- A文人の道コース
- コース 踏破記
- 今日は文京区の「A文人の道コース」を歩きます。都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅をスタート地点として、ツツジの名所として知られる根津神社・文豪が住んだ旧居跡・文人縁の旧跡などを巡ります。
スタート地点:都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅出入口5
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- @赤門(旧加賀屋敷御守殿門)
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「赤門」は1827年、加賀藩十三代藩主・前田斉泰が十一代将軍家斉の娘・溶姫を正室に迎える際、当時の慣例にならい建てられたもの。
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- A弥生式土器発掘ゆかりの地
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- B根津神社
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六代将軍綱豊(家宣)が生まれた地。根津神社はその産土神(守り神)となり、1706年に綱吉によって現在地に社殿が造営されました。権現造りの見事な姿を残す建築で、国指定重要文化財に指定されています。春、境内には3、000株あまりのつつじが咲き誇ります。
This marks the location where Tsunatoyo (lenobu), the sixth Tokugawa Shogun, was born. Nezu-Jinja Shrine became the tutelary deity of the birthplace (a protective deity) of the Shogun, and in 1706, Shogun Tsunayoshi had the shrine structure
built in its present location. It is a premier example of the Gongen style of shrine architecture, and has been designated a National Important Cultural Property. In the spring, it is noted for its masses of some 3,000 blooming azalea bushes.
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- C森鴎外記念館
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記念館は明治の文豪森鴎外が、後半生を過ごした旧居跡(都指定旧跡)に建てられました。2階からはるかに東京湾が望めたとされ、鴎外自ら「観潮楼(かんちょうろう)」と命名しました。館内では、鴎外の自筆原稿、書簡などの展示をはじめ、文京区ゆかりの文人たちを紹介しています。
The Memorial Museum was built on the site (a Tokyo Metropolitan Area-designated historical site) where Mori Ogai, the great Japanese writer of the Meiji Period (late 19th-early 20th century), lived the last half of his life. It was said that from the second story, Tokyo Bay could be seen far in the distance, so Ogai named his house Kancho-ro. The Museum has manuscripts and letters in Ogai's own handwriting on view with other memorabilia, and also introduces other literary figures associated with Bunkyo City.
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- D夏目漱石旧居跡
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文豪夏目漱石(1867年〜1916年)の旧居跡。漱石は、イギリスから帰国後の1903年から3年間ここに住んでいました。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師として活躍する一方、この旧居を作品の舞台として処女作、「吾輩は猫である」を執筆しました。
This is the site of the former residence of the great literary figure Natsume Soseki (1867-1916). After returning from England in 1903, Soseki lived here for three years. During that period he was a lecturer in English literature at the University of Tokyo and at the First Higher School, and he also wrote his first novel, I Am a Cat, which was set in that residence.
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- E旧伊勢屋質店(樋口一葉ゆかりの質屋)
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樋口一葉が生活に困った時にたびたび通ったとされる質屋。本郷菊坂にあり、蔵や見世、座敷を有した明治期の建物です。建物所有者の跡見学園女子大学と区の協働で、建物内部を一般公開しています。
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- F宮澤賢治旧居跡
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- G石川啄木旧居・喜之床跡
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ゴール地点:都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅出入口5
スタート地点の都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅出入口5から歩き始めます。
本郷三丁目交差点で本郷通りと春日通りが交差しています。
交差点の南西角に「かねやす」と大書きされたシャッターが見えます。近年まで洋品店として営業していたそうですが、数年前に店を畳んだようで今はシャッターを下ろしたままになっています。
かねやす
兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった(御府内備考による)。享保十五年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。「本郷も かねやす までは江戸のうち」と古川柳にも歌われた由縁であろう。芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
「かねやす」と春日通りを挟んだ反対側に本郷薬師の深紅の門(鳥居?)が建っています。
本郷薬師様由来
平安時代末期(源頼朝、西行法師の時代)殆ど人家の無かったこの地に小さな薬師堂が存在していたそうです。そこに慈覚大師が天台宗瑞泉院真光寺(現在は世田谷に移転)を草創されました。時代が下がって徳川時代ここに家康公、秀忠公、家光公と三代の将軍に仕え絶大な権勢を誇った天海僧正の知遇を得ていた法印清賢という和尚が居られました。「寺を建て江戸北東の守りとせよ」という前将軍家光公の意を継いだ四代将軍家継公の御声がかりで大名藤堂高虎を大壇越(後ろ盾)として真光寺を再興し其の時お堂にお迎えしたお薬師様が慈覚大師手彫の薬師像と言われております。以来本郷薬師様は人々の守り佛としてこの地に鎮座され幅広い信仰の対象として今日に到っております。さて神仏のお告げという言葉は皆様ご存知だと思います。それは時として現代人も驚くような科学性や現実性を持っていることがあります。将軍家継公晩年(1663年)の頃江戸八百八町に悪疫が流行り人々を恐怖の底に陥れました。それは当時瘧(おこり)といわれた病気で今日で云うマラリアでした。その流行を深く憂い疫病の退散を願って清賢和尚は藥師堂に籠り二十一日間の護摩修行の末佛様からお告げを授かりました。即ち「草藪を焼き払い、どぶ(下水)掃除をしてきれいな水が流れるようにし、街角の天水桶の水も取り替えお薬師様を拝んで、どんどんお線香を焚きなさい。」要するに薮蚊退治をお勧めになられたわけで、早速これを世に広めた結果、さしもの流行病も程なく治まったと言う事です。正に理に叶ったお告げと言うべきでありましょう。お薬師様は人間を病気、病苦から守り、死をはるか彼方に追いやる力を持つ仏として古来人々に広く信仰されて来ました。そして人生には様々な悩み事が付いて回るものです。悩みをお持ちの方は何事によらずお薬師様に祈願なさる事をお勧め致します。必ずご利益があります。
