E暗渠に生まれた緑道を歩く  

コース 踏破記  

今日は目黒区の「E暗渠に生まれた緑道を歩く」を歩きます。東急東横線の自由が丘駅をスタート地点として、かって目黒区内を流れていた呑川本流と支流、それに九品仏川跡に造られた緑道、および神社・仏閣を巡ります。  

「E暗渠に生まれた緑道を歩く」の歩行距離は約10.4km(約14,860歩)、歩行時間は約2時間36分、消費カロリーは約468kcalです。

スタート地点:東急東横線自由が丘駅正面口

↓ (約0.4km:約 6.0分)
@熊野神社
【自由が丘・緑が丘一帯の氏神様です。例大祭等の祭礼時には「目黒ばやし」が演奏されます。】
↓ (約1.2km:約18.0分)
A呑川の緑道
【呑川とその支流は1972年から暗渠化され、上部は緑道として整備されています。】
↓ (約4.2km:約1時間3分)
B北野神社
【菅原道真公のご神体(木彫りの天神様)が祀られており、地元の方々に親しまれています。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
C常圓寺
【1590年に開かれた日蓮宗の古刹です。境内の大イチョウは高さ約25mで、都と区の保存樹です。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
D八雲氷川神社
【旧衾村(ふすまむら)の鎮守で、「癪(しゃく)封じの神」として広く信仰されました。】
↓ (約1.4km:約21.0分)
E立源寺
【寛永元年(1624年)に日蓮上人が開基しました。本堂の「木造三宝尊像」は区の指定文化財です。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
F岡田家長屋門
【岡田家は代々衾村の名主を務めた旧家です。風格ある長屋門は江戸時代に建てられました。】
↓ (約1.4km:約21.0分)
G九品仏川緑道
【九品仏川は1974年に暗渠になりました。桜やサツキ、キンモクセイなどが植えられています。】
↓ (約1.0km:約15.0分)

ゴール地点:東急東横線自由が丘駅南口


スタート地点の東急東横線自由が丘駅正面口から歩き始めます。自由が丘駅には、横浜駅と渋谷駅を結ぶ東横線と溝の口駅と大井町駅を結ぶ大井町線が乗り入れ、両線の乗換駅となっています。昭和二年(1927年)8月28日、東京横浜電鉄東横線の駅を設置するに際し、9体の阿弥陀如来像を安置していることから「九品仏」と呼ばれていた九品仏浄真寺の最寄り駅として「九品仏駅」という駅名が採用されました。しかし、大井町線の開業に伴い、浄真寺の門前に「九品仏駅」が設置されることになり、駅の所在地が荏原郡碑衾村大字衾(ふすま)であったことから、「衾駅」が新しい駅名の候補となりました。これに対し、駅名が田舎くさいということから舞踊家の石井漠ら文化人がその同年に開校した自由ヶ丘学園にちなんだ駅名に改称するよう運動し、「自由ケ丘駅」となり、さらに昭和四十年(1965年)に現在の「自由が丘駅」という駅名になりました。かって、東横線は横浜桜木町駅と渋谷駅の間を結んでいましたが、現在ではみなとみらい線の元町・中華街から渋谷を経由して、東京メトロ副都心線・東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線まで延伸されています。昔は東急の電車だけだったのですが、今では自由が丘駅のホームで様々なデザインの電車が見られます。



自由の女神像「あおそら(蒼穹)」は自由が丘のシンボルとなる彫像で、自由が丘駅前ロータリーの中に建っています。体育の日の連休に開催される「自由が丘女神まつり」は、数ある自由が丘のイベントの中でも最大スケールで、毎年約50万人もの来場者が集まります。コロナ渦で2020年・2021年は中止になっていましたが、2022年は3年ぶりに10月9日(日)と10月10日(月・スポーツの日)に開催されました。なんだ、知らなかった。そんなら行くんだった!

自由が丘駅前広場の生い立ち

昭和の初め、この地には田畑がのどかに広がっていました。昭和二年、当時の衾西部耕地整理組合長の栗山久次郎氏が街の発展のためにと五島慶太氏と交渉を重ね、この地に駅を誘致することに成功しました。当時は「九品仏」という駅でしたが、昭和四年には大井町線も通り、駅の名称も「自由ヶ丘」と改名し場所も現在の位置に移されました。その後、自由が丘の街は商店街、住宅地とも発展を遂げ、駅前には建物が建ち並んでいましたが、戦争が激しくなるとともに建物は強制疎開で取り壊しとなり、残存していた建物も昭和二十年の空襲で焼失し、自由が丘の街は焼け野原になってしまいました。戦後、駅前の復興について話し合いが行われましたが、元のような商店街を望む人と駅前広場をつくったほうが良いという人との間で大論争があったといいます。結果として駅前広場をつくることに決まりましたが、当時から先進的な考えを持っていた自由が丘の人々の気質が垣間見られます。昭和二十二年に駅前広場が誕生しましたが、しばらくの間はわずかな植え込みにロータリーがあるだけで、決して立派なものではありませんでした。やがて駅前も商店街としての街並みが整うにつれて、街のシンボルとして外国の広場のように彫像を設けたらどうかという話になり、当時の商店街連合組合の事業として実施することになりました。彫像の制作は彫刻家の澤田政廣氏に依頼し、完成したのが自由の女神像「あきそら」です。昭和三十六年のことでした。以来、自由の女神像は街のシンボルとして、自由が丘の街を見守り続けています。このたびの自由が丘駅前広場整備は、自由が丘住民代表と目黒区が2年余にわたる検討を経て完成したものです。これまでの車優先のロータリーから安心して歩けるように歩道を拡幅し、女神広場も設けました。進取の気性に富んだ先人の努力に感謝しつつ、人に優しい自由が丘駅前広場をいつまでも美しく保ち、楽しく活用したいものです。




