- 26.善福寺・西荻北編 西荻窪・上井草コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「26.善福寺・西荻北編 西荻窪・上井草コース」を歩きます。西荻窪駅をスタート地点として、善福寺川沿いに北上し、鬱蒼とした森林の中に鎮座する井草八幡宮に詣で、井草川の源流や23区内とは思えないような屋敷林に囲まれた豪邸を巡ります。
「26.善福寺・西荻北編 西荻窪・上井草コース」の歩行距離は4.4km、歩行時間は1時間30分です。
スタート地点:西荻窪駅北口
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- 1.トトロの樹
- 区の貴重木に指定されたケヤキの大樹です。伐採の危機を地域住民の運動により逃れ、坂の上のけやき公園となりました。
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- 2.地蔵坂
- かつて坂の途中に地蔵や石仏を祀る地蔵堂がありました。新しい六地蔵や六童子が駅の周辺につくられましたので探してみましょう。
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- 3.原寺分(はらてらぶ)橋下の湧水
- 湧水の豊かだった善福寺川にわずかに残る湧水の一つです。遊歩道に立てられた「湧水のしくみ」の説明板が目印です。
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- 4.川の流れる小学校
- 井荻小学校は敷地内に善福寺川が流れ、川の上を覆う転落防止フェンスはフジとツタで覆われています。(敷地内の遊歩道は通れません)
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- 5.富士山の見える坂道
- この付近の坂道は関東の富士見百景の「東京富士見坂」の一つに選ばれていて、冬の晴れた日などには富士山が眺められます。
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- 6.土地区画整理碑
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- 7.井草八幡宮
- 旧上・下井草村の鎮守で、境内から縄文時代中期の住居址や多くの土器が発見されました。5年ごとに流鏑馬の神事が行われます。
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- 8.浅間神社と富士塚
- 富士塚は富士登山ができない身体の弱い人・老人・婦女子のために、簡単に登れる富士山として造られ、区内では唯一のものです。
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- 9.切通し公園
- 杉並区北部を流れる井草川(現在は遊歩道)の水源といわれる場所につくられた公園で、園内の傾斜や雑木林がその風情を残しています。
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- 10.杉並工業高校のフジ
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- 11.屋敷林と穀櫃(こくびつ)
- 江戸末期に建てられた飢饉に備えて穀物を蓄える穀櫃が、うっそうとした屋敷林の中に残されています。(見学はできません)
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ゴール地点:上井草駅南口
スタート地点の西荻窪駅北口から歩き始めます。西荻窪駅は、大正十一年(1922年)に鉄道省の駅として開業し、現在は杉並区およびJRにおける東京23区最西端の駅となっています。西荻窪駅周辺は狭い道が入り組んでいますが、そのことが西荻窪の独特な街の空気を醸し出しています。また、西荻窪にはアンティークショップや古書店が多いことで知られています。西荻窪駅の北口からは、北西に向かって名門の東京女子大への「西荻一番街女子大通り」が延びています。
八百屋さんの店先に巨大なスイカが鎮座しています。ラグビーのボールよりもデカそうですね。ちなみに、スイカは「西瓜」と書きますが、これは中国語の西瓜に由来し、中国の西方(中央アジア)から伝来した瓜という意味だそうです。日本に伝わったのは室町時代以降とされていますが、国内で栽培が広まったのは江戸時代後期になってからです。昔は夏の夜に近所の川で冷やしたスイカを、縁側で足を投げ出して、蚊に刺されながら、種を地面に飛ばしながら、食べたものです。カットスイカなんていうものはなく、大きなスイカを縁側に置いたまな板の上で豪快に切り、我先にと取って食べていました。この巨大なスイカは冷蔵庫に収まりそうになく、どうやって冷やすのでしょうか?
