- Eコース(入谷地区健康推進委員おすすめ)
入谷地区健康推進委員より一言
入谷地区健康推進委員の活動の特徴
入谷地区の目標である「男性の多くの参加」をより一層推し進めるため、ウォーキング等を企画しながら活動しています。
歩行距離:4.2km、歩行時間:63分、消費カロリー:189kcal、歩数:6、000歩
コース 踏破記
今日は台東区の「Eコース(入谷地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。国立科学博物館をスタート地点として、上野公園・谷中の寺町から幾多の名士が眠る谷中霊園を巡ります。
スタート地点:国立科学博物館
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- @旧東京音楽学校奏楽堂
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- A寛永寺
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- B下町風俗資料館付設展示場
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- Cスカイザバスハウス
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- D築地塀
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- E瑞輪寺
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- Fヒマラヤ杉
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- G一乗寺
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ゴール地点:天王寺
スタート地点の国立科学博物館から歩き始めます。国立科学博物館は上野公園の中にあります。
下町まちしるべ 旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽・藤堂・堀家の屋敷であったが、徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(1625年)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが、慶応四年(1868年)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより、施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言し実現したものである。
国立科学博物館は、明治十年(1877年)に創設された国立唯一の総合科学博物館です(注記:現在では独立行政法人化によって国から切り離されましたが、その後も名称に「国立」を冠しているのは、海外との関わりにおいて国の機関であることを示す必要があるためです)。昭和六年(1931年)に建設されたネオルネサンス様式の「日本館」と、平成十一年(1999年)に新設された「地球館」から構成されています。「日本館」では、日本古来の生物の分布や人口・文化の変遷を五感で楽しめる演出で展示しています。「地球館」では、何億年前からの地球の歴史や成り立ち、恐竜の生態や種類、電気の発明から実用化までの経緯など、地球上のあらゆる物事に焦点を当てています。そのどれもがワクワクするような展示をされていて、単に剥製やテキストを見るのとは異なります。展示品をモチーフにしたオリジナル商品などを販売するミュージアムショップ、レストランやカフェ、そして地球館の屋上には見晴らしのいい「スカイデッキ」や「ハーブガーデン」もあります。屋外には、シロナガスクジラの実物大模型(1994年3月完成)が展示されています。かつて存在したザトウクジラの模型(1973年3月完成)の代わりに作られた、最大級の個体の実物大の像です。
シロナガスクジラ Blue whale
Balaenoptera musculus (Linnaeus、1758年)
シロナガスクジラは、現在地球上に生息する最大の動物です。流線型の細長い体、小さい背ビレ、灰色のカスリ模様が特徴で、英語ではブルーホエールと呼ばれています。赤道付近をのぞく南北両半球の大洋に分布しますが、冬は繁殖のため暖かい海で過ごし、夏は冷たい海に回遊します。食物は主に体長5センチメートル程のオキアミなどで、群れを大量の海水ごと飲みこみ上顎のクジラヒゲでこしとって食べます。出産は2〜3年ごとで、体長約7メートルの子が生まれ、数年でおとなになります。20世紀初めには南極海だけて20万頭以上いたといわれていますが、1966年に捕鯨が完全に禁止されるまでに激減しました。今では全世界で1万頭程度といわれ、国際条約できびしく保護されています。この実物大の模型は、体長30メートル、体重約150トンのメスのおとなのシロナガスクジラが、海面での深呼吸を終えて急速に深く潜ろうとしているところです。
見所ポイント@の「旧東京音楽学校奏楽堂」は、日本で最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホールとされています。奏楽堂は東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校のオーディトリウム(演奏会場)として明治二十三年(1890年)に建設されました。中央家と翼家からなり、奏楽堂は中央家2階にある講堂兼音楽ホールのことですが、現在では建物全体の名称となっています。
旧東京音楽学校奏楽堂(重要文化財)
この建物は、明治二十三年(1890年)東京音楽学校(現東京芸術大学)本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育の記念碑的な存在である。中央天井をヴォールト状(かまぼこ型)に高くし、視覚、排気、音響上の配慮がなされている。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ、遮音効果をあげるなど技術的な工夫があり、貴重な建築物である。この奏楽堂からは、滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきたが、老朽化が進み、取壊しの危機にひんしていた。しかし、音楽関係者を始めとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和六十二年三月、歴史と伝統を踏まえ、広く一般に活用されるよう、この地に移築復元された。また、移築工事とあわせて、日本唯一の空気式パイプオルガンも修復され舞台中央に甦った。昭和六十三年一月十三日付で国の重要文化財に指定された。
SYMPHONY HALL OF THE OLD TOKYO MUSIC SCHOOL
This structure was constructed as the main building of the Tokyo Music school (present Tokyo University of Arts) in 1890. The designers were Yamaguchi Hanroku and Kuru Masamichi, and it was the first full-scale music hall. Therefore, it is a kind of
monument for music education in this country. From this symphony hall, many musicians including Taki Rentaro emerged. However, superannuation of the building went on, and it was in danger of being demolished. Due to the endeavors of those concerned with music and other people, however, it was relocated to this place in March 1987 with its original appearance restored. In coinciding with the relocation work, the only pneumatictype pipe organ in Japan was repaired, and resurrected in the center of the stage. It was designated as an important cultural asset of the nation in January 1988.
奏楽堂の傍らには、明治期の日本の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家のひとりで、東京音楽学校の卒業生である瀧廉太郎の銅像が設置されています。
旧博物館動物園駅は、かつて上野公園にあった京成電鉄本線の駅です。昭和八年(1933年)の京成本線開通に合わせ、東京帝室博物館・東京科學博物館・恩賜上野動物園・東京音樂學校・東京美術學校・旧制第二東京市立中学校などの最寄り駅として開業しました。老朽化や乗降客数の減少により、平成九年(1997年)に営業休止となり、平成十六年(2004年)に廃止されました。地下施設のホームや改札は現在でも休止前の状態を保っていて、電車がホームを通過するわずかな時間ですが見ることができます。
日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正十三年(1924年)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和三年(1928年)に竣工したのが黒田記念館です。館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。昭和五年(1930年)には、記念館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、日本・東洋美術に関する調査研究業務が行われてきました。平成十二年(2000年)の新庁舎の竣工により、東京文化財研究所の全ての業務が新庁舎に移ったのに伴い、黒田記念館が昭和初期における美術館建築(岡田信一郎設計)として貴重なものであることから、創建当初の姿に復することとなりました。そこで、2階部分を中心に改修が行われ、平成十三年(2001年)9月に開館、平成十四年(2002年)に国の登録有形文化財となっています。
国際子ども図書館は、児童書を専門に扱う図書館サービスを行う国立国会図書館の支部図書館で、2000年に日本初の児童書専門の国立図書館として設立されました。日本内外の児童書および児童書に関わる文献の収集・保存・提供を始めとして、児童書関連の図書館サービスの日本における中枢および国際的な拠点となっています。国際子ども図書館レンガ棟の前身である旧帝国図書館は、ルネサンス様式を取り入れた明治期洋風建築の代表作のひとつで、久留正道により設計されました。旧帝国図書館は1906年竣工の第一期工事と1929年竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリートでした。平成十一年(1999年)に東京都選定歴史的建造物に選定されています。児童書専門の図書館とは思えないほど重厚感に満ちていますね。
東京都選定歴史的建造物 国際子ども図書館(旧帝国図書館)
設計者 久留正道 真水英夫 岡田時太郎
建築年 明治三十九年(1906年)3月
昭和 四年(1929年)
この図書館は、明治五年8月湯島の聖堂内に開館した書籍館(文部省博物局所管)以来の伝統を受け継いでいる。書籍館は幾度か名称の変更を経て、明治三十年4月に帝国図書館となった。この建物は同三十九年3月帝国図書館新築工事の第一期分として竣工したものである。当初の建設構想は大きく、全部が完成すると東洋一の図書館になる予定であったが、当時の財政事情により全体の四分の一程度が完成するに留まった。その後、建物の左側の部分が昭和四年に増築され、現在の規模となった。昭和二十四年からは、国立国会図書館支部上野図書館として一般公衆の利用に供することを主たる目的として運営されてきたが、改修工事を行い、平成十二年5月5日国立国会図書館国際子ども図書館として開館、現在に至っている。躯体はほぼ創建時のままとすることで、全体として洗練されたネオ・ルネッサンス調の風格のある建築となり、明治の雰囲気を今に残している。
敷地内には、小泉八雲の記念碑も建っています。詩人として有名な土井晩翠は東京帝大時代の小泉八雲の教え子でした。土井晩翠の長男英一は小泉八雲に傾倒していましたが、大学在学中に結核のため23歳で亡くなってしまいました。碑文には、英一の遺言により、父晩翠(本名林吉)が広く国民に見てもらえる場所であることから昭和十年にこの記念碑を帝国図書館前庭に建立したということが書かれています。記念碑には、小泉八雲のレリーフがはめ込まれていて、その台上には天使が壺を囲む銅像「蜜(小倉右一郎作)」があります。
小泉八雲記念碑
先生、原名ハらふかぢお・へるん。英国ノ人。西紀千八百五十年、地中海ノれふかす島ニ生レ、四十一歳ニシテ来朝シ、尋デ帰化シ、姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ。職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ、英文学ヲ教授シ、日本ニ関スル著述頗ル多シ。千九百四年、東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル。先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言ニ因リ父林吉、松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ。小倉右一郎、コレガ彫刻設計ヲ為ス。
見所ポイントAの「寛永寺」は、徳川三代将軍家光が開基(創立者)となり、家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧南光坊天海により開山(初代住職)されました。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となり、歴代将軍15人のうちの6人のお墓が寛永寺にあります。天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇っていましたが、幕末の動乱期に主要な伽藍が焼失し、かつての境内の大部分は上野公園の敷地になっています。寛永寺には多くの伽藍がありますが、本堂(根本中堂)は明治十二年(1879年)に寛永寺の子院の大慈院のあった敷地に川越喜多院の本地堂を移築したもので、本来の建物ではありません。内陣には、厨子内に本尊の薬師三尊像が安置されています。
寛永寺本堂
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(1868年)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(1876年)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(1638年)の建造といわれる。間口・奥行ともに七間(17.4メートル)。前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重(木・垂:たるき)とし、細部の様式は和様を主とする。内部は内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。
The main hall of the Kaneiji Temple
The former main hall of this temple that used to stand around the fountain across present Tokyo National Museum was burned down in 1868 in the war in the late Edo period. The present hall was relocated from Kita in at Kawagoe city, Saitama prefecture from 1876 to 1879. This building is said to be built in 1638. It is 17.4m, wide and deep. Neither a paint nor coloring is used for the doors and the walls, construction and a design are styles unique to Japanese buildings. The floor in the room with the Buddhist altar was originally an earthen floor that is a style original with the Tendai sect of Buddhism, now flooring is laid and it is covered with tatami.
