- 23.西荻窪・上井草編 荻窪・井荻コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「23.西荻窪・上井草編 荻窪・井荻コース」を歩きます。荻窪駅をスタート地点として、荻窪の地名の由来となった萩の名所光明院や妙正寺川の水源である妙正寺池など杉並区の緑溢れる住宅地を巡ります。
「23.西荻窪・上井草編 荻窪・井荻コース」の歩行距離は4.6km、歩行時間は1時間30分です。
スタート地点:荻窪駅北口
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- 1.タウンセブン
- 戦後の新興マーケットが1981年に7階建てビルになりました。屋上から富士山が見え、子供たちを遊ばせる遊具が揃っています。
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- 2.荻窪白山神社
- 旧下荻窪村の鎮守で、かっては歯の神様として知られていました。大神輿と大太鼓が有名で、また女みこしは杉並百景です。
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- 3.光明院
- 通称「荻寺」と呼ばれ荻窪の地名の由来と言われています。本堂は1850年の再建で、多くの文化財や石仏があります。
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- 4.ビストロ・オヂ
- 大正時代に四国から大工さんを呼び、緑豊かなこの地に建てられた住宅で、生垣や花の咲く庭が道行く人を楽しませてくれます。
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- 5.妙正寺
- 1352年に妙正寺池のほとりに建てられたお堂が始まりで、三代将軍徳川家光が鷹狩の折に立ち寄り、ご朱印寺として有名になりました。
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- 6.妙正寺公園
- 妙正寺池を中心にした緑豊かな公園で、冬には多くの水鳥が飛来してきます。つつじが多く植えられ四季折々の花も楽しめます。
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ゴール地点:井荻駅南口
スタート地点の荻窪駅北口から歩き始めます。荻窪駅はJR中央線(快速・緩行)が停車し、東京メトロ丸ノ内線の始発駅にもなってます。平日以外の快速運転が高円寺駅・阿佐ヶ谷駅・西荻窪駅を通過し、荻窪駅だけに停車するのが荻窪住民の自慢です。
見所ポイント1の「タウンセブン」は駅ビルの「ルミネ」と並んで荻窪の二大ショッピングスポットです。荻窪タウンセブンはスーパーの西友を核にして日常的なお店が揃う庶民派指向、一方ルミネは専門店が多く入居してどちらかというと高級指向とうまく棲み分けられています。
かって、ルミネの正面口の向かいの雑居ビルの2階に漢珍亭という中華料理のお店がありました。漢珍亭は昭和二十四年(1949年)に創業したといわれていますが、惜しまれながらも2013年4月末で閉店してしまいました。漢珍亭は、歌手の森進一がデビュー前にアルバイトをしていたことでも知られています。あのダミ声で注文を訊かれるとちょっとビビリますよね。
荻窪駅西口から白山通りを中央線の線路に向かって少し歩いた先に見所ポイント2の「荻窪白山神社」があります。商店街の中に突如現れた緑の鎮守といった感じです。由緒書きによりますと、神社の起源は文明年間(1469年〜1486年)に関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が屋敷内に五社権現社を奉齋したのに始まり、後に中田一族が栄えてここに社殿を建てたといわれています。ここの神様のお告げで社前に生える萩(ハギ)で作った箸で食事をしたら歯痛が治った、という言い伝えがあります。でも、歯が痛かったら食事なんかできませんよね。
荻窪白山神社
この神社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命です。下荻窪村が中世に村をつくっていたことは、宝徳三年(1451年)の上杉家文書や、昭和五十四年に荻窪三丁目三十三番から宝徳前後の年号をもつ板碑が発見されていることからも知られます。当社の起源は、社伝によると文明年間(1469年〜1486年)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉斎したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたといわれます。当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の弟兵庫が、激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をすると不思議に歯の痛みが止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様として信仰厚く参拝者も多くなったといわれます。その萩もかつては境内に多く繁っていましたが、今では社殿北側の老松の根元に一株残っているだけになりました。昭和四十三年の社殿改築の折には、古い社殿の長押から納められた萩の箸が、たくさん出てきたといわれます。社屋や数多い奉納品の中、昭和三年に奉納された神輿は百五十貫余(約563キログラム)もあり、また大太鼓(直径149センチメートル)は、府中の大国魂神社の太鼓につぐ都内第二の大きさであるといわれます。昭和四十二年環状八号線拡張にともなって本殿・拝殿・社務所・玉垣などの増・改・修築や多くの奉納がなされ、今日の姿を得るに至りました。祭日は九月八日です。
荻窪白山神社のご祭神は伊邪那美命という女の神様で、毎年9月7日〜8日に挙行される秋季例大祭では「女みこし」が荻窪の町を練り歩きます。祭神が女神であることから、ぜひ女みこしを実現しようという声があがり、昭和五十四年から40年以上も続いています。境内の神輿庫には立派な大神輿が並んでいますが、女性が担ぐにはちょっと大き過ぎませんかね?
