24.西荻窪・上井草編 井荻・上井草一周コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「24.西荻窪・上井草編 井荻・上井草一周コース」を歩きます。井荻駅をスタート地点として、井草森公園や上井草のスポーツ施設、それに井草川遊歩道など杉並区の憩いの名所を巡ります。  

「24.西荻窪・上井草編 井荻・上井草一周コース」の歩行距離は5.9km、歩行時間は2時間です。

スタート地点:井荻駅北口
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 1.環八通り井荻トンネル
井荻駅の南北1kmはトンネルになっており、地上の中央部は樹木や草花の植えられた緑地にもなっています。換気塔もみえます。
 2.井草森公園
旧機械技術研究所の跡地につくられた、原っぱ・水と森・運動場のゾーンに分かれた公園で、一画は広いお花畑になっています。
 3.水道局貯水槽
上井草スポーツセンター地下の給水池から杉並・練馬に水道水が送られますが、停電時などの衝撃から配管を守るための水槽です。
 4.ちひろ美術館
絵本画家いわさきちひろの没後3年の1977年に、ちひろの業績を記念し、自宅兼アトリエ跡に絵本の美術館として開館しました。
 5.屋敷林
この地域には農地とともにうっそうとした屋敷林があちこちに残されており、地域や住人に潤いと安らぎを提供しています。
 6.早大上井草グラウンド
ラグビー用グラウンドで練習や試合に使われています。エントランス広場では地域の夏まつりやアニメまつりなどが開催されます。
 7.上井草スポーツセンター
東京都が水道貯水池の上に建設した総合運動場(1967年完成)で、現在は区営スポーツセンター。運動場から富士山が望めます。
 8.井草川遊歩道
旧井草川が散策向けの緑道として整備され、一部は小柴博士を記念した科学と自然の散歩道となっています。
 9.区画整理の街並み
大正十四年から10年かけて行われた旧井荻町の大規模な区画整理は、約882haに及び、現在の杉並区の約26%に及ぶ大きさです。

ゴール地点:井荻駅北口


スタート地点の井荻駅北口から歩き始めます。井荻駅は昭和二年(1927年)に西武新宿線の駅として開業しました。北口新駅舎は平成十一年(1999年)に使用が開始され、小綺麗な外観をしています。それまでは線路の北側に改札口がなく、駅の北側から上り電車に乗車するには、一旦隣接する環状8号線(環八)の踏切を渡って駅の南側に出てから改札を通り、今度は構内踏切を渡って線路の北側へ戻るといった不便を強いられていました。環八と西武新宿線の立体化工事が行われるまでは環八通りでも有数の開かずの踏切だったため、朝のラッシュ時などは駅の北側に住む利用客は大変な思いをしたことでしょう。



井荻駅のすぐ西側を通る環八は、1996年までは西武新宿線と普通の踏切で平面交差していたために渋滞の名所としても悪名高い場所となっていました。そのため、大規模な駅改良工事と並行して環八の改修が行われ、現在は地下に井荻トンネル、地上には側道通行車両用の陸橋が架けられ、トンネルと線路と陸橋の多重立体交差になっています。つまり、地下にトンネルを通しただけでは側道(大きな道路の近くにあるわき道・ぬけ道・間道)を利用する車が依然として踏切と平面交差しますので、踏切の上に陸橋を渡して電車と側道を利用する車を立体交差させたのです。



井荻駅から北上し、新青梅街道に出ます。新青梅街道は井草三丁目交差点で環八と交差します。環八の交通量は多くないように見えますが、実はこの区間は見所ポイント1の「環八通り井荻トンネル」になっているのです。井荻トンネルは杉並区から練馬区にかけての環八通り地下に設けられた全長が1263mの道路トンネルで、西武新宿線・早稲田通り・新青梅街道・千川通り・旧早稲田通りと地下で交差しています。地下に道路トンネルを造ったのは、環八と交差する主要道路が多く、交差点が陸橋だらけにならないようにしたからと推測します。道路の陸橋は傾斜を抑えるために距離を長くとっており、陸橋が連続すると上り下りで車酔いしてしまいますからね。



井荻トンネルの北換気塔は、南換気塔と共に井荻トンネル内の排ガスを出し外気を入れる施設です。将来、車が全て電動化された暁には撤去されるのでしょうか?



