- C馬事公苑界わいコース・番外編
- コース 踏破記
- 世田谷区の「馬事公苑界わいコース」では、コースを外れたところに幾つかの見所があります。これらを番外編としてまとめました。尚、ウォーキングマップが英語版しか入手できませんでしたので、一部表記は英語になっています。
「馬事公苑界わいコース・番外編」では所用時間・歩数などはカウントしていません。
- ASetagaya Hachimanngu Shrine
-
This shrine was started by Minamoto no Yoshiie while he was making his way home from serving in the Gosannen War to enshrine the ritually divided and transferred spirit of the Usa Hachimangu Shrine, his guardian shrine. The shrine was later
restored by Kira Yoriyasu, lord of Setagaya Castle, after which time ritual sumo matches began to be held on the grounds.
最初に、見所ポイントAの「世田谷八幡宮」を訪れます。世田谷八幡宮は、源義家が後三年の役(永保三年【1083年】〜寛治元年【1087年】)の帰途の寛治五年(1091年)にこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つために滞在することとなりましたが、その際に今回の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀ったのが始まりです。後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文十五年(1546年)に社殿を再興させ、これが実質的な創建の時と考えられています。かつては境内で催された奉納相撲の勝敗によって翌年の豊作・凶作を占ったり、その年の豊作を感謝したため、境内には土俵や力石があります。渋谷氷川神社・大井鹿嶋神社と共に、江戸郊外三大相撲のひとつとされていました。今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われています。
世田谷八幡宮
世田谷八幡宮は寛治五年(1091年)源義家が奥州からの帰途、この世田谷の地に寄り、戦勝を感謝し創建されたと伝えられています。天文十五年(1546年)八月に、世田谷城主・吉良頼貞(のち頼康と改名)が社殿を修築造営した時、備前雲次太刀を一振寄進し、吉良氏領内第一の神社として尊崇されました。天正十八年(1590年)、吉良氏と婚姻関係にあった小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、徳川家康が関東に入国し、翌十九年、家康は世田谷八幡宮の旧領十一石を朱印地としました。明治維新後の明治五年(1872年)、郷社となり、この時、社名を宇佐神社と改めましたが、太平洋戦争後、もとの世田谷八幡宮に復しています。毎年九月の例祭に境内土俵で催される奉納相撲は、世田谷の恒例行事として親しまれて(い)ます。
カラフルな境内の案内板が立っています。
〜御由緒と歴史〜
八幡宮のご創建は、寛治五年(1091年)源義家が奥州の地からの帰途、ここ世田谷の地にて豪雨にあい先に進めず、天気回復を待つため数十日間滞在する事となり、日頃より崇敬する宇佐の八幡大神をお祀りし、世田谷の里人達にご祭神を郷土の守り神として厚く信仰するようにと伝えた事が始まりと云われている。また、その時に部下たちに相撲(力比べ)を行った事が由来となり、江戸時代には「江戸三相撲」として、また現在も秋のお祭りにて奉納相撲が行われている。その後、天文十五年(1546年)当時世田谷城城主であった吉良頼康により社殿を修築造営が行われ、備前雲次の太刀を一振り寄進したと云われている。江戸時代になり徳川将軍である家康より社領十一石を寄進された。現在の境内地はおよそ四千坪となる。明治時代には、一時期社名が郷社宇佐神社となるも、戦後、神社は国家管理より離れたため元来の世田谷八幡宮となった。現在の社殿は、昭和三十九年に改築されたもので、本殿御扉の中には、文化十年(1813年)に造られたといわれる木造の社殿(大場家文書より)が鎮まっている。現在、八幡宮は世田谷の鎮守として多くの氏子崇敬者の人達に厚く信仰されている。
Setagaya-Hachiman Shrine
HISTORY
The foundation of the shrine dates back to the fifth year of Kannji (1091) in the Heian Period, when Minamoto no Yoshile, a powerful samurai lord, stayed in Setagaya for tens of days as heavy rain prevented him from proceeding on his way back from then Ohshu Province, now Tohoku Area. While staying here, Yoshile gave a ceremony for Hachiman Deity of Usa, whom he worshiped, and instructed the villagers to worship the deity as the guardian god for this area and build a shrine for this purpose. Yoshile also did sumo wrestling with his subordinates on this occasion. This is said to be the origin of the Sumo Wrestling matches held in celebration of
