Aコース(隅田公園)  

コース 踏破記  

今日は台東区の「Aコース(隅田公園)」を歩きます。都立浅草高校に面した山谷堀公園の中にある「たいとう健康都市宣言あこがれ像」をスタート地点として、隅田公園を端から端まで巡ります。  

スタート地点:たいとう健康都市宣言あこがれ像
@待乳山聖天
A台東リバーサイドスポーツセンター
B桜橋
C桜橋防災船着場
D梅園
E浅草東参道二天門防災船着場

ゴール地点:水上バス浅草発着場


都立浅草高等学校は、平成十八年(2006年)に、台東商業(全・定)・上野・両国・墨田川・小松川・小岩の定時制課程を統合し、都立では2校目の単位制高校として台東商業高校校舎を継承して開校されました。午前部・午後部・夜間部の3部制に分かれて授業が行なわれています。学校教育法では、「必須科目を含む74単位以上を取得すること」という卒業資格取得条件が決められています。単位制高校とは、学校教育法で決められている単位を修得すれば卒業が認められる高等学校のことです。



スタート地点の「たいとう健康都市宣言あこがれ像」は、都立浅草高等学校に面した山谷堀公園内に建っています。作者は朝倉文夫氏です。

たいとう健康都市宣言

健康は、私たちがいきいきとした豊かな生活を営む源であり、万人の願いである。健康を保持増進するためには、心身の健康づくりに対する一人ひとりの自覚と健康的な生活習慣の実践、個人と家族と地域が共に支えあう社会、安全で快適な生活環境の整備が不可欠である。台東区は、すべての区民が健康で文化的な生涯を送ることができるよう、区民と地域社会と区が一体となって健康施策を積極的に推進することを誓い、ここに健康都市とすることを宣言する。




山谷堀公園は、かっての山谷堀を埋め立てて緑道化した公園です。山谷堀に架かっていた橋は、親柱や欄干がそのまま残されています。



「山谷堀」は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐために掘られた人工の水路でした。山谷堀の水源は石神井用水(音無川)で、水流は根岸から箕輪(三ノ輪)を通って大川(隅田川)への出入口である今戸まで続いていました。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されています。

山谷堀公園

ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路であったが、経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、 東京都により昭和五十一年(1976年)頃から暗渠化された。区がその上部を公園として整備し、昭和五十二年以降に山谷堀公園として開園した、幅約9メートル、長さ約740メートルの公園である。平成二十九年(1017年)から令和二年(2020年)、老朽化により全面改修工事を実施した。隅田公園から桜の並木が続き、春は桜越しに東京スカイツリーを眺めることのできるビューポイントとなっている。埋め立てられる前の山谷堀には、下流から、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本堤橋の9つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い、全て取り除かれている。公園の両側にある護岸や橋の親柱が、水路であった面影を残している。

Sanyabori Park

A canal called Sanyabori used to flow here, but urbanization caused it to become polluted and smelly and the metropolitan government covered it over in 1976. From the following year, Taito City created Sanyabori Park above the waterway, a ribbon of parkland 9 meters wide and about 740 meters long. The park was undergoing thorough a renewal from 2017 to 2020. Lined by cherry trees stretching to Sumida Park, it is renowned for springtime views of cherry blossoms with Tokyo Sky Tree in the background. Nine bridges spanned Sanyabori before it was covered. Starting at the downstream end, they were the Imado Bridge, Shoten Bridge, Yoshino Bridge, Shohoji Bridge, Sanyabori Bridge, Kamiarai Bridge, Jikata-shinbashi Bridge, Jikata Bridge, and Nihontsutsumi Bridge. The bridge revetments and pillars remain providing lasting images of the former waterway.




山谷堀は、かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌われ、江戸名所のひとつに挙げられた風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったといわれています。江戸時代には新吉原遊郭への水上路として隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」ともいいました。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされ、河口岸には船宿や有明楼などの料亭などが建ち並び、芸者遊びなどもできて、江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近かったために山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれました。「堀」と言えば山谷堀を指すくらいに有名な場所でした。明治時代になって遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和時代には肥料船の溜まり場と化し、永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退していて、山谷堀も埋め立てが始まっていました。戦後の売春防止法の施行による吉原遊郭の閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられました。かっての猪牙舟を復元した模型が公園内に展示されています。

猪牙舟

猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷船とも呼ばれていた。当時の江戸の人々にとって、舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからというものや、長吉という人が考案した「長吉舟」が訛って「ちょきぶね」になった、と諸説あり、速度の速い舟であった(1尺=30.3センチメートル、1寸=3.03センチメートル)。浅草聖天町出身の池波正太郎の作「鬼平犯科帳」の中にも多く登場している。

Chokibune

Chokibune was a type of open boat with a pointed prow, used as a taxi on the rivers and canals of Edo. After the licensed pleasure district was relocated to Shin-Yoshiwara, so many of the swift, small boats plied the Sanyabori canal that they were also known as sanyabune (Sanya boats). For Edoites, it was the height of luxury to ride a boat down the Sanyabori for a visit to Yoshiwara. Chokibune is written with the characters for "boar tusk boat," for like a tusk they were long and narrow and pointed, about 30 feet (909 cm) long and 4.5 feet (35 cm) wide at the middle, although some say "choki" was originally a corruption of Chokichi, the name of a boat designer. The boats are often seen in films and manga based on the Onihei Hankacho novels by Ikenami Shotaro, who was a native of the Shodencho neighborhood in Asakusa.