「MONT−BLANC」は、昭和八年(1933年)創業の自由が丘では老舗の洋菓子店です。店名でもある「モンブラン」は、このお店が日本で初めて作ったといわれています。長い間地元の人達に親しまれてきましたが、再開発により現店舗での営業は令和四年12月31日をもって終了し、令和五年2月10日にカトレア通り沿いに仮店舗をオープンする予定になっています。なお、仮店舗の制約から、出来立てを味わえる喫茶の営業は行なわれないとのことです。再開発事業が完了した後、現在地に戻ることになっているそうです。

昭和初期、日本で初めてモンブランをお作りして以来、
支店を出さず、その美味しさを守り続けて参りました。

近年良質の国産栗の収穫量は減り、
数量を確保することが厳しい状況となっております。
お客様の「美味しくて本当に安心できるモンブランを」のご要望から、
全国をまわり、そして美味しい栗に出会うことが出来ました。

愛媛県産・中山栗
この地域は雨が少なく、水はけの良い土壌に加え、
南向きの急勾配を利用することにより、
深く根を張り、たっぷりと旨みを蓄えた栗が生まれます。
高価な有機肥料だけを使用し、作業性の悪い傾斜、
1本2時間以上かけ多めの剪定をする等、
敢えて手間暇を掛ける手法を続けておられる
生産者の情熱も美味しい栗が生まれる理由でもあります。

今回モンブランでは、(高価ではありますが)
この中山栗を主とした愛媛県産栗に限定することと致しました。

又、カステラに関しては、これまで焼かれてから、荒熱を
常温で冷ましていました。
今回、ドイツ製の専用の冷蔵庫を導入することで、
急速に熱を取る手法で
これまで以上に卵や小麦粉の風味を感じることができ、
更にしっとりさが増し、
より美味しいモンブランをお作りすることができました。




MONT−BLANCが立地する自由が丘一丁目29番地区では、平成二十九年5月に関係権利者が「自由が丘1−29地区再開発準備組合」を設立し、令和二年10月には第一種市街地再開発事業の都市計画が決定されました。女神通り・カトレア通り・すずかけ通りに囲まれた面積約5000平方メートルの区域に、地上14階・地下3階、高さ約60mの複合施設が新築され、令和五年(2023年)に着工し、令和七年(2025年)に建物が竣工する予定です。複合施設は、地下1階から5階に商業施設、6階に業務施設、7階から14階に都市型住宅が整備されます。



自由が丘デパートは、地下1階から4階まで100店舗を超える商店がひしめき合い、自由が丘では珍しいレトロな商業施設です。自由が丘デパートが出来たのは昭和二十七年頃で、元々は戦後にトタン屋根の個人商店が連なった「自由が丘マーケット」が始まりでした。細い通路の両脇には、日用品・衣料品・アンティーク雑貨・多国籍レストランなど、多彩な店舗が並び、ノスタルジックな雰囲気があります。日本で最初にデパートという名称を使った商業施設とも言われていて、自由が丘で一番古い歴史あるビルには老舗から新店まで個性豊かな個人商店が並んでいます。量販店にはない商品も多く、ここにしかない道具やアンティーク雑貨を探しに来る人も多いとのことです。



自由が丘デパートを抜けて道路を渡ると、もうひとつの同じような建物内商店街が現れます。こちらは「ひかり街」という商業施設です。自由が丘デパートよりも一段と昭和っぽさが強く、ファッションのお店が多いようです。ファッションといっても、「洋品店」・「婦人服」というといった方が雰囲気に合っています。お店の方もお客さんも年配者が多いようです。今様にはペットショップという店名になりそうですが、小鳥や小動物を扱うお店が「鈴木鳥獣店」だったりと、昭和感が満載です。



サンタ通りに面して、かつて谷畑と呼ばれた自由が丘・緑が丘一帯の鎮守である見所ポイント@の「熊野神社」が鎮座しています。正式名称は「熊野神社」ですが、全国に数多くある他の熊野神社と区別するために、地元では「自由が丘熊野神社」と呼ばれることが多いようです。サンタ通りと緑小通りに挟まれた細長い敷地は樹林に覆われ、商業地区として発展した自由が丘の街中で緑豊かな境内を維持し、地域の人々の憩いの場ともなっています。

熊野神社

祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉之男尊(はやたまのおのみこと)、泉津事解之男尊(よもつことさかのおのみこと)の三柱で、「谷畑の権現さま」(谷畑とはこのあたりのかつての字名)として親しまれてきました。創立年代は不詳ですが、中世から近世にかけて熊野詣が流行し、熊野参りをする講が各地でつくられた中で、この神社も勧請(分霊を迎え祀ること)されたと考えられています。寛政八年(1796年)の社殿改修棟札の写しが残っていることから、少なくともその時期までにはこの地に創建されていたことがわかります。毎年の例大祭では神楽殿で、区指定無形民俗文化財の「目黒ばやし」が奉納されています。参道脇には、明治時代に碑衾(ひぶすま)村の村長だった栗山久次郎(1853年〜1934年)の銅像があります。衾西部耕地整理組合長などを歴任し、この地域の発展に貢献した功績を称え、昭和十年(1935年)に銅像が建てられました。