the Autumnal Festival, which was called one of the major three Sumo Wrestling Events in the Edo Period. Later, Kira Yoriyasu, then Lord of the Setagaya Castle, renovated the shrine structure in the fifteenth year of Tenmon (1546) in the Sengoku Period, when he is said to have donated a sword by Unji of Bizen Area to the shrine. In the Edo Period, leyasu, Tokugawa Shogun, donated land of eleven koku (land units). The precinct of the shrine amounts to 4000 tsubos, or 13200 square meters now. Though the name of the shrine was changed to Gosha Usa Shrine because of the government's policy in the Meiji Period, it returned to the original name "Setagaya Hachiman Shrine after the war, when Shinto shrines were not under the jurisdiction of the government any more. The current shrine structure was renovated in the 39th year of Showa (1964), and inside the sacred door to the Honden (the main building where the deities are enshrined) is the wooden shrine structure which, according to the Oba's documents, was built in the tenth year of Bunka (1813) in the Edo Period. Setagaya Hachiman Shrine is now enthusiastically worshipped by its parishioners and worshipers as a guardian shrine for Setagaya Area.
大鳥居の右奥に観客席を備えた立派な土俵があります。娯楽の少なかった江戸時代には大変な賑わいを呈していたのでしょう。
土俵 奉納相撲(秋季大祭)
江戸時代には江戸三相撲と呼ばれた。
DOHYO, SUMO WRESTLING RING
Sumo wrestling matches are held in celebration of the Autumnal Festival. The event was called one of the major three Sumo Wrestling Events in the Edo Period.
境内社として厳島神社も祀られています。
厳島神社
七福神の弁財天と同神であると考えられていることから弁天さまとも呼ばれている。知恵、財福、子孫繁栄、海上安全等のご利益がある。
ITSUKUSHIMA SHRINE
The goddess is also called Bentensama because she is considered to be the same deity as Benzaiten of the Shichifukujin. The goddess is responsive to prayers for wisdom, wealth, prosperity of offspring, maritime safety and so on.
神社には力石がつきものですが、世田谷八旛宮の力石の数には驚かされます。各力石には重さを示す文字が刻んでありますが、「四拾八貫」の石は今でいうと180キロに相当します。オリンピックに力石挙げが加わったら、間違いなくメダル候補となるでしょう。
- BGotokuji Temple
-
This Buddhist temple was the family temple of the li feudal lord clan in the Edo period. The grave of li Naosuke, designated a Historic Site by the Tokyo Metropolitan Government, is located on the grounds. Maneki-neko beckoning cat figurines in the Shofukuden next to the main temple beckon luck with their raised right paws.
