F祐天寺と競馬場の面影を歩く  

コース 踏破記  

今日は目黒区の「F祐天寺と競馬場の面影を歩く」を歩きます。東急東横線の中目黒駅をスタート地点として、祐天寺の境内を巡り、かって目黒区内を流れていた谷戸前川(やとまえがわ)跡に造られた緑道を散策し、目黒競馬場の痕跡を辿ります。  

「F祐天寺と競馬場の面影を歩く」の歩行距離は約6.0km(約8,570歩)、歩行時間は約1時間30分、消費カロリーは約270kcalです。

スタート地点:東急東横線中目黒駅東口1

↓ (約0.4km:約 6.0分)
@目黒区総合庁舎
【屋上の「目黒十五庭」は屋上緑化の見本として整備され、軽量な材料を使う等の工夫がなされています。】
↓ (約0.6km:約 9.0分)
A祐天寺
【祐天寺の開山は祐天上人、建立は祐海上人です。境内には本堂をはじめ多くの文化財があります。】
↓ (約1.0km:約15.0分)
B谷戸前川緑道
【民家の間を縫うように続く谷戸前川は1975年に暗渠化され、その後、緑道になりました。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
C目黒競馬場跡の碑
【1907年〜1933年まで、当地に競馬場がありました。競馬場外周の道に往時の面影が残ります。】
↓ (約0.8km:約12.0分)
Dさくらの里街かど公園
【大きな桜の木は、目黒競馬場の塀沿いにあった桜並木のうちの1本だと言われています。】
↓ (約1.2km:約18.0分)
E清水庚申
【庚申信仰は江戸時代に隆盛を極めました。清水庚申は両脇に提灯が掲げられています。】
↓ (約1.0km:約15.0分)
F十日森稲荷神社
【旧上目黒五本木組の鎮守です。元々は旧家島崎佐五右衛門の邸内神でした。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
G五本木庚申塔群
【五基の庚申塔と地蔵、題目塔があり、前にある道路は旧鎌倉道と伝えられています。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)

ゴール地点:東急東横線祐天寺駅東口1


スタート地点の東急東横線中目黒駅東口1から歩き始めます。中目黒駅は一昔前はダサいイメージの駅でしたが、現在は東横線の駅らしく小綺麗になっています。山手通りを挟んだ反対側には高架下モールに蔦屋も入っています。中目黒駅は昭和二年(1927年)に開業し、東急電鉄の東横線と東京メトロの日比谷線の協同使用駅となっています。昭和三十九年(1964年)から平成二十五年(2013年)年3月15日までは東横線と日比谷線で相互直通運転が実施されていましたが、東横線と副都心線・みなとみらい線との直通運転を開始したことにより、両線の相互直通運転は終了しました。中目黒駅は目黒区の駅では最も東に位置し、目黒区の行政・商業・交通の中心的な駅として機能しています。ちなみに、目黒駅は品川区になります。



中目黒アトラスタワーは中目黒駅の駅前再開発の中心施設として、平成二十一年(2009年)10月に完成しました。地上45階・地下2階建ての超高層マンションで、高さ164メートルは目黒区内の建築物として最高層であり、中目黒のランドマーク的存在になっています。タワーの1階から5階までの低層部分は飲食店を中心としたテナントビルとなっていて、目黒川緑道を散策する呑兵衛を当て込んだお店もあります。私の定番である晩杯屋は、平日13時・土日祝日はナント11時オープンとなっています。お花見のシーズンは昼桜・夜桜見物の人達で超激混みになります。



中目黒立体交差交差点で山手通りを右折し、駒沢通りの坂を上がっていきますと、右手に見所ポイント@の「目黒区総合庁舎」の特徴ある外観の建物があります。目黒区総合庁舎は元は昭和四十一年(1966年)に竣工した旧千代田生命保険(現ジブラルタ生命保険)の本社ビルでした。このビルは村野藤吾の設計による外壁の白色アルミ鋳物製ルーバーが印象的な建築物で、昭和四十四年(1969年)に第十回のBCS賞を受賞しています。千代田生命保険の本社として使用されていましたが、平成十二年(2000年)10月に千代田生命保険は更生特例法の適用を申請し経営破綻しました。破綻後、管財人は目黒区に本社敷地と建物の売却を打診しました。当時の目黒区役所庁舎は目黒区中央町にありましたが、目黒区はかねてから旧庁舎の手狭化に直面していました。そこで、目黒区はこの物件を取得して新庁舎として使用することを決定し、平成十四年(2002年)から翌年にかけて内装等を中心に大規模改修を行い、区役所機能を移転しました。総合庁舎には、他に目黒区保健所や東京都目黒都税事務所も入居しています。



