- 28.善福寺・西荻北編 上石神井・吉祥寺コース
- コース 踏破記
- 今日は杉並区の「28.善福寺・西荻北編 上石神井・吉祥寺コース」を歩きます。上石神井駅をスタート地点として、千川上水遊歩道や善福寺公園、それに才女の園東京女子大学など杉並区の歴史と文化と学問の名所を巡ります。
「28.善福寺・西荻北編 上石神井・吉祥寺コース」の歩行距離は4.8km、歩行時間は1時間40分です。
スタート地点:上石神井駅南口
↓
- 1.千川通り
- 青梅街道から豊島区まで暗渠化された千川上水沿いにつくられた道路で、青梅街道から400mは上水跡が緑道となっています。
↓
- 2.千川上水
- 江戸の飲料水と農業用水供給のため、元禄九年(1566年)に玉川上水から引かれた30kmの水路です。青梅街道から下流は現在暗渠化しています。
↓
- 3.遅の井の滝
↓
- 4.市杵嶋(いちきしま)神社
- 善福寺池の島にあり、江ノ島弁才天より勧請されたのが始まりで、干ばつの時には多くの人々が雨乞い祈願に参りました。
↓
- 5.杉並浄水所
- 昭和五年に当時の井荻町が善福寺池畔の地下水をもちいた水道開設に取り組みました。現在23区唯一の地下水源の浄水施設です。(見学不可)
↓
- 6.内田秀五郎翁像
↓
- 7.善福寺公園
- 善福寺池の上の池・下の池を中心に周囲には大きな樹木が生え、また周辺にもみどりが多く自然の豊かな地域となっています。
↓
- 8.東京女子大学
- 大正七年に新渡戸稲造を初代学長として創立され、広いみどり豊かなキャンパス内にある多くの建物が文化財に登録されています。
↓
- 9.吉祥寺旧本宿のケヤキ
- 高さ30.5m、幹囲5.4m、推定樹齢600年の大ケヤキで、東京都の天然記念物です。ビルの裏側にあります。
↓
ゴール地点:吉祥寺駅北口
スタート地点の上石神井駅南口から歩き始めます。上石神井駅は杉並区の区境近くに位置する練馬区最南端の西武新宿線の駅です。昭和二年(1927年)4月16日に開業し、昭和四十年(1965年)に橋上駅舎が完成しました。上石神井駅に隣接して上石神井車両基地がありますが、車両の整備などは行なっておらず、電留線(一時的に車両を停めておくための線路)として使われています。
見所ポイント1の「千川通り」は、練馬区の関町一丁目交差点から豊島区南長崎六丁目の都道420号交差点までを結ぶ道路です。桜台駅周辺を中心にして桜並木が広がっていて、春になると千川通りはソメイヨシノで覆われ、千川通りに桜のトンネルが出現します。
見所ポイント2の「千川上水」は、小石川御殿(綱吉の別荘)・湯島聖堂(幕府学問所)・上野寛永寺(徳川家菩提寺)・浅草浅草寺(幕府祈願所)などへの給水を目的として、元禄九年(1696年)に将軍徳川綱吉により上水開削が命じられました。
千川上水は玉川上水を水源とし、境橋から江戸城の城北地域へ流れた総延長約22kmの用水路で、江戸の六上水(神田上水・玉川上水・本所上水【亀有上水】・青山上水・三田上水【三田用水】・千川上水)のひとつでした。しかし、江戸時代を通じて使用されたのは神田上水と玉川上水の両上水のみで、他の四上水は、享保七年(1722年)に廃止されました。千川上水の名称は、玉川上水からの分水口である境橋が仙川村のすぐ近くにあり、この仙川村を通した上水だったことに由来しています。上水路の設計は豪商の河村瑞賢が行い、仙川村の太兵衛・徳兵衛によって開削されました。「御府内上水在絶略記」によれば、太兵衛・徳兵衛は開削の功により、仙の字を吉字に改めて千川とし、両人はこれを名字として賜ったそうです。立野橋交差点の角に小さな祠があり、そこに千川上水の案内板が立っています。立野橋も千川上水に架かっていた橋なのでしょう。
千川上水
