D江戸のレトロを歩く  

コース 踏破記  

今日は目黒区の「D江戸のレトロを歩く」を歩きます。JR山手線の目黒駅をスタート地点として、山手の七福神巡り、目黒川の緑道、恵比寿の裏通りを巡ります。  

「D江戸のレトロを歩く」の歩行距離は約4.8km(約6,860歩)、歩行時間は約1時間12分、消費カロリーは約216kcalです。

スタート地点:目黒駅正面口

↓ (約0.2km:約 3.0分)
@行人坂
【この急坂は、かっては江戸市中から目黒筋に通じる道として賑わいました。】
↓ (すぐ)
A大圓寺
【出羽湯殿山の修験僧・大海法印が開いた寺院です。明和の大火を供養する石仏群があります。】
↓ (約0.6km:約 9.0分)
B蟠龍寺
【境内が「江戸名所図会」に描かれた寺院です。岩窟内に山手七福神の弁財天が祀られています。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
C五百羅漢寺
【元禄時代、松雲元慶禅師は500体以上の羅漢像を彫り上げました。305体が現存しています。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
D成就院(たこ薬師)
【「たこ薬師」の名は、慈覚大師作と伝わる本尊の薬師如来が三匹の蛸に支えられる姿に由来します。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
E瀧泉寺
【江戸近郊の不動霊場です。境内にある独鈷の瀧からは開山以来、枯れずに水が流れています。】
↓ (約1.6km:約24.0分)
F目黒区美術館
【近現代の絵画などの展覧会を開催します。区民が利用できるギャラリーを設けています。】
↓ (約0.6km:約 9.0分)
G茶屋坂
【江戸から目黒に入る道の一つで、つづら折りの坂からは富士山が見えたと言われています。】
↓ (約1.0km:約15.0分)

ゴール地点:恵比寿駅西口


スタート地点のJR山手線目黒駅正面口から歩き始めます。目黒駅には東口と西口とアトレ2にある正面口がありますが、かなり高低差があります。権之助坂を上って、ちょうど目黒駅の西口と正面口辺りが小山のてっぺんになっているみたいです。ちなみに、山手線の駅間で標高による高低差が特に激しい場所は大きく2カ所あり、ひとつは駒込〜田端間の14.2m、そして目黒〜五反田間の19.5mです。海沿いの品川から高輪台地と八ツ山・御殿山・島津山・池田山の下の低地を品川〜大崎〜五反田と走ってきた山手線は、標高約3.4mの五反田駅から台地上にある標高約22.9mの目黒駅まで、その差約20mをたった一駅で登ります。この目黒川沿いの五反田から目黒にかけては、重い電車(当時はまだ蒸気機関車の時代でしたので急勾配は避けなければなりませんでした)が山の手の台地に登るために鉄道技術者が最初に克服しなければならなかった難所と言われています。目黒駅の山手線ホームが地下になっているのも、五反田からの線路の勾配をなるべく緩やかにするための工夫だったのでしょう。



目黒駅から目黒川に下る急坂が見所ポイント@の「行人坂」です。行人坂の坂名の由来は、寛永年間にこのあたりに巣食う不良の輩を追い払うために、徳川家は高僧大海法師を勧請してお寺を開山しました。その後、不良の輩は一掃され、その功績で「大圓寺」の号が与えられました。当時その寺には「行人(修行僧)」が多く住んでいましたので、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになりました。坂の途中に案内板が立っています。

行人坂

寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。




行人坂の途中に芸能プロダクションのホリプロの本社ビルが建っています。ホリプロは、1960年5月に堀プロダクションとして設立され、設立初期は「僕は泣いちっち」や「有難や節」でヒットを飛ばした守屋浩を売り出していました。ホリプロダクションに改名後は舟木一夫、ザ・スパイダース、ザ・ヴィレッジ・シンガーズ、オックスなどが活躍する一方で、映画監督の大林宣彦を起用して丹頂が社運を賭けて発売したチャールズ・ブロンソンが出演したことで知られる「マンダム」のCMを制作するなど、小規模ながらも芸能事務所として知られるようになっていきました。1970年代前半には、井上陽水などフォーク系のアーティストなどを扱う部門を設けました。1970年代中頃から後半は、主に山口百恵や石川さゆりや森昌子らの活躍によって、最大のライバル事務所だったナベプロ(渡辺プロダクション)に次ぐ勢力となりました。社名を冠した「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を開催し、榊原郁恵なども発掘しています。近年は、YouTubeやU−NEXTなどの新分野にも進出しています。



行人坂の案内板の隣に、菩薩像が祀られています。目黒川に橋を架けた際の供養で造立されたのだそうです。

目K川架橋供養勢至菩薩石像
目黒区指定有形文化財(歴史資料)

小堂の中にある石造物は3段の台石を含め総高190cmで、一番上は蓮華座の上で合掌し、右膝を立てて座る勢至菩薩像です。小堂の前を通る行人坂を下りた先には目黒川がありますが、江戸時代中期の目黒川架橋について台座石の前面と両側面に銘文が刻まれています。銘文は宝永元年(1704年)のもので、西運という僧が目黒不動尊と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中で人々から受けた寄進により、川の両岸に石壁を築き、雁歯橋(現在の太鼓橋)を架けたということが書かれています。目黒川架橋の歴史を示す、貴重な文化財です。