門の奥に小路が延びていて、幅の狭まった角に小さな御堂が建っています。
本郷薬師
この地は、真光寺(戦災にあい世田谷に移転)の境内であった。伝えによれば、寛文十年(1670年)ここに薬師堂が建立された。当時御府内に奇病猖獗(しょうけつ)し、病にたおれる者数知れず出たためこの薬師様に祈願して病気が治まったといわれている。本来薬師如来は人間の病苦をいやし、苦悩を除く仏とされている。以来人々に深く信仰された。「本郷夜店は著名なり。連夜商人露天を張る。毎月八日・十二日・二十二日は薬師の縁日なり。縁日の夜は、殊に雑踏を極むるなり・・・・」(新撰東京名所図会より)本郷薬師の縁日の夜は、植木・雑貨・骨董などの店が並び、飲食店もでて大へん賑やかであった。牛込神楽坂善国寺の毘沙門縁日と共に大変有名であった。御堂は戦災で焼失したが、昭和二十二年に改築され、さらに昭和五十三年に新築された。
本郷薬師の奥に櫻木神社があります。櫻木神社は、文明年間(1469年〜1486年)に創建され、太田道灌が江戸城を築城した際に「北野天満宮」(現・京都府京都市)から江戸城内に勧請したと伝わっています。徳川第二代将軍徳川秀忠の時代(1605年〜1623年)、湯島の高台にあった「桜の馬場」と称された場所に遷座しました。「桜の馬場」とは、湯島聖堂の西側で現在の東京医科歯科大学付近にあった馬場です。武士が乗馬訓練などを行う場所であり、馬場の堤に桜を多く植えて見事であった事から「桜の馬場」と称され、花見の時期には大勢の見物人が訪れました。桜の馬場に鎮座していたことが「櫻木神社」の社号の由来になったともいわれています。元禄三年(1690年)、徳川第五代将軍徳川綱吉によって桜の馬場に「昌平坂学問所(現在の湯島聖堂)」が移築される事となり、現在の地に遷座しました。当時は此の地に「真光寺」という寺院があり、その境内社として遷座した形となりました。明治になって神仏分離令により真光寺から独立して櫻木神社へと改称されました。尚、真光寺は戦後に世田谷区給田に移転しています。櫻木神社の御祭神は天神様と呼ばれる菅原道真公で、学問の神として広く信仰されていることから、別名「櫻木天神」とも称されています。文京区には東京大学を始めとして多くの学校があることから、社号の「櫻木神社」に因んで、「サクラサク桜神社」として合格祈願に訪れる受験生が多く見られます。
境内に神社の由来を記した石碑が建っています。
櫻木神社縁起略記
櫻木神社は約五百年前、後土御門天皇の御宇文明年間に太田道灌が江戸築城の際菅原道真公の神霊を京都北野の祠より同城内に勧請せられたものを、其後湯島高台なる旧櫻の馬場の地に神祠を建立して、その近隣の産土神として仰がしめ櫻木神社と名付けられたといはれる。其後元禄三年徳川綱吉が同所に御学問所昌平黌を設立するに当り、更に現在の地に遷座。即ち今を去る実に二百七十五年前の事である。旧社殿は東山天皇の御宇の創建であるが、六十四年を経た桃園天皇の宝暦三年に改築。爾来連綿実に百九十一年、昭和の大東亜戦争により烏有(うゆう:全く何もなくなること)に帰し仮社殿であったが、氏子相計り、昭和三十四年九月新築落慶して今日に至ったものである。然る所神社の周囲の玉垣老朽甚し、神徳を損ふことを憂え、本年之を再建せんとし、幸い氏子有志の協力によりこれが完成を見たのである。
櫻木神社の境内社に見送稲荷があります。櫻木神社の北東方向に、江戸を追放された者が放たれた坂があり、見送り坂・見返り坂と呼ばれていました。お稲荷様はそうした人々を見守る意味もあって鎮座されたのでしょう。
櫻木神社の向いに観音様が鎮座されています。ここも真光寺の境内だったのでしょう。
十一面観世音菩薩と真光寺
この地にあった天台宗真光寺の観世音銅像(座像長四尺八寸)は、十一面観世音菩薩と呼ばれ地域に親しまれている。東は現本郷通り、南は現春日通りに囲まれ、少し奥まった所に真光寺はあった。真光寺は藤堂高虎によって再建された寺であり、本郷薬師堂及び十一面観世音菩薩は真光寺境内に置かれていた。十一面観世音菩薩の蓮華座には、「六十六部供養佛 江戸神田鍛冶町 小林修理源義是作」と鋳物師の氏名が刻まれ、依頼主は「当寺第四世 大阿闍梨権大僧都 竪者法仰尚賢子具」とあり、「享保五庚子(1720年)九月日」の紀年銘がある。観世音信仰が盛んになったのは奈良時代(710年〜794年)からである。温顔で自ら修行の傍ら、多くの衆生を教化、救済してくれるこの像に人々の信仰が集まった。十一面観世音は本来慈悲の面を基調に、時に応じ、場に従い、様々な顔を使い分け、人々を救済してくれるため、深く信仰の対象となった。真光寺は太平洋戦争で焼失し、世田谷区給田に移転したが、この十一面観世音菩薩は罹災をまぬがれ、この地に残った。
本郷の町名の由来を記した案内板が立っています。
旧本郷(昭和四十年までの町名)
「御府内備考」に次の記事がある。本郷は古く湯島の一部(注・湯島郷の本郷)であるので、湯島本郷と称すべきを上を略して、本郷とだけ唱えたので、後世湯島と本郷とは別の地名となった。湯島のうちで中心の地という意味から本郷の地名が生まれた。江戸時代に入って、町屋が開け、寛文のころ(1661年〜1673年)には、一丁目から六丁目まで分れていた。中山道(現・本郷通り)の西側に沿って、南から一丁目〜六丁目と南北に細長い町域である。
本郷もかねやすまでは江戸の内 (古川柳)
東大で最も有名な門は見所ポイント@の「赤門(旧加賀屋敷御守殿門)」ですね。東大一帯は大半が江戸時代の加賀藩前田家上屋敷の跡地ですが、赤門はその御守殿門であり、十三代藩主前田斉泰が十一代将軍家斉の娘溶姫を正室に迎えるにあたり、当時の慣例から文政十年に朱塗りの門を建造しました。同じような門は他の大名家にも見られたようですが、赤門は焼失しても再建が許されないという慣例があり、現存する赤門はここが唯一といわれています。薬医門と呼ばれる様式で、左右の番所も含め、往時の様子をほぼそのままに残しています。赤門は東大の代名詞でもあり、現在も多くの学生を迎え入れる現役の門として機能しています。
赤門
文政十年(西暦1827年)加賀藩主前田斉泰にとついだ第十一代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。
This red-lacquered gate "Goshuden-Mon" was built in 1827 for the sake of the 11th Shogun Tokugawa Ienari's daughter, Yo-Hime, who married Maeda Nariyasu, the feudal lord of the Province of Kaga. The gate is legally piotected as one of the important cultural properties of Japan.
東京大学本郷キャンパスには多くの門がありますが、本郷通りに面した東大正門は格式があり、安田講堂に続く銀杏通りは東大のシンボルになっています。
本郷弥生交差点で本郷通りを右折し、言問通りの弥生坂を下ります。2番目の信号の角の壁に旧町名の案内プレートが貼られています。
旧向ヶ岡弥生町 (昭和四十年までの町名)
江戸時代は、御三家水戸藩の中屋敷であった。明治五年、町屋ができて向ヶ岡弥生町と名づけられた。町名は、水戸家九代斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
「文政十余り一とせといふ年のやよいの十日・・・
名にしおふ春に向ふが岡なれば
世にたぐひなきはなの影かな」
明治十七年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器と命名された。
交差点の角には見所ポイントAの「弥生式土器発掘ゆかりの地」と書かれた立派な石碑も建っています。「弥生式土器」って、社会科の教科書で見たことがあるような気がしますね。
東京大学浅野地区遺跡案内
東京大学浅野地区の名称は、明治二十年(1887年)「本郷区向ヶ岡弥生町に移転した浅野侯爵邸敷地の大部分がその後、大学敷地となったことに由来しています。浅野南門を入ったところには、「向ヶ岡弥生町」の町名由来となったとされる「向岡記碑」が置かれています。これは、文政十一年(1828年)3月10日に水戸藩主徳川斉昭によって碑文が書かれ、水戸藩中屋敷に建てられたもので、かつては工学部10号館の西側にありました。浅野地区は、「弥生時代の名称の由来となった土器が発見された「弥生町遺跡群」の一角にあたり、弥生時代の遺跡が確認されました。国指定史跡の「弥生二丁目遺跡」及び武田先端知ビルに設置された遺跡の解説は、自由に見学ができます。また、浅野地区では明治時代の遺跡も確認されています。このうち、武田先端知ビルでは、明治十年(1877年)から演習を開始した警視局(現警視庁)射的場が確認され、弾丸が出土しました。
根津一丁目交差点で左折し、不忍通りに入ります。不忍通りと言問通りが交差する根津一丁目交差点周辺は、かって根津八重垣町と呼ばれていました。歩道脇に旧町名案内板が立っています。
旧町名案内 旧根津八重垣町(昭和四十年までの町名)
宝永三年(1706年)根津神社が、元根津(団子坂上の北側)から現在地(六代将軍家宣の生まれた甲府中納言家徳川綱重の山手屋敷であった)に移って、その門前に町屋が開かれ、根津門前町といわれた。明治二年、根津八重垣町と町名を改めた。それは、根津神社の祭神素盞鳴尊の歌によったといわれる。
八雲起つ 出雲八重垣つまごみに
八重垣造る その八重垣を
根津の名称は、根津神社の天井や絵馬などに、ネズミが多くかかれていることからではなかろうか。大黒天(大国主命)が祭られているが、ネズミはその使いといわれる。(「御府内備考」)
根津神社の周辺一帯はかって根津須賀町と呼ばれていました。「わが心須賀須賀須といわれたによると」って、どういう意味?
