Cコース(東上野地区健康推進委員おすすめ)  

東上野地区健康推進委員より一言
東上野地区の特徴

以前、「地下鉄はどこから入れたのでしょうか?考えると夜も寝られない」という漫才が流行しましたが、東上野には銀座線の踏切と車庫があり、地上を走る地下鉄を見ることができます。

谷中地区健康推進委員より一言
谷中地区の特徴

新年の七福神めぐり、春は霊園の桜、秋は菊祭り。三崎坂をあがると正面にスカイツリーがよく見えます。坂が多く、一方通行の道も多いのですが見所もいっぱい。

歩行距離:5.7km、歩行時間:86分、消費カロリー:257kcal、歩数:8、143歩


コース 踏破記  

今日は台東区の「Cコース(東上野地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。台東区役所をスタート地点として、上野公園・谷中・千駄木の商店街を巡り、へびの道を通って上野動物園に至ります。  

スタート地点:台東区役所
@ペデストリアンデッキのモニュメント
A清水観音堂
B花園稲荷神社
C寛永寺
D下町風俗資料館付設展示場
Eスカイザバスハウス
F築地塀
G夕やけだんだん
H谷中銀座
Iよみせ通り商店街

ゴール地点:両性爬虫類館


スタート地点の台東区役所から歩き始めます。



台東区役所から上野警察署の横を抜けて浅草通りに出ます。上野駅交差点から首都高速1号上野線の高架に沿って、上野駅舎を正面に見ながら国道4号線(昭和通り)を進みます。上野駅舎は、初代が1923年の関東大震災で焼失した後、1932年に二代目として落成した歴史がある建物です。東京駅とは違って実用的で目立たない印象ですが、昭和初期の貴重な建築様式を今に伝えています。JR上野駅東口前には、広大なペデストリアンデッキが整備されています。西側の上野恩賜公園とはパンダ橋を経由して繋がり、南側は中央通りを跨いで上野マルイと直結し、東側は昭和通りの上と首都高の下を潜るような形で東京メトロ本社方面とを結んでいます。



「ジュエリーブリッジ」は1991年に完成し、広場(厳密には歩行者用通路)には見所ポイント@の「ペデストリアンデッキのモニュメント」が展示されています。金色のリングと赤い柱からなるモニュメントは、高さが10m、幅が6m、奥行が5mあり、見た目には何をモチーフにしているのか分かりませんが、「日」を表しているのだそうです。土台部分には「ジュエリーブリッジ」と書かれたプレートが貼られています。



モニュメントの隣には、アリ塚のような形をした彫像がケースに納められています。「アリ・アリング」といい、作者は東京藝術大学の工芸科で40年にわたって彫金を指導した彫金家の飯野一朗さんです。「バベルの塔」をイメージした蟻塚と、それを登る金色の蟻は全て彫金で制作されているみたいです。蟻の一匹一匹が彫金で作られているとは驚きです。

アリ・アリング(Ari・Aring)
飯野一朗作 1989年

バベルの塔を想像させる大理石の上り坂を蟻が卵を運び上げている姿のオブジェである。作品中の大理石は、一つの世界を象徴している。この世界には一つの約束があり、夢や希望、生命や成長、創造と未来という同じ目標に向かって協力する、蟻達の美しい世界を表現したものである。彼らはこの世界の中で、自分たちの輪廻の中に最も美しいものを取り込んでいるのです。これは、一つの理想であり、本作品はこれを表現したものである。




上野駅の入谷改札を出ますと、右手前方のパンダ橋口の横のガラス張りのケースの中にジャイアントパンダのぬいぐるみの親子像が鎮座しています。



パンダ橋は、ペデストリアンデッキと上野恩賜公園(動物園方面)を結んでいる橋です。元々の名称は「上野公園東西自由通路」といい、台東区が事業の主体となって平成十二年(2000年)に完成したミレニアム橋です。オープンスペースが少ない線路の東側の人々が大災害時に上野公園に避難しやすいようにと建設された橋で、「パンダ橋」と呼ばれています。



ペデストリアンデッキを下りてアメ横の飲食店街に突入します。NHKの「きょうの料理」を35年間担当した青森出身の料理研究家阿部なをさんが昭和三十四年(1959年)に創業した北畔(ほくはん)は、昭和の香りを残す居酒屋です。かつて東北の玄関口と言われた上野には、今も多くの東北地方の郷土料理店が暖簾を守り続けています。そうした中でも、北畔は一際青森の雰囲気が濃厚です。冬の季節には、北畔名物の「津軽雪鍋」がお勧めです。



アメ横の裏通りは呑兵衛の天国です。昼間っから(朝っぱらから)呑兵衛が集っています。



上野公園にやってきました。



公園の植え込みの中に石柱が建っていて、上面には有名人の手形とか写真が貼られています。



それぞれの石柱の正面には、本人の直筆サインと業績を記したプレートも貼られています。

黒澤明

黒澤明は生涯に30本の映画を作った。晩年、米アカデミー名誉賞を受賞した際、「私はまだ映画のことがわかっていない」とスピーチして、映画作りへの変わらぬ情熱をみせた。

美空ひばり(歌手)

戦後の社会に歌を通じて、明るさと希望を与えた。




蜀山人の碑も建っています。

蜀山人の碑

   一めんの花は碁盤の
   上野山 黒門前に
   かかるしら雲      蜀山人

碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。蜀山人は姓を大田、名を覃(ふかし)、通称を直次郎といった。蜀山人はその号である。南畝・四方赤良など、別号多く、一般には大田南畝と呼ぶ。幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲・朱楽管江とともに、三大家と評された。文政六年(1823年)没。江戸時代、上野は桜の名所であった。昭和十三年、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷土色豊かな建碑といっていい。

Monument to Shokusanjin

Shokusanjin is well known by the name of Ota Nanpo. He was skilled in humorous composition and the writing of comic tanka poems and had an extensive knowledge of Chinese and Japanese literature. He was said to be typical of Edo literary men, and in the field of comic tanka poems along with Karagoromo Kisshu and Akera Kanko he was referred to as one of the "Three Great Masters". He died in 1823. From the Edo period (1600-1868) Ueno was famous for its cherry blossoms and in 1938 a monument to Shokusarjin was erected at the ruins of Kuro-mon Gate at Kanei-ji Temple, engraved with a poem by Shokusanjin describing the Ueno cherry blossoms and Kuro-mon Gate.




不忍の池に浮かぶ弁天堂を見下ろす公園の高台に、朱色が鮮やかな見所ポイントAの「清水観音堂」が建っています。清水観音堂は京都の清水観音堂をモデルにして、寛永八年(1631年)に天海大僧正によって建立されました。本堂の正面を舞台造りにして、不忍池の景色を眺められるようになっています。御本尊は清水寺より迎えた千手観音像で、重要文化財に指定されています。

東叡山寛永寺 清水観音堂

清水観音堂の縁起

清水観音堂は、寛永八年(1631年)に慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正により天台宗東叡山寛永寺の参堂として建立されました。初めは「摺鉢(すりばち)山」に建てられ、その後、元禄初期に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時が明確な最古の建造物です。天海大僧正は寛永二年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と境内に建立していく中で、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立て、同じく舞台作りで建てられています。平成二年から文化財保存修理が行われ、平成八年に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。

ご本尊「千手観世音菩薩」の伝説

京都清水寺からご遷座された秘仏ご本尊・千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。合掌したお手・禅定印を結ぶお手の他に小さなお手が四十本あり、それぞれの小さなお手が、仏教で考えるあらゆる世界の生きとし生けるもののすべてに、慈悲の手をさしのべるお姿を表しています。また、「平家物語」に述べられる、主馬判官(しゅめのほうがん)平盛久(たいらのもりひさ)にまつわる伝説があります。

盛久は常日頃より清水寺へ参詣を続けていましたが、源平の合戦で敗れ、鎌倉で斬首されそうになります。その際に刀が折れて盛久の命が助かり、また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったので、驚いた源頼朝は盛久を助命しました。後に盛久が清水寺に参詣すると、盛久が斬首されそうになった際に観音像が倒れたという話を聞きます。こうして観音像に護られたことに気づいた盛久は感涙にむせんだ、という物語です。

この奇瑞が午の年・午の日・午の刻に起きたことに因み、ご開帳は年に一日、二月の「初午(はつうま)法楽」の日に行う縁起となっているのです。




お堂の右に祀られる脇尊の仏さまは「子育て観音」で、子授け・安産・子育ての観音さまとして多くの信仰を集めています。観音さまのご利益により子を授かった人々から、子供の健やかな成長を願って多くの身代り人形が奉納されており、これら人形の供養が、かわいがってきた人形に感謝する人形供養となって長年続けられています。人形供養は毎年九月二十五日十四時から行われます。

人形供養碑

清水観音堂に安置されている子育観音は子宝に恵まれない人々が信仰すると願いが叶うと言い伝えられています。そして子供が授かると丈夫に育つようにと人形を奉納します。その奉納された人形と家庭で飾ってよごれたり、子供と遊んでこわれたりした人形を秋の彼岸の終りにここに集めて読経のうえ荼毘に付します。それらの人形を回向し供養するためにこの碑が建てられたのです。




徳川十五代将軍慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(1868年)に大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志を募りました。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙しました。旧暦五月十五日の上野戦争は武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させました。生き残った小川ら隊士は、明治七年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立しました(なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されています)。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきました。現在、歴史的記念碑として、その管理は東京都に移されています。

彰義隊の墓(台東区有形文化財)

江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(1868年)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は、明治二年(1869年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(1881年)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。

TOMB SITE OF SHOGI-TAI SOLDIERS

Shogi-tai was an army of the Edo shogunate, which was organized in 1868 to fight against the Emperor at the end of The Edo era. They fought around here on fifteenth of May in the same year. In those days Ueno-no-yama (Ueno hill) was in the precincts of Kan-eiji temple (Tokugawa shogunate's family temple), where there were many temples and pagodas. But the battle was so intense that almost all of them were destroyed. The Shogi-tai was defeated by the evening of the day. The fight is called Ueno war or fight of Shogi-tai. These two tombstones were erected for the Shogi-tai soldiers killed here. The small tomb stone in the front was erected by a priest of Kan-eiji temple in 1869 and the large stone in the back by a survivor, a soldier called Ogawa Okisato and several of his comrades. These tombstones were registered as important cultural assets in 1990 in the Book of Cultural Assets of Taito City.




