- Fコース(金杉地区健康推進委員おすすめ)
金杉地区健康推進委員より一言
ウォーキングコースの見どころ
寿永寺の布袋尊・飛不動尊の恵比寿神など、下谷七福神を巡るコースです。
歩行距離:2.8km、歩行時間:42分、消費カロリー:126kcal、歩数:4、000歩
コース 踏破記
今日は台東区の「Fコース(金杉地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。三ノ輪の寿永寺をスタート地点として、下谷七福神と一葉博物館を巡ります。
スタート地点:寿永寺【布袋尊】
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- @一葉博物館
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- A飛不動尊【恵比寿】
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- B朝日辨財天【弁財天】
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- C小野照崎神社(下谷坂本富士)
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- D法昌寺【毘沙門天】
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- E英信寺【大黒天】
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- F元三島神社【寿老人】
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ゴール地点:入谷鬼子母神【福禄寿】
日比谷線の三ノ輪駅裏手にあるスタート地点の寿永寺から歩き始めます。寿永寺は、徳川秀忠の菩提を弔うために、秀忠の正室お江の方に仕えていた侍女が出家して得生院寿栄法尼となり、寛永七年(1630年)に庵(いおり:僧侶が集中して修行するための簡素な宿泊施設)を結んだのが起源となっています。正保四年(1647年)に寺院として整備されました。寿永寺には、下谷七福神の布袋尊が祀られています。下谷七福神は昭和五十二年に開創され、昭和五十三年1月1日から巡拝が始まった比較的新しい七福神霊場です。布袋尊は夫婦円満と財運の神様です。この神様の主なご利益は、夫婦円満・子授け・縁結び・商売繁盛などです。
寿永寺から国際通りと並行する路地を南に進みます。見所ポイント@の「一葉博物館」は、昭和三十六年に地元有志が立ち上がり、日本初となる女性作家の単独文化館として台東区が開館しました。その後、一葉が五千円札の肖像に採用されたのを機に改築され、平成十八年11月に新記念館がオープンしました。美しい外観の立派な記念館に、一葉の未定稿や着物など貴重な遺品が数多く展示されています。推敲の跡が窺える「たけくらべ」の未定稿も展示されています。
一葉博物館の真向かいにある一葉記念公園の敷地内には、樋口一葉の代表作である「たけくらべ」の記念碑が建っています。近代文学不朽の名作「たけくらべ」は、樋口一葉が住んでいた当時の竜泉寺町を中心に、吉原界隈が舞台となりました。これを記念して、昭和二十六年11月、地元の一葉記念公園協賛会によって石碑が建てられ、その後台東区に移管されました。碑文は一葉の旧友である歌人の佐佐木信綱作並びに書による二首が刻まれています。あまりに達筆すぎて私には読めませんが、石碑の隣には台東区が設置した案内板が立っていて、碑文について解説してあります。
一葉女史たけくらべ記念碑
近代文学不朽の名作「たけくらべ」は、樋口一葉在住当時の竜泉寺町を中心に、吉原界わいが舞台となった。これを記念して昭和二十六年十一月、地元一葉記念公園協賛会によって建てられ、その後台東区に移管された。碑文は女史の旧友歌人佐佐木信綱博士作並びに書による次の歌二首が刻まれている。
紫の古りし光にたぐへつべし
君こゝに住みてそめし 筆のあや
一葉女史たけくらべ記念碑
そのかみの美登利信知らも この園に
来あそぶらむか 月しろき夜を
佐佐木信綱
Monument to Higuchi Ichiyo's Takekurabe
Higuchi Ichiyo's timeless modern classic Takekurabe is set in her once home of the
neighborhood of Ryusenji-machi and in the adjoining Yoshiwara red-light district of
Tokyo. This monument was built in commemoration of the novel in November of 1951
by the local Ichiyo Memorial Park Association, and was later transferred to the care
of Taito-ku. Inscribed on the monument is the following two verses by Ichiyo's friend,
the poet Sasaki Nobutsuna. The calligraphy of the inscription is also by Sasaki.