見所ポイントBの「下町風俗資料館付設展示場」は、上野桜木交差点の角にあります。看板には、「吉田屋本店」と書かれています。吉田類さんの実家ではありません。
旧吉田屋酒店
(下町風俗資料館付設展示場 台東区指定有形民俗文化)
かつて谷中六丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和六十二年移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年には、一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。棟札によれば、明治四十三年(1910年)に新築して、昭和十年(1935年)に一部改築したもの。正面は一・二階とも出桁造り商家特有の長い庇を支え、出入り口には横長の板戸を上げ下げして開閉する揚戸を設け、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。一階は店と帳場で、展示している諸道具類や帳簿などの文書類も実際に使用されていたもの。帳場に続く階段をのぼると三畳半と八畳の部屋があり、店員等が使用していた。向かって右側の倉庫部分は、外観のみを明治四十三年の写真にもとづいて復元した。店舗後方の和室部分は構造的補強の必要から増設したものである。
Old Yoshida sake store
Yoshida store was a sake store since Edo period. It was donated to Taito city, then was reconstructed and restored in order to hand down the form of the liquor store of the early in the 20th century to future generations. It was originally built in 1910, partly reconstructed in 1935. Its long eaves and wide entrance are characteristics of such merchant building, and the first floor was a counter and an office, the second
floor was an employee's room. The warehouse was restored only on the outside based on a picture in 1910 and a Japanese-style room behind a counter was added for reinforcement of the building.
今時の酒屋さんは量り売りをしませんが、昔は瓶売りよりも一般的でした。プロヴァンス地方を旅行した折には、ワインの量り売りをしていたお店も見かけました。マイバックならぬ、マイボトルですね。
下町風俗資料館付設展示場
旧吉田屋酒店
吉田屋酒店は、旧谷中茶屋町(現、谷中六丁目)の一角にあった江戸時代以来の老舗で、昭和六十一年(1986年)まで営業していました。台東区により当地に移築され、下町風俗資料館付設展示場として、昭和六十二年(1987年)5月に公開されました。この建物は明治四十三年(1910年)に新築して、昭和十年(1953年)に階段の付替えや正面入口のガラス戸の新設など一部を改装していますが、江戸商家の建築様式を伝えています。正面は一・二階とも軒下に桁を張り出した「出桁造り」で、一階の出桁を二重にして商家特有の長い庇を支えています。出入口には横長の板戸や格子戸を上げ下げして開閉する「揚げ戸」を設け、間口を広く使って酒樽など商品の運搬・販売に都合のよい構造となっています。板戸と格子戸は中柱の溝にそって上下させました。前土間形式で、一階は商品陳列や販売をするスペースと番頭が商品や金銭の出し入れを記録する帳場で、酒のほか醤油、塩、砂糖も扱い、二階は主に住み込みの店員の部屋として使われていました。平成元年(1989年)には一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となっています。なお展示資料はすべて区内外の方々から寄贈されたものです。
谷中に入ります。現在は谷中という町名になっていますが、かっては「谷中町」と呼ばれていました。
旧町名由来案内 旧谷中町
元禄年間(1688年〜1703年)町屋の区域が武蔵國豊島郡谷中村より独立して、谷中町として起立した。谷中という地名は江戸時代からあり、その由来は上野台(代山)と本郷台の谷間に位置していることにちなみ、下谷に対してつけられたといわれている。本町の江戸時代の町屋は、言問通り面(八軒町)と天王寺へ行く通りの面(惣持院門前町まで)に形成されていた。明治初年、大雄寺(だいおうじ)をはじめとする寺地が合併されて町域が定まった。大雄寺には、勝海舟、山岡鉄舟とともに「維新の三舟」といわれた高橋泥舟が「大くすの木」の下に眠っている。この大くすの木は、東京都の保存樹木に指定されている。
大雄寺の本堂の前には楠の大木が聳えています。高橋泥舟のお墓はその手前にあるようです。
高橋泥舟墓
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保六年(1835年)二月十七日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、二十一歳で幕府講武所教授、二十五歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。佐幕、倒幕で騒然としていた文久二年(1862年)十二月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌三年二月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年十二月師範役に復職し、慶応三年(1867年)遊撃隊頭取となる。翌四年一月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治三十六年二月十三日没。勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれる。
The tomb of Takahashi Deishu
Takahashi Deishu was a master of spearmanship and a subject of the government in the last days of the Tokugawa shogunate; also he was a brother in law of Yamaoka Tesshu. He was born as a second son of the Yamaokas, and then was adopted into the Takahashi family. His original name was Masaaki but he was usually called Kenzaburo. He was admired as an expert of the spearmanship and became an instructor of the Military Art School of the government at the age of 21. then became a master at the age of 25.
In 1862 when the supporters of the shogunate and anti shogunate stood in opposition, the government levied masterless samurais in Edo and sent them to Kyoto in 1863. Although he became a leader of the group, later had to quit his post because members of the group cooperated with the supporters of the Emperor. However he was soon reinstated and became the leader of a guerilla unit. After the battle of Toba Fushimi, Deishu persuated the Tokugawa family to obey the Emperor. When Yoshinobu, the fifteenth Tokugawa shogun swore allegiance to the Emperor and moved to the Kaneiji Temple, then moved to Mito, he headed a guerilla unit and guarded the shogun Yoshinobu. After the establishment of prefectures in place of feudal domains, he is said to have spent rest of his life enjoying calligraphy in seclusion and he died in February 13th in 1903. He is called "Three shu at the end of the Tokugawa government"
together with Yamaoka Tesshu and Katsu Kaishu.