観音堂を囲むフェンスの内側には1本の桜の木が植えられています。秋色桜といいますが、品種名ではなく、江戸時代の女性俳諧師の俳号に因んで名付けられたとのことです。早春の時期なので枯れ木同然です。

秋色桜

上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。

   井戸ばたの
      桜あぶなし
         酒の酔

この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時十三歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。お秋は、九歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保十年(1725年)没と伝えられる。碑は、昭和十五年十月、聴鶯荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和五十三年に植え接いだもので、およそ九代目にあたると想像される。

SHUSHIKI CHERRY TREE

Ueno was very famous as a place of cherry blossom from the beginning of the Edo era. There were many species of cherry trees and some trees had even their own names; a typical one of them is the Shushiki Cherry Tree. In the Genroku period, a daughter named Oaki of a sweet shop in Koamicho, Nihonbashi wrote a Haiku poem, "Cherry blossom near a well are in danger by drunken fellows." This expresses a scene of crowded cherry blossom viewers near a well. She was only 13 years old at that time, but had a pen name of Shushiki. Therefore, this cherry tree near the well was called "The Shushiki Cherry Tree."




上野精養軒の先に、見所ポイントBの「花園稲荷神社」があります。

花園稲荷神社の御縁起 御由緒

鎮座の年月、由緒は不詳ですが、住古より此地にあり、「穴の稲荷」又は「忍岡稲荷」と云われました。承応三年(330年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました。この附近より北西一帯が寛永寺のお花畑であったので、明治六年花園稲荷と改名し、昭和三年現社殿にお遷ししました。旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ、晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。安産の神とも云い、特に縁談・金談の願がけにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。




花園稲荷神社本殿に続く参道には幾つもの鳥居が並んでいます。鳥居の先には短い階段が下っています。稲荷坂は長さが約15mほどの階段で、坂名の由来は、花園稲荷神社に下りる階段ということでこの坂名になったと思われます。階段上の鳥居の下に案内柱が立っています。

稲荷坂

花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保十七年(1732年)の「江戸砂子」にその名がみえ、明治二十九年(1896年)の「新撰東京名所図会」には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。




花園稲荷神社本殿に隣り合って五條天神社があります。

五條天神社縁起 御由緒

第十二代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ、平成二十二年五月御鎮座1900年大祭が行われる、東都屈指の古社であります。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には昭和三年九月に御遷座になりました。




小高い丘の上にパゴダ(仏塔)が聳えています。

上野大仏とパゴダ

正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。最初の大仏は、越後(現、新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永八年(1631年)に造立した二メートル八十センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保四年(1647年)の地震により倒壊してしまった。明暦〜万治年間(1655年〜1660年)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、三メートル六十センチをこえる青銅製の堂々たる釈迦如来像を造立した。その後、元禄十一年(1698年)輪王寺宮公弁法親王が、同像を風から覆うための仏殿を建立。天保十二年(1841年)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、一年半後の天保十四年には、最初の造立者堀直寄の子孫直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政二年(1855年)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。しかし、明治六年上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に同九年・同十年の二説あり)大正十二年の関東大震災では大仏の頭部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では、昭和四十七年丘陵上の左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和四十二年三月着工、同年六月に完成した。高さ十五メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。

UENO GREAT BUDDHA AND PAGODA

During the Edo period within the precincts of Kanei-ji temple, there was a great Buddha statue on top of hill in front of you. This site is known as "Daibutsu yama" (Great Buddha hill). In 1631, the first great Buddha was created by a feudal lord Hori Naoyori. Lord Hori governed the area around Murakami in Niigata Prefecture. It was a seated Buddha of 2.8 meters in height, but was destroyed by an earthquake in 1617. The second Buddha was created by the monk Jyoun who collected (donations) money from Edo citizens. It was also a seated Buddha 3.6 meters tall. The face of the second Buddha images fell off during the Great Kanto Earthquake in 1923, and later the body and pedestal were delivered to the government under the Metal Acquisition Law, which ordered the delivery of metallic goods owned by citizens to the government, to produce weapons during the WWII. Only the face remains at Kanei-ji temple. In 1967 a wall was built on top of the hill and the Buddha head was enshrined on the wall in a relief style setting. Then in 1972 the Ueno Tourist Association built the current pagoda, including three Buddhist images of Yakushi Nyorai (Physician of souls), Gakko Bosatsu and Nikko Bosatsu.




現在は、大仏様のお顔だけが残されています。

幾多の難を乗り越えた上野大仏

この大仏は寛永八年(1631年)、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(1655年〜1660年)木食浄雲(もくじきじょううん)という僧侶により高さ六メートルの銅仏に改められました。また元禄十一年(1698年)には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治六年に大仏殿が解体され、さらに大正十二年の関東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次世界大戦時に供出されてしまいました。昭和四十七年春、再び旧地に迎えられた大仏は、建立当初よ(り)大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めています。




騎馬姿の銅像が建っています。

小松宮彰仁親王銅像

彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(1858年)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(1867年)勅命により二十二歳で還俗、仁和寺宮と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征討大将軍として参戦。ついで奥羽会津征討越後口総督となり、戊辰戦争 に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。

Bronze Statue of Prince Komatsu No Miya Akihito

Akihito was the eighth prince of Fushimi No Miya Kuniie. He joined the Toba-Fushimi war in January, 1868 as the commander-in-chief and also took part in the Boshin war. In 1877 he established an organization called "Hakuai-sha" to help the wounded of the Seinan war and headed the association. When it was renamed "Japan Red Cross Society," he assumed office as its president and contributed to the development of the society. He passed away at the age of 58 on the eighteenth January, 1903. This bronze statue was erected in February of 1912. The sculptor was Okuma Ujihiro, a Bunten art exhibition judge.




巨大な石灯籠が建っています。

お化け燈籠

佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、

   奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
   東照大權現御宝前石燈籠
      寛永八年辛未孟冬十七日

と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永八年(1631年)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.63メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。

A HUGE STONE LANTERN (MONSTER LANTERN)

This huge garden lantern made of stone was offered as a gift from Sakuma Daizennosuke Katsuyuki to the Toshogu shrine in 1631. It is said to be one of the three great stone lanterns in Japan, together with those in Nanzen-ji temple of Kyoto and in Atsuta Jingu shrine. The dimensions of the lantern are impressive, its height being 6 meters and the perimeter of the capping stone 3.6 meters. Because of its great size, people commonly call it "Monster Lantern."




上野精養軒は、上野公園の開設に伴い、創業者である北村重威が園内の食事処と社交の場を併せ持つレストランとして明治九年(1876年)に不忍池畔に開業しました。日本におけるフランス料理店の草分けで、明治期には国内外の王侯貴族や名士達が馬車で駆けつけるなど、鹿鳴館時代の華やかな文明開化を象徴する存在でした。夏目漱石や森鴎外の文学作品にも登場しています。伝統のドミグラスソースを使ったハヤシライスが名物です。



上野公園内には東照宮が鎮座しています。日光東照宮・久能山東照宮・芝東照宮と並んで四大東照宮のひとつに数えられています。他の東照宮と区別するために、上野東照宮とも呼ばれています。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜が祀られています。

上野東照宮(国指定重要文化財)

藤堂高虎(1556年〜1630年)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永四年(1627年)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保二年(1645年)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。現在の社殿は、慶安四年(1651年)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。

UENO TOSHOGU

Todo Takatora (1556-1630) constructed a shrine dedicated to Tokugawa leyasu on the grounds of his residence on present-day Ueno Hill. This is said to be the beginnings of Ueno Toshogu. One theory places the year of its construction at 1627. It was originally called Toshosha, but was renamed Toshogu in 1615 when it was officially recognized as a shrine dedicated to the founder of the Tokugawa Shogunate. The current building was rebuilt in 1651 by lemitsu, the third Tokugawa Shogun. It has gone through several renovations since then, but for the most part retains its original form. The shrine follows the Gongen style of architecture, with separate structures for pilgrims and for rituals, in addition to the main shrine building. Its austere but exquisite features make it one of the most representative examples of early Edo Gongen architecture still standing in Tokyo. Because of their historical value as well as superior form and structure, the Chinese-style gate and wall, the 48 bronze lanterns in front of them, and the stone torii-style shrine gate have all been designated by the Japanese government as important cultural assets together with the shrine itself.