見所ポイント3の「光明院」は通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
光明院
慈雲山光明院は、真言宗豊山派の寺院で通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708年)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝期にさかのぼるものと考えられます。今も寺の周辺に残る「四面堂」・「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。なお、嘉永三年(1850年)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治二十一年(1888年)甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。
光明院はJR中央線の線路に接しています。環八北側から駅の西口に通じる道路がないので、線路添いの境内の通路が地元民の往来の抜け道になっています。
門前の横に3本の案内柱が立っています。観音菩薩座像は本尊ですので拝謁は叶いませんでしたが、板碑と手水鉢は境内にあった筈ですが見落としました。観音菩薩座像の小面は十一体とありますが、左右の垂髻部に二面・地髻部に八面と、どう足しても十一面にはならないのですが?
杉並区指定有形文化財 夜念仏供養結衆交名板碑 一基
室町時代の東国の民間習俗を伝える板碑は、宗教行事に伴って造立されたもので、念仏・夜念仏・月待などのものがあり、本板碑はその中でも早い時期に出現した夜念仏供養板碑の代表的なものです。碑面には、阿弥陀三尊種子と光明真言の月輪、三具足、そして文明三年(1471年)十月十三日夜念仏供養逆修敬白の記銘と、結衆七人の名などが刻まれています。本板碑は、室町時代に杉並にも夜念仏信仰のあったことを示す貴重な資料です。
杉並区指定有形文化財 木造千手観音菩薩座像 一駆
本像は当寺の本尊で、十一面四十二臂、寄木造りの、像高78cmの像です。千手観音像では比較的少ない坐像の形をとっています。本来は、全体に漆を塗って金箔をおいた漆箔造りですが、永年の香煙が体を厚く覆って、くすんだ色になっています。此仏は頂上仏を中心に、左右の垂髻部に二面、地髻部に八面の十一体の小面を差し込んであります。像容は洗練された手法を示し、彫眼でやや伏目なお顔は端正です。本像は、区内には数少ない室町時代の作で、格調ある仏像として貴重です。
杉並区指定有形文化財 天和二年銘手水鉢
手水鉢としては区内最古となる天和二年(1682年)の銘を有し、江戸近郊では希少とされる元禄年間(1688年〜1703年)以前の石造物である。正面・左右面には、蓮華の意匠が厚く浮彫りされており、勢いよく力強い図柄は、直線上の手水鉢の底部とともに、江戸時代前期における石造品の特色を示す。銘文には「荻(ママ)窪村」(荻窪村)の村名や願主、江戸木挽町の石工の名があり、左面にみられる「當寺朝善」は、光明院住職と考えられる。この手水鉢は、江戸時代前期の遺品として貴重であり、上荻窪村の様子を物語る文化財としても貴重である。
薬罐は「やかん」のことです。やかんには取っ手が付いているので、坂道でもコロコロ転がることはないと思うのですが。
薬罐坂
この坂道は薬罐坂と言われていて「豊多摩郡誌」(大正五年刊)には「大字上荻窪本村に俗称薬罐坂と呼べる傾斜路あり、昔雨の夜毎に坂の中程に薬罐の転がり居れる奇怪事ありて、この名を得たるよし。雨の深夜など、今も時として薬罐出ずるなど云うものあり。」と書かれています。今でも地元には、次のような言伝えが残されています。雨のある夜、八丁通りで一杯飲んで、家に帰る途中、ほとんど人家のない下り坂を歩いていると、真赤に焼けた大きな薬罐が道路のまん中に転っていた。一杯ひっかけて良い機嫌なので、じゃまなその薬罐を足でけとばすと、真赤な薬罐は、ころころと下り坂を転がり落ちていった。