- B希望の道コース
- コース 踏破記
- 今日は文京区の「B希望の道コース」を歩きます。都営地下鉄大江戸線飯田橋駅をスタート地点として、神田上水の遺構が残る本郷給水所公苑・文京区の桜の名所播磨坂・都心とは思えない森林が茂る占春園・見事な日本庭園が残る肥後細川庭園などを巡ります。
スタート地点:都営地下鉄大江戸線飯田橋駅出入口C2
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- @本郷給水所公苑
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武蔵野をイメージした雑木林と開放的な西洋庭園があり、53品種約300株のバラが植えられています。
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- A日本サッカーミュージアム
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日本サッカー協会が、2002年FIFAワールドカップ日韓大会の開催を記念し、2003年にオープン。B1階には、Jリーグコーナーやオリジナルグッズが手に入るショップ、B2階には、FIFAワールドカップに関する貴重な資料の展示や3Dの迫力ある映像が楽しめるシアターを完備しています。
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- B講道館(柔道資料館・図書館)
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世界約200の国と地域で行われている講道館柔道の総本山として、1882年に嘉納治五郎師範が創設。館内には、約1、300畳の道場があり、延べ150名以上の指導員や講師が指導にあたっています。講道館の発展を伝えるための講道館柔道資料館や図書館も併設しています。
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- C文京区役所
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音楽イベントにも使われるホールや区民施設・区役所などの公共機関からなる総合施設。25階の展望ラウンジは地上約105mの高さにあり、昼は富士山、秩父連峰、筑波山、東京スカイツリーを望む330度の大パノラマを、夜は東京の美しい夜景が楽しめます。
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- D礫川公園
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- E占春園・教育の森
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徳川光圀の弟・松平頼元が、1659年に屋敷を構えた庭園の名残。かつてはホトトギスの名所としても知られていました。教育の森公園側の入口に、日本では珍しいシロマツやダイオウショウがあります。
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- F目白台運動公園
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- G永春文庫
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江戸時代の熊本藩主・細川家の江戸下屋敷跡の一角にあり、十六代当主・護立氏が1950年に設立した美術館。国宝8点、重要文化財32点を含む、細川家伝来の歴史資料や美術工芸品約94、000点を収蔵。年4回、様々なテーマで展覧会を開催し、作品を公開しています。
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- H肥後細川庭園
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江戸時代末期に、熊本藩主・細川家の下屋敷だった場所にあり、台地の起伏を活かし、立体的眺望を持った見事な池泉回遊式庭園です。大正時代に建てられ、細川家の学問所として使われた「松聲」は、歴史性を生かして改修され、2016年にリニューアル。建物・庭園とも無料で見学できます。
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- I水神社
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- J関口芭蕉庵
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江戸時代の俳人・松尾芭蕉が、1677年から3年間暮らした場所。二度目の江戸入りの後、神田上水の改修工事に携わり、この地にあった水番屋「龍隠庵」に住んだとされています。後に芭蕉を慕う人々によって「芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。現在のものは戦後の建築です。
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- K江戸川公園
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関口台地の南斜面、神田川沿いに広がる東西に細長い公園。川沿いにソメイヨシノが植えられており、春は多くの花見客で賑わいます。藤棚のあるテラスや重量感のある石が配されている御影石の広場・西洋風の山小屋をイメージした時計塔のあるあずまやなどが楽しめます。テラス先の石組みの池は、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復元しています。
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- L子育地蔵尊
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- M江戸川橋体育館
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- N小日向神社
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- O印刷博物館
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- P同人社跡
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ゴール地点:都営地下鉄大江戸線飯田橋駅出入口C2
スタート地点の都営地下鉄大江戸線飯田橋駅出入口C2から歩き始めます。
飯田橋駅から神田川沿いに外堀通りを進みます。後楽橋交差点の上に長い歩道橋が架かっています。交差点の名称になった後楽橋は神田川に架かり、関東大震災の復興橋のひとつとして、昭和二年(1927年)に架設されました。歩道橋は1964年に竣工し、「後楽園ブリッジ」と呼ばれています。後楽橋の東側に沿って神田川と外堀通りを跨ぎ、水道橋駅西口と東京ドームを直結しています。野球の試合やコンサートなどのイベントが開催される日は大変な混雑となります。
東京ドームシティは、東京ドームや東京ドームシティアトラクションズ・後楽園ホール・ラクーア・東京ドームホテルなどの施設で構成される都市型複合レジャーランドです。かつては東京ドームの愛称「BIG EGG」にちなんで、ビッグエッグシティと呼ばれていましたが、2000年1月1日に現在の東京ドームシティに改称されました。2003年に入浴施設を中心とした商業施設ラクーアがオープンし、現在では年間約3500万人が訪れる東京の人気スポットになっています。コロナ渦のためか、施設内は閑散としています。
水道橋交差点の角には都立工芸高等学校があります。都立工芸高等学校の校舎は高校とは思えないほどの立派な建物です。1997年に改修を実施した地上9階・地下2階の校舎で、校外にオニヒトデのような赤いオブジェがあります。これは炎を意味していますが、建築家のコンセプトであり、学校の意思とは関係がないそうです。このオブジェは風力で回転し、一部生徒の間で「校長が自転車をこいで回転させている」という説がいまだに残っているとか。この赤いオブジェの他にも、校内には卒業生の芸術家などの数々の芸術作品や伝統工芸品が展示されています。通常、工業高校は男子生徒の在籍率が高いのですが、ここはデザイン系の学科が多い関係上、在籍する生徒の約8割が女子生徒で占められているとのことです。卒業生には芸術関係の有名人が多いですね。
お茶の水坂は、白山通りと外堀通りが交差する水道橋交差点から神田川の北岸沿いに東に上る緩やかな坂です。長さは約190mほどで、お茶の水に上る坂ということで「お茶の水坂」という坂名になりました。
お茶の水坂
この神田川の外堀工事は元和年間(1615年〜1626年)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり“お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。「御府内備考」によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治三十四年(1901年)取りはずされた。
お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
寒む夜はふけてわれは行くなり
島木赤彦(1876年〜1926年)