旧根津須賀町(昭和四十年までの町名)
もと、甲府宰相徳川綱重(三代将軍家光の子で五代将軍綱吉の兄)の屋敷があった。綱重の子の綱豊(六代将軍家宣となる)がここで生まれ、団子坂上にあった根津神社が産土神(生まれた土地の神)であった。綱豊は綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に移った。綱吉は、宝永三年(1706年)根津神社を甲府屋敷の跡に移し、華麗な社殿を造営した。また町屋が開かれ、根津社地門前と称した。明治二年、町名を根津須賀町とした。根津の名の由来には、ねずみのいわれ、台地の根にあって舟の泊まるところなどの各説がある。須賀は、根津神社の祭神素盈鳴尊が、出雲の須賀に宮居を定め、わが心須賀須賀須といわれたによると。
根津神社の正門の大鳥居前から東大球場裏にかけて、”S”字状に曲がって急坂が上がっています。坂道の形がS字状であるために、森鴎外が命名して旧一高生たちがこの名で呼んだのが坂名の由来になっています。別名を権現坂または新坂といいます。権現坂は根津権現に因むものと思われます。坂下の大鳥居脇に案内板が立っています。
新坂(権現坂・S坂)
本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。森鴎外の小説「青年」(明治四十三年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説「青年」を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。根津神社現社殿の造営は宝永三年(1706年)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。
見所ポイントBの「根津神社」は根津権現とも称され、元准勅祭社(東京十社)のひとつになっています。楼門は三間一戸・入母屋造・桟瓦葺で、唐門の手前に位置しています。唐門や本殿などと同じ宝永三年(1706年)の建造です。楼門(随身門ともいいます)は、貴族の警護のために随従した近衛府の官人である随身像を左右に安置した神社の門のことを指します。根津神社の楼門の右側の青い服を着た随身像は、水戸黄門こと水戸光圀がモデルといわれています。
根津神社はつつじの名所としても有名です。現在でも50種3000株のつつじが4月中旬から咲き始めますが、元々は甲府宰相徳川綱重が自宅の庭に植えたのが始まりでした。今は晩秋で、緑の葉に覆われています。
神橋を渡り、左折してつつじ苑入口に入りますと、右手に高い石碑が立っています。
つつじ苑の記
当根津神社の社地は江戸時代もと甲府宰相徳川綱重の下屋敷であり、当時よりつつじの名庭であった。没後五代将軍徳川綱吉は兄綱重の子綱豊を嗣子と定めた時、その氏神たる当神社の御神恩に感謝し、この邸地に当時の名工をすぐって世に天下普請と称せられる壮大な造営を行い、今に残る華麗な社殿、神門等を奉建。宝永三年駒込の旧鎮座地より一品公辨親王司祭の下に遷座祭を斎行。神苑には更につつじを増植し、以来この地は「つつじが岡」と称せられ実に江戸の名勝であった。併し年処を経るに従い、漸くその姿も衰え右の佛の亡び行く事を思い、慨き十数年前より氏子一同献木の挙を興し、昭和四十五年「文京つつじ会」を結んで花季には「つつじ祭」を催行。その充実と発展とに努め、今や樹数数千本。その種類も頗る多く、往時の「つつじが岡」に勝る盛観を見るに至った。本年第十回つつじ祭開催に当り有志一同相謀り、記念に本碑を建立、その由来を後昆に伝える所以である。
扁額に「乙女稲荷神社」と記された鳥居の奥に夥しい数の朱の千本鳥居が続いています。鳥居は、神社の崇敬者から献納されたとのことです。
離れた場所から眺めると、こんな感じです。
祠に上の壁に何やら描かれた額が掲げられているのですが、巨大な蕪らしきものを獣が狙っているようで、よく意味が分かりません。
乙女稻荷神社 祭神 倉稲魂命
宝永三年(1706年)根津神社がこの地に遷座した後、「つつじが岡」の中腹に穿たれた洞に祀られた社で、古記録には「穴稲荷」とある。霊験あらたかと崇敬者多く、参道には鳥居の献納が絶えない。現在の社殿は昭和三十一年に奉建されたものである。
祠の右手に庚申塔が6基建っています。普通は一基一基離して置かれますが、ここでは6基の庚申塔を六面に張り合わせた石塔状にしてあります。
庚申塔(六基・根津神社境内)
ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡幅などのため、根津神社に納められたものである。正面から左回りに刻まれた像、銘文を見ると、
@青面金剛・猿・鶏・寛文八戊申(1668年)・駒込村・施主十名
A観音像・庚申供養・施主十二名
B日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元祿五壬申(1692年)施主二十六名
C日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680年)願主一名
D梵字・庚申供養・寛永九年壬申(1632年)・都島庚(□)馬米村・施主七名
E日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主十名 宝永六己(うし)(1709年)
(口は欠けた文字)
この中で、Dの庚申塔は、寛永九年(1632年)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和九年のもので、これより九年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。庚申信仰は中国の道教から生まれ、六十日ごとにめぐる庚申(かのえさる・十干十二支の組合わせ)の夜は、人がねむると、三三尸の虫がその人の体からぬけて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合してわが国に渡来し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集り、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過した。また、祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神であるとの説もある。
「塞大神」と書かれた石碑も建っています。
塞の大神碑 根津神社
この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘1−1)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。この追分は、日本橋から一里(約四粁)で江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋よりに一里塚があり、榎が植えられていたが、明和三年(1766年)に焼け、その跡に庚申塔がおかれたが、これも文政七年(1824年)の火災で欠損した。その跡地に、この塞の大神碑が、明治六年(1873年)建てられた。同四十三年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれる。
駒込稲荷神社は、元々は徳川六代将軍家宣公の父である綱重公の屋敷内に建てられました。
駒込稲荷神社
根津神社が千駄木村より遷座する前、この地は六代将軍の父徳川綱重公の山手屋敷であった。その屋敷の守り神として、寛文元年(1661年)に祀られた古い社である。綱重公は他の江戸別邸、桜田屋敷・三田屋敷・浜屋敷(今の浜離宮)にも同じ稲荷を祀っており、浜離宮内の祠は当所同様今も残っている。
「徳川家宣胞衣塚」という、石を積み重ねた塚があります。 「胞衣」とは、胎児をつつんでいる膜と胎盤のことです。
徳川家宣胞衣塚
六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文二年(1662年)4月25日ここで生まれた。胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。塚正面には、明治十四年(1881年)に建てられた「胞衣塚碑」があり、徳川家宣胞衣塚の由緒を伝えている。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。家宣が将軍綱吉の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
