@北沢地域コース  

コース 踏破記  

今日は世田谷区の「北沢地域コース」を歩きます。京王井の頭線の東松原駅をスタート地点として、梅の名所の羽根木公園・植栽が美しい北沢川緑道・若者で賑わうシモキタの街並みを巡ります。  

「北沢地域コース」の歩行距離は約3.7km(約5,290歩)、歩行時間は約56分、消費カロリーは約168kcalです。

スタート地点:京王井の頭線東松原駅

@羽根木公園
およそ650本の梅が咲き誇る世田谷の梅の名所。毎年2月に行われる「梅まつり」には、区内外から大勢の人が訪れます。公園内には売店もあり、休息することができます。
A北沢川緑道
旧北沢川を暗渠化してできた、せせらぎもある約4キロの散歩道。四季折々の草花が咲く整備された道は歩くのにもってこい。環七から代沢3・4丁目までは、春に桜が咲き乱れます。
B北澤八幡神社
世田谷七沢八社随一の正八幡宮。世田谷を所領していた吉良家によって勧請されたと伝えられています。原則、毎年9月第1土・日に開催される秋の例大祭では、20基を超える神輿が境内に繰り込み、大勢の参拝客でにぎわいます。冬の晴れた日には、境内から富士山が望めることも。
C森巌寺
古くから「淡島様」、「淡島の灸」として親しまれている寺。徳川家康の次男・結城秀康の位牌所として建立され、その法名から森巌寺と名付けられました。趣のある木の山門を抜けると、風格のある本殿が。開山当時からある見事なイチョウを始めとする木々に囲まれた、緑豊かな佇まいは、せたがや百景にも選ばれました。毎年2月8日には、折れ針や古針を供養し処分する行事「針供養」が行われています。
D下北沢の街
狭い路地にライブハウス・劇場・書店・古着屋などがひしめきあい、今も昔も若者文化を支えているサブカルチャーの発信地です。近年はカレーの街としても親しまれ、連日人気店には行列ができています。毎年10月にカレーフェスティバルも開催され、下北沢演劇祭、下北沢音楽祭と並ぶこの街を代表するイベントとなっています。

ゴール地点:京王井の頭線下北沢駅


スタート地点の京王井の頭線東松原駅から歩き始めます。



最初の見所ポイント@は「羽根木公園」です。羽根木公園は中央が盛り上がった丘状の地形になっていて、南側の斜面の梅林をはじめ、園内には総計約650本(紅梅270本・白梅380本)もの梅の木が植えられ、都内でも有数の梅の名所となっています。品種はおよそ60種類ほどあり、それぞれ開花時期が異なるため長く楽しめます。梅の花が見頃となる毎年2月には「せたがや梅まつり」が開催されます。古くは一帯に「六郎次」という野鍛冶が住んでいたと伝えられ、「六郎次山」と呼ばれていました。その後、根津財閥の所有地となったことにより「根津山」と呼ばれました。1956年に都立公園として開園し、1965年に世田谷区に移管されて区立公園となりました。約8万平方メートルにも及ぶ公園内には、羽根木プレーパーク・野球グラウンド・テニスコート・世田谷区立梅丘図書館・茶室「日月庵」などの施設があります。



公園の東松原駅口の前に、園内の案内図と公園の由来を記した案内板が立っています。梅の木の本数ですが、総数650本という説と、この案内板にある総数700本という説が併存しています。数えた時期の違いでしょうか?

羽根木公園の由来

羽根木公園は、その昔六郎次という鍬や鎌を造る鍛冶屋が住んでいたことから六郎次山と呼ばれていました。また、大正時代末期には敷地の一部が、根津財閥の所有であったことから根津山とも呼ばれるようになり、土地の人達には、今なお「根津山の公園」、或いは「六郎次山」と呼ばれています。名称は、この地が東京都荏原郡世田谷村大字羽根木の飛地であったことから名づけられました。東京都は、昭和三十一年(1956年)羽根木公園として開設しました。その後、昭和四十年(1965年)世田谷区に移管され、総面積は約八ヘクタール(24,000坪)となっています。昭和五十四年(1979年)国際児童年を記念して、全国で初めての冒険遊び場であるプレーパークが開設されました。

