- B東京1964オリンピックを歩く
- コース 踏破記
- 今日は目黒区の「B東京1964オリンピックを歩く」を歩きます。東急東横線の学芸大学駅をスタート地点として、立会川の片方の水源である碑文谷池から呑川柿の木坂支流緑道を経由し、57年前に開催された東京オリンピック施設が残されている駒沢公園を巡ります。
「B東京1964オリンピックを歩く」の歩行距離は約5.2km(約7、430歩)、歩行時間は約1時間18分、消費カロリーは約234kcalです。
スタート地点:東急東横線学芸大学駅西口
↓ (約0.6km:約 9.0分)
- @碑文谷公園
- 【ボート遊びができる弁天池、ウサギやモルモットと遊べる子供動物広場があります。】
↓ (すぐ)
- A碑文谷体育館
- 【運動施設が揃う碑文谷公園にある体育館です。様々なスポーツが体験できます。】
↓ (約1.8km:約27.0分)
- B呑川の緑道
- 【住宅街にある呑川柿の木坂支流緑道は1972年より暗渠化され、1980年3月に完成しました。】
↓ (約0.8km:約12.0分)
- C駒沢オリンピック公園
- 【東京1964オリンピックの第2会場には、今も変わらず多くのアスリートが集まります。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
- D宇宙ケヤキ
- 【スペースシャトル「ディスカバリー号」で宇宙に行った種が大きく育ちました。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
- E東京オリンピック集火台
- 【東京1964オリンピックで日本をリレーした4つの聖火は、皇居前広場でひとつになりました。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
- F東京オリンピック聖火台
- 【東京1964オリンピック開催時、オリンピック記念塔の脇で聖火を灯し続けました。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
- G東京オリンピックメモリアルギャラリー
- 【東京1964オリンピックの資料やユニホームなどを展示しています。入館無料、休館日あり。】
↓ (約1.0km:約15.0分)
ゴール地点:東急田園都市線駒沢大学駅駒沢公園口
スタート地点の東急東横線学芸大学駅西口から歩き始めます。学校名を冠した鉄道の駅名は各地にみられますが、学芸大学駅もそのひとつです。駅名の由来となった東京学芸大学は昭和三十九年(1964年)に小金井市へ移転しましたが、駅名がそのまま残されたために、大学受験生から「紛らわしい」という苦情が出るようになりました。受験場を間違えると人生の一大事である入学試験が受けられませんからね。そういう事情で駅名を変更することが検討されましたが、地元住民の賛成を得られず断念したという経緯があります。東京学芸大学の附属高等学校が近くに存続しているので、まんざら無関係と言うわけでもありませんが。学芸大学駅は昭和二年(1927年)に開業しましたが、その当時の駅名は「碑文谷駅」でした。「碑文谷」は現在の目黒区南部一帯の広域名称で、明治二十一年(1888年)に荏原郡碑文谷村が衾村と合併して碑衾村(ひぶすまむら)となった際に大字となっていました。駅は碑衾村大字碑文谷字鷹番に設置されましたので、大字の「碑文谷」を駅名として採用したのです。昭和十一年(1936年)になると、それまで赤坂区青山北町にあった東京府青山師範学校の世田谷下馬町への移転・誘致に東京横浜電鉄が成功し、その最寄り駅として「青山師範駅」に改称されました。その後、校名の改称に伴って駅名は昭和十八年(1943年)に「第一師範駅」、さらに昭和二十七年(1952年)に「学芸大学駅」へと改称されました。
