C碑文谷の歴史と緑を歩く  

コース 踏破記  

今日は目黒区の「C碑文谷の歴史と緑を歩く」を歩きます。東急東横線の学芸大学駅をスタート地点として、有名人の結婚式場でお馴染みのサレジオ教会、かっての碑文谷村の鎮守だった碑文谷八幡宮、立会川のもう片方の水源である清水池から林試の森公園を経由し、悲しい伝説のかむろ坂を巡ります。  

「C碑文谷の歴史と緑を歩く」の歩行距離は約6.2km(約8,860歩)、歩行時間は約1時間33分、消費カロリーは約279kcalです。

スタート地点:東急東横線学芸大学駅東口
↓ (約1.2km:約18.0分)
@サレジオ教会
【正式名称はカトリック碑文谷教会。聖堂内部にはイタリアの大理石が使われています。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
A目黒区古民家
【江戸時代中期頃に建てられた古民家は1984年に移築・復原されました。入館無料、休館日あり。】
↓ (すぐ)
Bすずめのお宿緑地公園
【かつて、この付近の竹林からは良質の筍が収穫され、竹林は「雀のねぐら」でもありました。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
C碑文谷八幡宮
【旧碑文谷村の鎮守です。境内にある「碑文石」が、碑文谷の地名の由来という説があります。】
↓ (約0.6km:約 9.0分)
D圓融寺
【853年創建とされる古刹です。釈迦堂は国の重要文化財、仁王像は都の指定文化財です。】
↓ (約0.6km:約 9.0分)
E清水池公園
【公園の池は、元々水田灌漑用のため池でした。現在は釣りができ、主にヘラブナが釣れます。】
↓ (約1.4km:約21.0分)
F林試の森公園
【林業試験場跡地の公園です。珍しい樹木や巨樹、多種類の野鳥が見られます。】
↓ (約1.0km:約15.0分)
Gかむろ坂
【桜並木が続く坂道です。不慮の死を遂げた花魁見習い(かむろ)を偲び、坂の名になりました。】
↓ (約0.8km:約12.0分)
ゴール地点:東急目黒線不動前駅


スタート地点の東急東横線学芸大学駅東口から歩き始めます。学校名を冠した鉄道の駅名は各地にみられますが、学芸大学駅もそのひとつです。駅名の由来となった東京学芸大学は昭和三十九年(1964年)に小金井市へ移転しましたが、駅名がそのまま残されたために、大学受験生から「紛らわしい」という苦情が出るようになりました。受験場を間違えると人生の一大事である入学試験が受けられませんからね。そういう事情で駅名を変更することが検討されましたが、地元住民の賛成を得られず断念したという経緯があります。東京学芸大学の附属高等学校が近くに存続しているので、まんざら無関係と言うわけでもありませんが。学芸大学駅は昭和二年(1927年)に開業しましたが、その当時の駅名は「碑文谷駅」でした。「碑文谷」は現在の目黒区南部一帯の広域名称で、明治二十一年(1888年)に荏原郡碑文谷村が衾村と合併して碑衾村(ひぶすまむら)となった際に大字となっていました。駅は碑衾村大字碑文谷字鷹番に設置されましたので、大字の「碑文谷」を駅名として採用したのです。昭和十一年(1936年)になると、それまで赤坂区青山北町にあった東京府青山師範学校の世田谷下馬町への移転・誘致に東京横浜電鉄が成功し、その最寄り駅として「青山師範駅」に改称されました。その後、校名の改称に伴って駅名は昭和十八年(1943年)に「第一師範駅」、さらに昭和二十七年(1952年)に「学芸大学駅」へと改称されました。



学芸大学駅から住宅地を抜け、目黒通りを渡った先に田向公園があります。公園名を記したプレートは傷みが激しく、門柱や塀も年季を感じさせます。鬱蒼とした樹木に覆われて薄暗い感じですが、園内には滑り台やブランコ・スプリング遊具・砂場があり、家族連れも見られます。春には公園の脇の並木に桜が咲くそうです。公園の周辺はきれいに道路整備がされていて、町の区画が整然としています。公園の隅には昭和三十五年4月10日建立の区画整理記念碑が建てられていて、整然とした町並みはこの区画整理事業によって生み出されたようです。記念碑には、(私には読み取れませんでしたが)「昭和十一年に耕地整理組合を設立し、昭和十三年4月から事業を始め、戦争によるインフレなどで停滞したものの、昭和二十七年にようやく完成した。」ということが記されているそうです。