見所ポイントCの「スカイザバスハウス」は、最先鋭の日本のアーティストを世界に向けて発信すると同時に、海外の優れた作家を積極的に紹介する現代美術ギャラリーです。現代美術に特化したギャラリースペースとして、都内でも古い街並みを残す谷中に創設されました。美術館や東京藝術大学が密集する上野からほど近く、下町文化の歩んだ時間と空間を大切にしながら、最先端のアート作品を伝える場として親しまれてきました。200年の歴史を持つ由緒ある銭湯「柏湯」を改装したギャラリー空間は、一歩入るとモルタルの床に白い壁面のニュートラルなホワイトキューブが広がり、高い天井からやわらかな自然光が差し込んでいます。1993年の創設以来、数々の展覧会やコミッションプロジェクト、パブリックアートを実現してきました。もの派の筆頭として現代美術創世記を導いた李禹煥(リ・ウーファン)、強い物語性を持つ大型彫刻で国際的な注目を集める遠藤利克や森万里子など、第一線で活躍する多くのアーティストの評価を固めると同時に、新素材を用いる彫刻家、名和晃平や土屋信子などの次世代作家を世界に向けて発信しています。一方で、日本の伝統や文化に触発された新しい作品を発表するアニッシュ・カプーアや、アピチャッポン・ウィーラセタクン、何翔宇(へ・シャンユ)など、海外の優れた作家を積極的に紹介してきました。また、宮島達男やルイーズ・ブルジョワによるパブリックアートなど、時代とともに進化するアートの最前線を公共空間に提供し、街の景観を変えることで現代美術を受け止める新たな支持層を生み出してきました。国内外における現代美術の潮流をつなぐ結び目として機能し、アートシーンにおいて主導的な役割を果たすことを目標としています。こうした理念のもと、近年は若手作家の実験スペース「駒込倉庫」や作品保存の現場を展示空間へ拡張した「スカイパーク」を開設するなど、新たなビジョンを次々と展開しています。
谷中霊園の周辺には沢山のお寺が集まっています。谷中は、江戸開府や寛永寺の創建に伴う寺院の建立、江戸の市街地拡張に伴う神田からの多くの寺院の移転などにより寺町が形成され、発展してきた町です。震災や戦災の影響が比較的少なかったため、今も多くの寺院や路地、木造の建物などが昔ながらの下町の面影を残しています。文学の舞台としても、森鴎外や夏目漱石を始めとする文人の作品にこの界隈の様子が折り込まれています。中でも代表的なものが、天王寺の五重塔を題材にした幸田露伴作「五重塔」です。五重塔は、明治四十一年(1908年)に東京市に寄付され、昭和三十二年(1957年)に焼失するまで霊園内に実在していました。現在はその礎石が都の史跡に指定されています。園内には、他にも江戸時代からの旧道がほぼそのままの形で残っている園路や、藩主・政治家・文人などの著名人墓所など、多くの歴史資源があります。
谷中寺町と谷中霊園
「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は七十数軒にもなる。寛永年間(1624年〜1643年)、上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院はなかった。そして、慶安年間(1648年〜1651年)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657年)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。幕末の慶応四年(1868年)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にもあわず、昔ながらの情緒をもった寺町を今日に残している。谷中霊園は、明治五年(1872年)、旧天王寺境内の一部を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治七年(1874年)、東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊園の一つに数えられ、広さ約10万平方メートル、現在の墓地使用者は六千余りである。幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。
かって谷中にあった福泉院は、谷中天王寺の塔頭でした。福泉院の境内には稲荷社があり、「笠森稲荷」と呼ばれていました。門前には水茶屋「鍵屋」があり、そこで働いていたのが「明和三美人」の一人として知られる笠森お仙でした。幕末期の上野戦争で福泉院は廃寺となり、笠森稲荷は寛永寺の塔頭である養寿院に移されました。
現在の功徳林寺にも笠森稲荷はありますが、これは明治後期に改めて勧請されたものです。
江戸三大美人・お仙ゆかりの寺 笠森稲荷堂
笠森稲荷は諸願成就のお稲荷さまとして信仰されてきました。江戸時代の中ごろ、門前の茶屋の一人娘のお仙が店に立つと、江戸三大美人の一人として浮世絵に描かれ、童唄にも歌われて大評判になりました。その笠森稲荷堂が境内にあります。御自由に御参拝ください。
Story of Kasamori Inari
"Kasamori Inari" is one of the Inari shrines built in the Edo period. "Inari" is
a Japanese god of rice, and usually attended by foxes as his messengers. This shrine is so famous because of a relation with "Kagi-ya" that it was chosen as a theme of "Temari-uta" (i.e. Japanese song sung while playing a traditional Japanese handball game). Kagi-ya was the name of "Cha-ya" (i.e. Japanese cafe in the Edo period). In this cafe, waitress "Osen" was working. Osen was one of the three beauties of Edo and a model in "Bijin-ga" (i.e. beautiful person picture). Hence many men went to Kagiya to see her after making a short visit to Kasamori Inari, which was located near Kagiya. As you can see, Kasamori Inari became famous because of Osen. This shrine is where people visit in order to make their wishes. When you have something to wish, come visit us.
長安寺には谷中七福神の寿老人像が安置されています。谷中七福神巡りで何度も詣でましたね。
CHOANJI TEMPLE
Enshrine Jurojin the God of Longevity. One of the shrines of the Yanaka Shichi-fukujin,
The Seven Gods of Grad Fortune. The tomb of Hogai Kano, the Japanese artist is ???.
長安寺には、台東区の有形文化財に指定されている狩野芳崖のお墓や600年以上も前に建立された板碑4基もあります。
狩野芳崖墓(台東区史跡)
明治初期の日本画家で、文政十一年(1828年)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十一歳で没した。墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治二十年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正六年造立)が建つ。平成五年、台東区史跡として区民文化財台帳に登載された。
TOMB OF KANO HOGAI (HISTORICAL SPOT IN TAITO CITY)
Kano Hogai was a Japanese-style painter in the early Meiji period. He was born in Choufu city, Yamaguchi prefecture in 1828. At the age of 19 he left for Edo to be apprenticed to Kano Masanobu and mastered painting techniques of Kano school. He was never bound however by the tradition of his school. He was also influenced by Sesshu and Sesson, famous painters of another school and also mastered shading techniques found in western painting. "Hibo Kannon Zu" (goddess merciful like a mother) and "Fudo Myo-o Zu" (god of fire), two of his representative works are designated as Important Cultural Assets. He contributed much together with Okakura Tenshin to establish the Tokyo Fine Art School (present-day fine art faculty of the Tokyo University of Arts) but passed away in November of 1888 at the age of 61 just before the school opened. His tomb is located near the center of the graveyard of this temple and a stone monument, which was erected in front of the main building in 1917 describes his brief history and achievements.
板碑(台東区有形文化財)
死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では、秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵字の種子(阿弥陀如来の種子<キリーク>が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。
一、建治二年(1276年)四月 円内にキリーク種子を刻む
二、弘安八年(1285年)八月 上部にキリーク種子を刻む
三、正安二年(1300年)二月 「比丘尼妙阿」と刻む
四、応永三年(1396年)正月 上部に阿弥陀三尊の種子を刻む
長安寺の開基は、寛文九年(1669年)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。平成三年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
ITABI
Itabi, also called the stone board stupa or blue stone stupa, is originally a type erected for the repose of the souls of the deceased. Many were made between the Kamakura and Muromachi periods. In Choan-ji temple, there are three Itabi dating
back to the Kamakura period and from the Muromachi period. As Choan-ji temple is said to have been established in 1669, the Itabimust be about 400 years older than the temple itself. It is said that here was a temple of the Shingon-sect before
Choan-ji temple was erected, and therefore, it is considered that the Itabi must have had some connection with the original temple.
見所ポイントDの「築地塀」は、平成四年(1992年)に台東区の「まちかど賞」に選ばれ、寺町谷中のシンボルのひとつとして映画やドラマのロケ地に選定されたり、雑誌にも多く紹介され、谷中・根津・千駄木の谷根千地域の散策に訪れる多くの人達に親しまれています。築地塀(ついじべい)とはいわゆる土塀のことで、単に築地とも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築工法で造られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられています。古くは土のみで作られていましたが、強度を増す・雨水から守る・染み込む雨水の水はけを良くするために、瓦を間に入れて造られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど様々です。築地は、もとは築泥と呼ばれていたとされています。字のごとく泥を積み上げて造ることからそのように呼ばれていました。観音寺の築地塀は幕末の頃に築かれたもので、当寺は観音寺の境内の東面と南面を囲っていましたが、現在では南面のみ残っています。大正十三年(1923年)に起こった関東大震災により一部倒壊しましたが、第一次世界大戦終戦から始まった戦後恐慌によって物資が乏しかったために、できるだけ元の資材を使用して倒壊箇所が組み直されました。その後、経年による細かな損傷は見られましたが、補修を重ねて江戸時代往時の姿を今日に残しています。江戸時代から続く有数の寺町である谷中の当時の面影を伝え、歴史的景観に寄与するということから、平成十二年(2000年)に国指定の有形文化財に登録されました。
旧町名の由来を記した案内板が立っています。
旧町名由来案内 旧谷中上三崎北町
本町名のもとになった「谷中三崎町」は、元禄年間(1688年〜1704年)のころすでに谷中村から分かれ町屋を形成していた。「三崎」のいわれは幾つかあるが駒込、田端、谷中の三つの高台が見えることから名付けられたとするのが通説である。明治五年(1872年)谷中三崎町の東側に谷中上三崎南町・北町の二町が新たに命名された。東側が地形的に谷中三崎町より高いことから上三崎の名が付けられ、南・北は位置関係からこうよばれたようだ。
−日本画壇に尽くした画家―
長安寺に眠る狩野芳崖は江戸末期から明治時代に活躍した日本画家で、岡倉天心、橋本雅邦らと東京美術学校(現東京芸術大学)の創設に力を尽くした。下村観山は狩野芳崖、橋本雅邦に師事し東京美術学校教授に就くとともに日本芸術院の発展に力を注いだ。安立寺に永眠。
安立寺の境内には下村観山(日本画家・日本美術院を創立)、川上不白(茶人)、佐野延勝(陸軍中将)、葦葉山七兵衛(相撲)、宮地要三(江戸時代の医師)の墓所があります。
下村観山墓
明治から昭和初期にかけての画家。本名は晴三郎。明治六年和歌山に生まれる。幼少から絵を好み、十四年上京。狩野芳崖、橋本雅邦に師事。ついで東京美術学校(現在、東京芸術大学)に学び、二十七年卒業、同校助教授となった。三十一年、岡倉天心の日本美術院創立に参加し、菱田春草、横山大観らと活躍した。その後、教授に復職。また、文部省留学生としてヨーロッパに渡り、三十八年帰国する。当時、日本美術院は不振の難局にあり、天心がその絵画部を茨城県五浦(北茨城市)に移したとき、観山も大観らと同所に転居した。明治四十年第一回文展に「木の闇の秋」を出品、好評を得た。四十五年、五舗を引き上げ、新居を横浜にかまえた。大正二年岡倉天心が没し、翌三年大観らと日本美術院を再興、現代日本美術の発展に寄与した。観山は多くの名を発表したが、なかでも歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作である。昭和五年五月、五十八歳で没した。
TOMB OF SHIMOMURA KANZAN
Kanzan was a painter from the Meiji to early Showa periods. His original name was Seizaburo. He was born in 1873 in Wakayama prefecture. He loved paintings from an early age and came to Tokyo in 1881. He studied under Kano Hogai and Hashimoto Gaho. Studied at the Tokyo School of Art (now Tokyo Art University), graduated in 1894, and
became an assistant professor there. In 1898, he participated in Okakura Tenshin's establishment of the Japan Academy of Art along with Hishida Shunse and Yokoyama Taikan. He later returned to be a professor. He also studied in Europe as a Ministry of Education foreign student. When Tenshin moved his paintings department to Izura Ibaraki prefecture (present day Kita-Ibaraki city), Kanzan, along with Taikan, moved there. In the first Ministry of Education Exhibit, in 1907, he entered his "Ko-
no-ma-no-AKI" and achieved nide acclaim. In 1912, he moved from Izura and established his new home in Yokohama. When Tenshin died in 1913, he resurrected the Academy with Taikan in 1914 and contributed to the development of modern art in Japan. Kanzan
painted many masterpieces but he was best with paintings with historical themes. Died in 1930 at age 58.