学芸大学駅の高架の両側には多種多様なお店が並んでいます。大型店は東急ストアだけなので、こぢんまりとしたお店が多く、それが独特の雰囲気を醸し出しています。東横線の高架下には、平成二十四年(2012年)に「GAKUDAI KOUKASHITA」という商業施設がリニューアルオープンしました。東急ストア、生鮮食品を中心とした「学大市場」、飲食店を中心とした「学大横町」から構成されています。これに駅前のお店を加えると日常のお買い物や飲食は万全ですね。
見所ポイント@の「碑文谷公園」は碑文谷池を中心とした目黒区立の公園で、閑静な住宅街の中に位置するために周辺住民の憩いの場になっています。
公園の中心になっている碑文谷池は古来より水田灌漑用の貯水池として地元の人々に大切に維持・管理されてきました。まだ付近が農村であった頃は現在よりも大きく、地元の人々にとって欠かせない存在でした。昔は当時の地名をとって「三谷の池」と呼ばれていました。近代になり農村から住宅地へと変化していく中、昭和七年(1932年)に碑文谷池の永久保存を条件にして付近の土地と共に東京市に寄贈され、公園として整備された上で昭和八年(1933年)11月15日に碑文谷公園として開園しました。そして、昭和二十五年(1950年)10月1日に目黒区に移管されました。碑文谷池は少し離れたところにある清水池公園の清水池と共に立会川の水源になっています。
碑文谷池
この池は立会川の水源です。もと、碑文谷村の村持(共有地)で、昔は土地の字名をとって“三谷の池”と呼ばれていました。江戸時代には野鴨が多く将軍の鷹狩り場でもありました。その後はもっぱら下流一帯の水田灌漑の重要な水源として古くから部落選出の池総代により管理され、地元の人びとの奉仕によって維持されてきました。池の中島に厳島神社があり、江戸時代にこのあたりを知行していた旗本神谷氏が奉献した弁財天像が安置されています。昭和七年10月、東京市に寄付されて公園となり、その後昭和二十五年9月に(再び?)目黒区に移管されました。
碑文谷池の中には厳島という中島があり、そこには厳島神社が鎮座しています。厳島とは朱色の欄干が鮮やかな小橋で繋がっています。
厳島神社は戦国時代に創建されたと伝えられていて、古来より水の神・火防の神・商売繁盛の神・病気平癒の神・開運の神として信仰されています。嘉永元年(1848年)に碑文谷に知行所を得ていた旗本の十代神谷正庸氏が弁財天像を奉納したといわれています。
厳島神社(弁財天)
この神社の創建は戦国時代(十五・十六世紀)と伝えられ、祭神は市杵島姫命で古来から水の神・火の神として信仰されております。江戸時代に約二百五十年間碑文谷を知行していた旗本神谷氏の信仰が厚く、嘉永元年(1848年)九月、十代神谷正庸氏(大夢)奉献の弁財天像が本殿に奉安されております。商売繁昌・子孫長久・病気平癒・開運・諸願成就の霊験あらたかで、広く皆様に親しまれ信仰されております。毎年四月十五日に例大祭を、十二年に一度巳歳に大祭が執り行われます。
碑文谷公園は、「目黒区みどりの散歩道○碑文谷・立会川コース」にも含まれています。
五穀の実りもたらした碑文谷池
碑文谷公園は目黒区内で最も古い公園の一つ。ボート遊びが楽しめる公園として人気が高い。園内の弁天池は広さ約0.8ha。江戸の昔から昭和の初めまで、この池は碑文谷の村民に五穀の実りをもたらす潅漑用貯水池として大切に管理された。一時は村の財政難を理由に池の売却案も出たが、村人の反対で廃案に。昭和七年、目黒区の誕生を機に東京市に寄贈され公園になった。池の中の厳島神社には極彩色の小さな弁天様が祀られている。
公園の入口のコンクリート碑に何やら書かれたプレートが埋め込まれています。碑文は全く読み取れませんが、隣に同じ文章を書き写したと思われる案内板が立っています。
碑文谷公園記
この地に元碑衾町碑文谷の共有地であって園の半を占むる池に碑文谷池又は三谷池と稱へ立會川の源をなし舊幕(明治維新後に江戸幕府を指した言葉)時代は鴨池とされしと傳う。近時は専ら下流一帯の水田灌漑の水源として重用せられた。池は右へより各々部落選出の池總代により管理せられ其維持は地元人々の奉仕によれり。現存する白樫の並木は今より約六十年前植栽せられ池と共によく愛護され今日に至る。昭和七年十月一日市域擴張に際し擧けて公園地(池?)とし本市に寄附せられ新市域公園の先駆となる。本市はこの沿革を尊重し永く保存管理し郷土の人々の芳志を後世に傳へんとす。
