A玉川地域コース  

コース 踏破記  

今日は世田谷区で2番目の「玉川地域コース」を歩きます。東急大井町線の等々力駅をスタート地点として、23区の秘境である等々力渓谷・巨大な野毛大塚古墳・未来都市ライズの街並みを巡ります。  

「玉川地域コース」の歩行距離は約3.4km(約4,860歩)、歩行時間は約51分、消費カロリーは約153kcalです。尚、コースの途中で道に迷ったために見所ポイントの順番がウォーキングマップと一部異なっています。

スタート地点:東急大井町線等々力駅南口
@ゴルフ橋
ゴルフ橋脇の階段を下り、下流に向って谷沢川沿いに散策路があります。渓谷橋を渡ると、等々力不動尊や不動の滝などがあります。
A等々力渓谷
谷沢川が浸食してできた、全長約1kmの23区唯一の渓谷です。渓谷一帯は「名勝」として東京都文化財指定されています。
E野毛大塚古墳
C六所神社(野毛六所神社)
往古より下野毛村の鎮守として祭祀されていましたが、明治三十一年に村内に散在していた4つの社を合祀して、下野毛村総鎮守として、ひとつにまとめられた神社です。入口階段上の大きな鳥居に出迎えられます。
B善養寺(善養密寺)
総本山智積院の末寺で、開山は慶安五年(1652年)になります。本堂前に立つカヤの木の迫力に圧倒されます。
D二子玉川公園
国分寺崖線のみどりと多摩川の水辺に囲まれた場所に位置している自然豊かな公園です。世田谷区立の公園として初の本格的な日本庭園があり、その一部には登録有形文化財である「旧清水家住宅書院」を復元しています。

ゴール地点:東急田園都市線二子玉川駅東口


スタート地点の東急大井町線等々力駅南口から歩き始めます。



歩道には等々力渓谷への道しるべが記されたプレートが埋め込まれています。等々力渓谷は等々力駅のすぐ近くにあるので迷うことはないんですけど。



見所ポイント@の「ゴルフ橋」に着きました。



ゴルフ橋は矢沢川に架かる橋です。谷沢川は世田谷区南部を流れ、豊かな自然で知られる見所ポイントAの「等々力渓谷」を造成しています。

等々力渓谷と谷沢川

等々力渓谷は、世田谷区南部の武蔵野台地南端に位置する延長約1,000m(現在地のゴルフ橋から矢川橋までの区間)の渓谷です。この渓谷を流れる川は「谷沢川」と呼ばれ、世田谷区上用賀六丁目・桜丘三丁目周辺を水源とする河川です。谷沢川は、世田谷区の用賀方面から中町にかけての上流部は武蔵野台地の傾斜方向と同じく、南東方向に緩やかに流れていき、大井町線等々力駅付近から急に南に流れを変え、渓谷を形づくり多摩川に注いでいます。かつては、この谷沢川の上流部の緩やかな流れは、呑川の支流であった九品仏川の上流でした。そこに段丘面の南に形成された谷沢川が九品仏川に向かって浸食を深め、やがて九品仏川の上流部と谷沢川がつながり、段丘を南北に横断する形になりました。このため谷沢川の水量が増し、浸食を深め等々力渓谷の地形が形成されました。現在は、川の水量を確保するため、区内を流れる仙川の浄化した水を、この谷沢川まで導水しています。