目黒区みどりの散歩道○07碑文谷・立会川コース「碑文谷の歴史と自然を訪ねる径」の案内板が立っています。今日歩く「C碑文谷の歴史と緑を歩く」コースは、目黒区が選定した散歩道コースと重なっている区間が多く、あちこちでこのような案内板と出会うことになります。

サレジオ教会と江戸のサンタマリア

白い外壁に、青い屋根。地上36mの高い鐘塔をいただくサレジオ教会は、中世欧州の香りに満ちた美しさで知られる。昭和二十九年、イタリアのカトリック教会の手で、この地に完成。中の大聖堂はおごそかな雰囲気に満ちている。イタリア産大理石で美しく装飾された祭壇と色鮮やかなステンドグラス。パイプオルガンの調べが、ほの暗い堂内に静かに流れる。大聖堂の壁に「江戸のサンタ・マリア」と呼ばれる一枚の聖母絵がかかる。江戸中期、鎖国の日本に入国して捉えられ、江戸で殉教したイタリア人神父が所持していた銅版画の複製で、キリシタン受難の歴史を今に伝える。




見所ポイント@の「サレジオ教会」は「カトリック碑文谷教会」の通称名で、「江戸のサンタ・マリア聖堂」として1954年5月22日に建立され、その後カトリック東京教区からサレジオ会に運営が委託されました。サレジオ会とはキリスト教・カトリックの男子修道会で、19世紀にイタリアの司祭だった聖ヨハネ・ボスコ(1815年〜1888年)によって創立されました。聖ヨハネ・ボスコはドン・ボスコとも呼ばれ、産業革命の急激な進展とイタリア統一運動のさなかに殺伐としていたイタリア国内にあって助けを必要とする青少年の教育の必要性を痛感し、取り組みを始めました。やがて、ドン・ボスコのもとに教え子たちが集まって修道会が発足し、サレジオ会は日本を含む全世界に活動の範囲を広げていきました。サレジオ教会の大聖堂は、高さ36mの鐘塔を備えたロマネスク様式の建物です。キリスト教が迫害された江戸時代の最後のキリシタン・バテレン(宣教師)であるジョヴァンニ・シドッティ神父は1708年に来日し、「江戸のサンタマリア」と尊称されましたが、小石川切支丹屋敷にて死去しました。神父がイタリアから携えてきたカルロ・ドルチのマリア像「親指の聖母(悲しみの聖母)」は神父に捧げられ、そのレプリカが大聖堂の入口の小祭壇上に掲げられています。鐘はミラノの信者から寄付されたもので、ラ・ド・ミの美しい音色を奏でます。1985年6月24日、神田正輝と松田聖子が渡哲也を立会人としてサレジオ教会で挙式し、「聖輝の結婚」と報道されました。

当教会の保護者(江戸のサンタマリア)

1708年、最後の潜伏バテレンとして屋久島に渡来した、シドッティ神父の所持品の聖画。原画はカルロ・ドルチ作「悲しみの聖母」または「親指の聖母」といわれ現在、東京国立博物館に重要文化財として収蔵されている。




目黒区みどりの散歩道○碑文谷・立会川コース「碑文谷の歴史と自然を訪ねる径」の案内板が「すずめのお宿緑地公園」の前に立っています。

”すずめのお宿”の竹林と古民家

目黒名物と言えば筍。昔は区内のあちこちに見られた見事な竹林も都市化の波に呑まれ、既に大半が姿を消した。ここ「すずめのお宿緑地公園」には、かつての名残をとどめる貴重な竹林が今も健在。昭和の初め頃、この竹林には数千羽のすずめが棲み、土地の人々は「すずめのお宿」の名で呼んでいたという。園内の古民家は、衾村の旧家栗山家の母屋を移築復元したもの。昔の農具などが展示され、当時の暮らしぶりを知ることができる。




