@みどりをめぐる道コース  

コース 踏破記  

今日は文京区の「@みどりをめぐる道コース」を歩きます。都営地下鉄三田線千石駅をスタート地点として、都心のオアシス小石川植物園・千駄木の文豪邸宅跡地・江戸時代の柳沢吉保から受け継がれる名庭園の六義園を巡ります。  

スタート地点:都営地下鉄三田線千石駅出入口A4
@小石川植物園
かつてこの地には、五代将軍・綱吉の館林藩主時代の別邸がありました。日本最古の植物園で、1684年に 「小石川御薬園」となり、1722年には園内に「小石川養生所」が創設。1877年に東京大学の附属となりました。
A森鴎外記念館
森鴎外が1922年に亡くなるまでの30年聞を過ごした場所で、2階の書斎から品川沖が見えたことから、「観潮楼」と名付けられました。鴎外はここで「青年」や「雁」などの名作を生み出しました。自筆原稿や書簡・観潮楼正門の門柱跡、「三人冗語の石」などが見学できます。カフェも併設。
B旧安田楠雄邸庭園
C高村光太郎旧居跡
Dファーブル昆虫館
E六義園
小石川後楽園と並ぶ、江戸の二大庭園の1つ。五代将軍・綱吉の側用人、柳澤吉保がこの地を賜り、美しく造成した庭園を持つ下屋敷を造りました。園名は「詩経」の六義から名づけられました。桂離宮の庭園の様式を採用した回遊式築山泉水庭園で、特別名勝に指定されています。

ゴール地点:都営地下鉄三田線千石駅出入口A4


スタート地点の都営地下鉄三田線千石駅出入口A4から歩き始めます。



千石三丁目交差点から千川通りを東南方向に進みます。千川通りから少し奥に入ったところに簸川神社が鎮座しています。

簸川神社の歴史

創建は第五代孝昭天皇の御宇三年と伝えられる古社です。もとは小石川植物園の地、御殿坂周辺の貝塚の上に鎮座し、八幡太郎源義家公(1039年〜1106年)が奥州平定の祈願に参籠した社とされています。元禄十二年(1699年)に現在の高台に移転し、巣鴨の鎮守と定められ、江戸名所のひとつに数えられていました。明治二十三年十一月、大正天皇陛下(当時東宮)が植物園に御成りの折、御臨拝賜りました。もとは社号に氷川を用いていましたが、大正時代、神主毛利昌教が神社の由緒を出雲の国、簸川にあるとし、氏子中に諮り簸川と改めました。




簸川神社は素戔嗚尊を祀っていて、勇武の神として崇められています。病患邪悪を取り除き、平和と繁栄の世を開き、商売繁昌・縁結び・文芸の神としても信仰されています。一之鳥居の奥から上がる50段の階段は合格階段と呼ばれていて、受験生が合格祈願に訪れるそうです。



今日は9月28日ですが、本殿前には茅の輪が設置されています。茅の輪くぐりには、毎年6月30日に行われる「夏越の祓(なごしのはらえ)」と、12月31日に行なわれる「年越の祓(としこしのはらえ)」があります。季節外れですが、コロナの穢れを祓うためなのでしょうか?



簸川神社の西側を北東に向かって上る長さ約110mほどの急坂は氷川坂と呼ばれています。氷川神社に接した坂ということでこの坂名が付けられました。氷川坂は別名「簸川坂」と呼ばれますが、これは大正時代に神社の名前が氷川神社から簸川神社に改称されたことに起因しています。

簸川神社・氷川坂(簸川坂)

・簸川神社
社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素盞嗚命である。源義家(1039年〜1106年)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。もとは現在の小石川植物園の地にあったが白山御殿造営のため、元禄十二年(1699年)この地に移された。社殿は、さきの空襲にあい全焼失したが、昭和三十三年(1958年)に再建された。境内の幟建一対は江戸時代、善仁寺門前町氏子中により奉納された貴重な石造物である。なお、1基は平成十二年久堅町民会の尽力で修復されたものである。

・氷川坂(簸川坂)
氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川たんぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和九年(1934年)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。




簸川神社の直ぐ先に見所ポイント@の「小石川植物園」があります。正式名称は、東京大学大学院理学系研究科附属植物園といい、植物に関する様々な研究を行っている東京大学の附属施設のひとつですが、一般にも公開されています。元々は江戸幕府によって開園された小石川御薬園があったところです。幕府は人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、寛永十五年(1638年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置しました。その後大塚の薬園は廃止され、貞享元年(1684年)に麻布の薬園を五代将軍徳川綱吉の小石川別邸に移設したものが小石川御薬園になりました。小石川御薬園内には江戸の貧病人のための診療所(小石川養生所)が設けられ、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の「赤ひげ」の舞台となりました。また、甘藷先生こと青木昆陽が飢饉対策作物として享保二十年に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った場所としても知られています。



園内には、数々の新発見のきっかけとなった植物が植えられています。

精子発見のソテツ

裸子植物のソテツに精子が存在することが、明治二十九年(1896年)東京大学農科大学助教授(当時)池野成一郎によって初めて明らかにされた。この発見は、平瀬作五郎によるイチョウ(本植物園保有)の精子の発見とともに、日本で近代的な植物学の研究が始まった時期に達成された偉大な業績である。このソテツは池野成一郎が研究に用いた鹿児島市内に現存する株の分株で、鹿児島県立博物館のご厚意によって分譲されたものである。

Spermatozoids of Cycas revoluta

Spermatozoids of Cycas revoluta Thunberg were discovered by Associate Prof. Seiichiro Ikeno, College of Agriculture, University of Tokyo in 1896, almost simultaneously with the discovery of spermatozoids in Ginkgo biloba L. by Sakugoro Hirase. These findings of gymnospermous spermatozoids were outstanding achievements in the early period of modern botanical research in Japan. This plant is an offshoot of the plant examined by Prof. Ikeno, which is now conserved in situ in the Kagoshima Prefectural Museum.




19世紀のヨーロッパでは、ワインの原料となる良質の葡萄の要望が高まり、そのための品種改良が期待されていました。修道士であったメンデルは、植物雑種の研究に着手し、遺伝の根本的な法則(メンデルの法則)を発見しました。この法則に基づき、葡萄の品種改良を行なうために修道院の庭に葡萄の木を植えました。これらの葡萄の木は、メンデルがイタリア旅行でフローレンス(フィレンツェ)から持ち帰ったもの、オーストリアのシュタイヤからのもの、あるいはモラビア地方在来の葡萄などが栽培されていたといわれています。大正二年(1913年)の秋にウィーンで開催された医学生理学会議に出席していた東京帝国大学教授の三好学は、かってメンデルが所属していたブルノの修道院を訪問することになりました。三好学はここでメンデルが使用していた顕微鏡・メンデルの肖像画・植物の実験園・植えられた葡萄の木・修道院裏手の丘にあるミツバチ小屋などを見学し、さらに25点にも及ぶ記念品を贈られました。その中に修道院の葡萄の枝もありました。大正三年(1914年)4月に記念品として贈られた葡萄の枝がシベリア鉄道経由で三好のもとに送り届けられました。三好学は小石川植物園の内山富次郎園丁長に依頼して挿し木にしてもらい、根付き生育を行いました。小石川植物園で現存するメンデル葡萄は、こうして生育した1株からさらにもう一度枝を取って挿し木した1株の合わせて2株が育っています。

メンデルのブドウ

遺伝学の基礎を築いたメンデル(1822年〜1884年)が実験に用いた由緒あるブドウの分株です。第2代植物園長を務めた三好学が、大正二年(1913年)、チェコのブルノーにメンデルが在職した修道院(現在のメンデル記念館)を訪ねたとき、旧実験園に残っていたブドウの分譲を依頼して、その翌年に送られてきたものです。その後、メンデル記念館のブドウは消滅したことがわかり、本園のブドウを里帰りさせて、現地にも同じブドウの株を復活させました。

Mendel's grapevine

The grapevine in the Botanical Gardens is derived from grapevines used for study by Gregor J. Mendel, the founder of genetics. The vines were introduced by M. Miyoshi, the second Director of the Botanical Gardens, in 1914.




