- Dコース(上野地区健康推進委員おすすめ)
上野地区健康推進委員より一言
ウォーキングコースの見どころ
上野公園の中には、動物園や博物館はもちろん、美術館や史跡など、とにかく見どころがいっぱい!何度足を運んでも新発見があるとても楽しいコースです。また、公園内なので、事故なく安全に歩くことができます。
歩行距離:2.7km、歩行時間:41分、消費カロリー:122kcal、歩数:3、858歩
コース 踏破記
今日は台東区の「Dコース(上野地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。下町風俗資料館をスタート地点として、不忍池・上野公園を周回し、下町風俗資料館に戻ります。
スタート地点:下町風俗資料館
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- @清水観音堂
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- A東京文化会館
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- B国立西洋美術館
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- C国立科学博物館
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- D花園稲荷神社
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- E不忍池弁天堂
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- F両生爬虫類館
- 「両性爬虫類館」ではありません。
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- G水上音楽堂
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ゴール地点:下町風俗資料館
スタート地点の下町風俗資料館から歩き始めます。「フーゾク」でなく、「歴史」とか「文化」の方が誤解を受けなくていいと思うのですが。
下町風俗資料館の概要
古き良き下町の文化を永く後世に伝えるために・・・
明治・大正ころまでの下町には江戸の名残がありました。しかし大正十二年(1923年)の関東大震災、昭和二十年(1945年)の戦災によって、ほとんどその面影をなくし、さらに目覚しい復興を遂げた戦後、特に昭和三十年代後半には東京オリンピックを契機とする再開発が積極的に進められ、街はすっかり様変わりしました。人びとの暮らしもまた時代とともに変化し、便利さを取り入れた代わりに、古い時代の大切なものが忘れられようとしていました。古き良き下町の文化が失われつつあることに憂いの声が上がったのは昭和四十年代のことでした。「下町風俗資料館」、それは次第に下町を愛する人びとの間に広がり、やがて庶民の歴史である下町の大切な記憶を次の世代へ伝えるための資料館設立の構想が生まれたのです。これを実現するために台東区内外からたくさんの貴重な資料が寄贈されました。そして、多くの人びとの長い歳月をかけた願いが実り、台東区立下町風俗資料館は、昭和五十五年(1980年)10月1日に、ここ不忍池畔に開館いたしました。
下町風俗資料館の横に銅像が建っています。明治から昭和の彫刻家(彫塑家)で、「東洋のロダン」と呼ばれた朝倉文夫の作品だそうです。「metaphor」とは聞き慣れない言葉ですが、比喩(ひゆ)の表現形式のうち、「まるで〜」「〜のような」などの明確な比喩表現を使わずに、他の物事になぞらえて表現する比喩のことです。「暗喩」などとも呼ばれます。対義語は「直喩(シミリ)」です。
メタファー(暗喩): あなたは私の太陽だ
シミリ(直喩) : あなたはまるで太陽のような存在だ
生誕 朝倉文夫作
「生誕」は、新生日本で立ち上がる若人を釈迦誕生のポーズに重ねた作品で、永らく上野恩賜公園入口前で生誕噴水塔の象徴として、上野の街並みに潤いを与え、多くの人々に親しまれてきた。生誕噴水塔は、昭和三十九年(1964年)のオリンピック東京大会を機に、地元有志で結成された上野美化促進会による都市の美化と戦後復興を祈念して建設された後、円滑な交通の確保等に向けた上野中央通り地下駐車場の整備に伴い撤去された。再び東京でオリンピック・パラリンピック競技大会を迎えるにあたり、不忍池を望むこの地で「生誕」を継承し、昭和と令和の東京大会の象徴として、 とこしえに輝き続けることを祈念する。
Birth
Birth is a metaphor for Buddha's birth which envisions promising youths regaining strength in postwar Japan. As a symbol of the Birth Fountain Tower, Birth standing at the front gate of Ueno Park had been a beloved symbol for its blessing to the
streetscape of Ueno. As one of momentums of TOKYO 1964 Olympic Games, the Birth
Fountain Tower was built in 1964 in the hope of beautification as well as restoration in the post war, with funding from Ueno Beautification Promotion Association formed by local sponsors. The tower was dismantled later when Ueno Chuo-dori Underground Parking was built to ensure smooth traffic flow. The Birth stands here overlooking Shinobazu Pond to be inherited as an everlasting symbol of two Tokyo Olympic Games basking in glory; once in Showa period and once again in Reiwa period.
朝倉文夫 (生 明治十六年【1883年】、没 昭和三十九年【1964年】)
大分県生まれ。明治四十年(1907年)に東京美術学校(現 東京藝術大学美術学部)卒業後、下谷区天王寺町(現 台東区谷中)にアトリエと住居を構え、本格的に創作活動を開始。第2回文部省美術展覧会に出品した「闇」が最高賞を受賞し世に知られるように。以後、日本彫刻界を牽引する中心的な存在として活躍。昭和二十三年(1948年)には彫刻家として初めて文化勲章を受章。
ASAKURA Fumio (1883-1964)
Born in Oita Prefecture, ASAKURA began sculpting career after graduation from Tokyo Bijyutsu Gakko (Tokyo Fine Arts School, present Tokyo University of the Arts) in 1907. He opened his studio which also served as his residence in former Tennoji-machi, Shitaya-ku of Tokyo City (present Yanaka, Taito City). His sculpture work titled "Darkness" displayed at the 2nd Ministry of Education Fine Arts Exhibition won the highest prize and ASAKURA received recognition in Japan. Having played an active role as a leading sculpture in Japan, he was the first sculptor to receive the Order of Culture in 1948.
朝倉彫塑館 国指定名勝・国登録有形文化財
朝倉本人の設計によるアトリエと住居。現在、美術館「台東区立朝倉彫塑館」として公開。多数の作品やコレクションを展示。
ASAKURA Museum of Sculpture
National-designated Site of Scenic Beauty,
National-registered Tangible Cultural Property
The ASAKURA Museum of Sculpture formerly used as his studio and residence was designed by ASAKURA himself. The museum, today, is opened to the public as ASAKURA Museum of Sculpture, Taito. And exhibits his countless works and collection.