見所ポイントEの「瑞輪寺」は、身延山久遠寺第十七世慈雲院日新上人が身延山の江戸宿寺として天正十九年(1591年)に馬喰町で開山したといわれています。慶長六年(1601年)に神田に移転し、その後慶安二年(1649年)に此の地へ移転しました。江戸時代は身延山久遠寺の善立寺(足立区)、宗延寺(杉並区)と並ぶ江戸触頭でした。
元禄年間には、不受不施派の弾圧によって天台宗へと改宗させられた感應寺(現天王寺)から江戸十祖師のひとつである安産飯匙の祖師を移しました。江戸時代には、身延山久遠寺末触頭で善立寺・宗延寺と並んで日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭のひとつに連なる名刹となりました。安産飯匙の祖師は、江戸十大祖師のひとつとして、除厄・安産飯匙の祖師と称されました。
江戸十大祖師 安産飯匙の祖師由来
文永十一年(1274年)三月十三日、日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、飯匙ありたるに御本尊をしたため産婦にいただかせ給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人の御尊像を彫みて武州谷中(現在東日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。のち谷中感應寺(現在の天王寺)に移す。以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄十一年(1698年)十一月十二日、感應寺改宗を命せられし折り、御尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。
瑞輪寺には、大久保主水のお墓があります。
大久保主水墓(都旧跡)
名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以降、家康に菓子を献じたという。天正十八年(1590年)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道
の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を務めた。元和三年(1617年)没。なお、墓への通路脇にある八角形の井戸「大久保主水忠記の井戸」は、天保六年(1835年)十代目忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。平成二十三年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
Tomb of Okubo Monto (Tokyo Historic Site)
This is the tomb of Tadayuki, also known as Togoro. He was a samurai from Mikawa
Province (Aichi Prefecture) who served under leyasu Tokugawa and was apportioned
300 koku, An injury to his leg in the Ikko-shu Uprising prevented him from participating in any further battles, and he used his expertise in making mochi sweets to, thereafter, provide leyasu with the treats. In 1590. leyasu entered Edo (now Tokyo) and embarked on constructing the city. Tadayuki was appointed to run the waterworks project and he was successful in bringing water to Edo Castle and around the city using streams sourced from Zenpukuji Pond and from Inokashira Pond, the largest wellspring in Musashing. This water system was known as Kanda josui (Kanda waterworks) and was the beginning of the Edo water system, Due to this achievement leyasu conferred on Tadayuki the title Monto (a title of respect for the head of the waterworks). Tadayuki's descendants subsequently retained this title and continued to provide treats to the Shogun. Tadayuki died in 1617. The octagonal well head close to this tomb was placed by the 10" generation hier to Tadayuki, Tadanori, to commemorate the achievements of Tadayuki in 1835. This well was registered as a Taito Ward tangible cultural property in the Taito Ward People's Cultural Property Registry in 2011.
大沼枕山のお墓もあります。
大沼枕山墓(台東区史跡)
大沼枕山は、幕末から明治時代前期にかけて活躍した漢詩人。代表作に「枕山詩鈔」があり、江戸時代最後の漢詩人といわれる。日本漢詩史上重要な人物である。文政元年(1818年)、下谷三枚橋付近に生まれる(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)。父の死後、十歳の枕山は尾張(今の愛知県)に身を寄せたが、天保六年(1835年)江戸に戻った。漢詩の大家、梁川星巌に出会い、才能が開花する。弘化二年(1845年)星巌が江戸を離れたあと、枕山は下谷三枚橋に「下谷吟社」を開き、江戸詩壇の中心となった。枕山は明治維新後も活躍したが、明治二十四年十月、七十四歳で死去した。瑞輪寺が墓所に選ばれたのは、晩年に枕山が住んだ下谷花園町(現、池之端)に近かったからといわれる。墓石は安山岩で、高さ145センチ、表面に「枕山大沼先生之墓」と大書され、枕山の門人の手で建てられたものである。現在の台東区内に生まれ、住み、不忍池の蓮や、隅田川の月など、江戸の四季折々の風物を詠み続けた枕山の墓は、台東区の歴史を知る上で貴重な文化財である。平成五年に台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。
The Grave of Onuma Chinzan (designated historical site of Taito-ku, Tokyo)
Onuma Chinzan (1818-1891) was a poet and calligrapher in the classical Chinese style who lived through the transition from feudal Japan at the end of the Edo period into the Meiji period. He was born near Shitaya Sanmaibashi (close to present-day Nakaokachimachi Station). He moved to Owari Province (present-day Aichi Prefecture) after his father's death but in 1835 he returned to Edo. His talent blossomed
after he got acquainted with the classical poet Yanagawa Seigan. Chinzan went on to from his own association of poets called Shitaya Ginsha in Shitaya Sanmaibashi, which went on to become the focus and vanguard of Japanese poetry from the Edo to the Meiji periods. He died at the age of 74 in 1891. His grave stands at a height of 145 centimeters. On the front appears large lettering: "The Grave of Onuma Chinzan
Sensei". It was apparently fashioned by one of his apprentices.
