@きらびやかな目黒通りを歩く  

コース 踏破記  

今日は目黒区の「@きらびやかな目黒通りを歩く」を歩きます。東急東横線の自由が丘駅をスタート地点として、自由が丘のおしゃれな商店街と沿線に高級店がひしめく目黒通りを巡ります。  

「@きらびやかな目黒通りを歩く」の歩行距離は約5.8km(約8,290歩)、歩行時間は約1時間27分、消費カロリーは約261kcalです。

スタート地点:自由が丘駅正面口

↓ (すぐ)
@自由の女神像「あおそら」
【自由の女神像は1961年、街のシンボルとして誕生しました。制作は彫刻家・澤田政廣氏です。】
↓ (約1.0km:約 15.0分)
Aイチョウ並木
【山手通り〜環状八号線間の目黒通りにはイコウ並木が続き、秋の街を黄色に彩ります。】
↓ (約0.6km:約 9.0分)
B中根橋欄干
【呑川が暗渠になっても残された橋の名残です。欄干には「昭和十三年竣工」とあります。】
↓ (約1.0km:約15.0分)
Cカーディーラーの多いエリア
【環状七号線〜目黒郵便局の間には、国産車や外国車のディーラーが軒を並べています。】
↓ (約1.8km:約27.0分)
Dインテリアストリート
【下目黒付近には国内外の多種多様な家具を扱うインテリアショップが集まっています。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
E目黒寄生虫館
【寄生虫学を専門とする研究博物館です。約300点の掖浸標本や関連資料を展示しています。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
F大島神社
【806年に社殿が造営されたと伝わる目黒の総鎮守です。江戸九社の一つであり、酉の市でも有名です。】
↓ (約0.6km:約 9.0分)
G権之助坂
【坂名は江戸中期の中目黒村の有力者菅沼権之助に由来しています。坂の途中には商店が連なります。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)

ゴール地点:目黒駅西口


スタート地点の東急東横線・自由が丘駅正面口から歩き始めます。自由が丘駅には、横浜駅と渋谷駅を結ぶ東横線と溝の口駅と大井町駅を結ぶ大井町線が乗り入れ、両線の乗換駅となっています。昭和二年(1927年)8月28日、東京横浜電鉄東横線の駅を設置するに際し、9体の阿弥陀如来像を安置していることから「九品仏」と呼ばれていた九品仏浄真寺の最寄り駅として「九品仏駅」という駅名が採用されました。しかし、大井町線の開業に伴い、浄真寺の門前に「九品仏駅」が設置されることになり、駅の所在地が荏原郡碑衾村大字衾(ふすま)であったことから、「衾駅」が新しい駅名の候補となりました。これに対し、駅名が田舎くさいということから舞踊家の石井漠ら文化人がその同年に開校した自由ヶ丘学園にちなんだ駅名に改称するよう運動し、「自由ケ丘駅」となり、さらに昭和四十年(1965年)に現在の「自由が丘駅」という駅名になりました。かって、東横線は横浜桜木町駅と渋谷駅の間を結んでいましたが、現在ではみなとみらい線の元町・中華街から渋谷を経由して、東京メトロ副都心線・東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線まで延伸されています。昔は東急の電車だけだったのですが、今では自由が丘駅のホームで様々なデザインの電車が見られます。



自由が丘デパートは、地下1階から4階まで100店舗を超える商店がひしめき合い、自由が丘では珍しいレトロな商業施設です。自由が丘デパートが出来たのは昭和二十七年頃で、元々は戦後にトタン屋根の個人商店が連なった「自由が丘マーケット」が始まりでした。細い通路の両脇には、日用品・衣料品・アンティーク雑貨・多国籍レストランなど、多彩な店舗が並び、ノスタルジックな雰囲気があります。日本で最初にデパートという名称を使った商業施設とも言われていて、自由が丘で一番古い歴史あるビルには老舗から新店まで個性豊かな個人商店が並んでいます。量販店にはない商品も多く、ここにしかない道具やアンティーク雑貨を探しに来る人も多いとのことです。



見所ポイント@の自由の女神像「あおそら(蒼穹)」は自由が丘のシンボルとなる彫像で、自由が丘駅前ロータリーの中に建っています。体育の日の連休に開催される「自由が丘女神まつり」は、数ある自由が丘のイベントの中でも最大スケールで、毎年約50万人もの来場者が集まります。コロナ渦で2020年・2021年は中止になっていましたが、2022年は3年ぶりに10月9日(日)と10月10日(月・スポーツの日)に開催されました。なんだ、知らなかった。そんなら行くんだった!