等々力渓谷について解説した案内板が立っています。「玉川全円耕地整理組合」については次のような歴史があるそうです。

玉川全円耕地整理とは、大正末期に計画された玉川地域の耕地整理事業で、将来玉川村が住宅の町になると見越した宅地造成工事のことです。現在の世田谷区の約4分の1(1,000町歩)を占める玉川村全域を対象としたものであり、わが国の都市計画史上でも特筆に価する事業です。大正十二年に発生した関東大震災によって東京の下町は焼け野原となり、人々は郊外に住まいを求めていました。大田区の田園調布(当時の調布村)では住宅地の造成が進められ、文化住宅が建ち並んで田園都市が出現していました。隣の玉川村でも盛んに土地が売買されましたが、宅地造成がなされていなかったために安値で買い叩かれていました。この状況を憂いた玉川村の村長の豊田正治と地元の有志たちは、何とかして村の将来のために土地を守り、道路や下水道を造って住みやすい街にしようと考えました。大正十二年1月、村会で村全域の耕地整理を全会一致で決定しました。当時の玉川村は、戸数が1,300戸・人口が7,000人の村でした。昭和二年に玉川全円耕地整理組合が結成され、村長の豊田氏自らが組合長となってこの大事業を始めました。耕地整理は組合が土地を買い上げ、整地後に所有者に売り渡すという方法で行われました。当然ながら反対派も多く、その運動は殺気だった中で進められたといいます。賛成・反対の声が渦巻く中で、昭和三年6月1日に事業が着工され、諏訪分区(東玉川)、尾山分区(尾山台)、奥沢西分区などの分区がまずは工事に着工しました。工事は第二次世界大戦で中断されたり、資金難に陥って村長以下役員などは自分の資財を投じたり、大井町線の敷設を促進したり、用賀地区の土地を帝国競馬協会(現日本中央競馬会)に売買交渉したりして切り抜け、昭和二十九年に用賀中区の耕地整理登記を終え、全面積1,100ヘクタール・30年に及んだ耕地整理は完了しました。

東京都指定名勝 等々力渓谷

等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約1キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約10メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ・コナラ・ヤマザクラ・イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ・キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学・地質学及び地形学上重要である。




等々力渓谷について解説したもうひとつの案内板が立っています。

東京都指定名勝 等々力渓谷

等々力渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1kmの東京23区内唯一の渓谷です。東急大井町線の等々力駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ・シラカシ・コナラ・ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状八号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々力渓谷3号横穴」があります。さらに、渓谷の南端には日本庭園書院や、桜の名所として知られる等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。

Tokyo Metropolitan Government-Designated Places of Scenic Beauty
Todoroki Valley

The Todoroki Valley was created as the Yazawa River eroded the southern tip of the Musashino Upland. With an extension of approximately one kilometer, it is the only valley in the 23 cities of Tokyo. Walk down the steps by the Golf-bashi Bridge over the Yazawa River, about a three minute walk south from Todoroki Station on the Tokyu Oimachi Line, and there is a walking trail on the riverside heading downstream. The valley is cool even during the summer under the luxuriant growth of Japanese zelkova, bamboo-leaf oak, konara oak, Japanese mountain cherry, and other trees, and the sound of the river and the wild songbirds, while water bubbles up from springs everywhere. Nature embraces the visitor, making it hard to believe that such a place exists within the metropolis. Further down the walking trail, past the Tamazawa Bridge on Kampachi-dori Ave., the Todoroki Valley Tunnel tomb No.3 appears, a tunnel tomb built between the late Kofun period and the Nara period (about seventh century). Further on, at the southern tip of the valley are the Japanese garden and shoin-style drawing room building, as well as the Todoroki Fudoson Temple, which is renowned for its cherry blossoms. In the valley below the Fudoson is the Fudo-no-Taki Falls, where people have been coming from everywhere throughout history and still do today to stand beneath the waterfall for ascetic training. According to legend, the name Todoroki is derived from the roar, or todoroita, of the ringing sound of the Fudo-no-Taki Falls in the valley.




ゴルフ橋の袂から等々力渓谷に下ります。



ゴルフ橋の嬌名の由来は、かってこの辺りにあったゴルフ場の中に架けられた通行用の橋だったことに因みます。

ゴルフ橋

東急大井町線の等々力駅近く、等々力渓谷入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれています。これは、昭和の初め頃、旧下野毛に東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったことに由来しています。現在の橋は昭和三十六年(1961年)に架けられたアーチ鋼橋で、それ以前は木橋でした。

GOLF-BASHI BRIDGE

The bridge at the entrance near Todoroki Station on the Tokyu Oimachi Line is called the Golf-bashi Bridge. This name has its origins in a spacious-golf course covering approximately eight hectares developed in the early Showa era by Tokyu Corporation, the railroad company, in what was then Shimonoge. The current bridge is a steel arch bridge. built in 1961 to replace the original wooden bridge.




