- B世田谷・砧・烏山地域コース
- コース 踏破記
- 今日は世田谷区の「世田谷・砧・烏山地域コース」を歩きます。京王線の千歳烏山駅をスタート地点として、徳冨蘆花が暮らした恒春園・手入れの行き届いた植栽が美しい烏山川緑道・井伊家の菩提寺である豪徳寺・奥州吉良氏が代々居を構えた世田谷城など世田谷の歴史と文化を巡ります。
「世田谷・砧・烏山地域コース」の歩行距離は約9.6km(約13,710歩)、歩行時間は約144分、消費カロリーは約432kcalです。
スタート地点:京王線千歳烏山駅南口
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- @烏山神社
- 天文元年(1736年)創建
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- A世田谷文学館
- 区にゆかりのある作家の原稿・初版本・書簡・遺品等を展示するコレクション展に加え、年数回企画展を開催します。また、文学サロンでは講演会・コンサート・朗読会・映画上映を行うなど、生きた文学を体験できる場となっています。
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- B地域風景資産・粕谷の竹林
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- C都立蘆花恒春園
- 蘆花恒春園は昭和十三年に開園し、明治・大正期の文豪、徳冨蘆花と愛子婦人が後半生を過ごした住まいと庭を公園にしたものです。武蔵野の面影が色濃く残っていて心が和みます。
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- D千歳温水プール
- 清掃工場の熱を利用した25メートル温水プールは天井が高く、隣接する公園の緑を見ながら爽やかに泳げます。温水プール・ウォータースライダー・トレーニングルームのほか、各種教室を開催しており、一年を通じ、どなたでも楽しめます。
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- E希望丘公園
- 希望丘公園は昭和五十二年に開園した洋風づくりの公園です。公園内には、球戯広場・壁泉広場のほか、時計台やアーチ橋複合遊具などの施設があります。
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- F地域風景資産
- 季節の野草に出会う小径
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- G烏山川緑道
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- H世田谷八幡宮
- 源義家が後三年の役の帰途、氏神である宇佐八幡宮を勧請して祀ったのが始まりです。後に、世田谷城主の吉良頼康が社殿を再興し、境内で奉納相撲が行われるようになりました。
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- I豪徳寺
- 世田谷領主・井伊家の江戸の菩提寺です。境内には都指定史跡の井伊直弼の墓所があり、仏殿横の招福殿では招き猫が右手をあげて福を呼んでいます。
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- J世田谷城址公園
- 昭和十五年に開園した世田谷区唯一の「歴史公園」で「東京都指定文化財」にもなっています。昔の面影を残す土塁や丘・谷があり、樹木に覆われた自然豊かな公園で、世田谷百景にも選ばれています。
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- K烏山川緑道
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- L松蔭神社
- 幕末の思想家・吉田松陰を祀る神社です。山縣有朋や伊藤博文などが奉納した32基の石灯籠の他、松蔭の墓所・松蔭坐像・松下村塾(模造)があります。隣接する若林公園も毛利家の屋敷跡です。
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- M世田谷文化生活情報センター(キャロットタワー内)
- 「生活工房」・「世田谷パブリックシアター」・「音楽事業部」の3部門から構成された施設で、区民の自主的な地域活動の支援とともに、優れた文化・芸術を区民に提供することをめざしています。また、劇場やセミナールーム等の施設の貸し出しも行っています。
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ゴール地点:東急田園都市線三軒茶屋中央改札
スタート地点の京王線千歳烏山駅南口から歩き始めます。
駅南口の商店街を抜けて芦花公園駅方面に歩く途中に、見所ポイント@の「烏山神社」が鎮座しています。江戸時代末期にはそれまで烏山村の鎮守社だったと伝えられている御嶽神社を遷宮・合祀し、烏山村はもとより近隣の村々の鎮守として広く信仰を集めてきました。昭和七年に社名を白山神社から白山御嶽神社へ改称し、昭和三十七年には烏山町内の天神社・神明社・杉田稲荷社を合祀して烏山神社と改称しました。境内に案内板が立っています。
烏山神社
祭神は白山比淘蜷_をはじめとする五柱。創立の由来はあきらかではないが境内の手水鉢には元文元年(1736年)の紀年がある。白山御嶽神社ととなえていたが、昭和三十七年町内の天神社・神明社・稲荷社を合祀し、鳥山神社と改称したものである。このあたりには泉沢寺という寺があったが、天文年中(1532年〜1555年)に橘樹郡(現在の川崎市内)に移され字名として残っている。
本殿正面に建つ鳥居の右手前には古い扁額が置かれています。鳥居には剥ぎ取られた跡が残っていますので、落下の危険性を察知して鳥居から外されて地上に置かれたものと思われます。社名の周囲には龍が彫られていますね。
境内には一対の庚申塔に挟まれて石碑が建っています。烏山神社の前身は城砦も兼ねた泉択寺でした。吉良氏ゆかりの城砦と伝えられていますが、泉択寺は後に川崎へ移り、その跡地は後北条氏の家臣高橋氏高が守ったといわれています。鳥居脇の隅には高橋氏高が勧請した十六番神のお堂が建っていましたが、昭和六十年に都市計画のために撤去されました。その経緯を後世に残すためにこの高橋番神堂撤去記念碑が建立されたようです。
春日神社高橋番神堂撤去記念碑
高橋一族は戦国時代に伊豆雲見城より当地に移り住み、一族の守護神として三十番神様を南烏山二丁目274番地に勧請す。爾来星霜を重ねる事四百年今度の都市計画整理地に当り、昭和六十年四月十七日に諸神それぞれの御本宮に御帰りを願う祭を修して後、御堂を撤去し当烏山神社境内に記念の詞(シ:文章や言葉という意味)を記す。
千歳通りに面して、見所ポイントAの「世田谷文学館」があります。世田谷文学館は1995年に東京23区初の近代総合文学館として開館しました。世田谷区には、柳田国男・北原白秋・平塚らいてう・横溝正史など、この地を愛して住み、数々の名作を生み出した文豪たちが多くいました。それらの作家の原稿・初版本、書簡・遺品等を展示するコレクション展では、地域やジャンルごとに作家たちの直筆原稿など数々のゆかりの品を見ることができます。常設展のもうひとつの目玉は自動人形からくリ箱作家・ムットーニによるからくり劇場です。萩原朔太郎の「猫町」など、箱の中で音楽や朗読とともに繰り広げられるファンタジックな世界に心を奪われます。常設展に加え、年に数回は作家の講演会や朗読会・文学館スタッフによる企画展も開催されています。1500冊もある絵本コーナーやライブラリーも充実しています。
世田谷文学館の隣に「芦花翆風邸」という古風な門とマンション風の建物が違和感を感じる施設があります。
敷地内には煉瓦造りの蔵も建っています。芦花翆風邸は、旧久保邸跡に建てられた高級老人介護施設とのことです。旧久保邸は昭和九年に建てられ、美白液「ウテナ」を雑誌「主婦の友」を媒体として通信販売を開始したウテナ化粧料本舗の創設者の子息である久保徳氏が居住していました。その邸宅の面影を残した造りになっているということです。門や塀の雰囲気から、徳冨蘆花が居住した歴史的建造物かと思いましたよ。
ちなみに、「蘆花・芦花」には明治の文豪の「徳冨蘆花」と、本来の「 蘆(あし)の花、蘆の穂わた」の意味があります。「芦花小学校・芦花中学校」の校名は、近くにある芦花公園に因んでいるものと思われます。更に言えば、「芦花公園」の名称は、明治四十年(1907年)に徳冨蘆花が青山から千歳村粕谷に引っ越してきて、徳冨蘆花の没後に遺族から東京市へ蘆花邸の寄付の申し込みがあり、東京市が周辺の土地も含めて芦花公園と命名したのです。
この辺りには、見所ポイントBの「地域風景資産・粕谷の竹林」が残っています。
せたがや百景 40 粕谷の竹林(Bamboo Thicket in Kasuya)
世田谷からは竹林も姿を消しつつありますが、粕谷あたりには、はっとするほど見事な竹林がまだまだ残っています。風が渡るときなどは、ほんとうに見事です。春、垣ごしに頭を出している竹の子を見つけるのも楽しく、残して欲しい風景です。
自邸の竹林を公開している民家もあります。
地域風景資産 粕谷本橋家の竹林と野草苑
竹林は江戸時代にこの地域の近郊農業として広まった筍栽培の名残である。所有者の自邸の庭園は「もとはし野草苑」として公開されている。
それにしても見事な竹林です。春先には筍が沢山採れることでしょう。
芦花公園にやって来ました。緑に覆われた園内にも竹林が残っています。芦花公園は、明治の文豪徳冨蘆花の住まいが没後に寄贈され、公園として整備されたものです。武蔵野の自然が残る園内は遊歩道の道幅も広く、ベンチや東屋も設置されています。
せたがや百景 39 芦花公園と粕谷八幡一帯
(Roka Koshun-en Park and Kasuya Hachiman Shrine)
芦花恒春園は、文豪徳冨蘆花が明治四十年から昭和三年の死去までの20年を、愛子夫人とともに過ごしたところで、園内には蘆花記念館と当時のままの書院、母屋が残されています。近くの粕谷八幡に蘆花ゆかりの「別れの杉」の二代目が植えられています。
