Bコース(竹町地区健康推進委員おすすめ)  

竹町地区健康推進委員より
ウォーキングコースの見どころ

スタート・ゴール地点の御徒町公園では、3月初旬に見頃の「河津桜」のかわいらしいピンクの花や、5月初旬頃には「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)」の雪のような真っ白な花など四季折々の花を楽しめます。


コース 踏破記  

今日は台東区の「Bコース(竹町地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。御徒町公園をスタート地点として、蔵前橋通りを挟んだ東上野の裏町を巡ります。  

スタート地点:御徒町公園
@秋葉神社
A佐竹商店街
B金比羅神社
C千代田稲荷
D市村座跡地
E桜稲荷
Fジュエリータウンおかちまち
G矢場稲荷

ゴール地点:御徒町公園


スタート地点の御徒町公園から歩き始めます。



「御徒町」の町名について解説した案内板が立っています。

旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧御徒町

この付近一帯は、徳川三代将軍家光(1623年〜1651年)のころ徒士組の屋敷地であった。徒士組とは、徒歩組・歩行衆ともいわれ、徒歩で主君にお供したことにもとづく呼称である。江戸幕府の職制では若年寄に属し、その職務は、将軍外出の際の沿道警備・江戸城中玄関廊下の警戒であった。この地は、江戸末期に至るまで徒士組の屋敷が多かつたことから、御徒町・徒町と呼ばれるようになった。明治五年(1872年)、徒士組屋敷および周辺の武家屋敷などを併せ、御徒町は正式に誕生した。文化文政(1804年〜1830年)のころ、この付近では朝顔作りが盛んであった。今でこそ朝顔といえば入谷であるが、この地こそ朝顔作り発祥の地である。




御徒町公園と、隣接する御徒町台東中学校の敷地は、江戸時代に伊予大洲藩・加藤家の江戸上屋敷になっていました。屋敷内には鎮守として八幡神社が祀られ、現在でも石の鳥居を構えた八幡神社が鎮座しています。



屋敷内には池泉式の庭園もあり、鯉が泳ぐ池もあったそうです。現在でも一部が再現され、水を湛えた池には鯉が泳いでいます(見えませんが)。



公園は東西に長い長方形の敷地になっていて、東側に子供向けの遊具や砂場があり、西側は広場になっています。西側の広場には樹木があちこちに植えてあり、木陰が近隣の住民や近くで働く人達の憩いの場となっています。最近流行の健康器具なども置いてあります。昼休みに体をほぐせそうですね。



公園の西南の入り口に、何を形どっているのかは分かりませんが奇妙な彫像が置かれています。碑文によれば、オペラ歌手の藤村梧朗の死を悼んで建てられたものだそうです。

オペラの名手として大正期、天下の子女の血をわかせたる熱と義と愛の人藤村梧郎、一九五五・一・一八ここに昇天す。即ちこの処より平和の歌声高らかにあがるしるし。人間の愛・愛・愛。



御徒町公園はドラマのロケ地として度々撮影で使われ、これまで何度かドラマの作品に登場しています。2019年に放送されたフジテレビドラマ「まだ結婚できない男」で磯村勇斗さん演じる矢野亮介が阿部寛さん演じる桑野信介に相談した公園として登場していました。2014年にはTBSドラマ「ペテロの葬列」、2012年にはフジテレビドラマ「遅咲きのヒマワリ〜ボクの人生、リニューアル〜」やテレビ朝日ドラマ「ボーイズ・オン・ザ・ラン」に登場しています。それ以前にも何度かドラマ作品に登場しています。石の鳥居を構えた神社がある御徒町公園は、公園としての人気は勿論ですがドラマのロケ地としても人気です。今日はドラマではなく、お散歩番組の収録でしょうか?