万有引力発見のきっかけとなった林檎の木も植えられています。

ニュートンのリンゴ

物理学者ニュートン(1643年〜1727年)が、リンゴの実が木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したという逸話は有名です。ニュートンの生家にあったその木は、接ぎ木によって各国の科学に関係ある施設に分譲され育てられています。この木は昭和三十九年(1964年)に英国物理学研究所長サザーランド卿から日本学士院長柴田雄次博士に贈られた枝を接木したもので、植物園でウイルスを除く処置を受けた後、昭和五十六年(1981年)に植え出されました。

Newton's apple tree

In a famous anecdote, Sir Isaac Newton is credited with discovering the law of gravity after he saw an apple falling from a tree. Newton's apple tree in the Botanical Gardens is a graft originating from the apple tree in Newton's home responsible for this discovery. It was given to Y. Shibata, the former President of the Japan Academy, through the courtesy of Sir G. Sutherland, former Director of the National Physical Laboratory, England, in 1964. Unfortunately, this tree suffered from a viral disease, but was cured and rooted in the Botanical Gardens in 1981.




植物園の中には巨大な温室もあります。



温室の歴史が記されています。

公開温室120年の歩み

1896年に3号室、1900年に両翼が完成した温室は、我が国の木造西洋式温室として最初期に建設された温室の一つです。1945年5月24日の空襲によって焼失しましたが、戦後、残された煉瓦躯体を再利用し、1952年までに2・3・4号室が木造で再建され、1960年代には鉄骨造に改修されました。さらに1977年には1号室がアルミ造で再建され、建設当初を彷彿させる両翼構造が甦りました。骨組腐蝕状況調査で耐震性脆弱が指摘され、残念ながら2014年に一般公開が中止されましたが、植物園の主要施設として広く親しまれてきました。




温室は、熱帯や亜熱帯の植物を研究するために必須の施設です。

温室のはたらき

研究・教育での利用を主な目的として多様な植物を収集する小石川植物園において、熱帯・亜熱帯地域の植物の栽培に無くてはならない温室は最も重要な栽培施設のひとつです。この温室には植物園の教員や学生が海外調査により収集した貴重な植物や、国内外の植物園から種子や子苗によって入手した植物約2000種が栽培されています。限られた室内で、できるだけ多くの種類を管理し、個体識別を確実に行うため、大部分の植物は鉢植えで管理しています。

系統的に基部に位置すると考えられるものなど、多様性研究の鍵を握るとされる植物の多くが熱帯地域に集中していることが知られています。ところが目的の試料を現地で発見し収集するためには大規模な現地調査が必要です。そこで、数少ない調査の機会に収集した植物を、常に研究に使用できる状態で蓄積しておくことができる温室はきわめて重要な施設です。また、蓄積されている植物は、遺伝子資源として利用される可能性も秘めています。

地球上の生物多様性の保全においても、植物園の活動が大きく期待されています。熱帯・亜熱帯地域には、生物多様性が高いにもかかわらず自然破壊の危機に瀕しているホットスポットと呼ばれる場所が多く存在します。植物園では温室を利用した植物多様性の生息域外保全も積極的に進めてきました。特に、約140種の固有植物(その地域だけに生育する植物)のうち約90種が絶滅危惧植物と認められる小笠原諸島の希少植物について、30年以上前からその保護増殖に取り組み、自生地復帰の実績をあげてきました。

The Role of the glasshouse

The glasshouse is one of the most important facilities of the Koishikawa Botanical Gardens as it holds the collection of plants of tropical and subtropical origin that are vital to our research and education. The glasshouse holds approximately 2000 species of plants, collected during expeditions done by the garden's professors and students, as well as those introduced by seeds or seedlings through exchange with other botanical gardens. To keep as many plants in limited space as possible, and to securely track individuals, most plants in the glasshouse are kept in pots.

The tropics are home to diverse plant lineages that are key to the study of plant diversity, such as groups that occupy basal positions on the phylogenetic tree. However, obtaining plant samples in the tropics requires major expedition effort. The glasshouse therefore has a vital role of keeping plants collected during such expeditions to be used for research at any time. The plants kept in the glasshouse also have the potential to be utilized as genetic resources.

There is also high expectation on world's botanical gardens to contribute to the conservation of global plant diversity. The tropical and subtropical regions contain a high number of 'biodiversity hotspots', which are areas of high endemism but at the risk of habitat destruction. The glasshouse has thus been important in promoting ex situ conservation of plant diversity. Most notable is our conservation program of plants of the Ogasawara Islands; of the ca. 140 species endemic to the islands, ca. 90 are considered as endangered. Starting in the 1980's, our garden has propagated many of the endangered Ogasawara Island plants in the glasshouse and used them to successfully reestablish populations for some of the most critically endangered species.




温室の外の庭には、巨大な構造物とふたつの池が並んでいます。



池のひとつには水生植物が育てられています。

水生植物

水生植物(または水草)とは、陸上植物の中で二次的に水中生活に適応した植物の総称です。水辺への進出は陸上植物のさまざまな分類群で起こっており、花を咲かせる被子植物だけでなく、シダ植物にも水生のものがあります。水生植物は、種数でこそ陸上植物の1%未満に過ぎませんが、形態、生理、生態などのさまざまな面で独特の適応を遂げており、水草の存在を抜きに植物の多様性を語ることはできません。ミズニラやスイレンのように、植物進化を理解する鍵となる植物にも水草が含まれます。豊かな水辺に恵まれた日本には、湖沼やため池、水田、河川、湧水といった多様な水辺環境にさまざまな水草が生育しています。しかし、水辺環境の急速な変化や、繁殖力の旺盛な外来の水草との競争によって、絶滅の危機に立たされている水草も少なくありません。

Aquatic plants

Aquatic plants collectively refer to land plants that have adapted to living in aquatic environments. Adaptation to water has occurred in various lineages of land plants including not only the flowering plants but also ferns and lycophytes. Although representing <1% of the land plant species, they display some of the most remarkable adaptations in terms of morphology, physiology and ecology; thus, plant diversity cannot be understood without aquatic plants. Several plant groups that hold the key to understanding plant evolution are also aquatic, such as the quillworts (Isoetes) or water fillies (Nymphaea). Japan is endowed with a wealth of aquatic environments, such as lakes, ponds, paddies, rivers and springs, which harbor a rich diversity of aquatic plants. However, due to rapid loss of aquatic environments and competition with invasive non-native species, not a few species of aquatic plants are faced with the risk of extinction.