Monument to lehiyo's Takekurabe
It rivals in splendor Murasaki's old tale of Hikaru.
That gem which flowed from your brush when you lived here.
Do they come, Midori and Shinnyo from those pages, to this park,
To play, on nights when the moon is white?
-Sasaki Nobutsuna
["Murasaki" and "tale of Hikaru" refer to Heian-era author Murasaki Shikibu and her
novel The Tale of Genji. Midori and Shinnyo are the main characters in Takekurabe.]
樋口一葉記念碑も建っています。
ここは明治文壇の天才樋口一葉舊居の跡なり。一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。
菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和十一年七月のことなりき。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和二十年三月、この辺一帯焼野ヶ原となり、碑も共に溶く。
有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐに由なし。僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
菊池寛撰
昭和二十四年三月
小島政二郎補並書
公園には、一葉桜や一葉に因んだ植物が植栽されています。「一葉と樹」と題した案内板があります。
一葉と樹
【桜】 一葉とのつながり
一葉は少女時代の約5年間、文京区本郷にある法真寺前の屋敷で暮らしました。屋敷からは法真寺の大きな桜の木が見えたそうです。晩年、一葉は、この本郷の屋敷を「桜木の宿」と名付け、幸せだった時代を懐かしんでいます。一葉にとって桜は特別な意味を持っていたといえるでしょう。
【梅】 一葉とのつながり
一葉の日記を紐解くと、明治二十五年の春、「萩の舎」の塾生と一緒に梅の名所を巡り、梅の色香を愛でたとあります。当時、一葉が住んでいた本郷菊坂町の家にも梅の木があり、花が咲き乱れる様は見事だったそうです。一葉は梅の花を題材にした和歌を数多く詠んでいますが、小説の中に登場する梅の花も見過ごせません。
【萩】 一葉とのつながり
一葉が歌塾「萩の舎」に入門したのは、明治十九年、14歳の頃でした。中嶋歌子の指導のもと、一葉は和歌や古典文学、千蔭流と呼ばれる書なども熱心に学び、多くの弟子達の中で抜きん出た才能を発揮しました。
【柳】 一葉とのつながり
廻れば大門の見かえり柳いと長けれど・・・」樋口一葉の代表作「たけくらべ」の有名な書き出しです。一葉が下谷龍泉寺町で過ごしたのは十ヶ月あまりですが、龍泉寺町での生活体験が「たけくらべ」をはじめとする数々の作品に大きな影響を与えました。
【葦】 一葉とのつながり
ある日、歌塾の姉弟子三宅花圃から「ペンネームの一葉というのは桐の葉ですか?」と聞(訊?)かれた一葉は「達磨さんの葦の葉ですよ」と答えたといいます。達磨大師が揚子江を一葉の葦に乗って下ったという故事にちなんだ洒落です。一方で、自分のことを浮世の波間にさまよう一葉の舟と意識していたことが和歌や日記から伺(窺?)えます。
【躑躅(つつじ)】 一葉とのつながり
歌塾「萩の舎」では、天気の良い日などには課外授業も行いました。一葉の日記によると、明治二十四年5月、師の中嶋歌子が塾生を引き連れて小石川植物園(文京区)の躑躅を鑑賞したとあります。また、一案は個人的にも根津神社(文京区)の境内の躑躅を観に行っています。
公園内には一葉の記念碑の他、遊具や砂場に加えて、人力車の形をしたベンチも設置されています。乗っているのは一葉?