不忍池の辺に石造りの記念碑が建っています。日本で最初の駅伝が行われたことが記されています。ちなみに、奠都(てんと)とは、新たに都を定める事をいいます。明治維新に際して、明治天皇が京都から東京に移った時は、京都を都として残す形をとり、遷都(せんと)ではなく、東京奠都が行われました。
駅伝の歴史ここに始まる
我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が大正六年(1917年)年四月二十七日・二十八日・二十九日の三日間にわたり開催された。スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。
広場の中に、西条八十の歌碑が立っています。何故この場所と「かなりや」が結びつくのかといいますと、西条八十は一時上野の不忍池付近のアパートを借りて仕事をしていました。彼は子供の頃に麹町のある教会に連れて行かれ、教会の中で自分の真上にある電灯がひとつだけ消えていたのを見ました。この時、「ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥」・「唄を忘れたかなりや」のような印象を受けたのですが、生まれて数ヶ月の娘を抱いて上野公園近辺を歩いている際にその記憶を思い起こして作品にしたのが童謡の「かなりや」なのです。不忍池の歌碑は昭和三十五年(1960年)4月3日に、サトウ・ハチローらによる「西条八十会」によって建立されました。
うたをわすれた
かなりやは
ざうげのふねに
ぎんのかい
つきよのうみに
うかべれば
わすれたうたを
おもいだす
「Dコース」についても、要所要所に案内柱が立っています。観光地図も付いていて、見所ポイントを外すこともありません。
不忍池に浮かぶ弁天堂を見下ろす公園の高台に、朱色が鮮やかな見所ポイント@の「清水観音堂」が建っています。清水観音堂は京都の清水観音堂をモデルにして、寛永八年(1631年)に天海大僧正によって建立されました。本堂の正面を舞台造りにして、不忍池の景色を眺められるようになっています。御本尊は清水寺より迎えた千手観音像で、重要文化財に指定されています。
東叡山寛永寺 清水観音堂
清水観音堂の縁起
清水観音堂は、寛永八年(1631年)に慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正により天台宗東叡山寛永寺の参堂として建立されました。初めは「摺鉢(すりばち)山」に建てられ、その後、元禄初期に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時が明確な最古の建造物です。天海大僧正は寛永二年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と境内に建立していく中で、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立て、同じく舞台作りで建てられています。平成二年から文化財保存修理が行われ、平成八年に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。
ご本尊「千手観世音菩薩」の伝説
京都清水寺からご遷座された秘仏ご本尊・千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。合掌したお手・禅定印を結ぶお手の他に小さなお手が四十本あり、それぞれの小さなお手が、仏教で考えるあらゆる世界の生きとし生けるもののすべてに、慈悲の手をさしのべるお姿を表しています。また、「平家物語」に述べられる、主馬判官(しゅめのほうがん)平盛久(たいらのもりひさ)にまつわる伝説があります。
盛久は常日頃より清水寺へ参詣を続けていましたが、源平の合戦で敗れ、鎌倉で斬首されそうになります。その際に刀が折れて盛久の命が助かり、また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったので、驚いた源頼朝は盛久を助命しました。後に盛久が清水寺に参詣すると、盛久が斬首されそうになった際に観音像が倒れたという話を聞きます。こうして観音像に護られたことに気づいた盛久は感涙にむせんだ、という物語です。
この奇瑞が午の年・午の日・午の刻に起きたことに因み、ご開帳は年に一日、二月の「初午(はつうま)法楽」の日に行う縁起となっているのです。
お堂の右に祀られる脇尊の仏さまは「子育て観音」で、子授け・安産・子育ての観音さまとして多くの信仰を集めています。観音さまのご利益により子を授かった人々から、子供の健やかな成長を願って多くの身代り人形が奉納されており、これら人形の供養が、かわいがってきた人形に感謝する人形供養となって長年続けられています。人形供養は毎年九月二十五日十四時から行われます。
人形供養碑
清水観音堂に安置されている子育観音は子宝に恵まれない人々が信仰すると願いが叶うと言い伝えられています。そして子供が授かると丈夫に育つようにと人形を奉納します。その奉納された人形と家庭で飾ってよごれたり、子供と遊んでこわれたりした人形を秋の彼岸の終りにここに集めて読経のうえ荼毘に付します。それらの人形を回向し供養するためにこの碑が建てられたのです。
徳川十五代将軍慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(1868年)に大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志を募りました。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙しました。旧暦五月十五日の上野戦争は武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させました。生き残った小川ら隊士は、明治七年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立しました(なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されています)。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきました。現在、歴史的記念碑として、その管理は東京都に移されています。
彰義隊の墓(台東区有形文化財)
江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(1868年)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は、明治二年(1869年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(1881年)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
TOMB SITE OF SHOGI-TAI SOLDIERS
Shogi-tai was an army of the Edo shogunate, which was organized in 1868 to fight
against the Emperor at the end of The Edo era. They fought around here on fifteenth
of May in the same year. In those days Ueno-no-yama (Ueno hill) was in the precincts
of Kan-eiji temple (Tokugawa shogunate's family temple), where there were many
temples and pagodas. But the battle was so intense that almost all of them were
destroyed. The Shogi-tai was defeated by the evening of the day. The fight is called
Ueno war or fight of Shogi-tai. These two tombstones were erected for the Shogi-tai soldiers killed here. The small tomb stone in the front was erected by a priest of Kan-eiji temple in 1869 and the large stone in the back by a survivor, a soldier called Ogawa Okisato and several of his comrades. These tombstones were registered as important cultural assets in 1990 in the Book of Cultural Assets of Taito City.
観音堂を囲むフェンスの内側には1本の桜の木が植えられています。秋色桜といいますが、品種名ではなく、江戸時代の女性俳諧師の俳号に因んで名付けられたとのことです。早春の時期なので枯れ木同然です。
秋色桜
上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。
井戸ばたの
桜あぶなし
酒の酔
この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時十三歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。お秋は、九歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保十年(1725年)没と伝えられる。碑は、昭和十五年十月、聴鶯荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和五十三年に植え接いだもので、およそ九代目にあたると想像される。
SHUSHIKI CHERRY TREE
Ueno was very famous as a place of cherry blossom from the beginning of the Edo era. There were many species of cherry trees and some trees had even their own names; a typical one of them is the Shushiki Cherry Tree. In the Genroku period, a daughter named Oaki of a sweet shop in Koamicho, Nihonbashi wrote a Haiku poem, "Cherry blossom near a well are in danger by drunken fellows." This expresses
a scene of crowded cherry blossom viewers near a well. She was only 13 years old at that time, but had a pen name of Shushiki. Therefore, this cherry tree near the well was called "The Shushiki Cherry Tree."
