人や地元の人々にたいへん喜ばれ、昭和三年翁の功績を讃えて地元有志により、「故関口兵蔵翁開道記念碑」が建てられました。




桃園川緑道を渡ります。この辺りの植栽も綺麗ですね。



路地の先にキリンの本社が入った中野セントラルパークの巨大なビルが見えます。キリンが原宿から中野に本社を移したのは2013年の夏のことでした。八丁堀・渋谷・広尾などに拠点を持っていたグループ会社15社を一箇所に統合するための場所に選んだのが中野でした。キリンには「社員食堂」という名前の場所はありません。社員が食事をする場所は、マルチスペースの「Nagomi」と名付けられています。弁当販売はされていますが、厨房はなく、「社食メニュー」は存在しません。「Nagomi」はビルの18階にあり、周囲に高層ビルが少ないこともあって南向きの窓からの見晴らしは素晴らしく、晴れていれば富士山やスカイツリーが見えることもあるということです。約1500坪のフロアには黄・青・緑の3色の椅子が囲む白いテーブルや1人用のカウンター席やソファ席が用意されています。無線LANが備えられ、キリンのアルコール商品が並ぶバーカウンターやプロジェクター設備もあります。「マルチスペース」という名の通り、昼食の場・研修や会議・勉強会・個人的なワーク・プレゼンテーション、はては宴会までさまざまな用途に使われています。飲料事業を行うキリンが敢えて社食機能を設けなかったのは、キリンが飲食業の人達と深い関わりがあり、中野の飲食業の人達とさまざまなかたちで接点を持ちたかったからという理由でした。キリンの商品の多くは飲食店に納入されますので、社員たちが普段から飲食店に足を運び、実際に店で食事を楽しむこと、地元の飲食業を知ることも大切と考えたからなのです。



高円寺駅東側の環七から中野駅までは南北の道路がなく、中央線の線路を横断することは出来ないと思っていました。でも、見所ポイント6の「中央線跨線橋」を使えばそれが出来るんですね。跨線橋の存在は地元民でないと知らないかも。ちなみに、「囲」とは、江戸時代に中野に設けられた犬屋敷に因んだ地名です。五代将軍徳川綱吉によって1685年7月14日に出された「生類憐みの令」にによって造られた犬屋敷は、「御用屋敷」・「御囲」・「御犬囲」とも呼ばれ、中野には「囲町」という地名がずっと残されていたのです。



跨線橋はその名の通り、線路の上を跨いで架けられた橋のことです。橋の上からは、中央線を走る様々な電車が見てとれます。



中央線の北側には、かって陸軍中野学校がありました。戦後は跡地に警察大学校が設立されましたが、2001年に府中へ移転しました。その後跡地が再開発され、2012年に中野セントラルパークとして生まれ変わりました。現在は、公園やオフィスビルと共に、大学施設も混在した未来都市に変貌しています。明治大学の4番目の中野キャンパスは、文系学部と理系学部の学生が共に学ぶ明治大学の中で唯一のキャンパスです。高円寺学園は高円寺小学校と高円寺中学校を総称して、2020年4月1日に開校した杉並区立の小中一貫校です。



見所ポイント7の「座・高円寺」は、劇場やホールなどからなる杉並区立杉並芸術会館の愛称です。「座・高円寺1」と「座・高円寺2」のふたつの劇場、それに「阿波おどりホール」などを有しています。「阿波おどりホール」は、東京高円寺阿波おどりの普及振興などのための施設になっています。高円寺四大祭り(高円寺びっくり大道芸・東京高円寺阿波おどり・高円寺フェス・高円寺演芸まつり)の拠点としても使われています。



ということで、高円寺駅北口に戻ってきました。



見所ポイント8の「高円寺駅ホームからの富士山」ですが、雲が多かったために生憎とホームから富士山の雄姿は拝めませんでした。



杉並区の東側エリアのお散歩は今回で終わり、次は西荻を中心とした西側エリアを巡ります。




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