自由が丘駅前広場の生い立ち

昭和の初め、この地には田畑がのどかに広がっていました。昭和二年、当時の衾西部耕地整理組合長の栗山久次郎氏が街の発展のためにと五島慶太氏と交渉を重ね、この地に駅を誘致することに成功しました。当時は「九品仏」という駅でしたが、昭和四年には大井町線も通り、駅の名称も「自由ヶ丘」と改名し場所も現在の位置に移されました。その後、自由が丘の街は商店街、住宅地とも発展を遂げ、駅前には建物が建ち並んでいましたが、戦争が激しくなるとともに建物は強制疎開で取り壊しとなり、残存していた建物も昭和二十年の空襲で焼失し、自由が丘の街は焼け野原になってしまいました。戦後、駅前の復興について話し合いが行われましたが、元のような商店街を望む人と駅前広場をつくったほうが良いという人との間で大論争があったといいます。結果として駅前広場をつくることに決まりましたが、当時から先進的な考えを持っていた自由が丘の人々の気質が垣間見られます。昭和二十二年に駅前広場が誕生しましたが、しばらくの間はわずかな植え込みにロータリーがあるだけで、決して立派なものではありませんでした。やがて駅前も商店街としての街並みが整うにつれて、街のシンボルとして外国の広場のように彫像を設けたらどうかという話になり、当時の商店街連合組合の事業として実施することになりました。彫像の制作は彫刻家の澤田政廣氏に依頼し、完成したのが自由の女神像「あきそら」です。昭和三十六年のことでした。以来、自由の女神像は街のシンボルとして、自由が丘の街を見守り続けています。このたびの自由が丘駅前広場整備は、自由が丘住民代表と目黒区が2年余にわたる検討を経て完成したものです。これまでの車優先のロータリーから安心して歩けるように歩道を拡幅し、女神広場も設けました。進取の気性に富んだ先人の努力に感謝しつつ、人に優しい自由が丘駅前広場をいつまでも美しく保ち、楽しく活用したいものです。




「MONT−BLANC」は、昭和八年(1933年)創業の自由が丘では老舗の洋菓子店です。店名でもある「モンブラン」は、このお店が日本で初めて作ったといわれています。長い間地元の人達に親しまれてきましたが、再開発により現店舗での営業は令和四年12月31日をもって終了し、令和五年2月10日にカトレア通り沿いに仮店舗をオープンする予定になっています。なお、仮店舗の制約から、出来立てを味わえる喫茶の営業は行なわれないとのことです。再開発事業が完了した後、現在地に戻ることになっているそうです。



MONT−BLANCが立地する自由が丘一丁目29番地区では、平成二十九年5月に関係権利者が「自由が丘1−29地区再開発準備組合」を設立し、令和二年10月には第一種市街地再開発事業の都市計画が決定されました。女神通り・カトレア通り・すずかけ通りに囲まれた面積約5000平方メートルの区域に、地上14階・地下3階、高さ約60mの複合施設が新築され、令和五年(2023年)に着工し、令和七年(2025年)に建物が竣工する予定です。複合施設は、地下1階から5階に商業施設、6階に業務施設、7階から14階に都市型住宅が整備されます。



自由が丘デパートを抜けて道路を渡ると、もうひとつの同じような建物内商店街が現れます。こちらは「ひかり街」という商業施設です。自由が丘デパートよりも一段と昭和っぽさが強く、ファッションのお店が多いようです。ファッションといっても、「洋品店」・「婦人服」というといった方が雰囲気に合っています。お店の方もお客さんも年配者が多いようです。今様にはペットショップという店名になりそうですが、小鳥や小動物を扱うお店が「鈴木鳥獣店」だったりと、昭和感が満載です。