もうひとつの池が設置されています。

池と噴水
The pond and the fountain

歴史

この池は温室完成1・2年後に造られたことが写真から窺え、温室との調和を図るため、両翼前に2箇所設置されています。1923年刊行の「東京帝国大学附属植物園案内」では「水草栽培池」と記され、当時の写真からもハスが栽培されていたことが読み取れます。池を演出した中央の噴水は、残念ながら1945年5月の空襲で焼失してしまいました。

構造

長軸約9.5m、短軸5.7mを測る小判形を呈し、壁は切石積みで、鉢物を置くために上端が円盤状に加工された石柱が6箇所付置されています。そのため基礎は割石と砂礫で突き固めた強固な構造になっています。発掘調査で温室方向へ伸びる土管管路が検出され、当初は温室への給水機能も備えていたと推定されます。




竈には見えませんが。。。

ボイラー室の竈(かまど)
The furnace ruin of the boiler room

この竈跡は、ボイラー室床下より発見された遺構です。円形炉体部に長方形焚口を接続した柄鏡形をしています。上部構造は不明ですが、コンクリート製基礎の上には焚口から炉床にかけ耐火煉瓦が敷き詰められていました。耐火煉瓦には桜印と「イセカツ」銘の刻印が認められ、1883年に深川清住町で創業した「伊勢勝白煉瓦製造所」の製品と考えられます。伊勢勝は1887年に品川に移転して「品川白煉瓦製造所」と改称していることから、その間に生産された製品であることが判ります。1910年、新温室建設に伴ってボイラー室が増築され、その設計図面には発見された竈跡と同形の竈が2基描かれています。また温室建設当初(1901年頃)の写真にもそれに対応する2本の煙突が写っており、耐火煉瓦生産年代と合わせ、発見された竈跡が当時の遺構であることを裏付けています。本竈跡は、明治時代の温室用汽缶を知る貴重な歴史遺産です。




遺構となったかっての温室の構造物も丁寧に保存されています。

温室の保存と記録
Preserving and recording the brick structure of the original glasshouse

保存・展示・活用

小石川植物園の歴史遺産である旧温室煉瓦躯体を可能な限り保存・活用するために、温室1・2・3ではモルタルが塗られた現状で、メインエントランスでは煉瓦造であることを示すためにモルタルを剥がして保存・展示しました。新温室設計上保存不可能な箇所については、移築保存、ベンチへの再利用などの活用を行っています。

記録

上屋を含む解体部は、基礎構造・煉瓦の積み方・使用煉瓦の種類などの躯体構造に関する情報を考古学的方法による二次元記録、写真測量と座標データによるオルソ画像記録のほか、埋蔵文化財調査室と生産技術研究所との協業による三次元スキャンによって上屋細部までの情報をデジタル化し、多角的記録保存を行っています。




モルタルを剥がした煉瓦構造物がメインエントランスに展示されています。温室の説明よりも煉瓦の解説が詳しいですね。

温室を支えた煉瓦
Manufacturer's imprint on the bricks used for the glasshouse

煉瓦の刻印と年代

煉瓦の平手面には、文様・文字(イロハ・漢数字・社名)など製造所に関する刻印が認められ、国産煉瓦の生産・流通研究の重要情報として扱われています。各室の刻印を分析した結果、3号室・ボイラー室には、東京集治監(いわゆる小菅煉瓦)製を示す桜花印(単弁・複弁)が、1・2・4号室には、「太十字・漢数字」(現状で製造所不明)が多く、請負者と仕入ルートの関係を示唆する結果が得られ、またボイラー室増築部では再び小菅煉瓦に替わりますが、新たに蕾印・桜花印(単弁・複弁)+漢数字が加わり、小菅煉瓦の変遷を知る情報が得られました。それ以降の改修では、扇印・上敷免製(日本煉瓦製造株式会社)印などが押された機械成形製煉瓦主体で構成されるようになり、煉瓦生産最盛期の様相を探る一指標と評価されます。




日本で最初にサツマイモが試験栽培された場所だそうです。

甘藷試作跡

青木文蔵(昆陽)は、江戸付近でも甘藷(サツマイモ)の栽培ができるならば、利益も大きく飢饉の時の食料作物としても役立つと考え、享保二十年(1735年)に幕府に進言し許可を得て、この地で栽培を試みました。この試作は成功し、やがて全国的に甘藷が栽培されるきっかけとなりました。大正十年(1921年)にこの業績をたたえる記念碑が建てられました。

Experimental cultivation of sweet potatoes

Konyo Aoki conducted experimental cultivation of sweet potatoes in 1735, the first trial of its kind in the Tokyo area. His success initiated sweet potato cultivation throughout Japan as an emergency crop and is commemorated by a stone monument resembling a sweet potato.




ハンカチの木は、文京区役所手前の富坂に面した礫川公園にもありましたね。作家の幸田文さんが譲り受けたのはこの木の兄弟だったのでしょうか?

ハンカチノキ
Davidia involucrata Baill.

ハンカチノキは中国中部と西南部だけに自生する中国の固有植物で、海抜2000mほどの山地の湿った日当りのよい斜面などに生育している。欧米では園芸植物として昔から有名であり、庭木、街路樹として植えられている。ハンカチノキの名前のもととなった二枚の白いものは花を飾る特殊化した葉であり、植物学的には苞と呼ばれる。その下(内側)にある球状のものは花弁のない小さな花の集まり(花序)である。雄花だけからなる雄花序は花粉を散らした後に苞とともに地面に落ちるが、一個の雌花のまわりを多数の雄花が取り囲んでいる両性の花序は受粉して果実をつける。花序がこのような特殊な構造をしているためにミズキ科やヌマミズキ科に入れられることもあれば、ただ一種でハンカチノキ科(ダヴィディア科)がつくられることもある。




ちなみに、礫川公園のハンカチノキにはこんな案内板が立っていました。

幸田文ゆかりの「ハンカチの木」

「ハンカチの木」は、19世紀中頃中国に滞在したフランス人宣教師アルマン・ダビットによって、四川省の西境で発見され、発見者にちなんでダヴィディアと命名された。白い花びらのように見える部分は、大小たれさがった苞であり、これがあたかもハンカチを広げたように見えることから和名「ハンカチノキ」と名づけられた。なお、別名「ハトノキ」とも呼ばれる。一科一属一種といわれている珍しい木で、落葉高木、花は雌雄同株の丸い花序で、白い苞片に守られているように見える。4〜5月に花をつけ、5月初旬が見頃である。作家の幸田文(1904年〜1990年)が小石川植物園の山中寅文(東京大学農学部技術専門員)から譲りうけたこの「ハンカチの木」は、長女で随筆家の青木玉の庭に仮り植えされていたものである。平成十四年(2002年)12月、多くの方々に見ていただきたいという青木玉の好意により、ここ傑川公園に移植された。平成十六年(2004年)は幸田文生誕100年にあたる。

縁のある木

縁のあるなしは人ばかりではない。樹木にもそれがあり、時に思いもかけぬ縁が生じることがある。この木はたまたま私の家の庭に根を下してから開花を迎えるまで、実に二十年近い年月を過した。「ハンカチの木というのだから、きっと白い花が咲くのだろう」と、木を贈られた母は初花を楽しみにしたが、平成二年他界し、ついに花を見ることはなく、私は花を待つことを忘れた。それから七年、まぶしいほど明るい五月の空の下で新緑が萌え、枝先に大小二枚の真白な苞が風に揺れていた。中心に小さな蕾の集合体を両手で大切に囲っているように見える。木に咲く花のかたちとしては、他に類がなく、自然はたった二枚の白く美しい不思議な姿の花をハンカチの木に与えたかと胸が熱くなる想いで見守った。母が見たならどんなに喜んだか。多分それは私の目を通して、伝わったであろうと信じている。母から私に引き継がれたこの木が、新しい場所で、更に多くの方々との御縁を結ぶよう心から願って止まない。
平成十六年一月
青木玉