上野公園の中には古墳もあるんですね。初めて知りました。摺鉢山古墳は紫竹川古墳群を構成する古墳のひとつで、前方後円墳の形状をしています。「摺鉢山」の名称は、墳丘の形状が擂鉢を伏せたように見えることに因んでいます。
摺鉢山古墳
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約千五百年前の前方後円形式の古墳と考えられている。現存長70m、後円部径43m、前方部幅は最大部で23m。後円部の道路との比高は5mである。丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。五條天神の創立年代は不明であるが、堯恵法師は「北国紀行」のなかで、文明十九年(1487年)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、
契りきて たれかは春の
初草に 忍びの岡の 露の下萌
と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。清水観音堂は、寛永八年(1631年)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、元禄年間(1688年〜1703年)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。
OLD TOMB ON MT. SURIBACHI
This mountain was called Mt. Suribachi (it means earthenware mortar) because its shape looks like the inverted earthenware mortar. From here, the earthenware of the Yayoi style as well as broken pieces of haniwa or clay images were found, so that it is
considered the relic of an ancient burial mound square at the head and rounded at the foot, constructed about 1,500 years ago. The present length is 70m, and the diameter of the circle at the back is 43m. As for the square part in front, the maximum width
is 23m. The difference in height with the path in the round part at the back is 5m. On the top of the mound, there was a shrine dedicated to the Gojo Tenjin shrine, and the Kiyomizu Kannondo (temple dedicated to a Kannon) was there, too. Now, it's used as
a resting place.
古墳の上は広場になっています。この下に卑弥呼のお墓があったりして。。。
俳人として知られている正岡子規は野球殿堂入りしていたんですね。
正岡子規記念球場
正岡子規(1867年〜1902年)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治十九年頃から同二十三年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。子規の随筆「筆まかせ」には、明治二十三年3月21日午後に上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に
描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成十四年に野球殿堂入りをした。子規が明治二十七年から同三十五年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2−5−11)の名で公開されている。上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。
春風や
まりを投げたき
草の原
見所ポイントAの「東京文化会館」は、「首都東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、前川國男氏設計による代表的なモダニズム建築により、東京都が開都500年事業の一環として建設し、昭和三十六年(1961年)4月にオープンした音楽の殿堂です。以来今日まで、オペラ・バレエ・クラシックコンサートなど、世界中の著名なアーティストによる数々の名演が繰り広げられ、音響の良さと相まって、その名は広く世界にまで知られています。大ホール(2303席)・小ホール(649席)・リハーサル室・各種会議室、さらに専門の音楽図書館である音楽資料室を備えています。
会館の入口広場に、初代東京都知事である安井誠一郎の胸像が建っています。
正三位勲一等・東京都名誉都民
昭和乙酉の戦災に逢い灰燼に帰した東京。今や殷賑を極め無限に膨張発展してやまない東京。この東京を語る時、われわれは常に名を憶い出さずにはいられない。君は岡山県の生れ。東京帝国大学卒業後宮界に入り要職を歴任したが、終戦直後東京都長官に任ぜられ、さらに昭和二十二年以来実に十二年の長きにわたって公選知事をつとめられた。首都圏構想の樹立、太平洋市長会議の実現、オリンピック東京大会の招致など、君の業績は数えきれないが、就中、廃墟と化した首都東京を、敗戦後の想像を絶する苦難の中で、見事復興させた努力と才腕と誠意とは永久に忘れることができない。いま、君が生前最後の偉業となった東京文化会館の一隅にこの像を建て君の偉業を偲び、永く記念するは都民の心である。
見所ポイントBの「国立西洋美術館」は、昭和三十四年(1959年)に開館した、西洋美術全般を対象とする美術館としては日本で唯一の国立美術館です。川崎造船所(現・川崎重工業)社長を務めた実業家松方幸次郎が20世紀初めにヨーロッパで収集した印象派などの19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションが基礎となっています。松方コレクションは第二次世界大戦後、フランス政府により敵国資産として差し押さえられていましたが、収蔵する美術館を新たに設置することを条件として返還されることとなり、国立美術館が建設されました。設計はル・コルビュジエが担当し、彼の弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が実施設計・監理に協力して完成しました。ル・コルビュジエによる設計の建築物としては日本で唯一のものとなっています。前川國男氏は東京文化会館の設計も行なっていましたね。
公園内には多くの彫像が建っていますが、野口英世の像もあります。
野口英世銅像
野口英世は、明治九年十一月九日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。三十一年、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、三十三年十二月に渡米、三十七年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正七年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和三年五月二十一日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年五十三歳。野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、制作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県大玉村出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和二十二年より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和二十五年には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。昭和二十六年三月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月二十一日に除幕式が行われた。なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和四十六年に会津会が設置したものである。
Bronze Statue of Noguchi Hideyo
Noguchi Hideyo was born in 1876 in Fukushima Prefecture. Going to the United States of America in 1900, he began research on the syphilis spirochete at the Rockefeller Medical Research Institute in 1904. From 1918 he continued his research in Central and South America, as well as Africa where he hoped to study Yellow Fever. However, before long, he himself contracted the disease and in 1928, at the age of 53, he passed away in what is now the country of Ghana. The approximately four and a half meter statue of Noguchi was made by Professor Yoshida Saburo of the Tama Art University. Heating a test tube in the midst of experimentation, the Latin words, "PRO BONO HUMANI GENERIS" ("For the Good of Humankind"), are inscribed on the stone base. Plans for erecting the statue began in 1947 when Tamao Fumio of Fukushima Prefecture initiated fundraising. The Japan Medical Association's Kitasato Institute continued with the Noguchi Hideyo Memorial Society after Mr. Tamao succumbed to illness. The fund drive was completed in March 1947.