見所ポイント2の「井草森公園」は、杉並区立の公園としては最も広い4万u弱の面積があります。此の地には、かって旧通産省工業技術院機械技術研究所がありました。研究所が昭和五十五年(1980年)につくば市に移転した後、跡地を利用して井草森公園が造られました。跡地には公園の他に不燃ごみ中継施設である杉並中継所も造られました。しかし、平成八年(1996年)頃から杉並中継所付近の地域住民がのどや目に痛みを訴えるいわゆる「杉並病」が発生し、マスコミに大きく取り上げられて社会的な問題となりました。杉並区は不燃ごみの減少等によって2009年3月31日をもって杉並中継所を廃止しました。現在は、かっての杉並中継所の屋上部に天然芝が敷かれ、井草森公園運動場となっています。



公園には遊具や広場や池などが整備され、樹木や芝生や草花の緑も映えて、地域住民の憩いの場になっています。



新青梅街道に面して、見所ポイント3の「水道局貯水槽」の巨大なタンクが聳えています。停電時の衝撃から配管を守るための施設だそうですが、イマイチその役割が分かりません。



見所ポイント4の「ちひろ美術館」は、1977年に絵本画家いわさきちひろの自宅兼アトリエ跡に開館した絵本美術館で、ちひろの原画約8000点の他、世界各国の絵本画家の作品約9000点を収蔵し、約2ヶ月ごとにテーマをかえて展示を行っている、赤ちゃんから大人まで世代を超えて楽しめる美術館です。いわさきちひろは、子どもを生涯のテーマとして描き続けた水彩画家です。「世界中の子ども みんなに 平和としあわせを」という言葉を残した彼女は、描いた子どもや花を通して命の輝きと平和の大切さを語り続けています。



杉並区には、周囲を高い塀で囲った広大な敷地の屋敷が幾つか見られます。見所ポイント5の「屋敷林」の敷地内には巨樹が生い茂り、天を突いています。



見所ポイント6の「早大上井草グラウンド」は、上井草駅のすぐ近くにあり、ラグビー場と上井草体育館を併設した早稲田大学の運動施設です。メイングラウンドは天然芝になっていて、全天候型ランニングコースやスクラム練習場を併設しています。夜間練習のための照明設備も備え付けられています。また、敷地内にはラグビー部の合宿所やクラブハウスもあります。ラガーマンにとっては天国のような施設です。



見所ポイント7の「上井草スポーツセンター」は上井草にある総合体育館で、1998年までは上井草総合運動場と呼ばれていました。2022年からは「TAC杉並区上井草スポーツセンター」という愛称で呼ばれています。此の地にはかって西武鉄道が1927年に整備した運動場があり、その後1936年には上井草球場が完成しました。東京六大学野球やプロ野球の試合が行われていましたが、1959年に東京都に買収され、1964年に上井草給水配水池という水道施設が造られました。1967年に、水道施設の上に運動場が開設され、1979年に東京都から杉並区に管理が移されました。1995年から改修工事が始まり、1998年に現在の総合スポーツセンターになりました。



上井草スポーツセンター沿いの道路は歩道が整備され、街路樹が植えられています。

かみいぐさ雑木みちプロジェクト
(雑木の株立ちによるまちなみづくり)

この歩道に植えられている樹木は、それぞれ一つの根元から複数本の幹が立ち上がっています。この特徴的な樹形を、株立ち(かぶだち)といいます。上井草一帯が近郊農村だったころ、この地域では藍・独活(ウド)・小麦・野菜などの農産物とともに、薪の生産が行われていました。どんぐり山公園、四宮森公園、瀬戸原公園などに現存するクヌギ・コナラを中心とする雑木林はそのなごりです。木の畑だった雑木林は8年〜15年周期で伐採されました。残った根株から生じる複数本のひこばえが成長すると、株立ちの樹形となります。樹木の再生力を利用するこの管理方法は萌芽更新(ほうがこうしん)と呼ばれ、日本各地の里山の暮らしにおいても行われてきました。株立ちは一株がすなわち小さな林です。道沿いの各家庭が雑木の株立ちを植えることで、まちなみにみどり豊かな奥行きと連続性が生まれ、まちが一つの庭のようになることを期待しています。




見所ポイント8の「井草川遊歩道」は、かって杉並区内を流れていた旧井草川を整備した遊歩道です。上井草四丁目の切通し公園を水源とし、妙正寺公園内で妙正寺川に合流していた井草川ですが、現在は暗渠化され、川の流れを見ることはできません。しかし、穏やかに蛇行した緑豊かな遊歩道から旧井草川の面影を辿ることができます。



遊歩道の入口に金太郎さんの車止めが設置されています。金太郎が登場したのは昭和五十年(1975年)頃です。当時の杉並区広報に「悪質ドライバー阻止に金太郎さんの車止がお目みえ」という写真が掲載されています。昭和四十年代から杉並区内の河川や水路に蓋をする暗渠化が始まり、その上が歩道になった際に、車の進入を防ぐ車止めが設置されました。このうち、子供が遊んだりよく通ったりする遊歩道には、昔話を知るきっかけにと金太郎のパネル付きのものが採用されたそうです。当時の車止めは鉄製で、雨水などにより経年劣化しやすかったため、平成以降は順次ステンレス製に置き換えられています。この流れを受けて、かつて身近に見られた金太郎の車止めも次第に姿を消し、現在では50数基になっています。