渓谷内には矢沢川が流れ、遊歩道が整備されています。鴨も休んでいますね。



この日は台風一過で遊歩道は倒木で塞がれていました。通行禁止も何のその、皆さん倒木の下をかいくぐって通り抜けています。



渓谷の中ほどに、崖面に掘られた横穴があります。古代の墳墓だそうです。

東京都指定史跡 等々力渓谷3号横穴

渓谷の東側崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見されています。中でも昭和四十八年(1973年)に発見された3号横穴は、典型的な横穴墓の形態を留めていて、埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存処置が講じられました。横穴墓は奥行き約13mで、内部は徳利を半分に割ったような形をしています。玄室(遺体の安置場所)と羨道からなる墓室と、これに至る墓道に分かれており、この間を凝灰岩で組まれた羨門で区画しています。横穴墓からは、須恵器の平瓶・横瓶・刀子・金銅製耳環、などが出土しました。本横穴群の被葬者たちは、いずれも副葬品が豊富なことから、後の武蔵国荏原郡の等々力周辺を治めていた有力者であると推定されています。

Tokyo Metropolitan Government Designated Historic Site
TODOROKI VALLEY TUNNEL TOMB No.3

Six or more tunnel tombs on the eastern scarp of the Valley have been discovered that were built between the late Kofun (ancient tombs) period and the Nara period (about seventh century). Measures have been taken to preserve Tunnel tomb No.3 in particular, discovered in 1973, since it retained the prototypical form of the tunnel tomb and the corpse and burial accessories were in good condition. The tunnel tomb is approximately 13 meters-deep, with an interior shaped like a tokkuri sake pitcher split in half. It is divided by a gateway constructed with tuff into a coffin chamber consisting of a burial chamber (where the bodies of the deceased rest) and passage and an approach leading to it. Sueki ware, both hirabe bottles and yokobe bottles, small knives, glit bronze earrings, etc. have been excavated from the tunnel tomb. It is presumed from the copious burial accessories that the people entombed in this tunnel group were prominent figures who ruled over the neighborhood of what later became Todoroki in Ebara District, Musashi Province.




墓室の内部を描いた案内板もあります。入口は小さいですけど、奥に行くと瓢箪型に広くなっているんですね。盗掘を防ぐためでしょうか。

都史跡 等々力渓谷3号横穴

等々力渓谷の周辺では野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御嶽山、狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代(7〜8世紀)にかけて横穴群が造られるようになります。等々力渓谷横穴群は野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っています。横穴は谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、玄室と羨道で構成されています。泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨とともに1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていました。その前面には斜面を切り通して造られた墓道が延びています。ここには土器が供えられたり、火を焚いた跡があり、墓前祭が行なわれたことがわかります。




崖の中程から水が落ちていますが、これが不動の滝なのでしょうか?轟音を響かせた滝とは思えないんですけど。



渓谷の終端には日本庭園があります。

日本庭園・書院

等々力渓谷谷沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に、昭和三十六年(1961年)に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園があります。池、流れ、石畳の階段園路などがある庭は昭和四十八年(1973年)に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されています。園内には陽当たりのよい芝生広場があり、併せて、渓谷散歩の休憩にご利用いただけます。また、庭園周辺には、竹林やみかん畑があり、子どもたちによるたけのこ掘り体験やみかん狩り体験が、地域の等々力渓谷保存会によって行われています。日本庭園・書院は夜間、年末年始は休園です。