小石川植物園には、江戸時代に養生所という施設がありました。何故この場所に養生所が開設されたのかといいますと、ここには小石川御薬園という幕府の薬草園があったからです。寛永十五年(1638年)に三代将軍家光により、江戸城の南北に南薬園と北薬園のふたつの御薬園が開かれました。貞享元年(1684年)に綱吉が将軍になると、それまで住んでいた小石川の下屋敷が不要となり、跡地に南御薬園の植物を移植し、御薬園が誕生しました。これが小石川御薬園の起こりです。そして、小石川御薬園で作られた薬草を使い、貧しい人々の医療に役立てることはできないか、と考えたのが赤ひげ先生のモデルとして知られる小川笙船です。当時江戸では地方からの出稼者が増加し、そうした人々が病気になると十分な治療を受けることなく命を落とすといったケースが少なくなかったことから、小川笙船は八代将軍吉宗が制度化した目安箱に、このような人々に治療を施す施薬院を建てるよう直訴をしたのです。小川笙船が目安箱へ投書してから1年ほどで小石川御薬園の敷地内に病人40人が収容可能な小石川養生所が完成しました。宗教と無縁のところで貧しい人々のための病院が開かれたのは如何にも日本的と思います。

旧養生所の井戸

小石川養生所は徳川幕府が設けた貧困者のための施療所で、町医者小川笙船の意見により、享保七年12月4日(旧暦*、徳川實紀による)にこの場所に開設され、明治維新の時に廃止されるまで続きました。養生所は町奉行所の管轄で、40名(後に170名)の患者を収容することができました。この養生所の井戸は水質が良く、水量も豊富で、大正十二年(1923年)の関東大震災の時には避難者の飲料水としておおいに役立ちました。 (*:新暦1723年1月10日)

Well of “Koishikawa Yojyosho"

The Koishikawa Yojyosho (Charitable Hospital) was opened to the poor by the Tokugawa Shogunate on 10 January 1723 at this place and had accommodation for 40 (later 170) patients. This well was installed as a part of the Yojyosho. The plentiful water springing from this well was of high quality and therefore played a valuable role in saving refugees of the Tokyo Earthquake of 1923.




植物学では、自然界の植物を分類し、その標本を集めることが重要です。私には全く分かりませんが、植物園の一画に分類標本園があります。

分類標本園

現在の地球上には約150万種のさまざまな生物が存在している。この生物の多様性は、30数億年前に地球上に生命が誕生して以来、絶えず続けられてきた進化の結果である。25万種以上といわれる現世の高等植物(維管束植物)の大部分を占める被子植物は高等植物の中で最も新しく(1.2〜1.4億年前)起源し、その後爆発的に多様化してきたのである。ある種から新しい種が生まれるという種の分化が進化の過程において繰り返されて、種は互いにさまざまな程度の類縁関係をもつようになった。植物によって、類縁が近く互いによく似ている場合もあれば、類縁が遠く特徴が大変違っている場合もあるのはそのためである。生物の分類体系はそのような類縁関係を表している。分類体系では、いくつかの種が集まって属を、さらにいくつかの属が科を構成する。同じ属に含まれる種(例、サクラ属のモモとヤマザクラ)は異なる属の種(ナシ属のナシ)よりも互いに近縁である。種の学名(種名)は属名と種小名を組み合わせたものであるから、同じ属の種では属名は同じで種小名が異なり、異なる属の種とは属名が異なる。このように学名から類縁関係を知ることができる。この分類標本園には、植物の多様性が理解しやすいように、主として東アジアの高等植物約500種を分類体系にしたがって配列している。




小石川植物園の北東側に沿って上がる坂が御殿坂です。坂名は、かつて此の地に白山御殿があったことに由来します。坂の長さは約200mほどで、別名を大坂・富士見坂・御殿表門坂ともいいます。2002年に撮られた写真を見ますと、坂下のあたりに昭和五十八年6月作成の案内板が立っています。当時は御殿坂の歩道は狭かったようですが、現在では植物園の敷地を削って拡幅され、ブロック塀はコンクリート塀に変わっています。それと共に、案内板も撤去されたようです。ちなみに、案内板には次のように書かれていたとのことです。

御殿坂(大坂、富士見坂)

「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり。むかしは大坂といひしや」(「改撰江戸志」)。「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見へし故に、富士見坂ともいへり」(「江戸志」)。白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保七年(1722年)園内に“赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同二十年には、青木昆陽が甘薯の試作をした。明治になってからは東京大学の付属植物園となった。

   植物園の松の花さへ咲くものを
      離れてひとり棲むよみやこに
           若山牧水(1855年〜1928年)




御殿坂の坂上から平坦な道を進みますと、白山通りの白山下交差点に下る坂があります。蓮華寺坂は愛星幼稚園付近から白山下交差点に下る坂で、長さ約150mほどのやや急な坂になっています。坂名の由来は、坂下で蓮華寺の横を通ることに因んでいます。別名が蓮花寺坂とか御殿裏門坂になっていますが、御殿裏門とは白山御殿の裏手にある坂という意味です。

蓮華寺坂

「蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指ヶ谷町の方へ出る坂なり」と改撰江戸志にある。蓮華寺は、天正十五年(1587年)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭が六院あったという。なお、この坂道は小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和五十八年(1983年)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。




白山下交差点から白山上交差点に上がる旧白山通りの坂は薬師坂と呼ばれます。別名は薬師寺坂・浄雲寺坂・白山坂などいろいろあります。坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名付けられました。

薬師坂(薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂)

「妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱申候」(「御府内備考」)。坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。「新撰東京名所図会」には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保十五年(1730年)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。




白山下交差点の先で右側の小道に入りますと、円乗寺があります。



円乗寺には八百屋お七のお墓があります。

八百屋お七の墓

お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和二年【1682年】12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和三年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789年〜1801年)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。




地名の由来と八百屋お七の事件の顛末を記した案内板も立っています。「指ケ谷」の地名の由来については、別の案内板に「古くは、小石川村に属した。元和九年(1623年)伝通院領となった。寛永(1624年〜1644年)のころには、木立の茂った谷地であった。ある時、三代将軍家光が鷹狩に来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名ができたといわれる。」という説が記されています。

指ケ谷

このあたりは昭和三十九年八月一日施行の新住居表示によって白山の一部となるまでは「指ヶ谷町」と呼ばれていた。その町名の由来について丙戌書上(鳳閣寺支配正宝院)は「町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申候間、右唱より町名に相成候儀と奉存候」云々と述べている。しかし、「指ヶ谷」の名の起りについては不明である。なお、旧指ヶ谷町の東北端に位置したこの南縁山円寺は元和六年(1620年)宝仙法印によって開山された天台宗の寺院である。境内には芝居などで有名になった八百屋お七の墓がある。寺小姓の左兵衛という美少年と恋におちいったお七は、吉三郎なる無頼の徒にそそのかされて我家に放火した。放火は未遂に終ったが、すぐ吉三郎と共にとらえられ、天和三年(1683年)三月二十九日火刑に処せられた。生年十六であったと伝えられている。




お七のお墓は境内の奥に祀られています。今でも墓前には供花が絶えませんね。



薬師坂の中ほどから左手の路地を進んだ奥に白山神社があります。白山神社は東京十社のひとつで、梅雨の時期には3000株の紫陽花が群れ咲くあじさい神社として知られています。