碑文谷公園の敷地の中には、昭和五十六年(1981年)に開設され、ウサギやモルモットなどの小動物に触ったり抱っこすることができる「こども動物広場」があります。その他、ポニーの乗馬体験やポニーの乗馬教室もあります。
平成十三年(2001年)には公園に隣接していた旧第一勧業銀行碑文谷グラウンドを公園用地として取得し、野球場やテニスコート・見所ポイントAの「碑文谷体育館」が併設され、目黒区内でも有数の規模の公園になりました。
碑文谷公園の向かいに日本大学の学生寮があります。日本大学には、野球部・ボート部・ヨット部・柔道部・相撲部・馬術部・テニス部・アメフト部・レスリング部・ボクシング部、はてはゴルフ部まで専用の学生寮が備わっています。川や海や馬場やゴルフ場など、競技によって練習場所が限定されるので、その近くに寮を設けることは理にかなっているのでしょう。碑文谷の寮は水泳部のようで、入口横には古橋廣之進揮毫の「泳心一路」の石碑が置かれています。その横に古橋廣之進の業績を記した案内板があります。
古橋廣之進
この石碑は、日本大学水泳部の卒業生である古橋廣之進氏が、平成二十年にスポーツ人としては初の文化勲章を受章され、その記念に設置されたものである。昭和二十二年から現役を引退する昭和二十七年までの間、400・800・1500Mの自由形に於いて33回もの世界新記録を樹立し、世界中にその名を轟かせた。特に、第二次世界大戦後の昭和二十三年、敗戦国であった日本はロンドンオリンピックへの参加が認められず、これを残念に思った日本水泳連盟は、あえてオリンピックと同日同時刻に日本水泳選手権を開催した。その大会でオリンピックの優勝タイムを大きく上回る数多くの世界記録を樹立した。また、翌年国際水泳連盟への復帰を機に全米水泳選手権に招待されたが、その大会でも驚異の世界新記録で圧勝し、現地では畏敬の念を込めた「フジヤマのトビウオ」というニックネームがつけられ賞賛され、敗戦で打ち拉がれた当時の日本人の心に大きな勇気と希望を与えた。現役引退後は、日本水泳連盟会長、国際水泳連盟副会長、また日本オリンピック委員会会長など数々の要職を歴任、水泳のみならず、スポーツ界全体の発展に尽力し多大な貢献をされた。石碑に刻まれた「泳心一路」は、「魚になるまで泳げ!」という名言から生まれた座右の銘であり、「一筋に努力し、工夫を重ね、苦しみに耐えてこそ人間は成長できる」と言う意味である。この言葉を残し、平成二十一年(2009年)8月2日第13回世界水泳選手権ローマ大会の開催中、突然永眠された。
享年81才(1928年〜2009年)
品川用水は、現在の武蔵野市境にあった玉川上水の取水口から、三鷹市・世田谷区・目黒区・品川区一帯の地域に農業用水を供給していた用水路でした。玉川上水に33あった分水のうち最も長く、その長さは7里半に及んでいたとされています。明治末期から大正時代にかけて地域の市街化に伴い、工業用水路や排水路に役割を変え、昭和二十年代後半には埋め立てられて消滅しました。駒沢陸橋にほど近い水車橋バス停近くの歩道脇に、個人が建てたような掲示板があり、野沢水車の手書きの説明文が貼ってあります。ここにはかって品川用水が流れ、水車小屋があったようです。
野沢水車
川の流れを利用した工業で精米麦製粉として水車が有った野沢水車は、荏原郡最大で明治十四年から大正末まで営まれた。水輪の直径5m・石臼6個・杵20本、落差を利用した上がけ式水車、建物22mx13mと云う大きな「カヤ」屋根の建物であった。
水車小屋周辺の当時の風景が描かれた鳥瞰図も添えられています。水車は品川用水の高低差を利用して、上流から樋で水を引き込んで水輪に落とし、排水はトンネルを経由して下流に流していたようです。用水に5m(水輪の位置を見ると3mくらいかな?)もの落差があったんですかね?