千川上水は、本郷・下谷・浅草方面の飲料水として元禄九年(1696年)に玉川上水から分水された水路です。設計者は河村瑞賢と伝えられ、徳兵衛・太兵衛の両人が工事を請け負いました。上保谷村(現西東京市)の分水口から巣鴨村(現豊島区)までの約22キロメートルは素掘りで、その先は地中に木樋(木製の管)を埋めるという大工事でした。費用は幕府の支出を大幅に上回る総額1340両余に達しましたが、差額の480両を私費でまかなった徳兵衛と太兵衛はその功により、千川の姓と帯刀を許され、子孫は代々千川取締役をつとめました。宝永四年(1707年)には、請願により上水沿い二十ヶ村に農業用水としての利用が許されました。千川から水をひいた水田の面積は100町歩余になりました。近代以降は、印刷局や王子製紙などで工業用水として大量に使われたほか、飲料水や消火用水、六義園の池水などにも使用されました。現在この付近は、川辺の桜並木もなくなり、水路は暗渠となっています。
上石神井立野の庚申塔
出羽三山・百八十八ヶ所観音供養塔
祠内の左側にある庚申塔は、宝永元年(1704年)に上石神井立野村の人々により建てられ、正面には青面金剛立像と三猿像が浮彫りされています。かつて多くみられた旧道の辻に所在する庚申塔の姿を残しています。右側の供養塔は、天保十三年(1842年)に建てられ、出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)と四国・西国・坂東・秩父百八十八ヶ所観音の文字が刻まれています。
○練馬区登録有形民俗文化財 平成二十四年一月登録
千川通りに沿って千川上水緑道が延びています。千川上水緑道は、伊勢橋北詰から青梅街道との交点である関町一丁目交差点までの千川通り脇に設けられた400m余りの短い遊歩道です。千川通りの東側を並行するこの区間は暗渠となった中では最も遅く、昭和四十五年(1970年)に暗渠化されました。かっての千川の流路そのままに蛇行していた旧緑道の大半は、幅広の直線的な歩道と自転車専用道に改修されています。
植え込みの中に石碑が置かれています。面白い案内碑ですね。
この緑道は昔は千川上水として江戸の人たちの飲み水と、灌漑などの為の水が流れていました。
青梅街道の関町一丁目交差点から玉川上水の分水口のある境橋まで、開渠となった千川上水の水路が延びています。小川のように見えますが、土手には緑濃い葉に覆われた樹木が密集し、かっての千川の面影を残しています。
善福寺公園にやってきました。前回のコースでは東側を歩きましたが、今回は西側を巡ります。公園の北西側から鬱蒼とした雑木林の中の階段を降りると広大な善福寺池の上の池が広がっています。水面に映える空と緑の美しさに目を奪われます。善福寺池の周辺地域は昭和五年(1930年)に自然環境を守る区域として「善福寺風致地区」の指定を受けた後、昭和三十六年(1961年)に都立公園として開園しました。公園の名前は、かつて池のほとりにあった善福寺という寺に因んでいます。公園の面積の約半分を善福寺池が占め、池を囲むように遊歩道が続き、公園全体が細長い形をしています。善福寺池は、渡戸橋を挟むようにして上の池と下の池に分かれています。上の池は、井の頭池(井の頭恩賜公園)や三宝寺池(石神井公園)と並んで、武蔵野三大湧水池と呼ばれていました。江戸の暮らしを支えた日本初の上水道である神田上水の補助水源として利用されたほど 豊富な水量がありました。その後、周辺地域の宅地化などに伴って、池は二度の渇水の危機に遭いながらも、公園の中にある深さ120メートルもの井戸から水をくみ上げることで現在も穏やかな水面が広がっています。
見所ポイント3の「遅の井の滝」は、善福寺池の上の池の西岸にあります。そのいわれについては案内板に記されていますが、現在の遅野井の滝の水は公園の中にある井戸から汲み上げられた水を使用して復元されたものです。
遅野井の由来
この滝は往時の湧水の湧き出し口遅野井を滝の形で復元したものであるが、遅野井については、次のような伝説がある。その昔、源頼朝が奥州征討のため、この地に軍を率いて宿った。氏神八幡宮に誓願し無事征討を終え、この地に戻った際、折からの干ばつで軍勢は渇きに苦しんだ。頼朝は弁財天に祈り、自ら弓で地面を7か所掘った。軍勢は渇きのあまり水が湧き出るのが遅い、遅の井と言った。その時、忽然として7か所に水が湧きだし、軍勢は渇きを癒した。その後江ノ島弁財天をこの地に勧請して善福寺弁財天を創建したと言う。