世田谷八旛宮の次は見所ポイントBの「豪徳寺」を訪れます。豪徳寺は、世田谷領主・井伊家の江戸の菩提寺です。境内には都指定史跡の井伊直弼の墓所があり、仏殿横の招福殿では招き猫が右手をあげて福を呼んでいます。豪徳寺の山門は、明治十七年(1884年)1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建されました。掲げられた額には「碧雲関」とあります。
大谿山 豪徳寺(曹洞宗)
寛永十年(1633年)にここ世田谷が彦根藩の所領地となり、既にそこにあった文明十二年(1480年)に建立された「弘徳院」を、彦根藩主井伊家は江戸菩薩寺と定めた。その後、万治二年(1659年)二代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至る。それは、江戸時代の大名墓所の形態をよく保存し、江戸周辺では最大規模の国指定史跡となっている。そこには仏殿、灯篭、鐘楼は創建当時のもので、広大な敷地内に法堂、開祖堂、書院、招福殿、三重の塔、地蔵堂、種月園(枯山水)や井伊家歴代の墓があって、世田谷を代表する古刹でもある。また、この寺には、二代藩主井伊直孝が鷹狩りの折、住職の愛猫「たま」の招きで、落雷を逃れたという伝説があって、豪徳寺の「招き猫」は幸運を招くとされ、家内安全、商売繁盛、心願成就を願う招福殿への参詣者が多い。なお、豪徳寺の境内(1万5千坪、約5万u)には四季折々の草木があり、梅・桜・牡丹・つつじ・アジサイや晩秋の紅葉などが楽しめる。そして石門から山門に至る参道の松並木、さらに野鳥が飛び交う奥深い森林もまた見所である。
The Kotokuin temple that stood on this site from 1480 was made a protector temple of Edo when Setagaya became part of the Hikone domain in 1633. The name Gotokuji, associated with the posthumous name of the daimyo li Naotaka, dates from 1659. Gotokuji is a temple of grand buildings, as befits the burial ground of the li daimyo line. The burial ground preserves the Edo-period pattern for daimyo family tombs, and is the largest national historic site in the Edo (Tokyo) area. Gotokuji is the preeminent ancient temple in Setagaya, with a Main Hall, stone lanterns and Bell Tower dating from the 17th century. On the extensive grounds are the Lecture Hall, Patriarchs Hall, Shoin, Shofukuden, Three Storied Pagoda, Jizo Hall, Shugetsuen garden, and the li family tombs. Legend holds that while hunting with falcons, the daimyo li Naotaka was saved from a lightning bolt when the abbot's pet cat Tama beckoned him into Gotokuji. This is the origin of the lucky "beckoning
cat" or maneki-neko statue, which is very popular as a charm for home safety, business success, or fulfillment of prayers. The temple grounds are quite large (about 50,000 square meters). There are numerous trees and flowering plants to be enjoyed through the seasons, including plum and cherry trees, peonies, azaleas,
hydrangea, and maples that go red in autumn. Other highlights are the path from the Sekimon Gate to the Main Gate, and the interior of the woodland where there are many birds.
豪徳寺は招き猫発祥の地とされています。招き猫は前足で人を招く猫の形の置物で、猫は農作物や蚕を食べるネズミを駆除するために、古くは養蚕の縁起物でしたが、養蚕が衰退してからは商売繁盛の縁起物とされています。右手(前脚)を挙げている猫は金運を招き、左手(前脚)を挙げている猫は人(客)を招くとされています。両手を挙げたものもありますが、“欲張りすぎると「お手上げ万歳」になるのが落ち”と嫌う人も多いようです。黒い猫は昔の日本では「夜でも目が見える」などの理由から「福猫」として魔除けや幸運の象徴とされています。また、赤い猫は疱瘡や麻疹が嫌う色といわれてきたために病除けとされています。赤い猫なんて見たことはないですけど。
境内には幾つかの堂が建っています。三重塔は、平成十八年(2006年)5月落慶、高さ22.5米で仏舎利、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置され、塔に施された十二支の彫り物に「招き猫」が飾られています。