台東区の散歩道は、コースの要所要所にウォーキングマップが掲示されています。見所ポイントも図示されていますので、とても歩きやすいです。



山谷堀は今戸橋の先で隅田川に合流していました。

今戸橋跡

今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃に架けられた山谷堀最下流の橋です。最初に整備された時期は不明ですが、江戸時代の資料に橋を架け渡すという記載が残っています。この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われています。現存する欄干は、大正十五年(1926年)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和六十二年(1987年)現在のような形となりました。




今戸橋の西側には小高い丘があります。

待乳山・今戸橋

待乳山は現在の浅草七丁目にある小高い丘で、真土山・真乳山とも書かれた。聖天様をお祀りする「待乳山」は、地中より突然隆起して現れた霊山で、その時金龍が天より降って守護したと伝えられている。江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌の題材にもなっている。江戸時代、待乳山でお参りをし、天狗坂(待乳山聖天境内)を下っていくと隅田川と山谷堀の合流する地点にある今戸橋に出た。今戸橋界隈は茶屋や船宿が立ち並び、夜景を描いた浮世絵の窓の灯りからも、賑わっていた様子がうかがえる。浅草聖天町出身の池波正太郎作の「鬼平犯科帳」の中にも、今戸橋の近くにある船宿が登場している。

Matsuchiyama/Imado Bridge

Mt. Matsuchiyama is a small hill in present Asakusa 7-chome and the Matsuchiyama Shoden enshrines Shoden (Nandikesvara, Ganesh in the Buddhist pantheon). It said that the sacred mountain of Matsuchi suddenly raised itself from the earth and a golden dragon descended from heaven to protect it. During the Edo period (1603-1868) Matsuchiyama was renowned as one of the finest scenic viewpoints in the Eastern Capital and prized as the subject of many Ukiyoe and poetry for its superb prospect. Strolling in Edo period starting from a visit to Matsuchiyama Shoden and going down through Tenguzaka (precincts of the Matsuchiyama Shoden) leaded to Imado Bridge where Sumida River and Sanyabori Canal converged. The Imado Bridge neighborhood was lined with tea houses and boat houses, and radiant windows depicted in the night views of Ukiyoe symbolize the bustling atmosphere of the area then. Ikenami Shotaro from Asakusa Shoden-cho (present Asakusa 6-chome, 7-chome) features boat house near Imado Bridge in his masterpiece "Onihei Hankacho (Onihei Crime Files)"..




丘全体が本龍院の境内になっています。本龍院は聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつです。山号が「待乳山」、本尊が歓喜天(聖天)・十一面観音であることから、見所ポイント@の「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」とも称され、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られています。境内に、待乳山聖天の案内板が立っています。左側の石碑は「トーキー渡来記」です。碑文は殆ど読み取れません。

待乳山聖天

待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601年)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨み、かつての質屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、

   哀れとは夕越えて行く人も見よ
   待乳の山に残す言の葉

の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。

MATSUCHIYAMA SHODEN

Matsuchiyama Shoden is one of the subordinate temples of Kinryusan Sensoji Temple. Its proper name is Matsuchiyama Honryuin. Located alongside the Sumida River and near the Takeya Ferry. It was called a noted place featuring a good view in the Edo Era. Here there are many Nishikie prints of the Edo Era and poems by famous men of letters and painters like Toda Mosui dealing with the scenary of this place. Its main building was destroyed in the Great Earthquake of 1923 and the Seconed World War, but it was rebuilt in 1961. Radishes seen in its compounds are known as the symbol of health and family harmony while purses represent commercial success.