境内のぼたん苑では、一年を通じて牡丹の栽培が行なわれています。1年に3回公開され、4月上旬から5月上旬は地植えの牡丹中心の「春のぼたん祭」、元日から2月下旬には特別に冬に開花するよう促成栽培した冬牡丹を展示する「上野東照宮・冬ぼたん」が開催されます。9月下旬から10月下旬にはダリアの展示が開催されます。今日はちょうど「ダリア綾なす秋の園」が開催されているようです。



五重塔は元は東照宮所属でしたが、明治の神仏分離令により、現在の上野公園全域を寺地としていた寛永寺の所属となりました。しかし寛永寺は上野戦争により焼失し、寺地の大半が公園用地として没収され、上野東照宮から離れた地で再建されたために、五重塔は文化財管理の必要から東京都に譲渡されました。

旧東叡山寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)

寛永八年(1631年)土井利勝により上野東照宮(寛永四年【1627年】創建)の一部として五重塔が建立、寄進されました。寛永十六年(1639年)火災により焼失、甲良宗広らにより同年再建されたのが現存する五重塔です。以前この場所には五重塔への参道がありました。ですから五重塔の正面は今ご覧になっている面です。明治時代に神仏分離令が発令され、五重塔は仏教施設であることから全国の神社所有の五重塔は多くが破壊されました。当宮の五重塔も取り壊しの対象となりましたが、美しい姿を何としてでも残したいと考えた当時の宮司は熟慮を重ね、五重塔を手放すこととし塔は寛永寺の所属であると国に申し出ました。東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えましたが、その機転により取り壊しは免れました。寛永寺の所属となったものの、寺からは距離があり管理が難しいことから昭和三十三年(1958年)東京都に寄付されました。現在は動物園の敷地内にございます。塔の高さは約32m。江戸時代の多くの五重塔が初層から第四層までを和風、最上層のみを唐様風とするのに対し、この塔は全層が和風様式です。建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いています。心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔に多く見られるのに対し、この塔は土台にしっかりと建てられた桃山時代建築の五重塔に良く見られる構造で建てられています。屋根は初層から第四層が本瓦葺、最上層は銅瓦葺を使用しています。初層上方には十二支の彫刻が、各層の軒下の角隅部には四頭ずつ龍の彫刻が配されています。関東大震災でも倒壊せず戊辰戦争や第二次大戦でも焼失を免れた、江戸初期の建築様式を伝える優れた建築の一つとして明治四十四年(1911年)国の重要文化財に指定されました。以前塔の初層内部には心柱を大日如来に見たて、それを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる彌勒・薬師・釈迦・阿弥陀の四体の仏像が安置されていました。第二次大戦中、五重塔は管理が行き届かず扉は壊れた状態でした。その内部に仏像が置かれたままになっているのを発見した当時の宮司は、仏像の破損や盗難を防ぐため、急いで東照宮境内に四体を引き取って大切にお守りし、戦後寛永寺にお返ししました。現在この四体の仏像は東京国立博物館に寄託されています。

Five Storied Pagoda

Toshikatsu Doi, one of the top-ranking officials of the Tokugawa Shogunate dedicated a five-story pagoda to the Ueno Toshogu Shrine in 1631. The pagoda was burnt down in 1639, and the existing one was reconstructed in the same year. The front of the pagoda is the facade that can be seen from here. Since ancient times, Japanese people have held religious beliefs in both the traditional Japanese religion of Shinto and in Buddhism, which came from China. Toshogu Shrine, a facility dedicated to Shinto, is located on the premises of Kan' elji, a Buddhism temple, and has close connections with the Buddhist religion. That is why this five-story pagoda, originally a Buddhism building, was built here. Religious facilities where Shintoism and Buddhism were syncretized were not uncommon throughout Japan. Separation of the two religions was forced during the Meiji Period, and many of the five-story pagodas owned by Shinto shrines were destroyed. When the demolition of this pagoda was ordered, the then Guji, the chief priest of Toshogu - wanted to keep this beautiful pagoda intact and, after long consideration, decided to report to the government that the pagoda was the property of Kan' elji Temple. Thus, the pagoda was spared demolition by changing its name from Toshogu Pagoda to Kan' elji Pagoda. Although Kan' elji became the owner of the pagoda, its maintenance was a burden on the temple, due to the distance between the two facilities. In 1958, the pagoda was donated to the Tokyo Metropolitan Government and is now on the premises of Ueno Zoo. It is approximately 32-meter (105 feet) tall. The pagoda survived the Great Kanto Earthquake (1932) and World War II. As a distinguished structure of the early Edo Period, it was designated as an Important Cultural Property of Japan in 1911. Four statues of Buddha that were enshrined in the pagoda are now housed in the Tokyo National Museum.




上野東照宮の銅燈籠は、諸大名のうち格式の高い大名が寄進した銅製の燈籠です。上野東照宮の落成に合わせて、各大名が寄進した石燈籠ではなく、格式の高い大名は、銅製の燈籠を作成し、寄進しました。現在、上野東照宮には、50基の銅燈籠があり、すべて国宝に指定されています。同じ種類の銅燈籠でも、大名の官位や格式に応じて、建てられている場所が異なります。例えば、徳川御三家が寄進した銅燈籠は、唐門の入口の両側に置かれています。

銅燈籠

東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永五年(1628年)銘一基をはじめ、慶安四年(1651年)正月十七日本献二基、同年四月十七日奉献四十五基、同五年孟夏十七日奉献二基、となっている。慶安四年四月十七日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。

COPPER LANTERNS

There are 50 copper lanterns at Toshogushaden Kara-monmae (in front of Karamon gate of Toshogu shrine main building) and Sando (the approach to the shrine). The lanterns are not used for illumination purposes, but are used for purification and sacred fires required when performing religious ceremonies. These copper lanterns were the offerings of the Daimyos (feudal lords) from all over Japan to Toshogu shrine. The names of the donors are written on the supports of the lanterns. These lanterns, together with Tohogu shrine's main building, are designated as National Treasures of Japan.




唐門から参道入口の水舎門に近くなるにつれて格式が低くなり、さらに低くなると銅製の燈籠ではなく、石灯籠になります。



上野東照宮の狛犬はなかなか厳つい顔をしています。

狛犬(高麗狗)

奉納 大正三年(1914年)
南側(社殿向かって左) 吽形(閉口)  北側(社殿向かって右) 阿形(開口)
狛犬自体の大きさ 高さ115cm 前後120cm 幅60cm

狛犬は三大石工の一人とされた「井亀泉」酒井八右衛門の作で、筋骨隆々の力強さが特徴である。台座の字は隷書を得意とした書家中根半湖の書。当時の社司(現在の宮司に相当する役職)は子爵松平頼安。三島由紀夫の曾祖母の兄にあたり、三島の著作「神官」などいくつかの作品に登場する。狛犬とは犬に似た日本固有の想像上の生物。古来より、神社仏閣を守ると信じられ、左右一対で奉納されることが多い。古代インドで仏像の守護獣としてライオン像が置かれたものが起源とされている。それが中国で獅子の形となり、仏教とともに朝鮮半島を経て日本に伝わった際に、犬のように表現されるようになったと言われている。当宮の狛犬は左が閉口した吽形、右が開口した阿形で、左右で阿吽(あ・うん)の形となっている。阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であることから、「阿吽」は宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされ、狛犬や獅子、仁王など、一対で存在する神社仏閣の像には阿吽の形が良く見られる。

Komainu

Komainu is a mythical doglike beast, statues of which are customarily placed in pairs to rebel evil. Here, the right-hand Komainu is open-mouthed, which is referred to as "a", while the left-hand one has a closed mouth, referred to as "un". As "a" is the first sound in the Japanese syllabary, and is pronounced with an open mouth, and "un" is the last one, pronounced with a closed-mouth, "a-un" is said to signify the beginning and end of the universe. This mouth shape is often found in religious statues including komainu, nio and shishi(lion), which are usually placed in pairs.




唐門の前に、徳川御三家の銅燈籠が建っています。

御三家灯籠

これら唐門両側の六基の銅灯籠は家康公36回忌である慶安四年(1651年)四月十七日に奉納された。尾張・紀伊・水戸の「徳川御三家」より2基ずつ奉納されたもので、すべて重要文化財に指定されている。笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは「蜃(しん)」という想像上の動物で、口から気を吐き蜃気楼を作るといわれている。火袋の天女の装飾が美しく精巧である。

灯籠の奉納者は唐門より順に以下のように並んでいる。
・紀伊   従二位大納言       徳川頼宜(家康の十男)
・水戸   正三位権中納言      徳川頼房(家康の十一男)
・尾張   從三位兼右近衛権中将   徳川光義(家康の孫、家康の九男義直の子)

御三家の中では尾張・紀伊・水戸の序列が一般的なので、通例だと兄弟の順からも九男が興した尾張家が一番唐門側に来るのであるが、奉納の前年に義直が他界し、子の光義(後の光友)が家督を継いだばかりでまだ官位も低かったため、唐門から最も遠い場所に奉納し、このような順になったと考えられる。

Copper Lanterns

These 6 lanterns are national important cultural properties. They were dedicated in 1651 by Tokugawa Gosannke. Tokugawa Gosanke, also simply called Gosanke, refers to the following three families of the Tokugawa clan that were second in rank to the Tokugawa Shogunate Family.




名工左甚五郎の彫刻は日光東照宮の「見ざる・言わざる・聞かざる」が有名ですが、上野東照宮にもあるんですね。

唐門(からもん)

1651年造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻や、扉には唐草格子、扉の上には亀甲花菱、正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透かし彫りなど非常に精巧を極めたものである。昭和二十五年重要文化財指定。

Karamon (Chinese style gate)

The Karamon was built in 1651. Gold foil as well as hand carved flowers and birds ornately decorate the doors and both sides of the gate. Two dragons are carved on the gate pillars that stand on both sides of the Karamon. They are known as Noboriryu and Kudariryu, which means Ascending Dragon and Descending Dragon. The dragons are said to be the works of Hidari Jingoro, a famous sculptor who lived in the Edo period.




公園内にはグラント将軍夫妻手植えの木が育っています。

グラント将軍植樹碑

明治十年(1877年)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。

Memorial Tree planted by General Grant

General Ulysses Simpson Grant had served in the American Civil War as a colonel in the volunteer corps of the northern forces. Distinguishing himself on the battlefield, he later became Supreme Commander and led the northern forces to victory. In 1869 he was made president of the United States of America and remained in office for two terms until 1877. From 1877 to 1880 General Grant toured the world with his family. He came to Japan and on August 25th 1879 at the large reception given for him here in Ueno Park he planted an cypress and his wife The trees they planted have planted a yulan in commemoration. now grown large.