野沢交差点で環七を横断し、柿の木坂通りを進みます。直ぐ先で柿の木坂通りと交差するように、見所ポイントBの「呑川の緑道(呑川柿の木坂支流緑道)」が通っています。かつて、呑川柿の木坂支流は世田谷区の住宅街を縫って流れ、東が丘一丁目35番先で目黒区に入り、柿の木坂三丁目から二丁目・一丁目を経て目黒通りの下をくぐり、中根一丁目3番先で呑川本流に注いでいました。
呑川柿の木坂支流は、昭和四十七年から暗渠化が行なわれ、昭和五十五年には全長2キロメートル余りの緑道になりました。緑道の両側には沢山の桜の木が植えられ、春には桜満開の並木道となり、目黒区のお花見の名所としても知られています。
碑文谷には都立大学駅周辺に「中根」という地名がありますが、かっては「根」の付く地名が多くあったようです。
「根」のつく地名
「根」とは、台地の縁とか、谷のひだの意味で、呑川の浸食で複雑な谷をつくっていたこのあたりに、東根・曽根・平根などの小字名があった。東根は公園や小学校の名に残る。
緑道の脇に小さな公園があり、「芳窪街かど公園」と記された石碑が置かれています。呑川柿の木坂支流上流の東が丘一丁目辺りは、昭和三十九年に新住居表示が施行されるまで「芳窪」という地名でした。ヨシが生い茂った窪地があったというのが地名の由来といわれています。今では町会名にその名を残すだけになりましたが、緑道沿いの静かな住宅街は昭和一桁の頃までは武蔵野の面影を残した郊外地でした。
緑道を離れ、見所ポイントCの「駒沢オリンピック公園」に向かいます。駒沢オリンピック公園は、世田谷区と目黒区にまたがり、昭和三十九年(1964年)に開催された東京オリンピックの会場となったことからこの名前が付けられました。公園内には複数の運動施設があり、これらは駒沢オリンピック公園総合運動場と呼ばれています。公園の敷地には、かって東京ゴルフ倶楽部というゴルフコースがあり、昭和天皇がイギリス皇太子・エドワードと共にプレーしたところでもあります。1940年に開催される予定だった東京オリンピックのメインスタジアム建設が計画されましたが、日中戦争の激化により、東京オリンピックは1938年に中止となり、スタジアム予定地は戦時中の防空緑地や農地として使われました。戦後の一時期、プロ野球東急(東映)フライヤーズの本拠地として駒澤野球場が建設され、またハンドボールコート・ホッケー場・バレーボールコート・弓道場なども整備されました。1961年には1964年の東京オリンピック開催が決定され、駒沢公園は国立競技場に次ぐ第2会場として弓道場以外の運動施設が改修または新設されることとなり、6施設(陸上競技場・体育館・屋内球技場・野外の第一球技場・第二球技場・補助競技場)が整備されました。東京オリンピックではサッカー・レスリング・バレーボール・ホッケーの会場として使われました。運動施設と関係ありませんが、何故か2009年からは、毎年東京ラーメンショーの会場としても使用されています。
公園のジョギングコースに沿って植え込みが続いています。
<大刈込>
日本庭園の一つである築山を近代的にアレンジしたこの大刈込は、陸上競技場の巨大なコンクリート建築との見事なコントラストでバランスを保ち、5000uにも及んで植え込まれた23種ほどの樹木は四季折々に表情を変え、人々の目を楽しませています。
敷地の外周に沿っても同じような植え込みが続いています。
<大刈込>
この大刈込は、昭和三十九年に東京オリンピックの会場となった駒沢オリンピック公園を訪れる各国の選手団や観客に楽しんでもらおうと、日本庭園の手法の一つである築山をアレンジして作られました。トンネル式の小園路や石積みもすばらしく、今も日本有数の大刈込として親しまれています。
植栽の中にロープで囲まれた一画があり、一本の細い木が植えられています。見所ポイントDの「宇宙ケヤキ」というのだそうです。
宇宙ケヤキ