駅前広場から細い路地を入っていくと、路地の中ほどに小さな鳥居が建っています。神額には、「豊川稲荷大明神」と書かれています。現在は鳥居のみとなっていますが、自由が丘駅界隈に商店が急速に建ち並びはじめた昭和九年に赤坂の豊川稲荷から分霊して、此の地に祀った神社とのことです。商売繁盛のご利益があるということで、地元の人達に親しまれています。



サンタ通りに面して、かつて谷畑と呼ばれた自由が丘・緑が丘一帯の鎮守である熊野神社が鎮座しています。正式名称は「熊野神社」ですが、全国に数多くある他の熊野神社と区別するために、地元では「自由が丘熊野神社」と呼ばれることが多いようです。サンタ通りと緑小通りに挟まれた細長い敷地は樹林に覆われ、商業地区として発展した自由が丘の街中で緑豊かな境内を維持し、地域の人々の憩いの場ともなっています。

熊野神社

祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉之男尊(はやたまのおのみこと)、泉津事解之男尊(よもつことさかのおのみこと)の三柱で、「谷畑の権現さま」(谷畑とはこのあたりのかつての字名)として親しまれてきました。創立年代は不詳ですが、中世から近世にかけて熊野詣が流行し、熊野参りをする講が各地でつくられた中で、この神社も勧請(分霊を迎え祀ること)されたと考えられています。寛政八年(1796年)の社殿改修棟札の写しが残っていることから、少なくともその時期までにはこの地に創建されていたことがわかります。毎年の例大祭では神楽殿で、区指定無形民俗文化財の「目黒ばやし」が奉納されています。参道脇には、明治時代に碑衾(ひぶすま)村の村長だった栗山久次郎(1853年〜1934年)の銅像があります。衾西部耕地整理組合長などを歴任し、この地域の発展に貢献した功績を称え、昭和十年(1935年)に銅像が建てられました。




昭和九年(1934年)に改築された神楽殿は、例祭で「目黒ばやし」が奉納されます。ラッキーなことに、今日は例祭当日だったようで、舞台で生の目黒ばやしを見ることができました。

熊野神社と目黒ばやし

かつて谷畑といわれた自由が丘、緑が丘一帯の氏神様であった熊野神社。地元では「谷畑の権現さま」と呼んで親しんできた。その昔、那智熊野神社(現在の和歌山県)を極楽浄土にみたてた熊野参りが盛んだったが、江戸時代に谷畑の村人が、本宮の分霊をいただいて帰り、祀ったのが始まりという。毎秋、神楽殿で催される目黒ばやしは百数十年の歴史を誇る。




自由が丘には栗山姓を名乗る家が多いようです。恐らくは、かって衾村一帯の大地主であった栗山家の一族なのでしょう。ちなみに、栗山久次郎翁は「自由ヶ丘学園」の創立者である手塚岸衛に賛同して自分の土地を貸し、この「自由ヶ丘学園」が「自由が丘」の地名や駅名の由来となりました。

栗山久次郎翁顕彰碑 自由が丘誕生の祖

自由が丘誕生の祖として当地に銅像が建立されている栗山久次郎翁は嘉永六年(1853年)三月十六日に旧家・栗山家の長男として誕生された。この年はペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航し、長い鎖国から日本が世界に登場する契機となった年であり、つづいて徳川幕府は慶応三年(1867年)に大政奉還し、明治の幕開けとなった。明治二十年五月、翁は三十四歳の若さで衾村戸長となり、市町村制の施行を機に、同二十二年六月碑衾村村長に任命された。我々の自由が丘・緑が丘は昔から熊野神社を中心に住民の心を一つに結集し、進取の気風に富む土地柄であったが、翁は地域の指導者として地域住民の信頼のもとに、旧憲法発布等の激動する時代の中で、絶えず新しい時代に対する慈眼をもって村政・教育文化の向上にその情熱を注いだのである。特に晩年には、耕地整理事業の必要を提唱し、自ら衾西部耕地整理組合を結成し、さらに東横線の敷設にあたっては、地域代表の第一人者として、現在の自由が丘駅の誘致に尽力され、十余年の年月をかけて耕地整理事業を完成した。なかでも特筆すべきは旧来の碑衾町大字衾の地名を、地域の発展を願う住民の意のもとに、「碑衾町大字自由ヶ丘」と改名を決断されたことである。この時の「自由ヶ丘」命名が現在の街の基盤となった。この翁の徳功を讃え、我々有志一同は翁の銅像建立五十年を記念し、この顕彰碑を建立するものである。