院展の名で親しまれている日本美術院は、明治三十一年(1898年)、岡倉天心の指導理念のもとに、橋本雅邦・横山大観・下村観山・菱田春草など26名の正員によって谷中初音町(現台東区谷中)で開院式を挙げました。天心の理念は、日本文化の伝統を踏まえ、文化財を保護し、かつ芸術を奨励して未来に繋げる道を示すものでした。一時、経営難から研究所を茨城県五浦に移しましたが、大正二年9月2日に天心が逝去すると、翌年の一周忌に大観等によって日本美術院が再興されました。その再興の本旨は「芸術の自由研究を主とする。故に教師なし先輩あり。教習なし研究あり。」と宣言するものでした。それ以来、近代日本画の革新を目指し、創立の精神を軸に研鑽を重ね、独自の発展を遂げてきました。在野の研究団体がその芸術活動を120余年に亘って継続し続けた例は、世界的にも稀有なことです。
三差路の尖った角に、見所ポイントFの「ヒマラヤ杉」が聳えています。ヒマラヤ杉の直下にある谷中みかどパンの祖父の代から引き継いで谷中地区のシンボルともなっている樹齢100年の台東区の保護樹木です。ちなみに、店名の「みかど」は、三角形の鋭角にあることから名付けられたとのことです。最初は木鉢に植えられていましたが、根が木鉢を突き破って地面に根付き、地面から直接養分を得るようになってから成長する速度も上がって、現在は直径1.5メートル・高さ20メートルほどの大木になりました。
以前見たときは周囲を覆い尽くすほどの枝振りでしたが、今は随分とスリムになっています。これは2019年に関東地方を襲った台風19号の強風で大きな枝が折れて危険となったために剪定したためとのことです。両側に道路が通っていますのでやむを得ないとは思いますが、景観的にはちょっと勿体ないですね。地元の方が作られたポスターが貼ってあります。
「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれた”谷中のシンボル”
ヒマラヤ杉と暮らしと文化、町並みを活かしましょう。
平成二十四年3月、この一画の土地の売却がありました。谷中のシンボルとして住民から愛されてきた大木が伐り取られ、一帯の風情ある地区も更地になる可能性があります。長年住んできた人たちも居られなくなるかもしれません。私たちは、これからも谷中が、お年寄りが安心して住み続けられる、次世代の子どもたちが健やかに育っていけるまちであることを望みます。昔から谷中に息づく、ご近所であいさつを交わし見守り合う習慣や、大きな樹木や軒先の緑、歴史ある町並みの風情などが大きく変わらず引き継がれ、芸術・文化活動を育む、豊かな場所であるよう、谷中のまちや暮らしを大切に思う人たちで協力していきたいと考えています。
ヒマラヤ杉とみかどパン 一画の歴史的・文化的価値
谷中一丁目、ヒマラヤ杉のある一画は、江戸時代には三方地店(さんぼうちだな)と呼ばれた歴史のある地区です。三方をお寺に囲まれた中に、ヒマラヤ杉を目印に古くからのお店や工房、アトリエなどが並ぶこの一画は、谷中の寺町らしい風情のある場所として多くの人に愛されてきました。明治の頃から画家や彫刻家、作家の川端康成なども近隣に住み、モデル紹介所もあって芸術文化活動を育む場所でもありました。ヒマラヤ杉のあるみかどパンの角は、かつて榎の木のあるお団子屋で、住人、芸術家、墓参客など、多くの方が立ち寄ったそうです。これまでに数々の映画やドラマの撮影場所としても登場しています。また、この一帯は、住む方々によりいつもきれいに掃除がなされ、挨拶を交わし合い、路地には目が行き届き、お年寄りにも、小さな子を育てる家族にも大変住みやすい場所です。大正・昭和の住宅も現在まで引き継がれ、歴史ある貴重な町並みと風情をつくっています。平成十九年には、「上野公園・寛永寺、谷中の街並み」が「日本の美しい歴史的風土100選」にも選ばれています。日常を大切にする暮らし方や、ご近所とのおつきあい、お年寄りや子どもがいる家族が住み続けられる家、歴史ある町並み、大樹や草花、広い空のある環境は、この一画だけでなく、谷中地区全体で守り活かしたいまちの宝です。人々が安心して楽しく住み続けるために、今、日本でも世界でも求められている暮しのお手本です。
江戸時代、谷中には勝山藩の下屋敷がありました。その跡地には私設の「大名時計博物館」が建っています。陶芸家の上口愚朗が生涯にわたって収集した江戸時代の貴重な大名時計を文化遺産として長く保存するために、昭和二十六年3月に「財団法人上口和時計保存協会」を設立しました。昭和四十五年10月に上口愚朗が没した後、二代目の上口等が昭和四十九年4月に「大名時計博物館」として開館しました。大名時計は江戸時代に大名お抱えの御時計師達が長い年月をかけて手造りで製作した時計です。製作技術・機構・材質などの優れた大名時計は美術工芸品としても世界に類のない日本独特の時計です。大名時計で用いられた時刻表示はヨーロッパで使用されていた24時間の定時法のものと異なり、不定時法を用いていました。不定時法は、夜明けから日暮れまでの昼を六等分、日暮れから夜明けまでの夜を六等分した時刻を採用しています。夜明けの時刻と日暮れの時刻は季節によって変わるため、昼と夜の長さが季節に応じて変わり、一時[いっとき]の長さが変わります。大名時計博物館は、これら江戸時代の大名時計を展示した専門の博物館なのです。
DAIMYO CLOCK (JAPANESE CLOCK) MUSEUM
Clocks made in Japan in the Edo Period (17th-19th centuries) are exhibited here.
大名時計博物館の塀に沿って、細い急な坂が下っています。三浦坂は長さが約160mほどのかなり急な坂で、別名を「中坂」といいます。坂名は、江戸時代に三浦家下屋敷前の坂道だったことに因んで名付けられました。坂下に案内板が立っています。
三浦坂
「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政三年(1856年)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治五年(1872年)から昭和四十二年一月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ上地ヲ合併新二町名ヲ加へ(中略)真島八三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。
Miura-zaka Slope
According to a local topography of the Edo period (1600-1868), the slope leading down to Nezu known as Naka-zaka Slope was also known as Miura-zaka Slope because it led from in front of the third mansion of the Miura family. The head of the Miura household was the feudal lord of the Katsuyama clan in Mimasaka province (present-day Okayama prefecture). At the end of the Edo period the Katsuyama clan changed its name to Mashima, and the areas on both sides of Miura-zaka Slope came
to be known as Mashima town. Thus both the name of the slope and the name of the areas on either side of it were connected with the mansion of the Miura family.
It is said that the alternative name of Naka ("middle")-zaka Slope is associated with the fact that this slope was located in between two other slopes.
三浦坂の坂下で左折した角に、臨江寺というお寺があります。
RINKOJI TEMPLE
The tomb of Gamo Kunpei, a scholar of the late Edo be found in this temple.
臨江寺には江戸時代の儒学者蒲生君平のお墓があります。「三奇人」のいわれは、天明二年(1782年)14歳の時、昌平黌で学んだ鹿沼の儒者鈴木石橋の麗澤舎に入塾しましたが、君平は毎日鹿沼まで3里の道を往復し、国史・古典を学び、黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩いて「狂人」と笑われるなど生来の奇行ぶりに因んでいます。
蒲生君平墓(国史跡)
蒲生君平は、明和五年(1768年)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。通称伊三郎、字を君臧または君平、修静または修静庵と号した。姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将蒲生氏郷の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の一人と称せられている。幼児から学問に励み、長じて水戸藩士藤田幽谷を知り、節義と憂国の感化を受けた。寛政(1789年〜1800年)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801年)「山陵志」を完成させた。これは、幕末の尊王論の先駆をなすものとして名高い。後、江戸に出て著述に専念し、文化十年(1813年)に没した。「蒲生君臧墓表」と題した墓石には四面にわたって藤田幽谷の撰文を刻む。昭和十七年国史跡に指定された。山門にある「勅旌忠節蒲生君平」の石柱は明治初年政府が建立したものである。
TOMB OF GAMO KUNPEI (NATIONAL HISTORIC SITE)
Gamo Kunpei was born in 1768 to a merchant family in Ustunomiya,
present day Tochigi prefecture. His common name was Isaburo, familiar
name Kunzo or Kunpei, pen name Shusei or Shusei-an, Along with
Takayama Hikokuro and Hayashi Shihei, he is known as one of the "Three
Eccentries of the Kansei Era."
During the Kansei Era, in the late 18th Century, he researched all of
Japan's imperial combs and compiled the "San-Ryo-si." This work is now
known as one of the pioneering efforts of the Imperial Loyalist Theory.
He later came to Edo, worked on his writings, and died in 1813. On his
tombstone, the famed scholar Fujita Yukoku wrote dedications on its four
sides! Selected in 1942 as a national historic site.
突き当たりで言問通りに出ます。交差点の角に天眼寺があります。天眼寺には太宰春台のお墓があります。
東京都指定史跡 太宰春台墓
太宰春台は江戸時代中期の儒学者、経世家です。名を純といい、字を徳夫と称していました。信州飯田に生まれ、江戸に出て但馬出石(たじまいずし)藩の松平氏に仕えました。十七歳で儒学
者中野謙に師事し、朱子学を学びました。元禄十三年(1700年)、二十一歳で官を辞し、以後十年の間京都、畿内を遊学し、その間に古学派に親しみました。正徳三年(1713年)、再び江戸に出て、荻生徂徠に復古学を学びました。孔氏伝古文孝経を研究し、校訂して音註を作り、諸藩に分かちました。また儒学の基本をなす経学の分野では、「論語古訓」および「論語古訓外伝」など数十巻を著しました。儒学の思想に関するものとしては「聖学問答」、「弁道書」などがあります。延享四年(1747年)五月晦日、六十八歳で没しました。お墓は円頭角柱形の桿石に隷書で「春台太宰先生之墓」と題し、三面に銘文を刻んでいます。高さ1.32m。
Historic site
Dazai Shundai Haka
Dazai Shundai was a Confucian scholar and a writer on political thought from the Middle Edo Period. He was named Jun, but usually called Tokufu during his lifetime. He was born in Iida, Shinshu and went to Edo for the service of Matsudaira clan of Izushi domain of Tajima Province. He began his studies in the Neo-Confucianism of Zhu Xi at the age of 17 with a Confucian scholar Nakano Kiken. He was retired from his office at the age of 21 in 1700, and then traveled around Kyoto and Kansai region in the following 10 years. During his trip, he got acquainted with the doctrines of school of empirical approach to ancient writings. In 1713, he again went to Edo and learned about the doctrines of restoration school from Ogyu Sorai. He studied the Old Version of Classic of Filial Piety, as allegedly archived in a former Confucius' house; he further edited the text and prepared comments on pronunciation, and distributed his own works to various domains. Moreover, he wrote tens of volumes including Ancient Pronunciations of Confucius' Analects and Supplements to Ancient Pronunciations of Confucius' Analects, in the field of studies on basic texts, which are essential for Confucianism. His works on Confucianism theories include Dialogue on Sacred Doctrine and Introduction to Differences in Philosophies and Religions in Japan. He died at the age of 68 on May 31, 1747. The tomb has a title in clerical script stating: Shundai, Dr. Dazai's Tomb on a main body of a rectangular column shaped stone with circular head; inscriptions are engraved on three surfaces. The tomb is 1.32 m tall.