見所ポイントCの「都立蘆花恒春園」は、徳冨蘆花が住んでいた邸宅「恒春園」跡を整備して公開・保存した公園です。かやぶき屋根の旧宅と蘆花記念館が無料で見学できます。
東京都立蘆花恒春園
蘆花、徳冨健次郎がこの武蔵野の粕谷の里に移り住んだのは明治四十年2月27日、彼が40歳の春であった。以後彼は、雑木林にかこまれた自然の中で田園生活を楽しみ、数々の名著を残し、昭和二年9月18日療養先の伊香保の地で永遠の眠りについた。蘆花の遺骸は、邸前のクヌギ林内に埋葬され、昭和十二年6月14日愛子夫人より遺邸のすべてが当時の東京市に公園として寄付された。市は文豪の生活を偲ぶ記念の地として、蘆花恒春園と名付け一般に公開してきた。昭和六十一年3月10日邸地を当時の姿に復元・保存し永久に子孫に伝えていくために、「東京都指定史跡」に指定され、現在に至っている。
Roka koushun-en Gardens
Roka Tokutomi, born Kenjiro Tokutomi, moved to this location in the town of Kasuya in Musashino (now Setagaya Ward) on February 27,1907 at the age of forty. While enjoying the serenity of rural life here in what was once the heart of the forest, he produced many great works of literature. On September 18,1927, he passed away in Ikaho of Gunma Prefecture where he had been receiving medical treatment. His ashes now rest in this estate under the grove of kunugi trees. His wife Aiko donated the estate to the City of Tokyo on June 14,1937, with the intention of creating public space. This garden was named "Roka Koshun-en" in memory of the great writer and
has since then been open to the public. On March 10,1986, this property was restored to its original state and was designated as a historical site by the Metropolitan Government.
入口の奥には石碑と案内板が立っています。
東京都指定史跡
徳冨蘆花旧宅
徳冨蘆花は、肥後国葦北郡水俣村手永(*)(現在の熊本県水俣市浜二の六の五)に代々惣庄屋を勤めた徳冨家の三男として明治元年(1868年)十月二十五日(旧暦)に生まれた。名は健次郎。兄は猪一郎(蘇峰)である。明治三十一年から翌年にかけて「国民新聞」に連載した長編小説「不如帰」が明治文学の中でも有数のベストセラーとなった。明治四十年(1907年)二月二十七日青山高樹町の借家から、北多摩郡千歳村字粕谷のこの地に転居した。トルストイの示唆を受け、自ら「美的百姓」と称して晴耕雨読の生活を送り、大正二年(1913年)六年間の生活記録を「みみずのたはこと」として出版、大正七年(1918年)には自宅を恒春園と名付けた。昭和二年(1927年)七月伊香保に病気療養のため転地するが、同年九月十八日駆けつけた兄蘇峰と会見したその夜に満五十八歳で死去した。墓所は旧宅の東側の雑木林の中にあり、墓碑銘は兄蘇峰の筆による。昭和十二年(1937年)蘆花没後十周年に際し愛子夫人から建物とその敷地及び蘆花の遺品のすべてが当時の東京市に寄付され、翌年二月二十七日「東京市蘆花恒春園」として開園した。この旧宅は、母屋・梅花書屋・秋水書院の三棟の茅葺き家屋からなり、これらは渡り廊下によって連結されている。「美的百姓」として生きた蘆花の二十年間にわたる文筆活動の拠点であり、主要な建物は旧態をよくとどめている。
- 注記(*):手永
- 手永(てなが)制は、江戸時代に大名の細川家(豊前小倉藩主、のち肥後熊本藩主)がその領地に導入した行政制度のことです。領内を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて村を束ね、責任者として惣庄屋を置きました。江戸時代初期に細川家が小倉藩領に創設し、寛永九年(1632年)に熊本に移封されると熊本藩領にも導入されました。小倉藩の手永制度は細川家に代わった小笠原家によって引き継がれ、以後両藩で廃藩置県まで行われました。
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Historic site
Tokutomi Roka Kyu-taku
Tokutomi Roka was born on October 25, 1868 (of old calendar) in Chozu, Minamata village, Ashikita District, Higo Province (today's Hama, Minamata City, Kumamoto Pref.), as a third son of Tokutomi clan, who functioned generation by generation as administrative heads for a unit comprising several local communities. He was given a name Kenjiro. His novel Cockoo, which first appeared as a serial in a newspaper Kokumin Shinbun from 1898 to the year following, was among the bestsellers in the literature from the Meiji Era. He was relocated on February 27, 1907 from a leased house at Takagicho in Aoyama to the area located at Azakasuya, Chitose village, Kitatama District. He was inspired by the great Russian literary figure Leo Tolstoy, and led a simple life of reading and farming, under a self-invented designation of aesthetic farmer; he then published his own life document of 6 years under the title of Idle Words of an Earthworm, in 1913. The author named his own residence Koshun-en in 1918. Roka then moved to Ikaho, Gunma Pref. for recuperation in July 1927, and on September 18 of the same year, he met his elder brother lichiro (Soho) who visited his ailing brother and subsequently the famous author died at night of the same
day, at the age of 58. His tomb is located in miscellaneous trees on the east side of his former residence; the epigraph on his tomb's stele is a work of his elder brother Soho. In 1937, on an occasion of 10th anniversary of Roka's death, his wife Aiko donated the buildings including the premises, as well as all of his belongings to Tokyo City as was called at that time; the premises as a whole were arranged as a park, which opened on February 27 of the following year under a designation of Tokyo City Roka Koshun-en Park. His former residence under this section consists of 3 thatched residential buildings: the main building, the Plum blossom study and the Shusui shoin used as study and sleeping room, which are connected with each other by corridors. The residence was a base of Roka who led a life as aesthetic farmer for 20 years, and principal buildings preserve their old state well.