白山神社由緒

当社人皇六十二代村上天皇天暦二年(946年)九月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。建武四年(1338年)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和二年(1616年)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安四年(1651年)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655年)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍家綱公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社末社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文六年(1667年【1666年?】)九月二十九日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。元禄三年(1690年)正月二十九日旧幕府より社領三拾石寄附之あり。右朱印元禄六年(1693年)九月二十九日戸田能登守相渡さる。元禄十六年(1703年)十一月二十九日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704年)六月十四日加藤越中守掛にて仮殿手当として金五百両桧五千挺寄附あり。再建せられたるも享保三年(1719年)三月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治三十二年拝殿建設、昭和八年改修し同九年九月十八日盛大に正遷座大祭施行す。

(なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり。)

当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである。




明治天皇は明治元年(1868年)11月8日にそれまでの畿内二十二社などの勅祭社に併せて東京近郊の主だった神社を准勅祭社と定め、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としました。昭和五十年(1975年)、昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行い、准勅祭社から遠隔の府中町六所宮と埼玉県久喜市の鷲宮神社を外し、23区内の10社を「東京十社」と定めました。



南参道に沿って何社かの境内社が並んでいます。白山神社が此の地に遷座する前から祀られていた地主神の八幡神社には、源義家の白旗桜の伝承があります。永承六年(1051年)、前九年の役で奥州征伐へ向かう源頼義・源義家(八幡太郎)父子が此の地の桜の木に源氏の白旗を立てて八幡神に祈祷したところ、待ち伏せていた敵を打ち破る事ができました。このような伝承から、源氏縁の八幡神社として古くから崇敬を集めてきました。昭和十年(1935年)に白旗桜が国の天然記念物に指定されましたが、その2年後に枯死し、現在の白旗桜はその後植えられたものだそうです。

八幡神社由緒

当社は人皇七十代後冷泉帝永承六年(1051年)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり。然るに敵将此の辺に兵を伏駒を込数千の薪を集め焼亡さんと計るとき、両大将当社前の桜木に御旗を立て岩清水八幡宮を奉勧請御祈誓ありて後、一戦に敵を討捕し討伐後ここに感謝の意をもって八幡神社を創建せらる。白山神社の境内の地主神に在りて御神徳顕著にして崇敬者多し。昭和五十年老朽化せし社殿改修し同年十二月十日遷座祭施行す(なお白山神社氏子中の協賛による)

御神木 旗桜

この桜木は旗桜と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり、花の真に旗の形なる花弁ある名花なり。




明治四十三年(1910年)、白山神社近くに住む宮崎滔天宅に寄遇していた孫文は、滔天と共に神社の境内の石に腰掛け、中国の将来と革命について語り合ったと伝わっています。

由緒

昭和四十三年度総代会に於ける宮総代秋本平十郎及浦部武夫両氏の談話の中に、白山神社境内には中国の政治家孫文先生と宮崎滔天寅蔵氏の腰掛けられた石があるとの御話がありました。依而(よって)昭和四十四年度の総代会に故滔天氏の御子息宮崎龍介氏を御招きし、其の当時の事をお伺ひ致した処、明治四十三年五月中旬の一夜、孫文先生は滔夫氏と共に境内の此の石に掛けながら中国の将来及其の経綸(けいりん:国家の秩序をととのえ治めること)について幾多の抱負を語り合わされて居た折、たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見られ、此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふお話をなされました。宮崎滔天全集の中に孫文先生は当神社に程近い小石川原町の滔天氏宅に寄寓せられて居た事が記るされております。此の歴史上の事実と当社との因縁を後世に伝うべく豫(か)ねてより総代会にて(しばしば)議題に上りましたが、此の度宮総代酒井龍蔵氏の御発言を契機として神社総代各町会総代有志の心からの賛同の結果、此の腰掛石の祈念碑建立の運びと成り之を永代史跡として残す事に成った次第であります。




本郷通りに面して浄心寺があります。門前には巨大な布袋尊さまが立っています。浄心寺は、還蓮社到誉文喬和尚が駿河に創建し、徳川家康の死後に家康の中間頭だった畔柳助九郎武重が江戸に戻る際に畔柳と共に江戸へ入り、元和二年(1612年)に湯島妻恋坂付近に創建し、振袖火事(明暦の大火)により当地へ移転しました。浄心寺の本堂には日本一大きいといわれる巨大木魚があります。重さは約500キロあり、撥(バチ)も巨大で2〜3人がかりで叩くそうです。先代の住職が大きい物を集めるが好きだったために、大きい仏具が沢山揃っているとのことです。



本郷通りの向丘一丁目交差点から不忍通りに抜ける道路は、通称「日医大つつじ通り」と呼ばれています。その中ほどに建つ建替えられたばかりの巨大な日本医科大学付属病院の前辺りから根津神社の裏門にかけて緩やかな坂になっています。根津裏門坂は根津神社の裏門前を本郷通りから根津の谷に下る緩やかな坂で、長さは約270mほどあります。根津神社の裏門前にあることでこの名前が付きました。根津神社裏門の鳥居前に案内板が立っています。

根津裏門坂

根津神社の裏門前を、根津谷から本郷通りに上る坂道である。根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永三年(1706年)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。「吾輩は猫である」を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。(家は現在「明治村」に移築)




根津神社裏門から団子坂上へ通ずる小路は「藪下道」と呼ばれています。

藪下通り

本郷台地の上を通る中山道(国道17号線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道」ともよばれて親しまれている。むかしは道幅もせまく、両側は笹藪で雪の日には、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は森鴎外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。また、多くの文人がこの道を通って鴎外の観潮楼を訪れた。現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。団子坂上から上富士への区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。




団子坂上交差点の手前の左手に見所ポイントAの「森鴎外記念館」があります。今日は休館日のようです。



文京区立森鴎外記念館は観潮楼跡に建てられました。

観潮楼跡

森鴎外(1862年〜1922年、医学博士、文学博士)は明治二十五年(1892年)30歳の時に駒込千駄木町21番地に居を構え、増築した2階部分から東京湾が眺められたとされたことにより、観潮楼と名付けた。鴎外はこの地において半生を過ごし、「青年」・「雁」・「阿部一族」・「高瀬舟」・「渋江抽斎」など代表作を執筆した。その後、建物は火災や戦災により消失したが「胸像」・「銀杏の木」・「門の石畳」・「三人冗語の石」は残り、当時の姿を偲ぶことができる。戦後、文京区はこの地を児童遊園地として開放し、東京都指定史跡の認定を受けた。さらに鴎外生誕100年にあたる昭和三十七年(1962年)に鴎外記念室を併設した文京区立鴎外記念本郷図書館を開館し、平成二十四年(2012年)に鴎外生誕150年を記念して、文京区立森鴎外外記念館を開館した。