JAPANESE GARDEN AND SHOIN-STYLE DRAWING ROOM BUILDING

Downstream along the Yazawa River in the Todoroki Valley, on the other side of the river from the Todoroki Fudoson Temple, a hall dedicated to Aryacalanatha, is the shoin-style drawing room building built in 1961 and the Japanese garden that surrounds, it. The garden has a pond, flowing water, and stone-paved paths, and retains the original landscaped created in 1973 by a renowned garden designer. It has a well sunlit lawn, which can also be used to take a rest during a walk along the valley. There are bamboo groves and orange orchards around the garden, where the local Todoroki Valley Preservation Society conducts bamboo shoot digging and picking orange-picking field trips for children. The Japanese garden and the shoin-style drawing room building are closed at night and during the Year-end and New Year holidays.




等々力渓谷を出て善養寺に向かうつもりでしたが、道に迷ってウロウロしているうちに、玉川野毛町公園に着いてしまいました。玉川野毛町公園には、見所ポイントEの「野毛大塚古墳」があります。そういえば、等々力渓谷に野毛大塚古墳の案内板がありましたね。

東京都指定史跡 野毛大塚古墳

等々力渓谷近くの玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳は、現在の大田区から世田谷区にかけて展開する荏原台古墳群のひとつ、野毛古墳群の中心となる5世紀初頭に築かれた大形の帆立貝形古墳です。帆立貝形古墳とは、前方後円墳の前方部が小さくなり、上から見たときに帆立貝のような形に見える古墳を言います。古墳の規模は、周濠を含め全長104m、墳丘長82m、後円部直径68m、高さ10m、前方部幅28mで、前方部の脇に造出部がひとつあります。墳丘上からは、4基の埋葬施設が確認され、多くの武具等が発見されました。前方部と造出部は削られていましたが、現在は復元整備されています。古墳の主は、出土した副葬品などから、当時の政治の頂点であった畿内王権と直接的な交渉があったことがうかがえ、南武蔵(現在の東京都と神奈川県の川崎市、横浜市の一部)の小豪族たちの上に立つ大首長であったと考えられています。等々力渓谷とその周辺には、等々力渓谷3号横穴、この野毛大塚古墳、御岳山古墳(等々力1−18)、狐塚古墳(尾山台2−17)、などの遺跡が国分寺崖線沿いに分布しています。

Tokyo Metropolitan Government-Designated Historic Site
NOGE OTSUKA ANCIENT TOMB

The Noge Otsuka Ancient Tomb, located in the Tamagawanogemachi Park near the Todoroki Valley, is a large, scallop shaped ancient tomb built at the beginning of the fifth century. It is the main tomb in the Noge Ancient Tomb Group, which in turn is part of the Ebaradai Ancient Tomb Group spread over what are now Ota and Setagaya Cities. The scallop shaped ancient tomb developed from the large keyhole-shaped tomb, with the front part becoming smaller to give it a scallop shell look when viewed from above. The tomb 104 meters long including the surrounding moat. The grave mound is 82 meters long, and has a rounded rear 68 meters in diameter and 10 meters high, and a front part 28 meters wide with one extrusion to its side. Four burial units have been confirmed in the burial mound, where much battle gear, etc. has also been discovered. The front part and extrusion had been scraped away, but have since been restored to their original state. The burial accessories, etc. indicate that the lord of the tomb had direct exchanges with the kingship in the Kinai region, which stood at the top of the political hierarchy at the time. It is believed that he was a great chieftain who presided over the small baronies in South Musashi (part of what is now Tokyo Metropolitan and the cities of Kawasaki and Yokohama in Kanagawa Prefecture). The Todoroki Valley Tunnel Tomb No.3, this Noge Otsuka Ancient Tomb, the Mitakesan Ancient Tomb (Todoroki 1-18), the Kitsunezuka Ancient Tomb (Oyamadai 2-17), and other historical sites are distributed along the Kokubunji Scarp in the Todoroki Valley and its neighborhood.