秋水書院は徳冨蘆花夫妻の書斎と寝室を備えた建物です。大逆事件(明治天皇の暗殺計画事件)を起こして死刑となった幸徳秋水に因んで名付けられました。
秋水書院
明治維新前十年の建物(今から約百四十年前)
この建物は、蘆花が烏山に在った古屋を買い取り移案し、明治四十四年(1911年)一月から春にかけて、建て直したもので通称「奥書院」の名がある。建前は一月二十四日であった。その日蘆花は当日の午後になってから判ったのだが、当時世間の耳目を集めた大逆事件の犯人とされた幸徳秋水以下十二名の死刑の執行の日であった(ただし、一名は25日に刑を執行)。蘆花は大逆事件については冤罪であると、大きな関心を寄せていたが一月中旬に十二名が死刑判決を受けたことを知ると兄蘇峰及び桂総理宛に再考の書簡を出した。また一月二十二日には、第一高等学校(現東京大学)生徒の弁論部委員が演説を依頼にきたので、とっさの思いつきで「謀叛論」と題し二月一日を約束し、当日は草稿も持たず会場に溢れんばかりの生徒達を前に演説をした。かくして奥書院は同年春に完成した。蘆花夫婦はこの建物を「秋水書院」と名付けたが、一般に「秋水書院」と呼ばれるようになったのは戦後のことである。
梅花書屋は、この家屋内に掲げられている横軸(横に長い掛け軸)に因んで名付けられました。西郷隆盛の書道の師であった薩摩の書家・鮫島白鶴翁による書です。
梅花書屋
この建物は、蘆花が明治四十二年(1909年)三月に松沢町北沢(現、世田谷区)に売家があるとの情報で早速見に行って手付けを渡し、四月二十日に建前を行い、五月三十日に全部終了した。母屋との間は、踏石を渡って往復した。梅花書屋の名称は、この家に掲げられてある薩摩の書家鮫島白鶴翁(西郷隆盛の書道の師)の筆になる横額によるものであり、この額は蘆花の父徳富一敬から譲られたものである。梅花書屋の命名以前には、単に「書院」、後には「表書院」とよばれた。現在ある梅花書屋、秋水書院、母屋をつないでいる廊下は秋水書院完成後につくられたものである。
茅屋(ぼうおく)は渡り廊下で母屋に繋がった建物です。
茅屋
僕の家は出来てまだ十年位比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ。其筈さ、先の家主なる者は素性知れぬ捨子で、赤子の時村に拾はれ、三つの時に人に貰はれ、二十いくつの時養家から建てゝ貰った家だもの。其あとは近在の大工の妾が五年ばかり住んで居た。即ち妾宅さ。投げやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、壁は落ち放題、床の下は吹通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、些真剣に降ると黄ろい雨が漏る。越してきたのは去年の此頃(註明治四十年二月末日指す)雲雀は鳴いて居たが、寒かったね。日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方から押寄せて来る武蔵野の春寒、中々春寒料峭位の話ぢやない。
國木田哲夫兄に興へて僕の近状を報ずる書
「二十八人集」より
徳冨蘆花の愛子夫人が居住した建物も残っています。別に愛子夫人が家庭内別居をした訳ではありません。徳冨蘆花の没後に土地・家屋全てを東京市に寄贈した後の住まいとして東京市からあてがわれた建物です。但し、快適な住居とはいえなかったようで、二年も経たずして夫人は三鷹台に転居してしまいます。なので、この建物にはあまり歴史的な価値はないようです。
愛子夫人居宅
この建物は蘆花夫人の愛子さんが、昭和十二年九月十八日蘆花没後十年を期して、東京市に土地・建物・遺品等の一切を寄付し、翌十三年二月二十七日蘆花恒春園が発足するに際して夫人の要望に基づき、夫人の当面の住まいとして、当時東京市が新築したものです。しかし、愛子夫人が実際に居住したのは、昭和十四年十一月までと短い期間でした。と言うのも、現在「花の丘」として蘆花恒春園の一部に編入されている区域に当時野外のゴミ集積所ガつくられ、風向きによるその悪臭にほとほと悩まされたことが大きな理由のようです。このため夫人は三鷹台に土地を借り家を新築し、日常はそちらに住みました。愛子夫人は後に熱海に転居し、そこで昭和二十二年二月二十日永眠しました。その遺骸は本園のくぬぎ林内の蘆花の墓地に一緒に埋葬されました。なお、この建物は後に、公園施設の集会場として公開され、以後多くの人に利用されてきております。
徳冨蘆花と恒春園について記した石碑が建っています。
恒春園の記
蘆花・徳富健次郎、明治元年十月二十五日、熊本県水俣に生まれる。京都同志社に学び後兄蘇峰の民友社にはいり、「トルストイ 不如帰 自然と人生 思出の記」など先駆的名篇を世におくり、文名大いにあがる。明治三十九年夏、聖地エルサレムをへてロシヤにトルストイをたずね、帰国の翌年二月二十七日この所、千歳村粕谷の地にうつる。くわをにぎり種をまく生活を楽しみ、「みみずのたはこと」、「新春」、「富士」その他の著作に専念す。蘆花は自然と自由を愛するとともに、特異な人道主義の作家として世人に忘れ得ぬふかい感銘をあたえた。昭和十一年九月十八日、蘆花の十周忌にあたり、愛子夫人は遺邸のすべてを東京市に公園として寄贈せられた。市は蘆花恒春園と名づけ文豪の生活をしのぶ記念のところとして永久に保存することにした。
公園の一画に徳冨蘆花のお墓があります。
コ富健次郎墓誌
(この墓に眠る人は、徳冨健次郎といい号を蘆花【ろか】と称した。)
明治元年十月二十五日(1868年十二月八日)熊本県水俣市で生まれ、父は徳富一敬、号淇水、母は久子、矢島氏の出である。兄に蘇峰徳富猪一郎がいる。蘆花の幼時はひよわであったが、少年時代から青年時代にかけて、父や兄から訓育を受け教導されて、その性格が形づくられた。中年以降はすぐれた文人として自立し、その著作は、広く世間に読まれ多くの読者に好まれた。蘆花の妻は愛子、原田氏の出である。夫妻は互いに相たすけ、常に離れることがなかった。しかし、ついに子供には恵まれなかった。伊香保の療養先で、最期に臨んで、兄に後事を頼み、心静かに永眠した。数え六十歳である。ときに昭和二年(1927年)九月十八日のことであった。蘆花は生まれつき真面目で意思強く妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかった。また、与えることが多く、愛情をもって人々に接した。文章をつくるにあたっては、さまざまな思いが泉のように湧き出て、つぎつぎと言葉が流れ出るようであった。蘆花の生涯は、終始自らを偽らず、思うままに行動し、ひたすら真善美を追求することに努めた人生であった。遺骸は、粕谷恒春園の林の中に持ちかえり埋葬された。これは自身の生前からの願いであり、また粕谷の村人たちの希望するところであった。
兄徳富蘇峰六十五歳 涙をぬぐいつつ書く。
この墓誌の原文は、蘆花死去の直後に、兄徳富蘇峰によって漢文で書き記され、石盤に刻まれて墓におさめられた。
徳冨蘆花のお墓の隣には寄り添うように愛子夫人の墓石が建っています。
コ冨愛子墓誌
(ここに葬られているのは、蘆花徳冨健次郎の夫人愛子である。)
女史は原田氏の出で、名は藍子、後に愛子と改めた。明治七年(1874年)に熊本県菊池(隈府)市に生れ、長じて東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に学んだ。ある日、私のところへ兄原田良八が同行して来た。一見して弟の妻に好ましいと思い、弟の意向を聞き、老父母にも相談し、卒業後婚姻が成立した。女史は才色ともにめぐまれ、態度はつつしみ深く、精神は、しっかりして動揺することがない。夫婦生活三十四年間、心は一つとなり、相愛し、相たすけた。蘆花が大をなし得たのは、女史の内助によるところが大きい。蘆花死去後、二十余年をひとり生きて、自身の病弱をおして、蘆花の遺著を整理刊行し、また後々の計画を定めた。すなわち十回忌に恒春園の土地と邸宅一切を東京都に寄贈し、蘆花記念公園としたのである。女史は昭和二十二年(1947年)二月二十日、熱海の仮の住居で永眠した。数え年七十四歳、遺骨は蘆花の左隣りに葬られた。
兄 徳富蘇峰八十五歳 記す。
原文を刻んだ石盤は五十日祭のとき墓におさめられたという。
お地蔵様が祠の中におわします。八王子の高尾山下の浅川という地域にあった六地蔵様のうちのひとつだそうです。
地蔵様が欲しいと云ってたら甲州街道の植木なぞ扱ふ男が、荷車にのせて来て、庭の三本松の蔭に南向きに据ゑてくれた。八王子の在、高尾山下、浅川附近の古い由緒ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一體だと云ふ。眼を半眼に開いて、合掌してござる・・・。
みみずのたはこと「地蔵尊」より
(註)この地蔵尊は、大正十二年九月一日の関東大震災の時、倒れたが無事だった。しかし、大正十三年二月十五日の余震で又倒れ、頭が落ちた。蘆花は、これを自分たちの身代わりになったようなものだとして「身代り地蔵」と命名した。
蘆花公園の北端に隣接して粕谷八幡神社が鎮座しています。粕谷八幡神社の創建の詳細は不明ですが、旧粕谷村が開村した頃から鎮座していたと伝えられ、「粕谷」の地名は鎌倉時代に此の地を治めていた粕谷三郎兼時の一族に由来するものといわれています。神社の境内に、徳冨蘆花が粕谷に移り住んで百年を記念した石碑が建っています。当時の粕谷の住戸は僅か二十六戸だったと記されています。
蘆花 村入り 百年記念
粕谷は二十六軒しかないから東京から来て仲間に入ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。 世界を一周して見て日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。「みゝずのたはこと」より
私共は粕谷の住人。粕谷が私共の故郷です。旅行にも粕谷を名乗り、宿帳にも粕谷健次郎と立派に書きました。「新春」より
境内には「わかれの杉」の案内板が立っています。手前の切り株は徳冨蘆花が客人の見送りの際に佇んだ初代杉の木です。二代目の杉の木は切り株の後ろの若木かな?