坂の途中に「元町公園」があり、階段を上った奥の壁に何かの構造物の跡のようなものが見えます。ひょっとして、神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていた跡なのでしょうか?ちなみに、公園名の「元町」はこの周辺の旧町名になります。
旧元町 (昭和四十年までの町名)
もとは本郷村。江戸初期は御弓同心の組屋敷であった。その後この組屋敷は大塚辺に移された。元禄四年(1691年)徳川家康の江戸入りに従って三河から来た供衆が、内神田の三河町からここは(に?)移って来た。元禄九年(1696年)町屋を開いたが、この辺の拝領地としては、最も古い方なので元町と名づけたという。明治二年、町内を東西に分けて、上町を一丁目、下町を二丁目とした。同五年、旧高松藩松平氏邸および付近を合併した。明治四十四年、本郷元町の本郷をとり元町とした。現在の昭和第一高校前の神田川に、神田上水の懸樋が渡されて、江戸っ子に飲料水が送られた。
お茶の水坂の坂上で左折し、路地を進みます。右手に見所@の「本郷給水所公苑」があります。本郷給水所公苑は、本郷給水所の上部に構築された公園です。東京市水道局(現在の東京都水道局)が明治二十五年(1892年)に給水場を建設し、明治三十一年(1898年)に配水池が造られ、昭和四十九年(1974年)に配水池の拡張工事が完了しました。その後、文京区が配水池の上に公苑を建設する許可を取得し、昭和五十一年(1976年)12月に公園が開園しました。広さ7800平方メートルの敷地には、南側に日本庭園(和風庭園)があり、北側にはフランス式庭園(洋風庭園)があります。和風庭園は武蔵野の雑木林をイメージして造られています。また、神田上水幹線水路の石樋が復原・展示されています。洋風庭園にはパーゴラや地球儀が置かれ、ノックアウトやゴールデン・ボーダーなど52種・300株のバラが植えられたバラ園もあります。ちなみに、「公園」と「公苑」の違いですが、現在では「公園」で統一するのが原則なんだそうです。ただ、稀少価値や高級感や他とは違うという特別な意識があったりした場合は敢えて「公苑」を使うことがあるようです。本郷給水所公苑の場合は、ただの街中の公園ではなく、配水池の上に造られた特別な公園という意味なのでしょう。
バラ園の歴史とバラの解説を記した案内板が立っています。
【バラ園ができるまで】
本郷給水所公苑ができたのは、昭和五十二年(1977年)のことでした。水道局の本郷給水場の半地下水層(槽?)の屋上部に、高さ60cmから140cmの土を盛り上げて植栽地盤をつ
くり、当時としては珍しい、大規模な屋上庭園ができました。この屋上庭園は、武蔵野をイメージした「雑木林のゾーン」、「西洋風庭園のゾーン」、そして砂場や滑り台などがある「子供の遊び場」の、3つのゾーンに分けて作られました。西洋庭園部分には、はじめは四季の草花が植えられ、周囲にバラが植栽されました。それから数年後、草花の花壇にも、色とりどりのバラが植えられ、現在のバラ園の姿となりました。
【バラの豆知識】
化石の研究によれば、恐竜の全盛期である白亜紀(約1億4千3百万年前から約6千5百万年前まで)にはバラの原種が地球上に存在していたようです。ギリシア神話では、愛の女神アフロディテが湯浴みをしたときの飛沫からバラが生まれたと言われ、ローマ神話では、海の神が生んだヴィーナスの美しさに対抗して陸の神がバラを作ったとされています。バラには大きく2つの系統があります。ヒマラヤのカラコルム山脈の麓に自生する原種(一季咲き)がヨーロッパに伝播したものと、中国やインドに原産する庚申バラ(四季咲き)です。19世紀から20世紀にかけて、フランスを中心にバラの品種改良が進み、1861年には四季咲大輪咲きのハイブリット・ティー(HT)系が、1924年には四季咲中輪房咲きのフロリバンダ(FL)系のバラが多く育成されました。今日ではさらにミニチュアローズ(MI)系、つるバラ(CL)系など多様なバラが育成されています。
ベッド仕立てのバラもあります。
【バラ園の見どころ】
このバラ園には、左右対称のデザインが隠されています。2つのパーゴラの上の風見鶏は、よく見ると雌雄になっています。また、<時>のシンボルは、太陽を表しているのではないでしょうか。そして地球との間には、満天星(=ドウダンツツジ)が広がっています。バラはさまざまな仕立て方ができますが、バラ園のなかでも珍しいのは、ベッド仕立てのつるバラ「ピース」です。第二次大戦後、平和への希望をこめて名付けられた花です。この「ピース」は、<時>のシンボルと地球儀の両隣に植栽されています。バラ園には、多くの女性の名前が登場します。白いバラ「アイスバーグ」は《氷山》の意味ですが、別名は「シュネービッツェン」つまり、《白雪姫》です。ほかには、どんな名前があるでしょうか。バラの名前にこめられた意味を考えながら散策するのも、バラ園の楽しみ方のひとつです。
【バラの手入れ】
5月の見ごろに備え、2月初めに冬季剪定を行います。また、10月の見ごろに備え、8月ごろに夏季剪定を行います。そのほか年8回の施肥等の作業を行っています。
公園の南側に水の流れない水路があります。神田上水の石樋を公園内に復原したものだそうです。
石樋の由来を記した立派な石碑も置かれています。
神田上水石樋の由来
神田上水は天正十八年、すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し、良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。この上水は、井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中、掛樋で神田川を渡して、神田・日本橋方面へ給水していました。日本における最初の上水道といわれ、その後、明治三十四年、近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮しに、大きな役割を果たしてきたのです。ここに見られる石樋は、昭和六十二年、文京区本郷一丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ、水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として、永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。
石樋は一本道のトンネルではなく、途中に分水などを行なう仕組みも組み込まれていました。
神田上水石樋
徳川家康が入府した天正十八年(1590年)頃の江戸は、広大な武蔵野台地の東端に位置する小さな村落であったといわれている。神田上水は、家康の江戸入府にさいして、家臣大久保藤五郎忠行が開削した小石川上水がその起源といわれている。神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする神田川に善福寺川、妙正寺川の水路を合わせ、目白台下の大洗堰に至り、水戸藩邸を通って神田川を懸樋で渡し、神田、日本橋方面の飲み水などに利用していた江戸時代から明治時代はじめの水道である。この石樋(石垣樋)は、昭和六十二年から平成元年にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を移築復原したものである。石樋の内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120〜150cmで、長さ約180cm、幅60cm、厚さ30cm前後の蓋石がのせられている。江戸水道から現在の東京水道に至る400年を記念し、また、江戸時代遺跡の保存活用を図ることを目的としてここに移築復原したものである。
100円飲料自販機に面白いキャッチが貼ってあります。他では見たことがありませんね。目が合ったら買わざるを得ないかも。
本郷二丁目交差点の手前に寄席の跡の案内板が立っています。
若竹亭跡
明治初年から大正十二年(1923年)まで、この地には「山の手第一の寄席」と評された若竹亭があった。明治四十年(1907年)の「新撰東京名所図会」によると、若竹亭では毎月前半を落語、後半を義太夫と定め、市内有数の寄席であった。定員は800名、主な客層は学生・官吏・会社員が多かったという。明治後期の若竹亭は、欅造の建物で、高座の間口は3間(約5.5m)、奥行9尺(約2.7m)、客間は6間四方で1階席と2階席があった。寄席は江戸時代からつづく庶民の娯楽の場であった。若竹亭では、「牡丹燈籠」の三遊亭円朝、娘義太夫の豊竹呂昇などが出演し、それらの演目を見るために多くの人々がつめかけた。文豪夏目漱石や徳田秋声なども、若竹亭に足を運んだ観客の一人であった。若竹亭は、大正十二年9月1日におきた関東大震災により被災し、それをきっかけに廃業した。
本郷通りに入り、サッカーミュージアム入口交差点を左折してサッカー通りを北上します。傘谷坂が谷底になっている手前に見所ポイントAの「日本サッカーミュージアム」があります。日本サッカーミュージアムは、2002FIFAワールドカップを記念し、2003年12月に開館したサッカー専門ミュージアムです。館内は、日本代表チーム、なでしこジャパン、Jリーグ関連の映像、展示物はもちろん、日本サッカーの歴史がぎっしりと詰め込まれています。
湯島四丁目交差点で左折して春日通りを西に進みます。春日通りに面した麟祥院の参道の入口には春日局の像が建っています。麟祥院は春日局の菩提寺なのです。文京区には、「春日」という町名や「春日通り」という通り名が残っていますが、これは春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し、昔は春日殿町と呼ばれていました。
本郷三丁目交差点で左折し、本郷通りに入ります。壱岐坂上交差点を右折し、壱岐坂を下ります。壱岐坂は、東洋学園大学本郷キャンパスの北側から壱岐坂通り(新壱岐坂)を斜めに横切って白山通りの壱岐坂下交差点に抜ける旧道です。長さは約260mほどあり、緩やかな下り坂になっています。江戸時代に彦坂壱岐守屋敷があったことが坂名の由来になっています。別名として、壱岐殿坂・いきどん坂があります。