昭和九年(1934年)に改築された神楽殿は、例祭で「目黒ばやし」が奉納されます。今日はお祭りではないので、神楽殿は閉められています。

熊野神社と目黒ばやし

かつて谷畑といわれた自由が丘、緑が丘一帯の氏神様であった熊野神社。地元では「谷畑の権現さま」と呼んで親しんできた。その昔、那智熊野神社(現在の和歌山県)を極楽浄土にみたてた熊野参りが盛んだったが、江戸時代に谷畑の村人が、本宮の分霊をいただいて帰り、祀ったのが始まりという。毎秋、神楽殿で催される目黒ばやしは百数十年の歴史を誇る。




自由が丘には栗山姓を名乗る家が多いようです。恐らくは、かって衾村一帯の大地主であった栗山家の一族なのでしょう。ちなみに、栗山久次郎翁は「自由ヶ丘学園」の創立者である手塚岸衛に賛同して自分の土地を貸し、この「自由ヶ丘学園」が「自由が丘」の地名や駅名の由来となりました。

栗山久次郎翁顕彰碑 自由が丘誕生の祖

自由が丘誕生の祖として当地に銅像が建立されている栗山久次郎翁は嘉永六年(1853年)三月十六日に旧家・栗山家の長男として誕生された。この年はペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航し、長い鎖国から日本が世界に登場する契機となった年であり、つづいて徳川幕府は慶応三年(1867年)に大政奉還し、明治の幕開けとなった。明治二十年五月、翁は三十四歳の若さで衾村戸長となり、市町村制の施行を機に、同二十二年六月碑衾村村長に任命された。我々の自由が丘・緑が丘は昔から熊野神社を中心に住民の心を一つに結集し、進取の気風に富む土地柄であったが、翁は地域の指導者として地域住民の信頼のもとに、旧憲法発布等の激動する時代の中で、絶えず新しい時代に対する慈眼をもって村政・教育文化の向上にその情熱を注いだのである。特に晩年には、耕地整理事業の必要を提唱し、自ら衾西部耕地整理組合を結成し、さらに東横線の敷設にあたっては、地域代表の第一人者として、現在の自由が丘駅の誘致に尽力され、十余年の年月をかけて耕地整理事業を完成した。なかでも特筆すべきは旧来の碑衾町大字衾の地名を、地域の発展を願う住民の意のもとに、「碑衾町大字自由ヶ丘」と改名を決断されたことである。この時の「自由ヶ丘」命名が現在の街の基盤となった。この翁の徳功を讃え、我々有志一同は翁の銅像建立五十年を記念し、この顕彰碑を建立するものである。




境内の奥まったところには、朱色に塗られた本殿が鎮座しています。緑に映えて荘厳な佇まいです。



自由が丘の亀屋万年堂といえばナボナですね。昔、王貞治さんがテレビのCMで「ナボナはお菓子のホームラン王です」というキャッチコピーで宣伝していましたね。「ナボナ」は亀屋万年堂の創業者である引地末治がヨーロッパに旅行した際、現地の菓子文化に触れ、感銘を受けたことがきっかけで生まれました。元々和菓子職人だった末治の「和菓子の感性を活かしながら、洋菓子の楽しさにあふれた商品を創りたい」という試みは冒険的とも言えるものでしたが、熱い想いでナボナの商品化に成功しました。ヨーロッパ旅行の際、ナポリをとても気に入った末治は商品名を「ナポリ」にするつもりでした。しかし、その名前が既に他の菓子メーカーから「ナポリ」の商品名で商標登録されていることが判明し、改名を余儀なくされた結果、「ナヴォーナ(NAVONA:広場)」をモチーフにして、商品名が「ナボナ」になったのです。あのサクッとした軽い食感は忘れられませんよね。



自由ヶ丘学園高等学校は私立の男子高等学校ですが、2023年4月からは男女共学になる予定です。自由ヶ丘学園は、教育者の手塚岸衛が自由主義教育を掲げて昭和二年(1927年)に創立し、同時期に地域の町名と駅名が自由ヶ丘(現自由が丘)と改称されました。設立当初、学園は幼稚園・小学校(旧制)・中学校(旧制)から構成されていましたが、手塚の没後の昭和十一年(1936年)に中学校部門が社会学者の藤田喜作に引き取られて再出発しました。幼稚園と小学校はリトミック(子どもの発達過程に合わせた音楽との楽しいふれあいを通して、基礎的な音楽能力やこれから受ける教育を十分に吸収するための土台となる潜在的な基礎能力を育む教育方法)研究者で幼児教育研究家の小林宗作が継承してトモエ学園として再出発しましたが、その後廃止されました。トモエ学園は、リトミック教育を日本で初めて実践的に取り入れた学校として知られ、トモエ学園出身の黒柳徹子が著したベストセラー「窓ぎわのトットちゃん」によって全国に知られるようになりました。自由ヶ丘学園高等学校は全国有数のレスリング強豪校であり、多くのレスラーを輩出してます。また、卒業生には舟木一夫さんの名前もあります。



ザ・ガーデン自由が丘は、「高質食品スーパーマーケット」をコンセプトとし、地方名産品やワインなどを重点的に取り扱う食品スーパーです。自由が丘で創業した単独路面型食品スーパーですが、百貨店や駅商業施設内の食品売り場へもテナント出店しています。八雲三丁目交差点角に建つ自由が丘本店は、昭和四十一年(1966年)12月にシェル石油のガソリンスタンドの敷地に併設して輸入食材を扱う「スーパーマーケット・シェルガーデン」としてオープンしました。駐車場では駐車場誘導員が車の誘導を行なっています。お客さんが乗ってくる乗用車は殆どが高級輸入車なので、駐車時に接触してキズを作っては大変なことになりますからね。