わかれの杉
明治、大正の文豪、徳冨蘆花(本名 健次郎)は明治四十年二月(三十八歳)、ここ粕谷に住居を定めました。蘆花は、彼を訪ねて帰る人を、いつも、この粕谷八幡神社の入口の杉の下に佇んで感慨深く見送っていました。それは、ここでの別れが死別となったことが、一・二度に止まらず、また、たとえ生きていたとしても、再び会えるかどうか分からぬ人も少なくなかったからです。そこで、蘆花は、彼の著書「みみずのたはこと」の中で、この杉を「わかれの杉」と名づけました。「わかれの杉」は、ひとり蘆花にとってだけのものではなく、戦争の都度、応召兵士たちが、武運長久を氏神の八幡神社に祈願し、この杉の木の下で郷土の人々と別れ、再び会うことが出来なかったなど、粕谷の人たちともかかわりの深かったものなのです。杉は第二次世界大戦後に枯れ、幹を3メートルほど残して切られましたが、その名を惜しんで、二代目の杉が、神社の氏子の手によって植えられました。立派に育つよう大切にしましょう。
長かった蘆花公園での滞在を終えて環八通りに面した千歳清掃工場に向かいます。世田谷区には清掃工場が2ケ所に設置されています。ひとつは砧公園に隣接する世田谷清掃工場です。敷地面積約3万平方メートルで、焼却能力は1日当り300トン(150トンX2炉)となっています。もうひとつは芦花公園にほど近い千歳清掃工場です。千歳清掃工場の敷地面積は約1万7千平方メートルと世田谷清掃工場に比べると約半分ですが、焼却能力は1日当り600トン(600トンX1炉)と倍になっています。煙突の高さは世田谷清掃工場が100mであるのに対して、千歳清掃工場は130mとなっています。要するに千歳清掃工場の方が世田谷清掃工場よりもコンパクトでゴミの処理量が多いということです。千歳清掃工場は初代が昭和三十年(1955年)8月に、23区内では戦後初の清掃工場として竣工しました。二代目は昭和四十六年(1971年)3月に竣工し、現在の三代目は平成八年(1996年)3月に竣工しました。
千歳清掃工場は、隣接する見所ポイントDの「千歳温水プール」に、ゴミ焼却炉で発生した熱で得られた温水を配給しています。
千歳温水プールの東側に隣接して見所ポイントEの「希望丘公園」があります。希望丘公園は昭和五十二年(1977年)に開園した洋風づくりの公園です。公園内には、球戯広場・壁泉広場の他、時計台やアーチ橋・複合遊具などの施設があります。
壁泉から水が流れる様子は、周囲の風景と共に清涼感を感じることができる公園です。
手入れも行き届いていますね。
公園内に橋の親柱が残っています。公園の敷地にはかって烏山川が流れていました。烏山川はその後暗渠化され、現在は上部が遊歩道になっています。
希望丘公園を出て見所ポイントFの「地域風景資産」烏山川緑道を進みます。緑を活かした地域の風景が資産として住民の手によって守られています。案内板も手作りです。
烏山川緑道
ここは烏山川緑道です。春には桜のトンネルができ、この町に住む人の憩いの場になっています。でも以前の緑道は通る人が敷き石につまづいて危険では、と私たちは考えました。そこで、世田谷区と2年かけて改修に取り組み、桜小路と名付けました。もとは「中之橋」という橋があった場所を円形広場にして、私たちが作った花びらの陶板を埋めました。これからも地域の皆さんと一緒に桜小路を大切にしていきたいです。
別の会による取り組みもされています。
船橋原風景の再生
昭和二十・三十年代、烏山川に沿って田んぼが広がり、近くには東京撮影所がありました。小川が流れ、ホタルが舞い、サギソウ・ヨメナが咲き乱れ、緑があふれていた当時の風景を再生しています。草や樹木を増やすことで、より豊かな環境が生まれ、人の足だけでなく、生き物にも地球にもやさしい土の道になります。
烏山川緑道と交差する道路には、「森繁通り」という道路標識が掲げられています。かっての伝説的大俳優森繁久彌(1913年〜2009年)を記念して命名されました。小田急線の千歳船橋駅北口近くの商店街を起点とする「森繁通り」は、この街に長く暮らした森繁久彌の邸宅が通り沿いに存在したことから誰かれともなく名付けられました。この通り名が世田谷区から正式名称となったのは森繁久彌の一周忌を迎えた2010年10月のことです。約660mの通りには「森繁通り」の標識や似顔絵入りのプレートが各所に設置されています。森繁久彌は「国民栄誉賞」の他、数多くの栄えある賞を受賞している国民的俳優です。NHKアナウンサー・俳優・声優・歌手・コメディアンとして活躍した森繁は、1947年から世田谷の船橋に住み始め、初主演を務めた映画「腰抜け二刀流」(1950年)に出演後、当時存在していた東宝撮影所の隣に邸宅を構えました。以来、2009年に他界するまで千歳船橋を離れることなく暮らしていました。晩年は、緑道脇にあった大邸宅を売却した後、その敷地に建てられたマンションで亡くなるまでを過ごしたそうです。ちなみに、千歳船橋の「船橋」という地名は、ここが昔湿地帯で船橋が架けられたという説と船橋吉綱一族が住んでいたというふたつの説があります。戦前は農業や牧畜業を営む人が多くいた千歳船橋ですが、1927年に小田急線が開通した後はアパート経営に転じる人が増え、田畑や牧草地が住宅地へと変わったそうです。
見所ポイントGの「烏山川緑道」には、沿道に何枚かの案内板が立っています。
鳥山川
(目黒川水系二級河川)
昔の烏山川の水源は、現在の高源院(北烏山四丁目)の池に武蔵野の伏流水(*1)が湧出したものだと言われ、自然発生した川です。烏山川の下流は北沢川との合流点で目黒川とつながっていきます。江戸時代に、飲み水や田畑の用水を求めて、烏山村などの農民が幕府から許可を得て、玉川上水(*2)から烏山川へ分水して烏山用水として利用されました。大正末期以降、人口が増え、農地から宅地へ転用が進むにつれて、農業用水の利用が減り、住宅などの生活排水が流されるようになりました。昭和四十年代に排水路化された川に下水道幹線を埋めて排水を流しています。
*1.伏流水とは、大地に浸透した雨水が地下水となって流れ、窪地(凹地)や崖地下からの湧水です。
*2.玉川上水は、江戸の町へ飲み水を送るために羽村から尾根上にそってつくられた人工用水路で1654年完成しました。なお、自然発生した川は、谷すじを通って流れます。
烏山川緑道が小田急線と交差する高架下の北側に石仏公園があります。公園の脇にある小さな祠には公園名の由来となった石仏がひっそりと祀られています。区画整理の際に此の地から石仏が出土したことが公園の名前の由来になっています。
烏山川は池尻で北沢川と合流し、目黒川となって東京湾に注いでいました。
烏山川緑道、北沢川緑道、目黒川緑道
1.河川の話
世田谷区内の川には、一級河川の多摩川水系五河川、二級河川の目黒川水系四河川、呑川水系二河川の三水系11河川(*1)があり、この他に支流として水路があります。二級河川の内、目黒川以外の五河川は下水道計画により、地下に下水幹線が整備され、河川の水流機能も兼ね備えてあります。この上部に、緑道が整備されています。