「坂の上のけやき公園」の中央には杉並区内最大の幹回りの欅の大木が空を突いています。この欅は樹齢200年以上といわれ、近隣では見所ポイント1の「トトロの樹」と呼ばれ親しまれてきました。かって、この欅の木は伐採の危機に瀕したことがあります。土地が売却され、マンションが建設されることになったのです。当然、欅の木は伐採されることになり、杉並区に保護樹林指定解除の申請が出されました。この申請が受理されたところで地域の住民が事情を知ることになり、樹木保護を求める署名運動が開始され、2ケ月後には8648名の署名が集まったそうです。この署名をもとに、住民と杉並区で話し合いが重ねられ、欅の木の保護が正式に決定されました。欅の木も含めた敷地は「坂の上のけやき公園」として生まれ変わり、トトロの樹が遊びにくる子どもたちを見守っています。公園の入口には、「景観重要樹林 ケヤキ 第一号 平成二十八年(2016年)指定 杉並区」と「坂の上のけやき公園へのみんなの想い」と記されたプレートが置かれています。
坂の上のけやき公園
みんなの想い
この見事なけやきは地域の多くの方々の協力により残され、けやきが主役の公園を地域の住民が中心となって育んでいます。地域のシンボルとしてみんなに親しまれているけやきは自然樹形を保ちながら、その姿も守り育てています。今後もそのために住民と行政が互いの役割を担いながら、より良い公園を目指していきます。
公園の植え込みの中に、ラッパの形をした何かを掲げた子供の像が置かれています。何を表現しているのでしょうか?
見所ポイント2の「地蔵坂」は、女子大通りから続いて、荻窪中学校の前を通って北東に延び、善福寺川に架かる原寺分橋まで下っている坂です。坂の途中に案内板が立っていますす。
地蔵坂
この坂道は、別名「御立場坂(おたてばざか)」・「寺分坂(てらぶざか)」とも呼ばれていますが、一般的には地蔵坂と呼ばれています。名称の由来としては、かつて坂の途中に地蔵堂があり、地蔵菩薩や庚申塔、馬頭観音などが祀られていたことにあるようです。いつ頃から地蔵坂とよばれていたかは不明ですが、舟形を呈した享保十七年(1732年)銘の地蔵菩薩があることから、江戸時代中期以降と考えられます。また、地蔵菩薩は北を向いていたところから、「北向地蔵」とも呼ばれていたそうです。他には、貞享二年(1685年)銘、宝永二年(1705年)銘、正徳六年(1716年)銘の庚申塔、文政七年(1824年)銘の馬頭観音などがありました。この馬頭観音には、「東江戸・西ふちう」と彫られており道標の役目をしていました。近代になってからは東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺村の三郡の境に立てられていたため、「三郡境の馬頭様」と呼ばれていました。現在これらは、観泉寺(今川二丁目十六番一号)に安置されています。また、地蔵坂交差点に近い台地の先端部付近は地蔵坂遺跡と呼ばれ、昭和五十六年〜七年に実施した発掘調査では、旧石器時代(約一万八千年〜二万七千年前)のナイフ形石器やスクレーパー(掻器)など多数の石器類と礫群(バーベーキューの跡)、縄文時代早期(約九千年前)の土器や石器が多数出土しており、住居跡や炉穴(屋外炉)も検出されています。特に、荻窪中学校の校庭から発掘された縄文時代早期前半の井草期の住居跡は、区内で初めて発見されたもので、考古学的にも大変貴重な資料です。
地蔵坂を下りきったところに、見所ポイント3の「原寺分(はらてらぶ)橋下の湧水」があります。コンクリートで固められた川底に穴が開けられていて、そこから湧水が湧き出ているようです。地蔵坂は崖線に出来たと考えられ、川底の湧水は崖線からしみ出した水ではないでしょうか?
原寺分橋の袂に湧水の仕組みを説明した案内板が立っています。
湧水のしくみ
「湧水」ってなあ〜に?