目黒通りを横断し、宮前小学校の角から見所ポイントAの「呑川の緑道」に入ります。呑川は、桜新町辺りの品川用水からの漏れ水と、深沢周辺の湧き水の池から流出する水が合流して始まり、世田谷区内を約2km流れた後、目黒区八雲を通り、緑ヶ丘で九品仏川と合流し、大田区から東京湾に注ぐ全長14.4kmの二級河川です。このうち、深沢一丁目から五丁目までの区間は下水道幹線として暗渠化され、上部が呑川緑道として整備されています。呑川の両側には、かつて川の土手に植えられていた約300本の桜が今も残っていて、緑道や川を覆うように枝を広げています。桜の季節には多くの人の目を楽しませ、夏には木陰を提供しています。上流部の870mの区間は親水公園として、下流部の1153mの区間は呑川緑道として整備されています。呑川緑道は都立大学駅南側の東横線の高架手前で柿の木坂支流緑道を合わせ、緑が丘駅の手前で開渠となり、東から南に流路を変えて大田区に向かっています。緑道の脇に「歴史と文化の散歩道」の案内板があります。

碑文谷そぞろ散歩

碑文谷そぞろ散歩は、武蔵小山駅から碑文谷を経て自由(が)丘駅までの約5.8kmのみちのりです。桜並木の立会川緑道と碑文谷八幡、円融寺といった大きな寺社、そして武蔵小山、都立大学、自由が丘のショッピング街と静かな住宅街をめぐります。

呑川と衾村

呑川は、世田谷区桜新町の湧水を合わせた呑川源流と、奥沢浄真寺(九品仏)境内の湧水池を水源とする九品仏川が合流し、次に大田区池上で洗足池を水源とする小川を合わせて蒲田方面へと流れ、東京湾に注ぎます。江戸時代より農業用水として利用されてきました。当時川流がつくる地形は起伏に富み、谷地は水田に、台地上は畑地に利用されました。このあたり一帯は衾村といい、大根、芋、筍などが特産品だったようです。衾の名の由来については定かではありません。村の地形が衾をひろげた形に似ているからという説、牧場が多く、馬の飼料であるフスマの産地であったからという説、また病気の伏馬から付けたという説などがあります。

Nomikawa River and Fusumamura Village

Since Edo Era, Nomikawa River was used as irrigation water. The area along the river was called Fusumamura Village and was a production center of various vegetables such as radish, potato, and bambooshoot.




呑川緑道は桜の名所として知られています。呑川の名称は、雨が降り続くと直ぐに氾濫してしまい、辺り一面を飲み込むがごとく水びたしにしてしまうというのがその由来といわれています。



八雲二丁目で、呑川駒沢支流緑道が呑川緑道にほぼ直角に合流しています。呑川駒沢支流緑道は、かっての駒沢川を埋め立て、その上にできた遊歩道です。自由通りが目黒区と世田谷区との境界と交わる辺りが水源だったといわれています。一旦、呑川本流緑道を離れ、呑川駒沢支流緑道に入ります。



衾村の地名の由来については様々な説があるようです。私的には、「衾の産地だった」というのが最も説得力がありそうに思います。

衾の地名のいわれ 呑川衾橋跡

●村の地形が、衾と呼ばれた夜衣の形に似ていた●牛馬の飼料である衾の産地だった●伏馬といわれた馬の病院があったなどの説がある。今では衾町公園に名を残すのみである。




キンモクセイ(金木犀)は庭園樹や街路樹として植栽に多く使われ、秋に橙黄色の花を咲かせて甘い香りを放ちますね。ジンチョウゲやクチナシと共に、日本の三大芳香木のひとつに数えられています。秋になると、あちこちからキンモクセイの香りが漂い、つい顔を花に近づけてしまいます。ヒガンバナ(彼岸花)は曼珠沙華(マンジュシャゲ)とも呼ばれ、秋の彼岸の頃に花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花を咲かせます。別名に、葬式花・墓花・死人花・地獄花・幽霊花・火事花・蛇花・剃刀花・狐花・捨て子花・灯籠花・天蓋花などがあり、不吉な花の代名詞みたいです。山口百恵さんが歌った「曼珠沙華(マンジューシャカ)」という曲がありましたが、日本語ではなくサンスクリット語の読みだそうです。毒々しいまでの紅色は罪作りな女に似ているといった意味でしょうか。



呑川駒沢支流緑道をどんどん進んで行くと駒沢オリンピック公園の南口に着きます。駒沢オリンピック公園は、世田谷区と目黒区にまたがり、昭和三十九年(1964年)に開催された東京オリンピックの会場となったことからこの名前が付けられました。公園内には複数の運動施設があり、これらは駒沢オリンピック公園総合運動場と呼ばれています。公園の敷地には、かって東京ゴルフ倶楽部というゴルフコースがあり、昭和天皇がイギリス皇太子・エドワードと共にプレーしたところでもあります。1940年に開催される予定だった東京オリンピックのメインスタジアム建設が計画されましたが、日中戦争の激化により、東京オリンピックは1938年に中止となり、スタジアム予定地は戦時中の防空緑地や農地として使われました。戦後の一時期、プロ野球東急(東映)フライヤーズの本拠地として駒澤野球場が建設され、またハンドボールコート・ホッケー場・バレーボールコート・弓道場なども整備されました。1961年には1964年の東京オリンピック開催が決定され、駒沢公園は国立競技場に次ぐ第2会場として弓道場以外の運動施設が改修または新設されることとなり、6施設(陸上競技場・体育館・屋内球技場・野外の第一球技場・第二球技場・補助競技場)が整備されました。東京オリンピックではサッカー・レスリング・バレーボール・ホッケーの会場として使われました。運動施設と関係ありませんが、何故か2009年からは、毎年東京ラーメンショーの会場としても使用されています。