羽根木の梅林

羽根木公園は、全体が小高い丘になっており、南斜面地は笹が生い茂っていましたが、昭和四十二年(1967年)世田谷区議会議員に当選した五十五名の方々により五十五本の梅の記念植樹が行われました。その後、昭和四十六年(1971年)東京都百周年記念や昭和四十七年(1972年)世田谷区制四十周年などの記念植樹を経て、現在は紅梅170本、白梅530本の700本を数える都内でも屈指の観梅の名所となりました。毎年二月の梅の見頃には、地元の実行委員会による「梅まつり」が開催され、多くの方々に楽しまれています。




園内は緑で溢れています。夏の終わりの季節ですが、太陽はまばゆく、木陰が嬉しいですね。



野球場は2面もの広さがあります。



今は晩夏なので梅の花は見れませんが、青々とした梅の木は来春開花するためのエネルギーをため込んでいるようです。



梅は日本固有の品種だと思っていたのですが、原産地は中国の中部地域なんですね。一説には日本への渡来は弥生時代(紀元前3世紀〜紀元3世紀)に朝鮮半島を経て入ったものと考えられているそうです。あるいは、遣唐使が日本に持ち込んだとか、奈良時代頃に中国から薬木として日本に渡来したとかという説もあります。日本では奈良時代から庭木として親しまれ、果実の栽培も江戸時代から行われてきました。ということは、梅干しの歴史も案外短いということですか。梅林の中に標本木でしょうか、囲いの中に1本の梅の木が植わっています。

梅(中国野梅)

梅の原種は、中国の西南部及び長江流域、台湾に自生しています。西南麓一帯に点在し、海抜170メートルから高い所は3、300メートル以上の所に生息しています。樹高10メートルの小喬木ないし灌木、太いものは幹周120センチメートル〜160センチメートルで、多数の梅林を成している所もあります。花期は十二月から三月で概ね単色の白梅ですが、蕾のうち薄い桃色を呈し、開花すると白色になるものもあります。




飛梅という品種もあるんですね。

飛梅(とびうめ)

飛梅とは、菅原道真にまつわる梅の伝説に登場する梅の木のことです。平安時代、時の右大臣であった道真が太宰府に左遷となり京を発つとき日頃大切に育てていた梅に向かって

   こちふかば にほひをこせよ 梅のはな
      あるじなしとて 春なわすれそ

と詠むと、梅は主人を慕って太宰府まで飛び、根付いたということです。この紅白一対の梅は、その「飛梅」の分身で梅の木がある太宰府から寄贈されたものです。




羽根木公園を出て梅ヶ丘駅に向かいます。9月ともなると、各地の神社で例祭が行なわれ、神輿が登場します。まだまだコロナ渦が収まっていないので、神輿を担ぎたくてもままならず、法被を纏ったおじさん達も鎮座する神輿を眺めるだけです。それにしても立派な神輿ですね。



梅ヶ丘の「すしの美登利」といえば、寿司好きの人なら誰でも知っていますよね。今日もお店の前には長〜〜〜い行列ができています。1977年の創業以来、安さ・おいしさ・ネタの豊富さ・新鮮さが揃った人気店として行列が絶えません。現在では、海外店を含めて30店舗にまで拡大しています。店名の「美登利」は、利他の精神(相手、または他人の利益や便益を重んじ、自己をささげる心構え)を追求しながら日本の美しい寿司文化を代表するまで登りつめたいとの想いから生まれました。数ある握りの中でも、「元祖穴子一本付」は圧倒的なボリューム感とふわふわの柔らかい穴子が口いっぱいに広がる美味しさで昔も今も変わらぬロングセラーのメニューになっています。