梵鐘堂の鐘は延宝七年(1679年)藤原正次(釜屋六右衛門)により鋳造され、区内最古のもので、美術的にも高い評価があります。平成十二年(2000年)に世田谷区指定有形文化財となりました。
墓地の奥まった区画に井伊家の墓所があります。墓所には幕末の大老であった十三代直弼の墓や豪徳寺中興開基の二代直孝の墓を始め、歴代藩主や正室らの墓が整然と並んでいます。平成二十年(2008年)に国史跡に指定されました。
国指定史跡
彦根藩主井伊家墓所
豪徳寺井伊家墓所
井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(1575年)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永十年(1633年)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658年)に建てられた。直孝が没したのは万治二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清凉寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。
二代直孝の墓所です。
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓所です。こちらの方が歴史的にはよく知られていますね。
井伊直弼墓
井伊直弼は、文化十二年(1815年)、彦根藩十一代藩主・直中の第十四子として生まれた。青年期は部屋住みとして城外の埋木舎に閑居したが、兄・直元の死去により十二代藩主・直亮の跡継ぎとなり、嘉永三年(1850年)に十三代藩主となった。安政五年(1858年)四月、大老職に就いた直弼は、天皇の許可を待たず日米修好通商条約に調印し、ついで、十三代将軍・家定の後継者を紀伊の徳川慶福(後の家茂)とすることで決着をつけた。こうした直弼の強い政策に異を唱える者たちを処罰し安政の大獄をはかったが、遂に水戸浪士らの襲撃をうけ、安政七年(万延元年・1860年)三月三日、桜田門外で暗殺された。享年四十六。
豪徳寺の参道の両側は松の大木で覆われています。
地域風景資産
豪徳寺参道の松並木
松の巨木がつくりだす、トンネルの様な参道の並木は、豪徳寺と一体となって風格のある風景を生み出している。
- CSetagaya Line
-
The north-south running Tokyu Setagaya Line connects Sangenjaya and Shimotakaido and is a two-car tram line resembling a pre-war line popularly known as the "Tamaden." The line is perfect for exploring historic sites, including Setagaya Hachiman-jinja Shrine, Setagaya Joshi Park, Shoin-jinja Shrine, Boroichi-dori
St., and the Gotokuji Temple.
豪徳寺の次は見所ポイントCの「世田谷線」です。東急世田谷線は三軒茶屋駅と下高井戸駅を専用軌道線(一部の区間で一般道と交差)で南北に繋ぎ、戦前から人々に親しまれた「玉電」の趣を残す2両編成の路面電車です。都電荒川線(東京さくらトラム)と共に都内に残っている軌道線ですが、都電とは違って道路上を走行する併用軌道はありません。総延長約5kmに10駅があり、駅間距離は全て1km未満となっています。三軒茶屋駅から下高井戸駅までの所要時間は17分〜18分です。世田谷線は都心へ向かう3つの鉄道路線と接続していて、バス路線の多い世田谷区にあって鉄道空白地域に住む住民にとって貴重な足となっています。現在の世田谷線が開業したのは、大正十四年(1925年)1月18日のことです。当初は三軒茶屋駅と世田谷駅を結び、下高井戸線という名称でした。その4ケ月後の5月1日には残りの世田谷駅から下高井戸駅間が開業して現在の路線となりました。昭和四十四年(1969年)に現在の名称である世田谷線に改称されました。世田谷八幡神社・世田谷城址公園・松陰神社・ボロ市通り・豪徳寺など、史跡巡りにも最適です。
- DSETAGAYA DAIKANYASHIKI(Setagaya Museum of History)
-
The only daikan (magistrate) residence dating to the period of Japan's daimyo feudal lords still standing in Tokyo, it has been designated a Historic Site by the Tokyo Metropolitan Government; the main residence and front gate have also both been designated Important Cultural Properties (Buildings) by the national government. The road in front of the estate, commonly known as "Boroichi-dori St.", is used to host the Setagaya Boroichi Flea Market (designated an Intangible Folk-Cultural Property by the Tokyo Metropolitan Government) each year on the 15th and 16th of December and January.