見所ポイントAの「大圓寺」は、寛永年間(1624年〜1644年)に湯殿山修験道の行者大海が創建したと伝えられています。明和九年(1772年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、幕府から再建の許可がなかなか得られませんでした。江戸時代後期の嘉永元年(1848年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建されました。

大円寺(天台宗)

この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切りひらき、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりと伝えられています。本寺には、”生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、木造「十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。明和九年(1772年)2月本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた「釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀三尊像」(区指定文化財)や八百や(屋)お七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。境内には「行人坂敷石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。




大圓寺の正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたることから徳川家康をモデルにした「大黒天」が祀られ、「江戸の三大黒天」として崇拝されています。大黒天は七福神のひとつで、狩衣に似た服を着て大黒頭巾をかぶり、左肩に大袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持ち、米俵の上に座る神様です。ご利益には、五穀豊穣・子孫愛育・出世開運・商売繁盛などがあります。



本堂の左手に夥しい数の石仏が並んでいます。「大円寺石仏群」と呼ばれ、これらの石仏は「明和の大火」による焼死者を供養するために天明年間(1781年〜1788年)に造られました。明和の大火とは、明和九年(1772年)2月に大円寺から出火し、江戸市中の三分の一にあたる628町に延焼し、一万四千人もの焼死者を出した江戸の三大火事のひとつで、「目黒行人坂の火事」ともよばれています。ちなみに、残りのふつの火事は、「明暦の大火」と「文化の大火」です。明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれ、とある振袖を持っていた人が病気でバタバタと倒れて亡くなっていたので、怨霊がいると思った本妙寺の住職が振袖を燃やして供養した時に炎が風によって家に燃え移り火事となったといわれています。この火事によって江戸城の天守閣も焼失しました。文化の大火は文化三年(1806年)に芝車町(現在の港区)から出火し、風によって京橋・日本橋・上野方面を焼き払い、1200人の死者を出した大火です。この火事は、「牛町火事」や「車町火事」とも言われています。「天和の大火(八百屋お七の放火の原因となった火事)」は三大火事には入っていないんですね。

東京都指定有形文化財(歴史資料)
大円寺石仏群

明和九年(1772年)、江戸市中を焼く大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。この火事は「行人坂の火事」と呼ばれ、明暦三年(1657年)の振袖火事、文化三年(1806年)の車町の火事と並び、江戸三大火事の一つに数えられている。「新編武蔵風土記稿」には、大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建 立されたと記されている。大円寺境内の北東側斜面に、520躯(身に區)の石仏群が安置されている。左右に文殊菩薩・普賢菩薩を配した釈迦三尊像を十大弟子と十六羅漢が囲み、背後に491基の羅漢像が並ぶ。造立年代は、五百羅漢の中に宝暦十三年(1763年)の刻銘もあるが、多くは釈迦如来の刻銘天明元年(1781年)以降の造立と思われる。嘉永元年(1848年)に大円寺が再興された時、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。像高は、釈迦三尊像が147cm〜155cm、十大弟子像が55cm〜126cm、十六羅漢が95cm、五百羅漢像が37cm前後。判読できる銘文によると、行人坂の火事以外の供養も含まれているようである。また、広く勧進を募り、時間をかけて今の石仏群が作られたことも読み取れる。江戸災害史の貴重な資料である。

Tangible cultural property (Historical Material)
Daienji Sekibutsu Gun

In 1772 there was a great fire that burnt the city center of Edo and the fire was speculated to start in Daienji Temple. It is called "the fire of Gyoninzaka" which is one of three major fires of Edo (the others are the fire of Furisode in 1657 and the fire of Kuruma-cho in 1806). According to "Shinpen Musashi Fudo Kiko (a topography written around 1804 to 1829)", the statues of five hundred Arhats were built for victims of the Fire of Gyoninzaka. Along the slope at the northeast side of the Daienji Temple, 520 stone statues are enshrined. The statues of 10 Chief Disciples and the statues of 16 Arhats surround the statues of Shaka Nyorai with the statues of Monju Bosatsu on the left and Fugen Bosatsu on the right. Behind those statues, 491 statues of Arhats are lined up. There is an inscription of 1763 as the year of construction on some of 500 Arhats, but most of the statues were put up after 1781, which is the year inscribed on the statue of Syaka Nyorai. It is considered that these stone statues of Buddha were enshrined at the current location when Daienji Temple was rebuilt in 1848. The statues of Shaka Sanzon (three main statues) are from 147 to 155cm in height and the statues of 10 Chief Disciples are from 55cm to 126cm in height. The statues of 16 Arhats are 95cm in height, the statues of 500 Arhats about 37cm in height. According to the inscription that could be deciphered, these statues were built also for victims other than those in the Fire of Gyoninzaka. In addition, donations were widely solicited and the current stone statues of Buddha had been gradually made. These statues are a valuable source to know the history of disasters in Edo period.