「飛行護」などのユニークなお守りや航空安全・飛行安泰・旅行安泰祈願で知られる天台宗の寺が、竜泉にある見所ポイントAの「飛不動尊」正宝院です。室町時代の享禄三年(1530年)に本山派(聖護院を本寺に、熊野三山を拠点にした天台宗系の修験道)の正山上人によって創建されました。「飛不動尊」の名前の由来は、かって住職が大和国(現・奈良県)の大峰山で修行するために本尊の不動尊を携えてきたところ、一夜にして正宝院に飛び帰ったことに因んでいます。「飛び帰った」という故事により、「航空安全」のご利益があるとされ、航空関係者や飛行機を利用する旅行者の信仰を集めるようになりました。小惑星探査機はやぶさが一時行方不明になった際に、プロジェクトマネージャの川口淳一郎は正宝院を参拝し、はやぶさの無事帰還を祈ったそうです。また、「航空安全」は「落ちない」に通じることで合格祈願の受験生や、「もっと飛ぶように」という願いを込めてゴルフ愛好家の参拝者も訪れています。
飛不動
正寶院は、享禄三年(1530年)の創建といわれる修験寺院で、はじめ聖護院末・園城寺末から現在天台宗系の単立寺院となっている。当寺の本尊は木造不動明王坐像で、「飛不動」の通称で知られている。名の由来は、昔、当寺の住職が大和国(奈良県)大峰山に本像を持って修行に行ったところ、一夜にして当地へ飛び帰り、人々にご利益を授けたことによると伝えられている。「飛不動」は本尊の通称だけでなく正寶院の通称ともなり、江戸時代前期、寛文年間(1661年〜1673年)の「新板江戸大絵図」には、すでに「飛不動」の名で見える。福利増長・息災延命の祈願道場として庶民の信仰が厚く、「日本国華万葉記」や「江戸砂子」などに江戸の代表的な不動霊場の一つとして記されている。近年は航空安全の守護神として有名になり、空の安全を祈願する参詣者が多い。
Tobi-fudo
Shobo-in temple is said to be first built in 1530. The name of flying God came from a legend: Once upon a time, the chief priest of this temple went to the Omine Mountain in Nara prefecture to pursue his learning, he braught the principal image of Buddha with him to the mountain from his temple, but the principal image flew back to this
place in Edo within one night and gave divine favors to the people. In recent years, many people believe that the God of protection for airplane flights lives in this temple, and these people visit the temple to pray for the safety in air travel.
Also, an event of "Kiku(chrysanthemum)Festival" is held in October every year within the grounds of the temple.
正寶院の由緒書きも立っています。
由緒
当寺は龍光山三高寺正寶院と称し、享禄三年(1530年)正山律師により聖護院派の祈願道場として開基された。その後、滋賀県園城寺の末寺となったが、現在は修験の流れをくむ天台系の一派をなしている寺である。本尊は不動明王で、古くより江戸名尊不動の一に数えられ、特に飛不動と呼ばれている。この名はむかし故あって当寺の住職が奈良県大峰山に本尊を安置し、修行をしていたところ、一夜にして本尊がこの地に飛び帰り御利益を検授けられたことより発している。当寺は寛政の大火を始めとして、数回諸堂を焼失しており寺伝を詳しく知るすべはないが、江戸古図や江戸砂子等に飛不動の名が見られ、千七百年代にはすでに飛不動と呼ばれていたようである。御本尊は数回の災火の為、一部損傷しており、現在は秘仏として鉄筋入母屋造りの本堂に安置されている。この本堂は昭和四十六年に建立されたもので、中央に御本尊、右に鎌倉末期の阿弥陀如来、左に恵比寿大黒天がまつられている。また本堂前の石仏は正徳三年作の如意輪観音である。
正宝院は恵比寿天も祀っています。恵比寿天は事代主神と同一視され、漁業と商売の神様です。この神様の主なご利益は、大漁追福(魚がたくさん穫れる)・商売繁盛(商いがうまくいく)・家内安全(家族が健康で安全に過ごせる)などです。
下谷恵比寿神 菊恵比寿
十月は神無月とも呼ばれるように、全国の神様が縁結びの相談をするために出雲へ出かけます。その留守を預かるのが恵比寿様です。当寺では、十月十日は恵比寿様が全ての願い事をキク「菊恵比寿の日」です。一日から十日までの間、「願い事がよくキクように」菊をお供えしてお参りをします。
見所ポイントBの「朝日辨財天(弁天院)」は、寛永初年に備中松山城主の水谷伊勢守が竹生島(近江国・琵琶湖)の宝厳寺から弁才天を勧請して上野不忍池に弁天堂を創建すると同時に、その下屋敷であった水の谷の池にも弁財天祠を祀ったのが始まりです。第二次世界大戦後に宗教法人となり現在に至っています。上野不忍池弁天堂の弁財天は「夕日弁財天」と呼ばれ、弁天院の弁財天は「朝日弁財天」と呼ばれますが、その理由は、弁天院が東に位置し、上野不忍池弁天堂が西に位置するためです。朝日弁財天と夕日弁財天は、合わせて「姉妹弁財天」と呼ばれています。
ASAHI BENZAITEN
The first year of Kanei(1624), the Mizunoya Isenokami Katsutaka built Bentenin temples in Shinobazu Pond and this place.