見所ポイントAの「目黒区古民家」は、すずめのお宿緑地公園の敷地内に建っています。古民家は、江戸時代に「年寄」という名主や庄屋を補佐する村の重要な役職を代々務めた旧衾村(ほぼ現在の環七通りの西側)の栗山家の主屋(目黒区指定文化財)を、竹林が生い茂る「すずめのお宿緑地公園」内に移築・復元(昭和五十九年4月に開設)したものです。古民家が建てられた年代については、安政四年(1857年)4月に大きな改築が行われた記録があることや、大黒柱を含めた軸組の構法や南側の外縁に見られる建築様式から、江戸時代中期に創建されたと推測されています。



見所ポイントBの「すずめのお宿緑地公園」は、昭和五十六年(1981年)4月1日に開園した目黒区立の公園です。今からおよそ200年前、江戸時代の安永年間に始まったという目黒の筍栽培は大正中頃に最盛期となり、有数な竹林だったこの地では良質の筍が収穫されたと言われています。また昭和の始め頃、この竹林は付近一帯のスズメのねぐらになっていました。数千羽というスズメが朝どこへともなく飛び立ち、夕方には数百羽が一団となって帰り、空が薄暗くなるほどだったそうです。そのためこの場所は「スズメのお宿」と呼ばれるようになりました。今でも竹林やシイ・ケヤキの大木が残り、野鳥が多く生息しています。古民家が建ってるのは北側の一角です。

すずめのお宿緑地公園の由来

この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群をなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として利用することができることとなったものです。ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝をささげます。




植え込みの中に雀を手の平に乗せた少女の銅像が建っています。台坐の碑文は案内板と同じ内容です。竹林は青々と茂っています。季節が初秋なので、竹垣に囲まれた地面には筍は見えませんね。



碑文谷八幡宮の参道の脇に、目黒区みどりの散歩道○碑文谷・立会川コース「碑文谷の歴史と自然を訪ねる径」の案内板が立っています。とてつもなく長い参道ですね。

碑文谷八幡と碑文石

碑文谷八幡宮は昔から碑文谷の鎮守として崇められてきたが、創建年代については鎌倉時代とも室町時代とも伝えられ、はっきりしていない。社殿横には”碑文石”と呼ばれ、地名の起源になったといわれる石が保存されている。春には参道を桜が咲き競い、そぞろ歩く人が絶えない。9月の祭礼には御輿、山車も多数繰り出して、境内は祭り一色に染まる。




見所ポイントCの「碑文谷八幡宮」は、かっての碑文谷村の鎮守として知られています。創建年代は不明ですが、鎌倉時代に源頼朝の家臣だった畠山重忠が二俣川で北条義時の軍に討たれた後、その守本尊を預かっていた家臣の榛沢六郎が家人で当地に住んでいた宮野友右衛門という人物に祀らせたのが始まりであると言われています。現在の社殿は延宝二年(1674年)に造替したものを明治五年(1872年)に再建し、更に明治二十年(1887年)に改築したものです。神仏分離令が出るまでは、別当寺として近辺にある円融寺の子院である神宮院が置かれていました。碑文谷八幡宮には、畠山重忠の家臣榛沢六郎を祀った稲荷社があり、また「碑文谷」の名の起こりともいわれている碑文石や勝海舟直筆の「八幡大神」の額などが保存されています。桜の時期になると、一の鳥居から二の鳥居までの間が桜の花で溢れ、桜の見所にもなっています。

碑文谷八幡宮

この神社は、旧碑文谷村の鎮守で、祭神は応神天皇です。畠山重忠(1205年歿)の守護神を家臣筋の宮野左近という人がここに祀ったのがその起源だといわれています。創建年代は不詳ですが、「四神地名録」や「新編武蔵風土記稿」にも記されている由緒のある神社です。社殿は、延宝二年(1674年)に建てられ、その後明治五年に再建、同二十年に改築されました。本殿の右側に重忠の臣、榛沢六郎を祀った稲荷社があり、また碑文谷の地名の起こりとなったともいわれる梵字を刻んだ石(碑文谷)が保存されています。なお、当社には勝海舟筆の「額」や「のぼり」が所蔵されています。祭礼は春秋の2回で、昔ながらの“目黒ばやし”の音もなつかしく、みこしやだしも練り歩き賑やかです。