歩道脇に旧町名の由来を記した案内板が立っています。谷中には坂が多いので、そのまんまの町名になっていますね。
旧町名由来案内 旧谷中坂町
もともと谷中村に属していた。元禄年中(1688年〜1704年)に寛永寺領となるが町屋が形成されるにつれ、付近に善光寺があったことから谷中善光寺前町と呼ばれた。その後、玉林寺門前町と谷中村飛地をあわせ、明治二年(1869年)谷中坂町と命名された。さらに同二十四年、三方路店と呼ばれたところと善光寺坂、三浦坂、藍染川端などを加えた。町名は町の中央に坂があったことにちなんで付けられた。もとになった坂は「善光寺坂」と言われているが本町の北側に位置する「三浦坂」も関係があったと思われる。
玉林寺に繋る大椎の木
天正十九年(1591年)に創建された玉林寺本堂裏手に椎の木がそびえている。幹の太さは6.5メートル、高さ16メートル余。東京都の天然記念物に指定されている。
言問通りの両側には幾つかのお寺があります。坂下付近の左手には玉林寺の参道が延びています。参道の入口には、「横綱千代の富士像」と彫られた石碑が置かれています。玉林寺は千代の富士の菩提寺という縁で銅像が建ちました。平成元年3月に優勝したときの記念写真に納まった千代の富士の三女が同年6月に夭逝し、玉林寺に葬られました。銅像は富士山の方を向いていますが、三女のお墓の方も向いているのだそうです。千代の富士は筋骨隆々として、鋭い出足と左からの豪快な上手投げで現在の両国国技館で最初の大横綱となり、かつ昭和最後の大横綱となりました。九重部屋を継いで大関千代大海を初めとして次々と関取を生み出し、弟子養成にも非凡な才を発揮しましたが、還暦土俵入り翌年の平成二十八年7月31日に亡くなりました。玉林寺の本堂裏にはシイの巨樹が聳えていて、本堂の屋根を超える高さがあります。都心とは思えない風景です。
東京都指定天然記念物 玉林寺のシイ
望湖山玉林寺は天正一九年(1591年)現在地に創建された曹洞宗の寺院である。本堂裏側にそびえるシイの種類はスダジイであり、幹囲り5.63メートル、樹高9.5メートル、枝張りは東に3.5メートル、西に2メートル、南に7.5メートル、北に4メートルを計る。玉林寺創建以前から存在していたと言われ市街化した地域に遺存する巨樹として貴重である。平成三年から五年にかけて大規模な外科手術を行った結果、樹勢は回復しつつある。スダジイは、一般にシイノキと呼ばれるブナ科の常緑高木で、福島県・新潟県以南の本州、四国、九州、沖縄に分布する。雌雄同株で六月頃上部に雄花の穂を、下部に雌花の穂を出す。果実は、1.5センチ程の大きさで二年目に熟し食用となる。材は家具・建築・パルプ用材として広く使われている。
Plant Gyokurin-ji no Shii
This is the castanopsis sieboldii which is located behind the main building of Gyokurin temple. It is about 14.2 m high and has about 6.3 m trunk circumference. As there was a big empty hole around the roots and big branches were dry and damaged, an operation for recovering was conducted between 1991 and 1993. It is said that it had already been standing when Gyokurin temple was built in 1591. It is a precious tree as one of few remaining giant castanopsis sieboldii trees in an urban area. Castanopsis sieboldii are evergreen tall trees belonging to Fagaceae and usually called red oak. The fruits can be eaten and the timber is widely
used for making furniture and others.
不忍通りの根津一丁目交差点から谷中六丁目交差点まで長い坂が上がっています。善光寺坂は長さが約200mほどの緩やかな坂で、別名を「信濃坂」といいます。坂名は、坂上の北側にあった善光寺に因んで名付けられました。坂の中ほどの植木塀に埋もれるようにして案内板が立っています。
善光寺坂
谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂・あかぢ坂とがあり、あかぢ坂は明治以後の新設である。善光寺坂は信濃坂ともいい、その名はこの坂上の北側にあった善光寺にちなむ。善光寺は、慶長六年(1601年)信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は元禄十六年(1703年)の大火に類焼して、青山(現港区青山三町目)に移転し、善光寺門前町の名称のみが明治五年まで坂の南側にあった。善光寺坂のことは、明和九年(1772年)刊行の「再校江戸砂子」にも見え、「御府内備考」の文政九年(1826年)の書上には、幅二間(約3.6メートル)、長さ十六間(約29メートル)、高さ一丈五尺(約4.5メートル)ほどとある。
ZENKOJI HILL ROAD
This road, also called Shinano Hill Road, was named after Zenkoji temple which used to be on the top of the hill. Zenkoji was built in 1601 as a temple and lodging place in Edo for the priests of Zenkcji from Shinano (now Nagano Prefecture). It prospered with a busy temple street in front of the main gate.
The temple burned down in a huge fire in 1703 and was relocated in to Aoyama, but the area name "Zenkoji Monzen-cho" was used for the southern side of the hill until the 5th year of the Meiji Era. Reference literature from the Edo period states that the hill road was about 29 m in length with a 4.5 m elevation.
見所ポイントGの「一乗寺」は、天正十八年(1590年)頃に日僚(茂原妙光寺17世)が開山となって創建されました。境内には漢学者大田錦城の墓所の他、浪曲師の三代目東家楽遊、歌舞伎の四代嵐芳三郎、五代嵐芳三郎、六代嵐芳三郎、江戸時代の医師大久保適斎、参議院議員木島則夫、勘定奉行杉岡能連、日本画家鈴木鵞湖、明治時代の都々逸の名人柳家紫朝などの墓所があります。
東京都指定旧跡
太田錦城墓
太田錦城(1765年〜1825年)は江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、才佐と称し、錦城は号である。加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒であった皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。晩年にいたり、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給せられた。文政八年四月二十三日、六一歳で没した。著書には「九経談」「春草堂詩集」「鳳鳴集」など非常に多くの著述があり、長男は加賀侯に仕え、三男は吉田侯に儒学をもって仕えた。
Historic Places
Ota Kinjo Haka (The Grave of Ota Kinjo)
Ota Kinjo (1765-1825) is a Confucian scholar in the late Edo Period. His real name is Motosada and popular name is Kokan or Saisa. Kinjo is his name as a scholar. He was born in Daishoji Temple in Kaga Province. Kinjo learned Confucianism of Secchi School under the great Confucians, Minagawa Kien and Yamamoto Hokuzan, but was never satisfied with it and personally studied Chinese various theories after the Han dynasty. He consequently found an original school. In his last years, he spent in Kinai region (present Kyoto/Osaka area) for a period and served Yoshida Domain in Mikawa Province, but Kanazawa Domain in Kaga Province invited him as a guest teacher and provided him with 300 koku. Kinjo died at 61 on 23th of April in 1825. He wrote a lot of works, such as "Kyukeidan", "ShunsodoShishu","Homeishu" and so on. His eldest son served the lord of Kaga and his third son served the lord of Yoshida as Confucian.
自性院は、慶長十六年(1611年)に道意によって開山されました。元々は神田にありましたが、慶安元年(1648年)に谷中に移転しました。川口松太郎の小説「愛染かつら」の題名は、自性院所蔵の愛染明王像と桂の木に由来しています。
愛染堂・愛染かつらゆかりの地
自性院は、慶長十六年(1611年)に神田に創建、慶安元年(1648年)現在地に移った古寺である。当院は、愛染堂に安置した愛染明王像で知られ、江戸文化が花開いたといわれる文化文政の頃(1804年〜1830年)になると、その名は近在まで広がったと伝えられる。江戸時代中期頃から別名を俗に愛染寺といわれた由縁である。愛染明王像は、寺伝によれば、元文年間(1736年〜1741年)、第九世貫海上人が境内の楠を切り彫刻した。像高1メートル、像内には、貫海上人が高野山参詣のとき、奥院路上で拾得した小さな愛染明王が納められていると伝えられている。愛染明王は、特に縁結び、家庭円満の対象として信仰されている。昭和の初め、文豪川口松太郎の名作「愛染かつら」は、当院の愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれる。
Aizen-do Temple
Jisho-in is an old monastery which was originally built in Kanda in 1611, and moved to its present position in 1648. It is known for the statue of Aizen Myo-o enshrined in the Aizen-do Hall. The statue is one metre tall and it is said that inside it is the small Aizen Myo-o image which the priest Kankai picked up from the road during his pilgrimage to Mount Koya. People pray to Aizen Myo-o particularly for finding marriage
partners and for household harmony.