水の谷の池は、関東大震災により生じた焼土の処分場になり、現在では埋め立てられて往時の面影はありませんが、かっては八千平米もの湖面があったそうです。サッカーコートよりも広かったんですね。
弁天池の記
昔の弁天池は約八千平方米の広さを持ち、常に蒼々とした底深い水を湛え、琵琶形に造られた約百六十平方米の中の鳥との間に長い木橋が架けられて風情を添え、島には松柏の大樹がうっ蒼と茂る中に由緒深い本堂を仰ぎ見る景観は誠に荘厳を極めていた。然るに大正十二年、関東大震災の直後、当局はこの池を焼土の処分場に着目し、地元を始め隣接数区の焼土により埋めたてられ、細やかながらその名残を留めているのが現在の池である。文豪久保田万太郎はこの池の変貌を惜しみ、「水の谷の池埋められつ空に凧」と詠んでいる。誠に今昔の感に堪えない所である。
朝日辨財天は、下谷七福神の弁財天を祀っています。御堂の横に由来記を記した石碑が建っています。ちなみに、弁財天は、芸能上達などの「才」だけでなく、金運の「財」にも通じる神となっています。弁財天の主な御利益は、商売繁盛・交通安全・金運上昇・芸事上達などです。
由来記
辨財天の信仰篤かった備中松山城主水谷伊勢守勝隆は、東叡山寛永寺を創建した天海の勧奨もあって、寛永初年不忍池に辨財天社を建立すると同時に、その下屋敷であった当水の谷の邸内の池にも辨財天祠を祀り、いわゆる姉妹辨天とし、西方の不忍を夕日、東方の水の谷を朝日辨財天と称した。この下屋敷は面積約二万坪であったが、その後勝隆の子孫旗本水谷主水の下屋敷となり、次いで北海道の田村富三郎の所有と変り、更に新潟県豪農市島徳次郎の所有に転じ、大東亜戦争後の大改革に遭遇し、昭和二十二年当主市島徳厚は辨財天を永久祭祀の条件でこの地を借地人に分譲すると共に、境内二百十七坪余をこれら関係者に寄付した。人々、市島家の厚情に痛く感激し、直ちに奉賛会を設立し、昭和二十八年宗教法人法の施行と共に曹洞宗辨天院と改称し、本尊釈迦牟尼佛をも安置した。本堂は大正十二年関東大震災に罹災したので、昭和四年市島家に於て再建したが、同二十年大東亜戦争のため烏有に帰した。然る所、同二十三年奉賛会が中心となりこれを復興し、同三十六年庫裏も落慶、今亦壮麗な玉垣を完成し、輪奐の美を添えた。往昔は琵琶形に造られた中島に常に松柏の大樹が鬱蒼と茂り、二千四百坪の池には蒼々とした底深い水を湛え、菱や(ジュン)菜蓮など美しく、浮び池畔には有名な料亭松源や廓の寮を始め瀟洒な別荘が点在し、文人墨客の往来も激しかった。然るに、関東大震災直後東京市の要請もあり、この池を焼土の処分場に提供、尓来二年有半宅地と化し、昔日の面影を没するに至った。思うに町会の興隆は人心の融和に因る団結が基本であるが、そのためにはこの辨財天を我らの守護神として日々崇敬し、永く子々孫々に至るまで義理を重んずる下町人情に徹し、町会の発展、社会の福祉、国家の繁栄に寄与するよう祈念するものである。
弁天池に嵌まって亡くなった人や、焼土の埋め立てにより生き埋めになった魚類、更には焼土を運搬している途中で死んだ馬などを供養するために観音菩薩が建立されました。
聖観世音菩薩勧請の由来
昔の弁天池は大変広く、且つその深さは底知れずと云われていた。これがため、この池にて命を落された方が尠なくなかったと伝へられている。関東大震災では東京市の要請により災害の焼土を以って埋めたてられられた為、ここに棲息していた多くの魚類などが悉く生埋めとなり、又焼土運搬の馬までも犠牲となるなど人々から憐憫の情を寄せられていた。当時の地主はいち早く境内に卒塔婆を建て、施餓鬼供養を行って来たが境内移譲後は埋立地居住の有志がこれを継承、昭和三十一年供養塔に改建し、更に熱意を傾けつつ今日に至った。偶々本年は己巳年という好機に当り、ここに聖観世音菩薩を勧請し、広大無辺なる御功徳により、旧弁天池に絡る多くの諸精霊の菩提を祈念し、併せて信徒並びに有縁諸氏の平安と隆昌を祈願すべく、大方有志のご寄進を仰ぎてこれを完成し、平成元年九月十三日開眼供養を執行したものである。
台東区立柏葉中学校の前に、かっての台東小学校の記念碑が建っています。
旧台東小学校は戦前の国民学校で、台東小学校は戦後の新制小学校でしょうか?校歌の歌詞が随分と違っていますね。
台東小学校沿革