手水舎の水盤は、300年ほど前に真鶴産の本小松石の一枚石から切り出して作られた貴重なものだそうです。本小松石は、約40万年前の箱根火山から放出されたマグマの塊でできています。
この水盤は三百年程前真鶴産本小松石の一枚岩から切出して造られたものです。澄んだ水が青く見える程深く掘られた水壺は、石質ともに今では珍しく貴重な手水鉢です。
本郷通りの向丘一丁目交差点から不忍通りに抜ける道路は、通称「日医大つつじ通り」と呼ばれています。その中ほどに建つ建替えられたばかりの巨大な日本医科大学付属病院の前辺りから根津神社の裏門にかけて緩やかな坂になっています。根津裏門坂は根津神社の裏門前を本郷通りから根津の谷に下る緩やかな坂で、長さは約270mほどあります。根津神社の裏門前にあることでこの名前が付きました。根津神社裏門の鳥居前に案内板が立っています。
根津裏門坂
根津神社の裏門前を、根津谷から本郷通りに上る坂道である。根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永三年(1706年)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。「吾輩は猫である」を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。(家は現在「明治村」に移築)
根津裏門坂の坂下の千駄木二丁目交差点を左折し、不忍通りを進みます。団子坂下交差点から坂が上がっています。団子坂は千駄木二丁目と三丁目の間にある長さ約180mほどの緩やかな坂で、団子坂下交差点付近から、団子坂上交差点の先まで上っています。坂の中ほどで北側に少し張り出した弓形に曲がっています。別名を潮見坂・千駄木坂・七面坂といいますが、坂名の由来は坂近くに団子屋があったためとか、悪路のため転ぶと団子のようになるからとかいわれています。
団子坂
潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」(御府内備考)。
「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治四十年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。
団子坂上交差点を左に入り、藪下通りを進みます。
藪下通り
本郷台地の上を通る中山道(国道17号線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道」ともよばれて親しまれている。むかしは道幅もせまく、両側は笹藪で雪の日には、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は森鴎外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。また、多くの文人がこの道を通って鴎外の観潮楼を訪れた。現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。団子坂上から上富士への区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。
藪下通りに入った直ぐ先の右手に観潮楼跡と表示されたプレートをはめ込んだ石塀が高く聳えています。
観潮楼跡
森鴎外(1862年〜1922年、医学博士、文学博士)は明治二十五年(1892年)30歳の時に駒込千駄木町21番地に居を構え、増築した2階部分から東京湾が眺められたとされたことにより、観潮楼と名付けた。鴎外はこの地において半生を過ごし、「青年」・「雁」・「阿部一族」・「高瀬舟」・「渋江抽斎」など代表作を執筆した。その後、建物は火災や戦災により消失したが「胸像」・「銀杏の木」・「門の石畳」・「三人冗語の石」は残り、当時の姿を偲ぶことができる。戦後、文京区はこの地を児童遊園地として開放し、東京都指定史跡の認定を受けた。さらに鴎外生誕100年にあたる昭和三十七年(1962年)に鴎外記念室を併設した文京区立鴎外記念本郷図書館を開館し、平成二十四年(2012年)に鴎外生誕150年を記念して、文京区立森鴎外記念館を開館した。
現在は見所ポイントCの文京区立の「森鴎外記念館」になっています。
文京区立 森鴎外記念館
(Mori Ogai Memorial Museum)
文京区立森鴎外記念館は、明治、大正期に活躍した森鴎外(本名 森林太郎)が暮らした家の跡に建てられています。鴎外は、明治二十五年(1892年)1月から、この地で家族とともに暮らしました。家は団子坂の上に位置し、2階から品川沖の白帆がのぞめ、鴎外により観潮楼と名づけられました。敷地内には、往時を偲ばせるものが今も残っています。藪下通りには正門の門柱の礎石や敷石、庭には鴎外ゆかりの「三人冗語」の石や、大銀杏があります。また「沙羅の木」詩碑、「観潮楼址」碑も設置されています。鴎外は軍医として勤めるかたわら、「青年」「雁」「高瀬舟」などたくさんの小説や翻訳を執筆しました。また、この家には鴎外を訪ねて、永井荷風、芥川龍之介、伊藤左千夫、石川啄木、齋藤茂吉など多くの文人が訪れました。観潮楼は、森家の住まいのみならず、文人たちの社交場でもありました。文京区は、多くの文化人が住んだ文の京でもあります。鴎外がたくさんの人と交流し、みずからも散策に出かけたこの地から、当時の面影をさがしに街へお出かけください。
「沙羅の木」は、鴎外が明治三十九年に「文芸界」に発表した詩です。朝開花し夕方には落花する、観潮楼の庭に咲く沙羅の木(ナツツバキ)を詠んでいます。昭和二十五年(1950年)6月、観潮楼跡地に「沙羅の木」の詩碑建設の計画が立ち上がり、鴎外の長男・於菟から小説家永井荷風に揮毫が依頼されました。
沙羅の木
褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり
ありとしも葉がくれに
見えざりしさらの木の花
大銀杏の木は、敷地の奥に聳えています。
旧森鴎外邸の正門の門柱の礎石や敷石は、入口の塀の前に保存されています。
「舞姫」は森鴎外の短編小説で、明治二十三年(1890年)1月号の「国民之友」に発表されました。ドイツに留学した主人公の手記の形をとってドイツでの恋愛経験を綴り、高雅な文体と浪漫的な内容で鴎外初期の代表作とされています。そんな舞姫をモチーフにした彫像が森鴎外記念館の向かいに建っています。
「舞」について
明治時代を代表する文豪、森鴎外の初期の代表作「舞姫」は、明治十七年(二十二歳)から四年間にわたるドイツ留学を記念すべき、豊かな浪漫情緒に満ちた美しい作品として知られています。文京区では、「彫刻のあるまちづくり」事業として汐見児童遊園に彫刻を設置するにあたり、ここが森鴎外の旧居の前面であることや、本区とドイツのカイザースラウテルン市とは姉妹都市であることから、「舞」というテーマを設定し、彫刻家一色邦彦氏に制作を委託しました。一色邦彦氏(昭和四十年前後、この近隣に居住)は、小説の内容にとらわれることなく自由な発想でイメージを広げ、空を背景とした天女を連想させるようなシルエットで「舞」を表現し、また鴎外の生きた明治時代の女性に通ずる顔立ちを造りあげました。
浄土宗寺院の光源寺は、1589年に神田で創建され、1648年に現在の地に移されました。奈良の長谷観音を模した十一面観音像は高さが6m以上あり、境内の野梅の巨木とともに「梅の大観音」と親しまれています。観音像は元禄年間に建立されましたが、東京大空襲で消失し、1993年に再建されました。毎年7月9・10日は「ほおづき千成り市」で賑わいます。光源寺のある町域は、かって旧駒込蓬莱町と呼ばれていました。
旧駒込蓬莱町(昭和四十年までの町名)
元文年間(1736年〜1741年)町屋が開かれた。町内向側に寺院4か寺(瑞泰寺・栄松寺・清林寺・光源寺)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺・浄心寺の両側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細長い道)といわれた。明治五年、浅嘉町の一部と、高林寺門前、浩妙寺、浄心寺などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。町名は、中国の伝説にある東方の海中にあって、仙人が住むという蓬莱山の名にあやかり、将来の繁栄を願ってつけられた。明治十三年、駒込片町、下駒込村の各一部を合併した。町内には寺院が多く、戦災で焼失したが大観音で有名な光源寺、将軍に献上した”お茶の水”で有名な高林寺(振袖火事でお茶の水からここに移る)がある。
野梅の巨木は二代目が植わっています。初代はどの位の大きさだったのでしょうか?