見所ポイントCの「国立科学博物館」は、明治十年(1877年)に創設された国立唯一の総合科学博物館です(注記:現在では独立行政法人化によって国から切り離されましたが、その後も名称に「国立」を冠しているのは、海外との関わりにおいて国の機関であることを示す必要があるためです)。昭和六年(1931年)に建設されたネオルネサンス様式の「日本館」と、平成十一年(1999年)に新設された「地球館」から構成されています。「日本館」では、日本古来の生物の分布や人口・文化の変遷を五感で楽しめる演出で展示しています。「地球館」では、何億年前からの地球の歴史や成り立ち、恐竜の生態や種類、電気の発明から実用化までの経緯など、地球上のあらゆる物事に焦点を当てています。そのどれもがワクワクするような展示をされていて、単に剥製やテキストを見るのとは異なります。展示品をモチーフにしたオリジナル商品などを販売するミュージアムショップ、レストランやカフェ、そして地球館の屋上には見晴らしのいい「スカイデッキ」や「ハーブガーデン」もあります。
屋外には、シロナガスクジラの実物大模型(1994年3月完成)が展示されています。かつて存在したザトウクジラの模型(1973年3月完成)の代わりに作られた、最大級の個体の実物大の像です。
シロナガスクジラ Blue whale
Balaenoptera musculus (Linnaeus、1758年)
シロナガスクジラは、現在地球上に生息する最大の動物です。流線型の細長い体、小さい背ビレ、灰色のカスリ模様が特徴で、英語ではブルーホエールと呼ばれています。赤道付近をのぞく南北両半球の大洋に分布しますが、冬は繁殖のため暖かい海で過ごし、夏は冷たい海に回遊します。食物は主に体長5センチメートル程のオキアミなどで、群れを大量の海水ごと飲みこみ上顎のクジラヒゲでこしとって食べます。出産は2〜3年ごとで、体長約7メートルの子が生まれ、数年でおとなになります。20世紀初めには南極海だけて20万頭以上いたといわれていますが、1966年に捕鯨が完全に禁止されるまでに激減しました。今では全世界で1万頭程度といわれ、国際条約できびしく保護されています。この実物大の模型は、体長30メートル、体重約150トンのメスのおとなのシロナガスクジラが、海面での深呼吸を終えて急速に深く潜ろうとしているところです。
D51形蒸気機関車231号も展示されています。元々は、国鉄工場最終出場車として603号が保存される予定でしたが、保管してあった追分機関区の火災により焼失し、急遽代替で保存されました。なお、焼失した603号は前頭部のみが焼け残り、京都府の19世紀ホールに保存されています。
国立科学博物館の地球館の裏側(東側)には、ラムダロケット用ランチャーが展示されています。1970年2月11日に、日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げた際に使用されたランチャーです。
日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げた
ラムダロケット用ランチャー
重量47t・ブーム19m・発射角度約64度
昭和四十五年(1970年)2月11日、鹿児島県の東京大学宇宙航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構JAXA)から、世界最小(当時)の人工衛星を積んだラムダ4S型ロケット5号機(注1)が、ここに展示されているラムダロケット用ランチャーにより、「無誘導打ち上げ方式(重力ターン方式)」(注2)で打ち上げられた。打ち上げ場所となった大隅半島にちなみ「おおすみ」と名づけられたこの人工衛星は、33年間飛び続けた後、平成十五年(2003年)8月2日、北アフリカ上空で大気圏に再突入し、消滅した。昭和四十一年(1955年)の1号機から4度の失敗を乗り越え、人工衛星投入に成功。日本は昭和三十年(1955年)4月のペンシルロケット発射実験から、わずか15年でソ連(現・ロシア)、アメリカ、フランスに次ぎ、世界で4番目に人工衛星の打ち上げに成功した国となった。このランチャーは、昭和四十九年(1974年)まで一連のラムダロケットの実験に使用された後、当館に移管・展示されたものである。
注1
ラムダ4S型ロケット5号機
全長16.527m、直径0.735m、総重量9.399t
注2
無誘導打ち上げ方式(重力ターン方式)
この方式は日本で考えられたもので、第3段ロケットで投入軌道と水平になったときに、第4段に点火、制御し、人工衛星をただ1回の姿勢制御だけで軌道投入するものであった。軌道は、近地点高度335km、遠地点高度5、150km、軌道傾斜角31度の長楕円軌道であった。
日本学士院は日本の国立アカデミーであり、文部科学省の特別の機関です。1879年に東京学士会院として発足し、1906年に帝国学士院に改組され、1947年に日本学士院となりました。学士院会員は終身で、定員は150名です。欠員が生じた場合は、分科ごとに会員の投票により毎年12月に新会員が選定されますが、常に全欠員が補充されるわけではありません。年金として250万円が授与されます。
竹の台広場の中心に、2012年5月にリニューアルされた大噴水があります。竹の台とは、慈覚大師(794年〜894年)が唐の五台山から竹を根分けして持ち帰り、比叡山に移植したのを更に根分けして、寛永寺のこの噴水の付近に植えられたことから、この地名になりました。この竹は、現在、輪王寺と寛永寺の本堂前に移植されています。
大噴水の辺りには、幕末まで寛永寺の根本中堂が建っていました。しかし、1868年の彰義隊と、薩摩・長州を中心にした新政府軍(大村益次郎指揮)との戦争(上野戦争)により、寛永寺の伽藍はことごとく瓦礫と化し、その当時の様子は絵の中にのみ残っています。石碑に貼られた絵図は、初代歌川広重が当時の寛永寺の伽藍を描いたものです。
寛永寺根本中堂跡
江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。いま噴水池のある一帯を、俗に「竹の台」と呼ぶ。そこには廻廊がめぐらされ、勅額門を入ると、根本中堂が建っていた。根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。斎藤月岑作「武江年表」元禄十一年(1698年)の項には、「八月、東叡山寛永寺根本中堂、文殊楼、仁王門並びに山王社建立。二十八日中堂入仏あり。九月六日、瑠璃殿の勅額到着」とある。瑠璃殿は中堂の別称で、本尊を薬師瑠璃光如来ともいったのにちなむ。瑠璃殿は坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ、「竹の台(うてな)」と呼ばれた。竹の台はその名によるものである。慶応四年(1868年)五月十五日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。
The Site of Kanei-ji Temple Konponchu-do
In the Edo period the area of the present-day Ueno Park was the grounds of Kanei-ji Temple and it was full of temple buildings and monasteries. The area where the fountain and pond are now located was called "Take-no-Utena" (Pedestal of Bamboo). There were cloisters and if one passed through Chokugaku-mon Gate one would see Konponchu-do Hall. Konponchu-do was the central building of Kanei-ji, and inside it
Yakushi, the Buddha of Healing, was enshrined as the principal image. In front of Konponchu-do on both sides bamboo from Enryaku-ji Temple in Omi Province (present-day Shiga prefecture) was planted; hence the name Take-no-Utena. On 15th May 1868 this area was the site of a major clash between feudal and imperial forces in the civil war that led to the Meiji Restoration, and most of the buildings and cloisters of Kanei-ji Temple were burnt down.
大噴水の正面奥に建つ東京国立博物館の日本館には、やっぱり乃木坂46が。。。でも、何故?