北側を春日通り、東側を清洲橋通りに接する御徒町公園の東側一帯は、かって竹町と呼ばれました。

旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧竹町

明治五年(1872年)秋田の久保田藩主佐竹邸、伊勢の津藩主藤堂邸、伊予の大洲藩主加藤邸、秋田の矢島藩主生駒邸と周辺の屋敷が合併して竹町はできた。町名の由来は、この地に最も広大な敷地を有した佐竹邸の西門扉に竹を用いていた事にちなむという。この地は竹町と命名されてから、めざましい発展を遂げた。佐竹邸の跡地には講談寄席や料理店がならび大変にぎわった。その後、大正十二年(1923年)の関東大震災で一面消失したが、商人や職人の町としてよみがえった。そして、第二次世界大戦で二度にわたる空襲を受けたにもかかわらず、他にさきがけて復興し現在の姿になった。




そんな竹町に勧請されたのが見所ポイント@の「秋葉神社」です。

秋葉神社略縁起 佐竹町会

当神社は現在、火之迦具土大神(ほのかぐつちのおおかみ)を御祭神とす(す)る秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)を御本社とする火防・火伏せのお社であります。御神徳は火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛・工業発展の霊験新らたかで、全国津々浦々で信仰されており、全国八百社以上の秋葉神社のうちの一社であります。当町内は、明治維新まで出羽久保田藩佐竹氏の上屋敷地でしたが維新後民間に貸し下げられ、原野同様に荒れ果てていた地を整地、縦横に道路をつけ建物が建ち並び始めました。また、見せ物小屋なども出来、町として賑わい始めました。人々の生活、仕事、建物などを守護していただくために秋葉神社を勧請することになったものと思われます。明治十八年(1885年)一月二十日に深川御船蔵前町(現在の江東区新大橋二丁目十〜十一番付近)にあった秋葉山中央寺(現在は江東区南砂に移転)から御遷座になりました(読売新聞の記事による)。明治十九年(1886年)には二十四日の縁日に三十五座の神楽を奏した。納涼かたがた参詣者が多く至極賑わったとの新聞記事があります。戦前までは多くの夜店が清洲橋通りに向かって出店し、佐竹商店街でも赤札特売デーと定めてお客様に楽しんでいただいておりました。大正十二年(1923年)の関東大震災の際は一帯が焦土と化しました。秋葉神社も被災したものと思われます。しかし氏子町民の熱意によって昭和五年(1930年)五月九日に現在地に社殿が竣工し再び町の鎮守として町民を見守っていただいております。建設に協力した人々の芳名が周囲の石垣などに刻まれておりますのをご覧下さい。太平洋戦争でも近隣まで炎が至りましたが幸い類焼することもなく、今日に至っております。毎年十一月十日前後の休日を御祭礼の日として催しを行い御神徳に感謝の心を示しております。五月の下谷神社御祭礼の際には御旅所としてお迎えし、大小神輿が町内の巡幸をいたします。ご参詣の方々にも御神徳の至りますことを心から念じております。本殿前階段にこの略縁起の印刷物が用意してあります。ご自由にお持ち下さい。