2.鳥山川(目黒川水系二級河川)
昔の烏山川の水源は、現在の高源院(北烏山四丁目)の池に武蔵野の伏流水(*2)が湧出したものだと言われ、自然発生した川です。江戸時代に、飲み水や田畑の用水を求めて、鳥山村などの農民が幕府から許可を得て、玉川上水(*3)から鳥山川へ分水して鳥山用水として利用されました。大正末期以降、人口が増え農地から宅地へ転用が進むにつれて、農業用水の利用が減り、住宅などの生活排水が流されるようになりました。昭和四十年代に排水路化された川に下水道幹線を埋めて排水を流しています。烏山川の上流右岸(*4)は、給田五丁目4番先:左岸は北烏山九丁目32番先(三鷹市と世田谷区との境界線)です。それより上流は水路です。下流は目黒川合流点です。
3.北沢川(目黒川水系二級河川)
北沢川も自然発生した川です。現在の都立松沢病院構内あたりから湧出していた水と途中の湧水を集めて流れだしていました。江戸時代に、上北沢村民の飲み水確保のため幕府から許可を得て、玉川上水(*3)から北沢川へ分水して北沢用水として、のちに農業用水にも転用されました。大正末期以降、人口が増え農地から宅地へ転用が進むにつれて、農業用水の利用が減り、住宅などの生活排水が流されるようになりました。昭和四十年代に排水路化された川に下水道幹線を埋めて排水を流しています。現在、北沢川緑道のせせらぎを流れている水は、湧き水ではありません。これは、新宿区にある落合水処理センターで下水をきれいにした再生水を管で送ってながしています(*5)。北沢川の上流右岸は、桜上水一丁目先:左岸は桜上水二丁目先(江下橋)、下流は目黒川合流点です。
4.目黒川(目黒川水系二級河川)
北沢川と鳥山川が池尻で合流して、目黒川となり東京湾へ注いでいます。北沢川と鳥山川が合流する付近で、下水道は川を分かれ道路下の下水道幹線を通って大田区にある森ケ先水処理センターへ流れ、下水をきれいにして東京湾へ放流されています。晴天時の目黒川は、高度処理水や湧水が流れています。目黒川の上流右岸は池尻三丁目11番先:左岸は池尻四丁目24番先(鳥山川と北沢川の合流点)です。
*1.河川法上の分類です。一級河川は、国土保全上または国民経済上特に重要な水系で、法令で指定した河川で国土交通大臣が指定した河川です。二級河川は、上記法令で指定された水系以外の水系で、公共の利書に重要な関係があるもので都道府県知事が指定した河川です。
*2.伏流水とは、大地に浸透した雨水が地下水となって流れ、窪地(凹地)や崖地下からの湧水です。
*3.玉川上水は、江戸の町へ飲み水を送るために羽村から尾根上にそってつくられた人工用水路で、1654年(に)完成しました。なお、自然発生した川は、谷すじを通って流れます。
*4.河川の右岸、左岸は、川の上流から下流に向かって見て右側が右岸、左側が左岸といいます。
*5.渋谷川、目黒川、呑川の城南三河川水の浄化を目的に、晴天時流量の少ない河川水に下水処理水を追加して流しています。
緑道の脇に彼岸花が咲いていますね。彼岸花の名前は、秋の彼岸頃に突然花茎を伸ばして鮮やかな紅色の花が開花することに由来します。別の説には、地下の鱗茎(球根)に強い毒性を有する有毒植物であるために、これを食べた後は「彼岸(死)」しかないという説も有ります。別名を曼珠沙華といい、山口百恵さんを始め多くの歌手にも歌われた事でも知られています。梵語(サンスクリット語)で「赤い花」・「葉に先立って赤花を咲かせる」という意味から名付けられたと言われています。釈迦が法華経を説かれた際に、これを祝して天から降った花(四華)のひとつが曼珠沙華であり、四華の曼陀羅華と同様に法華経で曼珠沙華は天上の花という意味もあります。
烏山川緑道の歴史
烏山川緑道は昭和四十年代頃暗渠化された河川の上部に整備され、昭和五十年代から主に歩行者用通路として利用されるようになりました。現在では、船橋七丁目から三宿一丁目までの全長約7kmとなっています。(平成二十五年1月現在)
烏山川緑道を離れて見所ポイントHの「世田谷八幡宮」に向かいます。世田谷八幡宮は、後三年の役(永保三年【1083年】〜寛治元年【1087年】)の帰途の寛治五年(1091年)に源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つために滞在することとなりましたが、その際に今回の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀ったのが始まりです。後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文十五年(1546年)に社殿を再興させ、これが実質的な創建の時と考えられています。かつては奉納相撲の勝敗によって翌年の豊作・凶作を占ったり、その年の豊作を感謝したため、境内には土俵や力石があります。渋谷氷川神社・大井鹿嶋神社と共に、江戸郊外三大相撲のひとつとされていました。今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われています。
世田谷八幡宮
世田谷八幡宮は寛治五年(1091年)源義家が奥州からの帰途、この世田谷の地に寄り、戦勝を感謝し創建されたと伝えられています。天文十五年(1546年)八月に、世田谷城主・吉良頼貞(のち頼康と改名)が社殿を修築造営した時、備前雲次太刀を一振寄進し、吉良氏領内第一の神社として尊崇されました。天正十八年(1590年)、吉良氏と婚姻関係にあった小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、徳川家康が関東に入国し、翌十九年、家康は世田谷八幡宮の旧領十一石を朱印地としました。明治維新後の明治五年(1872年)、郷社となり、この時、社名を宇佐神社と改めましたが、太平洋戦争後、もとの世田谷八幡宮に復しています。毎年九月の例祭に境内土俵で催される奉納相撲は、世田谷の恒例行事として親しまれて(い)ます。
境内社は何社かありますが、大鳥居の右手には厳島神社があります。
厳島神社
七福神の弁財天と同神であると考えられていることから弁天さまとも呼ばれている。知恵、財福、子孫繁栄、海上安全等のご利益がある。
ITSUKUSHIMA SHRINE
The goddess is also called Bentensama because she is considered to be the same deity as Benzaiten of the Shichifukujin. The goddess is responsive to prayers for wisdom, wealth, prosperity of offspring, maritime safety and so on.