「蓬莱梅」の由来
[野梅性(やばいしょう)白梅、樹齢約300年]
かって、この大観音堂の傍らに梅の古木があったが、昭和二十年5月25日の空襲で、観音堂と共に焼失した。この度、大観音再建にあたり、代替りの梅の木を各地に探し求めたが、榛名山の麓でこの梅を見付け出し、昔を偲ぶ思いをこめて、ここに移植した。蓬莱梅の名称は住居表示改正前、ここの町名であった駒込蓬莱町に因んで名付けたが、明治末頃迄、駒込辺りは梅や桜の花木の産地として有名であった。
光源寺の駒込大観音は、金箔で作られた木彫りの観音像です。昭和二十年に本堂を始め、観音堂・観音像などを戦災で消失しましたが、平成五年に観音堂や駒込大観音を復元しました。
観音堂の脇には、初代観音像を支えた礎石が保存・展示されています。
初代大観音礎石
[小松石、神奈川県真鶴原産]
7年の歳月を費して、元禄十年(1697年)に造立された初代大観音(尊像身丈2丈6尺、約8.5メートル)の下に据え置かれ、中央の四角の穴に大観音の芯棒を差し込み安定を図っていた礎石(大)と、焼失前の観音堂の基礎石(小)の一部です。
光源寺角の駒込学園前交差点を左折し、日本医科大学医学部方向に南下します。日本医大の手前に、見所ポイントDの「夏目漱石旧居跡」があります。文豪夏目漱石がイギリスから帰国後の明治三十六年から3年間住んだ場所です。ここで、処女作の「我が輩は猫である」を執筆し、旧居は作品の舞台となりました。「倫敦塔」や「坊ちゃん」、「草枕」などの大作もここで執筆されました。現在は日本医大同窓会館の敷地となっています。
夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
日本医科大学同窓会館
夏目漱石 本名・金之助。慶応三年〜大正五年(1867年〜1916年)小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治三十六年3月から明治三十九年12月、現在の西片一丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。その作品「吾輩は猫である」の舞台として、”猫の家”と呼ばれ親しまれた。この地で、「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。漱石が住む13年程前の明治二十三年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
石碑も建っています。塀の上を歩くのは?我が輩は猫である。
夏目漱石旧居跡
夏目漱石は明治卅(三十)六年一月英国から帰り、三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構へた。前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅(三十)八年一月「吾輩は猫である」「倫敦塔」等を発表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の續稿(ぞっこう:続稿)と竝行(へいこう:並行)、卅(三十)九年初から「坊っちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした。歳末廾(二十)七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に車念した。千駄木町は漱石文學発祥の地である。森鴎外も前に(自:明治二十三年十月、至:明治二十五年一月)その家に住んでゐた。家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。
日本医科大学の角で右折し、根津裏門坂を上がります。向丘一丁目交差点で左折し、本郷通りに入ります。交差点角付近に正行寺があります。正行寺には「とうがらし地蔵」というお地蔵さんがいます。
せき止めの
とうがらし地蔵
この寺の境内にまつられている地蔵尊は「とうがらし地蔵」と呼ばれ、咳の病に霊験あらたかなことで知られている。「江戸砂子」に「当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり。」とある。寺に伝わる元文三年(1738年)の文書によれば、僧の「覚宝院」が、元禄十五年(1702年)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら座禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は「覚宝院」が”とうがらし酒”を好んだことから、とうがらしを供え諸願成就を願ってきた。尊像は、昭和二十年(1945年)5月の空襲にあい、その後再建されたものである。なお「とうがらし地蔵」とともに名の知られた「とうがらし閻魔」は、焼失したままとなっている。江戸時代、「旧岩槻街道」の道筋にあたるこの辺りは、植木屋が多かったところから「小苗木縄手」それがかわって「うなぎ縄手」と呼ばれていた。
東京大学の本郷キャンパスは言問通りで南北に分断され、北側に農学部、南側にその他の学部が入っています。農学部の敷地は、もとは東大教養学部の前身にあたる旧制第一高等学校が明治二十二年に神田一ツ橋から移転してきた場所です。昭和十年に駒場にあった東京帝国大学農学部と敷地交換が行われ、現在に至っています。正門の柱は古びた石造りですが、開閉門は風格のある木材で造られています。 農正門の由来を記したプレートの材料にも拘っていますね。
農正門
農正門は、1935年に農学部が駒場から第一高等学校跡に移転した後、1937年に創建された。現在の門は2003年に木曽のヒノキ材を用いて復元された。この板は北海道演習林産のイチイ材である。
This gate, "Nou-Seimon", was originally built in 1937 for the Faculty of Agriculture to commemorate its transfer in 1935 from the University's Komaba Campus, thus occupying the site of the former First Higher School. The present gate was restored in 2003 with Hinoki cypress. This board was made using the wood of Japanese yew tree grown in the University Forest in Hokkaido.
本郷弥生交差点で右折し、緩い坂を下ります。ここはかって両側が崖になっていて、川が流れていました。旧町名案内板に「森川町」のいわれが書いてあります。
旧森川町(昭和四十年までの町名)
江戸時代は森川宿と称した。明治五年に岡崎藩主本多氏の屋敷地と、先手組屋敷と併せ、森川宿から森川町と名づけた。先手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備にあたった。森川宿は、馬建場で人馬の休む所であった。町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。
坂の途中に清水橋という橋が架かっています。西片町と森川町(現在の本郷六丁目)を結ぶこの橋は、正式名を「清水橋(からはし)」といい、地元では空橋・伽羅橋・唐橋とも呼ばれています。江戸時代、西片町側には備後国福山藩阿部家、森川町側には三河国岡崎藩本多家の江戸屋敷がありました。当時は未だ西片町と森川町の間に橋はなく、谷底に一筋の清水が流れる急峻な谷間で隔てられていました。この地に清水橋が最初に架けられたのは、明治十三年(1880年)に阿部邸前から本多邸前への道が整備された頃と考えられています。同じ頃、谷底は道路として整備され、清水の流れも道の端に残るだけとなったことから「からはし(空橋)」とも呼ばれるようになったと伝えられています。この地ゆかりの文人、樋口一葉の日記にも「空橋」として登場するなど、多くの人々から親しみ、愛されてきました。清水橋はこれまで4度架け替えられており、二代目の木橋は、明治三十九年(1906年)に、旧福山藩士の生まれで著名な建築家の武田五一(1872年〜1938年)の設計によるものでした。三代目の橋は、架橋された年代や構造等については不明です。四代目の橋は、コンクリート造で、昭和十一年〜十二年(1936年〜1937年)頃に架橋されたと考えられています。そして、現在の五代目となる清水橋は、当時の木橋だった頃の面影も感じられる木目調のコンクリート橋として、平成三十一年(2019年)に架橋されました。
菊坂下交差点で左折し、菊坂を上がって行きます。左手に恐ろしく古い木造家屋と白塗りの蔵が建っています。見所ポイントEの「旧伊勢屋質店(樋口一葉ゆかりの質屋)」です。
一葉ゆかりの伊勢屋質店
万延元年(1860年)この地で創業し、昭和五十七年に廃業した。樋口一葉(1872年〜1896年)と大へん縁の深い質店であった。一葉の作品によると、一葉が明治二十三年、近くの旧菊坂町(現本郷四丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。明治二十六年、下谷竜泉寺町に移ってからも、終焉の地(現西片1−17−8)にもどってからも、伊勢屋との縁は続いた。一葉が、24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは、一葉とのつながりの深さを物語る。店の部分は、明治四十年に改築した。土蔵は、外壁を関東大震災後ぬり直したが、内部は往時のままである。
〜 一葉の明治二十六年5月2日の日記から 〜
此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、
羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ゆかんとす。
蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ
菊坂から南側の路地に下りる階段は幾つかありますが、とある階段下に見所ポイントFの「宮沢賢治旧居跡」の案内板が立っています。
宮沢賢治旧居跡
宮沢賢治(明治二十九年【1896年】〜昭和八年【1933年】)は、詩人・童話作家。花巻市生まれ。大正十年(1921年)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた(右手建物の2F中央付近です)。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し、昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集「注文
の多い料理店」に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。
菊坂通りには多くの文人達が住んでいました。道路の両側には、それら文人達の案内板があちらこちらに立っています。
石川啄木 明治十九年〜明治四十五年 この近くに住居跡あり
東京朝日新聞校正係りの傍ら万葉集以来の短歌にたいし、内容と形式の上からこれに挑戦し口語を交えた三行書きにして生活感情を豊かにうたった。二十七年というごく短い生涯の内に文学に対する情熱を燃やし続けていたが、その生活は家庭的経済的に恵まれず惨めなもので悲惨な生活が健康をも害した。幼子の死、母と妻の不和、妻の家出、母の死、父の家出、これらが彼の死を早めたとも云える。とにかく日本の歌人の中で最も知られている人であろう。この近くに彼の旧居跡が三ヶ所程ある。主な作品は一握の砂、悲しき玩具などの歌集。
菊坂上から再び本郷通りに出て、本郷三丁目交差点を右折してコースから外れますが春日通りを進みます。左手に、一軒の床屋さんがあります。かって石川啄木が2階に間借りしていた見所ポイントGの「石川啄木旧居・喜之床跡」です(当時の建物は明治村に移築されています)。
啄木ゆかりの喜之床旧跡
石川啄木は、明治四十一年(1908年)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5−5・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治四十二年(1909年)の6月であった。五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。喜之床での生活は2年2か月、明治四十四年の8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5−11−7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治四十五年(1912年)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。喜之床(理容アライ)は明治四十一年(1908年)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和五十三年(1978年)5月啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和五十五年(1980年)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。
かにかくに渋民村は恋しかり
おもいでの山
おもいでの川 (喜之床時代の作)
本郷通りを進み、順天堂大学と東京医科歯科大学の間を通って外堀通りに入ります。
東京医科歯科大学の前に金属製の案内碑が置かれています。
近代教育発祥の地
江戸時代、このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌)があり、明治維新後は文部省が設置され我が国の近代教育の原点となる施策が展開されました。この近代教育発祥の地に、昭和五年(1930年)に本学の前身である東京高等歯科医学校が移転され、世界に冠たる医療系総合大学院大学へと飛躍しております。
This area is the sacred birthplace of modern education in Japan
In premodern Japan, the surrounding area was home to the Confucian academy called
Shohei-zaka Gakumonjo, and came to be known as the sacred birthplace of Japanese
scholarship and learning. In 1930, the Ministry of Education established the Tokyo
National School of Dentistry, the predecessor of Tokyo Medical and Dental niversity
(TMDU). Since then TMDU has ascended to the highest ranks of higher education to
become a world-leading comprehensive medical university.