境内の奥まったところには、朱色に塗られた本殿や、立派な神輿を保管している神輿庫があります。コロナ渦によって今年は神輿は展示のみで、渡御は行なわれないようです。



自由が丘の亀屋万年堂といえばナボナですね。昔、王貞治さんがテレビのCMで「ナボナはお菓子のホームラン王です」というキャッチコピーで宣伝していましたね。「ナボナ」は亀屋万年堂の創業者である引地末治がヨーロッパに旅行した際、現地の菓子文化に触れ、感銘を受けたことがきっかけで生まれました。元々和菓子職人だった末治の「和菓子の感性を活かしながら、洋菓子の楽しさにあふれた商品を創りたい」という試みは冒険的とも言えるものでしたが、熱い想いでナボナの商品化に成功しました。ヨーロッパ旅行の際、ナポリをとても気に入った末治は商品名を「ナポリ」にするつもりでした。しかし、その名前が既に他の菓子メーカーから「ナポリ」の商品名で商標登録されていることが判明し、改名を余儀なくされた結果、「ナヴォーナ(NAVONA:広場)」をモチーフにして、商品名が「ナボナ」になったのです。あのサクッとした軽い食感は忘れられませんよね。



自由通りの坂を上り、中根交差点で右折して目黒通りに入ります。道路の両側には、見所ポイントAのイチョウ並木が続いています。東京都のシンボルツリーはイチョウですよね。歩道のガードなどにもイチョウのマークが付いていますし、都のいろんな標識にも必ずイチョウがデザインされています。街路樹にもイチョウの木が多く見られますが、イチョウは古代植物の生き残りといわれ、日本と中国の一部だけに現存している木で、公害や火にも強いために街路樹として使われているのです。イチョウは他の木に比べて葉が厚く水分が多いために、燃えにくく火に強いという性質があります。また、葉だけでなく幹も他の木より水分が多く、木全体が燃えにくいのです。大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の際には、実際にイチョウが延焼を防いだという事例も多く見られました。これにより、防災を兼ねて街路樹にイチョウが多く植えられるようになったといわれています。また、イチョウは秋には黄金色に黄葉し、イチョウ並木の紅葉は秋の風物詩ともなっています。日本全国では57万本ものイチョウの木が街路樹として植えられているそうです。晩秋にはイチョウの落ち葉と共に実(銀杏)が歩道に散乱しますが、実は踏みつけられると容易く潰れて独特の臭いを発します。私的にはブルーチーズの強烈な臭いに感じます。収穫して乾燥させるとお酒のつまみやおでんの具にもなるのですが、踏みつけられるとどうにもならないですね。先週からコロナ渦の入国制限が撤廃され、外国の観光客の方が多く見られますが、歩道に散乱した強烈な臭いの銀杏をどう思っておられるのでしょうか?



目黒通りは、国道1号線の清正公前交差点から分岐し、多摩川に隣接する玉堤二丁目交差点までを結ぶ都道です。江戸時代には、江戸から大鳥神社や目黒不動尊、さらには浄真寺(九品仏)に向かうための通りでした。目黒通りは道幅の広い幹線道路なのですが、現在は多摩川によってどん詰まりになっていて、その先は片側一車線の多摩堤道路にT字型に合流しています。これを多摩川の対岸の川崎市まで延長することが計画されていて、早ければ令和七年(2025年)には(仮称)等々力大橋によって目黒通りが川崎まで延伸されるとのことです。そうなると、丸子橋と二子橋の中間地点に新たな交通路ができ、渋滞も緩和されることでしょう。そんな目黒通りですが、明治時代には酷い悪路だったようです。

