25.西荻窪・上井草編 上井草・西荻窪コース  

コース 踏破記  

今日は杉並区の「25.西荻窪・上井草編 上井草・西荻窪コース」を歩きます。上井草駅をスタート地点として、都立農芸学校の多様な校舎や桃井原っぱ公園、それに荻窪の鎮守である荻窪八幡神社など杉並区の隠れた名所を巡ります。  

「25.西荻窪・上井草編 上井草・西荻窪コース」の歩行距離は4.7km、歩行時間は1時間30分です。

スタート地点:上井草駅南口
↓ 
 1.都立農芸高校
校舎の建つブロックの周囲に野菜・果樹・施設園芸・重機実習など多くの農場を有しており、広い緑の空間となっています。
 2.都立農芸高校馬場
農芸高校のアイドルとなっている馬が走る姿を見ることができます。
 3.桃井原っぱ公園
かってゼロ戦のエンジンを設計・製造した地に、平成二十三年に公開された災害時の拠点を兼ねた公園で、広い芝生が象徴的です。
 4.プロムナードの並木
青梅街道から原っぱ公園まで200mけやき並木が続いており、周囲の大きな建物群と落ち着いた調和を見せています。
 5.ロケット発祥の地
日産自動車の南西の角に「旧中島飛行機発動機発祥之地」と「ロケット発祥之地」の2つの記念碑が並んでいます。
 6.青梅街道
 7.荻窪八幡神社
旧上荻窪村の鎮守で1100年ほど前の寛平年間に建立されたと伝えられ、太田道灌が植えたと言われる「道灌槇」がご神木です。
 8.杉並アニメーションミュージアム
アニメの歴史や原理などを体験しながら楽しめ、アニメの最新情報などの企画展もあり、親子で楽しく過ごせます。
 9.善福寺川
善福寺池を源流とし中野区との区境で神田川に合流しますが、比較的川幅が広く水量も豊富で、水草も生え、多くの水辺の鳥が飛んできます。

ゴール地点:西荻窪駅北口


スタート地点の西武新宿線上井草駅南口から歩き始めます。上井草駅は昭和二年(1927年)4月16日に西武新宿線の前身である西武村山線の駅として開業しました。南口新駅舎の供用が始まったのは昭和六十二年(1987年)3月5日のことです。現在は相対式ホーム2面2線を有する地上駅となっており、本川越方面行きホーム側の駅舎は南口、西武新宿方面行きホーム側の駅舎は北口にあり、各ホーム間を連絡する跨線橋は設置されていません。そのため改札内でのホーム間の移動はできなくなっています。将来は橋上駅舍にして、島式ホーム1面2線にする計画があります。行き先によって北口と南口を使い分けるのは駅の利用者にとっては不便ですね。ちなみに、「井草」という地名の由来には諸説あります。
  • この地が善福寺池・妙正寺池周辺の低湿地にあり、藺草(イグサ)が生えていた。
  • 池の草と呼ばれた葦(ヨシ)がたくさん生え茂っていて、池の草→葦草(いぐさ)となった。
  • 町域が善福寺池と妙正寺池との間の草原にあって、「池(井)」と草原の「草」を合わせた。
  • この地を開拓した長左衛門という人物が井口姓を名乗り、「草分け長左衛門」と呼ばれていたことから「井」と「草」を合わせた

  • 二番目のゴロ合わせがよく分かりませんね。




上井草周辺には多くのアニメ製作会社が集まっています。「機動戦士ガンダム」で知られるアニメーション製作会社のサンライズ本社も上井草にあります。2008年3月25日に、ガンダムアニメ監督の富野由悠季をはじめとした関係者の参列のもと、上井草駅前にガンダムのブロンズ像の除幕式が行われました。ブロンズ像の足元に「大地に立つ!」のプレートが置かれていますが、これは、テレビアニメ「機動戦士ガンダム」の第一話のタイトルです。