ここにあるケヤキの木は、駒沢オリンピック公園から採った種を、JAXA星出彰彦宇宙飛行士が、スペースシャトル「ディスカバリー号」で宇宙に運び、13日と18時間13分、地球を218周旅した後、再び駒沢オリンピック公園に植えられたものです。宇宙の夢と希望がいっぱいつまったこのケヤキの木を、東京の緑化のシンボルとして、みんなの夢と希望とともに大きく育てましょう。
【星出彰彦宇宙飛行士】
星出宇宙飛行士は、1968年東京世田谷区に生まれ、1992年にJAXAに入社、2001年に3度目の挑戦で宇宙飛行士となり、2008年に念願のスペースシャトルによる宇宙飛行の夢を実現しました。
陸上競技場は、1964年のオリンピック東京大会ではサッカーの予選会場になりました。収容人員2万人のスタンド席を備え、全国高等学校サッカー選手権大会やラグビー日本選手権大会やJリーグの試合など、トップレベルの試合が開催されています。ランニングイベントや駒沢ジュニアサッカースクールなど、一般向けイベントも開催されています。陸上トラックは、団体の専用使用や整備日以外の日にはトレーニングルーム利用者に開放されています。
1964年のオリンピック東京大会の時に皇居前広場の集火式で用いられた、見所ポイントEの「東京オリンピック集火台」は都庁で保管された後、現在は陸上競技場の入口脇に保管・展示されています。
公園内のシンボルである「オリンピック記念塔」の設計は芦原義信氏が担当し、同じ公園内の体育館や中央広場の設計も手がけました。オリンピック記念塔は管制塔でもあり、来場者の交通を管制する目的で作られ、塔の内部には電気・電話・給水・放送関連の設備機能も収容されています。記念塔は中央広場を手前にして、公園全体を見渡せるように公園の中心に建っています。高さ50mの塔は和を意識していて、五重塔などの木造建築を模しています。鉄筋鉄骨コンクリート造でありながら、各階の井桁に組まれた軒のような意匠によって、日本の木造建築らしい見た目になっています。記念塔の近くには体育館が建っていますが、体育館の屋根は神社仏閣の屋根を思わせる反りがあり、法隆寺のような配置関係となっています。体育館も芦原義信氏が設計しており、まさしく日本古来の建築を意識したのではないかと言われています。記念塔は池の中に建っており、日本庭園の中にある池を思い起こさせます。また、記念塔の足下の池の中には見所ポイントFの「東京オリンピック聖火台」が鎮座しています。
見所ポイントGの「東京オリンピックメモリアルギャラリー」は、中央広場に面した体育館入り口正面の階段を下りた地下にあります。
東京オリンピックの名場面を撮した写真やオリンピックの歴史を解説したパネルが入場者を出迎えてくれます。
古代オリンピックのあらましと近代オリンピックの誕生。
古代オリンピックのあらまし
古代ギリシャでは、神に捧げるための祭典競技が盛んに行われていました。なかでも“オリンピア”地方で行われていた競技は、地方的なものから次第に国民的なものに発展して行きました。これがいわゆる“古代オリンピック”です。その発生については、紀元前15〜16世紀、あるいは、それより少しあとといわれていますが、はっきりしたことはわかっていません。この祭典は、いつのまにか中断されていましたが、紀元前776年に復活の第1回大会が開催され、以降は原則として4年毎に、紀元393年の第293回大会で中止されるまで1、000年を越える長い間続けられたのです。会期については、いろいろな説がありますが、夏至のあとの2度目か3度目の満月の日を挟んで5〜6日間おこなわれたという説が有力です。競技種目は、最初のうちは短距離競走(1スタディオン=オリンピアでは192.29メートル)だけでしたが、次第に中・長距離走、レスリング、ボクシング、競馬、五種競技、戦車競走などが追加されました。優勝者には、オリーブの冠が与えられると同時に、その彫像を神域に建てることも許されました。紀元300年代後半に非常に大きな勢力となったローマ帝国が、キリスト教以外の宗教を禁じたために、ゼウスの神に捧げる古代オリンピア祭は紀元393年をもって終わりを告げることになりました。近代オリンピックの聖火の採火式は、現在でも古代オリンピアのヘラ神殿の前で行われています。