世田谷線の次は見所ポイントDの「世田谷代官屋敷(郷土資料館)」を訪れます。大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であることから都史跡に、また現存する住宅主屋と表門の2棟は国の重要文化財(建造物)に指定されています。代官屋敷前の通称「ボロ市通り」では、毎年12月と1月の15日・16日に「世田谷のボロ市」(都指定無形民俗文化財)が開催されます。世田谷のボロ市は、安土桃山時代に関東地方を支配していた小田原城主北条氏政が開いた楽市に端を発する伝統ある行事です。
東京都指定無形民俗文化財(風俗慣習)
世田谷のボロ市
世田谷のボロ市は、天正六年(1578年)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヵ月に六日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、十二月十五日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。この市は、明治六年(1873年)の太陽暦の採用によって、翌七年から旧暦の歳の市に相当する一月十五日にも開かれるようになり、また明治中期には十六日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半を占めるようになったからである。ボロ市は400年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。
案内板もボロボロですねぇ。
世田谷代官屋敷は、「ボロ市通り」に面して萱葺きの表門が建っています。
表門の前に大場家住宅の石碑が置かれています。
重要文化財 大場家住宅
この住宅は、大場家七代六兵衛盛政が元文二年(1737年)と宝暦三年(1753年)の2度にわたる工事によって完成したものであります。大場家は、元文四年(1739年)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官職を世襲したのでその役宅としても使用されていました。江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が、昭和五十三年1月21日国の重要文化財に指定されました。
石碑の横には、世田谷代官屋敷の案内板も立っています。
東京都指定史跡
世田谷代官屋敷
江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永十年(1633年)、井伊家が世田谷領15箇村(後に20箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治四年(1871年)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約70坪(約231.4u)、茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。
Historic site
Setagaya Daikan Yashiki
At the beginning of the Edo Period, Oba clan served as magistrates of Setagaya (over 2,300 koku; 1 koku is approximately 180.39 L, based on a unit uniformly used as of 1690), which was a domain of Ii clan of Hikone; they took over this function generation by generation until the Meiji Restoration. The premises are the remains of their residence, including residential buildings used as a magistrate's office.
Oba clan issued important vassals of Kira clan who were lords of Setagaya castle during the Middle Ages, however, when their lord, Kira clan supported Hojo clan of Odawara at the time of military campaigns led by Toyotomi Hideyoshi against Odawara and the clan was brought to ruin, the Oba clan remained in Setagaya Shinjuku (Kamimachi), so that they are reduced to farmers. They are appointed as magistrate for li clan of at the time of granting 15 villages (later 20 villages) of Setagaya area to the clan in 1633. Subsequently, they took over the position of the magistrate and engaged in the government of the villages until the abolition of the feudal domain system from the Edo Period in 1871. The residence was from the Middle Edo Period; the main building which was the center of the magistrate's office is ca. 70 tsubo (ca. 231.4 square metre) large, with a thatched and hipped roof. Main gate with a hipped roof and a storehouse covered by mud daub, and a part of remains of courtroom are still extant in order to represent the images of the residence at the time of the magistrates.
表門から屋敷内に入りますと、目の前に巨木が聳えています。世田谷区名木百選にも選定された樹高19メートル・幹周り2.85メートルのタブノキです。
代官屋敷の案内板が立っています。
世田谷代官屋敷(大場代官屋敷)
世田谷代官屋敷は、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20ヶ村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれています。大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であり、昭和二十七年11月3日、「都史跡」に指定されています。また、昭和五十三年1月21日には大場家住宅主屋および表門の2棟が、住宅建造物として都内で初めて国の「重要文化財」に指定されています。
主屋は昭和四十二年に復元されましたが、萱葺きの屋根はとても綺麗です。定期的に葺き替えられているのでしょう。
主屋
この屋敷は、大場家7代目当主六兵衛盛政により、元文二年(1737年)頃に建てられました。同四年に盛政が代官に登用され、宝暦三年(1753年)には大規模な改修・増築が行われています。現在の主屋は、昭和四十二年に往時の姿に復元されたものです。
表門を屋敷の中から見ています。こちらも萱葺きの屋根が綺麗ですね。表門は常時閉じられているようです。
表門
寄棟造、茅葺の長屋門で、西側に番所を備えています。宝暦三年(1753年)に主屋改修とあわせ建築されたものと考えられています。
白洲とは、本来は江戸時代の奉行所など訴訟機関に設置された法廷となる砂利敷です。白洲は砂利敷に敷かれた砂利の色に由来しています。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったからといわれています。代官屋敷は訴訟機関ではありませんので、主に領内の名主が藩の役人に謁見する際に使用されました。
白州通用門(中門)および白州