地下水が崖や谷間から流れでたものを湧水といいます。湧水はいつでも使える地下水として大変貴重です。しかし、地表面がコンクリートで覆われ、雨水が浸透しにくくなり地下水の量が減少しているため、湧水が減少したり涸れる傾向にあります。また、大きな地下構造物などが地下水の流れを遮断し、湧水や付近の井戸を涸れさせたり、湧水地点そのものがなくなるケースも増えています。
湧水の湧出し方
谷頭タイプ
大地面上の馬蹄形や凹地形などの谷地形を呈する所から湧出するタイプ。
崖線タイプ
台地の崖の全面から湧出するタイプ。
「湧水」はなぜ必要なの?
- 池や川にきれいな水を供給する水源となります。
- 緑に命の水を与えます。
- 都市に残された自然水であり、緊急時には特に大変重要です。
「湧水」のまわりの動物・水草
湧水のまわりの動物は、ホトケドジョウ・サワガニが有名ですが、アブラハヤも見られます。湧水のまわりには、水草が生えています。ワサビ・ミズニラ・ミクリ・ミズハコベ・セキショウ・クレソンなどが見られます。
荻窪中学校脇の善福寺川遊歩道を上流に向かって歩くと、耕整橋の先は通行止めになっていて、迂回路の案内板が立っています。耕整橋から寺分橋までの区間の善福寺川は井荻小学校の敷地内を流れていますので、敷地内の遊歩道は通れないのです。川の上を覆う転落防止フェンスはフジとツタで覆われています。
見所ポイント4の「川の流れる小学校」とは井荻小学校のことです。裏門出入口の横には川を描いた大きな絵がフェンスに貼られています。夢の世界のようですね。
住宅地の中に赤煉瓦を使った格式ある門が建っています。学校法人松峯学園が運営する井草幼稚園です。園舎(南側園舎を除く)は、都内の私立幼稚園としては初めて、2017年10月に「国土の歴史的景観に寄与している建築」として国登録有形文化財に登録されました。登録有形文化財とは、重要文化財指定とは異なり、物件の活用を促進しながら、文化的価値をそままに保存を図る制度です。都内にある幼稚園園舎としては、お茶の水大付属幼稚園園舎に次いで2番目、都内・私立幼稚園としては初の国登録有形文化財に登録されました。大正十二年(1923年)9月1日、死者10万5千人に及んだ関東大震災では、多くの震災孤児を生みました。孤児の保護教育のため浄土宗が震災の翌年に立ち上げた小石川学園の設立にかかわり、その主幹となった鈴木積善は昭和八年に多くの人々の支援によって井草幼稚園を創立しました。園舎は、小石川学園を設計した宮内省(現・宮内庁)内匠寮技官の森久吉の設計によるものです。森久吉は設計のみならず、古くから鈴木積善と日曜学校や伝通会館などでの青少年への仏教伝道活動を共にしていた盟友ともいえる間柄でした。創立者の鈴木積善は園創立の翌年に早逝しましたが、森久吉はその後も現在の園舎すべての設計にたずさわり、毎年の卒業式のほか、園児に紙芝居やお話を聞かせに園を訪れました。園内の隅に石碑が置かれ、何やらプレートが見えるのですが判別できません。恐らく、鈴木積善の業績が記されているのでしょう。
善福寺川に向かって見所ポイント5の「富士山の見える坂道」が延びています。この付近の坂道は関東の富士見百景の「東京富士見坂」のひとつに選ばれていて、冬の晴れた日などには富士山が眺められるそうです。今日は雲が多く、残念ながら富士山は拝めませんでした。
とある住宅の生け垣がオオイタビで覆われています。入口の開き戸には、「第11回杉並まちデザイン賞」受賞のプレートが貼られています。オオイタビとは聞き慣れない植物ですが、茎から出る気根で固着しながら木や岩に這い登る性質を持っていることから、生け垣に使われることもあるそうです。イチジク属で、果実は食用にもなるそうです。それがお目当てではないでしょうけど。