大円寺石仏群の手前に、顔や手が溶けたようなお地蔵さまが鎮座しています。このお地蔵さまは江戸時代に品川沖の海で漁師の網にかかって引き上げられ、大圓寺に持ち込まれました。しかし、目黒行人坂の火事によって高熱で溶けてしまい、「とろけ地蔵」と呼ばれています。そのお姿から「ぐっちゃぐちゃにとろけてもなお残り続けるお地蔵さまにあやかって、悩み事をとろけさせてくれるとか、どんな過酷な状況でも生きていける力が宿る」ありがたいお地蔵様として参拝客が願掛けに訪れています。



本堂左手の釈迦堂には、建久四年(1193年)に作られた大圓寺のご本尊で京都清凉寺の三国伝来の釈迦如来を模刻した「清凉寺式釈迦如来像(寄木造り・高さ162.8cm)」が安置されています。昭和三十二年に国の重要文化財に指定されました。

釈迦如来立像(国・重要文化財)

本尊は、京都嵯峨の清涼寺に伝わる釈迦如来立像を模して作られた像です。原像である清涼寺の本尊(国宝)は、東大寺の僧が寛和二年(986年)に中国から請来したもので、請来当初から摂関藤原兼家以下の朝野の尊崇を集め、やがて多くの模刻が作られました。現在こうした清涼寺式の違例は各地に数多くありますが、その中でも大円寺の像は、嵯峨の原像に相似し、よくその趣を伝えています。両耳孔には水晶珠をはめ込み、頸際まできっちりとつけた衣には、同心円状の衣文を刻み、各衣紋に沿って截金線が入っているなど他の像に比べて全てが細かに模されています。昭和三十二年(1957年)に行われた解体修理の際、胎内から白銅製の菊花双雀鏡、女性の髪、紙片、木札などが発見され、それらに書かれた陰刻や墨書から建久四年(1193年)に制作されたとされます。原像に勝るとも劣らない巧みな刀技で、四肢、五体の均衡に至ってはより自然味を増した優品であるとともに、制作年代もはっきりした貴重な文化財です。

(ばく:梵字)釈迦如来ご真言
       おん。さるばしちけい。びしゅだらに。そわか。

Shaka Nyorai (Budha)

The statue is a replica of the statue of the Standing Shaka Nyorai (Budha) in Seiryou-ji, Saga part of Kyoto. The original statue at Seiryo-ji (a national treasure) was brought from China in 986 by the Buddhisim priest Chonen from Todai-ji, Nara. Among the replicas in the Seiryo-ji style, the statue in Daien-ji resembles the original one. A gem is fitted into his hair. His robe is carved in concentric rings. At the time the statue was made. Kirikane (traditional decorative technique using gold foil) line patterns were along the rings. This replica has the most details. When this statue was taken apart and repaired in 1957, a mirror, women's hair, pieces of paper and wooden tags were found inside. According to the inscription on those articles, it was found that this statue was made in 1193. The carving work on this statue is as elegant as the original one. It is a valuable cultural properties which has proof of when it was made.




本堂の隣りには「阿弥陀堂」があります。阿弥陀三尊とと共に、お七地蔵が祀られています。お七は恋人に会いたい一心で放火して火あぶりの刑にされた女性で、悲恋の物語「八百屋お七」の主人公として語り継がれています。

木造阿弥陀三尊像

中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、左足を垂下した半跏の姿、観音像は蓮台をもち左膝を立て、勢至像は合掌し右膝を立てた典形的な来迎形の阿弥陀三尊像であるが中尊が半跏座の姿をとる例は少なく珍しい三尊形式である。三尊とも江戸時代の典形的な作風を示し、江戸時代の仏像がいずれも小じんまりとしているのに対し気宇広大な特色を持っている。また、両脇侍像蓮台の木札に明和七年(1770年)大仏師桃水伊三郎等の銘があることも貴重である。




大圓寺は八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもあります。吉三とは歌舞伎や芝居などで知られる八百屋お七が恋した寺小姓です。吉三に逢いたいあまり自宅に火を放ってしまったお七は放火の罪で火刑に処されてしまいます。お七の処刑後、出家した吉三は西運と名を改め、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せると、明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために目黒不動と浅草観音までの往復十里の道のりを念仏を唱えながら通うという一万日の行を発願しました。雨の日も風の日も、首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参し、27年5か月をかけてこれを成し遂げました。その夜に西運の夢枕にお七が現れます。その時の姿を模したのがお七地蔵で、明治初めごろ廃寺になって大圓寺に吸収された明王院から仏像などと共に移され、阿弥陀堂の中に阿弥陀三尊と共に安置されています。ちなみにお七のお墓は文京区にある円乗寺に、お七の苦しみを代受苦としてその身に受けているほうろく地蔵は文京区の大円寺にあります。西運に深い関心を持っていた大圓寺の住職であった福田実衍師は、昭和十八年に大圓寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらいましたが、その一部が木枯らし吹きすさぶ中を念仏鉦を力一杯たたき念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑となり、境内に建っています。

八百屋お七と吉三(西運)

江戸時代、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和二年(1682年)の火事の際、避難のためしばらくの間近くの円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が十八才でした。しかし、短い避難生活のこと、やがて離れ離れになってお七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時は放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴が森の処刑場で火刑に処せられました。その後、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼を行脚しました。その後、江戸に戻った西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀三尊仏を祀り、身を寄せながら隔夜日参一万日という念仏行を始めました。浅草寺までの道のりを雨の日も雪の日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏した事を告げたのですが、そのお姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。西運は集った浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。

(か:梵字)地蔵菩薩ご真言
      おん。かかか。びさんまえい。そわか。

Oshichi and Kichiza (Saiun)