早大上井草グランドは、上井草駅のすぐ近くにあり、ラグビー場と上井草体育館を併設した早稲田大学の運動施設です。メイングラウンドは天然芝になっていて、全天候型ランニングコースやスクラム練習場を併設しています。夜間練習のための照明設備も備え付けられています。また、敷地内にはラグビー部の合宿所やクラブハウスもあります。ラガーマンにとっては天国のような施設です。



見所ポイント1の「都立農芸高校」は、明治四十二年(1900年)に豊多摩郡立農業学校として東京府豊多摩郡中野町に創立されました。昭和三年(1928年)に現在の場所に移転し、昭和十八年(1943年)に都立農芸学校に改称しました。総敷地面積は東京ドームの約1.6倍の73、304uあり、本校舍の他に実習棟や多くの圃場(ほじょう:農産物を育てる場所)があります。食品科学科・園芸科学科・緑地環境科(造園を学ぶ学科)が設置されています。食品科学科にはワイン貯蔵庫もあるんだとか。試飲はしないんですかね?



上井草農場は農芸高校の専用施設です。外から見ると雑木林のようですが、中では実習授業で野菜や草花などを栽培し、収穫した野菜は毎週2〜3回、園芸棟南側の門のそばにある「実習生産物販売所」で一般の人向けに販売しています。



都立農芸高校には都立で唯一の馬術部があり、全国大会優勝の実績もあります。見所ポイント2の「都立農芸高校馬場」には厩舎があり、その前に「EQUESTRIAN TEAM」と書かれたプレートが置かれています。「EQUESTRIAN」とは、「馬術の」とか「乗馬の」とかの意味があります。「農芸高校馬術チーム」ってところですかね。厩舎の壁には「ジェネラルノブレス」という馬名のプレートが掲げられています。馬名は「高貴な、気高い将軍」といった意味らしいです。2006年4月18日生まれの牝・騙(セン)のサラブレッドだそうで、競走馬データベースにも登録されています。最初は中央競馬、後に地方競馬で活躍し、引退後は農芸高校で過ごしていたようです。ネットの書き込みでは、2021年6月29日に不慮の事故で急逝してしまったとありますが、私が馬場に立寄ったのは8月19日なので、厩舎にいるのは別の馬みたいです。



観泉寺は、戦国大名の末裔である今川氏の菩提寺です。境内にある今川氏累代の墓は東京都の旧跡に指定されています。枝垂桜や紅葉などの名所としても知られています。「幕府高家」とは、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職のことで、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)の意味もあります。今川氏は明治時代に断絶しましたが、現在の地名「今川」は今川氏に由来しています。

観泉寺

当寺は、宝珠山観泉寺といい、本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られています。寺伝によれば、慶長二年(1597年)、今の下井草二丁目付近に鉄叟雄(さく:族に鳥)大和尚により開祖され、観音寺と称しました。正保二年(1645年)、今川十三代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三ヶ村五百石の加増を受けました。それを機に当寺を菩提寺とし、現在地に移して寺名を観泉寺と改めました。信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興とし、万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬、勧請開基しました。ここに眠る開基の今川氏真は、今川氏が敗れた永禄三年(1560年)五月十九日の「桶狭間の戦」で父義元を失い、家督を継ぎますが、領国であった駿河は北条氏・武田氏が、遠江は松平元康(徳川家康)が支配することになりました。今川氏没落後の氏真は、北条氏や松平氏の下に身を寄せ、文化人として多くの和歌を詠んでいます。徳川幕府が成立したのち、今川氏は幕府高家として召し抱えられ存続しました。境内墓所にある、氏真を含む今川氏累代の墓は都の旧跡に指定されています。