青梅街道に面して、広大な敷地を持つ井草八幡宮が鎮座しています。その大鳥居の横の林地内に、見所ポイント6の「土地区画整理碑」が建っています。内田秀五郎の名前は今まで何回も出てきましたね。
井荻町土地区画整理碑
この後ろの、柵の中にある石碑は、昭和十五年五月一日に区画整理事業の完成を記念して、井荻町土地区画整理組合によって建てられたものです。井荻地区の土地区画整理事業は井荻村全域を区画整理の対象としたもので、当時の井荻村長だった内田秀五郎らによって計画されました。大正十四年には内田を組合長として井荻村土地区画整理組合(後には井荻町)を設立し、十年後の昭和十年三月に区画整理事業を完了させました。整理総面積は八八八町歩(約八八八ヘクタール)に及び単一町村独自で行った事業としては、全国屈指の大規模ですぐれた街づくりでした。碑の正面にはこの区画整理事業の経過を、裏面には組合役員一三二
人の名が刻まれています。撰文は石川兼六、揮毫は正面篆額林博太郎、裏面篆額岡邨恒夫、正面碑文及び裏面人名は持田貫道です。高さ617.5cmの棹石(粘板岩)と高さ約100cmの台石(花崗岩)からなる当碑は、区内にある記念碑としては最大のものです。棹石は石巻、台石は筑波山の産で、現地より特別仕立ての貨車で荻窪駅まで運び、駅からこの地までトラックで牽引して運んだということです。緑豊かなこの敷地は、宮司及び氏子の方々のご協力を得て選ばれたものです。本碑は、東京近郊農村であった井荻地区が都内でも有数の郊外住宅地として発展する基礎をつくった区画整理事業の完成を伝える記念碑です。
見所ポイント7の「井草八幡宮」は、明治時代までは源頼朝が名付けたとされる昔の地名から「遅野井八幡宮」と呼ばれていました。樹木が生い茂る約一万坪の敷地は都内の神社としては4番目に広く、一歩中に入れば交通量の多い青梅街道が近くにあることを忘れるさせるほど厳かな雰囲気に満ちています。井草八幡宮には2ケ所の入口があります。青梅街道に面して朱色の大鳥居が建つのが東参道口(正門)、青梅街道と早稲田通りの交差点角に位置するのが北参道口(裏門)です。北参道口には、真新しい朱色の大鳥居と高さ9メートルの大灯篭が建っています。この鳥居は東日本大震災で破損した石鳥居に代わって、平成二十五年(2013年)に建立されたものです。
井草八幡宮
この神社は旧上、下井草村の鎮守です。御祭神は八幡大神で、明治時代までこの付近の古い地名から、遅野井八幡宮とも呼ばれていました。境内東側付近からは縄文時代中期(約四千年前)の住居址が発見され、多くの土器が発見されました。その中の顔面把手付釣手形土器は、国の重要文化財に指定されております。このように当社周辺は太古の昔から森もあり水も豊かで、生活に適した景勝の地であったと思われます。当社は九百余年の歴史をもつと伝えられ、社前には源頼朝が文治二年(1186年)奥州藤原泰衡征討の際、戦勝を祈願して手植寄進したという天然記念物の大きな松がありましたが、残念ながら昭和四十八年枯れてしまいました。また、江戸時代の慶安二年(1649年)徳川家光は、社殿を造営させ朱印領六石を寄進しております。祭日は十月一日を中心に、三年ごとに神輿の渡御、五年ごとに鎌倉の昔をしのぶ珍しい流鏑馬の神事が行われています。
昭和三十二年(1957年)に建立された朱色の大鳥居が建つ東参道口の先には、流鏑馬神事の馬場となる直線距離200メートルの東参道が伸びています。5年毎に開催される流鏑馬を始めとする行事は参拝客で賑わいます。