野毛大塚古墳の前に石碑と案内板が立っています。

東京都指定史跡 野毛大塚古墳

野毛大塚古墳は全長82メートル、後円部の高さ10メートルの帆立貝式の前方後円墳で、前方部に近接して小さな造出部が付設されている。噴丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は104メートルである。三段に構築された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされている。後円部頂上には四基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、北西側に二基の箱形木棺が納められている。割竹形木棺からは甲冑・刀剣・鉄鏃などの武器・武具類、鉄鎌・銅鏡・銅釧・玉類・石製模造品・竪櫛などが、箱式石棺からは刀剣・鉄鏃・玉類・石製模造品などが、二基の箱形木棺からは、刀剣・鉄鏃・鉄鎌・石製模造品・玉類などがそれぞれ出土している。野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する五世紀前半に築造された古墳である。出土した多量の武器・武具類や石製模造品は、この古墳が南武蔵の有力な首長墓であることを示している。

Historic site
Noge Otsuka Kofun

The Noge Otsuka Kofun is a large-sized scallop-shaped tomb mound and a central tomb mound in the Noge group of tomb mounds. The tomb mound together with a circumferential groove is 104 m long. A small rectangular projection portion is attached adjacent to the rectangular mound portion, and the circumferential groove in a horseshoe shape is provided on a circumference of the mound portion. The mound portion shaped in three levels is lined with stones from river banks, and circular clay figures are arranged in a circular shape on each level. At the top of the circular portion, there are 4 burial facilities, of which one wooden coffin in a shape of split bamboo covered with clay lies in the center, while one box-type stone coffin on the southeastern side, as well as 2 box-shaped wooden coffins on the northwestern side. Excavated relics from the wooden coffin in a shape of split bamboo include weapons and panoply like armors, swords and iron arrow heads, as well as iron sickles, bronze mirrors, bronze armlets, beads, stone-made imitations and long combs; those from the box-type stone coffin are among all swords, iron arrow heads, beads and stone-made imitations; the ones from the 2 box-shaped wooden coffins, swords, iron arrow heads, iron sickles, stone-made imitations, beads and others are found. The Noge Otsuka Kofun is a tomb mound representative of the Middle Kofun Culture of the Kanto region, and it was built at the beginning of the 5th century. Abundant excavated relics which were burial accessories like weapons and panoply and stone-made imitations, and demonstrate that the tomb mound was a tomb of a powerful chieftain of the south Musashi area.




野毛大塚古墳は小高い丘になっていて、登るための階段も設置されています。



高さ10mほどといいますから、古墳の上からの眺めは格別です。



依然として善養寺が見つからず、先に見所ポイントCの六所神社に着いてしまいました。巨大な鳥居に出迎えられますが、柱が斜めになっていますね。組み立てが難しかったのでは?六所神社は旧上野毛村・旧下野毛村の鎮守で、かつては上野毛と下野毛の村境に鎮座し「六所明神」と称されていましたが、明治になって現在地に遷座しました。創建は元和年間(1615年〜1624年)と伝えられています。社伝によりますと、多摩川が大洪水した際に川上にある府中の方から祠(御神体)が流されてきて、此の地に漂着しました。村人は何の祠か分かりませんでしたが、府中の方から流れてきたことから、当時武蔵国総社「大國魂神社」が「六所宮」と称されていたことに因んで「六所明神」として崇め祀り、村の鎮守として創建したといわれています。ちなみに町名の野毛(ノゲ)は崖を意味する言葉で、その言葉通り国分寺崖線上に町域が広がっています。世田谷区の中でも特にこの辺りは崖の傾斜がきつく、坂も多いことから、野毛の町名は「名は体を表す」といえるでしょう。



関東大震災後に建築ラッシュで砂利の需要が高まり、多摩川の砂利採堀が盛んに行われるようになりました。野毛でも一時は農業をしのぐほど盛んに行われ、東北の方から出稼ぎに来る人も多かったそうです。境内に「砂利舟の詩」という石碑が建っていて、その横に砂利舟の模型が置かれています。「多摩川ロマン 寳舟」なんていう演歌にでもなりそう。