壱岐坂
「壱岐殿坂」ともいう。江戸時代からある古い坂である。近隣に屋敷があった武家の名前から坂名がつけられたとみられるが、江戸時代の地誌に「彦坂壱岐守」の屋敷があったことによって名付けられたとか、「小笠原壱岐守下屋敷」があったことによって名付けられたとかあって、江戸時代においても諸説があった(御府内備考)。この古い壱岐坂は、新しくできた広く大きな新壱岐坂に途中で分断される形となった。
東洋学園大学本郷キャンパスの植え込みの中に銅像と壱岐坂の由来を記した石碑が建っています。
壱岐坂(壱岐殿坂)
江戸時代には、社寺や大名屋敷は、ほとんど移転することもなかったので交通の重要な目印となっていました。この坂は昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐殿坂と呼ばれていました。当時、小笠原家は、九州佐賀県唐津六万石の大名でした。壱岐坂は、白山通り(本郷一丁目20・22の間)から上り、東洋女子短大の所で通称大横町へ至る細い坂道です。
新壱岐坂と交差する地点で右折して新壱岐坂を下ります。壱岐坂下交差点で白山通りに入ります。交差点を右折して北に向かいますと、地下鉄丸ノ内線の高架の先に見所ポイントBの「講道館(柔道資料館・図書館)」の建物が聳えています。
講道館の建物の入口の横に講道館の創始者である嘉納治五郎の銅像と業績を記した案内板が置かれています。
嘉納治五郎師範
万延元年(1860年)10月28日、摂津国御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区)に生まれる。明治十年(1877年)7月、東京大学文学部入学。政治学及び理財学を修め、同十四年(1881年)7月卒業。明治十五年(1882年)5月、下谷の北稲荷町永昌寺にて講道館を創設。講道館柔道を創始する。学習院教頭、熊本の第五高等中学校長、第一高等中学校長、高等師範学校長、又貴族院議員などを歴任。大日本体育協会(現在の日本体育協会)初代会長、東洋初の国際オリンピック委員を務め、日本の体育・スポーツの普及振興に尽力すると共に、オリンピックの発展にも貢献した。昭和十三年(1938年)3月15日、エジプト・カイロに於ける国際オリンピック委員会総会で東京・札幌両大会開催の最終的承認を得、帰国の途中、同年5月4日、太平洋上水川丸船中で急逝。享年79歳。勲一等旭日大綬章。銅像は朝倉文夫制作である。
Kano Jigoro Shihan
Kano Jigoro Shihan was born in Settsu Province (now Hyogo Prefecture) on October 28, 1860. After entering the Faculty of Letters at the University of Tokyo in July,1877, Kano Shihan completed his degree in politics and economics in July, 1881. Established the Kodokan at Eishoji-temple, Kitainari-cho, Shitaya, Tokyo, in May 1882. This was the start of Kodokan Judo. Served in various roles including vice-principal of Gakushuin, principal of the Fifth Higher School, the First Higher School, Higher Normal School, was a member of the House of Peers, and held other key positions. Contributed to the diffusion and development of Japanese physical education and sports, and also the Olympic movement as the first president of the Japan Amateur Athletic Association (now Japan Sports Association) and the first Asian member of the International Olympic Committee (10C). Obtained final approval to hold the Tokyo and Sapporo Olympic Games at the 10C meeting in Cairo, Egypt in 1938. Passed away suddenly on the passenger ship the Hikawa-maru while sailing home over the Pacific Ocean on May 4, 1938 in his 79th year. Kano Jigoro Shihan was awarded the Grand Cordon of the Order of the Rising Sun by the Japanese government. This bronze statue was created by Asakura Fumio.
春日町交差点で白山通りと春日通りが交差します。かって池袋から来た都電17系統は交差点で右折して数寄屋橋方面へと向かっていました。都電17系統の線路は交差点のかなり手前で春日通りから右へ分岐し、交差点の南西角に三角形のスペースを作り出していました。これが待機場所の役目も果たしたようで、三角形の真ん中には電車を捌く信号塔が建っていました。その跡地でしょうか、現在でもかなり広い三角形の緑地があり、そこに大きな石と案内板が置かれています。
神田上水の石樋の石
ここに使われている石は、江戸時代に神田上水で使われていた石樋の一部で、昭和六十二年、外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものです。神田上水とは近世都市の江戸で最初に整備された上水道であり、コ川家康が江戸入りと同時に造らせたと言われています。水源となる井の頭池の湧水を、大洗堰(現在の文京区関口)を経てから水戸屋敷(現在の小石川後楽園一帯)に入れ、そこから先は暗渠(地下の樋)で通しています。この暗渠で使われていたのが、石樋(石で作った樋)です。なお、お茶の水坂からは、掛樋(木で作った樋)で神田川の上を横断させて、神田・目本橋方面に飲料水として給水されていました。
春日町交差点を左折して春日通りに入ります。左手に巨大な展望フロアが特徴的な見所ポイントCの「文京区役所」のビルが建っています。文京区役所が入る文京シビックセンターは、かっての文京公会堂跡地に建設されました。1994年に第1期工事(高層棟)が竣工し、区役所の本庁舎として業務を開始しました。その後、1999年11月に第2期工事である文京シビックホール(二代目文京公会堂・低層棟)が完成し、完全竣工となりました。高層棟・低層棟を合わせた文京シビックセンターは、地上28階・地下4階・高さ142mで、東京23区の区役所の中では最も高い建物となっています。中でも高速シースルーエレベータが10基備わっているのが最大の特徴です。庁舎の25階北側には、議場を半周囲むように展望ラウンジが設けられ、無料で東京の景観を楽しむことができます。控えめの照明や室内照明の反射を避けるために傾斜のついた窓など展望に最適な環境がきちんと整備されていて、西側の新宿方向には高層ビル群と並ぶ富士山、東側の浅草方向には東京スカイツリーを望むことができます、関東の富士見百景にも選出されています。
春日通りの富坂下交差点から富坂上交差点まで緩やかに曲がったなだらかな坂が上がっています。富坂は長さ380mほどで、別名を飛坂とか西富坂と呼ばれています。かつて旧水戸藩邸付近に鳶(トビまたはトンビ)が多数いたために”とび坂”と呼ばれ、これが転じて”富坂”になったといわれています。
富坂
「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。また、春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、”アララギ”の編集にあたっていた。
「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
島木赤彦(本名 久保田俊彦 【1876年〜1926年】)
富坂に面した見所ポイントDの「礫川公園」は手入れの行き届いた綺麗な公園で、人工の滝も造られています。今回は公園の中には入りませんでしたが、前回(2021年02月06日)訪れた時はこんな感じでした(季節は真逆ですが)。一本の木の前に案内板が立っています。案内板には、幸田露伴の孫で幸田文の一人娘である青木玉さんの寄稿文が添えられています。
幸田文ゆかりの「ハンカチの木」
「ハンカチの木」は、19世紀中頃中国に滞在したフランス人宣教師アルマン・ダビットによって、四川省の西境で発見され、発見者にちなんでダヴィディアと命名された。白い花びらのように見える部分は、大小たれさがった苞であり、これがあたかもハンカチを広げたように見えることから和名「ハンカチノキ」と名づけられた。なお、別名「ハトノキ」とも呼ばれる。一科一属一種といわれている珍しい木で、落葉高木、花は雌雄同株の丸い花序で、白い苞片に守られているように見える。4〜5月に花をつけ、5月初旬が見頃である。作家の幸田文(1904年〜1990年)が小石川植物園の山中寅文(東京大学農学部技術専門員)から譲りうけたこの「ハンカチの木」は、長女で随筆家の青木玉の庭に仮り植えされていたものである。平成十四年(2002年)12月、多くの方々に見ていただきたいという青木玉の好意により、ここ傑川公園に移植された。平成十六年(2004年)は幸田文生誕100年にあたる。