上野動物園は明治十五年(1882年)3月20日に開園した日本では最も歴史のある動物園で、現在500種あまりの動物を飼育しています。敷地は東園と西園に分かれ、総面積は14ヘクタールもあります。東園と西園の間は「いそっぷ橋」を介して行き来でき、また両園を結ぶ上野動物園モノレール(上野懸垂線)もあります(車両の老朽化により、2019年11月から運行休止中)。



かって、30万坪にも及んだ寛永寺の敷地の大部分は現在の上野公園内にありました。東京国立博物館の南側にある大噴水広場には、根本中堂がありました。



石碑に貼られた絵図は、初代歌川広重が当時の寛永寺の伽藍を描いたものです。

寛永寺根本中堂跡

江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。いま噴水池のある一帯を、俗に「竹の台」と呼ぶ。そこには廻廊がめぐらされ、勅額門を入ると、根本中堂が建っていた。根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。斎藤月岑作「武江年表」元禄十一年(1698年)の項には、「八月、東叡山寛永寺根本中堂、文殊楼、仁王門並びに山王社建立。二十八日中堂入仏あり。九月六日、瑠璃殿の勅額到着」とある。瑠璃殿は中堂の別称で、本尊を薬師瑠璃光如来ともいったのにちなむ。瑠璃殿は坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ、「竹の台(うてな)」と呼ばれた。竹の台はその名によるものである。慶応四年(1868年)五月十五日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。

The Site of Kanei-ji Temple Konponchu-do

In the Edo period the area of the present-day Ueno Park was the grounds of Kanei-ji Temple and it was full of temple buildings and monasteries. The area where the fountain and pond are now located was called "Take-no-Utena" (Pedestal of Bamboo). There were cloisters and if one passed through Chokugaku-mon Gate one would see Konponchu-do Hall. Konponchu-do was the central building of Kanei-ji, and inside it Yakushi, the Buddha of Healing, was enshrined as the principal image. In front of Konponchu-do on both sides bamboo from Enryaku-ji Temple in Omi Province (present-day Shiga prefecture) was planted; hence the name Take-no-Utena. On 15th May 1868 this area was the site of a major clash between feudal and imperial forces in the civil war that led to the Meiji Restoration, and most of the buildings and cloisters of Kanei-ji Temple were burnt down.




慶応四年(1868年)の上野戦争によって荒れ果て、明治新政府が病院建設を決めていた上野の山を近代的な公園にすべきと提言した、長崎医学校教官でオランダの一等軍医であったボードウィンの胸像が建っています。ボードウィンは、文久二年(1862年)、長崎の出島に滞在していた弟の駐日オランダ領事アルベルトゥス・ヨハネス・ボードウィンの働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日しました。長崎養生所(明治維新後は長崎医学校)や大阪仮病院(現在の大阪大学医学部)で医学を教え、幕末から明治初期の日本の医学の発展に尽力しました。明治三年、和泉橋通りの旧藤堂邸にあった大学東校は、環境の良い地を求めて上野への移転計画を進めていました。7月には棒杭を打つ工事が始まっていましたが、当時大学東校(東京大学医学部の前身)で講義をしていたボードインは、石黒忠悳に上野を案内され、樹木を切り倒して建物を建てたりせず公園にすべきだと強く主張し、その結果大学東校は本郷の旧加賀藩邸に移転し、それが現在の東京大学になりました。現在のボードウィンの像は、2006年10月に新しく作り直されたものです。初代の像は博士ではなく、博士の弟をモデルにしていました。像を作る時にオランダの親族が写真を取り違え、弟の写真を渡していたのです。私は2006年以前にも彫像を見た筈ですが、全く気が付きませんでした。

ボードワン博士像
Dr.A.F Bauduin

オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。




野口英世の像も建っています。

野口英世銅像

野口英世は、明治九年十一月九日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。三十一年、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、三十三年十二月に渡米、三十七年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正七年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和三年五月二十一日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年五十三歳。野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、制作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県大玉村出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和二十二年より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和二十五年には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。昭和二十六年三月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月二十一日に除幕式が行われた。なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和四十六年に会津会が設置したものである。

Bronze Statue of Noguchi Hideyo

Noguchi Hideyo was born in 1876 in Fukushima Prefecture. Going to the United States of America in 1900, he began research on the syphilis spirochete at the Rockefeller Medical Research Institute in 1904. From 1918 he continued his research in Central and South America, as well as Africa where he hoped to study Yellow Fever. However, before long, he himself contracted the disease and in 1928, at the age of 53, he passed away in what is now the country of Ghana. The approximately four and a half meter statue of Noguchi was made by Professor Yoshida Saburo of the Tama Art University. Heating a test tube in the midst of experimentation, the Latin words, "PRO BONO HUMANI GENERIS" ("For the Good of Humankind"), are inscribed on the stone base. Plans for erecting the statue began in 1947 when Tamao Fumio of Fukushima Prefecture initiated fundraising. The Japan Medical Association's Kitasato Institute continued with the Noguchi Hideyo Memorial Society after Mr. Tamao succumbed to illness. The fund drive was completed in March 1947.




上野公園は桜の名所ですが、そのルーツは奈良県の吉野にあるのだそうです。

吉野のヤマザクラ

この桜の木は上野恩賜公園開園130周年を記念して、奈良県吉野町にある金峯山寺(きんぷせんじ)から上野の寛永寺を通じて寄贈されたものです。江戸時代初期に天海僧正は、この地に寛永寺をひらき、吉野から取り寄せた山桜を植えました。それ以来、上野はお花見の名所となりました。

ヤマザクラ

日本に自生する野生のサクラの一種で、関東以南の野山にみられます。3月下旬〜4月上旬にわずかに赤く色づいた花と茶褐色の葉が同時にひらき、その調和美が昔から詩歌などに多く詠まれてきました。ソメイヨシノが植えられるまでは上野の山の桜の多くはヤマザクラであったといわれています。




旧東京音楽学校奏楽堂は、日本で最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホールとされています。奏楽堂は東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校のオーディトリウム(演奏会場)として明治二十三年(1890年)に建設されました。中央家と翼家からなり、奏楽堂は中央家2階にある講堂兼音楽ホールのことですが、現在では建物全体の名称となっています。

旧東京音楽学校奏楽堂(重要文化財)

この建物は、明治二十三年(1890年)東京音楽学校(現東京芸術大学)本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育の記念碑的な存在である。中央天井をヴォールト状(かまぼこ型)に高くし、視覚、排気、音響上の配慮がなされている。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ、遮音効果をあげるなど技術的な工夫があり、貴重な建築物である。この奏楽堂からは、滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきたが、老朽化が進み、取壊しの危機にひんしていた。しかし、音楽関係者を始めとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和六十二年三月、歴史と伝統を踏まえ、広く一般に活用されるよう、この地に移築復元された。また、移築工事とあわせて、日本唯一の空気式パイプオルガンも修復され舞台中央に甦った。昭和六十三年一月十三日付で国の重要文化財に指定された。

SYMPHONY HALL OF THE OLD TOKYO MUSIC SCHOOL

This structure was constructed as the main building of the Tokyo Music school (present Tokyo University of Arts) in 1890. The designers were Yamaguchi Hanroku and Kuru Masamichi, and it was the first full-scale music hall. Therefore, it is a kind of monument for music education in this country. From this symphony hall, many musicians including Taki Rentaro emerged. However, superannuation of the building went on, and it was in danger of being demolished. Due to the endeavors of those concerned with music and other people, however, it was relocated to this place in March 1987 with its original appearance restored. In coinciding with the relocation work, the only pneumatictype pipe organ in Japan was repaired, and resurrected in the center of the stage. It was designated as an important cultural asset of the nation in January 1988.




奏楽堂の傍らには、明治期の日本の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家のひとりで、東京音楽学校の卒業生である瀧廉太郎の銅像が設置されています。



旧博物館動物園駅は、かつて上野公園にあった京成電鉄本線の駅です。昭和八年(1933年)の京成本線開通に合わせ、東京帝室博物館・東京科學博物館・恩賜上野動物園・東京音樂學校・東京美術學校・旧制第二東京市立中学校などの最寄り駅として開業しました。老朽化や乗降客数の減少により、平成九年(1997年)に営業休止となり、平成十六年(2004年)に廃止されました。地下施設のホームや改札は現在でも休止前の状態を保っていて、電車がホームを通過するわずかな時間ですが見ることができます。西洋式建物の地上口には、「博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社」のレリーフが掲げられています。



日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正十三年(1924年)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和三年(1928年)に竣工したのが黒田記念館です。館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。昭和五年(1930年)には、記念館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、日本・東洋美術に関する調査研究業務が行われてきました。平成十二年(2000年)の新庁舎の竣工により、東京文化財研究所の全ての業務が新庁舎に移ったのに伴い、黒田記念館が昭和初期における美術館建築(岡田信一郎設計)として貴重なものであることから、創建当初の姿に復することとなりました。そこで、2階部分を中心に改修が行われ、平成十三年(2001年)9月に開館、平成十四年(2002年)に国の登録有形文化財となっています。



国際子ども図書館は、児童書を専門に扱う図書館サービスを行う国立国会図書館の支部図書館で、2000年に日本初の児童書専門の国立図書館として設立されました。日本内外の児童書および児童書に関わる文献の収集・保存・提供を始めとして、児童書関連の図書館サービスの日本における中枢および国際的な拠点となっています。国際子ども図書館レンガ棟の前身である旧帝国図書館は、ルネサンス様式を取り入れた明治期洋風建築の代表作のひとつで、久留正道により設計されました。旧帝国図書館は1906年竣工の第一期工事と1929年竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリートでした。平成十一年(1999年)に東京都選定歴史的建造物に選定されています。児童書専門の図書館とは思えないほど重厚感に満ちていますね。



敷地内には、小泉八雲の記念碑も建っています。詩人として有名な土井晩翠は東京帝大時代の小泉八雲の教え子でした。土井晩翠の長男英一は小泉八雲に傾倒していましたが、大学在学中に結核のため23歳で亡くなってしまいました。碑文には、英一の遺言により、父晩翠(本名林吉)が広く国民に見てもらえる場所であることから昭和十年にこの記念碑を帝国図書館前庭に建立したということが書かれています。記念碑には、小泉八雲のレリーフがはめ込まれていて、その台上には天使が壺を囲む銅像「蜜(小倉右一郎作)」があります。

小泉八雲記念碑

先生、原名ハらふかぢお・へるん。英国ノ人。西紀千八百五十年、地中海ノれふかす島ニ生レ、四十一歳ニシテ来朝シ、尋デ帰化シ、姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ。職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ、英文学ヲ教授シ、日本ニ関スル著述頗ル多シ。千九百四年、東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル。先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言ニ因リ父林吉、松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ。小倉右一郎、コレガ彫刻設計ヲ為ス。




国立博物館で「乃木坂46展」?