秋葉神社の参道と見所ポイントAの「佐竹商店街」が交差しています。



秋田久保田藩主佐竹右京太夫の江戸屋敷には、上屋敷・中屋敷・下屋敷の他、お囲地などがありました。このうち、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあり、そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」がありました。しかし天和二年(1682年)十二月二十八日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失してしまいました。こんなこともあってか、翌天和三年(1683年)に現在の台東区の地に移転してきました。移転後の屋敷内には「日知館」という江戸藩校も設けられていて、山本北山・大窪詩仏などの有名な師を招いて子弟の教育に当たらせました。幕末期の安政二年(1855年)には、ここに居住する人員は百三十六名に及んだと記録されています。江戸屋敷の役割は、各藩とも藩主の常住地ともいうべき場所で、特に藩主夫人は徳川幕府の人質のような形で居住を強制され、国元には専ら第二夫人がいて、これをお国御前と呼んでいました。各藩の江戸屋敷は幕府の監視の元にありながらも、それぞれ国元の城よりも江戸屋敷を大切にしたといわれています。参勤交代の制度は江戸中期の頃から乱れがちとなり、各藩の経済的困窮から経費節約の意味からも藩主はほとんど江戸に常住するようになりました。そして江戸屋敷を母体として、種々の政治折衝や各界との交際、情報の交換・収集などを行なって藩の運営の糧とし、それと共に新しい文化の吸収に努めたといわれています。なので各藩ともより抜きの有能な士を江戸家老留守居用人として江戸屋敷詰めにしました。秋田の久保田城(現、秋田市内)から江戸までの道のりは百四十三里(536キロメートル)あり、当時は一日九里(36キロメートル)前後を歩いたといますから、普通で十六日、早くて十二日半の日数を要し、飛脚でも六〜七日かかったといいます。各藩にとって江戸屋敷は重要な政治的・文化的拠点であり、自国の一部がそこに存在していたのも同然だったのです。なので佐竹藩も広大な敷地に当時としてはまったく希有な三階建ての豪壮華麗な建物を設け、他に誇ったのでしょう。屋敷の西側には大番与力同心の組屋敷があり、そこにあった総門を竹門と呼んでいて、ここから「竹町」の町名が生まれたといわれています。明治維新の後、廃藩置県が実施され秋田藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。明治二年(1869年)には火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り、佐竹っ原といわれるに至りました。明治五年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともありました。その頃は戸数六十八戸・住民数二百六十八名で、周辺に比べ最も閑静な場所でした。しかし、明治十七年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街・佐竹商店街が形成されたのです。年を経るごとに盛り場娯楽街として充実発展していきました。かっぽれ・吹き矢・デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店・粟餅の曲搗き・しるこ屋・煮込み・おでん・大福餅売りなどが縁日の露店のような形で店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになりました。六三亭・久本亭・浜村亭・天理亭・寿亭・開成亭などがその主なものでした。さらに、祭文定席・玉ころがし・射的・大弓場などもでき、義太夫・講談・落語・祭文語りが聞け、茹小豆を売る店などが並びます。そして日暮れ時ともなれば、浅草向柳原に住む露店商などが街路にところ狭しと出店を張り、また一歩路地に入れば紅灯の下で客引く声も艶かしく、亀屋・竹内などの料亭を始め、第二富士館という活動写真館もできて一段と賑やかさを増し、一大歓楽境となっていきました。近郷近在は無論のこと、遠方からも人々が集まり、夜の更けるのも忘れてしまうほど賑いを極めました。大正初期には戸数三千八百十三戸・人口一万二千三十四名にまで膨張し、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったのです。大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で佐竹全域ことごとく灰燼に帰し、一面の焼け野が原と化してしまいました。しかし罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町・京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどの賑わいを取り戻すことができました。昭和十六年(1941年)、太平洋戦争の開戦と共に世の中は軍事一色に塗り潰され、佐竹商店街は火の消えたような有様になりました。昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と翌二十年(1945年)二月二十五日の昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失してしまいました。終戦となり、直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、不死鳥のごとく往時の賑やかさを取り戻しました。昭和二十八年(1953年)に竹町公園で行われた商店街主催の盆踊り大会は盛大に行われ、特設舞台での演芸には初代の林家三平師匠も出演しました。昭和三十九年(1964年)の新住居表示採用に伴い、町名としての「竹町」は消え、台東町と変わりましたが、佐竹の名は町会名及び商店街として残っています。昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願としていた全蓋アーケードが完成し、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工しました。当時の特売セール(ゲバゲバモーレツセール)の夜七時から行われたタイムサービスには買い物客が溢れ、近所のお風呂屋さんの女湯が空になったと言われました。昭和五十二年(1977年)五月にテレビ朝日の人気番組「電線音頭」の録画撮り、平成十一年(1999年)三月二十八日午後七時から日本テレビの「商店街ドミノ倒し」全国生中継が行なわれました。最近では商店街が、映画(デスノート・クロサギ・二十世紀少年)、テレビドラマ(税務調査官窓際太郎の事件簿・時効警察・婚カツ!・コールセンターの恋人・産婦人科ギネ)、CM(チオビタドリンク・オロナミンC・風邪薬カコナール・NEWクレラップ)などの撮影に数多く利用されています。



ピザ店(居酒屋?)のようですが、巨大な蜘蛛と骸骨に迎えられてお店に入る勇気はあるのでしょうか?