縁のある木
縁のあるなしは人ばかりではない。樹木にもそれがあり、時に思いもかけぬ縁が生じることがある。この木はたまたま私の家の庭に根を下してから開花を迎えるまで、実に二十年近い年月を過した。「ハンカチの木というのだから、きっと白い花が咲くのだろう」と、木を贈られた母は初花を楽しみにしたが、平成二年他界し、ついに花を見ることはなく、私は花を待つことを忘れた。それから七年、まぶしいほど明るい五月の空の下で新緑が萌え、枝先に大小二枚の真白な苞が風に揺れていた。中心に小さな蕾の集合体を両手で大切に囲っているように見える。木に咲く花のかたちとしては、他に類がなく、自然はたった二枚の白く美しい不思議な姿の花をハンカチの木に与えたかと胸が熱くなる想いで見守った。母が見たならどんなに喜んだか。多分それは私の目を通して、伝わったであろうと信じている。母から私に引き継がれたこの木が、新しい場所で、更に多くの方々との御縁を結ぶよう心から願って止まない。
平成十六年一月
青木玉
公園にはもう一本、歌詞が添えられた案内板を前にして枝振りのよい木が植えられています。
童謡「ちいさい秋みつけた」とはぜの木
童謡の名作を数多く残したサトウハチロー(1903年〜1973年)は、昭和十二年(1937年)秋、上野・桜木町から向ヶ岡弥生町に転居した。家の庭には、はぜの木が植えられ、仕事部屋からよく見えた。童謡「ちいさい秋みつけた」は、深紅に染まったはぜの枝葉を眺め作詞された。昭和三十年(1955年)秋のことである。ハチローの没後、旧宅は記念館に改装され、遺稿や愛用品が展示されたが、平成七年(1995年)館は閉鎖され、平成八年(1996年)記念館は北上市に新設された。その後、残された"はぜの木”は木の延命を図るため5本の枝を残し、切り株状にして平成十三年(2001年)10月、この地に移植された。樹齢約70年、毎年深紅の枝葉が“ちいさい秋”を語り伝えてくれる。
ちいさい秋みつけた (三番)
サトウハチロー作詞
中田喜直作曲
誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
むかしの むかしの 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
小石川五丁目交差点から東の方向に緩やかに下る広い通りが延びています。道路の中央は公園を兼ねた緑地帯となっていて、桜並木が続いています。播磨坂と呼ばれる通りは戦後に計画された環状3号線の一部で、春日通りから千川通りへ下る500メートル程のみが昭和三十年前後に完成しました。外苑東通りの延長上にあたる道路ですが、現在も播磨坂の前後は工事未着手で、突如現れる道幅の広い大通りは不自然に見えます。ここに桜の植樹が行われたのは昭和三十五年のことですが、現在では立派な桜並木に成長し、文京区でも有数の桜の名所となっています。
播磨坂のさくら並木
この通りは、戦災復興事業における付近一帯の土地区画整理によって、都市計画道路環状三号線の一部として造られました。江戸時代、この辺りは松平播磨守の上屋敷でした。また、千川(小石川)が流れる低地一帯には「播磨田んぼ」が広がっていたことから、新しくできたこの坂を「播磨坂」と呼ぶようになりました。立派なさくら並木(現在127本)は、昭和三十五年に「全区を花でうずめる運動」で値えられた若木(樹齢15年)が育ったものです。昭和四十七年からに、毎年4月初めに「文京さくらまつり」が行われ、多くの人々に親しまれています。平成七年(1995年)3月には、全体が「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、年間を通じて楽しめる新しい名所となりました。
緑地帯の入口に桜並木の由来を記した案内板が立っています。桜の木が植えられた時期は何回かに分かれているようです。
環三通り桜並木の由来
かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。坂の桜並木は、戦後問もない昭和二十二年、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和二十八年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成七年には装いを新たにした桜並木が完成した。昭和四十三年には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。
播磨坂を下り、坂下の小石川植物園前交差点を左折して千川通りに入ります。窪町東公園交差点で左折し、湯立坂を上がります。湯立坂は教育の森公園の南東側に沿って上る坂道で、坂下は網干坂に繋がっています。長さ約330mほどの少し左右に曲がる緩やかな傾斜をしています。坂名には暗闇坂とか湯坂という別名があり、昔この坂の下には川が流れていて氷川神社に渡ることができなかったので、神社の氏子は川の手前で湯花を捧げ、この名が付いたとのことです。湯花とは湯の沸騰時に上がる泡のことで、神社で巫女などがこれを笹の葉につけ、参詣人にかけ浄めました。この儀式を「湯立」といいます。坂の中ほどから、こんもりと繁った森の中に入る通路があります。
見所ポイントEの「占春園・教育の森」は共に「文京中央公園」の一部となっていて、「教育の森公園」が都市公園になっているのに対し、占春園は筑波大学附属小学校の自然観察の場となっています。占春園は一般区民にも開放され、斜面と低地を利用した園内は様々な樹木がうっそうと生い茂り、ササに覆われた樹木の下には細い階段状の園路が池に向かって下っています。東側の低地にある広場には見事な枝ぶりのカツラが3本植わっていて、教育の森公園側の入り口近くの通路からは、筑波大学の敷地にある日本ではめずらしいシロマツやダイオウショウを見ることができます。
占春園
この辺りは、幕末までの200年ほどの間、徳川光圀の弟を藩祖とする陸奥守山藩松平家の上・中屋敷の地であった。占春園は、この屋敷内にひらかれた庭園の名残りである。「林には鳥、池には魚、緑の竹と赤い楓、秋の月、冬の雪」と、四季それぞれの庭の美しさでその名が知られ、当時の江戸三名園の一つに数えられていた。明治三十六年(1903年)東京高等師範学校(戦後の東京教育大学、筑波大学に改組)が、湯島からこの地に移り、占春園は、校地の一部になった。現在は、筑波大学附属小学校の自然観察園として、同校が管理し、区民にも公開されている。
「教育の森公園」は、旧東京教育大学の跡地に造られた公園です。
教育の森公園(旧教育大跡地)
この地は徳川光圀の弟、徳川頼元が万治二年(1659年)屋敷とした。その子頼貞は元禄十三年(1700年)常陸の国(茨城・行方)陸奥(守山)3郡2万石をうけ守山藩主として大学の頭を名のった。邸内敷地6万2千坪という。氷川下の低地にある池は当時吹上邸として有名な占春園の名残りである。ホトトギスの名所であったという。明治三十六年東京高等師範学校がお茶の水(現医科歯科大学の所在地)よりこの地に移転してきた。戦後東京教育大学・筑波大学へと発展した。昭和五十九年区民の念願により旧東京教育大跡地のうち、約2.9ヘクタールの払い下げをうけ、区民の憩いの場・防災広場・スポーツセンターとして活用するため、都心の緑の地として設計した。そしてこの由緒ある地を「教育の森公園」と命名した。
公園の中には変わった遊具もあります。普通は象さんとかタコさんとかの木製やコンクリート製の動物のオブジェが多いのですが、教育の森公園の遊具は金属製の荒々しいSF世界の動物のようなオブジェです。子供は怖がらないのか気になります。姉妹都市にもいろいろありますが、文京区の姉妹都市の名前は初めて耳にしました。
文京区姉妹都市 カイザースラウテルン市の紹介
文京区は、世界平和と相互理解並びに両国の友好関係の促進に寄与することを目的に、ドイツ連邦共和国のカイザースラウテルン市と昭和六十三年に姉妹都市提携協定を締結し、これまで様々な交流を重ねてきました。カイザースラウテルン市は、ドイツ南西部のラインラント=プファルツ州に位置し、フランクフルトから南西へ約100キロメートルの距離にあります。市内には、大学や研究機関が数多くあるほか、ヨーロッパ最大規模の日本庭園や広大なプファルツの森が憩いの場になっています。
Introduction of the sister city - Kaiserslautern
With the aim of contributing to world peace and mutual understanding as well as the promotion of friendly international relations, Bunkyo city and Kaiserslautern concluded a sister city cooperation agreement in 1988. Kaiserslautern is a city in southwest Germany, located in the state of Rheinland-Palatinate, around 100 kilometers
from Frankfurt. The largest Japanese Garden in Europe in the city and surrounded by the vast Palatinate Forest, the city is also home to many research institutes and universities.