本殿前の広場には一本の松の巨木が天を突いています。かっては、同じ場所に源頼朝が奥州藤原泰衡征討の際に戦勝を祈願して手植えしたという天然記念物の大きな松がありましたが、昭和四十八年枯れてしまい、現在の松の木は二代目になります。
頼朝公御手植の松
鎌倉時代初頭の文治五年(1189年)、源頼朝公は奥州藤原氏の征伐に向かう途次、当神社に戦勝祈願に立ち寄りました。その後、無事奥州平定に成功した頼朝公は、その報賓(ほうさい:祈願が成就したお礼に神仏に参拝すること)として建久四年(1193年)、社頭に雌雄二本の松を自らの手で植え奉献されました。雌松(赤松)は明治時代に枯れてしまいましたが、雄松(黒松)は約八百年の間、井草地域の標徴として仰ぎ見られていました。東京都の天然記念物にも指定され、高さ約四十米・周囲約五米、大人三人でやっと抱えられる程の威容を誇っていました。しかしながら、昭和四十七年一月、強風によって二股に分かれた大幹の一方が折れ落ちて以来、急速に衰え終には枯れてしまいました。現在、神門内側にある衝立は、その根を輪切りにしたものです。現在の松はその大松の末流にあたり、二代目の御手植の松として大事に育てられています。
本殿前に井草八幡宮の由緒を記した案内板が立っています。建物の配置が一目で分かりますね。
井草八幡宮 由緒
当宮の鎮座地は武蔵野台地の真っ只中にあり、当社の境内及び周辺の地域からは、石器時代の住居跡が数多く発見され、種種の土器や石器が発見されています。中でも縄文中期の釣手型土器(当社所蔵・重要文化財)は、儀式に用いられたもので、当社が古代の聖地の上に位置し、古くから崇めれて来たことが分かります。文治五年(1189年)源頼朝が奥州藤原氏征討の途次、当社に祈請しましたが、この年は干天続きで水が涸れていました。伝説では、頼朝自ら弓で地面に穴を穿ち、七度目にしてようやく水が湧き出しました。水の出があまりに遅かったことから、この湧水は「遅の井」と名付けられました。江戸時代までこの地は遅野井とも呼ばれ、当社は遅野井八幡宮と呼称されていました。
源頼朝の来参により、春日社をお祀りしていた当社は八幡宮としての形態を整えていきます。文明九年(1477年)には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻めるに際して、当社に戦勝を祈願したと伝えられています。江戸時代に至って三代将軍家光は朱印地(六石)を寄進し、以後江戸末期の万延元年(1860年)に及んでいます。地頭の今川氏も深く当社を尊崇し、氏堯が寛文四年(1664年)に改築した本殿は、現存する杉並区最古の木造建造物であり、拝殿奥の覆殿に納められています。明治の制では、村社と定められ、昭和三年郷社に、昭和四十一年には別表神社に列せられ今日に至っています。十月の例祭日には、三年に一度神幸祭、五年に一度古式流鏑馬神事が行われます。
見所ポイント8の「浅間神社と富士塚」は、井草八幡宮の北側にある参拝者用の駐車場の横にあります。浅間神社の小祠の奥に見えるのが富士塚ですが、周囲は道路と駐車場に囲まれていて、駐車場は閉じられていることが多いので近づけません。富士塚の前に案内板らしきものが立っているのですが、さすがのiPhoneのカメラでも遠くて読み取れません。ネットで探しましたら、多分これだろうという記事が見つかりましたので転載させてもらいます。それにしても、「遅乃井」の頭文字をどうとれば「丸を講」になるのでしょうかね?