今川家累代のお墓は墓地にありますが、観泉寺の前には都旧跡を示す石柱が建っています。



墓地には沢山の墓碑が建っていて、表面が剥がれかかっていますので、どれが誰のお墓なのか判別がつきません。

東京都指定旧跡
今川氏累代墓

戦国時代、桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた今川義元の子孫は、江戸時代には高家として幕府に仕えました。今川家は知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めました。義元から三代目となる直房はこの観泉寺を今川家の菩提所とし、今川氏の始祖国氏や義元など今川一族の供養を行うようになりました。墓碑が残るのは義元の子氏眞以降の当主や一族出身の女性や子供などなど多岐にわたっています。また、観泉寺は今川氏の所領支配の中心でもあり、年貢の徴収や裁判の拠点となっていました。この周辺の今川という地名も今川家と観泉寺とのかかわりに因むものです。

Historic Places
Imagawashi Ruidai no Haka
(The Graves of Imagawa clan)

Imagawa clan is a noble family of the Seiwa-Genji (Minamoto clan) lineage. After the death of Imagawa Yoshimoto in the Battle of Okehazama, Imagawa Ujizane who succeeded to Yoshimoto couldn't keep the dominion, so Imagawa clan was destroyed. But in the Edo period, Ujizane received support from Tokugawa Ieyasu, and Imagawa Naofusa (a grandson of Ujizane) was appointed to Koke (Hereditary officials, masters of rites and ceremonies for the Tokugawa Shogunate.) to held their dominion in Kamiigusa, Shimoigusa, Saginomiya, and other places. Kansenji Temple became clan's temple since the Naofusa era. Most of gravestones in the burial-ground are for descendants of Ujizane. (Chomeiji Temple in Wada, Suginami Ward is also Imagawa clan's family temple.)




季節は夏で、本堂の右手にある枝垂れ桜は緑の葉に覆われています。桜が満開の時期であれば、さぞや見応えがあることでしょう。秋には紅葉の名所にもなるそうです。



中央大学杉並高等学校は、昭和三十八年(1963年)に開校した中央大学の附属学校です。在校生のうち、毎年9割の生徒が中央大学に進学しています。中央大学は法曹関係で活躍している卒業生が多く、最近は下降気味ですが昭和の頃は旧制度の司法試験の合格者数では毎年トップにランクされていました。公認会計士試験にも強く、杉並高等学校の卒業生も毎年数名が合格しているとのことです。



観泉寺のすぐ先に荻窪病院があります。その起源は、昭和八年(1933年)12月に開設された中島飛行機東京製作所の医務室でした。昭和二十一年(1946年)1月に慶應義塾大学病院の医師らが中心となり、「荻窪病院」としての運営が開始され、現在の本館が竣工したのは(1994年)2月のことです。荻窪病院は急性期医療を行なう地域医療支援病院の位置づけで、一次医療を行う地域の病院や開業医(かかりつけ医)を支援し、専門外来や入院、救急医療など高度な地域医療の中核を担っています。心臓血管外科には定評があるそうです。



見所ポイント3の「桃井原っぱ公園」は、日産自動車荻窪工場の跡地に造成された公園です。園内には広々とした緑の芝生が広がり、公園につきものの遊具は見当たりません。これは公園が防災機能も備えていて、災害時にはヘリコプターの離発着も行われるためと思われます。公園の入口に公園ができた経緯を記した案内板が立っています。

公園ができるまで

この地は、かつて中島飛行機(株)の原動機工場が建ち、国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、当時世界に名を轟かせた零戦のエンジンも設計・製造されました。戦後、幾多の変遷を経て日産自動車(株)荻窪工場となりましたが、その間日本のロケット第1号も開発されています。その後工場は移転、跡地は売却されることとなりました。公共性の高い跡地利用を望む日産自動車(株)に対し、区は「防災公園街区整備事業」を活用して防災公園と市街地を一体的に整備するために、現UR都市機構に事業を要請。地域の方々と検討を重ね、跡地の利用方法や公園の内容を決定しました。この公園は、平常時は地域の人々の憩いの場として、災害時は周辺の消防署、警察署、病院等と連携した避難拠点として大きな効果が期待されています。