現在の教育の森一帯は、江戸時代には大名屋敷になっていました。
旧大塚窪町(昭和四十一年までの町名)
もと、小石川村の内にあった。農地ができ町屋が開けたが、延享二年(1745年)町奉行支配となった。町区に大塚台町と呼んだところがあるので、窪んだ所に町屋を建てたから大塚窪町と呼んだのであろうといわれる。一説には、駒込曙町あたりの台地を東大塚といい、大塚町あたりを西大塚と称した。その間にある低地だから窪町といったとも伝えられる。もと大塚窪町と称したのは、西の方の小地域であったが、明治五年、俗に台地、吹上げと呼んだ地と、松平大学頭の屋敷跡などを合併した。明治三十六年、松平大学頭の屋敷跡に、お茶の水から東京高等師範学校(教育大、後に筑波大となる)が移転してきた。
旧東京教育大学の向かいには、跡見学園があります。跡見学園の学祖は、跡見花蹊(あとみかけい)です。跡見花蹊は、天保十一年(1840年)4月9日、摂津国木津村で寺子屋を営む跡見重敬・幾野の二女として生まれ、瀧野と命名されました。当時、国内は天保の大飢饉がもたらした不況下にあり、各地では一揆が相次いでおり、跡見家も庄屋を務めたほどの名望家でしたが、すでに家運は衰え、花蹊出生時には暮らし向きは貧しいものでした。こうした中で両親の慈愛を受けながら育てられた花蹊は幼時から学問に興味を持ち、特に書はしばしば周囲の大人たちを驚嘆させるほどの手並みでした。跡見家の再興を願う両親の期待を一身に担っていた花蹊は4歳から両親に書を習い始め、少女期に入ると寺子屋で学ぶだけでは満足できず、12歳の頃に円山派の画家石垣東山に入門して絵画を学び、17歳で京都に遊学し、詩文・書法を頼山陽門下の宮原節庵に、絵画を円山応立・中島来章に学び、さらには画家の日根対山にも師事して画域を深めました。天性の才能に勉学への情熱が加わって、それぞれの門下では抜群の成績を修めました。しかし経済的には苦しく、この間の学費は全て扇面絵付けのアルバイトで得た収入をあてていました。およそ2年の修行を終えた花蹊は、大阪で塾を開いていた父が公卿の姉小路家に仕えたため、安政六年(1859年)に父の私塾の経営を受け継ぎ、独力で女子教育に着手しました。今日の跡見学園はこの家塾に始まります。花蹊を慕って入塾する者が数十名に及んだといわれています。幕末の慶応元年(1865年)に塾を京都に移し、門下生に稽古をつける傍らで自らも書画や漢学の修行を続け、多くの門人に書画を教授したその名声は広く響きわたりました。慶応三年(1867年)の大政奉還・王政復古宣言を経て明治政府が成立し、明治元年(1868年)に江戸は東京と改められて江戸城が皇居に定められ、東京が日本の首都として新たなスタートを切り、皇族・華族の東京への移転が相次ぐ中で、花蹊も明治三年(1870年)に京都の家塾を閉じて東京に移住し、私塾を設けました。すでに京都で女子教育者として名声の高かった花蹊のもとには多くの上流家庭の子女が集まって教えを受けました。また、赤坂御所において女官の教育にもあたりました。「新時代に後れをとらぬ女子の教育こそ、教育家として努力すべき道である」ことを持論としていた花蹊は勉学を望むものには広く門戸を開放しましたが、それも私塾では限界がありました。そこで明治七年(1874年)に神田中猿楽町に校舎を新築し、明治八年(1875年)に「跡見学校」を開校し、実質的な跡見女学校のスタートを切りました。上流名門の子女80名余が入学し、国語・漢籍・算術・習字・裁縫・挿花・点茶・絵画等の教科をもって品格のある女子の教育にあたりました。花蹊は厳格でしたが、その反面、軽妙洒脱で慈愛に満ちた教育者として信望を一身に集めていました。跡見女学校の特徴の一つが、開校後100名以上に達した生徒の多くを、学校敷地内の寄宿舎に収容し、家族的なふれあいの中で日常の生活を送らせたことにあります。生徒はこの寄宿舎を「お塾」と称し、花蹊を「お師匠さん」と呼びました。花蹊の教育方針は智徳教育にありましたが、同時に体育・家政も重視し、運動踊りという一種の体操を工夫したり、裁縫に重きをおくとともに、絵画・和歌・琴曲の教授にも力を入れました。また明治十八年(1885年)頃からは学科目に英語を加え、教師にはアメリカ人のワツソン夫人を招聘しました。当時、女学校といえば他に女子師範学校の前身である竹橋女学校と横浜にフェリス女学校があるくらいで、跡見女学校の独特な教育システムと生徒が着用する紫袴は大きな話題となりました。華族女学校の創設前で宮家の子女の入学が増えて生徒が増加し、校舎が手狭になったため、明治二十一年(1888年)に小石川柳町(現在の文京区小石川一丁目)に校舎を移転しました。学科目も明治二十五年(1892年)から明治三十三年(1900年)までの間に、音楽・地理・歴史・理科・家政学・家政簿記を加え、明治三十五年(1902年)までには校則を改め、全課程を5カ年としました。そして大正七年(1918年)9月、本科卒業生は高等女学校と同等以上の学力あるものと文部大臣から指定されました。柳町移転後も生徒数は増加の一途を辿り、校舎の改築が何度か行われました。大正二年(1913年)に財団法人組織となり、大正四年(1915年)には女学校として最初の制服が制定されました。大正八年(1919年)、高齢のため花蹊は辞任して名誉校長となり、大正15年・昭和元年(1926年)1月10日に87歳の生涯を閉じ、従五位に叙せられました。自らの学問に、また多くの子女教育にささげた一生であったと言えるでしょう。
旧跡見女学校 正門跡
明治八年(1875年)、神田仲猿楽町に開学した跡見学校は、創立者跡見花蹊の徳を慕う入学志願者引きも切らず、早くも明治二十年(1887年)小石川柳町に校舎を移転した。この校舎は関東大震災にもよく耐えたが、やはり志願者増に対応して学級数増設の必要に迫られ、ここ大塚に校地を得て、昭和七年(1932年)十二月に再々移転した。鉄筋コンクリート三階建、車寄せを設けた瀟洒な建物であり、ここは当時の正門跡である。平成二年(1990年)現校舎完成まで多くの卒業生を送り、また在校生を迎えた。
跡見学園の先にはお茶の水女子大学があります。
桐陰会館は、平成二十六年(2014年)9月に完成した筑波大学附属高等学校及びその前身である東京教育大学附属高等学校・東京高等師範学校附属中学校(旧制)の同窓会館です。
付属横坂は、跡見学園とお茶の水女子大学の間を通った先の筑波大学附属中・高校付近から始まって、音羽通りに面した大塚警察署前の交差点に至る長さ約180mほどのS字状に曲がる坂です。音羽ハウスのところでやや急坂になっています。道幅が広く、舗装も綺麗で、歩道の街路樹も美しい気品ある坂として知られています。付属横坂とは珍しい名前ですが、坂道の両側に跡見学園・お茶の水女子大学、それに坂名の由来になったと思われる筑波大学(かっての東京教育大学)の付属校が並んでいることからある意味妥当なのかもしれません。
大塚警察署前の交差点を直進し、首都高5号池袋線の下を潜った先に、西方向に向かってやや右寄りにカーブした幅の広い坂道が延びています。旧音羽三丁目から西の目白台に上る坂ということで三丁目坂と呼ばれました。坂下の高速道路5号線の下にはかつて弦巻川が流れ、三丁目橋(権三橋)が架かっていました。音羽町は江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、「新撰東京名所図会」には、「元禄十二年護国寺の領となり町家を起せしに、享保八年之を廃し、また徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより、町名となれり」と記しています。音羽町は首都高の東側に沿って南北に細長く伸びる町域ですが、首都高の西側はかって高田老松町と呼ばれていました。町名の由来となった松ですが、左手の松は見上げるように高かったので鶴の松と呼ばれ、右手の松はやや低く平なので亀の松と呼ばれました。鶴の松は明治三十八年頃に枯れ、亀の松は昭和八年頃に枯れたそうです。鶴は千年、亀は万年といいますもんね。
旧高田老松町(昭和四十二年までの町名)
明治五年、高田四ッ谷町の内及び高田四ッ谷町下町を併せ、更に旧土井、小笠原、細川下屋敷と武家地を合併し、高田老松町と命名した。旧高田老松町76番地の細川邸の門前に昔二株の老松があり、鶴亀松と呼んだ。町名はこのめでたい老松からとったといわれる。