At the time of the big fire of 1682 (Tenwa 2, Edo-era), Oshichi, a daughter of vegetable shop owner, took refuge at a nearby temple called Enrinji. There she fell in love with a temple page, Kichiza. At the time, Oshichi was 16, Kichiza was 18. When her refuge life ended she became separated from Kichiza. Upset, Oshichi set fire to her own house, thinking that she would be able to see Kichiza again. Even though the fire was small, arson was a serious crime at that time. Oshichi was dragged through the town and burned at the stake, at the Suzugamori execution ground (Ooi, Shinagawa Ward). After this, Kichiza shaved his head and changed his name to Saiun, and went on a chanting pilgrimage to pray for Oshichi. Upon returning to Edo (Tokyo), Saiun deified Amida Sanzon (Amitabha triad), at Myo-ou-in temple (currently Gajoen, located at the bottom of the hill from Daien-ji) and Saiun started ascetic practice of visiting the temple every other day for 10,000 days, (Kakuyanissan Ichimannichi gyo), during which he walked from Myo-ou-in in Meguro to Sensou-ji in Asakusa. It was approx 40km round trip, he did this while beating a gong, no matter what the weather was. It took him 27 years and 5 months to complete this practice. On the night of completion, Oshichi appeared in his dream and told him that she was now resting in peace. Her image from this dream was made into a statue called Oshichi-zou. Today you can see it in the building called Amida-dou at Daien-ji.




境内の一画に、西運が目黒川に架けた雁歯橋(太鼓橋)の石材が残されています。

目黒川の太鼓橋に使用された石材

八百屋お七の恋人吉三はその後名を西運と改め、お七の菩提を弔うため江戸市民から寄進された浄財を基に行人坂の石畳、太鼓橋を石の橋にした。




行人坂に石畳を敷いた際に建立された際の供養碑も残されています。

行人坂敷石造道供養碑(区指定文化財)

この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)のキリーク(阿弥陀如来)、サ(観音菩薩)、サク(勢至菩薩)が刻まれています。下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊や浅草観音に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。施主は西運で元禄十六年(1703年)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。(一部改変しました)




行人坂下の左手には広大な敷地のホテル雅叙園東京があります。同じ敷地に建つアルコタワーは雅叙園のシンボル的建物です。雅叙園は明治十三年まで此の地にあった明王院の敷地跡の一部を占めています。



雅叙園の入口脇に、「お七の井戸のシダレザクラ」と呼ばれている一本の桜の木が植えられています。樹高は7メートル・枝張りは6メートル・幹周りは1メートルの八重紅枝垂れ桜で、しだれ桜の中でも特に人気の高いエドヒガン系の品種です。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられています。

お七の井戸

八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。明王院という寺院は、現在のホテル雅叙園東京エントランス付近から庭園に架(か?)け明治十三年(1880年)頃まであった。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。




雅叙園の敷地の端っこに椎の木の古木が立っています。

椎の木

椎の木はブナ科の広葉常緑樹で、目黒区の木として指定されている。椎の木は浮世絵師歌川(安藤)広重(1797年〜1858年)画の【江戸名所百景−目黒太鼓橋夕日の岡】・安政四年(1857年)中にも描かれている。水と緑に恵まれたここ夕日の岡一帯は、遠く富士の頂をのぞむ美しい自然の名勝として椎の木と共に親しまれてきた。




雅叙園の先で目黒川を渡ります。ここに架かっている太鼓橋を石橋に掛け替えたのは西運でしたね。

太鼓橋

太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って宝暦十四年(1764年)から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、大正九年(1920年)9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、昭和七年(1932年)架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画に より平成三年(1991年)11月に完成した。




目黒川を渡り、山手通りを横断した先に見所ポイントBの「蟠龍寺」があります。蟠龍寺の境内には、弁天堂内に木像の弁財天、岩窟内に石像の弁財天が祀られています。岩窟の弁財天は通称「岩屋弁天」と呼ばれ、「山手七福神の弁財天」となっています。山門の前に「目黒区みどりの散歩道」の案内板が立っています。

蟠龍寺と弁天様

この寺の創建は宝永六年(1709年)。浄土律復興のため、増上寺の高僧・霊雲上人が行人坂下の称明院をここに移し、蟠竜寺と改名された。本尊阿弥陀如来像(都文化財)・善光寺如来像が安置されている。本堂横の祠の中に山手七福神の石仏の弁財天があり、木造の弁財天は、お堂にまつってある。池の奥に「おしろい地蔵」の異名をもつ地蔵がひっそりと立つ。




境内の植え込みの中にも蟠龍寺の案内板が立っています。

蟠龍寺

目黒行人坂付近にあった称明院(慶安元年【1648年】開創)を、増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するため現在地に移し、宝永六年(1709年)「霊雲山称明院蟠龍寺」と改名再建されました。次いで、寛政六年(1794年)律院となりましたが、「不許辛肉酒入山門」の結界石がその名残りを今にとどめています。本堂には本尊として「木造阿弥陀如来像」(都指定文化財)があり、天明年間(1781年〜1788年)に東都三番札所となり善光寺式阿弥陀三尊像も祀られています。「江戸名所図会」にのった境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄十一年(1698年)建立の地蔵尊があります。また、山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石像弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。さらに境内には、藍蝋の歌碑や下目黒尋常小学校創立之碑などもあります。




弁天堂内の木造弁財天様は拝謁できませんでしたが、畏れ多くも岩窟内の石像弁財天様の御影を頂きました。



山手通りから道路が分岐する角に、「松雲羅漢」と台座に書かれた銅像が建っています。その前に解説のプレートを埋め込んだ碑が置かれています。松雲禅師って、筋骨隆々のマッチョな体をしていますね。