大正十四年   中島飛行機(株)東京工場開設
昭和四十一年  日産自動車(株)荻窪工場開設
平成十年    工場移転
平成十二年   跡地の計画検討開始
平成十三年   公園の都市計画を決定
平成十四年   桃井原っぱ広場暫定公開
平成十五年   市街地整備工事着手
平成十七年   懇談会による公園検討開始
平成二十一年  公園整備工事着手
平成二十三年  公園開園




跡地の敷地面積は9ヘクタールもあり、西半分はURのプロムナード荻窪団地となっています。2005年8月に完成し、地上3階建て〜14階建ての住宅には、331世帯が入居しています。



見所ポイント4の「プロムナードの並木」は、桃井原っぱ公園から青梅街道に至る、長さ約200mほどの並木道です。プロムナードは遊歩道や散策路という意味ですが、URの団地名が「プロムナード荻窪」ですので、団地に属する並木とも思われるのですが、URではただの並木道と呼んでいますので、団地の横にある並木といったところでしょうか。背丈が随分と高いので、再開発の時期から考えると、かなりの高木が植えられたのでしょう。



敷地内には、クイーンズ伊勢丹を始め、ユニクロやモスバーガーも入ったモールもあります。クイーンズ伊勢丹は、昭和五十九年(1984年)に設立された伊勢丹高級食品専門店を起源としているスーパーマーケットです。紀ノ国屋とか旧大丸ピーコック(現在はイオンマーケット)や旧松坂屋ストアと並んで高級スーパーの代名詞のような存在です。



青梅街道の「桃井三丁目」交差点の北東隅に、見所ポイント5の「ロケット発祥の地」の記念碑があります。中島飛行機東京製作所は戦後に解体・分社され、富士精密工業となり、この時代から東大生産研究所と共にペンシルロケットの開発に携わりました。富士精密工業はプリンス自動車工業となり、やがて日産自動車に吸収合併されます。ロケット部門は日産自動車の宇宙航空事業部となり、M−Vに至るまでの日本の固体ロケットを作り続けました。その後日産がルノーと提携すると、航空宇宙事業部は2000年にIHIに売却され、現在はIHIエアロスペース社となっています。南西隅の一角に日産プリンス東京販売店があるのもその名残りです。

ロケット発祥の地

戦後間もない昭和二十八年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東京大学生産技術研究所(現、文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受け、ロケットの開発に着手した。2年後の昭和三十年にはペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と後進に受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成十年5月に群馬県富岡市へ移転したが、跡地は再開発されることにな った。この地の生み出した創造的意義に鑑み、ここに記念碑を建立し、往時を偲びつつ、宇宙開発の更なる発展を祈念するものである。




見所ポイント6の「青梅街道」は、杉並区役所辺りから北西に延び、プロムナード荻窪の前を通っている杉並区の大動脈です。ここには案内板はありませんが、蚕糸の森公園の前に立っていましたね。

青梅街道

この前の道は青梅街道です。青梅街道は慶長十一年(1606年)、江戸城修築の城壁用に武州多摩郡の上成木村・北小曽木村(現青梅市)産出の石灰を運ぶ道(初期には成木街道とよばれた)として、大久保石見守長安によって開かれたと伝えられています。石灰輸送は城の修築等のほか、民間の需要も多く、最盛期には年間二万俵以上にも達したといわれます。道中には中野・田無・小川・箱根ヶ崎・藤橋等継送りのための宿駅がおかれ、区内の田端・成宗・馬橋・和田の四箇村は中野宿の定助郷(江戸時代、宿駅常備の人馬が足らず指定されて応援の人馬を負担する課役)と定められ、一か月十日間の伝馬継立を行っていました。江戸中期以降、青梅街道は江戸の都市域の拡大と経済の発展にともなって、江戸と近郊農村との商品流通路・甲州への脇往還(甲州街道)としての性格を強め、一方、御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても発展しました。御嶽参詣の道中を記した天保五年(1834年)刊行の「御嶽菅笠」は、「荻久保(窪)の中屋の店に酔伏て」と、当時のにぎわいの様子を伝えています。維新後、本道の重要性はさらに高まり、明治時代には乗合馬車が走り、大正十年には淀橋〜荻窪間に西武電車が開通しました。西武電車は戦後都電となり、昭和三十九年に廃止されました。なお、杉並の名称は、江戸初期に成宗村・田端村の領主となった旗本岡部氏が、村境の印として、青梅街道沿いに杉の木を植えたことに由来するといわれています。