聖橋の下から湯島聖堂の前を通って神田川沿いに坂が下っています。相生坂は長さ約180mほどの緩やかな坂で、かって昌平坂と呼ばれた3つの坂のひとつでした。神田川を挟んで対岸の駿河台の淡路坂と並ぶことから、相生坂と名付けられました。ただ、現在でも昌平坂の別名はあるようです。
相生坂(昌平坂)
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
これやこの孔子の聖堂あるからに
幾日湯島にい往きけむはや 法月歌客
湯島聖堂の歴史は江戸時代まで遡ります。
史跡 湯島聖堂 孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡
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湯島聖堂と孔子
孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省済寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄三年(1690年)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。
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昌平坂学問所跡
寛政九年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齋、安積艮齋、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮齋らはこの地が終焉の地となっている。
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近代教育発祥の地
明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治四年(1871年)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。
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現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正十二年(1923年)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和十年(1935年)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
湯島聖堂の東側に沿って外堀通りから国道17号線に上がる坂があります。昌平坂は長さ約95mほどの緩やかな坂で、別名を昌平脇坂・団子坂といいます。江戸時代に昌平黌が開所した時は、学問所周辺の三つの坂はひとしく「昌平坂」と呼ばれました。その後、3つの坂名に分れましたが、この坂は昌平坂の名前を引き継ぎました。
昌平坂
湯島聖堂と東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。元禄七年(1694年)9月、ここを訪ねた桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。
萬代の秋もかぎらじ諸ともに
まうでゝ祈る道ぞかしこき
神田祭で知られる神田明神(正式名称は神田神社)は、神田・日本橋(日本橋川以北)・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場/築地魚市場など108か町会の総氏神になっています。神田は伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、当初は神田ノ宮と称しました。江戸時代になり、江戸城増築に伴って慶長八年に神田台へ、更に元和二年(1616年)に現在の地に遷座しました。江戸総鎮守として尊崇され、神田祭は江戸三大祭りのひとつです。山車は将軍上覧のために江戸城中に入ることが許されたので「天下祭」ともいわれました。
江戸総鎮守神田明神 神田神社御由緒
御祭神
一の宮 大己貴命 おおなむちのみこと(だいこく様)
二の宮 少彦名命 すくなひこなのみこと(えびす様)
三の宮 平将門命 たいらのまさかどのみこと(まさかど様)
正式名称・神田神社。東京都心108町会の総氏神で、神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として青果市場・魚市場の人々からも篤く崇敬されております。縁結び、家内安全、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。当社は、天平二年(730年)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から見て表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。さらに明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。当社のご社殿は、近代神社建築を代表する建築家大江新太郎らの設計により昭和九年、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の権現造で建立され、現在、国登録有形文化財に指定されております。また境内には総檜造の随神門や伝統文化の継承や新たな文化発信の拠点として平成三十年に竣工した文化交流館、令和二年にリニューアルした結婚式場・明神会館など新旧様々な建造物がございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行われております。資料館には、数千点の貴重な絵巻や浮世絵等が所蔵されています。また小説やドラマで有名となった銭形平次等、多くのドラマやアニメの舞台としても知られています。当社の祭礼・神田祭(かんだまつり)は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭・江戸三大祭の一つにも数えられております。現在は鳳輦・神輿をはじめとする祭礼行列が神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内の108町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約100基が神社へ宮入りする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。
当社は令和十二年(2030年)に創建1300年の節目を迎えます。創建1300年を迎えるにあたり、今日この瞬間にも、そして未来においても常に新しく瑞々しい場所であり続けるよう社殿の修復を中心に1300年の記念事業を推進してまいります。
神田明神は江戸十社の一社になっています。
神田明神の表門といえば随神門ですね。随神門は1975年に昭和天皇即位50年を記念して再建されました。外回りに朱雀や白虎・青龍・玄武の四神が彫られ、内周りには大黒神話がモチーフになった彫刻が施されています。二層目にある金箔が施された「繋馬」の彫刻は平将門公に由来するものです。四神の配色と大相撲の土俵の色房との関係は初めて知りました。
随神門欄間彫刻
随神門四方の欄間彫刻は四神が彫られ、中央部には御祭神大國主之命の神話が描かれている。四神とは、中国古代の天文学上、北極星を中心として、東は青龍(蒼龍)西は白虎(白虎)南は朱雀(朱鳥)北は玄武(玄武亀)夫々の星を禽獣の名をもって表わされた。わが国では大宝元年(701年)朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められている。またこれらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒、中央を黄とされた。近年身近なものとして、大相撲における土俵上の各方位には色房を垂らしてそれぞれの方角を示しているのが見受けられる。
男坂の階段上の切り株に注連縄が蒔いてあります。
明神男坂大公孫樹
この公孫樹は、向い側の男坂解説にもあるとおり江戸の昔よりこの地に育ちました由緒ある樹木です。大正時代、関東大震災により社殿をはじめ神社の諸施設がことごとく炎上し崩壊したなか、その焼け跡に唯一残されたのがこの公孫樹でした。震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ち、その後、昭和二十年の東京大空襲による油脂焼夷弾が東京一帯を襲いましたが、昭和九年建立の鉄骨鉄筋コンクリート造・総漆塗の社殿は当時としては日本初の耐火耐震構造を持つ神社建築であったため焼失を免れました(国登録文化財・文化庁)。その一方、ひこばえは被災の憂き目にあったにもかかわらず立派な樹木となり親木を支えることとなりました。この度、親木のほうは枯木につき倒木危険防止のため上部を伐採し保存することといたしました。江戸時代、月見の名所に植えられた公孫樹は、大正・昭和の災害にも遭遇しながらも子孫を残し、この地の歴史を伝えてきた大切なご神木と言えます。災難除け・厄除け・縁結びのご神徳を持ち長い間この地を見守ってきたご神木として、今後とも後世にお伝えいたします。ひこばえの生育が後世までも受け継がれてゆくことを心より願うものであります。
本殿の右手に「獅子山」があります。獅子山は親子の獅子像ですが、1923年の関東大震災の時に子供の獅子が失われました。1990年に新しく子供の獅子が作られ、現在の「獅子山」になっています。
千代田区指定文化財
石獅子
この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物のひとつです。享保年間(1716年〜1735年)に、下野(現在の栃木県)の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。文久二年(1862年)11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録があります。3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落した子獅子を見る構図になっています。このうち江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は大正十二年(1923年)の関東大震災で失われ、平成元年(1989年)に天皇即位を記念して再建されました。
* 千代田区指定文化財は獅子の夫婦2頭
Chiyoda City Designated Cultural Property
Stone Lions
This stone sculpture is one of the few remaining stone sculptures in Chiyoda City from the Edo Period. It is said it was made by the master stonemason Ishikiri Tobe from Shimotsuke (current-day Tochigi Prefecture) the Kyoho Era (1716-1735). Records
show the associates of a money-exchange shop dedicated a load of stone to Kanda Jinja Shrine in November 1862. The composition shows 3 stone lions, the parent lions looking at the lion cub pushed down below. Meanwhile, what survived from the Edo Period was the lion couple only, the lion cub and the lion rock being lost in the Great Kanto Earthquake of 1923, but in 1989 it was rebuilt to commemorate the enthronement of His Majesty the Emperor.