富士塚
こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので、富士信仰とも言われました。富士信仰は、集団になって資金を集め、代表者が登拝する体参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創初され、十八世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く、井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いた。富士塚は、実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすように造られ、現在も都内に約五十カ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。以前は本殿西南側にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています。
境内には、富士講中により奉納された燈籠も残されています。この燈籠は「丸を講」資料とともに平成二十三年2月9日に杉並区の有形民俗文化財に指定されています。燈籠の横には案内柱が立っています。
井草八幡宮富士講燈籠並びに丸を講資料 二一点
この石燈籠二基は、江戸時代後期、「丸を講」という富士講が井草八幡宮と浅間神社に奉納したものです。ここからみて左側の燈籠には、上・下井草のほか、上荻窪村(杉並区)、上・下石神井村(練馬区)、保谷村、田無村(西東京市)、成子町、内藤新宿(新宿区)など広範囲にわたる寄進者101名の名が刻まれ、右側の燈籠は上井草村先達の「登山三拾三年大願成就」の記念となっています。「丸を講資料」は、講員の方が井草八幡宮に寄贈した富士山を登拝する際の装束や登拝記録です。現在は消滅してしまった区内の富士講の実態を示す貴重な資料です。
北参道とスーパーサミットに挟まれた敷地は、風致の森となっています。明治百年記念事業の一環として設けられたようです。ちなみに、スーパーサミットの入る建物の敷地には、かって農作物の市場がありました。内田秀五郎が東京西部の農家の野菜の販路を拡大するために設立した東京新宿青果株式会社(現在の東京新宿ベジフル株式会社)の杉並分場を此の地に開設したのです。南米からバナナを輸入し、日本人が廉価に食べられるようにしたのも内田秀五郎の功績ということです。
風致の森には、かって街道筋にあった「椿の庚申塔」の小祠が移設されています。
椿の庚申様
ここに建立されております青面金剛立像は 貞享三年(1686年)、今から316年前に建立されたものであります。この立像は敷地内に椿の大樹が生い繁っていたことから誰言うとなく椿庚申様と呼ばれて、古くは小字三谷部落唯一北への入口として親しまれ遠く下井草、鷺宮へと通じ村人の信仰を集めてまいりました。明治から大正時代にかけてのこの地域は井荻村と呼ばれており、東西に走る青梅街道は幅員十メートル余であり、そのかたわらに椿に覆われて祭祀されておりました。大正十二年九月に起きた関東大震災を経て土地区画整理事業が始められ青梅街道拡幅に伴い北寄りの杉並区桃井四丁日五番一号に移築され今日まで祭祀されてまいりましたが社会情況の変化により、この度前記より井草八幡宮風致の森に移築されました。私達の祖先が種々の思いをこめて、三百余年護り続けてきた貴重な郷士の文化遺産を大切にして後世に遺し伝えたいものです。
仕切りで囲まれた雑草の中に巨石が横たわっています。これは、かって北参道口に建っていた石鳥居に使われていたもので、東日本大震災で石鳥居が破損した後、解体されてここに保存されているのです。
この石鳥居は、昭和六年(西暦1931年)青梅街道の拡幅に伴い境内地が削減され、東参道入口にあった鳥居が撤去されたことにより、従前に比して西寄りに新設された東参道入口に、翌昭和七年に建立されたものである。その後、昭和三十二年(西暦1957年)東参道拡幅整備に当り、現在の大鳥居が建立された為北参道に移設された。高さ5.47メートル、柱間4.17メートルのこの石鳥居は、北参道の中程に位置し、緑の杜を背にして神域を示してきた。しかし、平成二十三年(西暦2011年)三月十一日東日本大震災の震度五強の揺れによって、貫石が落下するなどの被害を受け、復旧して安全を保つことが困難となったため、此処に解体移設し、永く保存することとした。