小田急線の高架下を通って北沢川緑道に入ります。



見所ポイントAの「北沢川緑道」は、赤堤から代田・代沢・池尻まで、総延長約4.3キロメートルの遊歩道です。かん木や雑木類が植えられ、四季折々の花が咲く緑の散歩道となっています。かっての北沢川の水源は旧上北沢村あたり(松沢病院の構内)で、湧水を集めて赤堤・松原を通り、池尻・代沢・三宿の三村境で烏山川と合流し、目黒川と名を変えていました。北沢川は、現在は全面的に暗渠化されて下水道に転用されています。地上部は北沢川緑道となって、地域住民の散策コースとなっています。川の名残りとして、緑道にはかっての橋の親柱が残されています。



宮前橋交差点で環七を横断します。緑道の左手に円乗院があります。円乗院は17世紀に代田村住民の菩提寺として建立された真言宗豊山派の一寺で、玉川八十八ケ所霊場の五十番目の寺です。門を入ると正面に本堂、本堂左に観音堂が建っています。



境内には枯れたコウヤマキの木が立っています。第二次大戦時で焼失したものを、戦争の痛ましさを忘れぬために保存しているそうです。

樹名 コウヤマキ(高野槙) コウヤマキ属 常緑針葉樹

日本特産で、大きいものでは高さ40メートル、直径1.5メートルになり、樹幹は狭円錐形になる。樹名の由来は、和歌山県の高野山に多く自生している事から、高野槙の名がついた。

※この高野槙は、第二次大戦の昭和二十年5月25日の空襲の戦火を浴び焼失したもので、戦争の痛ましさを忘れぬ為に保存しました。




環七から目黒川緑道合流点までの区間では、平成六年から住民参加でせせらぎを復活した整備が進められてきました。せせらぎの水源は東京都下水道局落合水再生センター(下水処理場)で、水質を向上させて処理した再生水(高度処理水)を利用しています。その再生水が地下を通って池尻北広場まで送られ、その水の一部を利用してせせらぎに送水しています。



環七から淡島通りまでの緑道には桜並木約150本が続き、桜の名所になっています。毎年春には、まだ川だった昔から続いている桜まつりが行われ、多くの花見客で賑わいます。



住宅地には珍しく、緑道の植え込みの先に鉄塔が聳えています。

萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔

ここ鶴ケ丘橋たもとから眺められる丘上の鉄塔には歴史がある。昭和元年(1926年)に建ったものだ。当時緑豊かなここに堂々と聳え立つ銀色の塔は都市近郊を象徴する景観であった。この塔のすぐ下に昭和八年、自らの設計による家を建て、居住したのは萩原朔太郎(1886年〜1942年)だ。鋭く尖った三角屋根の家は、鉄塔を意識して設計されたものだろう。詩人は、故郷前橋で電線の青い閃光を眺めては東京を恋い慕った。「定本青猫」の「自序」にはこうある。

   都会の空に映る電線の青白いスパークを、
   大きな青猫 イメーヂに見てゐる
                 萩原朔太郎

かつては当地の高圧線の碍子も青く仄めいていたという。詩人はそれを青猫に見立てたのかもしれない、代田鉄塔物語である。父はポエディを子は怖れを感じた。娘葉子(1920年〜2005年)は、自伝小説「蕁麻の家」で「あの高い鉄塔」と描写し、「暗い予感」をこれに持ったという。今となっては詩人と小説家とを偲ばせるたったひとつの風景だ。このことから丘の鉄塔は「世田谷区地域風景資産」に選定された。日本では他に類例をみない文学モニュメントだといえる。




北沢川緑道には文学関係の石碑があちこちに置かれています。よくは読み取れませんが、左の石碑には「文学の小路」、右の石碑には斎藤茂吉の歌碑「代田川のほとりにわれをいこはしむ 柳の花もほほけそめつつ」と書かれているそうです。



三好達治も北沢川にほど近い代田に住んでいたとのことです。小雨鶲(小鮫鶲:コサメビタキ)って初めて知りました。

三好達治 文学顕彰碑

三好達治(1900年〜1964年)は、詩界の開拓者だ。和洋の詩風を織り込んで新しい詩の可能性を切り拓いた。昭和期を代表する第一級の抒情詩人だ。処女詩集「測量船」は、言葉の響きを重んじて創られた名編だ。この発刊以降も語の音楽性にこだわり、生涯で千篇を越える詩を詠んでいる。達治は、世田谷区代田一丁目一番(当碑の南約四百メートル)に十六年間住んだ。静かな路地裏で詩集「百たびののち」は編まれた。その一篇を刻み記す。