松雲羅漢

天恩山五百羅漢寺の開基松雲禅師は、元禄年中、五代将軍綱吉公の生母桂昌院をはじめ江戸中の人びとから寄せられた浄財をもとに五三六体の羅漢像を彫刻し、本所五ツ目に五百羅漢寺を築いた傑僧である。明治四十二年、下目黒に移転してきたのち寺は荒廃の一途を辿っていたが、多くのかたがたのご協力により、昭和五十六年、由緒ある五百羅漢寺を再建することができた。この再興を記念し、彫刻家佐山道知氏に制作依頼して松雲禅師像を建立し、これを松雲羅漢と名づけて禅師の徳を讃えるものである。




五百羅漢寺の手前に海福寺があります。

海福寺

明から来朝した隠元隆gが万治元年(1658年)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治四十三年(1910年)に現在地へ移転しました。本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来立像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、都内に現存している稀少な例です。山門の赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化四年(1807年)の深川富岡八幡大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和三年(1683年)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の作で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。




山門は何となく唐風を想わせます。

海福寺四脚門

海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺の環境によく調和しており、落ち着きのある景観をうみだす重要な建物として定着している。また、四脚門は中央にある親柱二本とその前後に二本ずつある四本の控柱からきた名称で日本建築の代表的な門の形式であり、当四脚門はその細部絵様の様式において、江戸時代中期の特質を備える貴重なものである。




境内の一画に、墓石がふたつ並んでいます。文化四年八月十九日、深川八幡の祭礼の時に多くの人が集まったために永代橋が崩落し、数百人の人々が水死しました。その霊を供養するため、木場の人々が建立したのがこの供養塔です。この事件は大変有名で、歌舞伎では黙阿弥作「八幡祭望月賑」、落語では粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられて自分の遺体を確認に行くという「永代橋」の素材になっています

東京都指定有形文化財(歴史資料)
文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑

文化四年(1807年)の深川富岡八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが十二年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落。多数の溺死者を出す、江戸開府以来の大惨事が発生した。事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(現・江東区深川二丁目付近)にあった黄檗宗永寿山海福寺に無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政三年(1856年)の五十回忌に石碑が、海福寺境内に建立された。海福寺は明治四十三年(1910年)に目黒区下目黒の現在地に移転したが、その際にこの供養塔及び石塔も移設され、現在に至っている。この事件はのちに、戯作者山東京伝の「夢の浮橋」や、京伝の弟山東京山の「蜘蛛の糸巻」、滝沢馬琴の「兎園小説余録」に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えた。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ後世に伝えたかを明らかにする重要な資料である

Tangible cultural property (Historical Material)
Bunka yonen Eitaibashi horaku oshisya Kuyo-to oyobi Sekihi

Annual festival at Fukagawa Tomioka Hachiman Shrine was held in 1807 after 12-year absence caused by a big fight incident. The festival drew many people, but the Eitai Bridge was temporarily blocked while a boat carrying Tokugawa family period was passing under the bridge. When masses of people crossed the bridge after the closure was released, the center part of the bridge fell down and many people fell into the Sumida River. Many were drowned to death and this was considered a major disaster in Edo period. After the accident, unidentified bodies were buried at Kaifukuji Temple along the Fukagawa teramachi street (near Fukagawa 2-chome, Koto ward at the present) near the Eitai Bridge. For the 100th day ceremony, the tower monument was erected in Kaifukuji Temple and for the 50th anniversary the stone monument was erected in 1856. When Kaifukuji Temple was relocated to the current location in Shimo Meguro, Meguro ward in 1910, the tower and monuments were also transferred to the current location. This disaster was later described in "Yume no Ukihashi" by a popular writer, Santo Kyoden, "Kumo no Itomaki" by Santo Kyozan, and "Toen Shosetsu Yoroku" by Takizawa Bakin, which shows the impact the accident had on the people in Edo. These are valuable materials to look into how the residents of Edo received the disaster and how they tried to pass down the experience of unprecedented disaster in which 440 people drowned to death.




梵鐘は横から突くようですが、勢い余って台から足を踏み外しそうです。

東京都指定有形文化財の梵鐘

天和二年に当時深川にあった海福寺が全焼し、梵鐘も灰燼に帰しました。時の住職独本が新鋳し、黄檗宗の開祖隠元大師の新鋳を祝した銘が刻まれています。裾の雲形の柔い線は、我国伝統の様式に中国風の柔か味を工夫した他に類例のない逸品です。




これらの他に、境内に九層の塔が建っています。

武田信玄の屋形に置かれてあつたと伝えられる九層の塔



海福寺で長居をしてしまいました。見所ポイントCの「五百羅漢寺」は、当初は本所五ツ目(現在の江東区大島)にありましたが、埋め立て地にあったことから度々洪水に見舞われて衰退しました。明治二十年(1887年)に本所区緑町に仮堂を建て、明治四十二年(1909年)に目黒の現在地に移転しました。五百羅漢寺の五百羅漢像は開基の松雲元慶(1648年〜1710年)が独力で彫り上げたものです。松雲は京都の出身で、「鉄眼版一切経」で知られる黄檗宗の僧の鉄眼道光に師事しました。松雲はある時豊前国の羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓町)の五百羅漢石像を見て、自らも五百羅漢の像を造ることを発願しました。貞享四年(1687年)、40歳で江戸に下向した松雲は托鉢で資金を集め、独力で五百羅漢像など536体の群像を造りました。羅漢寺の創建は元禄八年(1695年)で、松雲が開基となり、師の鉄眼が開山と位置づけられています。近代以降、寺の衰退時に多くが失われ、羅漢像287体を含む305体が現存しています。