二子道を走ったガタクリ馬車

八雲の氷川神社前から目黒駅まで・・・。今は目黒通りに、名を変えたこの区間約5キロを、明治の末頃まで乗合の定期馬車が通っていた。黒塗り一頭立て。ペーポーと笛の音。日に6回ほどの運行だったが、石ころだらけでガタガタ道。馬車は右に左に激しく揺れた。それでついた名前が「ガタクリ馬車」。時は流れ、今はその同じ道を”現代の馬車”クルマが走る。




都立大学駅に通じる駅前交差点の手前で、呑川緑道が目黒通りを横切っています。呑川は、桜新町辺りの品川用水からの漏れ水と、深沢周辺の湧き水の池から流出する水が合流して始まり、世田谷区内を約2km流れた後、目黒区八雲を通り、緑ヶ丘で九品仏川と合流し、大田区から東京湾に注ぐ全長14.4kmの二級河川です。このうち、深沢一丁目から五丁目までの区間は下水道幹線として暗渠化され、上部を呑川緑道として整備されています。呑川の両側には、かつて川の土手に植えられた約300本の桜が今も残っていて、緑道や川を覆うように枝を広げています。桜の季節には多くの人の目を楽しませ、夏には木陰を提供しています。上流部の870mの区間は親水公園として、下流部の1153mの区間は呑川緑道として整備されています。呑川緑道は都立大学駅南側の東横線の高架手前で柿の木坂支流緑道を合わせ、緑が丘駅の手前で開渠となり、東から南に流路を変えて大田区に向かっています。



呑川緑道が目黒通りで分断されるところに、見所ポイントBの中根橋欄干が残されています。何気なく通り過ぎると見落としてしまいそうですが、よくよく見ると、親柱には「中根橋」の文字が残っています。目黒通りを渡すにはかなり貧弱な橋幅ですが、昔はガタクリ馬車が通っていた目黒通りですから、今ほど道幅は広くなかったのでしょう。



柿の木坂陸橋は目黒通りと環七が交差する地点に設けられた陸橋です。環七には多くの陸橋が架けられていますが、環七は都心を輪のように通っていますので、都心から郊外に放射状に延びる多くの幹線道路と交差しているのです。



昔は碑文谷といえば、スーパーのダイエーでした。目黒通り沿いの低層の住宅街に聳える8階建ての巨大な建物はどこからでも見え、品揃えはデパート並み。お値段も手頃で、碑文谷のマダム達のお買い物を支えました。ダイエー碑文谷店は昭和49年(1974年)にダイエーの旗艦店として、元々はボウリング場となる予定だったビルを賃貸して開店しましたが、バブル期以降のダイエーの衰退もあってイオンの傘下に入り、平成二十八年(2016年)5月5日に閉店しました。半年間の改修工事を経て、現在は「イオンスタイル碑文谷」として再出発しています。ダサかった外観が妙に垢抜けしてますね。



目黒通り沿線は、見所ポイントCのカーディーラーの多いエリアとなっています。海外の有名自動車ディーラーだけでなく、国内の自動車会社の販売店も軒を連ねています。交通の便もさることながら、周辺が高級住宅街になっていて、購買力が高いからなのでしょう。



目黒通りから横に延びる路地に、マンホールが顔を出している歩道があります。かっては六畝(ろくせ)川という小川が流れていた跡らしいです。六畝川の跡地は「六畝川プロムナード」になっています。六畝川は羅漢寺川の支流で、羅漢寺川は目黒川の支流になっています。



歩道に面して朱色の祠が目立つ清水稲荷神社が鎮座しています。現在の東急バスの駐車場のあたりにあったようですが、土地の寄進を受けてここに移転したのだそうです。かって東急バスの駐車場辺りには清水が湧き出す池があり、それが神社の名前の由来になっているとのことです。

清水稲荷神社

この稲荷は明治三十年(1897年)頃から、東急バス駐車場のあたりにあったといわれ、その付近に真夏の旱天でも清水が涌き出していました。この涌き水が稲荷の社名の源となったと思われます。大正十二年(1923年)の大震災以後、このあたりにも多くの移住希望者があり、地主さんたちはその要請に応えて、計画的な土地分譲をしました。土地分譲事業は、この稲荷様を基にし、土地の発展を祈念しました。そのため、京都伏見稲荷より御霊代を拝受し、社殿や鳥居も奉納されました。その後、昭和二十七年(1952年)に篠福太郎氏が39.7u(12坪余)の土地を寄進されましたので現在地へ移築されました。また、この年、太田喜八郎氏が鷹番小学校へ寄進した真影奉安殿を、大へん苦労して移築し拝殿としました。この稲荷は、家内安全、商売繁盛、 芸能上達などのご利益があるとともに、縁結びの神としても有名で、初午には甘酒がふるまわれ、盛んな祭りが行われます。