三丁目坂の坂上にかっての東大医学部附属病院分院の守衛所と正門と塀の遺構が残されています。
東京大学医学部附属病院分院
この建物は、かつてこの地にあった東京大学医学部附属病院分院の守衛所だったものである。医学部附属病院分院は、明治三十年(1897年)7月に麹町区永楽町一丁目3番地に設立された医術開業試験場(通称、永楽病院)を前身とし、明治四十一年(1908年)に現在地に移転してからは、入院患者を官費で診療するなど、医療費を払えない人達を救済する役割を担ってきた。大正六年(1917年)に東京帝国大学に移管された後、現在に至るまでの間、医学部学生の教育、医師の卒後教育・臨床研究及び地域医療センターとしての使命を担って、あらゆる分野の研鑚の場として発展してきた。特に分院がオリンパス光学と共に世界で初めて完成させた「胃カメラ」は、早期胃がん研究を大きく進歩させたものとして記憶される。平成十三年(2001年)に本院との組織統合により、104年にわたる歴史を閉じることとなった。
THE UNIVERSITY OF TOKYO BRANCH HOSPITAL
THIS BUILDING USED TO BE THE GUARD HOUSE OF THE UNIVERSITY OF TOKYO BRANCH HOSPITAL, WHICH WAS ONCE LOCATED HERE. THE BRANCH HOSPITAL ORIGINATED FROM THE MEDICAL PRACTICE LICENSE EXAMINATION CENTER (COMMONLY CALLED EIRAKU HOSPITAL), WHICH WAS ESTABLISHED AT 1-3 EIRAKU-CHO, KOJIMACHI-KU IN JULY 1897. AFTER THE CENTER (HOSPITAL) WAS RELOCATED TO THE PRESENT LOCATION IN TOKYO'S BUNKYO IN 1908, IT PLAYED. THE ROLE OF RESCUING THOSE WHO COULD NOT PAY MEDICAL EXPENSES BY TREATING HOSPITALIZED PATIENTS
SUBSIDIZED BY GOVERNMENT EXPENSES. THE MANAGEMENT OF THE HOSPITAL HAS TRANSFERRED TO THE TOKYO IMPERIAL UNIVERSITY IN 1917. AFTER THAT, THE HOSPITAL DEVELOPED AS A PLACE FOR RESEARCH IN ALL MEDICAL FIELDS. IN PARTICULAR, THE STOMACH CAMERA THAT THE BRANCH HOSPITAL COMPLETED FOR THE FIRST TIME IN THE WORLD JOINTLY WITH OLYMPUS OPTICAL CO., LTD. IS REMEMBERED AS A SIGNIFICANT ADVANCE IN EARLY GASTRIC CANCER RESEARCH. BY THE ORGANIZATIONAL INTEGRATION OF THE BRANCH HOSPITAL WITH THE UNIVERSITY OF TOKYO HOSPITAL IN 2001, THE BRANCH HOSPITAL'S HISTORY OF 104 YEARS WAS CLOSED.
ピンク色の外壁の建物がかっての守衛所です。
とある住宅地の路地の角で左折し、目白通りに出ます。正面に見所ポイントFの「目白台運動公園」があります。3万平方メートル超の敷地の一部は田中角栄元首相のかっての目白御殿の敷地でした。相続税が膨らんで物納されたのだそうです。目白台運動公園の脇から細川庭園の西側に下る幽霊坂と呼ばれる細い急坂があります。高い塀に挟まれ、両側には巨木が鬱蒼と葉を茂らせていますので、昼なお暗しといった雰囲気です。角栄さんが幽霊になって現れることはないとは思いますが。ちなみに、幽霊坂は戦後細川家が整備して和敬塾に引き継がれた私道です。あまり人も通らない寂しい坂道でしたので、この坂道を利用して地域の人たちが肝試しを行ったために幽霊坂と呼ばれるようになったといわれています。現在は地元の住民にもよく利用されていて、急な斜面を乳母車を押して上る母子の姿もしばしば見られます。
信号の手前に和敬塾の案内板が立っています。和敬塾は永青文庫に隣接し、村上春樹の小説「ノルウェイの森」の舞台の一つにもなったことで知られています。株式会社前川製作所の創業者でもある前川喜作によって、「共同生活を通じて社会人としての知性と徳性を備えた人材の育成」を趣旨とし、昭和三十年(1955年)に設立された、男子の大学生・大学院生のための学生寮です。国内外の様々な地域から集まった約400名の学生・院生が共同生活を送っています。特定の大学を対象とした学生寮ではなく、塾生の在籍大学は様々で首都圏の約50大学にのぼります。深い緑に包まれた旧細川侯爵邸の約7千坪の広大な敷地に、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の学生寮を参考にして構想されたと伝えられる東寮・西寮・新南寮・北寮の4つの寮を有しています。
「和敬塾」について
財団法人和敬塾は、首都圏のさまざまな大学で学ぶ男子学生のための学生寮です。海外からの留学生も含め五百余名の大学生・大学院生がここで共同生活を送っています。約七千坪の敷地には、学部生寮と大学院生寮、ならびに東京都指定有形文化財の本館(旧細川侯爵邸)があります。常に理想を求める事業家だった前川喜作(1895年〜1986年)によって、昭和三十年(1955年)この地に和敬塾が設立されました。「国家社会の各方面において中堅となり先達となり支柱となるべき人材の育成」を創設の目的に掲げています。聖徳太子の十七条憲法の第一条「和をもって貴しとなす」から「和」を、第二条「篤く三宝を敬え」から「敬」をとって名づけられました。「人間形成、修養の場として」「日常の共同生活を通じて学生諸君にセルフメイドしてもらう」というのが前川喜作の希いでした。毎年百余名の若者が社会に巣立ち、多方面で活躍しています。
見所ポイントGの「永春文庫」は、旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料に加えて、第十六代当主細川護立の蒐集品などを収蔵・展示・研究する施設です。運営主体は公益財団法人永青文庫で、理事長は第十八代当主の元内閣総理大臣の細川護熙です。
永青文庫
この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、肥後細川庭園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家約700年の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和二十五年に設立された。昭和四十八年に登録博物館となり一般に展示公開されている。
胸突坂は、西側が肥後細川庭園(熊本藩細川家江戸下屋敷跡)、東側がホテル椿山荘庭園(山県有朋邸跡)という景勝地の間にある急坂で、あまりに急な階段の坂のために途中に休憩スペースと腰掛け石が設けられています。坂下には水神社(神田上水の守護神)が鎮座していますので、水神坂とも呼ばれています。
胸突坂
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
見所ポイントHの「肥後細川庭園」は、幕末に肥後熊本54万石の藩主細川越中守の下屋敷になり、その後変遷を重ねた後、昭和三十六年(1961年)に都立公園として開園しました(現在は文京区に移管されています)。
胸突坂の坂下に見所ポイントIの「水神社」があります。神田川の守護神である水神を祀っています。
水神社
祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇。創建の年代は明かでない。「江戸砂子」には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり。」と告げたのでここに水神を祭ったという。上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