 閑窓一盞

 憐れむべし糊口に穢れたれば
 一盞はまづわが腹わたにそそぐべし
 よき友らおほく地下に在り
 時に彼らを憶ふ
 また一蓋をそそぐべし
 わが心つめたき石に似たれども
 世に憤りなきにしもあらず
 また一蓋をそそぐべし
 霜消えて天晴る
 わが庭の破れし甕にこの朝来りて水浴ぶは
 黄金褐の小雨鶲
 小さき虹もたつならし
 天の羽衣すがしきになほ水そそぐはよし
 また一蓋をそそぐべし
 信あるかな爾
 十歳わが寒庭を訪ふを替へず
 われは東西南北の客
 流寓に疲れたれども
 一日汝によりて自ら支ふ
 如何にために又々一蓋をそそがざらでやは

詩人は諸国をさすらった末、この代田に「流寓独居」し、独り酒を飲み、寒庭を訪れる小鳥に語りかけた、風狂の詩人、終焉の地での秀作である。達治が歩いたこの北沢川べりに詩碑を建て、これに一枚の写真を添える。庭で愛犬ミミーと戯れる詩人の肖像である。




ふれあいの水辺と題された案内板が立っています。

ふれあいの水辺 (北沢川緑道)について

都市の生活の中で、緑や水のある空間は、潤いや安らぎを与えてくれます。北沢川は昭和の始めまでは、農業用水として使用され、フナやドジョウが住む自然豊かな川でした。その後都市化が進むにつれて生活排水で川がよごれ、昭和四十年代には下水道幹線として暗渠化され、その上部が緑道として整備されました。世田谷区では北沢川緑道の老朽化に伴い、東京都が城南3河川(古川・目黒川・香川)清流復活事業を行うことをきっかけとして、再び生き物や自然にやさしい環境づくりを目指して、地域の皆さんと共にせせらぎを復活させています。また、北沢川緑道の桜並木と代沢の桜祭りは区民によって選ばれた世田谷百景の一つになっています。

水源は自然にやさしい下水の再生水です

せせらぎの水は、東京都下水道局落合水再生センター(下水処理場)で水質を向上させた再生水(高度処理水)を水源として、代沢せせらぎ公園(代沢4−36)の地下の施設へ分水し、ここでさらに浄化した水を利用しています。代沢せせらぎ公園の地下の浄化施設では、せせらぎを清らかで快適なものにするために、凝集濾過(水の中の微細なリンなどの汚れをとる)とオゾン処理(オゾンによる殺菌・脱臭・脱色をする)を行っています。




見所ポイントBの「北澤八幡神社」は、15世紀の後半頃に当時の世田谷城主だった吉良家の吉良頼康が勧請したと伝えられています。その後、家臣が荏原郡下北沢村(現在の下北沢)に土着して開墾し始めたといわれています。北澤八幡神社は下北沢村の中心的存在で、下北沢地域の歴史とともに歩んできました。「世田谷七沢八八幡随一」とも言われた偉容を現在に伝えています。現在の社殿は嘉永五年(1852年)に再建されたといわれています。北澤八幡神社は台地の縁にあたる斜面に立地し、現在も樹齢を重ねた樹木が残っています。



境内は高台に位置していますので、運が良ければ富士山が眺められます。今日は快晴ですが、残念ながら境内からは見えませんでした。眺める場所が違っていたのかな?