上野公園は桜の名所ですが、そのルーツは奈良県の吉野にあるのだそうです。
吉野のヤマザクラ
この桜の木は上野恩賜公園開園130周年を記念して、奈良県吉野町にある金峯山寺(きんぷせんじ)から上野の寛永寺を通じて寄贈されたものです。江戸時代初期に天海僧正は、この地に寛永寺をひらき、吉野から取り寄せた山桜を植えました。それ以来、上野はお花見の名所となりました。
ヤマザクラ
日本に自生する野生のサクラの一種で、関東以南の野山にみられます。3月下旬〜4月上旬にわずかに赤く色づいた花と茶褐色の葉が同時にひらき、その調和美が昔から詩歌などに多く詠まれてきました。ソメイヨシノが植えられるまでは上野の山の桜の多くはヤマザクラであったといわれています。
慶応四年(1868年)の上野戦争によって荒れ果て、明治新政府が病院建設を決めていた上野の山を近代的な公園にすべきと提言した、長崎医学校教官でオランダの一等軍医であったボードウィンの胸像が建っています。ボードウィンは、文久二年(1862年)、長崎の出島に滞在していた弟の駐日オランダ領事アルベルトゥス・ヨハネス・ボードウィンの働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日しました。長崎養生所(明治維新後は長崎医学校)や大阪仮病院(現在の大阪大学医学部)で医学を教え、幕末から明治初期の日本の医学の発展に尽力しました。明治三年、和泉橋通りの旧藤堂邸にあった大学東校は、環境の良い地を求めて上野への移転計画を進めていました。7月には棒杭を打つ工事が始まっていましたが、当時大学東校(東京大学医学部の前身)で講義をしていたボードインは、石黒忠悳に上野を案内され、樹木を切り倒して建物を建てたりせず公園にすべきだと強く主張し、その結果大学東校は本郷の旧加賀藩邸に移転し、それが現在の東京大学になりました。現在のボードウィンの像は、2006年10月に新しく作り直されたものです。初代の像は博士ではなく、博士の弟をモデルにしていました。像を作る時にオランダの親族が写真を取り違え、弟の写真を渡していたのです。私は2006年以前にも彫像を見た筈ですが、全く気が付きませんでした。
ボードワン博士像
Dr.A.F Bauduin
オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。
騎馬姿の銅像が建っています。
小松宮彰仁親王銅像
彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(1858年)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(1867年)勅命により二十二歳で還俗、仁和寺宮と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征討大将軍として参戦。ついで奥羽会津征討越後口総督となり、戊辰戦争
に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
Bronze Statue of Prince Komatsu No Miya Akihito
Akihito was the eighth prince of Fushimi No Miya Kuniie. He joined the Toba-Fushimi
war in January, 1868 as the commander-in-chief and also took part in the Boshin war.
In 1877 he established an organization called "Hakuai-sha" to help the wounded of the
Seinan war and headed the association. When it was renamed "Japan Red Cross Society,"
he assumed office as its president and contributed to the development of the society. He passed away at the age of 58 on the eighteenth January, 1903. This bronze statue was erected in February of 1912. The sculptor was Okuma Ujihiro, a Bunten art exhibition judge.
公園内にはグラント将軍夫妻手植えの木が育っています。
グラント将軍植樹碑
明治十年(1877年)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。
Memorial Tree planted by General Grant
General Ulysses Simpson Grant had served in the American Civil War as a colonel in the volunteer corps of the northern forces. Distinguishing himself on the battlefield, he later became Supreme Commander and led the northern forces to victory. In 1869 he was
made president of the United States of America and remained in office for two terms until 1877. From 1877 to 1880 General Grant toured the world with his family. He came to Japan and on August 25th 1879 at the large reception given for him here in Ueno Park he planted an cypress and his wife The trees they planted have planted a yulan in commemoration. now grown large.
上野公園内には東照宮が鎮座しています。日光東照宮・久能山東照宮・芝東照宮と並んで四大東照宮のひとつに数えられています。他の東照宮と区別するために、上野東照宮とも呼ばれています。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜が祀られています。境内のぼたん苑では、一年を通じて牡丹の栽培が行なわれています。1年に3回公開され、4月上旬から5月上旬は地植えの牡丹中心の「春のぼたん祭」、元日から2月下旬には特別に冬に開花するよう促成栽培した冬牡丹を展示する「上野東照宮・冬ぼたん」が開催されます。9月下旬から10月下旬にはダリアの展示が開催されます。
上野東照宮 ぼたん苑
春のぼたん祭
牡丹の花は「富貴」の象徴とされ、「富貴花」「百花の王」などと呼ばれています。日本には奈良時代に中国から薬用植物として伝えられたと言われています。江戸時代以降、栽培が盛んになり数多くの牡丹の品種が作り出されました。上野東照宮ぼたん苑は、昭和五十五年(1980年)に日中友好を記念して開苑し、現在は中国牡丹、アメリカ品種、フランス品種を含め500株以上の牡丹があでやかに咲き誇ります。
■開苑期間:4月中旬〜5月上旬
冬ぼたん
牡丹には二期咲き(早春と初冬)の性質を持つ品種があり、このうち冬咲きのものが寒牡丹と呼ばれています。寒牡丹の花は自然環境に大きく左右され、着花率が低く、二割以下といわれています。そこで、花の少ない冬に、お正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが冬牡丹です。春夏に寒冷地で開花を抑制、秋に温度調整し冬に備えるという作業に丸二年を費やし、厳寒に楚々とした可憐な花をつけます。
■開苑期間:1月1日〜同年2月中旬
Spring Peony Festival
The peony bloom represents "Wealth and Honors" and is called the "Wealth and Honors Flower" or "King of One Hundred Blooms". It was said to have been introduced to Japan in the Nara Period as a medicinal plant from China. Cultivation has increased since the Edo Period and now there are many local cultivars. The Ueno Toshogu Peony Garden was opened in 1980 to commemorate Sino-Japanese friendship and today is home to more than 500 plants including Chinese, American and French varieties, all blooming brightly.
Garden Open: Mid-April to Late May
Winter Peony
Peonies are unusual in that they have two seasons of blooms, in spring and early
winter. Some "cold peonies" also bloom in winter. The flowers of winter peonies are highly dependent on their natural environment with a very low blooming rate, said to be less than twenty percent. In this way Winter Peonies are seen as auspicious flowers for the new year, when few flowers are to be found, and this has driven a controlled cultivation technique. The blooms are prevented from forming in spring and summer in cold regions and then adapted to temperature in the fall to prepare for winter. This work requires two full years but allows these beautiful flowers to bloom gracefully in the harsh winter.
Garden Open: January 1 to Mid-February
巨大な石灯籠が建っています。
お化け燈籠
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
東照大權現御宝前石燈籠
寛永八年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永八年(1631年)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.63メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。
A HUGE STONE LANTERN (MONSTER LANTERN)
This huge garden lantern made of stone was offered as a gift from Sakuma Daizennosuke Katsuyuki to the Toshogu shrine in 1631. It is said to be one of the three great stone lanterns in Japan, together with those in Nanzen-ji temple of Kyoto and in Atsuta Jingu shrine. The dimensions of the lantern are impressive, its height being 6 meters and the perimeter of the capping stone 3.6 meters. Because of its great size, people commonly call it "Monster Lantern."