感應寺は、慶長元年(1596年)に日感(真間弘法寺10世)を開山に、森織部義安の開基で神田に創建されました。明暦三年(1657年)1月18日(3月2日)に発生した明暦の大火後の江戸拡張で現在地に移転しました。墓地には、渋江抽斎や平木白星のお墓があります。
渋江抽斎墓
江戸末期の医師・儒学者。諱は全善、字は道純、抽斎は号である。文化二年(1805年)、弘前藩医の子として江戸神田に生まれる。弘化元年(1844年)、現在の浅草橋四丁目の地にあった医学館(東京大学医学部の前身)の講師になる。医学を伊沢蘭軒に、儒学を市野迷庵・狩谷(エキ)斎に学ぶ。友人の医師森枳園との共著「経籍訪古志」(全八巻)は名高く、日本に伝わる漢籍の所蔵・伝来・体裁等を記したもので書誌学者・蔵書家としての抽斎の見識の高さが窺える。医師としての業績に、種痘治療法を記述した「護痘要法」の著書がある。安政五年(1858年)コレラに罹り、五四歳で没し、当寺に葬られた。境内の「渋江道純墓碣銘」は、抽斎の事蹟を刻むもので、漢学者海保漁村が撰した文を、書家小島成斎が記し、ともに生前の親交が深かった。没後、森鴎外の史伝「渋江抽斎」によって、初めて抽斎の名が一般に知られるようになった。
The Grave of Shibue Chusai
Shibue Chusai was a medical practitioner and Confucian scholar at the end of the Edo period (1600-1868). He was born in Kanda in Edo (old Tokyo) in 1805, the son of the doctor to the Hirosaki clan. In 1844 he became a teacher at the medical research center in present-day Asakusabashi 4-chome (the research center is now the medical department of Tokyo University). His works include "Keise ki Hokoshi" which he wrote in collaboration with Mori Kien. In 1858 Chusai caught cholera, dying at the age of 54. He was It was not until after his death that Chusai's buried in this temple.
name first became widely known through the biography "Shibue Chusai" by the famous novelist Mori Ogai.
谷中霊園に入ります。参道には低い竹垣が組まれています。
龍安寺垣(透かし垣)
石庭で有名な禅寺龍安寺が基準となる垣で、参道に長く作られている。金剛寺垣とともに足元垣の代表である。矢来垣に似ているが、竹を地面に刺さず浮かしているところが特徴である。
Ryoanji-Gaki (Ryoan-ji style fence, see-through)
At Ryoanji, Zen temple known for the rock garden, its fences are considered the standard example in this style, built on the both sides of the entrance path to the temple. Ryoanji-Gaki as well as Kinkakuji-Gaki is typical of a low lying fence.
Ryoanji-Gaki is similar to Yarai-Gaki in appearance, but is different in character not to have the ends of the bamboos entering the ground.
谷中霊園には多くの有名人のお墓があります。初めて聞いた名前ですが。
東京都指定旧跡 大原重徳墓
幕末・明治維新期の公卿で、大原重尹の五男として享和元年(1801年)十月十六日京都に生まれた。天保二年(1831年)従三位右近衛権中将。天保九年(1838年)兄重成の死去により大原家六代の当主となった。嘉永六年(1853年)ペリー来航以来攘夷論を主張し、安政五年(1858年)日米修好通商条約の勅許に反対して、水戸藩前藩主徳川斉昭の許に赴こうと密かに出京したが失敗した。文久二年(1862年)左衛門督に任ぜられて、勅使として江戸に下り、辰の口伝奏屋敷から江戸城に臨み、将軍家茂に幕政を改革し攘夷の方策を整うべしとの勅諭を伝達した。これによって一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永(春岳)の政事総裁職就任が実現した。王政復古派の公卿の一人として活躍し、慶応三年(1867年)十二月九日の夜小御所で開かれた御前会議(小御所会議)では、山内豊信(容堂)、松平慶永ら公議政体派と論争し、この会議で徳川慶喜の辞官(内大臣の辞退)、納地(所領の返上)が決定した。維新後に刑法官知事、議定、集議院長官等に任ぜられたが、明治三年(1870年)官を退き、麝香間祗候(非職となった重臣に与えられた称号)を命ぜられた。明治六年家督を重実に譲り、同年十一月麝香間祗候会議の発足にあたり、その発起人のひとりとなった。明治十二年(1879年)四月一日七十九歳で死去した。贈正二位。墓城左手に閑院宮載仁親王の篆額による勅撰神道碑がある。
Historic Places
Ohara Shigetomi Haka
Ohara Shigetomi (1801-79) is a court nobel of Sonnojoi faction during end of Edo and Meiji Restoration period. In 1862, ordered by Shimazu Hisamitsu, he came to Edo to deliver the proporsal of reformation of Bakufu to Shogun Ieshige. For this reason,
Hitotsubashi Yoshinobu became a guardian of Shogun and finally became Shogun himself. He worked actively as a faction of Oseifukko (end Bakufu to restore the government by the emperor), but resigned his public post in 1870.
徳川慶喜のお墓は鉄柵に囲まれた奥まった場所にあります。
東京都指定史跡 徳川慶喜墓
徳川慶喜(1837年〜1913年)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応二年(1866年)、第十五代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応四年(1868年)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治三十一年(1898年)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治三十五年(1902年)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正二年(1913年)十一月二十二日に77歳で没しました。お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
Historic site
Tokugawa Yoshinobu Haka
Tokugawa Yoshinobu (1837-1913) was a seventh son of Tokugawa Nariaki, lord of Mito domain. Yoshinobu initially succeeded in Hitotsubashi Tokugawa clan and as a regent supported lemochi, the shogun at that time. He succeeded in the fifteenth shogun in 1866, but announced the restoration of the imperial power in the following year. Furthermore, the last shogun fought a Battle of Toba-Fushimi and lost at the battle on January 1, 1868, and finally surrendered Edo Castle. Thereafter, the shogunate and in particular position of shogun were definitely abolished; Yoshinobu was therefore
the last shogun not only for the Edo shogunate, but also for government by warriors. Later he spent rest of his life in retirement in Sunpu. But the former shogun had an audience with the Emperor Meiji in 1898 after 30 years of the announced restoration of the imperial power. He was granted a title of duke in 1902. The retired shogun was allowed to found the clan of Tokugawa Yoshinobu in addition to Tokugawa shogun clan, and appointed to a peer. He died at the age of 77 on November 22, 1913. The tomb is stands slightly to the southwest from the center of the graveyard area of over 5600 square meter, facing the east. A podium lined with round stones, of a diameter of 1.7m and a height of 0.72m, is built at an end in the center of a earth basement 3.6m wide and 4.9m deep surrounded by cut stones for earth retention; an object in a shape of circular tomb lined with stones is shaped on the podium.
柵内には顕彰碑も建っています。
徳川慶喜公事蹟顕彰碑
従一位勲一等公爵徳川慶喜公ハ水戸藩主徳川斉昭卿ノ第七子トシテ天保八年九月二十九日生レ、弘化四年一橋徳川家を相續シ、慶應二年征夷大将軍ノ宣下を蒙ル時恰モ幕末維新ノ動乱ニ會シ、内ニハ尊王攘夷ノ論ノ大イニ沸騰スルアリ。外ニハ歐米列強ノ競ウテ隙ヲ窺フアリ。内憂外患天下騒然タルニ方リ、公ハ世界ノ大勢ヲ洞察シ、國情ノ趣クトコロヲ看破シ、二百六十五年ノ幕府政権ヲ朝廷ニ奉還シテ天皇親政ノ大本ヲ復原シ、以テ日本近代國家發展ノ端緒ヲ啓ク。コレ實ニ公ノ叡智英斷ノ致ストコロニシテ、ソノ功績赫灼トシテ萬世ヲ照ラストイフベシ。維新ノ後、公ハ野ニ下リテ閑雲野鶴ヲ楽シマレシガ、天恩優渥篤ク勲功ヲ嘉賞アラセラレ、特ニ一家ヲ創立シテ榮爵ヲ賜ハル。大正二年十一月二十二日薨去セラル。壽七十七。茲ニ明治百年祭ニアタリ公ノ偉徳ヲ追慕シ、碑ヲ建テテ謹ミテ顕彰ノ誠意ヲ捧グ。
高橋お傳のお墓もあります。将軍・貴族・有名人・犯罪者・庶民など、谷中霊園には様々なお墓があります。
高橋お傳碑 (1850年〜1879年)
明治の毒婦と呼ばれ、仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなった。明治九年に東京浅草で古着商を殺害して捕えられ、その後市ケ谷監獄で斬首刑にされた。
川上音二郎(文久四年1月1日【1864年2月8日】〜明治四十四年【1911年】11月11日)は、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家で、新派劇の創始者です。川上の始めた書生芝居・壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博し、「新派劇の父」と称されています。
川上音二郎碑 (1864年〜1911年)
新派俳優。福岡県出身。民権思想を盛り込んで時局を風刺した「オッペケペー節」が大流行した。墓は九州博多の承天寺にある。
谷中霊園には、かって五重塔が建っていました。塔の建築を請け負った大工の葛藤を描いた幸田露伴の小説「五重塔」は有名ですが、大工の魂を込めた塔も男女の不倫関係の清算を図るための放火焼身自殺によって灰燼に帰したということは皮肉なことです。
東京都指定史跡 天王寺五重塔跡
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。禄十二年(1699年)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保四年(1833年)のことである。最初の五重塔は、寛永二十一年(正保元年・1644年)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・1772年)目黒行人坂の大火で消失した。罹災から十九年後の寛政三年(1791年)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四十八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一丈二尺八寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(1908年)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三十二年七月六日放火により消失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石二十個、地覆石十二個総数四九個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治三年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。
Historic site Tennoji Goju-no-tou Ato
Tenno-ji of Yanaka was originally called Choyozan Kanhoji Soncho-in of the Nichiren sect. It is a temple of long tradition, which has its origin in Seki Kojiro Nagateru of Mt. Dokan. It was converted into a Tendai sect temple by the shogunate's order in 1699. It was in 1833 that the temple was renamed Gokokuzan Tennoji Temple, as is currently called. The first five-story tower was built in 1644, and lost almost 130 years later in 1772 by the Great Fire of Gyoninzaka at Meguro. Further 19 years after the disaster, in 1791, 48 artisans including
Hatta Seibei, a master carpenter from Takashima District, Omi Province rebuilt the tower, which subsequently became known from Five Storied Pagoda by Koda Rohan. The tower was entirely made of Japanese zelkova materials and 34.18 m tall, which was the highest among the Buddhist towers in Kanto at that time. The structure was donated to Tokyo City in June 1908. It had escaped disasters caused by earthquakes or US attacks, and served as a landmark of Yanaka. The tower was finally burned down in an arson attack on July 6, 1957. The extant base stones, one in the center and four at the corners for the inner sanctuary, all in a shape of square with each side of 3 shaku or ca. 90.9 cm and the ones with each side of 2.7 shaku or ca. 81.81cm for 4 corner pillars of the main hall, as well as 20 wide rectangular stone struts of a veranda extending around all four sides and 12 horizontal base stones, 49 pieces of stone in total were all made of granite. A plan based on an actual measurement by Oshima Eishu is extent, thus the structure can be restored. A gold-copper glass majestic pagoda for Buddhist relics and a gold-copper container for Buddhist texts were found from the base stone in the center, while gold-copper container for Buddhist texts and others, from the four base stones at the corners for the inner sanctuary and the four base stones for 4 corner pillars of the main hall.