団子坂上交差点を真っ直ぐに横断して住宅地の小路を進みます。こんもりと木々が生い茂った屋敷に見所ポイントBの「旧安田楠雄邸庭園」の標札が掛かっています。

東京都指定名勝
旧安田楠雄邸庭園

旧安田楠雄邸庭園は、「豊島園」の創始者で実業家の藤田好三郎によって作られ、大正八年(1919年)に家屋が竣工し、その後庭園が完成しました。大正十二年の関東大震災後、安田善四郎が買い取り、平成七年に善四郎長男の楠雄氏が亡くなるまで大切に住み続けられ、平成八年に公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈されています。安田善四郎は、旧安田財閥の創始者である安田善次郎の女婿です。当初約1800平方メートルであった(現在は約1500平方メートル)敷地は東西に長く、雁行式に配した日本家屋に沿って、前庭・主庭・中庭・坪庭の四つの庭園が配されています。特に南側の主庭は滝石組を含む東西16メートルある”流れ”を主景とし、効果的に配された樹木が絵画的な美しさを添え、各室からはそれぞれに異なる景色を楽しむことが出来ます。建物も、洋風の応接間を併せ持つ近代和風住宅であり、照明や家具も当時のままに残されています。建物と庭園とが共に関東大震災と第二次世界大戦の被災を免れ、今日まで受け継がれてきた貴重な文化財です。

Designated by the Tokyo Metropolitan Government as a Cultural Property of Scenic Beauty
Kyu-Yasuda Kusuo Tei Teien (The Former Yasuda Kusuo Residence)

This Residence was built for Fujita Yoshisaburo, the founder of "Toshimaen", which was a Toshima (initially Japanese) Garden located in Nerima ward. The building was completed in 1919, the garden was made later. After the Great Kanto Earthquake of 1923, Yasuda Zenshiro, a son-in-law of Yasuda Zenjiro who was the founder of Yasuda Zaibatsu (combine), purchased this residence. Afterward, his family settled here until his first son Kusuo was dead in 1995. And in 1996 his family donated this residence to Japan National Trust. The site is now about 1,500sqm (initially about 1,800sqm), and is slim in the east and west. The house in the site is set in a zigzag, so that each room has its own view(s) of gardens. Especially, the south garden has a main view of waterfall and flow which is 16 meters long, with trees give a picturesque scenery. The most of rooms have Japanese style, but a guestroom with European style. And the original lights and furnitures are remained. This site is very important that the building and garden were survived from the Great Kanto Earthquake and the World War II.




住宅の壁の一部が小豆色の煉瓦塀になっています。

宮本百合子ゆかりの地

旧姓中条ユリ(1899年〜1951年)は明治三十二年(1899年)小石川原町(現千石二丁目)で生まれた。父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任した。そのため3歳までその地で過ごし、のちに上京し、一家はこの奥の地である旧駒込林町21番地に住んだ。駒本小学校、誠之小学校、お茶の水女学校から、日本女子大(英文予科)に進んだ。女子大1年の時、毎年行っていた父方の郷里である郡山市郊外の農村を舞台にした小説「貧しき人々の群」を書き、天才少女とうたわれた。女子大は一学期で退学し、作家生活に入った。大正七年(1918年)アメリカに留学し、留学中結婚したが、帰国後離婚した。その経緯を描いた「伸子」は代表作となった。昭和二年(1927年)ソ連に旅し、帰国後、日本プロレタリア作家同盟に加入した。昭和七年に再婚し、昭和十二年中条ユリから宮本百合子に姓名を変えた。戦後、「播州平野」など多くの小説、評論、随筆を発表し、昭和二十六年実家である千駄木のこの地で没した。このあずき色の門柱は実家、中条家入口の名残りである。




その先に見所ポイントCの「高村光太郎旧居跡」の案内板が立っています。

高村光太郎旧居跡

高村光太郎[明治十六年(1883年)〜昭和三十一年(1956年)]は彫刻家・詩人・歌人。彫刻家高村光雲の長男として台東区下谷に生まれ、10歳の時に、ここからすぐ近く(現・千駄木5−20−6)に移り、そこで育った。東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科を卒業して欧米に留学、ロダンに傾倒する。詩人としては、在学中「新詩社」に加わり、「明星」に寄稿し、「パンの会」にも参加した。明治四十五年(1912年)に住居を父の家からこの地に移し、自分で設計した木造・外観は黒塗りの風変りなアトリエが完成した。以後、ここで数多くの彫刻・詩などの作品が生まれた。大正三年(1914年)長沼智恵子と結婚、昭和十三年(1938年)死別後は一人で暮らした。昭和二十年(1945年)4月の戦災で住居は焼失し、岩手県花巻に疎開した。昭和二十七年中野区桃園町の中西利雄のアトリエに仮寓。昭和三十一年(1956年)4月、73歳で没。墓地は豊島区駒込の染井霊園。




見所ポイントDの「ファーブル昆虫館(虫の詩人の館)」は、NPO日本アンリ・ファーブル会が運営する昆虫館です。日本アンリ・ファーブル会は、フランスの博物学者アンリ・ファーブルをひとつの理想像として、現代の日本の子供たちを中心に、自然に対する健全な感覚を養い育てることを目的としています。子供たちは遅くとも十歳くらいまでの間に仲間と自然の中で遊ぶことが望ましく、それによって健全な人間として必要な様々な感覚や能力を身につけることができます。しかし、それは現在の都会的環境では育ちにくいものです。日本人は昔から古里の自然に護られ、小動物、主として虫を相手にその姿や形の多様さ・美しさ・不思議さを知り、その命の貴さに触れてきました。これは図らずとも、あの偉大なる博物学者のアンリ・ファーブルの生涯の仕事と一致しています。しかし、現在の日本で、どうしたら子供たちを、そのように自然と親しませることが出来るでしょうか?日本アンリ・ファーブル会は、子供たちが昆虫や植物を自由に手に取り実感出来る自然環境、自由に利用できる資料館などを提供し、子供のみならずその家族にも、日本人がかつて所有していた自然についての感覚や美意識を取り戻してもらうことを目標に活動しています。



建物の壁には昆虫のレリーフが貼られています。蟲塚もありますね。虫には二通りの漢字があって、「虫」という漢字は、ものの形をかたどって表した象形文字です。この文字の元となった生き物は実は蛇で、カブトムシやダンゴムシといった「ムシ」と名の付く生き物ではありません。それら小さな生き物は、虫がたくさん集まりうごめいているという意味の「蟲」という別の漢字で表されていました。「蟲塚」とは、「昆虫塚」のことなんですね。



動坂上交差点に出ました。動坂は、動坂上交差点から不忍通りの動坂下交差点付近まで下る、本駒込四丁目と千駄木四丁目の間の長さ約200mほどの緩やかな坂です。坂上に日限地蔵堂があり、不動坂と呼ばれるべきところを略して動坂と呼ばれるようになったという経緯があります。坂下の手前に案内板が立っています。

動坂(堂坂)

この坂の由来については下記の通りである。「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂ありし旧地なり」(江戸名所図絵)

元和年間(1615年〜1624年)万行上人が伊勢の国赤目山で不動明王像を授けられ、衆生済度のため諸国を回り、駒込村のこの地に庵を設けた。その後三代将軍徳川家光により現在の本駒込一丁目に移された(現南谷寺)。この本尊は江戸時代から五色不動(赤・白・黒・青・黄)として有名である。その跡には日限(ひぎり)地蔵堂がたてられ信仰をうけていたが、現在、地蔵は徳源院に移されている。明治二十六年お堂の修理中地下より土器・石器が発見され、昭和四十九年には駒込病院敷地からも多数出土している。「動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動像在り、是れ目赤不動の旧地なり。よりて不動坂と称すべきを上略せりなりと言う」(御府内備考)