* The lion couple are the Chiyoda City Cultural Property
巨大な力石が積み重なれています。こんな巨石を持ち上げられるのかな?
力石
力石とは、一定重量の円形または楕円形の石で、神社の境内や会所(地域の集会や寄合いを行う場所)などにあって、若者達が力試しに用いたと言われています。神田神社境内にある力石の由来は銘文があり、文政五年(1822年)12月に神田仲町二丁目(現在の外神田一丁目)の柴田四郎右衛門が持ち上げたことが分かります。江戸・東京の若者達の生活と娯楽を知るうえで貴重な資料です。
Chikaraishi (Strength Stone)
Chikaraishi are round or oval shaped stones (ishi) of a certain weight kept in shrine grounds or meeting places (places where the local community gather or meet), etc., and are said to have been used to test young men's strength (chikara). The origin of the strength stone in the grounds of Kanda Jinja Shrine is unclear,
however, it is an invaluable artifact informing us about the lives and amusements of young men in Edo and Tokyo. This strength stone has an inscription telling us that Shibata Shirouemon from Kanda Nakacho (current-day Sotokanda 1-chome) lifted the stone in December 1822.
湯島聖堂前交差点を右折して湯島天神方向に進みます。道路の先が擂鉢の底のようになっています。
清水坂は、清水坂下交差点から湯島天神方向に上がる長さ約100mほどの急坂です。明治時代、ここの土地は清水精機会社の所有でした。大正時代に入ってから清水精機社は土地を町に提供し、坂道を整備しました。この功績を称えて「清水坂」の坂名が付けられました。坂下近くに「清水坂」と刻まれた石柱が建っています。
清水坂
江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦三年(1657年)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永六年(1853年)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人たちが、 清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。
清水坂の坂上から右手の路地に入った石垣の上に神社があります。妻恋神社とはロマンチックな名前ですが、名前の由来は悲しい物語に因んでいます。
妻恋神社
祭神は、倉稲魂命・日本武尊・弟橘媛命の三柱である。
江戸時代に当社に伝わった縁起によると、その昔、日本武尊が東征の折、この地へきて倉稲魂神(稲荷神)を祀ったことを起源であるとする。また、日本武尊が三浦半島から房総へ渡る時、大暴風雨に遭い、妃の弟橘媛命が身を海に投げて海神を鎮め、一行を救ったことから、妃を船魂神(海神)として当社に祀ったという。江戸時代、当社は正一位妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣人を集めた。また、関東近辺のひとびとの求めに応じて各地に稲荷社を分霊したり、「野狐退散」の祈祷などをおこなったりした。当社は、関東総司とも称したほか、江戸時代後期に作られた「稲荷番付」では行司の筆頭にあり、江戸にあった多くの稲荷社の中でも特別な地位に位置付けられ、高い社格を有した。
妻恋神社の先に三組坂上交差点があります。「三組」はかっての町名です。
旧湯島三組町(昭和四十年までの町名)
元和二年(1616年)徳川家康が駿府で亡くなったので、江戸へ召し返された家康付の中原、小人、駕籠方3組の者の大縄地(一括して広い土地を賜わる)となった。駿河から帰ったので俗に駿河町と呼んだ。その後、元禄九年(1696年)町屋を開き、3組の御家人が拝領した土地なので三組町と名づけられた。五千円札の肖像の新渡戸稲造は、明治四年数えの9歳で叔父の養子となり上京した。翌年旧南部藩の脇慣義塾(三組町105番地)に寄宿した。近くの湯島天神に兄の病気の全快を祈って水ごりをとった。けなげな稲造を見て神官が声をかけ、説教会に呼んだ。自分自身が光明で自分の信ずる道を進めという教えは、一生の指針になった。
道路の東側は切り立った崖になっていて、周辺には多くの坂や階段があります。実盛坂(さねもりざか)は別名を貝坂といい、長さ約20mほどの急階段です。階段上から見下ろすと足がすくむような非常に急な傾斜になっています。実盛塚・首洗いの井戸・産湯の井戸などが坂下にあったという斎藤実盛(長井別当とも呼ばれます)にまつわる伝説があり、それに基づいて実盛坂という坂名になりました。
実盛坂
「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永二年(1183年)源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。湯島の“実盛塚”や“首洗いの井戸”の伝説は、 実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
湯島天満宮は東京の代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っています。受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れますが、普段も学問成就を願う人や修学旅行の生徒達で賑わっています。境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った藤原亮子・小畑実による湯島の白梅は戦中時の歌として大ヒットしました。歌のタイトルのように、境内の約300本の梅の木のうち約8割は白梅となっています。鳥居の脇に由緒書きが掲示されています。
湯鳥神社由緒
御祭神菅原道真公 天之手力雄命
例祭日 五月二十五日
湯島神社は湯島天満宮、湯島天神として全国津々浦々まで知られている。雄略天皇の勅命により、御宇二年(458年)一月創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのかはじまりで、降って正平十年(1355年)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め、本社に勧請した。文明十年(1478年)十月太田道灌これを再建し、天正十八年(1590年)徳川家康公が江戸城に入るにおよび特に当社を崇敬すること篤く、翼十九年十一月豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世の続き文教大いに賑わうようにと暮公の遺風を仰ぎ奉ったのである。その後林道春、松永尺五、堀杏庵、僧堯恵、新井白石など、学者丈人の参拝もたえることなく続いた。徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心として、当天満宮を崇敬したのである。明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月後世に残る総檜木造りで造営された。
表門の奥には湯島神社の案内板も置かれています。
湯島神社
湯島神社は菅原道真公を祀ったもので湯島天満宮又は、湯島天神の名で有名です。菅公の徳は全国に浸潤し天神様と尊ばれ全国に祀られて、学問の神様として敬われています。伝えられるところでは文和四年(1355年)湯島郷民の勧請に始まり文明十年(1478年)太田道灌が修建したといわれています。青松が茂る神境に野梅が盛んに香り風雅に富んだ所として古くから名を知られ、その後江戸幕府の朱印地になり、林道春、新井白石等の多くの学者に文神とし崇められました。境内の梅は一時枯れましたが、現在では、地元民の篤志により、数百本の梅樹が植えられ、2月から3月に行われる梅まつりにはみごとな花と香りで参拝者、観賞者を楽しませています。また梅園の中には、満天下の子女の紅涙をしぼらせた「婦系図」のゆかりの地として里見淳外16名の文筆家ら旧知関係者によって昭和十七年(1942年)9月7日に泉鏡花の筆塚が設立されました。
YUSHIMA SHRINE
Commonly known as the Yushima Tenjin, Yushima Shrine stands on a ridge above Kiridoshi-zaka slope. The shrine is said to have been founded in 1355 and was afterward restored by Dokan Ohta in 1478. The grounds are dotted with a large number of Japanese plum trees and commands a fine view of the streets below the east cliff. It is well known that such literary scholars as Doshun Hayashi and Hakuseki Arai worshipped the shrine as the "Shrine of Literature". The plum trees at one time nearly withered, but the donation of hundreds of young trees by the local community has succeeded in retaining the fame of the shrine. The annual “Ume-Matsuri", the Plum Festival, in February through March still claims attention of the nation-wide plum admirers.