見所ポイントAの「台東リバーサイドスポーツセンター」は、墨田区民の体力増強や健康増進のために、安心してスポーツを楽しんでもらうための総合施設です。屋外施設としては、一周200mのトラックがある陸上競技場、人工芝の野球場(2面)、テニスコート(5面)、少年野球場、屋外プール(夏季開催:大プール・小プール・幼児用プール)があります。屋内施設としては、バドミントン・バレーボール・バスケットボールなどが可能な競技場、柔道場、剣道場、弓道場(和弓・アーチェリー)、相撲場、エアーライフル場、卓球場、トレーニング室等があります。台東リバーサイドスポーツセンターでは、年間を通じて様々なスポーツ教室を開催したり、一般開放日には個人で自由に競技を楽しむことができるように運営しています。



コースの間違いやすいところには標識が設置されています。



隅田川の護岸上にはワシントン帰りの桜の木が植えられています。

ワシントン桜

明治四十五年(1912年)、東京市(当時)はアメリカ合衆国ワシントンD.C.へ桜を贈りました。これらはポトマック河畔の桜として大切に育てられ、桜の名所として親しまれています。ここに植えてある桜は、桜橋の架橋(昭和六十年【1985年】)にあわせて、ワシントンの桜(子孫木)の里帰りを実現させたものです。里帰りしたサクラは、日本に着いてから桜橋完成までの5年間、都内の苗圃で育てられた後、ここ隅田公園に移植されました。

Washingtou D.C. Cherry Trees
Home-coming Cherry Trees from Washington D.C.

In1912, cherry trees were presented from the then city of Tokyo to Washington D.C., United States of America as a gift of friendship. The cherry trees were nurtured along the riverside on Potomac and Potomac is now noted for its cherry blossoms. The scions of cherry trees were taken from Washington D.C. when the construction of Sakurabashi began in 1985. After arrival Japan, the hom? coming scions were nurtured in seedling facilities for 5 years waiting for the completion of Sakurabashi, and be???d out here in Sumida Park.




見所ポイントBの「桜橋」は、台東区と墨田区が隅田川を挟んで相対していることから、昭和五十二年に姉妹区協定を結び、この記念事業として両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架 けることを計画し、昭和六十年に完成しました。

桜橋

桜橋は隅田川両岸に沿って広がる「隅田公園」の台東区側と墨田区側を結ぶ歩行者専用橋です。姉妹都市である台東区と墨田区の象徴として、昭和五十五年(1980年)から建設がはじまり、昭和六十年(1985年)に完成しました。優美な曲線をもつX字型の美しい橋のデザインは、周辺の景観に配慮したもので、橋の色彩などにも工夫を凝らして建設しています。

SAKURA (CHERRY BLOSSOM) BRIDGE

An excellent spot for viewing cherry blossoms in spring. The pedestrian-only bridge was created through the friendship between the people who live on both river banks.




橋の両側には「双鶴飛天の図」という彫像が置かれています。原画はシルクロード画家として知られる平山郁夫氏が担当しました。



見所ポイントCの「桜橋防災船着場」は、平成七年の阪神・淡路大震災をきっかけにして、災害時の河川舟運の有効性が注目されたことから、東京都内でも整備が進められてきたもののひとつです。水上バスや屋形船など船による観光が盛んになっていることから、曜日や時間によって一般の船舶に開放されている船着場もあります。



隅田川に橋が架かっていなかった時代、川を渡るには「渡し」に頼るしかありませんでした。

竹屋の渡し

隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島二丁目)の前あたりを結んでいた。明治四十年刊「東京案内」には「竹屋の渡」とあり、同年発行「東京市浅草全図」では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(1818年〜1830年)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。昭和三年言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。

The Ferry of Takeya

The Ferry of Takeya, also called the Ferry of Matsuchi, was one of the many ferries operating on the Sumida River. It connected Sanyabori and Mukojima Mimeguri Shrine. The name Takeya is said to have been derived from the name of an inn in Sanyabori. The name "Matsuchi" came from the location of the ferry, which was below Matsuchi-yama Shoden. It is unknown when the ferry service actually began, but the business continued until the Kototoi-bashi Bridge was constructed in the early Showa Era.




「花」の歌碑が建っています。誰でも一度は聴いた歌詞とメロディーですね。

花の碑

   春のうららの隅田川
   のぼりくだりの舟人が・・・

武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和三十一年十一月三日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。武島羽衣は、明治五年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治三十三年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣二十八歳、廉太郎二十一歳の時であった。滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の三年後、明治三十六年六月二十九日、二十四歳の生涯を閉じた。武島羽衣はその後、明治四十三年から昭和三十六年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和四十二年二月三日、九十四歳で没した。手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。

MONUMENT OF "HANA"

The monument of "Hana" was built in honor of Takeshima Hagoromo, a songwriter and professor, by his former students in 1956. He wrote a famous Japanese song titled "Hana", which lyrically expressed the beauty of the Sumida River; it starts "Sumida flowing through the warmness of spring time while many people on boats moving upstream and downstream are enjoying the spring and nature." Composer of this song was Taki Rentaro, an assistant professor of Tokyo Music School (presently Tokyo National University of Fine Arts and Music), and Hagoromo also became the professor in the same school (Tokyo Music School) in 1897. Both of them worked together and completed the song "Hana". Hagoromo was born in the family of a cotton cloth wholesaler in ihonbashi in 1872. He became a scholar on Japanese literature and was also known as a writer with an expressive lyrical style. The monument has his own writing copied and seulptured on the stone.