近代オリンピックの誕生
時を経て、ドイツ人のエルンスト・クルチウスはオリンピアの発掘を思いつき、1876年に着手して、1881年に第1次発掘作業を完了しました。1863年生まれのフランスの青年貴族“ピエール・ド・クーベルタン”は、このオリンピアの発掘に刺激されて、オリンピックの復興を思いたったのです。そして、1894年6月にパリのソルボンヌ大学講堂で20カ国の代表が参加して行われた国際体育会議の席上で、クーベルタンは、オリンピックを復興することと、その主催者として国際オリンピック委員会(IOC)を設立することを提案し、満場一致で了承されました。ここにオリンピックの復興が成ったのです。この会議では、1896年をもって近代オリンピアードの第1年とし、第1回大会をギリシャのアテネで開催すること、大会は4年に一度各国の大都市で開催すること、競技種目は近代スポーツに限ること、などが決議されました。この“オリンピアード”という言葉は、古代オリンピックで、大会から次の大会までの4年を意味し、古代ギリシャでは公式の暦にしていました。近代オリンピックでもこれを踏襲し、正式にはオリンピアード競技大会と呼ぶことになっています。オリンピック復興という画期的な決議が行われたのが6月23日であることから、のちに、この日を万国共通の“オリンピック・デー”とすることが決められ、現在IOCやIOC加盟の各国の国内オリンピック委員会(NOC)では、6月23日を中心として、それぞれ独自の方法で記念行事を実施しています。ともあれ、復活第1回の大会は、1896年4月にアテネで開催され、ここにクーベルタンの努力が実を結んだのです。
補助競技場では、一般の人達がサッカーの試合を楽しんでいます。
ゴール地点の駒沢大学駅に着きました。駅名は近隣にある駒澤大学に由来しますが、駒澤大学は「澤」の字が新字体の「沢」に改められたのちも表記は旧字体の「駒澤大学」のままになっていますが、駅名は新字体の「駒沢大学」で、駒澤大学とは異なった表記となっています。駅の設置場所については、計画段階で玉電時代の真中電停の位置にするか、駒沢電停の位置にするかで裁判沙汰にまでなったそうです。結局、真中電停とほぼ同じ位置に駅が設置されましたが、駅名を計画段階時の「駒沢公園駅」から「駒沢大学駅」にすることと、駒沢方面への地下通路を東急の負担で建設することで、駒沢大学駅が現在の場所に建設されることに決まったという経緯があります。駅の位置をどこにするか、鉄道会社の自由だと思うのですがね。
ということで、「B東京1964オリンピックを歩く」を歩き終えました。駒沢公園は何度も訪れましたが、競技施設は詳しく見ていませんでした。2020東京オリンピック大会はコロナ渦もあって盛り上がりませんでしたが、1964年の大会は日本中が沸き立ちましたね。そういえば、2020年オリンピック大会の記録映画って噂にも上らないけど、どうなっているのかな?ネットで調べてみたら、2022年の6月3日に東京五輪の公式記録映画「東京2020オリンピック SIDE:A」が公開されたとのことです。河瀬直美総監督(53)が東京五輪に関わる人々を750日・5000時間にわたって撮影し、選手を中心に据えた「SIDE:A」と、市民に焦点を当てた「SIDE:B」(6月24日公開)の2部作にまとめたとのことです。そんなニュース、テレビで報じていたかな?
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