青梅街道に面して、見所ポイント7の「荻窪八幡神社」が鎮座しています。荻窪八幡神社の創建は寛平年間(889年〜898年)とされ、旧上荻窪村の鎮守でした。

荻窪八幡神社

この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約千八十年前の寛平年間に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。永承六年(1051年)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平五年(1062年)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。また文明九年(1477年)四月、江戸城主太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が、五百年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。なお、当社には、永仁二年(1294年)、嘉慶二年(1388年)、応永二十九年(1422年)銘の板碑、その他土器や石器類、社宝の勝海舟の大幟、掛軸などがあります。祭日は九月十五日です。




境内の入口に4本の案内柱が立っています。コウヤマキ(高野槙または高野槇)は日本の固有種で、その名前は高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来しています。高野山では霊木とされていますが、水に強くて朽ちにくいことから、湯船材や橋梁材として重宝されています。古代には棺材として最上級とされ、弥生時代や古墳時代には木棺として用いられていました。

杉並区指定 有形文化財
延宝七年銘石造狛犬 一対

延宝七年(1679年)に造立されたと考えられる区内最古の狛犬で、本殿内に安置されています。背から脚にかけて「延宝七未年九月 日 八旛宮 荻久保村」という銘文がみられます。都内の石造狛犬としては、浅草寺(台東区)にある恵比寿大黒天堂の延宝三年(1675年)銘のものに次ぐ古さです。高さ26センチほどの、前足を立てて後足を折伏せる「犬座姿勢」をした小さな狛犬で、楕円形の頭に大きな口のあるユーモラスな顔立ちをしています。素朴な中にも入念な彫造を施した造形は、江戸初期の作風をうかがわせるものです。

杉並区指定 天然記念物
荻窪八幡神社のコウヤマキ 一本

当社本殿前のコウヤマキは、幹周囲(目通り)2m、樹高20m、樹齢は300年以上と推定される巨樹です。コウヤマキは日本特産の常緑高木で、天然生育地は限られていますが 、日吉社、権現社あるいはこれらに属する系統の社頭には、神木として植栽されることもあります。当社のコウヤマキもこの例と思われ、太田道灌が石神井城攻撃に際し戦勝祈願の為献植したとも伝えられています。300年を超える樹齢にもかかわらず樹勢も優れ、都内でも有数なコウヤマキとして貴重なものです。

杉並区指定 有形民俗文化財
板絵着色製茶図

この絵馬は、収穫した茶葉を緑茶に加工する製茶の工程と製茶に関わる茶師を描いたもので、「揉み」「仕上げ」「計量」「運搬」の工程を行う計七名の人物が描かれています。この絵馬が奉納された明治十五年頃には杉並地域でも製茶が盛んでした。小規模ながらも、人々の生産意欲は強く、この絵馬の奉納は、新しい農産物にかけた農民の心情と厚い信仰心を物語るものといえます。本絵馬は、杉並区の産業資料として、また当時の信仰や風俗を伝えるたいへん貴重な資料です。

杉並区指定 有形文化財
勝海舟筆荻窪八幡神社大幟 一対

幕臣で明治期の政治家、勝海舟(1823年〜1899年)直筆の大幟である。明治十五年(1882年)当時の荻窪八幡神社神職に男子が生まれた記念の品として、上荻窪村の氏子が勝海舟に揮毫を依頼し、海舟はミゴ箒で一気に字を書き上げたと伝わる。海舟の日記である「海舟日記」にも関連の記述が確認できる。この大幟は、海舟が直接布地へ揮毫を行った真筆の幟と考えられ、揮毫の経緯が判明している点などから、現存する勝海舟筆の幟のなかでも特に希少である。