目黒区総合庁舎の屋上は緑化され、「目黒十五庭」という名称で一般に開放されています。広大な屋上には多種多様な植物が植えられ、まるで地上の庭園のようです。「十五」という数字は、この庭園を造るに当たって設定された願いや狙いの項目数のことです。

作庭にあたっての15の思い、願い、ねらい
目黒十五庭(屋上庭園)

  1. 屋上庭園は、目黒区と東京農業大学との「緑化施策に関する協定」に基づき整備しました。
  2. 名建築を数多く残した建築家・村野藤吾氏が携わった建築物にふさわしい庭づくりを目指しました。
  3. 庭園は、屋上ならではの眺望や地勢条件を生かし、屋上緑化の新しい楽しみ方を提案するものです。
  4. 来庁された方々、どなたにも、庭園でみどりと触れ合える場となるように整備しました。
  5. みどりの癒し効果を期待するとともに、区民が見て、歩いて、愛でて楽しめるオアシス空間としました。
  6. 庭園のどの空間にも、誰もが回遊できるようにスロープ、手すり等を設置しました。
  7. 植栽配置や維持管理システムに、最新の品種や技術を取り入れました。
  8. 庭園デザインは、中庭や地上部の緑地と一体感を演出し、地被植物だけではなく、ゴヨウマツの盆栽仕立て物と、区の花ハギを主体とした和風庭園としました。
  9. ご自宅の屋上やベランダの緑化を行う際に、区民の方の参考となる地被類や宿根草・野菜を見本として植栽しました。
  10. 庭園の整備は、材料の軽量化や、防水・排水対策などで最新の技術を用いるとともに、修景物には、盆栽や焼き物など日本の伝統技術を取り入れました。
  11. 庭園内に霧を発生させ、植物を潤し、建築物を冷やし、人を癒す効果を期待して、ミスト散水装置を設けました。
  12. 環境への配慮として、湿生植物に対する給水は、雨水を利用した底面潅水システムを導入しました。その電力は、太陽光・風力発電装置から供給しています。
  13. 庭園に使用した大型コンテナや根切り材については、庭園の造形に研究熱心な滋賀県の「屋上緑化用陶製品開発研究会」の協力を得て、信楽焼の活用を図りました。
  14. 庭園は、屋上緑化の有効性や成果を検証するための実験的な役割を担っています。
  15. 庭園の整備に際しては、東京農業大学生の献身的な取り組みや、多くの企業や団体等から協力をいただきました。




屋上庭園へ出る部屋には、作庭工事の様子や庭園の特徴などを解説した各種の資料が掲示されています。場所は見付けられませんでしたが、野菜畑では絶滅に瀕している江戸東京野菜が育てられているそうです。お寺や神社の境内で見かけた内藤トウガラシや寺島ナスなどの馴染みの野菜もあるそうです。伝統的な日本固有の野菜の復活に繋がればいいですね。

江戸東京野菜

江戸東京野菜とは、種苗の大半が自家採種または近隣の種苗商により確保されていた江戸から昭和中期(四十年代)までの野菜、いわゆる固定種の野菜です。それぞれに物語があり、味や形など個性豊かで魅力あふれる江戸東京野菜は東京の伝統野菜として注目を集めており40種類が認定されています。