本駒込不忍通り沿いに、ワインショップ&ワインバーの「パンダワイン」があります。日本ではまだ数少ない高品質な中国ワインを広めたいと2018年から自社輸入の「寧夏ヤンヤン国際ワイナリー」や「シルバーハイツ」などの20アイテム以上の中国ワインを揃えています。 店主はフランスのブルゴーニュではワインの作り手として、中国上海ではワインインポーターとして働き、「中国ワインばかりでなく、世界中の様々なワインを届けたい」という想いでショップをオープンさせたそうです。ちなみに、中国では紀元前からのワイン醸造の痕跡が考古学的に発見されていますが、近代的ワイン産業は1892年に張裕(チャンユー)が設立されたことから始まりました。1980年代以降の改革開放政策の下、中国のワイン産業は急速に発展し、2015年には中国のブドウ畑の面積は82万haと世界第2位、ワイン生産量は11億リットルと世界第9位、ワイン消費量は16億リットルと世界第5位の数字を記録しています。ちなみに、ちなみに、ブドウ畑の面積世界一はスペインで、95万haとなっています。欧米のブドウは大半がワイン用として栽培されますが、中国のブドウは生食・ジュース・干しブドウ用が多いようです。日本は第26位の1.7万haです。一方、ワイン生産量はイタリアとフランスが拮抗しており、中国が下位なのは用途の違いによるものと思われます。ワイン消費量はアメリカがトップで、中国は人口は多いものの、やはり未だこれからが伸びしろのようです。1人あたりの年間ワイン消費量でみますと、アンドラ公国(フランスとスペインの間のピレネー山脈にある人口7万人の小さな国)が57リットルと最多で、アメリカは第55位の9.9リットル、日本は順位不明の3.2リットル、中国は1リットル、インドに至っては僅か9ミリリットルとなっています。インドのワインも美味しいんですけどね。



歩道に面して小さな広場があり、ミニチュアのような社が鎮座しています。壁には駒込神明町の案内プレートが貼り付けてあります。

旧駒込神明町(昭和四十一年までの町名)

もと、北豊島郡駒込村の内であった。明治二十四年に東京市に編入された。町名は、駒込の総鎮守天祖神社の旧称である神明社のあることから名づけられた。

駒込は一富士二鷹三茄子  (古川柳)

富士は富士神社、鷹は鷹匠屋敷で現駒込病院の地にあった。また富士神社裏一帯の畑からは富士裏のなすがとれて、有名であった。




文京区勤労福祉会館は、都電神明町車庫の跡地に建てられました。都電の車庫跡は、バスの車庫と都営住宅をセットにして利用するのが多いのですが、公共の施設を建てることもあります。まれに、民間の商業施設として売却する例もあります。何しろ、立地条件がいいですからね。



それと、跡地の一部を公園として活用する例も多くあります。神明都電車庫跡も、一部が公園になっています。神明都電車庫跡公園には、実際に使われた電車が保存・展示されています。公園に展示されているのは6000形の車両で、実際に都電40系統として運行していたものです。

都電客車の由来

ここに展示された都電は客車6000形といわれる形式で、昭和二十二年に1号車(6001号)が誕生し、昭和二十八年までに289両の車両が製造され、都内全域にわたり活躍しました。ここにある6063号は、昭和二十四年3月に63番目に製造されたものです。活躍の第1号は、昭和二十四年3月19日から青山車庫管内の路線を走行し、それから大久保、南千住車庫管内に移り、昭和二十四年9月からは、神明町車庫管内を走行し、昭和四十五年12月28日荒川車庫管内に移籍し、昭和五十三年4月27日まで約29年間活躍し、廃車となりました。

形式            半鋼性ボギー電動客車(6063号)
定員            96人(内座席22人)
面積            19.62u
最大寸法(長×巾×高)   12300X2210X3700
自重            15t




貨物車も展示されています。戦中と戦後の復興期には物資の輸送に大いに活躍したのですね。都心を縦横に網羅する都電は小物の輸送手段としては最適だったのかもしれません。

貨物車の由来

ここに展示した貨物車は乙2型といわれております。この貨物車は昭和十六年に乙10型を改造したものです。この貨物車は幸い戦火をまぬがれ、戦後も軌道敷の砕石などを輸送し、また一時は野菜、魚介類などの食料品輸送にも活躍したそうですが、昭和四十六年3月20日に荒川車庫で廃車となりました。

形式            電動無蓋四輪貨物乙2型
荷重            5t
積載容量          15立方メートル
面積            8.369u
最大寸法(長×巾×高)   7650X1980X3453




上富士前交差点の角に見所ポイントEの「六義園」の裏門があります。表門は不忍通りの千石一丁目交差点の2ブロック手前で右折した先にあります。レンガ塀が落ち着いた感じを醸し出しています。

レンガを使用した外周塀

江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳沢家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変ってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。




正門から園内に入ります。

特別名勝 六義園

六義園は五代将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳澤吉保が元禄十五年(1702年)に築園した和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園です。当園は江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、池をめぐる園路を歩きなが移り変わる景色を楽しめる繊細で温和な日本庭園です。園内には和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝、中国古典の景観が八十八境として映し出されています。明治十一年(1878年)に三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。昭和十三年(1938年)に岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和二十八年(1953年)に国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。六義園の名は、中国の詩の分類法(詩の六義=風・賦・比・興・雅・頌)にならった古今集の序にある和歌の分類の六体(そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌)に由来したものです。柳澤吉保の「六義園記」では、日本風に「むくさのその」と呼んでいましたが、現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから「りくぎえん」と読みます。

Rikugien Gardens is a kaiyu-style (circuit style) daimyo garden with artifical hills and a pond that reflect the taste of the world of Waka poetry. This garden was completed in 1702 by the lord of Kawagoe domain, Yanagisawa Yoshiyasu, who was deeply trusted by the 5th shogun, Tokugawa Tsunayoshi. This delicate and tranquil garden shows us a wide range of beautiful views stolling around the pond. The garden reflects 88 scenes of Wakanoura (a bay in Wakayama pref.), scenic spots that appear in Waka poems, and landscapes written in Chinese classics. This is a typical and representative daimyo garden of the Edo period. It became a villa of the founder of Mitsubishi, Iwasaki Yataro in 1878. Later, the Iwasaki family donated the garden to the City of Tokyo in 1938. The garden is not only a cultural heritage but a Special Place of Scenic Beauty of the country desigenated in 1953. "Rikugien" was named after the six categories of waka poetry which was originated from Chinese ancient poetry.




正門の先には、六義園の成り立ちを記した石碑と、園内に入る門があります。

東京市石碑
Stone marker commemorating the donation of Rikugien to Tokyo City

昭和十三年(1938年)、六義園は当時の所有者であった三菱財閥三代目の岩崎久彌によって東京市(現東京都)に寄附されました。この石碑はその時の記念として東京市が建てたもので、六義園の成り立ちも記されています。岩崎家が六義園を所有したのは、明治維新によって政府に上地された六義園を、明治十一年(1878年)に三菱財閥創業者の岩崎彌太郎が手に入れ、別邸としたのが始まりです。その後、岩崎久彌の本邸・別邸となり、後に 総理大臣に就任した政治家幣原喜重郎(彌太郎の女婿)が一時仮住まいとしていたこともありました。

内庭大門
Naitei-Daimon

右手の大きな門は「内庭大門」と呼ばれ、岩崎家所有当時の様子を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。かつては門をくぐった先のしだれ桜付近に、岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸がありました。




現在のしだれ桜は昭和になって植えられたものです。

しだれ桜
Weeping Cherry Tree

「シダレザクラ」は、「エドヒガン」という桜の品種の中で、枝が柔らかいために垂れながら成長していく種類のものです。「ソメイヨシノ」より少し早く、お彼岸のころに咲きますが、4月に入ってから満開になる年もあります。昭和三十年代に、東京都によって植栽されたもので、樹齢は七十年程度ですが、高さ約15m、幅約20mと大きく、形もよく成長しています。薄紅色の花が満開になると、あたかも水しぶきを上げて流れ落ちる滝のような姿になり圧巻です。「六義園のしだれ桜」として親しまれ、多いときには一日で三万人以上のお客様にご覧いただいています。




しだれ桜の脇に「新脩六義園碑」が建っています。 六義園は、三代目柳沢信鴻が寛政四年(1792年)に没した後の20年間ほどは殆ど利用されず荒廃していましたが、文化六年(1809年)になって四代目柳沢保光は家臣に命じて復旧工事を行いました。この際、失われた八十八境の石柱を補いました。この時に建てられたのがこの「新脩六義園碑」です。この石碑の後面にはこの復旧工事の経緯が書かれています。また前面には次の「六義園八景」の名称が記されています。

若浦春曙
筑波陰霧
吟花夕照
東叡幽鐘
軒端山月
芦辺水禽
紀川涼風
士峯晴雪

新脩六義園碑
Shinshu-Rikugien-hi

六義園の評判は作庭当時から高かったようですが、和歌の世界に憧れ、また皇室を尊んでいた吉保は、さらに狩野派の絵師に描かせた本園の絵図を霊元上皇に献上しました。完成して四年後の宝永三年(1706年)十月には、これに対して霊元上皇が六義園の景勝地「十二境八景」を選び、加えて延臣たちに命じて和歌を詠ませた巻物が吉保に下賜されました。一幕臣の屋敷の庭園に上皇を通じて和歌が贈られるのは極めて希なことでした。これほど名園として名高かった六義園も、やはり六義園を愛した三代信鴻が寛政四年(1792年)に亡くなって以降は荒廃の一途をたどっていましたが、文化六年(1809年)、四代保光が約一年の月日と多大な費用を投じて復旧工事を行い、一部新たな景勝を加え甦ることになったのです。その経緯について「六義園八景」と併せてこの「新脩六義園碑」に記されています。




中央に大きな石が立っているのが妹山で、その奥の少し大きい山が背山のようです。

妹山・背山

いもせ山 中に生たる 玉ざゝの
一夜のへだて さもぞ露けき
               「六義園記」

正面の中の島にある左側の山が妹山、右側の少し大きい方が背山です。六義園のモデルとなった紀州(和歌山県)の和歌の浦には、「妹背山」のある島が今も残ります。夫婦、兄妹のことを「妹背」と呼びますが、夫婦和合、子孫繁栄の思いがこめられているのでしょうか。中央に立つ大きな石(紀州青石)は玉笹石(八十八境の十六)と呼ばれ、歌の中の男女の仲を隔てる笹に見立てられています。また紀ノ川流域、吉野にも妹山・背山は実在し、万葉の歌枕として有名です。浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」は、文楽や歌舞伎の演目としてお馴染みです。




蓬(らい)島は手前のアーチ型の岩のようです。船屋が見えませんが、臥龍石は入り江に頭を出している岩なのでしょうか?

臥龍石・蓬(らい)島(岩崎家由来)

中の島の舟屋の左手にあるのが、八十八境の一つ、臥龍石です。その名の通り、龍が伏せているような形の石が水面から顔を出しています。池に浮かぶアーチ型の岩島が蓬(らい)島です。蓬(らい)島は中国の神仙思想において、修行により不老不死になった仙人が住むとされる神仙島のひとつで、日本庭園では古くから不老長寿を願って造られました。元禄十五年(1702年)の作庭当時にはなく、明治時代になって、岩崎家によって造られたものといわれていますが、庭園の景色に良く馴染んでいます。




まだまだ見所は続きますが、この辺りで六義園散策は終了とします。不忍通りに戻ります。東洋文庫は、三菱三代目社長だった岩崎久弥氏がアーネスト・モリソンが収集していた中国に関する欧文の文献を購入し、大正六年に一般に公開した施設です。

東洋文庫

大正十三年「東洋文庫」がここに設立された。オーストラリア人、アーネスト・モリソンは、ロンドンタイムズの通信員として中国に駐在した後、中華民国の政治顧問として活躍し、中国に関する欧文の文献四万五千冊を集めていた。これが譲渡されるに際して、欧米諸国から申し出があったのを、大正六年岩崎久弥氏(三菱三代目社長)が、これを購入し財団法人として一般に公開した。モリソンのコレクションは、中国に限られていたので、久弥氏は、これをアジア全地域に拡大し、欧文のみならず漢籍その他現地語の図書をも収集し、現在に及んでいる。また図書部の外に研究部を設けた。現在七十万冊を蔵し、アジア研究のセンターとして、世界でも有名である。




現在、文京グリーンコートとなっている場所には、かって理化学研究所がありました。

〜理化学研究所ここにありき〜

理化学研究所(理研)は、大正六年(1917年)財団法人として創立された。理研は歴史上に偉大な足跡を残し、今もなお日本の近代科学の推進役を果たしている。世界初の原子模型を発表した長岡半太郎博士、KS鋼を発明した本多光太郎博士、世界初のビタミンB1抽出に成功した鈴木梅太郎博士、日本初のサイクロトロン建設をした仁科芳雄博士など、数多くの著名な研究者たちがここに参集した。また、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士、朝永振一郎博士など多くの優れた研究者を輩出した。まさに、科学者たちの自由な楽園と呼ぶにふさわしい環境だった。理研は昭和二十三年(1948年)に改組され、仁科博士を初代社長とする株式会社科学研究所が設立された。この理研の流れを汲む科学研究所が科研製薬の 前身である。



案内板は令和四年10月に更新されています。


もう一枚の案内板が追加されています。

理化学研究所跡

高峰譲吉が提唱、渋沢栄一を総代として、皇室の御下賜金、政府の補助金、民間の寄付金を基に、我が国の産業の発展に資することを目的に、国内唯一の自然科学の総合研究所として、大正六年(1917年)3月20日に創設された。本部は当初有楽町の東京商工会議所内にあったが、最終的に当地(旧東京府立巣鴨病院の跡地)が選定された。第三代所長大河内正敏は、研究室制度の創出、研究成果の産業化を通して礎を築き、「理研の三太郎」と言われた長岡半太郎、鈴木梅太郎、本多光太郎をはじめ、池田菊苗、寺田寅彦、黒田チカ、仁科芳雄、加藤セチ、朝永振一郎、湯川秀樹ら、多くの科学者を輩出した。昭和二十三年(1948年)解散、(株)科学研究所が設立され、初代社長に仁科芳雄が就任した。仁科は、ペニシリンの製造販売事業をはじめ、戦後復興に努めた。昭和三十三年(1958年)に(株)科学研究所は、研究部門(現理化学研究所)と製薬部門(科研化学)に分離、その後、科研化学(株)は科研製薬(株)となり、研究開発型製薬企業として現在も当地に本社を置く。理化学研究所は昭和四十二年(1967年)に埼玉県和光市に移転し、一部の機能は理化学研究所駒込分所として当地に残ったが、平成二十二年(2010年)9月整理合理化計画により発祥の地の歴史を閉じた。




ゴール地点の千石駅に戻ってきました。



ということで、文京区最初の「みどりをめぐる道コース」を歩き終えました。さすがに歴史ある区だけあって、見所満載でした。次回は文京区で二番目の「文人の道コース」を歩きます。




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