運動施設だけでなく、幼児向けの遊び場も備わっています。普通は「タコ公園」が多いようですが。



公園のジョギングコースに沿って植え込みが続いています。

<大刈込>

日本庭園の一つである築山を近代的にアレンジしたこの大刈込は、陸上競技場の巨大なコンクリート建築との見事なコントラストでバランスを保ち、5000uにも及んで植え込まれた23種ほどの樹木は四季折々に表情を変え、人々の目を楽しませています。




「ぶた公園」の先で駒沢オリンピック公園を出て東ヶ丘二丁目を抜け、呑川柿の木坂支流に入ります。呑川柿の木坂支流は、昭和四十七年から暗渠化が行なわれ、昭和五十五年には全長2キロメートル余りの緑道になりました。緑道の両側には沢山の桜の木が植えられ、春には桜満開の並木道となり、目黒区のお花見の名所としても知られています。



緑道の脇に小さな公園があり、「芳窪街かど公園」と記された石碑が置かれています。呑川柿の木坂支流上流の東が丘一丁目辺りは、昭和三十九年に新住居表示が施行されるまで「芳窪」という地名でした。ヨシが生い茂った窪地があったというのが地名の由来といわれています。今では町会名にその名を残すだけになりましたが、緑道沿いの静かな住宅街は昭和一桁の頃までは武蔵野の面影を残した郊外地でした。



碑文谷には都立大学駅周辺に「中根」という地名がありますが、かっては「根」の付く地名が多くあったようです。

「根」のつく地名

「根」とは、台地の縁とか、谷のひだの意味で、呑川の浸食で複雑な谷をつくっていたこのあたりに、東根・曽根・平根などの小字名があった。東根は公園や小学校の名に残る。




かつて、呑川柿の木坂支流は世田谷区の住宅街を縫って流れ、東が丘一丁目35番先で目黒区に入り、柿の木坂三丁目から二丁目・一丁目を経て目黒通りの下をくぐり、中根一丁目3番先で呑川本流に注いでいました。



とある民家の庭に柿の実がたわわに実っています。渋柿でしょうか?柿の木坂の地名の由来については諸説あるようです。

さかみちのある住宅地 柿の木坂

ここから南の目黒通りにある柿の木坂という坂名が地名を表すようになった。坂名の由来は、坂を登る荷車から子どもたちが柿の実を抜きとったから「かきぬき坂」とか、坂の近くにひときわ大きい柿の木があったとか、夕暮れ時に人が心細くて「かけぬけ」たとかいわれている。今日では、生け垣などの緑豊かな整然とした住宅地になっている。




見所ポイントBの「北野神社」は、天神様こと菅原道真公をお祀りしています。神社の前の坂は天神坂と呼ばれています。

柿の木坂の天神様

天満宮の内陣には菅原道真公のご神体(木彫りの天神様)がお祀りされています。ご神体はいつの時代のものかわからない。しかし、平成十三年七月、奉賛会有志が御神体と社殿の下部と基礎を修復したときに、御神体の下部に「安永六丁酉九月二十五日 再興 小杉山十五世日従(花押)」と黒書が発見され、安永六年(1777年)九月二十五日に小杉山常円寺十五世日従住職が再興されたことが分かった。柿の木坂の天神様は地元の色々な方々にお祀りされて、今日に至っている。
学業・文芸・武芸・書道の天神様
地元の天神様に学業成就などお願いしたら如何でしょうか。




北野神社はもとは田んぼの脇にあり、農業神として崇められていましたが、昭和初期の耕地整理で現在地に移されました。鳥居の右手には衾第一耕地整理完成記念碑が建っています。耕地整理とは、入組んだ田畑の区画やあぜ道を整然と整理し直す事業のことです。碑文は読み取れませんでしたが、衾村では昭和七年(1932年)から昭和十一年(1936年)に工事が行われたと記されているそうです。



見所ポイントCの「常圓寺」は、天正十八年(1590年)に江戸谷中の感応寺(現在の谷中天王寺)九世住僧日長上人の師でもあった日信上人によって開山されました。元々は日信上人が住んでいた庵室でしたが、日信上人の没後の天正十八年に、小杉甚七が開基となりお寺になりました。当初は碑文谷法華寺の末寺でしたが、当時の碑文谷法華寺が不受不施派(日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないという不受不施の施義を守ろうとする宗派の総称)だったために幕府の禁教令によって天台宗寺院の円融寺になり、身延山久遠寺に本寺替となった経緯があります。

常圓寺

寺伝によれば、小杉山常圓寺は天正十八年(1590年)日信上人を開山として開かれた日蓮宗の寺です。山号寺号は開基の小杉甚七(法号、本理常圓信士)の姓と法号に由来します。寺宝の「釈迦如来涅槃之図(大涅槃図)」は縦407cm、横220cmの大きな掛軸で、釈迦が涅槃(臨終)に入るときの場面が描かれています。これは碑文谷法華寺(現、円融寺)に納められていましたが、当寺開山の際に移されたと伝えられています。毎年2月15日の釈尊涅槃会にて開帳され厚い信仰を集めています。他に、日蓮宗の開祖日蓮聖人が自ら彫ったと伝わる「剣難除祖師像」や、本堂手前左の妙見堂には妙見菩薩及び七面天女の像が安置されています。境内の雌株の大銀杏は樹齢およそ300年の大木で、目黒区の保存樹木第一号です。




本堂の前には天を突くイチョウの巨木が聳えています。このイチョウの木は雌株なのだそうです。イチョウの木の雌株と雄株の違いは、実を付けるのが雌株で雄株には実が付かないとのことです。