目黒消防署の筋向かいの油面(あぶらめん)交番横を入る道は、油面子育地蔵尊(高地蔵尊)を中心として栄えている油面地蔵通り商店街です。現在、高地蔵尊は商店街のほぼ中央の堂舎内にありますが、かっては目黒通りの前身である下野毛道に面して油面交番の向かいの角にありました。そこは、三田・白金方面から続く下野毛道が祐天寺方面と碑文谷・九品仏方面に分岐するところであり、地蔵尊を載せる台石に刻まれた(右面)「是より右ゆうてん寺」、(左面)「是より左九ほんぶつ」の文字から、道標でもあったことがわかります。それが、関東大震災後の目黒通りの拡張や周辺の宅地化により、現在地へ移転されました。子育て・眼病にも霊験あらたかとして、参拝に訪れる人が多いそうです。

油面のいわれ

地名の由来については、いくつかの説がありますが。江戸時代中頃から、この地で菜種の栽培がさかんになり、それから取れる菜種油を芝増上寺へ灯明油として献上し代わりに年貢を免除されたので、油免となったとする説が有力です。当時このあたりは、増上寺の領地(御霊屋料)となっていました。




油面交番の先に、「THE TOKYO BALLET」と書かれたクラシックなビルが建っています。公益財団法人である日本舞台芸術振興会は、1964年に創立された東京バレエ団を運営して国内外で公演を行う一方、海外から一流のオペラ、バレエ等のアーティストを招いて全国各地で公演を行う為に設立されました。東京バレエ団(正式名称は、チャイコフスキー記念東京バレエ団)を運営し、毎年海外ツアー公演も行っていて、1966年にはソビエト政府に招かれてモスクワとレニングラードで公演を行い、ソビエト文化省から「チャイコフスキー記念」の名称を贈られ、これを冠しました。私は一見して結婚式場かと思いましたが。



元競馬場交差点の手前に肉まんで有名な「目黒五十番」のお店があります。冬となれば人だかりが出来る肉まんの専門店で、肉まんは食べ応え十分の超ビッグサイズです。冷凍もあれば、ベンチに座ってその場で食べれる暖かい肉まんもあります。創業者の皆川吉之助氏は料亭の多い神楽坂でお土産品としての肉まんに着目し、日本人の口に合った「味にこだわった五目肉まん」や各種肉まんを考案・開発し、好評を得ました。昭和六十一年(1987年)1月に実家のある目黒に移り住み、目黒通り沿いにお店を構えたのです。「中華料理五十番」というお店もありますが、これは明治時代に横浜の山手にあった外国人居留地に移り住んだ中国人が中華料理店を始めたのが「五十番」の創業と云われています。当時の外国人居留地には一番館〜百番舘ほどの建物があり、「五十番館」に住んでいた中国人が、店名に自分の住所を名付けたことが由縁になったそうです。ちなみに、ソフトバンク・王貞治会長の実家である墨田区の中華料理店「五十番」とは関係なさそうです。「〜番」という店名が中華料理店に多いのは、昔の異人館などが「〜番館」と呼ばれ、そこで雇われた中国人のコックが居留地の商館で腕を磨き、やがては居留地で店を持つというのが憧れの出世コースだったことから、「〜番」という店名が高級菜館のイメージに繋がったという説もあります。