五百羅漢寺

天恩山五百羅漢寺は 元禄八年(1695年)鉄眼禅師を開山として江戸本所(現、江東区大島)に創建された黄檗宗の寺でした。当時、境内には「さざい堂(三匝堂)」という建物があり、内部が螺旋階段になっていて、一堂に諸仏像を拝観できると人気を博しました。明治四十一年(1908年)ここ下目黒の地へ移り、現在は浄土系単立の寺です。本堂および回廊に安置されている五百羅漢像等はそのほとんどが、松雲元慶禅師が各方面から寄進を受け、十余年かけて自ら彫刻したものです。木造釈迦三尊及び五百羅漢等像の305体の像(都指定文化財)は、それぞれ姿の違った人間像として巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量かつ一堂に安置されていることは珍しく、近世彫刻史上注目すべき貴重なものです。書院屋上にある梵鐘は安永三年(1774年)田中丹波守藤原重行作で、他にあまり類例のない特徴を持ち、国の重要美術品の認定を受けています。




とあるお寺の壁で蛸が踊っています。



「たこの吸い出し」の広告ではありません。見所ポイントDの「成就院(たこ薬師)」の看板です。

成就院(天台宗)

天安二年(858年)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられています。この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752年〜1815年)筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されています。境内には、徳川二代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が建てられ、また、三代将軍家光が遠州の秋葉大権現を勧請した「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っています。




本堂の前に石像が何体か並んでいます。

お静地蔵尊・由来記

右 准胝観音・聖観音・十一面観音
中 阿弥陀如来
左 金剛願地蔵・金剛幡地蔵・金剛宝地蔵

この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室、お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長十六年(1611年)に男子「幸松麿」を授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢を畏れながらもその恙無いご成育を祈り三体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いかない、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩の際、当寺に参拝され、舜興和尚(中興第十五世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永八年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖となります。また家光公の命により四代将軍家綱公の御見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。




目黒不動で知られる瀧泉寺の手前に小さな塚が建っています。

権八・小紫の悲話伝える比翼塚

処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は「後追い心中」として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、二人の来世での幸せを祈りたてられたという。




見所ポイントEの「瀧泉寺」は天台宗の寺院で、不動明王像を本尊とすることから、古くより「目黒不動尊」・「目黒不動」・「お不動さん」などと通称されています。江戸三大不動のひとつで、江戸五色不動のひとつにもなっています。この地域の名称である「目黒」は目黒不動尊に由来するとの説があります。さつまいもの栽培を広めた青木昆陽の墓があることでも知られています。

瀧泉寺(目黒不動尊)

天台宗泰叡山瀧泉寺は、大同三年(808年)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。その他、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。




本堂に上がるには、男坂か女坂のどちらかを選びます。男坂は傾斜が急なのに対し、女坂は角度も緩やかで踊り場もあるのが特徴です。神社や寺はかつて修行の場でもありました。男坂はかつて僧侶の修行の場とされた坂道です。しかし、後に一般の参拝客が訪れるようになると女性でも上れるなだらかな坂道をつくる神社や寺が増加しました。そして、いつしか傾斜の違うふたつの坂を「男坂」・「女坂」と呼ぶようになりました。



男坂と女坂の入口の間に、枝振りの良い一本の松の木が植わっています。

鷹居の松跡

江戸幕府三代将軍徳川家光が寛永(1624年〜1644年)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹が行方不明になりました。家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。これ以後、家光は不動尊を深く信仰するようになり、火災によって焼失していた目黒不動尊の堂塔を次々と再建させ、寛永十一年(1634年)には諸堂末寺等を併せて50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。幕府の保護を受けて以来、歴代将軍が目黒不動尊へ参詣するようになると江戸庶民にも不動信仰が広がり、目黒不動尊は江戸近郊の有名な行楽地の一つとなり大変にぎわいました。尚、現在の松は「鷹居の松」の話から何代か後のものになります。




男坂の左手には小さな滝があります。

独鈷の滝

このお滝は今を去る千二百年程前、当山をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷(鉄製または銅製で、両端がとがった短い棒状の法具)を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を独鈷の滝と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。今日都内では大変珍しい名所である。




独鈷の滝池の中に水かけ不動明王がお立ちになっています。

水かけ不動明王

當山の開基は天台座主第三祖慈覚大師圓仁で、一千二百有余年前の大同三年(808年)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。天安二年、大師が法具「獨姑」を投じて堂宇造営の敷地をトされたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「獨姑の瀧」と称されました。大師はお堂の棟札に「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され、「泰睿」の勅願を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。「獨鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の當病平癒を祈願されました。

目黒不動尊御詠歌

     清らけき 目黒の杜の独鈷瀧 災厄難を除ける不動尊

ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で目黒のお不動さまに参詣できることとなりました。合掌礼拝して「独鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。




勢至堂は、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。

瀧泉寺勢至堂

瀧泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の瀧泉寺の面影を残しています。向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが, 昭和四十四年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、瀧泉寺境内の優れた景観を形成しています。




ちなみに、前不動堂は石碑の後方に建っている朱色の堂のようです。



「十五夜お月さん」を作曲した本居長世は、かって瀧泉寺の近くに住んでいたそうです。

作曲家本居長世の碑

童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き、第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平・弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」・「青い目の人形」・「赤い靴」・「めえめえ小山羊」・「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに大正九年、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました。本居はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜、この寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。今ここに氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。