代官屋敷の白州は、主に領内の名主が、藩の役人に謁見する際使用されました。
屋敷内にはいろいろな石碑が建っています。富士山に33回登拝したという記念碑もありますね。明治の頃のようですが。
山吉講富士登拝記念碑
登山三十三度 大願成就 明治三十二年十月
富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として旧くから存在したが、庶民の間に富士登拝の風習が盛んとなったのは富士の行者・食行身禄が現れて庶民救済の教義を提唱した十八世紀以降のことである。食行身禄の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこからは多くの枝講が生まれることとなった。こうして、冨士講は十九世紀の初頭にその隆盛期を迎え、俗に「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げたのである。当冨士登拝記念碑は、三軒茶屋の富士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が、講中の三十三回冨士登拝を記念して屋敷地の一角(現・太子堂四丁目四三八番地付近、茶沢通り路上)に建てたものである。また、その際、北口本宮冨士浅間神社(現、富士吉田市)の境内にも、もう一基記念碑を建てており、それも同所に現存している。堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の一つ田中屋を経営した旧家である。
大山道の道標も移設・保存されています。
道標
銘文〔左側面〕 右 登戸道
〔正 面〕 左 さがみ
(梵字) 大山道
年代 延享三年(1746年)
- 伝来
-
この道標は、もと弦巻5−16−31の三叉路にあったが、交通量の増加に伴い、通行車両の振動や接触などで、下部は土中に埋没した状態になっていた。そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって、当館へ移設されたものである。なお、道標のあった場所には、そのよすがを留めるために同型の石碑が建立され、次の銘文を刻んでいる。
「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。
財団法人 大場代官屋敷保存会
世田谷上町町会」
その他にも、館内の敷地には世田谷区内に散在していた道標や庚申塔なども集約して展示されています。
- EKomazawa Water Supply Station Towers
-
This water supply facility was built in 1924 to provide a stable supply of clean
water from the Tama River in Setagaya City to the then-growing Shibuya Town
(now Shibuya City). Known as the "Twin Towers," the facility is seen as a symbol
of the area by local residents.
世田谷代官屋敷(郷土資料館)の次は見所ポイントEの「駒沢給水所の配水塔」を訪れます。大正十三年(1924年)に世田谷区の多摩川から当時人口が増加していた渋谷町(現在の渋谷区)に安定的に清潔な水を給水するために建てられた水道施設です。「双子の塔」と呼ばれ、まちのシンボルとして地域の人々に親しまれています。
世田谷区に残された渋谷町水道の歴史遺産
明治末期から大正初期にかけての東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次いだ。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった中島鋭治博士に依頼して町営上水道布設の計画に着手、大正六年には実地調整を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水場に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を申請、大正九年に内務大臣、翌十年には大蔵大臣の認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正十年五月に着工となった。中島博士の計画は、砧村に浄水場を設けて清潔な水を作り、ポンブの力で駒沢給水場に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水するという斬新な仕組みであった。工事は順調に進み関東大震災を挟んで大正十三年三月に全工事が完了した。ここ給水場には、西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した二基の巨大塔が姿を現した。塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴あるトラス橋で両塔が結ばれている。この独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものである。同時期砧浄水場(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錐の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工している。なお昭和二年、ここ給水場には渋谷町上水道布設記念碑も造られた。その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和六年〜七年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われた。その際砧の浄水場には取水ポンプ室、駒沢の給水場には送水ポンプ室が新たに建造されたが、いづれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれている。昭和七年十月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えた。戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水場は高度浄水施設への転換と給水場の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外とも言えるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではなかろうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかげているよう思えてならない。平成十四年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛りな補修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装替えでイメージを一新した。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで、世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする恰好の風物詩となっている。中島博士生誕百五十年にあたる今年、駒沢給水塔風景遺産保存会と世田谷区は相携え、この地に残る世界的に貴重な近代化遺産を永く後世に残せるよう、都水道局の理解協力のもとに、思いを込めてこの銘板を作成した。
塔屋の装飾球が点灯した夕暮れ時を見てみたいものです。結構ロマンチックかも。
- GYoga Promenade
-
The Yoga Promenade is a one-kilometer-long walking path connecting Yoga Station and the Setagaya Art Museum. The portion paved with Awaji tile and a waterway flowing alongside it is known as the Iraka-michi, and poems from the ancient "Hyakunin isshu" anthology as well as patterns reminiscent of flowing water have been inscribed into its tiles.