目黒通りの脇に馬の銅像を冠した記念碑が建っています。この馬の名前は「トウルヌソル号」というそうで、第1回(ワカタカ号)、第5回(トクマサ号)、第6回(ヒサトモ号)、第8回(クモハタ号)、第9回(イエリュウ号)、第12回(クリフジ号)の日本ダービー優勝馬の父親なのです。トウルヌソル号の銅像は、「馬の勇八」の異名で知られる官展の重鎮の池田勇八氏の作品です。ちなみに、私が生涯で唯一馬券を買ったディープインパクトの産駒(さんく)は日本ダービーで4連覇・7勝しており、歴代一位となっています。トウルヌソル号は、サンデーサイレンスと並んで産駒が6勝しています。蛇足ですが、サンデーサイレンスは1988年・1989年にアメリカで活躍した競走馬ですが、日本で走ったことはなく、1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退した後、日本で種牡馬になりました。

目黒競馬場跡

明治四十年(1907年)、政府の馬質改良奨励により、この地に目黒競馬場が開設された。それ以降、昭和八年(1933年)府中市に移転するまで、明治、大正、昭和の三代を通じて、ここで競馬が開催された。また、目黒競馬場は、昭和七年(1932年)第一回日本ダービーが開催された記念すべき地でもある。この碑は、當時の歴史を後世に伝え残すとともに、第五十回日本ダービーを記念して、日本中央競馬会、および大鳥前元競馬場通り商店街振興組合のご協力により建立された。




目黒通りの沿線には高級家具店が多くありますが、山手通りと交差する手前は見所ポイントDのインテリアストリートになっています。ストリートと呼べるほどの数ではありませんが、幾つか味のあるお店が並んでいます。Lewisは、目黒通り沿いの二階建ての古い一軒家で主に1960年代から1970年代の北欧・アメリカを中心としたユーズド家具・インテリア小物を販売しています。有名・無名にとらわれず、流行りに左右されないで長く愛用できる商品を一点一点現地で実際に目で見て確かめてから買い付けをしてきているそうです。



大鳥神社の手前の横道の角に、見所ポイントEの目黒寄生虫館の細長い建物が建っています。亀谷了医学博士が昭和二十九年(1954年)に開設したもので、「研究する博物館」として、人間や家畜に寄生する寄生虫の標本や文献を収集・保存しています。入館は無料ですが、博物館の維持のため、入館者には寄附をお願いしたいところです。

公益財団法人目黒寄生虫館
Meguro Parasitological Museum

昭和二十八年(1953年)、亀谷了氏が創設した、世界でも珍しい寄生虫学専門の研究博物館。ここに所蔵されている寄生虫の標本や文献は約8万点。国内外から集められた約300点の標本及び関連資料が展示されている。研究・啓発・出版などの事業も行っている。




見所ポイントFの大島神社は「おとりさま」の愛称で、毎年11月の酉の市が有名です。酉の市の日には、金運を招き寄せるという熊手を売る店が並びます。創建は大同元年(806年)といわれ、「太々神楽」という、都内でも由緒ある舞いが伝えられています。 境内北側 にあるオオアカガシは都の天然記念物です。

大鳥神社

この神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806年)創建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありました。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)を主神とし国常立尊(くにとこたちのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)を合祀しています。毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑いをみせています。この市のいわれは日本書紀に「十月己酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられています。毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町みこしが勢揃いします。それとともに社殿では「太々神楽・剣の舞」が奉納されます。11月の酉の市には、「太々神楽・熊手の舞」が神前で舞われます。境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガン」の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688年〜1703年)や宝永年間(1704年〜1710年)の屋根付庚申塔など5基の石造物もあります。また、俗に切支丹燈籠といわれる「織部式燈籠」や、天保六年(1835年)の酉の市に神楽を奉納した記念碑などもあります。




本殿の前に大鳥神社の由緒を記した板書が立っています。

大鳥神社御由緒

御祭神

主祭神  日本武尊  景行天皇の皇子で、熊襲討伐、東国の蝦夷を平定。

相殿神  国常立尊  日本の国開きの神様
     弟橘媛命  日本武尊の妃

例祭   九月九日に近い日曜日

御由緒

景行天皇の御代(71年〜130年)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、東国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣で、現在当社の社宝となっております。東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後、天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806年)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳の紋を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。

酉の市(八つ頭と熊手の由来)

当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから、古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる 「開運熊手守」が授与されます。




山手通りを越えて目黒川を目黒新橋で渡ります。左手先には目黒清掃工場の煙突が聳えています。長らく建替え工事中でしたが、6年の休止期間を経て2023年3月に最新鋭の清掃工場として再開する予定です。現在は試運転が開始された頃でしょうか?