泉鏡花の筆塚は、右側の写真の左下に建っている小さな石碑のようです。
社殿は平成になって建替えられました。
湯島天満宮
社殿は平成七年(1995年)総檜木造りとして造営された。平成五年(1993年)お木曳き(造営の開始)の神事が行われ、遷座祭(完成)まで2年7か月を要した。祭神は菅原道真である。伝承によれば文和四年・正平十年(1355年)湯島の郷民が霊夢によって老松の下に勧請したといわれている。その後、太田道灌が社殿を再興し、江戸時代になって、徳川家康はじめ歴代の将軍があつく庇護し隆盛をきわめた。かって、湯島天満宮は”湯島天神”として知られ、鳥居前には門前町もでき、多くの人々で賑わった。
- ・銅製表鳥居(都指定文化財)
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寛文七年(1667年)9月建設され、同十一年(1671年)修理した銘がある。下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。
- ・奇縁氷人石(区指定文化財)
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もとは天保十三年(1842年)に建てられたもので、嘉永三年(1850年)に湯島天満宮社殿前に移設された。右側面に「たづぬるかた」左側面に「をしふるかた」とある。迷子探しの石で都内でも貴重なものである。
菅原道真公お遣いの牛さんを撫でてはいけないようです。
境内には様々な記念碑が建っています。献木の梅の木は撮し損ねました。
「新派」碑由来
この「新派」の記念碑は新派劇創立九十年を迎えた昭和五十二年十一月一日松竹株式会社と水谷八重子氏により新橋演舞場玄関脇に建てられました。新派の始まりは明治二十一年十二月自由党壮士角藤定憲が同志を集め大阪の新町屋で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされています。風雪はげしい九十年ではありましたが 今日「劇団新派」として隆盛を見ましたその先人たちの労苦を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑の建立を見た次第です。そして新橋演舞場の改装にあたり当湯島天神様のご好意により新派とは深い縁で結ばれております当天神様のご境内に移させていただいたものです。なお碑の題字は作家の川口松太郎氏の揮毫により設計は舞台美術家の中嶋八郎氏です。左側の梅樹は昭和三十一年新派の名優故花柳章太郎氏の献木によるもので奇しくも記念碑と献木が同じこの場所に並んだ次第です。
文房具渡来の碑もあります。石碑と案内板の文面は同じようです。
文具至宝碑由来
中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ、読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた。今や文房具はOA器機にいたる迄その範疇を広げ、四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった。十一月三日(文化の日)を文具の日として定め、平成元年を迎えるに当たり、先人に報恩感謝の念を捧げつゝこゝ、学問の神さま湯島天神の境内に文具至宝の碑を建立する。
復元されたガス燈は左の写真の左端に半分写っています。
瓦斯灯 湯島神社(天神)境内
青白いガス灯、清らかな白梅
「お蔦、何も言わずに俺と別れてくれ」
「切れるの別れるのって、そんなことは・・・」
これは有名な新派「婦系図」(原作・泉鏡花)の湯島天神の場である。この境内には、もとガス灯が五基あったが、そのうち形だけ残っていた男坂上の最後の一基は、昭和四十年頃撤去された。ガス街灯は、明治五年(1872年)開港地横浜に点灯されたのが最初で、東京には、同七年金杉橋・京橋間に八十五基が設置された。ガス灯は、文明開化のシンボルで、明治の時代を象徴するものであった。今、ここに、東京ガス株式会社の協力を得て、ガス灯を設け点灯することになったが、これは都内で、屋外のものとしては、唯一つのものである。
湯島の白梅 作詞 佐伯孝夫
(三) 青いガス灯 境内を
出れば本郷 切通し
あかぬ別れの 中空に
鐘は墨絵の 上野山
「講談高座発祥の地」という石碑も建っています。
講談高座発祥の地
江戸時代中期までの講談は、町の辻々に立っての辻講釈や粗末な小屋で聴衆と同じ高さで演じられていた。文化四年(1807年)湯島天満宮の境内に住み、そこを席場としていた講談師伊東燕晋が、家康公の偉業を読むにあたり、庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に、高さ三尺、一間四面の高座常設を北町奉行小田切土佐守に願い出て許された。これが高座の始まりであり、当宮の境内こそ我が国伝統話芸講談高座発祥の地である。
大きな神社には男坂と女坂がありますが、湯島天神では男坂のことを天神石坂と呼んでいます。天神石坂は長さ約15mほどの急階段で、別名を天神男坂といいます。湯島天神参拝のための坂で、すぐ脇にある緩やかな女坂に対比して男坂と呼んでいます。
天神石坂(天神男坂)
三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。江戸時代の書物”御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。
天神石坂上の左手に緩やかな階段が下っています。天神夫婦坂・天神石坂となれば天神女坂ですよね。しかし、正式な坂名は女坂で、天神女坂は別名になっています。女坂は長さ約40mほどの緩やかな階段で、途中に2ケ所ほど息継ぎのための平坦な踊り場があります。階段下に、北島三郎さんが揮毫された「おんな坂」とだけ書かれた石碑が建っています。「おんな坂」がどこの坂を指すのかわかりませんが、歌っている原田悠里さんが北島三郎音楽事務所に所属していることで、私的に設置されたものと思われます。
天神夫婦坂は、切通坂の途中から湯島天満宮の裏門(登竜門)をくぐって上下をつなぐ階段で、階段の上は湯島天満宮の本殿裏になります。長さは約17mほどで、20段弱の階段の先に登竜門があり、さらにその上が十数段の階段になっています。別名を天神新坂といいます。天神夫婦坂の名前の由来は、男坂(石坂)と女坂の中間の傾斜なので夫婦坂になったとのことです。切通坂は、湯島駅・御徒町駅方面から湯島天満宮に至る春日通りの緩やかな傾斜の坂です。長さは約270mほどで、坂名は江戸時代に新しく湯島の台地を切り開いてできた坂であることに因んでいます。
切通坂
「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三・四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。初めは急な石ころ道であったが、明治三十七年(1904年)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。映画の主題歌「湯島の白梅」"青い瓦斯灯境内を出れば本郷切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。また、かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2−38−9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。
二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木
切通坂の中程に石川啄木の歌碑と当時の苦しかった生活ぶりを記した石碑が置かれています。
二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木
この歌は、石川啄木(1886年〜1912年)の明治四十三年(1910年)の作で、「悲しき玩具」に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷二ノ三八ノ九・新井理髪店)の二階に間借りしていた。そして、一家五人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。喜之床での二年二か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家”喜之床”が、この(昭和五十五年)三月十八日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。
春日通りに面した麟祥院の参道の入口には春日局の像が建っています。麟祥院は春日局の菩提寺です。
文京区と春日局
文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました。また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり、文京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和六十四年一月(1989年)より一年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設置し、区民の皆様と共に区内の活性化・地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました。ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました。
ゴール地点の本郷三丁目駅に戻ってきました。
ということで、文京区で2番目の「文人の道コース」を歩き終えました。見所満載のコースでしたね。次は文京区で最後の「希望の道コース」を歩きます。
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