なんだかんだ境内を散策し、最期に目黒不動尊の本堂に参拝します。



本堂からの帰りに階段を下りていましたら、小さな洞があり、そこに「銅造役の行者倚像」が置かれています。

銅造役の行者倚像(区指定文化財)

役の行者(役小角【えんのおづの】ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物です。この像は寛政八年(1796年)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもとても巧みで江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。表面は黒光りしており、これは鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には巻子を持っています。また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります。




仁王門左手の池近くには「山手七福神」のひとつの恵比寿神が祀られています。お正月によく七福神巡りで来ましたね。



青木昆陽先生の墓にも行ってみたいと思います。瀧泉寺の西側の坂を上って、お寺の裏手の細い通路を進みます。この坂は三折坂と呼ばれています。

三折坂

三つに折れ曲がった形状から三折坂とよばれるようになった。また、目黒不動への参詣者が、この坂を降りていくので、「御降坂」とよんだともいわれる。




青木昆陽先生の墓は、瀧泉寺裏手の墓地の一画にあります。お芋さんを掲げた昆陽先生の画と案内板が立っています。



甘藷先生 青木昆陽の言葉

享保二十年 甘藷を種う
甘藷流傳して
天下をして餓うる人無からしむる
是れ予が願なり

国指定史跡 青木昆陽墓

江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄十一年(1698年)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。彼は八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、「和蘭文字略考」・「和蘭貨幣考」・「和蘭語訳」などを著述する。また「蕃薯考」を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために”甘藷先生”と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和六年(1769年)歿。行年七十二歳。




山手通りと目黒通りが交差する角に、かっての目黒村の総鎮守であった大鳥神社が鎮座しています。酉の市では東京でも有数の人出で大変賑わうところです。

大鳥神社御由緒

御祭神 主祭神 日本武尊 景行天皇の皇子で、熊襲討伐、東国の蝦夷を平定。
    相殿神 国常立尊 日本の国開きの神様
        弟橘媛命 日本武尊の妃

御由緒 例祭九月九日に近い日曜日

景行天皇の御代(71年〜130年)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、東国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣で、現在当社の社宝となっております。東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後、天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806年)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳の紋を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。

酉の市(八つ頭と熊手の由来)

当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから、古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。




境内には目黒区作成の案内板も立っています。

大鳥神社

この神社は、日本武尊の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806年)創建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありました。祭神は日本武尊を主神とし国常立尊と弟橘媛命を合祀しています。毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑いをみせています。この市のいわれは日本書紀に「十月己酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられています。毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町みこしが勢揃いします。それとともに社殿では「太々神楽・剣の舞」が奉納されます。11月の酉の市には、「太々神楽・熊手の舞」が神前で舞われます。境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガン」の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688年〜1703年)や宝永年間(1704年〜1710年)の屋根付庚申塔など5基の石造物もあります。また、俗に切支丹燈籠といわれる「織部式燈籠」や、天保六年(1835年)の酉の市に神楽を奉納した記念碑などもあります。




島原は天草の乱の舞台として知られています。隠れキリシタンも多かったのでしょう。でも、なんで藩邸の祠に隠されていたのかな?

切支丹燈籠

この3基の燈籠は、切支丹燈籠とか織部式燈籠と呼ばれています。もと、三田千代が崎の旧島原藩主松平主殿頭の下屋敷(後の大村伯邸)林泉中の小祠内にありましたが、大正十五年10月大聖院に移したものです。中央のもっとも高い1基の棹石には変形T字クルスとキリスト像とおもわれる形状が、また左右面に、漢詩が刻まれています。この燈籠は徳川幕府の弾圧を受けた隠れ切支丹が庭園の祠等に礼拝物として秘かに置かれていたものだと言われています。歴史的に文化的価値が高く、全国的にも数少ない燈籠です。




もう一箇所、切支丹燈籠が置かれています。

「切支丹灯籠」

かつて肥前島原藩主松平主殿頭の下屋敷にあったものと伝えられる。後に境内へ移されたもの。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の織部灯籠である。キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられる。他の宗教からも大鳥神社は、崇敬の念を持たれていたという事が分かる。




アカガシ(赤樫)はブナ科コナラ属の常緑広葉樹で、高さ20メートルほどにもなり、堅くて赤褐色の材質は和名の由来となり、車両や船舶・三味線の棹・木刀にも使われます。植栽として、神社や庭に植えられています。秋に果実をつけますが、実はどんぐりのように堅く、熟すと食べられます。

東京都指定天然記念物 大鳥神社のオオアカガシ

大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく、薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として、昭和三十八年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は、現在でもオオアカガシ Cyclobalnopsis acuta (Thunb.) Oerst. var. megaphylla Hayashi, var. nov. の夕イプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。指定時に樹高約16メートル、幹周り1.6メートルあった本樹は、生育環境の変化等により昭和五十年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが、平成十四年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが、成功せず、平成二十四年に指定解除となりました。ここに説明板を設置し、都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。

Natural Monument (Plants)
Otori-jinja no Oakagashi
(Quercus acuta at Otori Shrine)

A tree of Oakagashi which grew at the Otori Shrine is considered to be a variety of Akagashi, Quercus acuta Thunb.. This variety can be distinguished very clearly from the typical form by its larger and thinner leaves with convex surface and so on. This tree, being a type of nomenclature of the new variety, was academically valuable, and was designated in 1963 as a Natural Monument of Tokyo. The branches and leaves of this tree are still the type specimen of Oakagashi (Cyclobalnopsis acuta (Thunb.) Oerst. Var. megaphylla Hayashi, var. nov.), and preserves in the National Museum of Nature and Science, Tokyo. However, the tree vigor was declined until the late 1970s as the surrounding environment turned worse. And it was confirmed that it died at last in 2002. Here was the habitat of a Natural Monument of Tokyo.