境内には、カラフルな境内の案内板が立っています。
〜御由緒と歴史〜
八幡宮のご創建は、寛治五年(1091年)源義家が奥州の地からの帰途、ここ世田谷の地にて豪雨にあい先に進めず、天気回復を待つため数十日間滞在する事となり、日頃より崇敬する宇佐の八幡大神をお祀りし、世田谷の里人達にご祭神を郷土の守り神として厚く信仰するようにと伝えた事が始まりと云われている。また、その時に部下たちに相撲(力比べ)を行った事が由来となり、江戸時代には「江戸三相撲」として、また現在も秋のお祭りにて奉納相撲が行われている。その後、天文十五年(1546年)当時世田谷城城主であった吉良頼康により社殿を修築造営が行われ、備前雲次の太刀を一振り寄進したと云われている。江戸時代になり徳川将軍である家康より社領十一石を寄進された。現在の境内地はおよそ四千坪となる。明治時代には、一時期社名が郷社宇佐神社となるも、戦後、神社は国家管理より離れたため元来の世田谷八幡宮となった。現在の社殿は、昭和三十九年に改築されたもので、本殿御扉の中には、文化十年(1813年)に造られたといわれる木造の社殿(大場家文書より)が鎮まっている。現在、八幡宮は世田谷の鎮守として多くの氏子崇敬者の人達に厚く信仰されている。
Setagaya-Hachiman Shrine
HISTORY
The foundation of the shrine dates back to the fifth year of Kannji (1091) in the Heian Period, when Minamoto no Yoshile, a powerful samurai lord, stayed in Setagaya for tens of days as heavy rain prevented him from proceeding on his way back from then Ohshu Province, now Tohoku Area. While staying here, Yoshile gave a ceremony for Hachiman Deity of Usa, whom he worshiped, and instructed the villagers to worship the deity as the guardian god for this area and build a shrine for this purpose. Yoshile also did sumo wrestling with his subordinates on this occasion. This is said to be the origin of the Sumo Wrestling matches held in celebration of
the Autumnal Festival, which was called one of the major three Sumo Wrestling Events in the Edo Period. Later, Kira Yoriyasu, then Lord of the Setagaya Castle, renovated the shrine structure in the fifteenth year of Tenmon (1546) in the Sengoku Period, when he is said to have donated a sword by Unji of Bizen Area to the shrine. In the Edo Period, leyasu, Tokugawa Shogun, donated land of eleven koku (land units). The precinct of the shrine amounts to 4000 tsubos, or 13200 square meters now. Though the name of the shrine was changed to Gosha Usa Shrine because of the government's policy in the Meiji Period, it returned to the original name "Setagaya Hachiman Shrine after the war, when Shinto shrines were not under the jurisdiction of the government any more. The current shrine structure was renovated in the 39th year of Showa (1964), and inside the sacred door to the Honden (the main building where the deities are enshrined) is the wooden shrine structure which, according to the Oba's documents, was built in the tenth year of Bunka (1813) in the Edo Period. Setagaya Hachiman Shrine is now enthusiastically worshipped by its parishioners and worshipers as a guardian shrine for Setagaya Area.
大鳥居の右奥に観客席を備えた立派な土俵があります。娯楽の少なかった江戸時代には大変な賑わいを呈していたのでしょう。
土俵 奉納相撲(秋季大祭)
江戸時代には江戸三相撲と呼ばれた。
DOHYO, SUMO WRESTLING RING
Sumo wrestling matches are held in celebration of the Autumnal Festival. The event was called one of the major three Sumo Wrestling Events in the Edo Period.
神社には力石がつきものですが、世田谷八旛宮の力石の数には驚かされます。各力石には重さを示す文字が刻んでありますが、「四拾八貫」の石は今でいうと180キロに相当します。オリンピックに力石挙げが加わったら、間違いなくメダル候補となるでしょう。
世田谷八旛宮の次は見所ポイントIの「豪徳寺」を訪れます。豪徳寺の山門は、明治十七年(1884年)1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建されました。掲げられた額には「碧雲関」とあります。
大谿山 豪徳寺(曹洞宗)
寛永十年(1633年)にここ世田谷が彦根藩の所領地となり、既にそこにあった文明十二年(1480年)に建立された「弘徳院」を、彦根藩主井伊家は江戸菩薩寺と定めた。その後、万治二年(1659年)二代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至る。それは、江戸時代の大名墓所の形態をよく保存し、江戸周辺では最大規模の国指定史跡となっている。そこには仏殿、灯篭、鐘楼は創建当時のもので、広大な敷地内に法堂、開祖堂、書院、招福殿、三重の塔、地蔵堂、種月園(枯山水)や井伊家歴代の墓があって、世田谷を代表する古刹でもある。また、この寺には、二代藩主井伊直孝が鷹狩りの折、住職の愛猫「たま」の招きで、落雷を逃れたという伝説があって、豪徳寺の「招き猫」は幸運を招くとされ、家内安全、商売繁盛、心願成就を願う招福殿への参詣者が多い。なお、豪徳寺の境内(1万5千坪、約5万u)には四季折々の草木があり、梅・桜・牡丹・つつじ・アジサイや晩秋の紅葉などが楽しめる。そして石門から山門に至る参道の松並木、さらに野鳥が飛び交う奥深い森林もまた見所である。
The Kotokuin temple that stood on this site from 1480 was made a protector temple of Edo when Setagaya became part of the Hikone domain in 1633. The name Gotokuji, associated with the posthumous name of the daimyo li Naotaka, dates from 1659. Gotokuji is a temple of grand buildings, as befits the burial ground of the li daimyo line. The burial ground preserves the Edo-period pattern for daimyo family tombs, and is the largest national historic site in the Edo (Tokyo) area. Gotokuji is the preeminent ancient temple in Setagaya, with a Main Hall, stone lanterns and Bell Tower dating from the 17th century. On the extensive grounds are the Lecture Hall, Patriarchs Hall, Shoin, Shofukuden, Three Storied Pagoda, Jizo Hall, Shugetsuen garden, and the li family tombs. Legend holds that while hunting with falcons, the daimyo li Naotaka was saved from a lightning bolt when the abbot's pet cat Tama beckoned him into Gotokuji. This is the origin of the lucky "beckoning
cat" or maneki-neko statue, which is very popular as a charm for home safety, business success, or fulfillment of prayers. The temple grounds are quite large (about 50,000 square meters). There are numerous trees and flowering plants to be enjoyed through the seasons, including plum and cherry trees, peonies, azaleas,
hydrangea, and maples that go red in autumn. Other highlights are the path from the Sekimon Gate to the Main Gate, and the interior of the woodland where there are many birds.