目黒十五庭の江戸東京野菜コーナー

日本各地で昔から栽培されている地域独自の野菜を伝統野菜といいます。京野菜、加賀野菜などが有名です。江戸東京野菜は東京の伝統野菜の総称ですが、昭和四十年代頃から激減し、一時はほとんどみられなくなりました。近年、わが国も締結した生物多様性条約は、生態系の多様性とともに、種と遺伝子の多様性の保全が重要であるとしており、また、地産地消の推進、地域のまちおこしなどのため、固定種の野菜としての江戸東京野菜の復活へ向けた運動が始まりました。現在、JA東京が認定している江戸東京野菜は40種ほどあります。目黒区が平成二十六年3月に策定した生物多様性地域戦略でも、地産地消を浸透させ、江戸野菜の購入を推奨しています。ここ、目黒十五庭の野菜畑では江戸東京野菜を中心にした野菜づくりに取り組んでいます。現在、寺島ナス、内藤トウガラシ、三河島エダマメ、鳴子(成子)ウリが栽培されているほか、季節に応じ、東京長カブ、内藤カボチャ、伝統コマツナ、ノラボウ菜、金町コカブ、シントリ菜その他の江戸東京野菜を栽培しています。江戸東京野菜は、流通や効率化を図るための品種改良が行われなかったため、味もえぐみも昔からの特徴を受け継いでいます。寺島ナスは江戸時代から向島の寺島で栽培されていたナスで、江戸でナスというとこのナスのことをいいました。内藤トウガラシは、江戸時代、江戸内藤藩邸(現、新宿御苑)やその周辺で栽培されていたもので、江戸の蕎麦人気とあいまって地域ブランドとして人気を集めました。鳴子ウリは江戸時代、新宿付近で栽培され、宿場を通る旅人に水菓子として売られ、喜ばれたということです。三河島エダマメは最近のブランドエダマメと比べると、昔ながらの素朴な味わいが特徴で、エダマメのほか、大豆としても食されたようです。ノラボウ菜、シントリ菜は主に江戸の郊外で栽培されていて、また、伝統コマツナ、金町コカブなどは現在のものとは一味違った味わいがあります。




駒沢通りを進みますと、左手に今時珍しい板塀が続いています。見所ポイントAの「祐天寺」です。古風な祐天寺表門は駒沢通りに面する境内北辺に建ち、その奥には仁王門が続いています。祐天寺表門は明治前期(1868年〜1882年)に建立され、高麗門・切妻造桟瓦葺で、冠木と棟木の間に竪格子がはめられています。左右には潜戸があり、境内の表門として格式ある構えを今に伝えています。

祐天寺(浄土宗)

祐天寺は、享保三年(1718年)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保八年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保四年大仏師法橋石見の名作です(都指定文化財)。また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字法華経巻第三」1巻(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。墓地には、「祐天上人の墓」(都旧跡指定)や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。




表門の奥に建つ仁王門は目黒区の有形文化財に指定されています。

仁王門 目黒区指定有形文化財(建造物)

この仁王門は仁王像とともに、享保二十年(1735年)の建立で、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。桁行8.5m(28尺)梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦葺型銅板葺(昭和六年茅葺よりふきかえ)円柱は欅材です。正面の両脇間に享保二十年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られ、方位を示しています。各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。




阿弥陀堂も竹姫が寄進し、仁王門の12年前に建立されました。屋根裏には、享保九年(1724年)の上棟時・嘉永七年(1854年)・昭和七年(1932年)の修理時の、合わせて3枚の棟札が納められています。繰り返し補修は行われましたが大改修は行われず、仁王門とともに創建時の姿を今日まで伝える建築物です。特に、小仏堂としての扱われ方や基本的空間構成は往時のままで、江戸時代中期の建築様式を知ることができます。

阿弥陀堂 目黒区指定有形文化財(建造物)

阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保九年(1724年)4月に上棟されました。同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行なわれたにもかかわらず、回祿や倒壊などによる根本的な再造営は、行なわれなかったものと考えられます。祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。

〔注〕回祿(カイロク)とは火の神のこと。転じて火災のこと。




梵鐘は、徳川六代将軍家宣の17回忌の追善供養のために正室の天英院(近衛熙子)が発願し、祐天寺の敷地内で鋳造されました。

梵鐘 目黒区指定有形文化財(工芸品)

総高179.6cm、口径102.2cm。この梵鐘は、享保十三年(1728年)に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、正室の天英院(近衛熙子)が発願し、翌享保十四年に完成したものです。鋳造は祐天寺の敷地内で行われたことが記録に残り、鋳身には何回かに分けて鋳造されていった痕跡が見られます。鐘には祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ南無阿弥陀仏の名号および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。また鐘の上部には徳川家の家紋の三葉葵、下部には天英院の実家である近衛家の家紋の牡丹が陽鋳されています。徳川家と祐天寺の関係を示すだけでなく、目黒区の郷土資料として貴重です。元文三年(1738年)の27回忌追善を期に時の鐘として撞かれることになり、現在でも朝6時と正午前に撞かれています。