小高い丘の上にパゴダ(仏塔)が聳えています。
上野大仏とパゴダ
正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。最初の大仏は、越後(現、新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永八年(1631年)に造立した二メートル八十センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保四年(1647年)の地震により倒壊してしまった。明暦〜万治年間(1655年〜1660年)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、三メートル六十センチをこえる青銅製の堂々たる釈迦如来像を造立した。その後、元禄十一年(1698年)輪王寺宮公弁法親王が、同像を風から覆うための仏殿を建立。天保十二年(1841年)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、一年半後の天保十四年には、最初の造立者堀直寄の子孫直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政二年(1855年)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。しかし、明治六年上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に同九年・同十年の二説あり)大正十二年の関東大震災では大仏の頭部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では、昭和四十七年丘陵上の左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和四十二年三月着工、同年六月に完成した。高さ十五メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。
UENO GREAT BUDDHA AND PAGODA
During the Edo period within the precincts of Kanei-ji temple, there was a great
Buddha statue on top of hill in front of you. This site is known as "Daibutsu yama"
(Great Buddha hill). In 1631, the first great Buddha was created by a feudal lord Hori Naoyori. Lord Hori governed the area around Murakami in Niigata Prefecture. It was a seated Buddha of 2.8 meters in height, but was destroyed by an earthquake in 1617.
The second Buddha was created by the monk Jyoun who collected (donations) money
from Edo citizens. It was also a seated Buddha 3.6 meters tall. The face of the second Buddha images fell off during the Great Kanto Earthquake in 1923, and later the body and pedestal were delivered to the government under the Metal Acquisition Law, which ordered the delivery of metallic goods owned by citizens to the government, to produce weapons during the WWII. Only the face remains at Kanei-ji temple. In 1967 a wall was built on top of the hill and the Buddha head was enshrined on the wall in a relief style setting. Then in 1972 the Ueno Tourist Association built the current pagoda, including three Buddhist images of Yakushi Nyorai (Physician of souls), Gakko Bosatsu and Nikko Bosatsu.
現在は、大仏様のお顔だけが残されています。
幾多の難を乗り越えた上野大仏
この大仏は寛永八年(1631年)、越後国村上城主であった堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃(1655年〜1660年)木食浄雲(もくじきじょううん)という僧侶により高さ六メートルの銅仏に改められました。また元禄十一年(1698年)には輪王寺宮公弁法親王により大仏殿が建立され、伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治六年に大仏殿が解体され、さらに大正十二年の関東大震災でついにお顔が落ちてしまったのです。その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画もありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次世界大戦時に供出されてしまいました。昭和四十七年春、再び旧地に迎えられた大仏は、建立当初よ(り)大きくお姿を変えましたが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めています。
上野精養軒は、上野公園の開設に伴い、創業者である北村重威が園内の食事処と社交の場を併せ持つレストランとして明治九年(1876年)に不忍池畔に開業しました。日本におけるフランス料理店の草分けで、明治期には国内外の王侯貴族や名士達が馬車で駆けつけるなど、鹿鳴館時代の華やかな文明開化を象徴する存在でした。夏目漱石や森鴎外の文学作品にも登場しています。伝統のドミグラスソースを使ったハヤシライスが名物です。
上野精養軒の先に、見所ポイントDの「花園稲荷神社」があります。
花園稲荷神社の御縁起 御由緒
鎮座の年月、由緒は不詳ですが、住古より此地にあり、「穴の稲荷」又は「忍岡稲荷」と云われました。承応三年(330年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました。この附近より北西一帯が寛永寺のお花畑であったので、明治六年花園稲荷と改名し、昭和三年現社殿にお遷ししました。旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ、晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。安産の神とも云い、特に縁談・金談の願がけにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。
花園稲荷神社本殿に続く参道には幾つもの鳥居が並んでいます。鳥居の先には短い階段が下っています。稲荷坂は長さが約15mほどの階段で、坂名の由来は、花園稲荷神社に下りる階段ということでこの坂名になったと思われます。階段上の鳥居の下に案内柱が立っています。
稲荷坂
花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保十七年(1732年)の「江戸砂子」にその名がみえ、明治二十九年(1896年)の「新撰東京名所図会」には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。
花園稲荷神社本殿に隣り合って五條天神社があります。
五條天神社縁起 御由緒
第十二代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ、平成二十二年五月御鎮座1900年大祭が行われる、東都屈指の古社であります。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には昭和三年九月に御遷座になりました。
見所ポイントEの「不忍池弁天堂」は、江戸初期の寛永年間に天台宗東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正(1536年〜1643年)によって建立されました。天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守勝隆公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺」に見立てたお堂を建立したのです。琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない不便だという理由で寛文十年頃に陸道が造られました。昭和二十年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和三十三年(1958年)に復興し、また昭和四十一年(1966年)には、芸術院会員であった児玉希望画伯による龍の天井絵が奉納されました。
陸道の正面に位置するのは大黒堂です。
東叡山 寛永寺 不忍池辨天堂 大黒堂
■大黒天とは
このお堂は、豊臣秀吉公が大切に護持したと伝わる大黒天が祀られる、東叡山寛永寺(天台宗)の伽藍の一つです。大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間を支配する恐ろしい神と考えられてきました。やがて日本に仏教が伝わり、民間信仰の対象となってからは、日本古来の福神の大国主命と同体である(大黒と大国は同音であるため)という考えが生まれて武神から福神へと変化し、広く親しまれるようになりました。打ち出の小槌や米俵に乗って福袋を担ぐお姿で知られる大黒天のご利益は、開運招福や家門繁栄、富貴をもたらすなどであり、また寺院の食料の守護神として祀られるようになりました。この大黒堂は太平洋戦争で焼失しましたが、ご本尊の大黒天は安泰で、昭和四十三年に旧位置に再建されました。
■大黒さまの縁日「甲子(きのえね)」
大黒天の縁日である「甲子の日」は、毎日に干支を当てはめると最初に当たる日です。そのため物事をはじめるのに縁起を担ぐ習慣が昔からあり、大切にされてきました。また大黒天が食料の守護神とされたことから、鎌倉時代にはその使いが鼠(ねずみ)と考えられるようになりました。子(ね)を鼠と結びつかせ、鼠を大黒天の使者とみなして甲子の日に大黒天祭(甲子祭)が行われ、甲子待(かっしまち)と言って、子の刻(二十三時頃)過ぎまで起きて大豆、黒豆、二股大根などをお供えし、大黒天を祀るという習慣に通じました。
■辯天さまと大黒さま
辯才天を祀る辯天堂の境内になぜ大黒天が祀られているのでしょうか。これは、大黒天と毘沙門天と辯才天が合体した「三面大黒」にその淵源を探ることが出来ます。大黒天は「食料や富を授ける」、毘沙門天は「武力や勇気を授ける」、辯才天は「美や才能を授ける」福神とされ、六本の手には衆生を救済し福徳を授けるとされる様々な道具も持っており、合体することでよりご利益が増えると考えられました。この三面大黒を最初に信仰されたのが日本天台宗の宗祖である伝教大師最澄さまであり、また豊臣秀吉公も出世を願って三面大黒を信仰したことで「豊太閤」となったと伝えられています。
☆江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」の大黒天は、寛永寺の旧釈迦堂である護国院に祀られています。
辨天堂は、大黒堂の横手にあります。本来ならば位置関係は逆のような気がします。
弁天堂
寛永二年(1625年)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661年〜1672年)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。弁天堂は、昭和二十年の空襲で焼失し、昭和三十三年九月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保三年(1832年)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。大祭は、九月の巳の日で、已成金という。
BENTEN-DO
This Benten-Do was constructed by Mizunoya Katsutaka in the early 17th Century. He was a lord of the present day Shimodate city, Ibaraki prefecture area. He made a man made island and made it a subsidiary of the Benten at the Hogon-ji temple on Chikubu Island in Lake Biwa (Shiga prefecture). At the time, it seems that crossings to the island were made by boat but a stone bridge was erected in the late 17th Century and since then it has been visited by many people. The original hall and important Cultural Assets were destroyed by a US air raid in 1945. It was rebuilt in 1958. The "Kin ryu (golden dragon)" on the ceiling of the hall is a work by the painter Kodama Kibo and the dragon on the ceiling of the water basin was painted by the famous early 19th Century artist Tani Buncho.