胸突坂の坂下の神田川に面して、かつて芭蕉が暮らしたという見所ポイントJの「関口芭蕉庵」があります。津藩・藤堂家が神田上水の改修工事を請け負っていたため、松尾芭蕉もこれに携わり、工事現場とか水番屋に暮らしたと伝えられています。今はコロナ渦による緊急事態宣言発令中のため休業となっています。
関口芭蕉庵
この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝五年(1677年)から延宝八年(1680年)まで、神田川改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。享保十一年(1726年)芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延三年(1750年)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。芭蕉庵の建物は、昭和十二年(1937年)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし、昭和二十年(1945年)5月の戦災で焼失した。敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。
関口芭蕉庵の先の大滝橋付近に神田上水取入口の跡があります。江戸時代に神田上水への取水堰が設けられ、大滝のごとく神田川は流れていたといいます。この取水堰が後の文京区関口というこの界隈の地名となっています。 神田上水はここの堰で取水され、概ね神田川(江戸川)と並行して旧水戸藩後楽園内を地形等高線に沿って水道橋の掛樋に向かっていました。
神田上水取入口大洗堰跡
徳川家康の江戸入りの直後、井の頭池から発する流れに善福寺池・妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。
大洗堰の取水口の石柱も保存されています。取水口には上水の流水口を調節するため、「角落」と呼ばれる板をはめ込むための石柱が設けられました。ここにある石柱は昭和8年大洗堰の撤去に伴い、移設・保存されたものだそうです。
神田上水取水口の石柱
井の頭池を源流とするわが国最初の神田上水は、関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下を樋で神田、日本橋方面に給水した。この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和八年大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。なお上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。
大滝橋のひとつ下流側に一休橋という人道橋が架かっています。幅も狭く、近辺ではひときわこぢんまりした橋ですが、安政年間の江戸切絵図には関口橋の名前でほぼ同じような位置にかかる橋が掲載されています。このころから別名「いっきゅう橋」と呼ばれていたようです。その後、明治時代に周辺の土地の用途の変化などの事情で廃止されましたが、ほぼ同じ附近に復活した現在の橋にもこの名前が受け継がれています。ちなみに童話の「一休さん」とは関係はなく、左岸の川沿いに「一橋殿の抱屋敷」があったことから俗称「いっきょう橋」、それが変化して「いっきゅう橋」となったといわれています(碑文とは異なりますが)。なんだ。。。
一休橋の由來
明治初年まで此附近に関口橋あり、土俗一休橋と構へたり。橋の名は新編江戸志に依れば橋畔に一休名残蕎麦なる名物ありしにより其名起りしと。
見所ポイントKの「江戸川公園」は、目白台の高台の突端部がすぐ北側に迫り、川沿いの桜を中心に緑が多い都市公園です。
このあたりの神田川流域は、明治四十三年に大洪水に見舞われたといわれますが、その後の大正二年から大正八年にかけて大掛かりな護岸改修工事が行われました。江戸川公園の開園は、護岸改修完了後の大正八年で、早稲田方面への電車の開通とほぼ同時期です。公園の中に、神田川の治水に尽力した大井玄洞の像が建っています。
目白台・関口の歴史 〜川の歴史に思いをはせる〜
大井玄洞の胸像
かつて江戸川と呼ばれていた神田川は、たびたび洪水をおこし、沿岸の人々にとって治水事業は、永年の願いでした。明治四十三年(1910年)の大洪水の後、大井玄洞(1855年〜1930年)は人々の願いをかなえるため、治水に尽力しました。大正二年(1913年)に護岸工事着手し、大正八年(1919年)に完成させています。人々は、この治水事業の功績を称え、昭和三年(1928年)神田川沿いの江戸川公園の当所に玄洞の銅像を建てました。
神田上水
日本最古の神田上水(神田川)は、徳川家康の命により大久保藤五郎によって開かれました。井の頭池を水源とし、下流の大滝橋あたりに大洗堰を築き、水位を上げて上水を水戸屋敷に入れ、樋で地下を神田や日本橋方面に流しました。園内の左手を進むと、石組みの池を見ることができます。その石組には、大洗堰の石柱を使用しています。更に、先を進むと「関口色蕉庵」や「水神社」に出会うことができます。「関口芭蕉庵」は、神田上水の改修工事に携わった松尾邑蕉が「龍隠庵」と呼ばれる水番屋に住んだといわれ、これがいつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれることになったそうです。「水神社」は、いい伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安奏なり」と告げたため、ここに水神を把ったといわれています。
江戸川の桜
下の絵は、明治三十九年頃の江戸川橋下流にある「中之橋」付近の景色を描いたものです。見事な夜桜と船から花見を楽しむ様子が描かれ、かつての名所・盛り場としての姿を伝えています。残念ながら大正末期頃の護岸改修により、この景色は失われましたが、当時の面影を惜しみ、現在の江戸川公園沿いに桜を植樹し、新たな桜の名所としました。
江戸川橋を渡り、江戸川橋通りの最初の信号で左折した先から地蔵通り商店街が延びています。地蔵通り商店街は、昭和の雰囲気を残したどこか懐かしさを感じる商店街です。様々なジャンルのお店が建ち並んでいますので、のんびりと歩きながら散策がてらお買い物ができます。
そんな地蔵通り商店街の入口付近に見所ポイントLの「子育地蔵尊」があります。子育地蔵(火伏せ地蔵)は、地蔵通り商店街の名前の由来となっているお地蔵様で、赤ん坊を抱いた姿をしています。こちらの子育地蔵は、江戸時代に神田川が氾濫した際にどこからか流れてきて、この地に留まったと言い伝えられています。また、優しいお顔をした尊像に接した里人が、この地にお祭りして以来、子育て・商売繁盛、戦災のほか大火に見舞われないことから「火伏せ地蔵」としても敬まわれています。
子育地蔵(火伏せ地蔵)
三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑であったころ、近くの江戸川(現在の神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は、明治の初めにいずこからか流れてきて、ここに留まったものと言い伝えられている。やさしいお顔の尊像に接した里人がこの地におまつりして以来、子育・商売繁昌、また、この地域が戦災のほか大火に見舞われないことから「火伏せ地蔵」として敬まわれている。地元では「延命講」をつくり、地蔵尊をお守りしている。
商店街の外れ近くで左折し、目白通りを横断し、神田川を古川橋で渡ります。小日向神社入口交差点から坂が上がっています。服部坂は、文京江戸川橋体育館の横を北方向に上る長さ100mほどの坂です。体育館の入口横の壁に案内板が貼られています。蛇足ですが、戦災で廃校となったのは黒田小学校で、戦後になって跡地に旧第五中学校が建てられ、平成二十一年(2009年)に旧第五中学校は生徒数の減少により旧第七中学校と統合され、廃校になりました。
服部坂
坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治二年(1869年)に小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいところとして、「日和下駄」に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・・」と書いている。坂下にある旧文京区立第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。
見所ポイントMの「江戸川橋体育館」は、旧第五中学校体育館を有効活用してバリアフリー等の改修工事を行い、区内3か所めの体育館として平成二十四年4月1日に開館しました。文京区に在住・在勤・在学する人達のための体育館で、館内には柔道場・剣道場・多目的室などの設備を完備しています。バレーや卓球・バトミントンなど様々なスポーツに活用できます。
服部坂の坂上に見所ポイントNの「小日向神社」が鎮座しています。小日向神社は、かっての小日向村の鎮守として栄えた氷川神社と、古くからこの地域の氏神さまとして里人に親しまれていた八幡神社(田中八幡)が明治二年(1869年)に合祀されて小日向神社と改称されました。戦災で社殿は焼失しましたが、戦後になって仮殿で復興し、昭和三十八年には現在の本殿が再建されました。
飯田橋付近の神田川は、かって江戸川と呼ばれていました。江戸川の北側には小石川上水(後の神田上水)の流路かあり、水に縁のある町名が残されています。「関口」という地名は、江戸初期に造られた小石川上水へ水を引き入れるために江戸川に造られた堰に由来するという説があります。「水道端」の地名もこの小石川上水に由来しています。
旧水道端一・二丁目(昭和四十一年までの町名)
もと、神田上水堀の南北に沿った町で、町名は水道端と名づけられた。
○明治五年・・上水堀の南側の持筒組(戦時に先鋒となる)屋敷および武家地を併せて水道端一丁目とした。
○明治五年・・上水堀の北側の荒木坂と服部坂の間の武家地や寺地を併せて二丁目とした。ここは寺町通りで、称明寺・本法寺・日輪寺・善仁寺など片側に軒並寺院が続いている。
神田上水は、最古の上水道で、徳川家康の命で大久保主水が造った井の頭池を源流とし、小日向台地下を素堀で通した。明治十一年ごろ石で巻いて暗渠にした。それで、巻石通りまたは、水道通りと呼んでいる。
本法寺は、夏目漱石の菩提寺となっています。
高源山随自意院本法寺は、東本願寺の末寺で、真宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。明治十四年一月に母、二十年三月に長兄、六月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊つちやん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。境内には、早稲田大学第一四代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。
「小日向」という町名は、「こひゅうが」ではなく、「こひなた」と読みます。町名の由来は、鶴高日向という人の領地だったためとする説、もと日向(ひゅうが)国(現在の宮崎県)にあった大慈寺が徳川家康の関東入国に伴って移転し、その後大塚に再移転したため、「その後」という意味で小日向と呼ばれるようになったとする説などがあります。ここは小石川と同様に戦国時代は北條氏の領地で、その後増上寺の領地となり、次第に一般の町人地になったといわれています。古くは「こびなた」と呼ばれていましたが、現在の行政上の地名は「こひなた」となってはいます。しかし町会名や学校名は「こびなた」のままです。昭和四十一年(1966年)の住居表示制定の際、文京区が読みから濁点を外し「こひなた」としたために後になって住民と軋轢を生みました。石川啄木・横溝正史・阿部公房などの旧宅があったことでも知られ、夏目漱石や志賀直哉などの小説にもしばしば登場しています。
旧第六天町(昭和四十一年までの町名)
もと、小日向村に属し、正徳三年(1713年)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。明治二年と明治五年に寺地や武家屋敷を併せた。町名は前の字を省いて第六天町とした。最後の将軍慶喜は、大正二年ここで没した。
神田川のかっての川名の「江戸川」にちなんだ町名もありました。この辺りの両岸は、明治時代には桜の名所だったそうです。
旧西江戸川町(昭和四十一年までの町名)
江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地であった。明治五年、東隣の江戸川町に対して、西江戸川町とした。「新編江戸志」に、「中の橋、此辺を恋ヶ崎という、一名鯉ヶ崎、此川に多く鯉あり、むらさき鯉という、大なるは三尺(注・約1メートル)に及ぶなり」とある。江戸時代は、お留川といって、殺生禁断であった。
”こくせう(注・鯉こく)になどとほしがるお留川” (古川柳)
石切橋から隆慶橋までの間の江戸川の両岸一帯は、明治の末ごろまで東京市内屈指の桜の名所であり、夜桜見物の船まで出た。明治十七年ごろ大海原某氏が自宅前の川べりに桜を植えたのが始まりで、地域の人たちが協力して植樹した。しかし、洪水の害があり、護岸工事で切られた。
神田川が大曲交差点付近で東から南に向きを変える地点の手前に、彎曲した外観が特徴のトッパン小石川本社ビルが聳えています。ビルの地下には見所ポイントOの「印刷博物館」があります。入場は有料ですが、印刷博物館は平成十二年(2000年)に開館した印刷の歴史や文化について紹介する博物館です。地下展示室では、日本を中心に印刷の歴史を時系列で追える常設展のほか、コミュニケーションメディアとしての「印刷」に焦点を当てた企画展などを行っています。展示室内にある「印刷工房」では、活版印刷の保存と伝承や研究活動を行っていて、活版印刷体験(要予約)ができます。1階のP&Pギャラリーでは、現代のブックデザインやグラフィックデザイン・パッケージなどをテーマにした企画展が開かれています。施設内にはこの他、印刷にちなんだオリジナルグッズ・展覧会カタログ・書籍などを販売しているミュージアムショップや、VRシアター・ライブラリー・研修室なども備わっています。
新白鳥橋から隆慶橋辺りまでの神田川の東側一帯は、かって江戸川町と呼ばれていました。
旧江戸川町(昭和三十九年までの町名)
江戸時代は武家地で、江戸川端、大曲り新道といっていたのを、明治五年(1872年)これら
を併せて小石川江戸川町とした【「東京府誌」より】。町名は、町の南西側が江戸川に面していることによる。目白台下の旧関口の大洗堰(現、大滝橋あたり)から船河原橋までを江戸川といっていたが、昭和四十年(1965年)新河川法が施行されて、神田川と呼ぶようになった。白鳥橋の近く、旧江戸川町十七番地(現、水道1−2のあたり)に、明治六年(1873年)、同人社が創設された。塾主は中村敬宇(正直)で「江戸川聖人」といわれた。
見所ポイントPの「同人社跡」は、とあるビルの裏門付近にあったようです。
都指定旧跡 同人社跡
中村正直(1832年〜1891年・号敬宇)が明治六年、邸内に私塾「同人社」を開いた。この洋学塾は慶応義塾(福沢諭吉)・攻玉社(近藤真琴)の三大私塾の一つで全国から多くの人材が集まった。正直は天保三年江戸に生れ、昌平坂学問所に学び、学問所教授方になりイギリスに渡る。明治元年帰国。「スマイルズ」の自助論を訳し「西国立志篇」を著わし青年層に大きな影響を与えた。明治五年大蔵省に入り、明治六年同人社設立、明六社にも参加し、啓蒙思想に力をつくした。東京女子師範学校長、東大教授、元老院議官、貴族院議員など歴任した。教えを受けた人は多く、岡倉天心・嘉納治五郎・井上哲次郎等各分野にわたり、著書も多く、「江戸川の聖人」といわれた。
ゴール地点の都営地下鉄大江戸線飯田橋駅出入口C2に戻ってきました。
ということで、文京区最後の「希望の道コース」を歩き終えました。名所旧跡に加えていろんな見所も多く、文京区の多彩な魅力を堪能できました。タイトルの「希望の道」の意味がイマイチよく分かりませんけど。次は台東区の散歩道を巡ります。
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