見所ポイントCの「寛永寺」は、徳川三代将軍家光が開基(創立者)となり、家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧南光坊天海により開山(初代住職)されました。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となり、歴代将軍15人のうちの6人のお墓が寛永寺にあります。天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇っていましたが、幕末の動乱期に主要な伽藍が焼失し、かつての境内の大部分は上野公園の敷地になっています。

縁起 東叡山ェ永寺

元和八年(1622年)、徳川幕府二代将軍秀忠が、上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永二年(1625年)に竣工。根本中堂の完成は元禄十一年(1698年)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約三万坪、江戸時代の十分の一ほど)現在に至っています。




寛永寺には多くの伽藍がありますが、本堂(根本中堂)は明治十二年(1879年)に寛永寺の子院の大慈院のあった敷地に川越喜多院の本地堂を移築したもので、本来の建物ではありません。内陣には、厨子内に本尊の薬師三尊像が安置されています。

寛永寺本堂

旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(1868年)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(1876年)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(1638年)の建造といわれる。間口・奥行ともに七間(17.4メートル)。前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重(木・垂:たるき)とし、細部の様式は和様を主とする。内部は内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。

The main hall of the Kaneiji Temple

The former main hall of this temple that used to stand around the fountain across present Tokyo National Museum was burned down in 1868 in the war in the late Edo period. The present hall was relocated from Kita in at Kawagoe city, Saitama prefecture from 1876 to 1879. This building is said to be built in 1638. It is 17.4m, wide and deep. Neither a paint nor coloring is used for the doors and the walls, construction and a design are styles unique to Japanese buildings. The floor in the room with the Buddhist altar was originally an earthen floor that is a style original with the Tendai sect of Buddhism, now flooring is laid and it is covered with tatami.




錦袋円は、江戸時代に江戸下谷池之端にあった勧学屋が売り出した丸薬の名で、痛み止め・気つけ・毒消しなどに効き目があったそうです。包紙に観音像が描かれていて、江戸名物のひとつとされました。その錦袋円を創薬したのが了翁禅師でした。

東京都指定旧跡 了翁禅師塔碑

了翁禅師(1630年〜1707年)は、江戸時代前期の黄檗宗の僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から仏門に入り、後に隠元禅師に師事します。諸国を巡るうち、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円」と命名し、不忍池付近に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。こうした功績により輪王寺宮から歓学院権大僧都法印位を贈られています。宝永四年、七十八歳で没し、万福寺塔頭天真院に葬られました。本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑で、生前に作られたものです。元々建てられた場所や、現在の場所に移築された時期などは不明です。

Historic Places
Ryoozenji Tohi (The monument of Ryoozenji)

Ryoozenji(1630-1707) is a priest of Obaku sect of Buddhism in the early Edo period. He was born in Ogachi District in Dewa Province (currently Akita Pref.). He entered priesthood from his childhood and later apprenticed to Ingenzenji. When Ryoozenji traveled around, he received a revelation in a dream. Following the revelation he dispensed a medicine and named it "Kintaien", and he made his nephew Daisuke run a drugstore near Shinobazu Pond. With the profit of "Kintaien", Ryoozenji gave alms to poor people and built Kangakuryo (library) in the premises of Kan-eiji Temple. His great achievements were rewarded by Rinnoji no miya and he received Kangakuin Gon Daisozu Hoin (the lank of Buddhist monk). Ryoozenji died in 1707 and was buried in Tenshin-in Temple which was a tacchu (sub-temple) of Manpukuji Temple. This monument was inscribed to the achievement of Ryoozenji and built during his lifetime. It is not clear where the grave was originally built and when it was moved here.




尾形乾山は京都の呉服商の三男として生まれ、6歳上の兄は画家・工芸家として知られる尾形光琳でした。野々村仁清から陶芸を学び、かねてから尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西にある鳴滝泉谷に与えた山荘で窯を開きました。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号しました。享保十六年(1731年)、69歳の時に輪王寺宮公寛法親王の知遇を受けて江戸入谷に移り住みました。

尾形乾山墓碑・乾山深省蹟

尾形乾山は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。寛文三年(1663年)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711年〜1735年)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。寛保三年(1743年)八十一歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政六年(1823年)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化十二年(1815年)に光琳百回忌を営み、「光琳百図」「尾形流略印譜」を刊行、文政二年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4−8−25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。当寛永寺境内の二つの碑は、昭和七年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正十年には公寛法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。

TOMB OF OGATA KENZAN AND KENZAN SHINSEISEKI

Ogata Kenzan is a younger brother of Ogata Korin, painter, and was born in Kyoto in 1663. Kenzan revealed his talent in painting, calligraphy, tea ceremony, etc, but was especially renowned for his ceramic art. He possessed a kiln in Iriya, and named his works "Iriya Kenzan". He died in 1743 at the age of 81, and was buried at Yozenji Temple in Shitayasakamoto (present address 7-chome 15-ban of Ueno). "Ogata Kenzan Shiseiseki" was built by a man of letters named Sakai Hoitsu. The Shinseiseki was lost when Yozenji Temple moved, but its copy was erected in 1923 at this site.




寛永寺時鐘堂は、「上野の時の鐘」として今も時を告げる歴史的な時鐘です。寛文六年(1666年)に設置された鐘で、当時は江戸市中に9ヶ所の時の鐘がありましたが、現存・現役では唯一の時鐘になっています。

銅鐘(台東区有形文化財)

本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝九年(1681年)五月八日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673年)から貞享三年(1686年)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。平成十八年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。

Copper Bell (Cultural Asset of Taito City)

This Copper bell has a total height of 450 inches and a diameter at its widest point of 233 inches. It was donated and placed in the bell tower in front of the Genyuin mausoleum for the 4th Shogun Tokugawa Ietsuna on May 8th in 1681, marking the first anniversary of his death. It is said to have been transferred to Kan'ei-ji Temple's main hall to be its bell after the Meiji Restoration. The builder of the bell, Shiina Yoshihiro a caster in Edo, who was active during the latter half of the 17th century, and lived in Kandanabe-cho. There are 17 examples of his works, chiefly bells built between 1673 and 1686. Since many of them are related to Zojo-ji and Kan'ei-ji temples, he is thought to have had a deep relationship with the Tokugawa Shogunate.




旧本坊表門と根本中堂に使われていた鬼瓦が展示されています。重さはどれ位あるのでしょうか?

旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦

この鬼瓦は、現在「黒門」の通称で親しまれている、寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)に据えられていたものです。旧本坊表門は寛永初年に、寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめ、いわゆる歴代の輪王寺宮が住まわれた場所の門でした。この門は、昭和十二年現在の東京国立博物館の地から現地に移築され、平成二十二年から行なわれた解体修理によって修復されました。このときの調査により、現鬼瓦の制作年代は不明ながら、東側の「阿」形より西側の「吽」形が古いこと、かつては鳥衾(鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていましたが、現存の鬼瓦には鳥衾を取り付けた痕跡がなかったことが分かっています。東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、修復の折に西側に意匠を合わせて作り替え、新たな息吹を門に与えています。この修復を機会として寛永寺根本中堂の屋根にあった鬼瓦と合わせ、ここに展示いたします。



右側の鬼瓦が旧本坊表門の鬼瓦(高さ113cm×横幅118cm)、
左側の鬼瓦が寛永寺根本中堂の鬼瓦(高さ248cm×横幅325cm)


寛永寺を出て言問通りを横断しますと、浄名院というお寺があります。寛文六年(1666年)に開山され、寛永寺の塔頭であり、「寛永寺三十六坊」のひとつです。四代将軍徳川家綱の生母の宝樹院の菩堤所でもあります。浄名院は「八万四千体地蔵」の寺として知られています。これは明治十二年(1879年)に浄名院第38世住職妙運大和尚が84、000体の地蔵菩薩像の建立を発願したのが起源で、寛永寺貫首(輪王寺宮)だった北白川宮能久親王を始め、華族や財閥なども賛同して多くの地蔵が奉納され、現在でも続いています。また、明治初期の廃仏毀釈で富岡八幡宮の別当寺だった永代寺が廃寺になり、「江戸六地蔵」のひとつだった地蔵も破壊されたため、現在では浄名院が建立した地蔵の1体を「江戸六地蔵第6番」と称するようになりました(但し、異論があります)。また、浄名院は、別名「へちま寺」としても知られています。喘息治癒の功徳があるとされ、旧暦8月15日に「へちま供養」が執り行われ、当日は多くの参詣者が訪れます。

八万四千体地蔵

明治十二年、浄名院第三十八世地蔵比丘妙蓮大和尚が衆生済度(しゅじょうさいど:仏の救済の対象となる人間その他すべての生きとし生けるものを生死の苦海から救って悟りの境地すなわち彼岸に導くこと)のため、八万四千体地蔵尊の建立を発願された。後歳と共に地蔵尊の数を増している。その中には、北白川宮の十四体、五代目菊五郎の十三体等を含んでいる。

JYOMYOIN TEMPLE

It is said that eighty-four-thousand jizos are lined up here. The jizo is a Buddhist saint who is in search of truth and who is the guardian of children.