もうひとつ、辨天堂の案内板があります。
東叡山 寛永寺 不忍池辨天堂
■辯天堂の縁起
このお堂は、江戸初期の寛永年間に、東叡山寛永寺(天台宗)の開山、慈眼大師天海大僧正によって建立されました。天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく建立するにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。不忍池は、辯天さまの持つ琵琶の形に似ている滋賀県の琵琶湖に見立てられ、また元々あった聖天(しょうてん)さまが祀られた小さな島は竹生島に見立てられ、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して、島を大きく造成することで竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)」を見立て、このお堂を建立したのです。太平洋戦争の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、昭和三十三年(1958年)に復興し、また昭和四十一年(1966年)には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が、また門下による季節の花の絵が奉納されました。
■辯才天の縁日「巳の日」
辯天堂にお祀りされるご本尊さまは秘仏「辯才天」です。学問や音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯財天」とも書くことから、金運上昇といったご利盆があります。なおこのお堂の辯才天は、八本の腕それぞれに悪や災難を遠ざける徳の象徴である仏具を持つ「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」さまです。辯才天は、もともとインドのサラスヴァティー河の神格化から生まれたインド伝来の女神です。そのため河川が曲折して土地を「蛇行」することから、水と蛇と深い関わりがあると古来より考えられました。そのためこのお堂では毎月の「巳の日」を縁日としています。またこのお堂のご本尊さまは、顔が翁で体が蛇というお姿の「宇賀神」を頭上にいただいています。辯才天と宇賀神はいずれも水と深く関わり、水は豊かな産物の元であることから、どちらも五穀豊穣につながる福神として古来より信仰されてきました。毎年九月に行われる「巳成金(みなるかね)大祭」では、年に一度の秘仏ご本尊のご開帳と、小判のお守りや福財布をお授けしています。
■七福神のはなし
不忍池辯天さまは江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」のひとつです。七福神への信仰は江戸時代に大変に盛んになりましたが、これを広めたのが天海大僧正であったと言われています。当時は七福神が宝船に乗った絵を正月に買い求め、枕の下に敷いて「よい初夢」を期待するという風習が広く行われていました。現在も谷中七福神めぐりの期間は多くの参詣者を集めています。
弁天島には多種多様の石碑が建てられています。「めがね之碑」が何故弁天島にあるのかといいますと、慈眼大師(天海)に縁があるからとのことです。「慈眼」という称号は朝廷から賜ったとのことですが、その理由は分かりません。
めがね之碑
眼鏡がはるかに海を越え、我が日本に渡来したのは四百二十余年前のことであります。文化の発達につれてめがねの需要も増大し、文化・政治・経済に貢献した役割は誠に大なるものがあります。その間、業界先覚者の研鑽努力により今日の発展をみるに至ったことを回想。明治百年を記念して、その功績を顕彰し、慈眼大師ゆかりの地上野不忍池畔にその碑を建立し、感謝の念を新たにするものであります。
鳥塚や包丁塚まであります。弁財天様は料理の神様なのでしょうか?
「不忍池」の名前は、かつて上野台地と本郷台地(向ヶ岡)の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来するとの説があります。他には、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説、ここで男女が忍んで逢っていたからという説があります。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていたそうです。
SHINOBAZU POND
A charming pond with scenes for every season, such as cherry blossoms, lotus, and migrating birds. In the center you can see Bentendo Temple.