嘉永六年渡邊英之助という漢学者が自宅で三學庠という塾を開き、明治八年に「渡邊学校」、明治九年に「渡邊小学校」と名前を変え、明治四十一年東京市が渡邊小学校を買い取り、名前も「東京市台東尋常小学校」に、その後、昭和十六年「東京市台東国民学校」、同十八年「東京都台東国民学校」、同二十二年「東京都台東区立台東小学校」に各変りました。それから九十八年(三學庠からでは百五十三年)の永きに亘り、それぞれの時代の使命を受け止め、新しい時代を担う多くの子供たちを育ててきました。平成十八年三月児童数の激減というやむを得ない状況とはいえ、ほぼ一世紀に及ぶ歴史と伝統のある台東小学校が閉校されるに至りました。その間の卒業生は実に九千四百二十名に達しております。
見所ポイントCの「小野照崎神社(下谷坂本富士)」の始まりは9世紀にまで遡ります。平安時代の政治家に小野篁という人物がいました。彼は上野国(現在の群馬県)の国司(政府から派遣され、地方の統治を担った役人)に任命されていました。国司の任務を終えた小野篁が京都に戻る途中、彼は上野の照崎(現在の上野公園の東北部辺り)を通りました。この地の景色に魅了された小野篁は暫くこの地に滞在しました。仁寿二年(852年)に小野篁が亡くなると、上野の人々は彼を偲んで神社を建てました。これが小野照崎神社です。小野篁を祀る小野照崎神社の御利益は、学業成就・芸事上達・仕事運向上などです。俳優の渥美清さんは、無名時代に小野照崎神社にお参りし、その後、彼は映画「男はつらいよ」の主役に選ばれたという逸話があります。
小野照崎神社
小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿二年(852年)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永二年(1625年)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄四年(1691年)頃に遷座したのではないかともいう。現在の社殿は慶応二年(1866年)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。例大祭は五月十九日で、三年に一度、本社の神輿渡御が行われる。
ONOTERUSAKI SHRINE
The Ono Terusaki Shrine is dedicated to Ono-no-Takamura who was a scholar of Chinese classics in the early years of the Heian Era. This shrine, which is located at Shinobugaoka, near Ueno Park (formerly knoun as Ueno Terusaki), was of ten visited by Ono-no-Takamura. He felt at peace here, and appreciated the landscape. He visitnved to come here unitil his death in 852. Afterwards in 1625, when the Kaneiji Temple in Ueno was founded, the shrine was relocated to the present site. The current building was established in 1866 at the end of the Edo Era. It survived the Great Earthquake of 1923 and escaped destruction during the Second World War. Also in this shrine, there, is a miniature of Mt. Fuji, which was designated as an important tangible folk cultural asset. On July 1 of every year. "Climbing" of the miniature Fuji takes place.