交差点名に残っている「上野桜木」という地名は、かってこの辺りに桜の木が多かったことに由来しています。

旧町名由来案内 旧上野桜木町

上野桜木町は、上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したところで寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。本町内にある寛永寺本堂は、慶応四年(1868年)の彰義隊の戦争により寛永寺本坊はじめほとんどが焼失したため、寛永年間(1624年〜1643年)に建てられた川越喜多院本堂を明治十二年に移築したものである。東側山麓にあたる現在の根岸一丁目二番付近は谷中村の飛地であった。本町ができた年代は明治七年から同十一年二月の間と推察する。そして町名のいわれは、この付近に桜の木が多くあったことに由来する。

「台東区立下町風俗資料館付設展示場」

谷中は、震災や戦災で大きな被害を受けることのなかった数少ない地域である。このため寺院をはじめ古い建物が比較的多く残っている。この付設展示場は江戸商家の建築様式をもつ酒屋で大変貴重な建築物であることから、昭和六十二年に保存のため現在地へ移築された。




見所ポイントDの「下町風俗資料館付設展示場」は、上野桜木交差点の角にあります。看板には、「吉田屋本店」と書かれています。吉田類さんの実家ではありません。

旧吉田屋酒店
(下町風俗資料館付設展示場 台東区指定有形民俗文化)

かつて谷中六丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和六十二年移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年には、一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。棟札によれば、明治四十三年(1910年)に新築して、昭和十年(1935年)に一部改築したもの。正面は一・二階とも出桁造り商家特有の長い庇を支え、出入り口には横長の板戸を上げ下げして開閉する揚戸を設け、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。一階は店と帳場で、展示している諸道具類や帳簿などの文書類も実際に使用されていたもの。帳場に続く階段をのぼると三畳半と八畳の部屋があり、店員等が使用していた。向かって右側の倉庫部分は、外観のみを明治四十三年の写真にもとづいて復元した。店舗後方の和室部分は構造的補強の必要から増設したものである。

Old Yoshida sake store

Yoshida store was a sake store since Edo period. It was donated to Taito city, then was reconstructed and restored in order to hand down the form of the liquor store of the early in the 20th century to future generations. It was originally built in 1910, partly reconstructed in 1935. Its long eaves and wide entrance are characteristics of such merchant building, and the first floor was a counter and an office, the second floor was an employee's room. The warehouse was restored only on the outside based on a picture in 1910 and a Japanese-style room behind a counter was added for reinforcement of the building.




「揚戸」と「出桁造り」について説明してあります。

出桁造り

江戸時代から伝わる伝統的な商家建築のひとつで、軒下の桁を外に出した構造を出桁造りといいます。等間隔で突き出した梁または腕木の上に桁を乗せています。この造りによって軒が大きく前面に張り出しますが、このような立派な軒が商家の格を示していたとも言われています。旧吉田屋酒店のような商家のほかには、宿場の旅籠屋、茶屋などで見られ、出桁部分を庇代わりに、あるいは二階面積を増やすためにこの様な構造が造られました。また、雪国では雪の重みを受ける垂木を補強するため等、様々な目的で造られていました。

揚げ戸

入口の左右の柱に溝をつけ、その間にはさんだ戸板を溝に沿うように上下に開閉します。揚げ戸は戸袋がなく、間口が広く使えるため、客の出入りや資材・商品の搬出入に適していました。夜間は揚げ戸を閉め、揚げ戸に付いた小さな引き戸から出入りをしていました。出桁造りと併せて、この揚げ戸も商家の特徴的な構造のひとつでした。




今時の酒屋さんは量り売りをしませんが、昔は瓶売りよりも一般的でした。プロヴァンス地方を旅行した折には、ワインの量り売りをしていたお店も見かけました。マイバックならぬ、マイボトルですね。

下町風俗資料館付設展示場
旧吉田屋酒店

吉田屋酒店は、旧谷中茶屋町(現、谷中六丁目)の一角にあった江戸時代以来の老舗で、昭和六十一年(1986年)まで営業していました。台東区により当地に移築され、下町風俗資料館付設展示場として、昭和六十二年(1987年)5月に公開されました。この建物は明治四十三年(1910年)に新築して、昭和十年(1953年)に階段の付替えや正面入口のガラス戸の新設など一部を改装していますが、江戸商家の建築様式を伝えています。正面は一・二階とも軒下に桁を張り出した「出桁造り」で、一階の出桁を二重にして商家特有の長い庇を支えています。出入口には横長の板戸や格子戸を上げ下げして開閉する「揚げ戸」を設け、間口を広く使って酒樽など商品の運搬・販売に都合のよい構造となっています。板戸と格子戸は中柱の溝にそって上下させました。前土間形式で、一階は商品陳列や販売をするスペースと番頭が商品や金銭の出し入れを記録する帳場で、酒のほか醤油、塩、砂糖も扱い、二階は主に住み込みの店員の部屋として使われていました。平成元年(1989年)には一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となっています。なお展示資料はすべて区内外の方々から寄贈されたものです。




谷中に入ります。現在は谷中という町名になっていますが、かっては「谷中町」と呼ばれていました。

旧町名由来案内 旧谷中町

元禄年間(1688年〜1703年)町屋の区域が武蔵國豊島郡谷中村より独立して、谷中町として起立した。谷中という地名は江戸時代からあり、その由来は上野台(代山)と本郷台の谷間に位置していることにちなみ、下谷に対してつけられたといわれている。本町の江戸時代の町屋は、言問通り面(八軒町)と天王寺へ行く通りの面(惣持院門前町まで)に形成されていた。明治初年、大雄寺(だいおうじ)をはじめとする寺地が合併されて町域が定まった。大雄寺には、勝海舟、山岡鉄舟とともに「維新の三舟」といわれた高橋泥舟が「大くすの木」の下に眠っている。この大くすの木は、東京都の保存樹木に指定されている。




大雄寺の本堂の前には楠の大木が聳えています。高橋泥舟のお墓はその手前にあるようです。

高橋泥舟墓

高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保六年(1835年)二月十七日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、二十一歳で幕府講武所教授、二十五歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。佐幕、倒幕で騒然としていた文久二年(1862年)十二月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌三年二月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年十二月師範役に復職し、慶応三年(1867年)遊撃隊頭取となる。翌四年一月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治三十六年二月十三日没。勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれる。

The tomb of Takahashi Deishu

Takahashi Deishu was a master of spearmanship and a subject of the government in the last days of the Tokugawa shogunate; also he was a brother in law of Yamaoka Tesshu. He was born as a second son of the Yamaokas, and then was adopted into the Takahashi family. His original name was Masaaki but he was usually called Kenzaburo. He was admired as an expert of the spearmanship and became an instructor of the Military Art School of the government at the age of 21. then became a master at the age of 25. In 1862 when the supporters of the shogunate and anti shogunate stood in opposition, the government levied masterless samurais in Edo and sent them to Kyoto in 1863. Although he became a leader of the group, later had to quit his post because members of the group cooperated with the supporters of the Emperor. However he was soon reinstated and became the leader of a guerilla unit. After the battle of Toba Fushimi, Deishu persuated the Tokugawa family to obey the Emperor. When Yoshinobu, the fifteenth Tokugawa shogun swore allegiance to the Emperor and moved to the Kaneiji Temple, then moved to Mito, he headed a guerilla unit and guarded the shogun Yoshinobu. After the establishment of prefectures in place of feudal domains, he is said to have spent rest of his life enjoying calligraphy in seclusion and he died in February 13th in 1903. He is called "Three shu at the end of the Tokugawa government" together with Yamaoka Tesshu and Katsu Kaishu.




見所ポイントEの「スカイザバスハウス」は、最先鋭の日本のアーティストを世界に向けて発信すると同時に、海外の優れた作家を積極的に紹介する現代美術ギャラリーです。現代美術に特化したギャラリースペースとして、都内でも古い街並みを残す谷中に創設されました。美術館や東京藝術大学が密集する上野からほど近く、下町文化の歩んだ時間と空間を大切にしながら、最先端のアート作品を伝える場として親しまれてきました。200年の歴史を持つ由緒ある銭湯「柏湯」を改装したギャラリー空間は、一歩入るとモルタルの床に白い壁面のニュートラルなホワイトキューブが広がり、高い天井からやわらかな自然光が差し込んでいます。1993年の創設以来、数々の展覧会やコミッションプロジェクト、パブリックアートを実現してきました。もの派の筆頭として現代美術創世記を導いた李禹煥(リ・ウーファン)、強い物語性を持つ大型彫刻で国際的な注目を集める遠藤利克や森万里子など、第一線で活躍する多くのアーティストの評価を固めると同時に、新素材を用いる彫刻家、名和晃平や土屋信子などの次世代作家を世界に向けて発信しています。一方で、日本の伝統や文化に触発された新しい作品を発表するアニッシュ・カプーアや、アピチャッポン・ウィーラセタクン、何翔宇(へ・シャンユ)など、海外の優れた作家を積極的に紹介してきました。また、宮島達男やルイーズ・ブルジョワによるパブリックアートなど、時代とともに進化するアートの最前線を公共空間に提供し、街の景観を変えることで現代美術を受け止める新たな支持層を生み出してきました。国内外における現代美術の潮流をつなぐ結び目として機能し、アートシーンにおいて主導的な役割を果たすことを目標としています。こうした理念のもと、近年は若手作家の実験スペース「駒込倉庫」や作品保存の現場を展示空間へ拡張した「スカイパーク」を開設するなど、新たなビジョンを次々と展開しています。