遊歩道の植え込みの中に井草川の案内板が立っています。

井草川

足元の遊歩道は、昔は井草川と呼ばれる川の流路となっていました。井草川は、上井草4丁目付近を谷頭とし、流路の北限となる井草4丁目の矢頭公園付近まで北東へ向かい、そこから東南へと流れを変え、清水3丁目で妙正寺川に注いでいました。水源から妙正寺川との合流地点まで、約3.5キロメートルの小河川でしたが、地域の生活を支える河川でもありました。宝永4年(1707年)、下井草村名主半兵衛らの尽力により、千川上水(用水)を分水して青梅街道沿いに用水が開削されました。その水を谷頭口から取り入れた井草川は田方用水として積極的に利用されるようになり、明治期まで両岸には水田が広がっていました。右の写真は昭和30年代の様子です。井草川は、魚を捕るなど子どもたちの恰好の遊び場ともなっていました。このような井草川ですが、周辺の宅地化に伴い、暗渠化が進み、昭和56年(1981年)には全ての流路が暗渠となりました。井草川には更に古い歴史もあります。井草川流域には旧石器時代や縄文時代など、26か所もの遺跡があり、往時から人びとに利用されていたことがわかっています。このなかで、井草川上流から中流部にかけては、これまでに7遺跡で発掘調査が実施されています。調査では、旧石器時代(32,000年前頃〜15,000年前頃)から縄文時代草創期・早期(15,000年前頃〜8,000年前頃)の資料が多く発見され、特に古い時代の遺跡が集中していることは、この地域の特色といえます。このように、井草川は先史時代から現代に至るまで、生活の舞台となっており、地域に恵みをもたらす川として多くの人びとに受け継がれてきました。台地に刻まれた井草川の流れは、地域に刻んだ歴史とともに、現在は公園や遊歩道として親しまれています。




昭和三十年代、井草川で遊ぶ子供達です。昔はこうゆう風景が日常だったんですけどね。



井草川は源流から北東方向に流れ、その後大きくカーブして南下します。川の水は低いところから高いところには流れませんので、地形的には傾斜のある台地の周囲をぐるっと巡っていたのではないかと思われます。そのカーブした頂点あたりで西武新宿線と交差します。線路の手前と向こう側はフェンスで仕切られた空き地になっていて近づけません。暗渠化される前は当然川を跨ぐ鉄橋が架かっていた筈です。一説によれば、橋の名前は「第5妙正寺川橋梁」と「第6妙正寺川橋梁」となっていたらしいです。本来は妙正寺川全体も含んで井草川と呼ばれていたそうですが、逆のこともあったのかもしれません。



下井草駅周辺は昭和初期に区画整理が行われ、碁盤の目のように整然と美しく、見通しのよい住宅街が形成されました。見所ポイント9の「区画整理の街並み」には、広い敷地に個性的な外観の一軒家がゆったりと建ち並んでいます。この区画整理事業を主導したのは、明治九年(1876年)に上井草村に生まれ、30歳という日本一の若さで井荻村の村長に就任し、町長・府議・市議・都議を経て都議会議長を歴任した内田秀五郎です。内田秀五郎は、都農業会会長・全国農業委員会協議会会長・東京青果協会会長などの農業分野の役職も務めました。関東大震災以降に進行が加速した東京近郊の都市化への対応に力を入れ、省線中央本線に西荻窪駅の設置を実現し、新たに開通した西武鉄道にも上井草・井荻・下井草の三駅を誘致しました。加えて村主導で大規模区画整理を手掛け、村長だった内田秀五郎が中心となって村全域を対象として計画されました。内田秀五郎は近い将来の都市化を見越して区画整理の必要性を説き、大正十四年(1925年)9月に「井荻村土地区画整理組合」を設立し、反対派を説得のうえ、昭和十年(1935年)、約10年間をかけて事業を完了しました。この時の区画整理事業の総面積は約880ヘクタール余りに及び、単一町村独自で行った事業としては全国屈指の大規模なものでした。現在の整然とした街並みもこのようにして実現されました。また、善福寺一帯を風致地区としたり、産業面でも井荻信用購買組合(現・西武信用金庫)や東京新宿青果(現・東京新宿ベジフル)を創立し、中島飛行機東京工場(跡地は現在の桃井原っぱ公園になっています)の誘致に成功しました。先見の明があった人だったんですね。



井荻駅北口に戻ってきました。「24.西荻窪・上井草編 井荻・上井草一周コース」は比較的地味なコースでしたが、西武新宿線周辺の緑溢れる街並みや井草川遊歩道、それに広大な公園など、杉並区の自然を堪能しました。






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