この話が広まり、その後も何人もの人が、焼けて真赤になった薬罐を見たということから、誰言うともなしに薬罐坂の呼び名がついたと言うことです。今とはちがい交通の開けていなかった区画整理前の薬罐坂は、両側に樹木の茂った薄暗い、道幅も狭い急坂で、大八車などを引いて通るには、大変な坂道でした。そのさびしい坂には、狐狸のたぐいがすんでいて、いたずらをしたということが、この様な伝説を生みだしたのかも知れません。通称地名には、昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。薬罐坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。
閑静な住宅街の一画に、樹木に覆われた瀟洒な建物があります。ログハウスのような外観の一軒家は、見所ポイント4の「ビストロ・オヂ」です。ビストロ・オヂは、歴史的建造物(民家)で、レストランを兼ねています。平成十四年(2002年)2月14日に国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。現在はレストランになっていますが、元々は愛媛県南予出身の末光績によって、大正十三年(1924年)に自宅として建てられました。末光績は札幌農学校と東京大学で学び、後に明治大学教授・恵泉女学園教授などを歴任した教育者でした。学生時代、札幌で過ごした時期に洋館を見て憧れ、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災後の区画整理事業によって生じた土地を購入し、学生時代からの憧れだった洋館を建てることになったのです。末光績は自ら建物を設計し、郷里から棟梁を呼び寄せ、洋館を完成させました。昭和四十八年(1973年)、三男の末光深海によって洋館の活用法が検討され、レストランを開くことになり、1階のテラス周りの改修を行ってレストランを開業し、現在も利用されています。完全予約制で、事前に日時の相談が必要となっているそうです。
路地の入口に金太郎さんの車止めが設置されています。金太郎が登場したのは昭和五十年(1975年)頃です。当時の杉並区広報に「悪質ドライバー阻止に金太郎さんの車止がお目みえ」という写真が掲載されています。昭和四十年代から杉並区内の河川や水路に蓋をする暗渠化が始まり、その上が歩道になった際に、車の進入を防ぐ車止めが設置されました。このうち、子供が遊んだりよく通ったりする遊歩道には、昔話を知るきっかけにと金太郎のパネル付きのものが採用されたそうです。当時の車止めは鉄製で、雨水などにより経年劣化しやすかったため、平成以降は順次ステンレス製に置き換えられています。この流れを受けて、かつて身近に見られた金太郎の車止めも次第に姿を消し、現在では50数基になっています。
路地の交差点角に小さな祠があり、石仏と板碑が収められています。祠の横の茂みの中には案内板が埋まっています。ちなみに、「杳掛:くつがけ」とは、旅人などが道中の無事を祈願して道祖神・庚申・山の神などに草鞋(わらじ)や馬沓の類を掛けて手向けることや、掛けたものをいいます。
民間信仰石塔
ここに建立されている石塔は、向かって右が宝永五年(1708年)銘笠付角柱庚申塔(帝釈天)、左が安永十年(1781年)銘角柱型廻国供養塔です。かつてはここより北西約百メートルの現NTT井草ビル北西角(旧称馬場下道の路地角)に造立されていましたが、大正から昭和初めに行われた土地区画整理の際に当地に移されました。庚申塔は、庚申の夜に体内にいる三尸(さんし)の虫が、その人の悪業を天帝に告げ、寿命を縮めるという道教の説から、人々が集まって夜を明かす庚申待を行った講中が、供養のために建てたものです。この塔は、青面金剛や三猿が彫刻された庚申塔で、「奉造立帝釈天王講中」と刻まれています。一般に庚申信仰では青面金剛が主尊とされますが、日蓮宗では帝釈天を庚申信仰の対象としています。この塔からも、日蓮宗での帝釈天信仰と庚申信仰の結びつきがわかります。また、青面金剛は六臂のものが一般的ですが、これは八臂の青面金剛で区内でも珍しいものです。廻国供養塔は、西国三十三観音などの霊場巡拝を遂げたことを記念して建てたものといわれます。西国三十三観音に加え、江戸時代には坂東三十三観音、秩父三十四観音が設けられ、百観音巡拝の観音信仰が盛んになりました。この塔も、百ヶ所を巡拝したことを記念して建てたものと思われます。塔上部の八字の梵字は、聖観音真言をあらわしています。真言とは、口で唱えると仏と一体となれると考えられている、仏の教えを表現する梵語です。なお、花立にはこの辺りに落ちた焼夷弾の残骸を使用しています。