境内の保管庫に祀られている碑文石は、高さが約75cm・横幅は最大で約45cm・厚さは約10cmで、現在は暗渠化されていますが付近を流れていた呑川の川床の石を材料にしています。石には中央に大日如来を示す梵字、左には勢至菩薩を示す梵字、右には観音菩薩を示す梵字がそれぞれ刻まれています。室町時代の頃の作と言われていますが、その趣旨などは伝わっていません。一説にはこの碑文を彫った石がある里(谷)ということから、当地の地名「碑文谷」が生まれたとも言われています。この碑文石は当時の人々の信仰を知る上での貴重な資料として現在でも境内に祀られています。

碑文石

この碑文石は、碑文谷の地名の起こりとなったともいわれ、当碑文谷八幡宮では信仰の遺物として、また歴史資料として、大切に保存に努めてまいりました。碑文を彫った石のある里(谷)という意味から碑文谷の地名が起こりました。碑文石は近くの呑川の川床に露出していた上総(三浦)層群の砂岩で、普通、沢丸石とよばれる石を材料としています。この碑の上方には、中央に大日如来(バン)、左に熱至菩薩(サク)、右に観音菩薩(サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした三尊種子の板碑の一種とみられます。高さ75センチ、横(中央)45センチ、厚さ10センチ、上部が隅丸、下部が下脹れのやや角張った形をしております。碑文石は、昔、碑文谷八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたものと伝えられ、大日と異系の二種子を合わせて表わしているので、恐らく、室町時代のものとみられます。江戸時代の名著「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などに碑文石のことが書かれています。この碑文石には造立の趣旨や紀年は彫られていませんが、中世の人びとの信仰状況を知る上に貴重なものです。




両側を桜の並木で覆われた遊歩道の脇に、目黒区みどりの散歩道○碑文谷・立会川コース「碑文谷の歴史と自然を訪ねる径」の案内板が立っています。碑文谷の歴史とこれから訪れる円融寺について解説されています。

歴史と自然のまち 碑文谷と円融寺

このコースは全長3.4km。立会川緑道のそぞろ歩きを楽しみながら、碑文谷の歴史と自然を探訪する。碑文谷は江戸期の目黒6カ村の一つ。江戸の近郊農村として、昔は筍をはじめ米麦、野菜の栽培が盛んだった。大正末から昭和初期の関東大震災、目蒲・東横両線の開通が契機になって宅地が急速に進み、準農村から住宅や商店が混在する町に生まれ変わった。この緑道の北側に目黒区内でも有数の古刹、円融寺がある。平安初期に慈覚大師が創設したと伝えられ、もともと天台宗の寺だったが、鎌倉後期に日源上人により日蓮宗に改宗。名も法華寺と改められ隆盛を極めたが、「不受布施」の教義のため徳川幕府の弾圧を受け、再び天台宗の寺に戻された。毎年、節分の日は大勢の善男善女で賑う。




見所ポイントDの「圓融寺」は、仁寿三年(853年)に円仁(慈覚大師)が天台宗妙光山法服寺を建立したと寺伝に記されています。弘安六年(1283年)に日蓮の弟子である日源により、日蓮宗に改宗されて妙光山法華寺と改称しました。中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、坊舎18・末寺75箇寺を数えました。法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされ、元禄十一年(1698年)に再び天台宗の寺院となり、東叡山寛永寺の末寺となりました。その後、天保五年(1834年)になって経王山円融寺と改称しました。「不受不施派」とは、法華経信者以外からは施しを受けず、与えずという一派で、日蓮宗本山の久遠寺と対立し、江戸幕府からも弾圧されました。日源の法脈は、この改宗により完全に途絶えてしまいました。法華寺にあった尊像などは、祖師像は妙法寺・三宝尊像は立源寺・釈迦如来涅槃之図は常円寺・法華門は妙法寺・摩耶夫人像は摩耶寺など、所縁寺院に引取られていきました。本堂(釈迦堂)は国指定の重要文化財、寛永二十年(1643年)鋳造の梵鐘は重要美術品、永禄二年(1559年)作の木造金剛力士(仁王)像は都の指定有形文化財、仁王門と日源上人五重石塔は目黒区指定文化財になっています。墓所には、歌手の西城秀樹さんや俳優の渡哲也さんのお墓があります。