由緒書きもあります。
小野照崎神社由緒畧(略)記
往昔、祭神御東下の砌(みぎり:時節・折り・頃)、上野照崎の地に御遺跡を留め給ひしを、地民渇望して上野殿と尊称し、後に照崎の地名をとりて小野照崎大明神を尊崇奉斎するを鎮座起源とす。其後社殿大破せしを、江戸太郎重長領主となるに及び、武運を祈りて再建し、星霜移り寛永年中、上野東叡山草創の砌坂本村長左衛門稲荷境内(境内地)に遷祀奉りし由緒正しき神社にして、現社殿は慶應三年の御造営にて、大正大震火災竝に大東亜戦争にも聊の被害も蒙る事無く、氏子十八ヶ町の産土神として御神経癒顕著也。御祭神小野篁命は敏達天皇の苗裔にして嵯峨天皇に仕へ、博学俊才を以て知られ、殊に詩歌に長じ、淳和天皇天長年中には令義解を選し、下野国の任を蒙りて足利に至るや我国学校の創始たる足利学校を創立、孔子像を祀り国人に書経を教ふ。亦百人一首の「わだの原八十島かけてこき出ぬと人には告げよあまのつり舟」の詠人としても知らる。御配神菅原道真命に就いては江戸二十五社大神の一つにして、渡会天満宮を伝承し菅原尊像を回向院より遷祀す。
御嶽神社と三峰神社は同じ社に祀られています。
稲荷神社と織姫神社も同じ社に祀られています。
江戸時代から昭和にかけて、江戸の庶民を中心にして富士講が流行しました。富士講とは、富士山を神と見立てる民間信仰のことです。富士講の活動のひとつに富士山登山があります。しかし、当時の人たちにとって富士山まで旅をすることはとても大変でした。そこで、人びとは、富士山を訪れる代わりに、富士山を模した人工の山や塚である富士塚を参拝したのです。小野照崎神社の富士塚は、「下谷坂本富士」と呼ばれています。天明二年(1782年)に小野照崎神社に鎮座する浅間神社内に築山された高さ5メートル・幅16メートルの富士塚で、全体が富士山の溶岩石で覆われています。富士山の開山に合わせて年に2日だけ開放され、誰でも気軽に登ることができます。
下谷坂本の富士塚
この塚は模造の富士山で、文政十一年(1828年)の築造と考えられている。「武江年表」同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル。塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
FUJIZUKA OF SHITAYA-SAKAMOTO
Fujizuka is a miniature mountain that an imitation man made in the image of Mt. Fuji. Many Japanese people believed that Mt. Fuji was god or that god lived in Mt. Fuji,
and so many religious groups worshipping Mt. Fuji (they are called Fujikou) were formed among people living in Edo (Old Tokyo) and many miniature "Mt. Fujis" were
built around the town. Sakamoto Fujizuka was built in 1828. It is about 5 meters
tall and about 16 meters in diameter. This precious mound is preserved on good conditions.