大鳥神社から権之助坂を上がり、目黒新橋の手前で左折し、目黒川遊歩道に入ります。



見所ポイントFの「目黒区美術館」は、1987年に開館した小規模な美術館で、主に日本の近代から現代にかけての作家の作品を展示しています。主な収蔵作品には、草間弥生作の「鏡の部屋−愛は永遠に」・藤田嗣治作の「赤毛の女」や「メキシコの少年」などがあります。



歩いた時は未だ工事中でしたが、2022年11月現在では目黒清掃工場は煙突も含めてほぼ完成し、2023年春の竣工を目指して試運転が開始されているようです。



見所ポイントGの「茶屋坂」は住宅地の中を通る坂道です。

茶屋坂

江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。




坂下に「茶屋坂街かど公園」という小さな公園があります。



公園の中に「茶屋坂の清水」と書かれた石碑が建っています。その横に案内板が立っています。案内板の下の方には、「安藤広重の描いた当時の景勝地と周辺地図」の浮世絵とその解説文が記されています。

茶屋坂の清水と碑によせて

落語で有名な「目黒のサンマ」の話のもととなったといわれている爺々ヶ茶屋は、現在の三田二丁目に位置する茶屋坂の途中に、その由来をしめす説明板があります。この爺々ヶ茶屋は、江戸時代、徳川歴代の将軍、三代家光公、八代吉宗公が、鷹狩りにおなりのさい、背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら、湧き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われています。中でも八代将軍吉宗公は、祐天寺詣でのおりにも利用したと伝えられています。こうして長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれてきた「茶屋坂の清水」も、昭和八年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされました。その時、この清水を惜しんだ分譲地の一画にあった水交園の管理人夫妻が、清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は守られ、次の世代へと受け継がれてきました。その後、この清水は、東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として付近の人々の命を救ったのでした。この碑は、戦後、「茶屋坂の清水」の由来を永く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々により建てられました。残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが唯一、当時を語っています。目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を、受け継ぐ意味から公園に移動しました。この碑の心が区民の皆様にも永く伝えられ、当時を偲ぶ資料となれば幸いです。




石柱の上に、「目黒のサンマ」と「将軍の鷹狩り」を描いたタイルが埋め込まれています。



目黒清掃工場西端の中里橋から恵比寿南橋(通称アメリカ橋:元々はアメリカのセントルイスで1904年に開催されたセントルイス万国博覧会に展示されていた橋でしたが、それを日本の当時の鉄道作業局が買い取り、鉄製の橋のモデル橋として明治三十九年【1906年】に現在の場所に架設したことが愛称の由来です。現在の橋は昭和四十五年【1970年】に改築さたものです。)まで続く勾配が緩やかな長い坂道は、かつては海軍技術研究所だった現在の防衛省技術研究本部艦艇装備研究所の敷地に沿って続いています。坂の中程にあるバス停は「茶屋坂」という名前ですが、この道はさきほど訪れた三代将軍家光にまつわる「茶屋坂」に対して、昭和三年に開かれた隧道(ずいどう)で、「新茶屋坂」と呼ばれます。新茶屋坂の頭上には、昭和四十九年に廃止されるまで、延々300余年にわたって三田用水が流れていた水路が架かっていました。今は水路は撤去されていて、案内板が立っています。



案内板には、撤去前の水路と三田用水の説明が記されています。

三田用水跡と茶屋坂隧道跡

三田用水は寛文四年(1664年)、飲用の上水として作られ、玉川上水から北沢で分水し、三田村を通り白金・芝へ流れていた。享保七年(1722年)この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ、14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、享保十年に三田用水となった。農耕・製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工場用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、昭和五十年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の暮を閉じた。茶屋叛隧道は、昭和五年に新茶屋坂通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成十五年に道路拡幅に伴い撤去された。




ゴール地点の恵比寿駅に着きました。恵比寿駅は渋谷区内の鉄道駅では最も南にあり、山手線・埼京線・湘南新宿ラインの電車が停車する、すこぶる便利な駅です。現在の恵比寿ガーデンプレイスが立地する場所には、かってヱビスビールを製造・販売していた日本麦酒醸造会社(現在のサッポロビール)の工場がありました。明治三十四年(1901年)2月25日に工場に隣接する山手線上に日本鉄道のビール出荷専用の貨物駅が開業し、ビールの商標に因んで、駅名は「恵比寿」(当初は「ゑびす」と表記)と命名されました。旅客駅になったのは五年後の明治三十九年(1906年)10月30日でした。昭和五十七年(1982年)には貨物の取り扱いを止め、同時にサッポロビール東京工場専用線も廃止されました。平成二十二年(2010年)6月26日には、JRグループの在来線としては史上初となる可動式ホームドアの使用が山手線ホームで開始されました。



ということで、「D江戸のレトロを歩く」を歩き終えました。何とも見所の多いコースでした。恵比寿ガーデンプレイで打ち上げをしなかったのは心残りですが。




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