谷中霊園の周辺には沢山のお寺が集まっています。谷中は、江戸開府や寛永寺の創建に伴う寺院の建立、江戸の市街地拡張に伴う神田からの多くの寺院の移転などにより寺町が形成され、発展してきた町です。震災や戦災の影響が比較的少なかったため、今も多くの寺院や路地、木造の建物などが昔ながらの下町の面影を残しています。文学の舞台としても、森鴎外や夏目漱石を始めとする文人の作品にこの界隈の様子が折り込まれています。中でも代表的なものが、天王寺の五重塔を題材にした幸田露伴作「五重塔」です。五重塔は、明治四十一年(1908年)に東京市に寄付され、昭和三十二年(1957年)に焼失するまで霊園内に実在していました。現在はその礎石が都の史跡に指定されています。園内には、他にも江戸時代からの旧道がほぼそのままの形で残っている園路や、藩主・政治家・文人などの著名人墓所など、多くの歴史資源があります。

谷中寺町と谷中霊園

「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は七十数軒にもなる。寛永年間(1624年〜1643年)、上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院はなかった。そして、慶安年間(1648年〜1651年)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657年)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。幕末の慶応四年(1868年)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にもあわず、昔ながらの情緒をもった寺町を今日に残している。谷中霊園は、明治五年(1872年)、旧天王寺境内の一部を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治七年(1874年)、東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊園の一つに数えられ、広さ約10万平方メートル、現在の墓地使用者は六千余りである。幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。




かって谷中にあった福泉院は、谷中天王寺の塔頭でした。福泉院の境内には稲荷社があり、「笠森稲荷」と呼ばれていました。門前には水茶屋「鍵屋」があり、そこで働いていたのが「明和三美人」の一人として知られる笠森お仙でした。幕末期の上野戦争で福泉院は廃寺となり、笠森稲荷は寛永寺の塔頭である養寿院に移されました。



現在の功徳林寺にも笠森稲荷はありますが、これは明治後期に改めて勧請されたものです。

江戸三大美人・お仙ゆかりの寺 笠森稲荷堂

笠森稲荷は諸願成就のお稲荷さまとして信仰されてきました。江戸時代の中ごろ、門前の茶屋の一人娘のお仙が店に立つと、江戸三大美人の一人として浮世絵に描かれ、童唄にも歌われて大評判になりました。その笠森稲荷堂が境内にあります。御自由に御参拝ください。

Story of Kasamori Inari

"Kasamori Inari" is one of the Inari shrines built in the Edo period. "Inari" is a Japanese god of rice, and usually attended by foxes as his messengers. This shrine is so famous because of a relation with "Kagi-ya" that it was chosen as a theme of "Temari-uta" (i.e. Japanese song sung while playing a traditional Japanese handball game). Kagi-ya was the name of "Cha-ya" (i.e. Japanese cafe in the Edo period). In this cafe, waitress "Osen" was working. Osen was one of the three beauties of Edo and a model in "Bijin-ga" (i.e. beautiful person picture). Hence many men went to Kagiya to see her after making a short visit to Kasamori Inari, which was located near Kagiya. As you can see, Kasamori Inari became famous because of Osen. This shrine is where people visit in order to make their wishes. When you have something to wish, come visit us.




長安寺には谷中七福神の寿老人像が安置されています。谷中七福神巡りで何度も詣でましたね。

CHOANJI TEMPLE

Enshrine Jurojin the God of Longevity. One of the shrines of the Yanaka Shichi-fukujin, The Seven Gods of Grad Fortune. The tomb of Hogai Kano, the Japanese artist is ???.




長安寺には、台東区の有形文化財に指定されている狩野芳崖のお墓や600年以上も前に建立された板碑4基もあります。

狩野芳崖墓(台東区史跡)

明治初期の日本画家で、文政十一年(1828年)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十一歳で没した。墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治二十年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正六年造立)が建つ。平成五年、台東区史跡として区民文化財台帳に登載された。

TOMB OF KANO HOGAI (HISTORICAL SPOT IN TAITO CITY)

Kano Hogai was a Japanese-style painter in the early Meiji period. He was born in Choufu city, Yamaguchi prefecture in 1828. At the age of 19 he left for Edo to be apprenticed to Kano Masanobu and mastered painting techniques of Kano school. He was never bound however by the tradition of his school. He was also influenced by Sesshu and Sesson, famous painters of another school and also mastered shading techniques found in western painting. "Hibo Kannon Zu" (goddess merciful like a mother) and "Fudo Myo-o Zu" (god of fire), two of his representative works are designated as Important Cultural Assets. He contributed much together with Okakura Tenshin to establish the Tokyo Fine Art School (present-day fine art faculty of the Tokyo University of Arts) but passed away in November of 1888 at the age of 61 just before the school opened. His tomb is located near the center of the graveyard of this temple and a stone monument, which was erected in front of the main building in 1917 describes his brief history and achievements.

板碑(台東区有形文化財)

死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では、秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵字の種子(阿弥陀如来の種子<キリーク>が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。

一、建治二年(1276年)四月 円内にキリーク種子を刻む
二、弘安八年(1285年)八月 上部にキリーク種子を刻む
三、正安二年(1300年)二月 「比丘尼妙阿」と刻む
四、応永三年(1396年)正月 上部に阿弥陀三尊の種子を刻む

長安寺の開基は、寛文九年(1669年)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。平成三年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。

ITABI

Itabi, also called the stone board stupa or blue stone stupa, is originally a type erected for the repose of the souls of the deceased. Many were made between the Kamakura and Muromachi periods. In Choan-ji temple, there are three Itabi dating back to the Kamakura period and from the Muromachi period. As Choan-ji temple is said to have been established in 1669, the Itabimust be about 400 years older than the temple itself. It is said that here was a temple of the Shingon-sect before Choan-ji temple was erected, and therefore, it is considered that the Itabi must have had some connection with the original temple.




もの凄く年季の入った家屋の前に谷中初音町二丁目の旧町名由来案内板が立っています。初音とは優雅な名前ですね。

旧町名由来案内 旧谷中初音町二丁目

初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鴬谷と呼ばれるところがあったことから、鴬の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(1869年)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治四年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治二十四年のことである。谷中初音町二丁目は、元禄十七年(1704年)に町屋の開設が許されてできた天王寺中門前町が改称された町である。




観音寺は赤穂浪士ゆかりの寺として知られています。

赤穂浪士ゆかりの寺

赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716年)観音寺と改称した。本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永四年(1707年)三月吉日、長福寺六世朝山の名を刻む。

Temple noted in connection with the 47 akoroshis

47 akoroshis are widely known in Japan through the story "Chushingura which describes 47 samurais of Ako (present Hyogo prefecture) who avenged their master Asano Naganori by making a raid on his foe Kira Yoshinaka. Two of 47 Akoroshis, Chikamatsu Kanroku Yukishige and Okuda Sadaemon Yukitaka, were brothers of Bunryo who was studying at this temple. Bunryo later became the 6th head bonze of this temple and was named the Great Bonze Chozan. Bunryo is said to have done all he could to help Akoroshis and it is said that they held many meetings at this temple. The book called "Genroku kaikyoroku" written by Fukumoto Nichinan in the late Meiji period mentions that Kanroku left his last words "Please tell Bunryo in the Chofukuji Temple that I am willing to give my life to avenge the death of my master today". This temple was originally called the Chofukuji Temple and was renamed the Kannonji Temple in 1716. The pagoda to the right of the main hall is known as a memorial tower of Akoroshis and people still visit it today. On the upper part of the pagoda was engraved Sanskrit words that stand for the Buddhas in the north, the south, the east and the west. On the lower part, Hokyoindaranikyo (a sutra) and on March in 1707, the name of the 6th Head Bonze of this temple Chozan was engraved.




見所ポイントFの観音寺「築地塀」は、平成四年(1992年)に台東区の「まちかど賞」に選ばれ、寺町谷中のシンボルのひとつとして映画やドラマのロケ地に選定されたり、雑誌にも多く紹介され、谷中・根津・千駄木の谷根千地域の散策に訪れる多くの人達に親しまれています。築地塀(ついじべい)とはいわゆる土塀のことで、単に築地とも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築工法で造られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられています。古くは土のみで作られていましたが、強度を増す・雨水から守る・染み込む雨水の水はけを良くするために、瓦を間に入れて造られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど様々です。築地は、もとは築泥と呼ばれていたとされています。字のごとく泥を積み上げて造ることからそのように呼ばれていました。観音寺の築地塀は幕末の頃に築かれたもので、当寺は観音寺の境内の東面と南面を囲っていましたが、現在では南面のみ残っています。大正十三年(1923年)に起こった関東大震災により一部倒壊しましたが、第一次世界大戦終戦から始まった戦後恐慌によって物資が乏しかったために、できるだけ元の資材を使用して倒壊箇所が組み直されました。その後、経年による細かな損傷は見られましたが、補修を重ねて江戸時代往時の姿を今日に残しています。江戸時代から続く有数の寺町である谷中の当時の面影を伝え、歴史的景観に寄与するということから、平成十二年(2000年)に国指定の有形文化財に登録されました。



朝倉彫塑館は、明治期から昭和期にかけて彫刻家・彫塑家であった朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館です。鉄筋コンクリート作りの旧アトリエ部分と、丸太と竹をモチーフにした数寄屋造りの旧住居部分からなり、その和洋折衷の特異な建築は朝倉文夫本人が自ら設計し、その意向が強く生かされています。

朝倉彫塑館(国名勝・国登録有形文化財)

近代日本を代表する彫塑家、朝倉文夫(1883年〜1964年)の邸宅兼アトリエである。朝倉は明治十六年大分県で生まれ、同四十年、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和十年の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され、随所に彫塑家朝倉の個性を見ることができる。中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された五つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうかがえる。屋上庭園は、かつて、朝倉が昭和二年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が蔬菜(そさい:野菜の総称の総称)を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園の事例としても貴重である。昭和四十二年、故人の遺志によって一般公開され、同六十一年には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。平成十三年、建物が国登録有形文化財に、本館所蔵の文夫の代表作「墓守」の石膏原型が重要文化財指定を受けた。同十九年には、建物と庭一帯が国名勝の指定を受けた

Asakura Chouso Museum : Asakura's mansion devoted sculpture and modeling
(National cultural tangible asset and national scenic beauty site)

This was the former residence and studio of Fumio Asakura (1883-1964), who was a great master of sculpture and modeling. Almost all the buildings were built in 1935. All of the buildings and gardens were his own design, and he personally selected all the materials, for example, the decorative wood and bamboo. You can truly appreciate the aesthetic unity of the structures and gardens, as reflected in Asakura's deep understanding and unique use of space. The quadrangle is a Japanese-style garden surrounded by a Japanese-style wooden residence and European-style studio. Almost all the empty spaces of the quadrangle are filled with water. Several natural rocks are arranged in the water to create a rich landscape - an impressive result of Asakura's unique sense and understanding of nature, which inspired guided his artistic creations. In 2001, the buildings were declared a national cultural tangible asset and the plaster prototype of his masterpiece "The Gravekeeper",became an important cultural property. In 2007 the whole of the building complex and gardens were designated as a place of natural scenic beauty.