見所ポイントDの「法昌寺」は慶安元年(1648年)に日照によって開山されました。元々は下谷御切手町(現在の上野七丁目・下谷一丁目)に位置していましたが、元文二年(1737年)に現在地に移転しました。下谷御切手町とは珍しい町名ですが、これは寛永元年(1624年)に御切手同心が屋敷地を拝領したことに因んだ町名です。「切手」とは、大奥関係の通行証のことで、御切手同心は江戸城本丸の切手門番所に詰め、女中たちの出入りや荷物の出入りを監視し、長物や葛籠など十貫目以上のものは蓋をあけて内容を検査していました。
法昌寺には、下谷七福神の毘沙門天が祀られています。毘沙門天は、仏教の世界の中心にある須弥山の中腹の四方に住み、仏教を守護する四天王の一神で、勝負の神様です。毘沙門天の主なご利益は、勝負運向上・商売繁盛・金運上昇などです。
見所ポイントEの「英信寺」は、寛永八年(1631年)に雄誉霊巌によって開山されました。雄誉霊巌は江東区深川にある江戸六地蔵第五番が安置されている霊巌寺を創建したことでも知られています。開山当時は庵レベルの小堂で、「紫雲庵」と称していました。その頃、松平康信という丹波国の亀山藩の大名がいました。1656年に三男の松平英信が23才で亡くなり、その菩提を弔うために英信の姉の松平常子は彼の像を作り、紫雲庵に祀りました。そして、彼女は紫雲庵の名前を英信寺に変えました。これが英信寺の始まりです。
EISHINJI TEMPLE
It enshrines Daikokuten, one of the seven gods of good luck in Shitaya considered to bring the benefit of commercial prosperity. The daikoku in this temple is a very rare one having the image of Baikokuten in front, that of Benzaiten on the right side, and that of Bishamonten on the left.
英信寺には、下谷七福神の三面大黒天(正式名は三面六臂大黒天)が祀られています。
三面大黒天は3つの顔を持ち、平安時代の僧侶である弘法大師空海がこの像を作ったといわれています。三面大黒天は福徳開運の善神であり、商売繁盛の守り神ということから、明治時代には新橋や柳橋などに三面大黒天講が生まれて参詣者で賑わいました。大黒天は豊穣と財産の神様で、主なご利益、五穀豊穣・商売繁盛・金運上昇・家内安全などです。
鶯谷駅北口正面に鎮座する見所ポイントFの「元三島神社」は、弘安年間(1278年〜1288年)に創建されました。13世紀の後期、モンゴル帝国が2度にわたり日本を攻めた蒙古襲来がありました。1度目の襲来は、文永十一年(1274年)の文永の役で、2回目の襲来は、弘安四年(1281年)の弘安の役です。その頃、伊予国の武将に鎌倉幕府御家人の河野通有という武将がいました。伊予国は現在の愛媛県松山市です。河野通有は2回目の元寇である弘安の役に参加しました。その途中、河野通有は地元の大山祇神社で勝利を祈りました。大山祇神社は瀬戸内海の大三島にある神社です。戦勝祈願をしたところ、成就して武勲を挙げることができたため、河野通有は大山祇神にとても感謝しました。そして、夢の中で「武蔵国豊島郡に大山祇命の分霊を勧請せよ」という霊夢を見たことから、屋敷のある上野山に大山祇命を祭神とする神社を創建しました。しかし、寛永二年(1625年)に幕府は上野山に寛永寺を建てることになり、神社は慶安三年(1650年)に上野山から立ち退きを命じられ、代替地の金杉村(現在の台東区根岸)に移転しました。宝永七年(1710年)に河野通有の神社がある土地は幕府から再度立ち退きを命じられ、浅草小揚町(現在の台東区寿)に移転しました。これが現在の本社三島神社です。しかし、金杉村の氏子は神社から取り残されることになったため、改めて分霊を勧請することになりました。そのようにして創建されたのが元三島神社です。「元」が冠されているのはそのような由来からです。
元三島神社御縁起
当社はご祭神に大山祇命・伊佐那岐命を頂き、和足彦命・身島姫命・上津姫命・下津姫命を配祀申すものである。例大祭はご祭神勧請の時にちなみ、五月十四日十五日とする(但し現在交通事情により五月第二土曜、日曜とする)。元三島神社はそもそも第六十二代円融天皇の御代に日本総鎮守の称号を賜り、明治においては國幣大社に列せられ、四国唯一の大社大山祇神社をご本社に頂くものである。当社の由来は、ご本社大山祇神社のご分霊によるものであり、その源を弘安四年の役に発する。すなわち、弘安四年、勇将河野通有、三島水軍を率いて大山祇神社に必勝の祈を捧げて神恩加護を仰ぎ武功赫々として帰国したところ、夢の中に神のお告げを得て大山祇明神武蔵国勧請の発願を、時に上野山中にあった河野氏の館にご分霊を鎮座申したことに始まったと伝わる。後、室町の代を通じ、社運の隆盛いよいよ募り、江戸の代に入っては徳川家より社領拝領預かるが、慶安三年(1650年)三代将軍家光の時金杉村に移転、ついて宝永六年(1709年)社地幕府御用地となるに及び、代替地に浅草小揚町を賜って再び遷座の運びとなる。しかるに、代々金杉村に住む氏子住民から氏神様の地元遊離は誠に不都合と赤誠こもる訴えが起こり、金杉根岸の村民相寄り協議の末、金杉根岸の地の熊野神社と合祀を図り、これを元三島神社と称し今日に至る。旧社殿は明治四年の再建であるが、昭和二十年、戦火で消失、以後昭和二十二年造営するも老朽著しく、よって昭和五十一年四月新たに造営落成したものである。