多くの神社には、JA(農業協同組合)グループによる地場野菜の案内板が立っています。ウドは「独活」と書きますが、これが読める人は殆どいないでしょう。日本原産の山菜で、全国に野生していますが、野菜として出荷されているウドは東京が国内最大の産地なんだそうです。東京産のウドは地下の室に株を入れてモヤシのように軟白栽培しており、三鷹市や立川市などが産地となっています。元はといえば、井荻ウドが原産なんですね。ちなみに、「ウドの大木」という諺がありますが、これはウドは1.5メートル前後の大きさに育ちますが、茎が太く育った頃には食用にならず、また茎が柔らかすぎて木材にも適さないということから、転じて「図体はでかいが中身が伴わず、役に立たないもの」のたとえです。ただし、ウドは樹木ではなく草本の一種なので、元々木材としての用途はありません。
江戸・東京の農業 井荻ウド
井草八幡宮を中心とする地域は、武州多摩郡遅野井村として古くより開けました。江戸時代に入ってからは、青梅街道を通じて野菜の生産や薪で生計をたてる農村として発展しました。ウドは数少ない日本原産野菜で、古代より自生のものが利用されていました。元来、強健な野菜で武蔵野にもよく適しましたが、この地で栽培されたのは江戸時代後期で、記録によれば文政年間(1818年〜1830年)旧武州多摩郡上井草村寺分(現在の杉並区西荻北)の古谷岩右衛門が尾張(現愛知県)で栽培法を習い、試した結果、立派なウドができたので付近一帯に広まっていきました。当時は野菜の種類も少なく、特に早春の香りとシャッキとした歯ざわりで、ウドは庶民の待望の野菜でした。ウド生産は明治、大正、昭和にかけて、多くの篤農家による創意と努力で、地下で日光に当てずモヤシ状に作る栽培技術を確立しましたが、昭和三十年代に入り都市化の進展により、この地の栽培量は大幅に減少しました。その後、北多摩方面に移った産地は、「特産東京ウド」として、全国にその名声を博しましたが、井荻ウドはその発展に大きく貢献いたしました。
The AGRICULTURE of Edo & Tokyo
Iogi Udo
The district around Igusa-Hachiman Shrine developed since olden days. During Edo Era, it was a supply center of vegetables and firewood to Edo by way of Ome Highway. History tells that Udo was grown here during the years 1818-1830. It was introduced by Iwaemon Furuya of the present Nishi-Ogikita who had learnt its culture in the present Aichi prefecture. It soon became a popular crop of this area for its fine quality. The center of Iogi Udo production later moved to Kita-Tama area and became famous as a specialty product of Edo throughout the country.
井草八幡前交差点近くに。見所ポイント9の「切通し公園」があります。江戸時代に現在の青梅街道沿いに開削された千川上水の分水である六ヶ村分水から、現在の井草八幡前交差点付近の谷頭口(切り通し口)から取水され、流域の田畑を潤した井草川の源流だったところからこの公園名が付けられたようです。公園の敷地の下には縄文時代の遺跡が眠っています。
井草川の源流に位置する本地域一帯は、縄文時代の遺跡があることで知られ、本公園も今から七千年程前の遺跡の上にあります。当時の人々は、絵のような生活をしておりました。
井草川は斜面に沿って流れ下り、杉並区の北部を弧状に流れて、最終的には妙正寺公園内で妙正寺川に合流していました。しかしながら、井草川と妙正寺川のどちらが本流なのかは議論のあるところです。