日暮里駅から上がっている御殿坂と諏訪台通りとの交差点角に経王寺があります。経王寺は明暦元年(1655年)に創建された日蓮宗の寺院で、境内の大黒堂には日蓮上人作といわれる大黒天が祀られていて、旧谷中七福神のひとつとなっています。慶応四年(1868年)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたために新政府の攻撃を受け、天保七年(1836年)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残っています。

あらかわの史跡・文化財 大黒天経王寺

経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655年)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応四年(1868年)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。

Daikokuten Kyoo-ji Temple

Kyoo-ji is a Nichiren Buddhist temple. It is said that Kammuri Katsuhei, a local wealthy farmer, leader of Nippori Village, and ancestor of the Kammuri Gonshiro family, donated land in 1655 for the priest Yosen'in Nikkei, and upon which the temple was built. A statue of Daikokuten (Mahakaala, one of the Seven Lucky Gods), is enshrined in Daikokudo Hall, located next to the main hall. Said to be the work of Nichiren, the statue has been venerated by the local people as a guardian deity. The main gate is a designated tangible cultural property of Arakawa City. In 1868, the fleeing Shogitai troops took refuge at the temple until they came under fire from the Imperial Army at the Battle of Ueno. To this day, bullet holes in the gate remain as a result of the conflict.




交差点の南方一帯は、かって谷中初音町三丁目と呼ばれていました。二丁目も三丁目も大して変わらないとは思うのですが、ここにも旧町名由来案内板が立っています。

旧町名由来案内 旧谷中初音町三丁目

初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(1869年)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治四年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治二十四年であった。谷中初音町三丁目は、慶安元年(1648年)に町屋が開設されてできた天王寺古門前町が改称された町である。むかし、この付近では生姜がつくられていた。次第に、その生姜は全国に広がり、いつしか「谷中生姜」とよばれるようになった。




谷中銀座にやってきました。谷中銀座といえば見所ポイントGの「夕やけだんだん」ですね。夕方この階段に座って谷中銀座の方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから、一般公募によって選ばれました。



見所ポイントHの「谷中銀座」には食べ物屋さんや小物屋さんなどの小さいお店が60軒以上あり、車の乗り入れが禁止されていますので、のんびりと散策ができます。



激安の惣菜屋さんも並んでいます。谷中メンチを頬張りながらの商店街巡りもいいかも。



谷中銀座の突き当たりに南北に延びる見所ポイントIの「よみせ通り商店街」があります。ここは大正期から続く商店街で、その名の通り以前は夜店が軒を並べて賑わいを見せていた通りです。現在、通りには新旧の店が連なっていて、米屋・肉屋・花屋・洋品店・酒屋などの古くからある店の間に、カフェや雑貨などの新しい店舗が見られます。商店と民家が立ち並ぶ通りを進むと、お地蔵様のイラストをあしらった「よみせ通り」のアーチが現れます。通りの北の外れ近くに延命地蔵尊があり、これがアーチのイラストの由来となっています。ちなみに、イラストは以前近所に住んでいた俳優の中尾彬さんが描いたそうです。



よみせ通り商店街は、現在は暗渠となった藍染川の流路の上にあります。よみせ通りの出口のところには、かつて橋が架かっていました。その先はくねくねと曲がった「へび道」と呼ばれる路地になっています。路地の東側は台東区、西側は文京区です。

藍染川と枇杷橋(合染橋)跡

文京と台東の区境の道路は、うねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。「新編武蔵風土記稿」によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西原村へ、さらに、駒込村から根津谷に入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園入口のところ)で忍川となり、三味線堀から隅田川に注ぐ。川の名は、上流から境川・谷戸川(谷田川)・藍染川などと呼ばれた。藍染の名の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど。前方の道路の交わるところに、藍染川に架かる橋があった。江戸時代の「御府内備考」や「新編武蔵風土記稿」によれば、この橋は合染橋、藍染橋、琵琶の橋(のち枇杷橋)などと呼ばれた。また旧八重垣町にも同名の藍染橋があった。川は、水はけが悪くよく氾濫したので、大正十年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境の道路となっている。




かっては、町名にも「藍染」の名が入っていました。

旧根津藍染町(昭和四十年までの町名)

元屋敷と呼ばれた土地であった。六代将軍徳川家宣の将軍になる前の屋敷地で、宝永元年(1704年)将軍家世継ぎとして江戸城入りした後、家宣の産土神の根津神社が建てられ、残った土地は家臣に与えられた。明治五年に町ができて、藍染川に沿っていたので、根津藍染町と命名された。




三浦坂は長さが約160mほどのかなり急な坂で、別名を「中坂」といいます。坂名は、江戸時代に三浦家下屋敷前の坂道だったことに因んで名付けられました。坂下に案内板が立っています。

三浦坂

「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政三年(1856年)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治五年(1872年)から昭和四十二年一月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ上地ヲ合併新二町名ヲ加へ(中略)真島八三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。

Miura-zaka Slope

According to a local topography of the Edo period (1600-1868), the slope leading down to Nezu known as Naka-zaka Slope was also known as Miura-zaka Slope because it led from in front of the third mansion of the Miura family. The head of the Miura household was the feudal lord of the Katsuyama clan in Mimasaka province (present-day Okayama prefecture). At the end of the Edo period the Katsuyama clan changed its name to Mashima, and the areas on both sides of Miura-zaka Slope came to be known as Mashima town. Thus both the name of the slope and the name of the areas on either side of it were connected with the mansion of the Miura family. It is said that the alternative name of Naka ("middle")-zaka Slope is associated with the fact that this slope was located in between two other slopes.




江戸時代、谷中には勝山藩の下屋敷がありました。その跡地には私設の「大名時計博物館」が建っています。陶芸家の上口愚朗が生涯にわたって収集した江戸時代の貴重な大名時計を文化遺産として長く保存するために、昭和二十六年3月に「財団法人上口和時計保存協会」を設立しました。昭和四十五年10月に上口愚朗が没した後、二代目の上口等が昭和四十九年4月に「大名時計博物館」として開館しました。大名時計は江戸時代に大名お抱えの御時計師達が長い年月をかけて手造りで製作した時計です。製作技術・機構・材質などの優れた大名時計は美術工芸品としても世界に類のない日本独特の時計です。大名時計で用いられた時刻表示はヨーロッパで使用されていた24時間の定時法のものと異なり、不定時法を用いていました。不定時法は、夜明けから日暮れまでの昼を六等分、日暮れから夜明けまでの夜を六等分した時刻を採用しています。夜明けの時刻と日暮れの時刻は季節によって変わるため、昼と夜の長さが季節に応じて変わり、一時[いっとき]の長さが変わります。大名時計博物館は、これら江戸時代の大名時計を展示した専門の博物館なのです。

DAIMYO CLOCK (JAPANESE CLOCK) MUSEUM

Clocks made in Japan in the Edo Period (17th-19th centuries) are exhibited here.




民家と民家の間の細い路地を抜けて池之端に出ました。池之端二丁目交差点の手前に小さな児童遊園があり、往年の都電車両が展示されています。ここは、かっての池之端七軒町電停跡です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、都電20系統(江戸橋〜須田町)、都電37系統(三田〜千駄木町)、そして都電40系統と、三つの路線が池之端七軒町電停(廃止時は池之端二丁目電停に改称)に発着していました。フェンスに掛けられた案内板には、当時の池之端七軒町電停に停車している都電20系統の写真が添えられています。行き先表示が「江戸川橋」となっていることから、電車の後方が上野動物園で、手前のカーブした先の池之端二丁目交差点から不忍通りに入っていたのでしょう。池之端児童遊園に展示されている都電の車両は7500形で、つい最近まで荒川線で走っていたそうです。

旧都電停留場(池之端七軒町)

ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場(池之端七軒町)のあった場所です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸川橋〜須田町)、37系統(三田〜千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前〜銀座七丁目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和四十二年(1967年)12月に37・40系統が廃止、昭和四十六年(1971年)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留場は姿を消しました。平成二十年3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。使用したレールは、東京都交通局荒川線で使われていたものを再使用しました。

都電7500形(7506号車)

ここに展示された都電は7500形といわれる形式で、昭和三十七年に製造された旧7500形を車体更新したものです。旧7500形は昭和五十九年以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され(て)現在の7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成二十年1月末まで都電荒川線(三ノ輪橋から早稲田)を走行し、平成二十年2月1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。




不忍通りを進んで上野動物園の池之端門にやってきました。門の内側には両性爬虫類館の建物があり、ここが長かった「台東区:Cコース」のゴール地点となります。



「Cコース」では、台東区の観光名所である上野公園と谷根千地区を巡りましたので、見所満載のお散歩となりました。あまりに数多くの写真を撮りましたので、今までで一番長い踏破記となったように思います。台東区にはまだまだ多くの観光コースがありますので、残りのコースも楽しみです。




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