見所ポイントBの「金比羅神社」は、「ことひらじんじゃ」と読み、竹町金刀比羅神社とも呼ばれています。ご祭神は日本神話の神様である大物主命と、第75代天皇である崇徳天皇です。総本宮は香川県にある金刀比羅宮で、全国各地に分社があり、「こんぴらさん」として親しまれています。金毘羅・琴平と表記される神社も多くあります。創建の詳しい年代は不明ですが、江戸時代の初期に生駒一正と言う戦国武将がこの地に屋敷を構える際に敷地内に神祠を建て、金刀比羅大権現を祀ったのが始まりと言われています。第二次大戦の戦災により社殿は焼失してしまいましたが、地域の人々の寄付により昭和三十八年に再建され、現在に至っています。

金刀比羅神社御由緒

大物主命は、天照皇大神の御弟、建速素盞鳴命の御子と伝えられ、又の御名を大國主命と申され他にも沢山の御名をもたれた神である。大八州の国土経営に頗る御苦心遊ばされ、国土遍く治まった時の御名が大物主命と称された。ニニギノ命降臨の時、国土を譲り奉まつり、福徳を興えられる神として尊崇せられている。崇徳天皇は第七十五代の天皇で、保元の乱(1156年)に遭い、讃岐に配流せられ、金毘羅大権現に御参籠、日夜御尊信せらる。百人一首の

   瀬を早み岩にせかるる滝川の
      われても末に逢はむとぞ思ふ

は、名高い御製である。長寛二年崩御。御寿四十六。翌、永万元年(1165年)衆庶悼みて御相殿に合せ祀る。爾来、いよいよ霊験あらたかにて五穀豊穣・豊漁満帆・海陸安穏・萬民太平、幸福な結婚を成就せらるる神々として、御神徳は萬民に篤く敬仰せられている。御祭神は生駒氏中祖より崇敬する処にして、従四位下、讃岐守生駒一正慶長年間、徳川家江戸開府のおり、竹町及び周辺を中屋敷に受領し、自家の崇敬並に領国民の信仰する処なるを以って、神祠を邸内に建営し、領国讃岐国象頭山、金刀比羅大権現の神霊を頒ってここに安置す。現社殿は、戦災で焼失せるものを、当町並に近隣の崇敬の念厚き人達の浄財により、昭和三十八年十一月十日に、再建せるものである。尚、金刀比羅神社は分祠が多く建営されているが、当町(竹町)は江戸最古の神祠の由である。




社殿の手前には小さな橋が掛かり、両脇に狛犬が鎮座しています。狛犬の目と口が朱色に塗られているとのことですが、私が見た限りでは、右側の狛犬の口に朱色が残っている感じでした。



蔵前橋通りに出ます。通りの南北両側は、かって二長町と呼ばれていました。

旧町名由来案内
下町まちしるべ 二長町

町の起立は明治五年(1872年)である。対馬の宗家厳原藩と伊勢国の久居に陣屋を構えた久居藩の邸地そして周辺の武家地を合併して二長町とした。町名はこの地が江戸時代より「二丁町」と呼ばれていたことに由来する。二長町とは、この地を東西に横切る小路に付けられたとされているが、その由来はあきらかではない。この小路が東西に二丁あったからではないだろうか。江戸時代は武家地であったため町名が付されてなく、町としての発展は二長町となった明治以降である。特に明治二十五年(1892年)浅草猿若町から市村座がこの地に移転して来てから賑わい始め、二長町の名は東京中に知れ渡った。明治三十年代頃、東京郵便局厩舎課があり、市内に郵便物を輸送する赤塗りの馬車が発散集合していたことも「新撰東京名所図会」は述べている。昭和三十九年(1964年)住居表示の実施で、蔵前橋通りの南側が台東一丁目に、北側が同二丁目に編入された。