砂利舟の詩

身を切るような冬の川
腰までつかる砂利ッ掘り
鋤簾をふるう玉の汗
凍る肌着もとけゆきぬ
舟いっぱいの砂利の山
浅瀬は川底みをかきて
引き潮なれ風帆をあげて
六郷原河岸をめざしゆく
上げ潮東風帆に受けて
野毛の岸辺に帰りきぬ
あゝ一寸二分の玉の砂利
都の礎築きたり
夢を運びし帆かけ舟
多摩川ロマンの寳舟




ようやっと見所ポイントBの「善養寺」に辿り着きました。善養寺は玉川八十八箇所32番及び玉川二十一箇所14番の札所で、かっては六所神社の別当寺を務めていました。



善養寺の本堂前には、樹高22.6メートル・幹周り5.3メートル・推定樹齢700年から800年以上といわれるカヤの巨木が聳えています。このカヤの木については伝承が残っています。

この地を治めていた豪族の娘が多摩川沿いを通りかかった際、沢蟹の親子と出会った。親蟹は「今夜、川が氾濫してこのままでは私たちは流されてしまいます。どうか私たちを逃がしてはいただけませんか」と娘に頼み込んだ。娘はその頼みを聞き入れ、沢蟹の親子を高台へと逃がしてやった。はたしてその夜、大雨が降って親蟹の言葉の通りに多摩川は氾濫した。その後、沢蟹の親子は娘のもとを訪れて、せめてものお礼にと一粒のカヤの実を置いて行った。娘が高台にその実を蒔くと、やがて立派なカヤの木へと成長した。このカヤの木は多くの実を隔年に結び、多摩川の氾濫に苦しむ近在の農民たちを助けるようになったということです。

カヤの木の脇に案内板が立っています。

東京都指定天然記念物 善養寺のカヤ

本堂前に立っているカヤは、高さ約18m、幹囲約6mの雌株で、稲城市の「高勝寺のカヤ」に次ぐ規模です。立地から、南からの風を受けることが多かったため、枝が北へ大きく張り出 しています。樹冠下部の枝葉がしだれ、見ごたえがあります。

Plant Zenyou-ji no Kaya

This Kaya standing in front of the main hall of the temple is a female tree with a height of about 18m and about 6m trunk circumference. This is the second largest Kaya in Tokyo after the one at Kousyo-ji in Inagi city. As the wind comes mainly from south the branches extend widely to north. It is worth to see how the branches and leaves on the lower part of the crown are hanging.




南側から眺めたカヤの木は左右対称に枝を広げていますが、横から眺めると北側に傾いているように見えます。崖の上の吹きさらしの場所に植わっていますので、長年の風の影響で枝が北側に曲がっていったのでしょう。



多摩川の河川敷を歩きます。夏の終わりですが、富士山がくっきりと見えます。周囲に遮る建物がないので、丹沢の山並みの上に全容が姿を現しています。



見所ポイントDの「二子玉川公園」に着きました。園内に桜の巨木が植わっています。二子玉川公園は自動車学校の跡地に造られたんですね。

サクラにまつわるお話

昭和四十年代中頃、世田谷区の小学校では児童の入学記念にサクラの苗木を配布していました。地元にお住まいの若林様は、ご子息が持ち帰った苗木を庭に植え、大切に育て始めます。やがてサクラは大きく成長したため、若林様は移植を検討することにしました。そこで移植先を探したところ、近隣の専門学校の協力が得られ、学校の校庭に移植することになりました。移植後、サクラはこの専門学校の校庭で、成長していきます。しかしやがて、校舎改修に伴い、サクラを同じ場所で残すことができなくなってしまいました。そのため、移植先を探したところ、近隣の自動車学校の協力を得ることができ、学校の敷地内へ移植することになりました。移植後サクラは長年にわたり、自動車学校ですくすく成長していきました。平成二十五年、自動車学校の地は、現在の二子玉川公園となって生まれ変わりました。公園になる際も、このサクラは同じ場所で残すことができました。サクラを残したいという想いが繋がり、2回の移植と保全が実現し、現在もサクラはこの大地に根差しています。今では二子玉川公園の貴重なシンボルツリーとなっています。