祐天寺には、江戸時代に発生した廻船(主に上方から江戸に貨物を輸送するために用いられた船)の海難供養碑もあります。

海難供養碑 目黒区指定文化財

灘目の海難供養碑  1基

白子組の海難供養碑 1基


江戸時代に灘の樽廻船と、関西の木綿問屋仲間白子組の廻船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州灘で大風などに遭い、度々沈没しました。この2基の海難供養碑は、その遭難者の慰霊のために江戸の商業問屋仲間が建立したものです。いずれも祐天寺住職であった祐全・祐東自筆の名号が刻まれ、当初から当寺に建てられたものと推定されます。供養碑に刻まれた碑文により、度重なる海難の事実を知ることができます。またそれぞれの廻船および海難事故については、船籍所在地の史料からも史的事実の裏付けがなされています。祐天寺の海難供養碑2基は近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究において貴重な資料です。




祐天寺裏交差点は五差路になっています。多差路好きなマニアにはたまりませんね。交差点の脇から民家の間を縫うようにして細い路地が延びています。見所ポイントBの「谷戸前川緑道」です。谷戸前(やとまえ)は昔の地名で、お寺の祐天寺周辺が谷戸前でした。谷戸とは、谷状の地形のことをいいます。谷戸前川は、旧東京府荏原郡中目黒村を流れていた目黒川の支流で、川の名前は流域にある祐天寺の旧字名「谷戸前」に由来しているといわれています。現在は暗渠化され、下水道本管になっています。その上部に作られたのが谷戸前川緑道です。



緑道は途中に親水公園を挟みながら民家の間を縫って延びています。



マンホールが目立つのは下水管のある証です。



目黒通りに出ました。歩道脇に馬のブロンズ像が置かれた石碑があります。見所ポイントCの「目黒競馬場跡の碑」です。この記念碑のトウルヌソル号は、第1回(ワカタカ号)、第5回(トクマサ号)、第6回(ヒサトモ号)、第8回(クモハタ号)、第9回(イエリュウ号)、第12回(クリフジ号)の日本ダービー優勝馬の父です。トウルヌソル号の銅像は、「馬の勇八」の異名で知られる官展の重鎮池田勇八氏の作品です。

トウルヌソル号
第1・5・6・8・9・12回日本ダービー優勝馬の父

明治四十年(1907年)、政府の馬質改良奨励により、この地に目黒競馬場が開設された。それ以降、昭和八年(1933年)府中市に移設するまで、明治・大正・昭和の三代を通じて、ここで競馬が開催された。また、目黒競馬場は、昭和七年(1932年)第一回日本ダービーが開催された記念すべき地でもある。この碑は、當時の歴史を後世に伝え残すとともに、第五十回日本ダービーを記念して、日本中央競馬会および大鳥前元競馬場通り商店街振興組合のご協力により建立された。




競馬場の跡地は区画整理されず、馬場の形のままに宅地化されました。なので、道路も直線ではなく、楕円形をしています。上空から眺めれば競馬場の跡だと分かるでしょう。



楕円状に道路を進んで行きますと、小さな公園が目に止まります。見所ポイントDの「さくらの里街かど公園」です。平成十一年3月311日に開園し、公園内にある大きな桜の木は、目黒競馬場があった当時のものです。かっての目黒競馬場の塀に沿って桜並木がありましたが、その中の1本がここに残されているのです。東京大空襲や数ある台風の際も生き残り、地元の住民の人達に大切に育てられています。

サクラの由来

目黒競馬場は、明治四十年12月に社団法人東京競馬クラブによって創立され、春秋2季の競馬シーズンは人気を集めてたいへんな賑わいであった。昭和七年に第1回日本ダービーが盛大に行われた地である。その後住宅地化の波におされ敷地も手狭になったので、昭和八年馬頭観音とともに府中市に移転して東京競馬場となった。競馬場のあった一帯は、大部分が寺山と呼ばれていたところで、その跡は、現在国立教育研究所や東京学園高等学校、区立不動小学校などや住宅地となっている。今でも住宅地の中に、当時のコースそのままに曲がっている道路が残っている。このサクラは、目黒競馬場があった当時の樹木だといわれ、平成九年秋、台風の影響により倒木したときも、地元の熱い要望により区が復旧したもので、区民に愛されているサクラです。




林試の森公園の横には、かって羅漢寺川が流れていました。羅漢寺川は目黒川の支流で、現在は全て暗渠化され、上部は「羅漢寺川プロムナード」と名付けられた緑道になっています。川名の由来は、流域の途中にある五百羅漢寺に因んでいます。