滝の横には、「善福寺川源流 遅野井湧水の碑」が建てられています。杉並区は遅野井の滝を善福寺川の起点として案内板などで距離を表示していますが、河川管理上では、下の池の水の出口となる美濃山橋が善福寺川の起点であるとされています。
見所ポイント4の「市杵嶋(いちきしま)神社」は、文治五年(1189年)に源頼朝が奥州合戦の途中この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所に穴をあけたが水の出が遅く、弁財天に祈り、やっと水を得たという故事に倣って、江ノ島弁財天を勧請したのが始まりとされています。かつて社殿へ向かう太鼓橋が架けられていましたが、橋は井草八幡宮の境内に移設され、現在は岸辺から眺めるだけで社殿に行く手段はありません。
市杵嶋神社
この島に鎮座する社は、市杵嶋神社といい、祭神は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。当社は江戸時代、善福寺池の弁才天といわれ、「新編武蔵風土記稿」には「池の南に弁天の祠あり。一尺(約三十センチメートル)四方にて南に向ふ。本尊は石の坐像にて、長八寸(約二十四センチメートル)はかり」とあります。また寛永年間(1624年〜1644年)には、それまで祀られていた右手奥の島から現在地へ移されたといわれ、それ以降、その島を「元弁天」という様になりました。「善福弁才天略縁記」によれば、この地域の旧名「遅の井」の地名譚(源頼朝が奥州征伐の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈り、やっと水を得た)に倣い、建久八年(1197年)に江ノ島弁才天を勧請したのが当社の始まりとあります。このことから甘水(飲料となる良質の水・味のよい水)に霊験ありとして、旱魃の折には区内はもとより、練馬・中野の村々からも雨乞い祈願に参りました。雨乞い行事は、池水を入れた青竹の筒二本を竹竿につるして担ぎ、その後に村人達が菅笠を被り、太鼓をたたいて「ホーホィ、ナンボェ ナンボェ」と唱えながら村境を巡りました。また氏神の前に井戸水と池水をはった四斗樽四個をすえ、四方に散水しながら祈ったともいわれています。この様に旱魃の年毎に行われてきた雨乞いの行事も、昭和二十四年(1949年)を最後に見られなくなりました。
例祭日は四月八日です。
善福寺池は善福寺川の源流というほか、東京都水道局浄水所の水源になっているため、善福寺池上の池の西岸には、昭和七年3月15日に通水を開始し、東京23区で唯一の井戸水を水源とする見所ポイント5の「杉並浄水所」があります。地面から10mほど掘り下げると地下水脈があり、そこから取水しています。フェンスで囲まれた敷地には立ち入り禁止の標識が立っています。
浄水所の横手に見所ポイント6の「内田秀五郎翁像」が建っています。内田秀五郎については何度も書きましたが、旧井荻村(町)の長で、888ヘクタールにも及ぶ区画整理の実施、近在農家の野菜の販路確保のための青果会社の設立、中央線や西武新宿線の駅の誘致など、現在の井荻界隈に大きな影響を与えた政策をいくつも立案し、地域の発展に貢献しました。銅像の足元に、内田秀五郎の功績を称える石碑が置かれています。碑文は読みとれませんでしたので、ネットから転載させて頂きます。
内田秀五郎翁像
内田秀五郎翁は、人格高潔資性温厚天賦の才能自ら備わり、有能達識の偉人。地方自治開拓の慈父にして文化開発の大恩人なり。明治九年十一月内田家に生る。年二十一、厳父を喪い独力克く父祖の業を継ぐ。年三十にして衆望を担つて全国一の年少村長となる。爾来多年一日の如く終始渝らす。悦意自治の為めに生き、文化の為めに生涯を捧ぐ。人悉く、其の徳を仰ぎ、其の恩惠による。常に百年の計を樹て千年の後を慮る。翁の雄図は大正十年電灯の布設となり、昭和七年井荻水道の完成。又同十年には拾ヶ年の苦節実つて全国唯一の大区画整理を完遂する等、社會福祉の為めの功績挙けて数うべからす。又幾度か府政都政にも参与。時に議長となって其の令名を讃われ、今尚全国農業委員会協議會長として活躍せらる。昭和十九年二月、宦其の功を賞して藍綬褒章を賜う。今や喜寿を祝するに方り、円満玲瓏玉の如き翁の人格と徳望とは翁を敬慕する人々により地を此処に卜し、寿像を建て辞を刻して永遠に伝う。千載不磨の名は日月と輝き天地と倶に遣らん。 東京都知事 安井誠一郎