祠の中の壁には「杳掛庚申塔」という案内板が掛けられています。
杳掛庚申塔
江戸期の庚申供養塔および百観音巡拝供養塔各一基を安置する。かって江戸・明治・大正期を通じ、ここより北西百メートルの旧馬場下道の路地角(現井草電話局北西角)に造立されていた。大正から昭和初めに行われた土地区画整理事業を機に当地に移祀された。昭和三十三年屋根葺替、平成十二年土台嵩上屋根葺替が行われた。
(右の塔)
正面の左右に日輪・月輪像、足元に阿修羅を踏まえ、三猿を配した八臂(うで)の青面金剛像を刻している笠つきの庚申供養塔である。左右の面に碑文を記している。
泰造立帝釈天王講中 現当二世大願成就 宝永五戌子年(西暦1708年)十月十八日
発願 井草村
井口与四右衛門、松原弥五左衛門、榎本勘兵衛、二見弥左衛門、井口市郎右衛門、松原所左衛門、井口傳兵衛、井口伊兵衛、宇田川市右衛門
(左の塔)
地元有志同好者による西国・板東・秩父百観音巡拝達成を記念した三世安楽供養塔である。正面上部に円形マンダラを刻し、その下および左右に碑文を記している。
奉供養四国・板東・秩父三四ケ所為三世安楽也 安永十辛丑年(西暦1781年)三月吉日 武州多摩郡井草村
願主 松?権右衛門、榎本忠右衛門、榎本権四郎、同行三人
道路脇に「科学と自然の散歩道」の案内板が置かれています。下井草地区にはあちこちに置かれていて、お散歩の際のガイドになっています。「科学と自然の散歩道」は、ノーベル物理学賞を受賞し、杉並区内に在住した小柴昌俊博士が「ぐるっと回れる散歩道があれば」と提案したことがきっかけで誕生しました。駅前や周辺の公園を周遊できるように道がつながり、小柴博士の手形が刻まれたタマゴの石像や地元の小学生らが作ったオブジェも沿道に置かれています。
科学と自然の散歩みち
「科学と自然の散歩みち」は、小柴昌俊博士のノーベル賞受賞と名誉区民称号贈呈の記念事業として行いました。地域の貴重な資源(井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館など)をつなぎ、誰もが楽しく周遊できる「散歩みち」です。
見所ポイント5の「妙正寺」は、近隣にある妙正寺池(妙正寺公園)やそこを水源とする妙正寺川の名の由来となっています。墓地には、江戸時代の囲碁棋士で、後に六世本因坊となった本因坊知伯の墓があります。
妙正寺
法光山妙正寺は、日蓮宗の寺で十界諸尊を本尊とし、ほかに大黒天・鬼子母神・三十番神・弁財天などの諸像が祀られています。約六百年前の丈和元年(1352年)、中山法華経寺(千葉県)の第三世日祐上人が、妙正寺池のほとりに堂を建て、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大神など三十番神を勧請したのが草創であり、正保三年(1646年)中興開山日明が社殿再建してから、広く信仰されるようになったといわれます。慶安二年(1649年)、三代将軍徳川家光が鷹狩りの折、神前に武運長久を祈願し、葵の紋幕と朱印地五石を寄進してからは、「御朱印寺」として一層有名になりました。現在でも、毎年十月二十五日に三十番神堂に、葵の紋幕を掲げて一般に公開する法会が行われています。天保元年(1830年)に本堂は古文書類と共に焼失しましたが、天保三年には再建され、昭和六年に改築して今日に至っています。また、三十番神堂及び鐘楼は安政三年(1856年)の大暴風で倒壊し、安政六年に再建されました。なお、現在の鐘楼は、昭和三十八年に新しく建て替えられました。当寺に伝わる鎌倉期から室町期の板碑八基は、妙正寺池周辺の古い村落のことがうかがえる貴重な文化財です。鬼子母神像は、「生毛鬼子母神」と称され、安産に霊験ありとして、江戸城大奥にありましたが、天保改革(1841年)の大興粛清の時、この寺に移されたもので、それ以来この地域の人々に「安産の神」として親しまれてきたといわれます。なお、弁財天像は、もと妙正寺池の弁天島に祀られていたものです。