豪徳寺は招き猫発祥の地とされています。招き猫は前足で人を招く猫の形の置物で、猫は農作物や蚕を食べるネズミを駆除するために、古くは養蚕の縁起物でしたが、養蚕が衰退してからは商売繁盛の縁起物とされています。右手(前脚)を挙げている猫は金運を招き、左手(前脚)を挙げている猫は人(客)を招くとされています。両手を挙げたものもありますが、“欲張りすぎると「お手上げ万歳」になるのが落ち”と嫌う人も多いようです。黒い猫は昔の日本では「夜でも目が見える」などの理由から「福猫」として魔除けや幸運の象徴とされています。また、赤い猫は疱瘡や麻疹が嫌う色といわれてきたために病除けとされています。赤い猫なんて見たことはないですけど。
境内には幾つかの堂が建っています。三重塔は、平成十八年(2006年)5月落慶、高さ22.5米で仏舎利、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置され、塔に施された十二支の彫り物に「招き猫」が飾られています。
梵鐘堂の鐘は延宝七年(1679年)藤原正次(釜屋六右衛門)により鋳造され、区内最古のもので、美術的にも高い評価があります。平成十二年(2000年)に世田谷区指定有形文化財となりました。
墓地の奥まった区画に井伊家の墓所があります。墓所には幕末の大老であった十三代直弼の墓や豪徳寺中興開基の二代直孝の墓を始め、歴代藩主や正室らの墓が整然と並んでいます。平成二十年(2008年)に国史跡に指定されました。
国指定史跡
彦根藩主井伊家墓所
豪徳寺井伊家墓所
井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(1575年)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永十年(1633年)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658年)に建てられた。直孝が没したのは万治二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清凉寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。
二代直孝の墓所です。
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓所です。こちらの方が歴史的にはよく知られていますね。
井伊直弼墓
井伊直弼は、文化十二年(1815年)、彦根藩十一代藩主・直中の第十四子として生まれた。青年期は部屋住みとして城外の埋木舎に閑居したが、兄・直元の死去により十二代藩主・直亮の跡継ぎとなり、嘉永三年(1850年)に十三代藩主となった。安政五年(1858年)四月、大老職に就いた直弼は、天皇の許可を待たず日米修好通商条約に調印し、ついで、十三代将軍・家定の後継者を紀伊の徳川慶福(後の家茂)とすることで決着をつけた。こうした直弼の強い政策に異を唱える者たちを処罰し安政の大獄をはかったが、遂に水戸浪士らの襲撃をうけ、安政七年(万延元年・1860年)三月三日、桜田門外で暗殺された。享年四十六。
豪徳寺の参道の両側は松の大木で覆われています。
地域風景資産
豪徳寺参道の松並木
松の巨木がつくりだす、トンネルの様な参道の並木は、豪徳寺と一体となって風格のある風景を生み出している。
豪徳寺を出て、見所ポイントJの「世田谷城址公園」に向かいます。世田谷城址公園は、世田谷城の南東端の郭を中心とした一帯を占める公園で、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀をはじめ、一段高くそびえる郭が現在も残されています。
世田谷城跡 都指定旧跡
世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。十四世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、十五世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、十六世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄三年(1530年)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正十八年(1590年)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。世田谷城の濠・土塁の構造は天文六年(1537年)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、十六世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。
城址には郭に上る石段や堀(?)の跡が残されています。
世田谷城跡
吉良氏と世田谷城
世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治五年(1366年)吉良治家によって築城されたといわれていますが、 定かではありません。永和二年(1376年)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。応永三十三年(1426年)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁戚関係をもつようになりますが、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。
城郭構造
世田谷城は目黒川の支流、鳥山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとおる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。城郭の構造としては中央に位置する郭は南北約120m、東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。世田谷城趾公園には、土塁と堀の一部が残されています。世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この郭を中心として複雑に展開する8カ所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭周辺を非常時の「詰城」、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、このふたつが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられています。
再び見所ポイントKの「烏山川緑道」に入ります。
かつて農業用水として利用されていた烏山川は、都市化とともに暗渠化(水路にふたをかぶせること)されました。このせせらぎは、地域の方々が身近に水とふれあい、親しめる形で、烏山川のおもかげを再生したものです。また、隣接する城山小学校と一体的に整備し、水辺のある環境を創出しています。
緑道は非常時には消防車も通れるようになっているそうです。
烏山川緑道
昭和四十〜五十年代、世田谷区の大半の中小河川は表面を埋めたてられ、下水道幹線として利用されるようになりました。緑道はその上部の有効利用と災害時の避難路の確保を主な目的として整備され、今日に至っています。烏山川緑道は昭和四十九年3月に開園し、現在、全長約7.0kmに及び、世田谷区船橋七丁目から三宿一丁目まで続いています。区役所周辺地区(青葉橋〜若林橋:環7通り)では、烏山川緑道が防災緑地網の幹線として位置づけられています。災害時には避難路となったり、またいざというときには消防車も通行できるように整備をしています。
烏山川緑道を離れ、見所ポイントLの「松蔭神社」に向かいます。
松陰神社
明治十五年長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱屋敷であったので俗に大夫山とよばれた。松陰は安政三年(1856年)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて高杉晋作、伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響をあたえたのである。松陰は安政大獄のときに処刑されたが、後、ひそかに頼三樹三郎らと共に、神苑の西方老松楓樹のもとに葬られた。
松陰神社の由緒を記した案内板も立っています。
松陰神社
松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて三十歳の若さで刑死されました。その四年後の文久三年(1863年)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。明治十五年(1882年)十一月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。
Shoin-Jinja
The enshrined Kami:
YOSHIDA TORAJIRO FUJIWARA NO NORIKATA NO MIKOTO
(Master YOSHIDA Shoin)
Master Shoin gave lessons at the Shoka-Sonjuku (private school), and produced many
young men of distinguished talent who achieved the great work "the Meiji Restoration". However Master Shoin was implicated in the "Mass Execution of the Ansei Era" and was beheaded on the execution ground in the prison house at Tenmacho, Edo. He was aged thirty. Four years later in the 3rd year of the Bunkyu era (1863), TAKASUGI Shinsaku, ITO Hirobumi and other who were talented followers of Master Shoin, reburied here. The site of the Shrine and its whole area was once where the villa of Lord MORI Daizen-Dabu of the Mori Clan (Choshu) was located since the Edo era. It is said to have been called "Daibu-yama". The followers of Master Shoin gathered together in November in the 15th year of the Meiji era (1882), and erected the Shrine by his grave and dedicated it to the spirit of
Master Shoin. In this manner his faithful soul was enshrined.