円融寺

寺伝によれば円融寺は、仁寿三年(853年)に慈覚大師によってこの地に開かれた天台宗法服寺がそのはじまりです。弘安六年(1283年)日蓮上人の高弟日源上人により天台宗から日蓮宗に改宗しました。この時に寺号も妙光山法華寺と改めて、以後約400年の間にわたり栄えた名刹でした。しかし、いわゆる不受不施の教義を強く主張したため江戸幕府の弾圧を受けることとなり、元禄十一年(1698年)に元の天台宗にもどされました。そして天保五年(1834年)に、山号寺号を経王山円融寺へ改め今日に至っています。正面に立つ優美な姿の「釈迦堂」(国指定重要文化財)は室町時代初期に建てられたもので、東京都23区内では最も古い木造建築です。境内には他に、寛永二十年(1643年)に鋳造された「梵鐘」(国重要美術品)、仁王門(区指定文化財)に安置されている木造金剛力士立像(都指定文化財)や、日源上人の事績が刻まれている「日源上人五重石塔」(区指定文化財)などがあり、また本堂には中世宗教史研究上貴重な歴史資料である「円融寺板碑」(区指定文化財)があります。




山門を入りますと、正面に仁王門が聳えています。

円融寺仁王門

仁王門は三間一戸、八脚、入母屋造、茅葺(現在は銅板葺)で、用材は主に欅と檜を使い、和様に唐様をとり入れた建築様式で、細部の虹梁、蟇股、懸魚などにも彫刻的装飾が多く施されています。中央通路両脇に安置されている木造金剛力士像(都指定文化財)は、永禄二年(1559年)鎌倉扇谷大蔵法眼の作といわれ、簡素な中に力強さを秘めており、「黒仁王さん」または「碑文谷の仁王さん」として親しまれ、江戸時代末期に多くの人々の信仰を集めました。仁王門は木造金剛力士像の製作とともに建築されたものと推定され、部分的には中世的特質も残していますが、しかし寛文期(1661年〜1673年)から元禄期(1688年〜1704年)にかけての様式的特徴が見られることから、現在の仁王門は近世になって大改修が行われたものと考えられます。




仁王門の先には優雅な曲線美をした屋根が特徴の釈迦堂が建っています。



日源上人の追善供養のために建立された五重石塔は見上げる高さです。石を積み上げただけなので、地震で倒壊しないかと心配です。

日源上人五重石塔

日源上人(生年不詳〜1315年)は日蓮宗の宗祖日蓮の高弟で、法服寺(天台宗)を改宗し、弘安六年(1283年)に法華寺(日蓮宗)を開きました。法華寺は大寺院として約400年にわたり栄えましたが、江戸時代に幕府と対立したことにより天台宗に戻され、その後寺号も圓融寺に改めました。この石塔は、寛永十三年(1636年)に日源上人の追善供養のため建立されたもので、石塔の下には日源上人の遺骨が納められました。文化十一年(1814年)に石塔は再興され、昭和四十九年(1974年)には石塔の場所が境内の北東から現在地に移されました。各軸石には、上から「妙」「法」「蓮」「華」「経」と刻まれ、最下層の軸石には石塔の由来や造立者などが刻まれています。軸石と笠石が別々の石で構成され、しかも軸石が高く、総高約4.4mの雄大な五重塔となっている珍しい例です。




寛永二十年(1643年)9月に鋳造された梵鐘は、山城国の飯田善兵衛宗次の作とされています。余談ですが、同じ年の同じ月に同じ作者が造った梵鐘が、幸田露伴の名作「五重塔」で知られる谷中の感応寺(現在の天王寺)にもありました。小説には登場しませんが。



圓融寺を出て清水池公園に向かいます。公園の前に、目黒区みどりの散歩道○サレジオ教会・清水池コースの案内板が立っています。

太公望と清水池公園

釣りマニアで賑わうこの公園は、広さ約5、800u。その三割を大きな池が占める。昔は自然の湧水池だったが、やがて碑文谷村共有の水田灌漑用の貯水池に。その後、東京市に寄付され、昭和十年12月、新しい公園に生まれ変わった。戦後の昭和二十七年には目黒区が釣堀公園として整備し直し、区民に開放。時折、フナやコイなどが放流され、太公望が糸を垂れる。池の端の弁天様の祠は、灌漑水源の守護神として村人たちが建立したものだ。