妙正寺の本堂は天保元年(1830年)に火災によって焼失しましたが、天保三年に再建され、昭和六年に改築されて現在に至っています。安政六年に再建された鐘楼堂の鐘は、戦時中の金属類回収令によって取り外され、牛車にひかれて供出されたそうです。現在の鐘桜堂は昭和三十八年に建替えられました。
見所ポイント6の「妙正寺公園」は、妙正寺川の水源になっている妙正寺池を中心にした公園で、池の周辺の休息コーナー、木製遊具・砂場などの遊具コーナー、そしてゲートボールなどのできる運動コーナーの3つの広場があります。公園の中の池は、湧水によってつくられた池でしたが、近年になって湧水の量が少なくなったため、近くに井戸を掘り地下水をくみ上げて池の水の大部分をまかなっています。岸辺はツツジや花壇でかざられ、その周りには舗装した園路がめぐらされています。園路の外側にはアケボノスギ・サクラ・ケヤキなどの大木が立ち並んでいます。池の中には大小2種類の噴水が設けられ、いろいろな形の水しぶきをあげています。また、池には円い中島が浮かんでいて、そこには水辺の植物とマツが植えられ、池の周辺の景観に彩りをそえています。
妙正寺公園の妙正寺池を水源とする妙正寺川は、落合橋の下から神田川との合流地点に向かって流れ出しています。橋の袂に、「妙正寺川流域案内板」が立っています。
妙正寺川の水源
妙正寺公園の中にある妙正寺池が妙正寺川の水源です。現在は地下水を汲み上げて放流しています。かつては湧水がみられ、池の中島には水の神「弁天様」が祀られていました。戦前までは、この池の湧水と玉川上水の分流により人々は水田を耕し、生活を営んでいました。
井草川遊歩道
旧井草川を整備した遊歩道です。かつて、上井草四丁目の切通し公園を水源とし、妙正寺公園内で妙正寺川に合流する「井草川」という川がありました。かつて井草川に架かっていた道灌橋の名前が公園名に残されています。現在、井草川は暗渠化され、川の流れを見ることはできませんが、緩やかに蛇行した緑豊かな遊歩道を散歩してみてはいかがでしょうか。
井荻町土地区画整理事業
井荻地区の区画整理事業は旧井荻村全域を区画整理の対象としたもので、当時井荻村長だった内田秀五郎らによって計画されました。大正十四年には内田を組合長としてして井荻村土地区画整理組合(後に井荻町)を設立し、昭和十年に完了させました。総面積は888町歩(約888ヘクタール)に及びました。完成を記念した井荻町土地区画整理碑が、青梅街道沿い井草八幡神社の境内に建てられています。
妙正寺川の両側には遊歩道が設けられ、緑に覆われた快適な散歩道になっています。
妙正寺川
妙正寺川は、妙正寺池を水源とし、区内北部をほぼ東へ流れる延長約9キロメートル(区内部分約1.2キロメートル)の川で、中野区・新宿区を経て神田川に合流し、最後は隅田川にそそぎ込みます。武蔵野台地上にある杉並区では、地下6〜7メートルに武蔵野砂礫層が堆積しており、その中を流れる地下水が、標高約50メートル付近にある窪地から地表に湧き出て、飲料水などとして利用されてきました。この湧水も現在ではほとんど見ることができませんが、妙正寺池もその一つです。本川の流域には、小規模な縄文・古墳時代の遺跡が点在しており、古代から人々の生活に適した環境をつくり出していたものと思われますが、水量はそう多くはなかったので、江戸時代になって、千川用水より引水し、神田川上水の助水として利用されてきました。しかし梅雨の頃になると水量が増えるので、人々が集まり、竹竿の先につけたジョレンなどを使い、川をさらったり、長く伸びた川藻を刈取ったりしました。又昔は、神奈川県の大山阿夫利神社を信仰する人が多く、その講中の人々は、代参人を大山に送る時、下流の寺前橋付近にあった「清めの不動様」を祀る大水門で、水垢離(みずごり:神仏に祈願する時、冷水を浴びて汚れを除き、心身を清浄にすること)をとったと伝わっています。日照りが続くと阿夫利神社からの神水と、妙正寺から借りた太鼓を先頭に、大水門から村中を練り歩き、最後にその神水を川に流し、雨乞いをしたといわれています。