園内には日本庭園も設けられています。

帰真園

この庭園は、日本古来の優れた空間文化を人々に伝えていくことを主題に、平成二十五年(2013年)に作庭された、世田谷区立初の回遊式日本庭園です。帰真園という名称には、世田谷本来の自然に回帰するという意味が含まれており、約5,800uの庭園は、多摩川の源流から本流まで、そして国分寺崖線のみどり豊かな丘陵と武蔵野の風景を表現した空間(縮景)となっています。庭園内は、誰もが快適に散策を楽しめるようユニバーサルデザインを基調とした施設づくりを随所に行っております。散策の途中にしばしたたずみ、視点を変えながら、四季や時間により変化する風景をお楽しみください。




帰真園の中には、登録有形文化財である「旧清水家住宅書院」が復元されています。

世田谷区登録有形文化財(建造物)
旧清水家住宅書院 一棟

この書院は明治四十三年(1910年)から翌年頃、中根岸(現在の台東区根岸三丁目あたり)の清水家屋敷内に離れとして建築されたものと伝わっています。大正八年(1919年)には、同家の玉川の屋敷(現在の瀬田四丁目八番)に主屋と共に移築されました。そして二子玉川公園の建設とともに平成二十五年(2013年)三月、再度移築復元しました。十一畳の書院の間と長五畳の次の間に、鉤の手に縁側がめぐる小規模な間取りですが、吟味された材料を使い、当時の職人の確かな技術に裏づけされた意匠でまとめられています。明治末から昭和初期にかけて、国分寺崖線に沿って多く存在した別邸の流れをくむもので、地域の歴史を伝え、明治期の近代和風建築として区内では貴重な建造物です。




書院の前には回遊式日本庭園が広がり、池越しには二子多摩川の超高層マンション群が映えています。窓から富士山や多摩川が望め、公園も近くなら住んでいる人は言うことはありませんね。



二子多摩川駅に隣接する「二子玉川ライズ」の中に、二子玉川の歴史を写真と共に解説した「二子玉川の歴史」と題したパネルが展示されています。六所神社でも見かけましたが、二子玉川は砂利の採掘で発展したんですね。

明治二十二年(1889年)市制・町村制施行、玉川村誕生

多摩川の砂利

多摩川流域での砂利採取は、江戸時代から行われており、砂利を売って幕府への運上金としていたことなどが記録に残っています。本格化したのは明治時代半ばからで、川砂利を金ふるいで選別して、東京方面へ運搬しました。また、下流域で採取された砂利の移送に木造の帆かけの砂利船が使われました。大正時代になるとコンクリートの骨材としての利用が盛んになります。特に関東大震災後、復興需要により川砂利の生産量は急増しました。

明治四十年(1907年)玉川電気鉄道開通

玉川電気鉄道

明治四十年(1907年)には、砂利を青山方面へ運ぶため玉川電車が作られました。そのため玉川電車は「砂利電」というあだ名で親しまれました。開業当時は客車と砂利運搬貨物車を 連結して運行していました。




砂利採取からリゾート地への変身が始まりました。

明治四十二年(1909年)玉川(第一)遊園地開園

玉川第一遊園地

明治四十二年(1909年)、玉川神社下に1万坪程度の規模をもつ玉川遊園地が造営されました。この遊園地は、玉川園の川遊びとセットになった遊楽を提供していました。

明治四十三年頃(1910年)たまがわ花火大会開催

玉川八景

二子玉川は江戸時代より風光明媚な土地として知られ、大名の別荘的役割の下屋敷などが立ち並んでいました。明治に入り玉川電気鉄道が開通し交通の便が良くなると、料亭や割烹店が集まり、多摩川の自然と鮎で舟遊びや食事を楽しむリゾート地として栄えるようになりました。