見所ポイントEの「清水池公園」は、清水池を中心とした目黒区立の公園で、周辺住民の憩いの場になっているほか、池で釣りができる公園としても知られています。公園の中心になっている清水池は、古来より水田灌漑用の貯水池として地元の人々に大切に維持・管理され、まだ此の地が農村だった頃は地元の人々にとって欠かせない存在でした。昔は当時の地名を取って「池ノ上の池」と呼ばれていました。また、この池は同じ区内にある碑文谷公園にある碑文谷池と共に立会川の水源にもなっていて、このふたつの池から流れ出た水は目黒周辺のみならず、荏原一帯の農業地帯を潤し、城南地域全体から見ても貴重な水源でした。近代になって付近が住宅地へと変化していく中、清水池の永久保存を条件に、当時の東京市に付近の土地と共に寄贈され、公園として整備され、昭和十年(1935年)12月1日に清水池公園として開園しました。昭和二十五年(1950年)10月1日に目黒区に管轄が移り、池にヘラブナなどを放流して目黒区で唯一の釣りができる公園となっています。但し、釣りは無料ですが、釣り上げた魚は必ず池に戻すルールになっています。釣り人の楽しみは釣り上げたときの感触にあって、フナを持ち帰っても食べることはしませんからね。公園西側には弁財天の祠がありますが、由来記によればこの地に守護神がいなかったことから、江戸時代初期に弁財天を祀って守護神にしたといわれています。公園の入口には、開園当時に東京市が設置した石板があり、公園が出来た経緯が残されています。

清水池公園沿革

本園は武蔵野の湧水地にして舊(もと)碑衾町碑文谷宇池上部落の共有に係り、古来辨天池と唱へ、亦附近耕地の灌漑用水に利用せられたるを以て溜井とも稱し、地名の起原を為せり。昭和七年十月市域擴張の際、擧げて公園地となし本市に寄附せられ、更に同九年一月角田長雄氏より隣接地若干の寄附を受領したり。茲(ここ)に本園の竣成に當り地元各位の芳志を永久に傳へんとす。




今日も日がな一日、沢山のヒマ人が釣りに興じています。年配のおぢさんばっかしですね。

清水池公園

清水池公園の全体の約3割を占めている清水池は、以前は湧き水が豊富な池でした。よって碑文谷池とともに立会川の水源であり、かつては碑文谷村共有の水田灌漑用の貯水池としても大切な役割を果たしていました。昭和七年、公園地としての永久保存を条件にこの地は東京市に寄付され、ここに清水池公園が誕生しました。目黒区には昭和二十五年に移管され今日に至っています。現在、清水池にはヘラブナが放流されて区内唯一の釣りのできる池として、区民はもとより区外の人々にも親しまれ、また釣り愛好者グループの活動により順調な運営が図られています。公園西側には弁財天の祠がありますが、由来記によればこの地に守護神がいなかったことから、江戸時代初期に弁財天を祀って守護神にしたといわれています。




弁財天の祠は、石の鳥居をくぐり、池ノ上橋という石橋を渡った先に鎮座しています。祠の正式な名称は「池之上開運辨財天」といい、旧碑文谷村池之上集落の鎮守として祀られたと伝われています。元々は清水池の中島にありましたが、その後池畔の現在の場所に遷宮されたのだそうです。なので、石橋はかっての姿を模しただけの役割といえます。ぱっと見、水上に架かっているようにも見えますが。



弁財天の祠の横に年代物の石碑が建っています。「?」の文字はどうしても読み取れませんでした。「堂宇」と一緒にあったものらしいのですが、何でしょうか?

清水池公園辨財天由来記

本祠は舊碑文谷村字池之上部落の鎮守にして耕地灌漑水源の守護神たり。寛文年中五穀豊穣子孫長久祈願の為め衾村常圓寺相應院日庸上人の創建する所と傳ふ。社地は古く池中の浮島に在りしが維新の際故ありて東南の池畔に移し後更に現地に遷せり。堂宇は?と芝赤羽有馬候邸内に在りしを請受けて移建せるものなり。昭和七年十月市域擴張に際し當地を公園として東京市に寄附し祠堂また其の管理に移れり。茲に開園に臨み舊氏子一同祠畔に碑を建てて以てこの来由を記すと云爾。