そんな時のために、境内には富士山から運んできた溶岩を積み上げた富士塚があります。登ることはできませんが、富士山に見立てて拝むことはできます。



見所ポイントCの「森厳寺」は、江戸時代には北澤八幡神社の別当を務めていました。森巌寺は徳川家康の次男の結城秀康の位牌所として建立された浄土宗の寺院です。開山した清誉上人は持病の腰痛に悩んでいましたが、淡島明神に祈願すると夢の中で霊示があり、灸を施したところ腰痛が完治しました。そこで淡島明神をこの地に勧請し、代々住職はこの灸治の法を口授相伝して毎月3と8の灸治の日に人々に施すようになったと伝えられています。山門の横には「粟嶋の灸」という大きな木の看板が掲げられています。



境内には2本の大銀杏の木が聳えています。開山当時から境内にあり、樹齢400年の大銀杏の木だそうです。その横に、せたがや百景の石碑が建っています。

せたがや百景 淡島の灸の森巌寺

江戸時代の初め、徳川家康の次男結城秀康公の位牌所として建立されました。建物に三葉葵の紋所が見られます。また境内には、樹齢400年のイチョウが一対と、お灸と2月8日の針供養で知られる淡島神社があります。このあたり一帯は緑深い木々に包まれて落ち着けます。




森巌寺は針供養のお寺としても知られています。針供養とは、折れたり、曲がったり、錆びたりして使えなくなった古針を供養し、近くのお寺や神社に納める行事です。針供養は各地の社寺で執り行われていますが、主に淡島神社(粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われます。森巌寺の針供養の始まりは定かではありませんが、幕末には狂歌に詠まれていることから、当時すでに近郷に知られていたものと思われます。現在でも、毎年2月8日には淡島堂で針供養が行われています。境内の一画に、苔むした石棺が置かれ、その横に案内板が立っています。

世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)
森巌寺の針供養

針供養とは二月八日や十二月八日、あるいは両日ともに裁縫の仕事を休み、折れ針や古針を供養する行事のことをいう。現在、森巌寺の針供養は毎年二月八日に淡島堂で行われている。堂内に置かれた豆腐に古針が刺され、住職らによって供養の法要が営まれる。供養された針は豆腐より抜き取られ、淡島堂正面にある石棺に納められる。森巌寺における針供養の創始は不詳であるが、安政三年(1856年)刊行の「狂歌江戸名所図会」には同寺の針供養に関連した狂歌が詠まれており、遅くとも安政期にはこの地で針供養が行われており、その施灸と共にかなりの程度著名であったと思われる。

   まかり(曲り)たる針も納る淡しまハ
      人をつりこむ御夢相の灸
   淡しまに灸をそすうる女等の
      針さす癪もをさまりにけり
      (「治まる」「納める」を懸ける)

森巌寺の針供養は、かつては広く見られた民間信仰の風潮と、道具を大切に扱った先人達の思想をいまに伝えるものとして貴重な存在である。




石棺の隣には針塚の石碑も建っています。その横に多くの人名が書かれた石碑もあります。「大東京和服裁縫教師会 創立功労者の碑」というらしいのですが、案内板に書かれた文章は読みとれませんでした。



見所ポイントDの「下北沢の街」を散策します。駅前は再開発で景色は一変しましたが、商店街の通りは昔と同じ風景です。雑多なお店に雑多な通行人、やはり若い人が多いですね。巣鴨の「おばあちゃんの原宿」通りとはえらい違いです。塩大福のお店は見かけませんが、カレー屋さんは軒を連ねていますからね。



小田急線が地下に潜ったことで、地上の線路跡は広大な空き地になりました。今はイベントスペースとして使われているようですが、そのうちにシモキタには場違いな高層ビルが建つかもですね。私的には、小田急緑道かなにかになって欲しいですけど。



ゴール地点の下北沢駅に着きました。小田急線の地下化によって駅の入口もすっかり変わってしまいました。駅が新しく小綺麗になった分、昔のバンカラな雰囲気がなくなってしまったようで、ちょっと複雑な気分です。



ということで、世田谷区最初の「北沢地域コース」を歩き終えました。北沢川緑道は何百回も歩きましたが、北澤八幡神社と森巌寺は初めて訪れました。こういう機会でないと地域のお寺や神社には詣でませんからね。北澤八幡神社から富士山は拝めませんでしたが、帰りの電車の車窓からは富士山がバッチリ見えました。なんででしょう?






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