リゾート開発から宅地開発に変身です。

大正十四年(1925年)二子橋完成

二子の渡し

二子橋が完成するまで、人々は二子の渡しから多摩川を渡りました。人を渡す舟だけでなく、馬や荷物を渡す舟もありました。多摩川の水かさによっては、人々は両岸で何日も足止めされる場合も少なくなかったため、渡し場の周りには茶屋や宿屋などが集まり、二子・溝口宿は街道沿いの宿場町として発展しました。

昭和二年(1927年)玉電溝ノ口線玉川駅〜溝ノ口駅開通

玉川電気鉄道

砂利輸送から旅客輸送に軸足を移した玉川電気鉄道は、東京府世田谷区に住宅地を開発し、沿線住民を電車利用者とする施策をとりました。溝ノ口線開業の際には、溝ノ口駅付近・久地近辺の丘陵部を開発しました。また、旅客誘致の施策の一環として、明治期から景勝地であった玉川・瀬田地区に、多摩川の川魚を出す料亭や演芸場を擁する「玉川遊園地」を開設したほか、「玉川第二遊園地」(のちの「二子玉川園」)や「玉川プール」を瀬田河原に開設しました。




玉電によって娯楽施設が開業しました。

昭和二十九年(1954年)二子玉川園開園

近代的遊園地(玉川第二遊園地→二子玉川園→ナムコワンダーエッグ)

玉電は、玉川遊園地開園後、大正十一年(1922年)に多摩川土手に玉川第二遊園地を開園します。またその近くには日本初の公認プールとなる玉川プールも造営します。この第二遊園地は、後によみうり遊園、二子玉川園へと発展していきます。昭和二十九年(1954年)にできた二子玉川園は約7.4haの近代遊園地で、マシン遊具・催物館・映画館・露店などもあり子供たちに人気を博しました。昭和六十年(1985年)に閉鎖後は、全体が再開発ゾーンとなり平成四年に期間限定の遊園地、「ナムコワンダーエッグ」が開園しました。




昭和四十四年(1969年)に、ニコタママダム御用達の玉川高島屋S・Cが開業しました。「S・C」って何でしょうか? これはショッピング・センターという意味です。二子玉川は東京の郊外に位置することから、1969年に開店した玉川高島屋は日本初の郊外型店舗で、現在日本各地にあるショッピング・センターやショッピング・モールなどの名称で呼ばれている施設の先駆けといえる店舗街です。ところで、二子玉川園は昭和六十年(1985年)に閉園となり、駅名も「二子多摩川園駅」から「二子多摩川駅」に改称されました。気が付かない人も多いとは思いますが。

昭和四十四年(1969年)玉川高島屋S・Cオープン

玉川高島屋S・C

昭和四十四年(1969年)、日本初の郊外デパートとして玉川島屋S・Cが誕生しました。自然の変化が豊かなアーバンリゾート的場所に、駅に隣接したかたちでつくられた島屋S・Cには非常に大きな注目が集まりました。この存在によって二子玉川は遊楽地だけではなく、多くの人たちがショッピングに訪れる商業地へと変貌を遂げたのです。現在もその人気は高く、利用客は毎年増加しています。




平成二十三年(2011年)に二子玉川ライズが街開きし、平成二十七年(2015年)に二子玉川市街地再開発事業は完了しました。



ゴール地点の二子玉川駅に着きました。昔はダサイ雰囲気の駅だったのですが、今は見違えるようにお洒落になっています。



ということで、世田谷区の2番目の「玉川地域コース」を歩き終えました。等々力渓谷は見所が多く、まだまだ紹介し尽くせません。次は烏山緑道を歩きます。北沢川緑道とはまた違った風景が楽しめそうです。




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