上の池と下の池は渡戸橋で分断されています。そこに、見所ポイント7の「善福寺公園」の案内板が立っています。
善福寺公園の生い立ち
この公園は、多摩川が東京湾に流入して形づくられた隆起扇状地で、武蔵野台地の一部をしめております。標高約50メートル、西側はほぼ平坦な台地で東側は、石神井川・妙正寺川並びに神田川などが流れ、起伏に富んだ丘陵になっています。また善福寺池は、三宝寺池・妙正寺池並びに井の頭池と共に武蔵野台地の東側にあって、地底や水辺からの湧水によってできた池である点が、共通の大きな特徴となっています。なお善福寺の名称の起源については、昔丘の西側に善福寺・万福寺の二寺があり、その一つが池の名となって残ったともいわれています。ここは、交通の便にめぐまれなかったため、自然の景観がよく保存されていました。その後、周囲の住宅化や近代施設の設置などによって、この風致を保存するために、昭和五年十月都市計画法によって風致地区に指定してこの区域では、建築物その他工作物の築造、土地の形質変更、樹木等・土石の採取、あるいは風致維持に影響ある行為を制限することにしました。その後昭和三十二年に東京都市計画公園として決定され、その一部が昭和三十六年六月東京都善福寺(公園)として開園し現在に至っています。
渡戸橋(見た目は道路)を渡って下の池のある公園の南側に入ります。ここにも公園の外観を説明した案内板が立っています。
都立善福寺公園
ZENPUKUJI PARK
遅の井
善福寺池の湧水のひとつ。その起源は古く、言い伝えによると約800年前の文治五年(1189年)、源頼朝が奥州征伐の途次、この地で飲料水を求めるために掘ったもの。折からの干ばつでなかなか水が出ず、自ら弓の「はず」で土を掘ること7度にしてようやく水が湧き出たといわれます。水の出を「今や遅し」と待ったから「遅の井」と命名されたというわけです。現在は、泉が涸れてしまったので、井戸を掘りポンプで汲みあげ、遅の井の滝として復元しています。
善福寺公園
善福寺池を中心にした公園。池は、かつては神田上水の補助水源として利用されたほど澄んだ水で、湧水量も多く、武蔵野三大湧水池のひとつとして知られていました。池の名称は、昔、この付近にあった寺の名からとったと伝えられています。上池、下池と別れ、両方で約3万7千u、公園全体の47%を占めます。昭和五年10月「善福寺風致地区」に指定されると、その4年後に地元関係者が「風致協会」を設立して保存がはかられてきましたが、昭和三十六年6月に都立公園として開園され、現在に至っております。池にはカモ、カイツブリ、バンなどの水鳥がやってきます。
水辺の彩り
上池は二つの中島をもった広々とした池。大きい島には、弁財天がまつられています。その他約100株のスイレンがあります。ボート遊びで傷つけられないように杭で囲ってあり、6月から7月にかけて赤、白の花を咲かせます。また上池の周辺にはアジサイが植えられていて、同じころ青紫色の花をつけます。下池の周囲の樹林もうっそうとして、上池にくらべて野趣に富んでいます。
国が管理する一級河川の善福寺川は、下の池から水が流れ出る美濃山橋から始まります。下の池の脇を流れる遅野井川は、法律上の「河川」ではなく、善福寺池の一部でもなく、杉並区が管理している親水施設の「水路」です。
遅野井川とは
遅野井の湧水を源としていた善福寺川は、かつて「遅野井川」と呼ばれていました。また、善福寺公園の上の池と下の池を結ぶこの水路では、地元の有志によるヘイケボタルの放流が行われ、「ホタル水路」の愛称で長く親しまれてきました。その後、平成二十六年(2014年)に井荻小学校の子どもたちから「水に親しめるもっと身近な水辺にしてほしい」との要望を受け、区は「みんなの夢水路整備事業」として再整備を進め、平成三十年(2018年)に整備が完了しました。整備完了を機に、かつては子どもたちの遊び場として小川だった頃の往時をしのび、区民の憩いと安らぎの場として親しまれるよう、「遅野井川」と呼ぶこととしました。