蔵前橋通りに面して、台東地区センター・台東一丁目区民館・台東子ども家庭支援センター・特別養護老人ホーム台東が入居する複合施設の「いきいきプラザ」があります。



二長町小学校は、明治十一年に開校した下谷練塀小学校を始まりとしています。下谷練塀小学校は、大正十二年の関東大震災で焼失し、当時の下谷区仲御徒町59番地(現在の台東区上野五丁目)から二長町2番地の2(現在の台東区台東一丁目)に移転しました。その後、昭和二十年4月3日の空襲で校舎が被災し、昭和二十一年に御徒町小学校と統合され、昭和二十二年の学制改革により、台東区立二長町小学校と改称しました。平成二年に二長町小学校と竹町小学校が統合して台東区立平成小学校が開校し、二長町小学校は閉校となりました。廃校後に校舎は解体され、跡地に台東地区センターが建てられました。いきいきプラザの植え込みの中に、二長町小学校創立百周年を記念した石碑が置かれています。石碑には校歌が刻まれ、作詞者は歌人として多くの学校の校歌を書いた土岐善麿です。その数は小学校で90曲、中学校で89曲、旧制中学校で2曲、高等学校・高専で85曲、大学・海外・その他含めて14曲という膨大な数になっています。なお、作曲は平井康三郎・信時潔が多くを手がけています。



見所ポイントCの「千代田稲荷」は、江戸三座のひとつであった市村座の守護神として祀られていました。明治時代に当時渋谷宮益坂にあった千代田稲荷神社(現在は渋谷百軒店に遷座)の分霊を勧請し、台東区内で創建されました。その後明治二十七年に再建された市村座の表口に守護神として祀られていました。勧請元の千代田稲荷神社は、江戸城築城に際して太田道灌が城の守護神として京都伏見稲荷を勧請し、1457年に創建された神社です。市村座は昭和七年(1932年)に失火により焼失し、その後は再建されませんでしたが、神社は焼失を逃れて現在の地に再建されました。

千代田稲荷縁起

千代田稲荷祭神は宇賀御魂神と申し、その昔、長禄元年(1457年)太田道灌が千代田城を築城の折、武蔵国千代田郷に古くから祀られていた千代田神社を城内に遷座し守護神としたのがはじまりである。その後、徳川家康が慶長八年(1603年)入城して千代田稲荷を城内紅葉山に移し江戸城の守護神とする一方、江戸城拡張に当り、渋谷村宮益坂に遷宮し、神領を寄進したので江戸城守護および万民斉仰の神社として広く参詣を集めた。以後徳川家代々の崇敬あつく、江戸幕末の文久元年(1861年)には公武合体の犠牲となって将軍家茂に降嫁した皇女和宮が、中山道を東下する宮の行列を守護した功により、石の大鳥居と桜樹一本を寄進したといわれる。これを契機に千代田稲荷が俄かに殷賑をきわめ庶民の参詣が絶えなかったことが「武江年表」に記されている。折柄、江戸は物情騒然として物価騰貴し、世相は暗く、猿若町三座の顔見世狂言もとりやめになったため、千代田稲荷分社を勧請して、一陽来復と繁昌を祈願するに至った。江戸下町における唯一の分社である。その後、明治二十五年、最後まで猿若町に留っていた市村座が下谷二長町に移転、二十七年近代建築に再建され、千代田稲荷も座の守護神として正面口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、昭和七年市村座の焼失時に奇しくも類焼をまぬがれたため、千代田会有志により現在地に再建され今日に至った。




見所ポイントDの「市村座跡地」には記念碑が建っています。市村座は江戸にあった歌舞伎劇場で、江戸三座のひとつでした。寛永十一年(1634年)に村山又三郎が興した村山座に始まり、承応元年(1652年)に市村羽左衛門が興行権を買い取り市村座としました。当初は日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町三丁目)にありましたが、天保十三年(1842年)に前年の火災と天保の改革の一環により、浅草猿若町(現在の台東区浅草六丁目)に移転しました。その後、明治二十五年(1892年)に猿若町から下谷二長町(現在の台東区台東一丁目)に移転しました。1908年以降、田村成義が若手俳優の六代目尾上菊五郎や初代中村吉右衛門らを育て、大正に入ると歌舞伎座や帝国劇場に対抗して市村座全盛期を迎えました。「菊吉時代」・「二長町時代」と呼ばれたのはこの頃のことです。市村座は関東大震災で焼失し、バラック建てで復興しましたが、昭和七年(1932年)に楽屋からの失火で焼失した後は再建されず、寛永の時代から櫓を上げ続けていた市村座の歴史は終焉を迎えました。