在りし日の五重塔の写真を添えた案内板も立っています。総檜造りの五重塔は高さが34.18mありました。
谷中天王寺五重塔
谷中の五重塔は、天王寺(旧感応寺)の塔として正保元年(1644年)に創建されました。安永元年(1772年)に焼失しましたが、天明八年(1788年)に再建工事が開始され、寛政三年(1791年)に完成しました。以後、160年、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルにもなった五重塔は、度重なる災害や、戦争に耐え、谷中のランドマークとして親しまれてきましたが、昭和三十二年(1957年)7月に焼失してしまいました。
染井霊園にはソメイヨシノの木が多く植えられていますが、谷中霊園には鬱金桜の木が多いようです。鬱金桜は江戸中期以前に人の手によって作られた品種と考えられ、花弁が香辛料で知られるウコン(鬱金)に似た萌黄色になることからウコンザクラと名付けられました。黄色い花を咲かせる唯一のサクラであり、清酒「黄桜」はこの花に因んでいます。
鬱金桜
この「鬱金桜」は別名「浅黄桜」とも呼ばれており、桜の開花はソメイヨシノより二週間程度遅く、四月中旬ごろに淡黄緑色の八重の花が楽しめます。旧天王寺境内であった谷中霊園内には、江戸時代から浅黄桜が多く植えられていたらしく、二代目歌川広重は描いた「江戸名勝図会 天王寺」のなかで「谷中天王寺・・・中略・・・境内に桜木多し、なかんずく浅黄桜の銘木あり」と評され、江戸庶民に愛されていました。浅黄桜は最近ではほとんど見かけられなくなりましたが、第九回谷中花のフェスティバルを機に、この鬱金桜を植樹したものです。
ゴール地点の天王寺に着きました。かってこの地は谷中天王寺町と呼ばれていました。
旧町名由来案内 旧谷中天王寺町
本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺は鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長耀の草創にかかるといわれ、もとは長耀山感応寺と号した。のち元禄十一年(1698年)、幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保四年(1833年)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治二十四年(1891年)頃といわれている。谷中霊園、天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。昭和四十二年(1967年)の住居表示の実施で全域台東区谷中七丁目になった。
日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊し、関小次郎が日蓮に帰依して草庵を結んだのが天王寺の始まりです。天王寺は、日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山しました。寛永十八年(1641年)に徳川家光・英勝院・春日局の外護を受け、3万坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となりました。元禄十三年(1700年)に幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動・湯島天神と共に、天王寺は「江戸の三富」として大いに賑わいました。享保十三年(1728年)に幕府から富突禁止令が出されましたが興行は許可され続け、天保十三年(1842年)に禁令が出されるまで続けられました。
護国山天王寺
日蓮上人はこの地の住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。−伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1394年〜1427年)頃の創建という。「東京府志料」は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。元禄十二年(1699年)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保四年(1833年)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた。しかし昭和三十二年七月六日、惜しくも焼失してしまった。
Gokokusan Tenno-ji Temple
When the Buddhist saint Nichiren stayed at the house of Seki Nagateru, the lord of this area, he carved a sculpture of himself and Nagateru built a hermitage in which he enshrined the sculpture. This was the origin of Tenno-ji Temple, which is generally said to have been established in the Muromachi period between 1394 and 1427. Among the temples still extant in Tokyo there are few which were founded before the Edo period
(1600-1868), so Tenno-ji is one of the few ancient temples left in the metropolis.
Tenno-ji was originally called Kanno-ji, but in 1833 in accordance with a decree by the Tokugawa government, its name was changed and its seet altered from the Nichiren sect of Buddhism to the Tendai sect. During the Edo period public lotteries were held here, so along with Ryusen-ji Temple in Meguro and Yushima Tenjin Shrine in Ueno it was Famous as one of the "Three Lotteries".
境内には、平家物語の冒頭の文章「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。」に出てくる沙羅双樹の木が植えられています。沙羅双樹はインドから東南アジアにかけて広く分布していますが、耐寒性が弱く、日本の気候では育たないために、日本各地の仏教寺院ではその代用として、ツバキ科のナツツバキが植えられていて、「サラソウジュ」やその別名で呼ばれています。この木はどうなんでしょうか?
境内には、お釈迦様の銅像も鎮座しています。江戸六地蔵並みの大きさですね。
銅造釈迦如来坐像(台東区有形文化財)
本像については、「武江年表」元禄三年(1690年)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。「江戸名所図会」(天保七年【1836年】刊)の天王寺の頃には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。本像は、明治四十一年刊「新撰東京名所図会」に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
COPPER SEATING FIGURE OF BUDDHA
This figure was created in 1690 by Ota Kyuemon, who lived in Kanda Nabecho. The inscription on the base of the figure tells that it was first set up to the right of the old main temple. This would now be about in the centre of the present west side road to the north of the remains of the five-storied pagoda of Ten-noji temple. In 1874 the figure was moved to the western corner to open Yanaka cemetery. In June of 1933 it was repaired, moved to the present site and placed on a newly built ferroconcrete base. In 1938 the charnel house was built in the base. In The Edo and Meiji eras the figure was repeatedly reported in various documents and books and has been very popular among people as "Ten-noji Daibutsu". It was registered as a tangible cultural asset in 1993 in the Book of Cultural Assets of Taito City.
庚申塔も並んでいます。
庚申塔(台東区有形民俗文化財)
庚申塔は、庚申信仰に基づいて立てられた石造物で、江戸時代以降、盛んに造立された。庚申信仰とは、六十日に一回めぐってくる庚申の日の夜を寝ずに過ごすことで、長寿延命や無病息災を祈る信仰行事である。地域ごとに庚申講が組織され、庚申の晩に講員が集まって行事が行なわれた。区内には、六十一基の庚申塔が現存している。天王寺には十基の庚申塔が立てられている。うち一基は門前の小祠内に安置されている。これらは、寛文三年(1663年)から正徳五年(1715年)にかけて造立されたもので、講員の名前が見られる。そこには谷中村講とあることから、地域の住民が組織したものと考えられる。このように庚申塔は、地域に根ざした人々の信仰を明らかにする貴重な資料であることから、本塔を含む区内の庚申塔が、平成十九年三月に台東区有形民俗文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
Koshin Tower (Taito City Tangible Folk Cultural Property)
Koshin towers are stone monuments erected on the basis of the Koshin faith, and were
built extensively in the Edo period and later. According to the Koshin faith, believers can obtain longevity and sound health by staying up all night without sleep on the day of Koshin, which happens every 60 days. Koshin groups were organized for each region, and events were held for group members to gather on those evenings. There are 61 Koshin towers that still exist in Taito City. There are ten Koshin towers in Tenno-ji Temple. One of them is placed inside a miniature structure for worship situated in front of the temple. These Koshin towers were built from 1663 to 1715. Towers bearing the name of Koshin group members include mention of Yanaka Village Group, suggesting that the Koshin group was organized by local residents. As such, because these towers are a valuable resource that reveals the faith of the people
rooted in this area, the Koshin towers in Taito City, including this one, were registered as Taito City Tangible Folk Cultural Property in the Taito City Citizens' Cultural Property Register in March 2007.
ということで、台東区で5番目の「Eコース」を歩き終えました。「Cコース」や「Dコース」と重複する見所ポイントもありましたが、新たな発見もあり面白かったです。次は「Fコース」で、三ノ輪・竜泉・入谷・根岸の町中を巡ります。
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