下の池は池の半分近くがアシやスイレンに覆われ湿原の雰囲気があり、周囲の樹木もうっそうとして、上の池よりも野趣に富んでいます。
見所ポイント8の「東京女子大学」は、大正七年(1918年)に新宿で創立され、初代学長は新渡戸稲造でした。昭和二十三年(1948年)に新制東京女子大学として発足し、東女(とんじょ)の愛称で呼ばれる名門女子大です。本部のある善福寺キャンパスは、1920年から1930年代にかけてアントニン・レーモンド設計の建築群によって構成され、平成十五年(2003年)には日本におけるモダン・ムーブメントの建築に指定されました。正面の本館を含む計7棟の建造物は国の登録有形文化財に登録されています。卒業生には、小説家の有吉佐和子や瀬戸内寂聴、ファッションデザイナーの森英恵、女優の竹下景子、グルメレポーター(?)の高橋真麻、それに岸田総理夫人など、蒼々たる才女を輩出しています。
見所ポイント9の「吉祥寺旧本宿のケヤキ」は、とあるマンションの裏側の駐車場の脇に聳えています。ここは五日市街道のすぐ近くで、「旧本宿」とは宿場の意味かもしれません。見る角度にもよるのでしょうけど、幹の内部は空洞になっているそうです。ただ、遠くから見ると、枝葉の勢いは若木と変わりません。
欅の根元に案内板が立っています。残念ながら、英文の解説は葉っぱに隠れて読み取れませんでした。
東京都指定天然記念物
吉祥寺旧本宿のケヤキ
武蔵野市吉祥寺本町一丁目のマンションの北側に近接してあります。高さ29.0m、幹周り5.1mです。地上約8mで北側に、同じく9m付近で南側に大枝を分岐し、上部はさらに枝が細かく分かれ繁茂しています。なお幹の内部は、地上7m付近から根元まで空洞になっています。昭和四十一年九月、台風24号の被害を受け大枝が破損してしまいました。
アジアゾウのはな子は、私も亡くなる前に井の頭自然文化園で見たことがあります。老齢で大分弱っていましたが、今は吉祥寺駅前の広場に銅像となって蘇っています。
アジアゾウのはな子
はな子は東京都井の頭自然文化園で飼育されていたアジアゾウです。平成二十五年(2013年)に国内の長記録を更新しましたが、平成二十八年(2016年)5月26日、およそ69年にわたる生涯を閉じました。昭和二十四年(1949年)、推定2歳の幼いゾウは、戦争で傷ついた日本の子どもたちの心をいやすため、タイ王国から上野動物園にやってきました。戦時中に猛獣処分の対象となった同じゾウの「花子」の名前にちなみ「はな子」と命名されました。はな子は移動動物園として都内を巡回していました。そこではな子を見た市民からの熱烈な要望の結果、昭和二十九年(1954年)に井の頭自然文化園にやってきました。その後は「小さな動物園の大きなゾウ」として市民とともに歩みながら地域のシンボルとなり、人々に愛されました。その大きなはな子の足跡は、今後も多くの人々に語り継がれていくことでしょう。
吉祥寺駅に着きました。吉祥寺駅は、明治三十二年(1899年)12月30日に甲武鉄道の駅として開業しました。昭和九年(1934年)には帝都電鉄(現在の京王電鉄井の頭線)が開業し、駅舎内で接続しています。昭和四十四年(1969年)には、駅の北口に吉祥寺ステーションビル「吉祥寺ロンロン」が開業しました(平成二十二年【2010年】に「アトレ吉祥寺」に改称)。魚力・ニュークイック・澤光青果(九州屋に代わったのかな?)は私の定番のお店です。
ということで、「28.善福寺・西荻北編 上石神井・吉祥寺コース」を歩き終えました。これで杉並区の全28コースを歩き終えました。歩くのにかかった日数は2ケ月ちょっとでしたが、踏破記を書くのに5ケ月もかかりました。同じ区間を別のコースで歩いたこともあり、杉並区の隅々まで巡ることができました。杉並区というと山の手の住宅地というイメージがありますが、緑が豊かで遺跡も沢山保存されています。改めて杉並区の魅力を感じたお散歩でした。
戻る