常円寺と大イチョウ

天正十八年(1590年)に開かれた日蓮宗の古刹。寺宝の「釈迦如来涅槃図」は、釈迦の臨終を描いた大きなもので、2月の涅槃会に一般公開される。本堂には日蓮聖人の自作と伝えられる剣難除けのお像がある。境内の大イチョウは幹まわり4m、高さ25mで、目黒区保存樹第一号(東京都の保存樹としては第10号)。お隣の東光寺にある雄の大イチョウとは「夫婦イチョウ」と呼ぶ人もいる。




常円寺の隣に東光寺があります。かって都立大学のあった小高い丘を背に、常圓寺と並ぶように建つ曹洞宗の古刹です。「慈母観音像」や「六地蔵菩薩」など、石像物が点在しています。東光寺は世田谷城主吉良冶部大輔冶家がその嫡子祖朝の追福のために臨済宗東岡寺として貞治四年(1365年)に創建したとされています。その後東光寺と改め、天文十九年(1550年)に寺領30石の御朱印状を拝領し、その後曹洞宗に宗旨を改めています。

東光寺と心字池

奥州地方の探題(見張り役)だった吉良家は上州から世田谷郷、今の豪徳寺付近に移って城を構え、貞治四年(1365年)には碑文谷、衾を領地に加えていた。東光寺は当時の城主吉良治家が、若くして死んだ我が子のために建てたと伝えられ、その後の吉良家の厚い庇護のもとで、衾村開発の拠点となっている。心の字を模した池のある閑静な日本庭園が美しい。




東光寺にも境内に大イチョウの木が聳えています。堂前の大イチョウは雄木で、常圓寺の雌株の大イチョウとは根がつながっていて、「夫婦イチョウ」と呼ばれています。



境内には様々な石の置物があります。その中に源頼朝が腰掛けたといわれる巨石も置かれています。治承四年(1180年)8月、伊豆で源氏再興の挙兵をした源頼朝は石橋山の戦いで敗れたものの、真鶴から安房へ渡り再起します。そして、10月2日、鎌倉を目指す頼朝は上総広常と千葉常胤が用意した船で太井川(現在の江戸川)、隅田川を渡河し、軍勢は三万騎にも膨れ上がったと伝えられています。下総国から武蔵国に入った源頼朝は隅田宿に布陣します。そこで腰掛けたのがこの岩だというのです。ホントかなぁ。

源頼朝の腰掛石

此の石は当初隅田川畔隅田宿にあったものであるが慶長年間隅田堤築堤のため堤内の鶴岡家に移され、さらに現在地に移されたものとされている。須永氏によると、このため江戸幕府より二人扶持を賜わったという。




「幸福を呼ぶ東光寺の七福神」が勢揃いしています。左から恵比寿様、大黒天様、弁財天様、福禄寿様、布袋和尚様、寿老人様、毘沙門天様です。こういう風に一同に会しているお姿は珍しいですね。丸い石の台座には表情豊かな七福神もこけしのように密にお座りになっておられます。1箇所七福神ならぬ一周七福神です。



東光寺は、世田谷城主吉良治家が早世した息子の菩提を弔うために建てたお寺で、墓地の奥まったところに吉良氏一族の墓があります。

東光寺

貞治四年(1365年)、当時の世田谷城主吉良治家が、10歳で早世した子息の祖朝の菩提を弔うために建てたのが当寺です。吉良氏は中世にかけて世田谷・目黒地域に勢力を誇った一族で、吉良氏の庇護のもと、東光寺は碑文谷の法華寺(現、円融寺)とともに栄えました。創建当初は「東岡寺」と称し臨済宗でしたが、天正十九年(1591年)頃に現在と同じ「東光寺」と改め、さらに江戸時代の初めには曹洞宗へと変わりました。墓地の中を西に上っていった先には、吉良氏一族の墓といわれる3基の石塔があり、その内2基は宝篋印塔です。3基はそれぞれ吉良祖朝・7代城主頼貞・8代城主氏朝の娘の3人の墓と伝えられています。また、境内には歴代住職の墓が並んでいて、寺の古い歴史を物語っています。本堂の裏手には禅寺らしい落ち着いた雰囲気の庭園があり、本堂正面には雄株の大銀杏がそびえ立っています。




本堂の裏手には禅寺らしい落ち着いた雰囲気の庭園があり、中心には心字池が造られています。庭園は呑川の崖線斜面を背にしており、鯉の泳ぐ池の中の島には弁財天が祀られています(木の背後に隠れています)。ただ、池そのものは埋もれていた昔の池を復元したものだそうです。



金蔵院は、慶長五年(1600年)頃に頼栄上人が創建し、明治七年(1874年)に一旦廃寺となり、一時は小学校(後の目黒区立八雲小学校)の教室として使われましたが、檀家総代らによって明治十六年(1883年)に再興されました。かっては隣接する氷川神社の別当寺になっていました。玉川八十八ヶ所霊場の第53番でもあります。

金蔵院

氷川山虚空蔵寺金蔵院は真言宗の寺で、慶長五年(1600年)頃に頼栄上人によって創建されたと伝えられています。古い記録としては享保年間(1716年〜1736年)に俊海法師が本堂を建て直したことが残っています。もとは隣接の氷川神社の別当寺で、明治七年(1874年)に一旦は無住廃寺となりましたが、明治十六年に再興され、玉川八十八ヶ所霊場の第五十三番札所になっています。本尊の大日如来像と脇侍の「木造不動明王及び両童子立像」(区指定有形文化財)が本堂に安置されています。不動明王像は寄木造で像高74.5cm、足元には各々岩座に立った白色の矜(が)羅童子と赤色の制(多)迦童子を従えています。不動明王像の頭部内から発見された11枚の文書により、像の作者は不明ながら、応仁二年(1468年)に大和国山辺郡・広瀬郡のあたりで造立されたことや、造立の目的などが明らかとなりました。明治四年、境内の建物を使用して目黒区内で初めての学校が創立されました。この学校は後の目黒区立八雲小学校(八雲小学校としての創立は明治七年)で、目黒区で一番古い小学校の誕生の地でもあります。




校舎はどの建物だったのでしょうか?