太田道灌は室町時代後期に関東地方で活躍した武将で、江戸城を築城したことで知られています。武将としても歌人としても一流との定評でした。そんな道灌に山吹伝説があります。道灌が父を訪ねて越生の地を訪れた際、突然のにわか雨に遭い、農家で蓑を借りようと立ち寄りました。その時、農家の娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。道灌は蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしく思いました。後でこの話を家臣にしたところ、それは「後拾遺和歌集」の「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間の茅葺きの家であり、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わりました。古歌を知らなかった事を恥じた道灌は、それ以後歌道に励み、歌人としても名高くなったということです。山吹の伝説はあちこちにありますね。

道灌槇

関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。道灌は文明九年四月十三日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。文明九年四月十六日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが、昭和九年の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢五百年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。昭和六十一年三月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。




神社の境内には、あちこちにJAグループによるさまざまな野菜の発祥地を記した案内板が立てられています。

江戸・東京の農業 クリの豊多摩早生

東京はかつて、クリの大産地でした。大正から昭和の初期にかけて、主に北多摩の農村地帯では、雑木林にまじって広大なクリ園が、果てしなく続いていました。このクリは、当八幡神社の近くに住む市川喜兵衛(豊多摩郡井荻村荻窪)が明治二十年頃、栽培中の茶園内に自生のクリ苗を発見、偶然早く稔る早生の栗ができた事から、明治四十一年、当時の郡名にちなんで「豊多摩早生」と命名しました。小粒で収量はあまり多くありませんが、秋まで待たずに、8月中旬から下旬には収穫できるので市場では高値で取り引きされ、全国的にも有名となり各地で栽培されていました。特に第2次世界大戦後、クリに大被害を与えた害虫・クリタマバチに強い抵抗性をもっている豊多摩早生は、品種改良の親として用いられ、伊吹(農林省果樹試験場で、銀寄に豊多摩早生を交配)という優良品種を生み出しました。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Toyotama-Wase, an Early Ripening Chestnut

Tokyo used to be a big production area of chestnut. Especially, in the rural district of Kita-Tama, a great many chestnut farms spread extensively throughout the thickets of assorted trees. Around 1887, Kihei Ichikawa, a farmer who lived nearby, found by chance an unusually early ripe chestnut tree and named it Toyotama-wase after the name of the county. Although the nut is small and not particularly high-yielding, it was traded at higher prices in the market because of its early appearance from mid-to late August before the onset of fall. It soon acquired a nationwide high reputation and became a popularly grown variety of chestnut throughout the country.




桃井第一小学校の前に「井荻町役場跡」の案内板が立っています。

井荻町役場跡

この地には昭和七年十月一日杉並区が成立するまで、井荻町役場が置かれていました。明治二十二年市制・町村制の施行に伴い「上井草村」・「下井草村」・「上荻窪村」・「下荻窪村」の4村が合併し、井草の井と荻窪の荻をとり「井荻村」が誕生しました。井荻町役場の前身となる井萩村役場は当初、ここより荻窪駅寄りの青梅街道沿いに置かれましたが、明治三十二年十二月にこの地に移転しました。誕生当時の井荻村は、人口2、925人の農業を中心とした典型的な西郊の一農村でした。しかしその後交通機関の発達もあり、大正十二年の関東大震災以降、都市近郊の住宅地として人口が急激に増加し、大正十五年七月一日、村は町制を布き井荻町となり、同年十月には、二階建ての新庁舎が落成しました。この年の人口は13、514人でした。人口の流入によって、村から町へ発展する中で、都内でも有数の大規模な土地区画整理が行われました。また、町営水道の敷設、西武線の誘致などが行われ、現在のこの地域の基礎が築かれました。区になる直前の人口は25、968人になっていました。昭和七年十月、町は「和田堀町」・「杉並町」・「高井戸町」と共に杉並区として東京市へ編入され、井荻町役場はその役割を終えました。