橋の袂の植え込みの中に「下目黒」の町名案内板が立っています。下目黒という地名はなくなったわけではなく、現在も目黒通りの反対側は「下目黒一丁目」という住居表示になっています。ちなみに、下目黒の北側は「中目黒」、その更に北側が「上目黒」になっています。安直なネーミングですね。植え込みの奥には「目黒新ばし」の看板を掲げた目黒の隠れ横丁があります。目黒駅から10分も歩いたところに、ひしめくように10軒もの居酒屋が並び、ひとつの独立した街のような雰囲気を醸し出している横丁は常連さんでいつも賑わっています(いるそうです)。

国旗掲揚台に、表示されている目黒区下目黒は旧町名です。現在は、昭和四十二年三月一日の住居表示実施により目黒区目黒一丁目になっています。



見所ポイントGの権之助坂は目黒新橋から目黒駅に上る坂道です。途中から道路が中央線で分岐し、二股となった先は一方通行となり、自然教育園の前で再び合流しています(分岐した方は放射3号支線と呼ばれているらしい)。権之助坂の坂名には次のような由来があります。

江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために年貢米の取り立てを緩めてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家をひと目見たい」と答える。馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえ、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。昔の道路は江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。



権之助坂の両側には、飲食店を中心にしていろんなお店が並んでいます。昔は「ザ目黒タバーン」というブリティッシュパブがあって、日曜日のランチには本場のローストビーフ&ヨークシャープディングが出されていました。現在は「BRITISH RESTAURANT CLASH」というお店になっているようですが、今でもサンデーランチはやっているのでしょうか?目黒駅手前の横道の先には、とんかつの名店「とんき」のお店があります。開店時間の16時前から店の前には客がずらりと列をなすという人気店です。とんきが目黒で創業したのは昭和十四年のことです。目黒駅西口にあった旧店舗には文豪の池波正太郎さんもよく通ったそうです。彼の著書「食卓の情景』では、とんきについて「以前と少しも変わらぬ味と気分を損なわぬ」と前置きして、こう語っています。

「とんきの主人は人間と人間社会というものに、何か一つ、動かすべからず信念を持っているにちがいない。店員たちも、そしていつも大入り満員の客たちも。主人の思うままにうごき、たのしく、みちたりたおもいになるのである。実にふしぎな・・・。いや、私にとっては、ふしぎでならない店なのである」

昭和四十年代によく訪れていたという彼の描写したそのままの情景が、今もこの店で目にすることができます。とんきでは、旧店舗のときから木のカウンターを使っていて、厨房が見えるようにしていました。公正明大で、お客様に何も隠すところがないという心の表れと、作る工程も見て楽しんでもらいたいという初代の意向だそうです。



目黒駅に着きました。目黒駅は東口と西口がありますが、かなり高低差があります。権之助坂を上って、ちょうど目黒駅の西口辺りが小山のてっぺんになっているみたいです。ちなみに、山手線の駅間で標高による高低差が特に激しい場所は大きく2カ所あり、ひとつは駒込〜田端間の14.2m、そして目黒〜五反田間の19.5mです。海沿いの品川から高輪台地と八ツ山・御殿山・島津山・池田山の下の低地を品川〜大崎〜五反田と走ってきた山手線は、標高約3.4mの五反田駅から台地上にある標高約22.9mの目黒駅まで、その差約20mをたった一駅で登ります。この目黒川沿いの五反田から目黒にかけては、重い電車(当時はまだ蒸気機関車の時代でしたので急勾配は避けなければなりませんでした)が山手の台地に登るために鉄道技術者が最初に克服しなければならなかった難所と言われています。目黒駅の山手線ホームが地下になっているのも、五反田からの線路の勾配をなるべく緩やかにするための工夫だったのでしょう。



目黒区の最初の散歩道「@きらびやかな目黒通りを歩く」を歩き終えました。自由が丘には何年か住んだことがあり、目黒通りもよくお散歩しました。なので馴染みのある場所ばかりで懐かしかったです。




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