金蔵院と不動明王

慶長の頃(1600年頃)頼栄上人により開かれた。不動明王像は区指定文化財。明治四年、この寺に区で初めての学校が開かれた(後の八雲小学校)。目黒区で一番古い小学校の誕生だった。




見所ポイントDの「八雲氷川神社」は金蔵院の東隣にあり、かっては武蔵国荏原郡衾村(現在の目黒区八雲・東が丘・柿の木坂・自由が丘・緑が丘・平町・大岡山)の鎮守でした。創建年代は不明ですが、衾村で代々名主を務めた栗山家に伝わる文書に宝暦七年(1757年)7月に鳥居建立という記事が残っていることから、少なくともこれ以前と考えられます。大正時代には、毎晩12時頃から明け方の3時頃にかけてこの木から呻き声が聞こえると話題になり、氷川様の呻り樫と呼ばれました。

氷川神社

旧衾村の鎮守で、祭神は素戔鳴尊、稲田姫命、大己貴命の3柱です。創建の年代は詳らかではありませんが、内陣に文化十四年(1817年)奉納の記載があり、また社殿の改築が安政二年(1855年)に行われているところからみて、かなり古いことがわかります。祭礼は、毎年1月、5月、9月に行われますが、特に9月には神楽殿で素戔嗚尊の”八岐大蛇退治の物語”を表現している「剣の舞」が奉納されます。約200年の昔から伝わる古式豊かな舞で、太鼓、笛、大拍子に合わせて、一人の人が舞う美しいものです。この神社は昔から「癪封じの神」として広く信仰され、遠く下総や相模からも参詣人がつめかけ、栄えた神社です。




絵馬堂の壁には夥しい数の扁額や絵馬が掛けられています。親子3人が拝んでいる姿を描いた絵馬や、祭礼で奉納される「剣の舞」の様子を描いたと思われる絵馬もあります。ただ、経年の劣化によってかなり判別しずらくなったものもあります。



参道の脇にも案内板が立っています。

八雲氷川神社と劔の舞

旧衾村の鎮守様。昔から「癪封じの神様」として知られ、健康を願って、わざわざ遠方から参詣に来る人のための宿泊所まで設けられていた。御神木である境内のアカガシをけずりとり煎じてのむと咳や腹痛がなおると信じられていたそうで、そのご利益にあやかろうと木の皮をはぐ人が絶えなかったという。昔のご神木はすでに枯れてしまったが、樹齢数百年にもなるアカガシの根株が今も神殿の裏手に残っている。また神社には八岐大蛇退治にちなんだ「剣の舞」が伝わり、祭礼の折には二百年あまりの歴史を持つ古式豊かな舞いが奉納される。




八雲小学校のすぐ先で、再び呑川本流緑道に入ります。



呑川本流緑道は中根橋跡で目黒通りと直角に交差します。目黒通りは、国道1号線の清正公前交差点から分岐し、多摩川に隣接する玉堤二丁目交差点までを結ぶ都道です。江戸時代には、江戸から大鳥神社や目黒不動尊、さらには浄真寺(九品仏)に向かうための通りでした。目黒通りは現在は道幅の広い幹線道路なのですが、多摩川によってどん詰まりになっていて、その先は片側一車線の多摩堤道路にT字型に合流しています。これを多摩川の対岸の川崎市まで延長することが計画されていて、早ければ令和七年(2025年)には(仮称)等々力大橋によって目黒通りが川崎まで延伸されるとのことです。そうなると、丸子橋と二子橋の中間地点に新たな交通路ができ、渋滞も緩和されることでしょう。そんな目黒通りですが、明治時代には酷い悪路だったようです。

二子道を走ったガタクリ馬車

八雲の氷川神社前から目黒駅まで・・・。今は目黒通りに、名を変えたこの区間約5キロを、明治の末頃まで乗合の定期馬車が通っていた。黒塗り一頭立て。ペーポーと笛の音。日に6回ほどの運行だったが、石ころだらけでガタガタ道。馬車は右に左に激しく揺れた。それでついた名前が「ガタクリ馬車」。時は流れ、今はその同じ道を”現代の馬車”クルマが走る。




呑川緑道が目黒通りで分断されるところに中根橋欄干が残されています。何気なく通り過ぎると見落としてしまいそうですが、よくよく見ると、親柱には「中根橋」の文字が残っています。目黒通りを渡すにはかなり貧弱な橋幅ですが、昔はガタクリ馬車が通っていた目黒通りですから、今ほど道幅は広くなかったのでしょう。



先ほど歩いてきた呑川柿の木坂支流緑道ですが、中根橋跡のすぐ先の「肉のハナマサ」の横で直角に呑川本流緑道に合流しています。



都立大学駅の南端で呑川本流緑道を外れ、東横線の線路沿いの小路を進み、見所ポイントEの「立源寺」を目指します。立源寺は、日運上人(寛文八年寂)が開山となり、寛永元年(1624年)に創建されたとされています。

立源寺とケヤキの木立

寛永元年(1624年)日運上人の開基。本堂には立派な三宝尊像がある。大イチョウやケヤキの木立が美しく目黒風景55にも選ばれた。修行僧による寒中水行や御会式などが有名。