見所ポイント8の「杉並アニメーションミュージアム」は、杉並区が地場産業としてアニメを応援しようという願いを込めて、区の施設として2003年5月に開館した「杉並アニメ資料館」が起源となっています。2005年3月5日に施設を拡充し、世代を超えて日本のアニメーション全体を体系づけて学び、体験し、理解しながら楽しめる日本で初めてのアニメに関する総合博物館として再開館しました。「日本のアニメの歴史」から「これからのアニメ」まで、アニメ全般を紹介しています。アニメ制作の過程を直接体験できる参加型展示や、新しいアニメ情報を盛り込んだ企画展など、さまざまな仕掛けに溢れています。「日本工芸大学」の名前を冠しているのは、日本工芸大学が2023年までの5年間に亘って命名権を獲得したからです。



見所ポイント9の「善福寺川」は、杉並区の最西端にある善福寺公園内の善福寺池に源を発し、杉並区を北西から南東に貫くように流れ、中野区の地下鉄丸ノ内線中野富士見町駅(中野検車区)付近で神田川に合流する一級河川です。住宅地の低地を流れている河川であり、古くから氾濫する川として知られていました。平成十七年(2005年)9月4日に発生した集中豪雨では、善福寺川流域で床上浸水1024棟、床下浸水635棟の甚大な浸水被害が発生しました。これまでに、和田堀公園調節池の拡充や、神田川・環状七号線地下調節池(貯留量:54万立方メートル)へ接続するための善福寺川取水施設の設置が行われ、浸水被害の防止がはかられています。



西荻図書館の敷地内の植え込みに案内板が立っています。

城山と七ツ井戸

城山とは、善福寺川によって形成された急崖な舌状台地上に位置し、現在の西荻北二丁目一九・三十三一帯を指します。城山と言う地名の由来について、荻窪八幡神社の由緒書によれば、「後冷泉天皇の永承六年(1051年)に、源頼義が奥州下向の際、この付近に陣し、康平五年(1062年)凱旋した時、八幡神社を修め、部将を停めておいた場所で、後世この一帯が城山の名を有した」と記されています。明治中頃までの城山は、杉や松等の密生する雑木林で、しかも篠笹が群生しており、人が分け入ることもできないほどであったと言われています。当時は、善福寺川も台地直下を流れており、川から引かれた水路が城山の下を通っていました。また、七ツ井戸と呼ばれた井戸は、城山の南側に一列に七ツ並んで掘られていたようで、何故か土地の人々からは近付くことも恐れられていました。この鬱蒼とした雑木林も、大正十一年の西荻窪駅の開設、昭和二年の区画整理等の影響によって徐々に失われ、昭和三十年代前半までは辛うじて残っていましたが、今ではその面影は全く消え失せ、住宅地や公共施設としての新しい姿を見せています。




西荻窪駅北口に着きました。西荻窪駅は、大正十一年(1922年)に鉄道省の駅として開業し、現在は杉並区およびJRにおける東京23区最西端の駅となっています。西荻窪駅周辺は狭い道が入り組んでいますが、そのことが西荻窪の独特な街の空気を醸し出しています。また、西荻窪にはアンティークショップや古書店が多いことで知られています。西荻窪駅の北口からは、北西に向かって名門の東京女子大への「西荻一番街女子大通り」が延びています。



ということで、「25.西荻窪・上井草編 上井草・西荻窪コース」を歩き終えました。荻窪と西荻窪の中間位を南北に歩いたのですが、初めて訪れたところもありました。西荻窪の北側地域についてはこの後も3コースを巡り、長かった杉並区を締めくくります。




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