切通し公園を下りた先に杉並工業高校があります。道路に面した高いフェンスには、見所ポイント10の「杉並工業高校のフジ」が繁茂しています。フジ(藤)はつる姓の植物で、公園などではよく藤棚として見かけます。フェンスに這わせるのはあまり見かけませんけど。道路の脇に井草遺跡の案内板が立っています。
井草遺跡
井草遺跡は、上井草四丁目を中心に広がり、井草川(現在は暗渠)流域の台地上に位置している、旧石器時代から江戸時代までの複合遺跡です。昭和十五年(1940年)、初めての発掘調査が行われました。この時、後に地名を冠し「井草式土器」と命名された縄文土器群や石鏃・石斧が発見されました。この土器群は関東ローム層(赤土)と上層(黒土)との境目付近で発見され、当時は最古の土器として注目されました。井草式土器は、口縁部が外に反った丸底の深鉢土器です。撚った紐を巻き付けた棒状の道具を使い、転がし押し付けた「撚糸文」を、土器の縁から全面に付けるのが大きな特徴です。このような特徴を持つ井草式土器は、縄文時代早期前半(約九千年前)を代表する土器型式として広く知られるようになりました。土器型式命名の契機となった遺跡を考古学では「標式遺跡」と呼びますが、井草遺跡は、考古学史に残る区内で唯一の標式遺跡です。
杉並区内には、敷地内に大木が生い茂る豪邸があちこちに見られます。見所ポイント11の「屋敷林と穀櫃(こくびつ)」もそのひとつで、道路から見るとまるで公園か何かのようです。
この屋敷内には穀櫃という納屋が建っています。壁越しなのでよくは分かりませんが、米を保管するにはかなり隙間があるような。ちなみに、穀櫃とは「農家の穀類を保存する板倉」という意味です。
西山家穀櫃
この穀櫃は、飢饉等の民間貯穀設備として、天保年間・旧上井草村字谷頭の西山助右衛門が作ったものです。内部は桁行が三等分に仕切られ、天井の半分が上げ蓋式で施錠ができ、土台上部には取り出し口があります。当時は、拠出穀物を貯える村共用櫃と個人用とがありました。この西山家所有の穀櫃は、製作年等の墨書銘があり、ほぼ完全な形を整えた区内唯一のもので、江戸時代の農村杉並の生活の様子を知る資料として貴重なものです。
上井草スポーツセンターは、上井草にある総合体育館で、1998年までは上井草総合運動場と呼ばれていました。2022年からは「TAC杉並区上井草スポーツセンター」という愛称で呼ばれています。此の地にはかって西武鉄道が1927年に整備した運動場があり、その後1936年には上井草球場が完成しました。東京六大学野球やプロ野球の試合が行われていましたが、1959年に東京都に買収され、1964年に上井草給水配水池という水道施設が造られました。1967年に、水道施設の上に運動場が開設され、1979年に東京都から杉並区に管理が移されました。1995年から改修工事が始まり、1998年に現在の総合スポーツセンターになりました。
上井草駅に着きました。上井草駅は昭和二年(1927年)4月16日に西武新宿線の前身である西武村山線の駅として開業しました。南口新駅舎の供用が始まったのは昭和六十二年(1987年)3月5日のことです。現在は相対式ホーム2面2線を有する地上駅となっており、本川越方面行きホーム側の駅舎は南口、西武新宿方面行きホーム側の駅舎は北口にあり、各ホーム間を連絡する跨線橋は設置されていません。そのため改札内でのホーム間の移動はできなくなっています。将来は橋上駅舍にして、島式ホーム1面2線にする計画があります。行き先によって北口と南口を使い分けるのは駅の利用者にとっては不便ですね。ちなみに、「井草」という地名の由来には諸説あります。
- この地が善福寺池・妙正寺池周辺の低湿地にあり、藺草(イグサ)が生えていた。
- 池の草と呼ばれた葦(ヨシ)がたくさん生え茂っていて、池の草→葦草(いぐさ)となった。
- 町域が善福寺池と妙正寺池との間の草原にあって、「池(井)」と草原の「草」を合わせた。
- この地を開拓した長左衛門という人物が井口姓を名乗り、「草分け長左衛門」と呼ばれていたことから「井」と「草」を合わせた
二番目のゴロ合わせがよく分かりませんね。
ということで、「26.善福寺・西荻北編 西荻窪・上井草コース」を歩き終えました。切通し公園は一年前に井草川を歩いた際にも訪れました。踏破記を読み返してみましたら、今回よりもまともに書いてあります。コピーすれば良かった。。。
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