境内の植え込みの中にも案内板が立っています。

立源寺

長昌山立源寺は、寛永元年(1624年)日蓮上人により開基された日蓮宗の寺で、元は碑文谷法華寺(現、円融寺)の末寺でした。しかし、元禄十一年(1698年)に法華寺が江戸幕府によって日蓮宗から天台宗に改宗された後は、身延山久遠寺の末寺となり今日に至ります。本堂に安置されている「木造三宝尊像」(区指定有形文化財)は日蓮宗独自のもので、その中でも優れたものといわれています。中央に「南無妙法蓮華経」と記された中尊があり、左右には釈迦如来坐像と多宝如来坐像が蓮華座上に結跏趺坐しています。像底に法華寺の名と法華寺第十三世日晴上人の署判があることから、法華寺より移されたものだとわかります。三宝尊像の前には弘化二年(1845年)作の「木造文殊菩薩像・普賢菩薩像」(区指定有形文化財)が安置されています。境内には他に鬼子母神堂、鐘楼殿、納牌殿等があります。また、2月上旬には修行のために水を浴びる水行式が行われています。




見所ポイントFの「岡田家長屋門」は中根公園の南側に建っています。

長屋門のある風景

昔、このあたりは「岡田の森」と呼ばれ、森のすそを流れる香川には水車もあったという。岡田家は代々名主をつとめた旧家で、風格のある母屋や長屋門は江戸時代につくられた。




岡田家長屋門が面している坂は、「寺郷の坂」と呼ばれています。

寺郷の坂

この坂上には立源寺があり、かってこの周辺を「寺郷」といった。また、この道は江戸時代、九品仏へ向かう道で、この辺りに水茶屋があったため「衾の茶屋坂」とも呼ばれていた。




中根小学校の角で再び呑川本流緑道に入ります。そのまま緑道を南下しますと、東京工業大学の横に出ます。



東工大の構内には、ひょうたん形の池があります。以前は入れたのですが、現在はコロナ渦で部外者は立ち入り禁止になっています。

東工大とひょうたん池

東京工業大学は理工系の国立大学であり、広く明るいキャンパスの中に、桜の老木が多い。呑川のそばにあるひょうたん池にはコイ、カルガモ、セキレイがいる。林には野鳥も多い。




緑が丘駅の南側を回り込んで見所ポイントGの「九品仏川緑道」に入ります。下流から上流に向かって行くような感じです。



自由が丘駅の手前に「自由が丘スイーツフォレスト」の甘い建物があります。スイーツの天国への階段が乙女を誘います。自由が丘スイーツフォレストは平成十五年(2003年)に「日本初のスイーツのテーマパーク」としてオープンし、「スイーツの街・自由が丘」のランドマークとして長年親しまれてきましたが、2021年9月に休館し、今春リニューアルオープンしました。リニューアルでは、韓国のスイーツとカルチャーを融合した「新しいスイーツ・エンターテインメント」をコンセプトに、日本初出店となる韓国カフェ&スイーツ店が7店と、スイーツのオンライン専門店初のリアル店舗が1店の合わせて8店舗が出店し、併せてオリジナルグッズや韓国雑貨を取り扱う物販店も同館と隣接するエリアに出店しています。自由が丘に韓国スイーツねぇ。。。



自由が丘駅に戻って来ました。かっては九品仏川は丑川と呼ばれていたそうです。

九品仏川緑道 旧丑川

ここは目黒と世田谷の区境線で、昭和四十九年に暗きょになる前は九品仏川と呼ばれ、九品仏浄真寺の裏を流れて緑が丘駅の先で呑川に合流していた。旧名の丑川の名は、九品仏城を建設する材を舟で運びあげる途中、近くにいた牛がひっかかって川へ落ちてしまったことに由来するともいわれる。サクラ、サツキなどの花木が、散策の目を楽しませてくら(れ)る。




1982年、フランスのファッション雑誌である「Marie claire(マリ・クレール)」の日本語版が創刊されました。その当時、南口の駅前通りは「とうきゅう通り」と称されていましたが、自由が丘地区の商業集積の拡大に伴い駅裏という立地から雑多な業種の出店が多数企画されていました。そのような動きに危機感を抱いた地元商店主や地主の発案で、同時流行したCI(コーポレートアイデンティティ)を導入し、この地区のイメージ向上や集客増などを行う方策の一環として、当時の中央公論社で発刊予定であったマリ・クレール日本語版のプロモーションと連動させることを意図し、1982年11月3日に正式に通りの愛称としてマリ・クレール通りという名称が採用されました。このフランスとの連携は、中央公論社とマリ・クレール・アルバム社の当時のオーナーであったマダム・プルボーの尽力、および在日フランス大使館の協力で可能になりました。毎年5月には、マリ・クレールフェスティバルがマリ・クレール通りや付近の九品仏川緑道の空間を利用して開催されます。フランスの国旗が多数掲げられ、シャンソンのライブが行われるなど、フランスの祭りを意識した演出がなされています。また、フランス大使館文化部もこのイベントの後援を行っています。



ということで、ゴール地点の自由が駅の南口で「E暗渠に生まれた緑道を歩く」の歩きを終えます。



何度も通ったところが多かったのですが、改めて呑川の様々な側面を知ることができました。マリ・クレール祭りは例年5月に開催されていたのですが、コロナ渦で2年間中断となり、2022年は三年ぶりに10月9日(日)・10日(月・祝)と、女神祭りと同一日程で秋に開催されたようです。但し、ワインなどの飲食の提供はなかった模様。つまんない。




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