境内の一画に松下村塾が復元されています。
松下村塾の歴史と復元された家屋の案内板、それに国士舘校内に復元された時に掲げられていた看板と屋根に葺かれていた瓦も展示されています。
松下村塾(模造)
松陰先生の叔父である長州藩士の玉木文之進が、天保十三年(1842年)荻に寺子屋を開き、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。玉木氏が公務多忙の為、塾は自然消滅しましたが、その後、久保五郎左衛門(松陰の外叔父)が塾主となり復活し、安政四年(1857年)まで引き継ぎました。更に、松陰先生が再投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏や兄の杉梅太郎らによって断続的ながら明治二十五年(1892年)頃まで続きました。松陰先生は、安政二年(1855年)26歳の冬に出獄(米艦に乗船を企て投獄されていた)してから、実家である杉家で親戚の子弟等に教育をはじめ、翌年の夏頃には親戚以外の者も通ってくるようになりました。しだいに塾生が増えたため、安政四年(1857年)11月5日には杉家内の小屋を補修した八畳一間の塾舎が完成。松陰先生は塾に起居し、塾生に対し師弟同行の実践的教育を行いました。さらに塾生が増加して手狭になったので、安政五年(1858年)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が塾生に教育を施したのは、僅か2年半程でありましたが、董陶をうけた総勢90名程の塾生からは、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文、野村靖など、明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材が育っていきました。当神社にある模造松下村塾は、昭和十三年12月に隣接する国士舘校内に松陰先生顕彰のため建築されたものです。当時、すべての建築材料を萩で集め、東京へ移送して建築され、木材、瓦などは幕末期の毛利藩代官屋敷の古材が使用されました。(現在でも建材の多くは当時のものが残っています。)その後、昭和十六年に国士舘から当神社に寄贈され、境内の鳥居脇へ移築。平成八年に境内整備のため、現在の場所に移築。平成二十八年には維新150年記念事業の一環として約8ヶ月をかけ保存修繕工事を行いました。
Shoka-Sonjuku (Reproduction)
The name of the private school Shoka-Sonjuku (educational nursery of Master Shoin) has its origin in Terakoya, the private elementary school in Hagi which was opened by his uncle Bunnoshin Tamaki from the Choshu Domain under the name "Shoka-Sonjuku" in the 13th year of the Tempo era (1842). While Tamaki was away on official business, Gorozaemon Kubo took over and continued as Principal of the school until the 4th year of the Ansei era (1857). After that, Master Shoin took over his post until his second imprisonment, and the school continued intermittently under Tamaki and Shoin's older brother, Umetaro Sugi. It closed in the 25th year of the Meiji era (1892). When Master Shoin was 26 years old, he was released from prison in the winter of the 2nd year of Ansei (1855) after he was detained for his failed attempt to stow away on an American ship. Master Shoin started giving lessons to his relatives at his family home, the Sugi house in Hagi, and other students began to gather by the summer of following year. The number of students increased, and Master Shoin renovated a hut of the Sugi house into a single eight tatami mat room which was completed on November 5th of the 4th year of Ansei (1857). Master Shoin dwelt there, and gave pupils guidance and practical teaching of "Shitei Dogyo" which means teacher and disciples training together. Later, a ten-and-a-half tatami mat room was added to the house in March of the 5th year of Ansei (1858) because the pupils outgrew the academy. Although the total period that Master Shoin conducted education was only two and a half years, his roughly 90 students included Genzui Kusaka, Shinsaku Takasugi, Aritomo Yamagata, Yajiro Shinagawa, Hirobumi Ito, and Yasushi Nomura, talented men who became the driving force to support modernization of Japan through the Meiji Restoration. The reproduction of the Shoka-Sonjuku in our shrine was originally built in December 1938 to honor Master Shoin inside Kokushikan University. At that time, all construction materials were gathered in Hagi and sent to Tokyo for the reproduction. Wood pieces and kawara (roof tiles) used were taken from the Choshu Domain magistrate's residence (many of the pieces remain today). After that, the reproduction of Shoka-Sonjuku was donated to our shrine from Kokushikan University, and relocated next to the Torii in the precinct. It was relocated to its current location in 1996 because of the precinct's maintenance. In 2016, 8 month-long repair work was done as part of the Meiji Restoration 150th Anniversary Project.
模造松下村塾建築当時の看板
模造松下村塾が国士舘校内に建築された際「景松塾」と名付けられ、学生の修養道場として活用されました。「景松塾」標は萩松陰神社の社司市川一郎の筆と伝えられています。
The original emblem of the reproduction of Shoka-Sonjuku
When the reproduction of Shoka-Sonjuku was first established in Kokushikan University, it was named "Keisho-juku" and used as a training center for students. It is reported that the emblem of "Keisho-juku" was written by Ichiro Ichikawa, a priest of Shoin Shrine in Hagi.
模造松下村塾の古瓦
昭和十三年、国士舘校内に模造松下村塾を建築するにあたり、すべての建築材料は萩で集め、詳細に模倣して建てられましたが、その際に使用された古瓦です。幕末期の毛利藩代官屋敷の古瓦であり、毛利家お抱え瓦職の阿川家が焼いたもので、瓦に「阿」の刻印が見られます。(現在、建物に使用している瓦は複製です)
Old kawara (roof tiles) of the reproduction of Shoka-Sonjuku
In 1938, all building materials were collected in Hagi to build a detailed reproduction of Shoka-Sonjuku inside Kokushikan University. The old kawara, the roof tiles, were taken from the Choshu Domain magistrate's residence and engraved with the "A" of the name "Agawa" who was the kawara maker of the Choshu Domain (the kawara of the current reproduction are replicas).
松下村塾での教育指針を記したプレートも置かれています。
松下村塾での教育
松下村塾聯(松下村塾の床の間に掲げられていた言葉)
万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。
一己の労を軽んずるに非らざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。
大意:多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になり得るだろうか。自分の労苦をいとう者にどうして人々の安らかな生活を築くことができようか。決してできない。
萩の松本村にあったということで松下村塾と名付けられた塾で1856年8月頃から1858年末までの二年半程の期間、松陰先生は塾生に教育を施しました。
教育の目的は 「君臣の義」 (君主と臣下の間で守るべき正しい道)
「華夷の弁」 (日本と外国との違いを明確にすること)
「奇傑非常の人」 (人並み外れた優秀な人材)
を育むことでした。身分に関係なく誰でも入塾でき、先生は塾生それぞれをよく観察、記録し、そこで気付いた大切なことは手紙にして渡しました。先生が手を加えて正していく教育ではなく、自分で気づかせ、個性を生かす心の通い合う教育でした。塾で学んだ塾生は総勢九十名前後と言われており、彼らの活躍あって現在の日本があるのです。
松下村塾に関わった人達の墓所もあります。
吉田松陰先生他烈士墓所
文久三年(1863年)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年11月、福原乙之進を埋葬した。禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868年)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。明治八年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治三十七年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治四十二年、遺言により野村靖を埋葬。明治四十四年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和三十三年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。
境内には吉田松陰門下の縁故者から奉納された石灯籠が並んでいます。
石灯籠
境内に立ち並ぶ32基の石燈籠は、毛利元昭公をはじめ先生門下の伊藤博文、山縣有朋などの縁故者より明治四十一年(1908年)に奉献されたものです。その燈籠に刻まれた文字は書家高田竹山による八分隷書体によるものです。
松陰神社に隣接して、明治時代の元勲桂太郎の墓も建っています。桂太郎は吉田松陰を敬愛し、その遺言に従って松陰神社の隣にお墓が建てられたんですね。
世田谷区指定史跡 桂太郎墓
弘化四年(1847年)十一月二十八日、長門国阿武郡萩町(現山口県萩市)に生まれる。長州藩士として第二次長州征伐や戊辰戦争に参加、維新後の明治三年(1870年)には近代的な軍事制度を学ぶためドイツに留学した。帰国後、山県有朋に参謀本部の独立を建言、鎮台を師団に改編するなど明治陸軍の軍制改革に大きな役割を果たす。台湾総督などを歴任し、明治三十一年(1898年)伊藤博文内閣で陸軍大臣となった。明治三十四年(1901年)には首相に指名され第一次桂内閣を組織し、三年後に勃発した日露戦争に際しては開戦を決定、首相として戦争を主導した。明治三十九年(1906年)に総辞職し、西園寺公望に首相の座を譲るが、第三次桂内閣の大正二年(1913年)までは「桂園時代」と呼ばれ、安定した政治体制が築かれた。明治四十一年(1908年)には韓国併合の条約が調印されている。吉田松陰を敬愛し、自らも明治三十三年(1900年)台湾協会学校(現拓殖大学)を創立して初代校長に就任、基礎作りに尽力した。大正元年(1912年)末、三度首相に指名されたが、幾ばくもなく総辞職し、翌二年十月十日急逝した。享年六十六。「平素崇拝する松陰神社隣接地に葬るべし」との遺言により、当所に葬られた。
三軒茶屋の名物といえば「魚孝」ですね。鮮魚だけでなく、惣菜も売られています。今日は揚げ物と南蛮漬けで一杯。。。
三軒茶屋のランドマークといえば赤い外壁が特徴のキャロットタワーですね。その5階に見所ポイントMの「世田谷文化生活情報センター」があります。「生活工房」・「世田谷パブリックシアター」・「音楽事業部」・「国際事業部」の4部門から構成された施設で、区民の自主的な地域活動の支援と共に、優れた文化・芸術を区民に提供することを目指しています。また、劇場やセミナールーム等の施設の貸し出しも行っています。
長い道のりでしたが、B世田谷・砧・烏山地域コースのゴール地点である三軒茶屋駅に着きました。今回のコースは世田谷区の名所・旧跡が満載で面白かったです。次回は馬事公苑界わいコースを巡ります。
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