見所ポイントFの「林試の森公園」は、目黒区と品川区にまたがる東西に700m・南北に250mの広大な都立公園です。西ケ原(現在の北区)にあった農商務省林野整理局樹木試験所(明治十一年【1878年】に設立)から、目黒川支流の羅漢寺川谷戸南側の北斜面の現在の地に植樹を移し、明治三十三年(1900年)6月に「目黒試験苗圃」が設置されました。当時の広さは約45、000坪でした。明治三十八年(1905年)に林野庁「林業試験所」、明治四十三年(1910年)に「林業試験場」と改称されました。また、林業試験場の周辺には明治から大正にかけて多くの研究所が置かれ、戦後にかけても北里研究所目黒支所・津村研究所・石炭綜合研究所・国立予防衛生研究所など、18もの研究所が置かれていました。林業試験場は昭和五十三年(1978年)につくば市に移転し(現在の独立行政法人・森林総合研究所)、跡地は都に払い下げられて公園として整備され、平成元年(1989年)6月1日に「都立林試の森公園」として開園しました。開園時の面積は12ヘクタール(約36、000坪)でした。今でも林業試験場当時の樹木がそのまま残されていて、都内でも屈指のケヤキ・クスノキ・プラタナス・ポプラ・スズカケノキなどの巨木があります。その他、カイノキ・トチュウ・シナユリノキ・チンタオトゲナシニセアカシア・ベニカエデ・ヒマラヤゴヨウ・レバノンスギまどの外国産樹木やアベマキ・ハナガガシ・ニオイドロ・シマサルスベリ・ヨコグラノキ・ナナミノキなどの珍しい木もあり、それぞれに解説のプレートが付けられています。園内で最も太い木は幹周が3.82mのケヤキで、最も高い木は高さ35.5mのポプラの木です。園内中央を南北に小さい谷地形が走っていますが、これはかつて小山台を流れていた品川用水(玉川上水の分水)を羅漢寺川に通水していた名残であり、当時を偲ばせる水車が復元されています。大木の揃った森の他、芝生広場やデイキャンプ施設、夏期に子供が入れるじゃぶじゃぶ池、西側には野球やサッカーの練習にも使用できるグラウンドも整備されています。春と秋開催の「林試の森フェスタ」ではコンサートやフリーマーケットなどが行われ、2万人以上が来場します。この他にも野外体験教室・樹木観察会・音楽会など年間を通じて数多くのイベントが実施されています。

林試の森公園の敷地の大半は、明治三十三年に開設されてから、昭和五十二年度の筑波研究学園都市への移転まで林業試験場として利用されてきたものです。林業試験場時代の樹木を生かした整備を行い、平成四年6月1日全面開園しました。



公園内には土がむき出しの遊歩道や池があり、自然そのものの雰囲気が味わえます。



羅漢寺川は目黒川の支流で、清水池公園の少し東の目黒本町に源流があり、林試の森公園を経由して東へ流れ、目黒不動尊から下流はカーブは多いものの通常の道路となって、下目黒の目黒雅叙園対岸で目黒川に合流する長さ1km程の小河川です。昭和三十九年(1964年)の東京オリンピック前後に暗渠化され、上部は緑道として整備されています。中流から下流に入る五百羅漢寺が河川名の由来となっています。羅漢寺川には幾つかの支流があり、清水稲荷神社の脇を流れていた六畝川もそのひとつです。



林試の森公園の水車門を出た先に、水車小屋があります。羅漢寺川の水流を利用していたのでしょうか?



見所ポイントGの「かむろ坂(禿坂)」は、山手通りのかむろ坂下交差点を坂下として西へ上り、武蔵小山方面へと抜ける全長約480メートル・最大勾配3.5%・幅13mの坂で、春になると坂道の両側に植えられた桜並木が品川百景のひとつのお花見の名所となります。「かむろ」は漢字で「禿」と書きますが、これは「はげ」の意味ではなく、江戸時代の高級遊女(吉原などの高級売春婦)の召使いの少女達を指して呼んだ言葉です。「かむろ坂」は、歌舞伎の題目として有名な「浮世柄比翼稲妻」に登場します。江戸前期、同じ藩の侍を斬って浪人になった元鳥取藩士平井権八は、その後江戸で辻斬り強盗を働き、その罪で延宝七年(1679年)に鈴ケ森刑場において処刑され、目黒の冷法寺に葬られました。江戸で平井権八と恋仲となっていた吉原の三浦屋の遊女・小紫は、権八の処刑の報を聞いて店を抜け出し、冷法寺に向かい、墓前で悲しみのあまり自ら命を絶ちました。帰らない小紫を心配した三浦屋の下女で遊女小紫が使っていた禿が目黒へと向かい、小紫の死を知りました。その帰り道に此の付近で襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害しました。これを偲んでかむろ坂の名称が付いたといわれています。