正岡子規の句碑も建っています。「都鳥」は、百合鴎(ゆりかもめ)の雅称です。「隅田川の都鳥」として有名で、古くから詩歌や物語に現われます。

   雪の日の 隅田は青く 都鳥



隅田公園は桜の名所として有名ですが、見所ポイントDの「梅園」もあるんですね。

梅めぐり散歩道

■梅と日本文化
梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました。平安時代になり、梅は上流社会の流行花木となり、和歌などに多く歌われました。梅にまつわる話では、菅原道真が大宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」が有名です。安土桃山時代には、中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、紅、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に作られるようになりました。江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し、「梅めぐり散歩道」を整備しました。




かって隅田公園内に、マスコミ報道によって付けられた呼び名の「アリの街」という労働者の生活協同体がありました。そこに「蟻の街のマリア」と尊称された女性がいました。

「アリの街」跡

昭和二十五年(1950年)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。昭和三十五年(1960年)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成二十七年(2015年)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。

The Site of the Ant Village

In 1950, here arose a communal living place, where people who lost their homes and family members in the war were making a living by collecting waste. It was called the Ant Village because people worked hard and helped each other like ants. Satoko Kitahara, known as "Maria of the Ant Village," was born into an affluent family. She was guided by Zeno Zebrowski, a Polish monk committed to taking care of war orphans across Japan, and moved to the Ant Village to keep supporting children until a fatal disease ended her young life at the age of 28. In 1960, the Ant Village was moved to Koto City at the request of the Tokyo Metropolitan Government. Later, Satoko's efforts were made into a film and a play. In 2015, she was the first Japanese woman to be declared Venerable by the Catholic Church.




見所ポイントEの「浅草東参道二天門防災船着場」は、災害時に河川を物資輸送経路等として活用できるように、避難場所等に隣接して整備された東京都の施設です。平常時には、東京都が防災用船舶として所有する水上バスの「東京水辺ライン」が隅田川を中心に運航されています。



隅田川の西側には浅草駅があり、浅草寺や仲見世通りなど有名スポットが点在します。東側には、すみだ水族館や300以上の店舗が入る東京ソラマチからなる東京スカイツリータウンがあります。すみだリバーウォークは、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の線路の下を通る歩行者専用の遊歩道です。すみだリバーウォークは7時から22時まで開門していて、徒歩で浅草寺から東京スカイツリーまで最短で行くことができます。全長約160メートルの遊歩道内のガラス床から、隅田川の水面や運航中の船を覗くことができます。橋のカラーデザインには東京スカイツリ一の色に合わせた「スカイツリーホワイト」が使用されていて、より広域なエリアでの一体感を演出します。また、日没になると点灯される東京スカイツリーと橋のライトアップは連動していて、季節やイベント等の特別ライティングとの共演も必見です。



吾妻橋の手前に、もうひとつの「渡し」の跡があります。

山の宿の渡し

隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治四十年(1907年)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれら の人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781年)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いてない。

Yamanoshuku no Watashi Ferry

In the days when ferries crossed the Sumida River there was a ferry called the "Yamanoshuku no Watashi" (the word "watashi" means ferry). In a map printed in 1907 ferry routes are shown, and "Yamanoshuku no Watashi", which was also known as "Makura-bashi no Watashi" is mentioned. The ferry route was approximately 250 metres upstream of Azuma-bashi Bridge and linked the riverbank at Hanakawado with the Nakanogo Kawaramachi area. The name of the ferry is derived from the name of the district of Yamanoshuku which was to the west of the riverbank at Hanakawado. The alternative name is connected to the fact that the arrival point on the eastern bank of the river was at the approach to Makura-bashi Bridge. Makura-bashi Bridge stands near to the point where Kitajikken River from Sumida ward flows into the Sumida River. It is not clear when the ferry serving this route was started. From about the mid Edo period (around the 1890s), the bank of the Sumida River upstream of Makura-bashi Bridge was popular as a site for cherry blossom viewing.




よく誤解されますが、アサヒビール本社ビルの隣にある金色のオブジェは「聖火台の炎」を表現しています。金色の炎は「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表わしています。設計者は世界的に有名なデザイナーである、フランス人のフィリップ・スタルク氏です。アサヒビール100周年の記念事業の一環として、1989年10月に竣工しました。



ゴール地点の水上バス浅草発着場に到着しました。



ということで、台東区で最初の「Aコース(隅田公園)」を歩き終えました。さすがに観光名所の宝庫、浅草でした。次回は御徒町の穴場スポットを巡ります。




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