目黒通りの目黒郵便局前交差点から250mほど手前で円融寺通りと交差します。その交差点角に見所ポイントEの「清水庚申塔」があります。近くのバス停の名前も「清水庚申」となっていて、地元では広く知られています。この交差点は江戸時代から存在し。清水庚申塔もその当時からここにあったのでしょう。ちなみに、現在の目黒区役所が移転する前は目黒区中央町二丁目4番地の区画に本庁舎があり、そのためにこの辺りは本町とか中央とかいった地名が残っています。



見所ポイントFの「十日森稲荷神社」は、祐天寺駅近くの駒沢通り沿いに鎮座しています。元々は旧上目黒村五本木の旧家の島崎佐五右衛門の邸宅にあった邸内神として創建したものが此の地に移されたといわれ、五本木田んぼの豊作守護神として旧上目黒五本木組の鎮守となっていました。神社の名前は、最初は稲荷神を祀った森ということで「稲荷森」でしたが、後に「十日森」になったといわれています。本殿は明治十七年、拝殿は昭和三十二年に建立されました。毎年10月の第1土・日曜日には例祭が行われ、境内には多くの屋台が並んで大勢の人出で賑わいます。

十日森稲荷神社

この神社は、元々五本木の旧家である島崎佐五右衛門の邸内にあった屋敷神をこの地へ移したものと伝えられていて、旧上目黒村五本木組の鎮守でした。五本木田圃の豊作守護神としてあがめ、信仰のもとにこの神社を祀ってきました。蒼稲魂命を祭神として今もこの地域の人々に深く崇敬され、毎年秋には例祭が行われています。十日森の由来については、稲荷神を祀った森である“稲荷森”から“十日森”へなったという説があります。現在の本殿は明治十七年(1884年)の建築で、拝殿は昭和三十二年(1957年)に建てられました。




見所ポイントGの「五本木庚申塔群」は、かつての目黒地域の農民の生活と民俗信仰を伝える史跡です。庚申塔群前の道は古道の鎌倉道と伝えられていて、五本木集落の庚申塔を建てるにはふさわしい場所だったようです。最初に建てた場所から移されることなく今に伝わっています。

五本木庚申塔群 区指定有形文化財(歴史資料)

小堂内に庚申塔4基、地蔵尊1基、堂前右手前に念仏塔1基、堂外左後方に庚申塔1基が建っています。青面金剛、日月、二鶏、三猿などが浮彫りされ、貞享三年(1686年)から文化七年(1810年)にかけての年号や五本木組庚申講中の氏名が刻まれています。ここにある庚申塔群は作柄や保存状態が良く、江戸時代中頃から全国の農村で盛んになった庚申信仰を知る上で重要な資料であり、初めに建てたと思われる場所に残っていることも貴重です。庚申信仰とは、60日に1度の庚申の日に青面金剛の掛軸などをまつり、会食懇談しながら徹夜する民間信仰で、これを18回終えた後に供養として建立したのが庚申塔です。なお、五本木庚申塔群の前の道は鎌倉へ通じる古道の鎌倉道であったと伝えられています。




ゴール地点の祐天寺駅に着きました。祐天寺駅は昭和二年(1927年)に開業し、平成三十年(2018年)には東口に新しく6階建ての駅ビルが開業しました。昔は上下2本の線路だったのですが、平成二十九年(2017年)に上下線の間に通過線が新設されました。これは副都心線との相互直通運転を開始するのに伴い、祐天寺駅に停車しない急行・特急などの電車を効率的に運行するためでした。ホームの幅を狭めて上り線ホームを渋谷方面に若干移設し、また上下線の間隔拡張によって空いたスペースに通過線を設置しました。過密ダイヤで知られる東横線でこのような大規模な改良工事を行なうには多くの困難があったことでしょう。私は祐天寺駅から帰宅したのですが、ホームに立っても通過線があることなぞ全く気が付きませんでした。



ということで、目黒区最後の「祐天寺と競馬場の面影を歩く」を歩き終えました。よく通ったところも多かったのですが、目黒区役所の屋上なんかこういう機会でもない限り行くことはありません。下から見上げたら、まさかあんな大きい建物の屋上に木が植わっているなんて想像もできませんからね。目黒区を堪能した後は、閑静な住宅地が散在する世田谷区を巡ります。面積では大田区に次いで23区第2位ながら、人口と世帯数は第1位となっています。見所も多そうなので楽しみです。




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