元三島神社には、下谷七福神の寿老人が祀られています。寿老人は延命長寿の神様で、中国道教の神又は老子の化身の神ともいわれています。寿老神は杖を手にし、杖に結びつけられた軸物は人命の長寿をしるした巻物といわれ、伴っている鹿は長寿を司る神使とされています。寿老人の御利益は健康長寿に特化しています。
ゴール地点の入谷鬼子母神に着きました。入谷鬼子母神(真源寺)は、万治二年(1659年)に駿河国沼津(現在の静岡県沼津市)の光長寺二十世の日融が開いたお寺です。寺伝によれば、とある大名の奥女中の腫れ物(おでき)が真源寺の願掛けで完治したことから、江戸でご利益が話題となりました。雑司ケ谷の鬼子母神、下総中山の鬼子母神(法華経寺)と並び、「江戸三大鬼子母神」に数えられています。釈迦は性質凶暴で子供を食べる悪神鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ改心させました。以後、安産・子育ての守護神として信仰されています。入谷鬼子母神では、子育ての善神になった由来からツノのない「おに」の文字を使っています。「恐れ入谷の鬼子母神。びっくり下谷の広徳寺。そうで有馬の水天宮」というのは江戸っ子の洒落です。入谷は山手線鶯谷界隈の地名で、恐れ入るということを洒落て、入谷の真源寺に祀られる鬼子母神を掛けたものです。境内と門前で7月に開かれる「朝顔市」は、東京の夏の風物詩となっています。
入谷鬼子母神
入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺に祀られている。眞源寺は、万治二年(1659年)日融上人により創建された。鬼子母神は、鬼神般闍迦の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。性質凶暴で、子どもを奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「鬼」の字を使っている。また、七月上旬、境内及び門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り観賞させたのがはじまりといわれている。当時この地は、入谷田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和二十五年復活。以後、下町情緒豊かな初夏の行事として親しまれている。
IRIYA KISHIMOJIN
Kishimojin, a goddess of children, is one of the goddesses in Indian Buddhism. She was atrocious and was an evil goddess snatching children and eating them. According to a legend, Gautama Buddha hid the youngest son of this goddess and had her mend her ways by making her experience the sorrow of losing a child. Subsequently, she became a good goddess protecting children and women and came to be worshipped as the guardian of child-birth and child-growing. In early July, the precincts of the temple are crowded with people coming to see "the Morning-Glory Market." The morning-glory was introduced from China as a kind of medicinal herb in the Heian era. It was the Meiji era when this market became the famous event at Iriya, and its origin is said to be the display of potted morning-glories at a near-by temple.
入谷鬼子母神には、下谷七福神の福禄寿が祀られています。「福・禄・寿」は中国で人生の三大目標とされ、福は子孫繁栄、禄は財運招福、寿は延命長寿を表しています。
ということで、台東区で六番目の「Fコース」を歩き終えました。お正月に何回か巡った下谷七福神ですが、七福神以外にも見所は多かったです。次は台東区で七番目となる「Gコース(浅草橋地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。
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