上野動物園の池之端門の内側には、見所ポイントFの「両生爬虫類館」の建物があります。「両生類」の言葉の意味は、「水中と陸の両方で生きる」ということです。子(幼生)の時は水中生活していますが、親(成体)になると多くは陸に上がります。しかし、乾燥に強くないので、水辺や湿ったところで生活します。両生類は尾のないカエルと、尾のあるイモリ・サンショウウオのふたつのグループに分けられます。一方、爬虫類は、幼生期から肺で呼吸ができます。両生類から進化し、初めて陸で生活できるようになった最初の動物です。多くは卵生ですが中には胎生の種類もいます。体表はケラチン質の硬い鱗(ウロコ)で覆われ、素早く動けるように4本の足を持つようになりました。カメ・ヘビ・トカゲ(イグアナ・ヤモリ・カメレオン)・ワニなどが爬虫類の代表です。両生爬虫類館は、熱帯の自然をテーマに、大きな温室の空間の中に熱帯のジャングル・サバンナ・砂漠の環境を作り、それぞれの気候帯にふさわしい植物を植えて動物と植物が一体となった自然環境を楽しむ施設です。爬虫類・両生類・魚類など約100種600点を展示しています。
不忍通りの反対側に、横山大観記念館があります。横山大観は、近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体」と呼ばれる線描を抑えた独特の没線描法を確立しました。横山大観は大変な酒好きとして知られ、人生後半の50年はご飯をほとんど口にせず、酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたといわれています。飲んでいた酒は広島の「醉心」で、これは昭和初期に広島・三原の醉心山根本店の三代目社長・山根薫と知り合った大観が互いに意気投合し、「一生の飲み分を約束」した山根から無償で大観に送られていたものでした。しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたとそうです。代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、醉心酒造に「大観記念館」ができることとなりました。
横山大観旧宅及び庭園(史跡及び名勝)
日本画家である横山大観が、明治四十一年(1908年)から昭和三十三年に没するまで、自宅兼画室として使用していた場所である。横山大観は、明治元年に茨城県に生まれた。同二十二年、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学して岡倉天心・橋本雅邦らに師事した。卒業後は天心・雅邦・下村観山・菱田春草らと日本美術院を設立し、同院が茨城県五浦に移転の際には、大観も居を移した。明治四十一年に五浦の居宅が全焼したことを機に、再び上京し、この地に自宅を構えた。旧宅は、昭和二十年の空襲で蔵を除き全焼したが、同二十九年、大観の強い意思でほぼ同様に再建された。建物は木造二階建ての数寄屋風日本家屋である。一階には鉦鼓洞(客間)、第二客間、寝室、台所等の居住空間が設けられ、二階には画室がつくられた。庭園も空襲によって甚大な被害を受け、多くの樹木が失われたが、再建に合わせてほぼ旧態に復された。横山大観旧宅及び庭園は、大観が自ら趣向を凝らして造営したもので、大観の思想や感性が随所に反映されている。実際に創作活動が行われた場であり、庭園内の素材に取材した作品も多い。昭和五十一年に横山大観記念館として一般に公開された。また平成七年に台東区史跡として登載され、同二十九年、国史跡及び名勝に指定された。
Former Residence and Garden of Yokoyama Taikan
Yokoyama Taikan, one of the best-known painters in modern Japan, used this house as his residence and as his studio from 1908 until his death in 1958. Yokoyama Taikan was born in 1868 in Ibaraki Prefecture. In 1889, he was admitted to the Tokyo School of Fine Arts (present-day Tokyo University of the Arts) where he studied under Okakura Tenshin, Hashimoto Gaho, and other established artists. After graduating, Taikan, together with Tenshin, Shimomura Kanzan, and others. established Nihon Bijutsu-in (Japan Art Institute). When Nihon Bijutsu-in was relocated to Izura in Ibaraki Prefecture, Taikan moved as well. However, he moved back to this location because his house in Izura was lost to a fire in 1908. The residence was burned down during a bombing raid in 1945, but in 1954, it was rebuilt almost to its original state with the strong desire of Taikan himself. The present-day building is a two-story wooden structure built in the traditional Japanese sukiya style. The first floor consists of a parlor (named Shoko-do), bedroom, tea room, kitchen, etc. Shoko-do was built on top of the foundation of the original structure that remained after the fire. The second floor was his studio. It has windows on the east and the south sides that let in plenty of natural light. The garden suffered massive damage from the bombing raid and most of the trees were destroyed, but it was later restored almost to its former state when the house was rebuilt. Both the residence and the garden were reconstructed under the supervision of Taikan, so his thoughts and sensibility are strongly reflected in their designs. Taikan created various artworks in his studio and many of them depict the plants and materials in the garden.
見所ポイントGの「上野恩賜公園野外ステージ(旧名:水上音楽堂)」は、上野公園の南端の不忍池の畔にある野外ステージで、昭和二十八年(1953年)にオープンしました。当初野球場を造る計画でしたが、地元の要望で音楽堂が建設されました。雨天時にも利用可能で日除けともなる開閉式屋根や高い防音シェルターが張りめぐらされています。客席は約1000人収容可能で規模は大きくありませんが、各種のコンサートや集会などに利用されています。平成二十年8月〜9月にかけて屋根の張替えとすべての座席の塗装を行い、リニューアルオープンしました。ん?去年改装した割には随分と古ぼけているような。。。
不忍池は蓮で覆われています。
蓮(ハス)を知ろう
ハスは、ハス科ハス属に属する大型の抽水植物であり、熱帯〜温帯アジア、オーストラリア北部及び南北アメリカなどに分布しています。ハスには、熱帯及び温帯東アジアを中心に、東は日本、西はカスピ海近く、南はオーストラリア北部に分布する東洋産種のハスと、北米東部及び南米北部に分布するキバナバスとの2種に分類されます。東洋産種のハスの花色は、紅色、白色なのに対し、キバナバスの花色は黄色です。不忍池には左の浮世絵にもあるように、古くからハスが植えられていました。
不忍池の蓮の歴史についても解説されています。
不忍池と蓮(No.1)
先史時代の不忍池は、武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に挟まれた入江でした。その後、海岸線の後退とともに取り残されて池になったと考えられています。江戸時代以前は、不忍池のあたりは沼地で、藍染川が流れ込み、不忍池のあたりから先は忍川となって、隅田川へと流れていました。不忍池にいつごろからハスがあったかですが、延宝五年(1677年)に出版された 「江戸雀」という本に不忍池のハスが詠み込まれた和歌が載っていることから、この頃には不忍池にハスがあったことが分かります。
涼しやと池の蓮を見かへりて
誰かは跡をしのばずの池
不忍池と蓮(No.2)
不忍池にいつ誰がハスを植えたかは分かっていません。不忍池のハスを調査した大賀一郎博士は「不忍の蓮」という文章の中で、「不忍池にハスを植えたのは、上野桜ヶ丘に別邸があった林道春(林羅山)かと考えたが、 彼の著作にハスに関する記述がないことから、寛永寺を造営した天海和尚か、不忍池の弁天島を作った水谷伊勢守ではないかと考えるようになった」という趣旨のことを書いています。植えられたハスの品種も不明ですが、江戸時代の書物には紅色と白色のハスがあったことが記述されています。昭和十年の大賀博士の調査では、不忍池には10品種のハスが生育していたことが確認されています。そのような不忍池ですが、第二次世界大戦中は水田として利用されていました。終戦後、蓮池を復元するために水を戻し、ハス苗の収集と植付が行われました。現在、不忍池にあるハスは、これらのハスが交雑したものと考えられます。
ゴール地点の下町風俗資料館に戻ってきました。
今回のコースでは上野公園を一周しましたが、遅ればせながら上野公園の案内板を見つけました。
下町まちしるべ 旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽・藤堂・堀家の屋敷であったが、徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(1625年)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが、慶応四年(1868年)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより、施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言し実現したものである。
ということで、台東区で4番目の「Dコース」を歩き終えました。前回の「Cコース」と重複するところもありましたが、やはり上野公園は観光ポイントが目白押しですね。次は「Eコース(谷中地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。こちらも「Cコース」と重なる区間がありますが、改めて谷中の魅力を探りたいと思います。
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