妙正寺公園の直ぐ先に中瀬天祖神社が鎮座しています。中瀬天祖神社の創建年代は不詳ですが、妙正寺が十羅刹堂として創建したと考えられています。明治維新後の神仏判然令により天祖神社と改称し、井草八幡宮の兼務社となりました。
中瀬天祖神社
当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡下井草村の条に「十羅刹堂」とあり、「妙正寺ヨリ三町程北ノ方小名神戸ニアリ 妙正寺御朱印地ノ内ナリ 即此ノ寺ノ持」と記されています。十羅刹とは、もと人を食う悪鬼でしたが、後に法華経を守る守護神となった十人の羅刹女といわれています。このことから、日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀ったものと思われます。明治以前は十羅刹様、神明様などと称していましたが、維新後の神仏分離令(明治元年)によって天祖神社と改称されました。祭神は大日(れい)貴神(おおひるめむちのかみ:天照大神の別の尊称)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと:天照大神の姫神)・保食神(うけもちのかみ:穀物や食物の神)の三神です。また、このほかに市杵嶋神社・稲荷神社合殿の境内社が一社あります。「神社明細帳」の由緒には「当社は井草八幡宮の境外神社で井草川の西岸神戸坂の上に在り、極めて古き社にして、神体は一大石剣なり。」とあります。この神体を霊石とする伝説があり、昭和二十年頃までは例祭日には社前で餅をつき“下ベロ餅”という丸餅を参拝者に配りました。この餅を食べると子宝が授かるといわれ遠方からも多数の参拝者があり「神戸の鎮守様」として昔から親しまれてきました。天祖・稲荷それぞれに講中があり、百余名の氏子が熱心に維持管理に当っています。例祭日は十月十五日です。
下井草地区には、道路から外れたところに農地が散在しています。ファミリー農園のように雑然としていますが、一応「生産緑地地区」の指定は受けているようです。「生産緑地地区」とは、良好な都市環境の形成のために、三大都市圏の特定市の市街化区域内の農地等を宅地化の促進を図る農地等(いわゆる宅地化農地)と今後とも保全する農地等とに二分し、後者については生産緑地法に基づき生産緑地地区に指定し、都市農地の計画的な保全を図っていく制度です。指定されると、宅地の造成とか建物の新改築とかは出来なくなりますが、税金面での優遇措置が受けられます。
井荻駅に行くには、駅前通りを歩くか、井草川遊歩道を歩くかの2通りがあります。折角なら、緑濃い遊歩道を歩きたいですね。
ゴール地点の井荻駅は環八に隣接した西武新宿線の駅です。南口新駅舎は平成九年(1997年)5月13日に使用が開始され、小綺麗な外観をしています。それまでは線路の北側に改札口がなく、駅の北側から上り電車に乗車するには、一旦環八の踏切を渡って駅の南側に出てから改札を通り、今度は構内踏切を渡って線路の北側へ戻るといった不便を強いられていました。環八と西武新宿線の立体化工事が行われるまでは環八通りでも有数の開かずの踏切だったため、朝のラッシュ時などは駅の北側に住む利用客は大変な思いをしたことでしょう。
ということで、「23.西荻窪・上井草編 荻窪・井荻コース」を歩き終えました。「8.荻窪北・下井草編 荻窪・井荻コース」と重なる区間も多かったのですが、改めて都会的な中央線文化の荻窪とローカルな西武新宿線文化の井荻との違いを感じました。
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