市村座跡

明治二十五年(1892年)十一月、下谷二長町一番地といったこの地に、市村座が開場した。市村座は歌舞伎劇場。寛永十一年(1634年)日本橋葺屋町に創始し、中村・森田(のち守田)座とともに、江戸三座と呼ばれた。天保十三年(1842年)浅草猿若町二丁目に移り、ついで当地に再転。二長町時代の市村座は、明治二十六年二月焼失。同二十七年七月再建して東京市村座と呼称。大正十二年九月の関東大震災で焼けたが再興、昭和七年五月に自火焼失し消滅という変遷を経た。明治二十七年再建の劇場は煉瓦造り三階建で、その舞台では、六世尾上菊五郎・初代中村吉右衛門らの人気役者が上演した。いわゆる菊五郎・吉右衛門の二長町時代を現出し、満都の人気を集めた。しかし、その面影を伝えるものはほとんどなく、この裏手に菊五郎・吉右衛門が信仰したという、千代田稲荷社が現存する程度である。

ICHIMURA-ZA (THEATER)

Ichimura-za was a Kabuki Theater first built in 1634 in Nihonbashi Hukiya-cho, and in 1842 it moved to Asakusa Saruwaka-cho, and moved again to this location. The Ichimura-za, Nakamura-za, and Morita-za were the three famous and popular theaters in this area in the Edo era, they were known as the "Edo 3 za". The Ichimura-za was burnt down in 1893, and it rebuilt and renamed Tokyo Ichimura-za. In 1923 during the great kanto earthquake, it was burnt down again and rebuilt, but when it burnt down again for the third time in 1932, it was not rebuilt and therefore lost forever.




二長町小学校の前身である下谷練塀小学校の校名は、旧町名の「練塀町」に因んでいます。練塀町の町域は、現在は秋葉原になっています。そんな旧町名がJR線沿いの公園名に残っています。

秋葉原練塀公園 公園名の由来

公園名について
本公園は、平成二十七年に新設した台東区50番目の公園であり、過去と現在を繋ぐ意味を込め、現在の町名である「秋葉原」と、旧町名である「練塀町」を合わせ、公園の名称としたものである。

旧町名(練塀町)と現町名(秋葉原)の由来
旧町名である練塀町の練塀とは、土と瓦で築き、上を瓦でおおった塀のことで、江戸時代、練塀で囲まれていた屋敷があったことから、このあたりが練塀小路と呼ばれていたことに因む説がある。また、現町名である秋葉原は、明治の初め、大火が発生し、このあたり一帯の土地を火除地としたのち、その中心に「鎮火社」を創建したところ、人々が火除けの神様である秋葉権現を祀る秋葉神社と呼び、この鎮火神社がある界隈が「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」などと呼ばれていたことに因む説がある。昭和三十九年(1964年)住居表示制度で台東区練塀町全域が松永町とともに現町名の秋葉原となった。




昭和通りを横断し、蔵前橋通りを東に進みます。民家の間に挟まれた細い参道の奥に見所ポイントEの「桜稲荷」が鎮座しています。小さいながらも朱の鳥居が目立ちます。案内板には、伊勢の津藩主藤堂邸にあった稲荷に、戦後になって京都伏見稲荷本社から御本体を遷座したとあります。「桜(櫻)」は何に由来するんでしょうか?

桜稲荷神社縁起

大正十二年、東京大震災の後、当時藤堂家邸内ニ鎮座マシマセシ稲荷神社ノ放置荒廃ヲ案ジ、岡本悟一氏世話人トナリ、現在境内ニ建立シアル石碑ニ記名奇特ノ方々ト相ハカリ、昭和三年十一月新ニ神祠ヲ建立、遷座ヲ奉ジ桜稲荷神社ト奉称、今日ニ至ル。以後、大東亜戦争ノ末期、昭和二十年二月二十五日、空爆ニヨリ神祠破壊焼却セルモ、昭和二十四年春岡本悟一氏再建ス。次デ昭和二十七年四月、隅井菊生氏御本体ヲ京都伏見稲荷本社に詣デ奉受シ、コゝニ改メテ鎮座ヲ拝ス。昭和五十五年五月、川西惟隆氏ノ尽力ニヨリ祭礼用器具並ニ防災用具ノ倉庫構築、昭和五十六年四月祠屋ノ修理改築ヲ行フ。