江戸時代の延宝七年(1679年)、辻斬り強盗を重ねていた元鳥取藩士平井(白井)権八が鈴ヶ森刑場で処刑され、権八なじみの遊女小紫はこれを悲しんで自害した。このとき、帰りの遅い小紫を探しにきたお付の禿が帰り道でならずものに襲われ、逃げ場を失い桐ヶ谷の二ツ池に身を投げたという。これをあわれんだ近くの人が、なきがらを池の傍らの丘に葬り、その後、この一帯の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂を禿坂と呼ぶようになったと伝えられている。

In 1679 (Edo Period) HIRAI (SHIRAI) Gonpachi, the ex-samurai warrior of Tottori Feudal Clan, was executed in Suzugamori for many street murders and robberies. Due to his death, HIRAI's intimate Yujo* Komurasaki killed herself with sorrow. At that time, Komurasaki's Kamuro* was looking for her but she got attacked by outlaws and threw herself into Futatsuike Pond near Kirigaya at last. People who sympathized with Kamuro buried her body in the hill by the pond and nowadays, the hill is known as Kamuro-yama and the slope leading to the hill is known as Kamuro-zaka.

*1 Yujo......a prostitute
*2 Kamuro....a(n?) attendant




坂の途中に小さな「かむろ坂公園」があります。平成元年に開園した比較的新しい公園で、遊具もトイレも綺麗です。



歩道の脇に少女2人の銅像が建っています。「優姫」というタイトルが付いていますが、どう見ても小紫と禿には見えませんね。隣にかむろ坂の由来を記した案内板が立っています。

かむろ坂の由来

今から三百年ほど前、数々の悪事を重ねた鳥取の武士、平井権八郎直定(歌舞伎では白井権八)が鈴ヶ森で処刑され、目黒の冷心寺の僧に引き取られて葬られました。権八と相愛であった吉原の三浦屋のおいらん「小紫」は、それを知ると目黒へ急ぎ権八の墓前で自害しました。小紫の帰りを心配した三浦屋の主人は、小紫の可愛がっていた半玉(おいらんの下で働く少女は、おかっぱのような髪形をしていたところから「かむろ」とよばれていました)を迎えに出しました。「かむろ」は、冷心寺で小紫の死を知ることとなります。泣きながらの帰途桐ヶ谷近くにさしかかったとき、突然暴徒に襲われ逃げきれず、目の前にあった「二ツ池」に飛び込み死んでしまいました。この様子を見ていた村人は、「かむろ」を哀れに思い丘の中腹に葬り、「かむろ塚」と呼んでいましたが、その後、丘を「かむろ山」池を「かむろが池」と呼ぶようになったということです。都市化とともに付近の様子も変わり、残されたこの坂道が「かむろ坂」と呼び残されています。




不動前駅に着きました。不動前駅は東急目黒線の駅で、大正十二年(1923年)に目蒲線の「目黒不動前駅」という駅名で開業しました(同年中に不動前駅に改称)。平成十二年(2000年)8月6日に目蒲線が目黒線と東急多摩川線に分割され、目黒線の駅となりました。駅名は目黒不動尊として知られる瀧泉寺の最寄り駅として設置されたことに由来しています。開業当初の「目黒不動前駅」からすぐに「不動前駅」に変更されましたが、この近辺では目黒不動のことを「お不動さん」と言われていたことに着目した目黒蒲田電鉄専務取締役の五島慶太は、この駅が目黒不動への一番の最寄り駅であることをアピールするためにあえて紛らわしい「目黒」を抜いて「不動前駅」にして集客を増やしたといわれています。



ということで、「C碑文谷の歴史と緑を歩く」を歩き終えました。私が昔足繁く通っていた居酒屋の「すすめのおやど」ですが、碑文谷の「すずめのお宿緑地公園」との関係はないようです。きっと、夜になるとお酒が恋しくなって会社から居酒屋に直行するサラリーマン達を雀に例えて店名にしたのでしょう。ということは、私もかっては雀の一羽だった?




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