駒沢給水所の配水塔の次は見所ポイントGの「用賀プロムナード」を訪れます。用賀プロムナードは、用賀駅から世田谷美術館までの約1kmの道のりをつなぐ遊歩道で、脇を流れる水路や淡路瓦で舗装された「いらか道」には百人一首や水の流れを感じさせる模様が刻まれています。
私が知っていたのはこの(↓)2首だけでした。
- HKinuta Park
-
Of all the parks in Tokyo, Kinuta Park particularly stands out because of its sprawling green grass. The reason for this is because it was originally a golf
course and was only later turned into a park. The park's straight lines of trees apparently originally served as windbreaks for farmhouses in the olden days.
用賀プロムナードの次は見所ポイントHの「砧公園」を訪れます。東京でも、芝生の広がりが際立っているのが砧公園です。もとはゴルフ場だったので、こんな公園ができました。直線状の木立は、むかし農家の防風林だったそうです。
砧公園の中を横切るようにして谷戸川(やとがわ)が流れています。
谷戸川は細い流れなので、公園に大量の雨が降った際に谷戸川に雨水が流れ込んで川が氾濫しないよう、芝生には保水機能を持たせています。
見えない貯水池
この公園には、はげしい雨が降った時、たくさんの雨水がいっぺんに「谷戸川 」へ流れこまないように左の図のようなしくみがつくってあります。雨が降りはじめると、雨水は地下につくった施設の中に入ります。この施設には、水を土の中に浸みこませるはたらきがあります。したがって少しの雨であれば、雨水はみんな土の中に浸みこんでしまいます。しかし、たくさんの雨が降ってきた時は、水の浸みこみが間に合わなくなり、雨水はまわりにつくってある土手の内側に貯まり、公園の中が池のようになります。雨がやむと水はゆっくりと時間をかけて少しずつ「谷戸川」に流れていきます。そして貯まった水はいつのまにかなくなってもとのとおりになり、池は消えてしまいます。つまり「見えない貯水池 」というわけです。
- ISetagaya Art Museum
-
Situated in verdant Kinuta Park, this museum holds a wide array of exhibitions, from exhibitions of artists connected to Setagaya, to joint exhibitions conducted in collaboration with museums across the country and the world.
砧公園の次は見所ポイントIの「世田ヶ谷美術館」を訪れます。緑豊かな砧公園の中にあり、世田谷ゆかりの作家の展覧会から、国内外の美術館・博物館との共催による展覧会まで、幅広い分野の展覧会を開催しています。野外にも彫刻が展示されていますね。抽象すぎて何だかよく分からないのですけど。
ということで、ウオーキングマップに紹介されていた世田谷区のその他の見所を巡りました。世田谷区は面積が広く、名所・旧跡も沢山あります。緑道や遊歩道も整備されていますので気軽に歩けますね。世田谷区のお散歩は今回で終わり、次は文京区を巡ります。
戻る