蔵前橋通りを戻って、JR線の高架下に設けられた施設に向かいます。「2K540 AKI−OKA ARTISAN」は、2010年12月10日に開業し、JR東日本都市開発が山手線・京浜東北線の秋葉原駅〜御徒町駅間の高架下で運営する商業施設です。名称の「2K540」は東京駅を起点としたJR東北本線の距離(キロ程)で、東京駅から2、540m=2K540m付近に位置することを示し、「AKI−OKA」は秋葉原駅と御徒町駅の中間にあることを、「ARTISAN」はフランス語で「職人」をそれぞれ意味します。この周辺には古くから職人が多く住んでいて、近年は自ら「モノづくり」を行うクリエイターが増えてきていることから、こうした「モノづくり」の土壌を生かし、職人的なクリエイターによる店舗を入居させ、従来型の商業施設と異なるコンセプトで運営を行っています。第一期として入居している32店舗はアトリエや工房を構えたものが中心となり、カフェなどもあります。見たり購入したりするだけでなく、訪れた人が「モノづくり」を体験できるワークショップも開催しています。2011年9月29日には、第二期として北側に新たに20店舗がオープンしました。



商業施設は高架下とは思えないほど広々としていて、天井や高架を支える柱も神殿のような雰囲気を醸し出しています。お店の飾り付けもお洒落で、まるで高級ブティックが並ぶ高級モールのような感じです。JRが運営していることもあって、壁にはさりげなくJRの祖である鉄道省時代に製造された機器が展示されています。

蒸気機関車用「汽笛」

この汽笛は日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計・製造した、蒸気機関車のD51形蒸気機関車(通称デゴイチ/1936年〜1945年)に取付られていたものです。汽笛が鳴る 仕組みは、機関車の動力である蒸気の圧力を使って専用タンク内に空気を溜め、その圧力で笛を鳴らします。




JR線と昭和通りの間に、見所ポイントFの「ジュエリータウンおかちまち」ストリートがあり、通りの両側に宝石や貴金属のお店が軒を連ねています。御徒町駅前は戦災で焼け野原となった空き地が多く、上野駅にも近いという立地を活かして、昭和三十年(1975年)11月21日に時計関係の問屋有志12社で「仲御徒町問屋連盟」が結成されました。昭和五十年(1975年)以降、クオーツ時計が広まるにつれ、駅の南側近辺において時計バンド卸商や時計の修理店がそれまで副業的に取り扱っていたジュエリーに業種転換を図るようになりました。宝石の消費の増大と、それに対応する供給側の増大がうまくかみ合って、業者数も増えていきました。街作りと共同セールの開催を目的として、昭和六十二年(1987年)9月、上野五丁目と三丁目のジュエリー業者159社が集まって「ジュエリータウンおかちまち」が設立され、平成元年(1989年)頃には御徒町地区だけで一千社以上もあるといわれていましたが、過当競争と景気低迷で数が次第に減り、2000年代に入ってからは半分程度にまで減少しました。近年では、古くから宝石の産出国として知られ、マハラジャやマハラニの絢爛豪華な宝飾品の数々を長年手掛けてきたインドの業者が目覚ましく進出しています。



宝石の名前を冠した通り名もあります。



再び昭和通りを渡り、向かいの路地に入ります。見所ポイントGの「矢場稲荷」は、ビルと民家の隙間に窮屈そうに鎮座しています。入口らしき扉門は閉められていて、中には入れません。見上げると鳥居と狛犬と社が見えるんですけどね。よく見ますと、扉門の前に聳えている銀杏の木に梯子が立て掛けてあり、神社に行くにはこの梯子を使って境内に登るみたいです。こんな方法でしか境内に入れない神社って初めて見ました。



ゴール地点の御徒町公園に戻ってきました。



ということで、台東区で二番目となる「Bコース」を歩き終えました。あまり馴染みのない東御徒町地域でしたが、江戸時代から続く歴史上の出来事の数々が面白かったです。次は台東区で三番目の「Cコース」を巡ります。




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