Gコース(浅草橋地区健康推進委員おすすめ)  

浅草橋地区健康推進委員より一言
浅草橋地区の特徴

浅草橋駅周辺は問屋街です。洋服・鞄・靴・アクセサリー・玩具・文房具など多種多彩のお店が並んでいます。一般に販売してくれるお店もありますので、散策しながらウィンドーショッピングすると楽しいですよ。

歩行距離:2.7km、歩行時間:41分、消費カロリー:122kcal、歩数:3、858歩


コース 踏破記  

今日は台東区の「Gコース(浅草橋地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。浅草橋駅北西の柳北公園をスタート地点として、おかず横町で晩ご飯の献立を考え、旧岩崎邸食堂でディナーを夢見ます。  

スタート地点:柳北公園
@蓬莱園跡
A鳥越神社
B桜稲荷
C黒門小学校

ゴール地点:旧岩崎邸庭園


スタート地点の柳北公園(りゅうほくこうえん)から歩き始めます。柳北公園がある一帯は、かって浅草向柳原町と呼ばれていました。

旧町名由来案内 旧浅草向柳原町

この地域は江戸時代から大名・旗本・御家人の住む武家屋敷地であった。明治政府は新しい時代のまちづくりをするため武家屋敷地を一般住民の住む町へと変えていつた。向柳原町はこのような時代背景をもつ明治五年(1872年)に誕生した。町名は、神田川の南側(現千代田区)にあった柳原がもとになっている。神田の柳原に対することから向柳原町となった。そして柳原の由来は、現在の万世橋から柳橋にかけての神田川南岸沿に柳が数多く植えられていたことにちなんでいる。肥前平戸藩主松浦邸内には「蓬(莱)園」と呼ぶ廻遊式の庭園があった。寛永九年(1632年)に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、庭園づくりの名人といわれた小堀遠州に造らせたものである。惜しくも関東大震災のため大部分が失われてしまったが今も都立忍岡高校敷地内に銀杏の巨木と小さな池が当時の名残りをとめている。




柳北公園は、浅草橋こどもクラブ(現在は台東区立台東育英小学校の仮校舎として使用中)と都立忍岡高校に挟まれた細長く広がる公園です。台東育英小学校は、育英小学校と柳北小学校を統合して平成十三年(2001年)に育英小学校の敷地に開校しました。当初は育英小学校の校舎を使用していましたが、校舎改修のために柳北公園に隣接する旧柳北小学校の仮校舎に移転し、平成十五年(2003年)に旧育英小学校の新校舎に移転しています。令和三年(2021年)に校舎と体育館の大規模改修工事を行なうため、再び旧柳北小学校の仮校舎に移転し、令和五年(2023年)末に工事の完成と共に本来の育英小学校の校舎に戻ることになっているそうです(ネットで調べた限りでは)。なんかややこしいですが、行ったり来たりといった感じです。公園の隅に、旧柳北小学校の記念碑が建っています。



柳北公園にはいろいろな遊具が備わっていますが、一際目を引くのは大きな船の形をした複合遊具です。船首のはしごや船尾の階段を上って甲板に立てば、一人前の船乗りになった気分になることでしょう。中心部にはネットが張られていて、飛び乗ったりして遊べます。船尾にはスロープ(すべり台)もあります。船の両脇にはブランコがあり、片方が普通のブランコですが、もう片方は座席とストッパーが付いた幼児用のブランコになっています。



公園の敷地の入口横に、見所ポイント@の「蓬(莱)園跡」記念碑が建っています。

蓬(莱)園跡

現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北小学校のある一帯に、江戸時代、肥前国(現、佐賀県、長崎県の一部)平戸藩主松浦氏の屋敷があった。寛永九年(1632年)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、別邸を造営し、庭園を築造した。庭園はのち蓬(莱)園と命名された。明治四十年(1907年)刊行の「東京案内」には「文化文政の頃の築造に係り、東都名園中現存するものの一也」と記されている。園内の模様は大正三年(1914年)刊行の「浅草区誌」に詳しい。同書によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、十三基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約二千六百坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていた。この名園も、関東大震災のため荒廃し、消滅した。現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけである。

REMAINS OF HORAIEN

Here stood the residence of the Matsura family and a huge garden called Horaien. The Matsuras were feudal lords of the Hirado Clan (part of Saga and Nagasaki prefectures). Horaien was a beautiful Japanese garden, the area of which was about 8580 square metre. It had a big pond in the centre and the pond was surrounded with hillocks, an arbour, and about thirteen stone lanterns. This beautiful garden was destroyed in the Great Kanto Earthquake of 1923. A part of the pond and a tall gingko tree (a cosmopolitan natural monument) still exist in the northeastern corner of the playground of the Shinobugaoka High School.




忍岡高等学校の校内には入れませんが、グラウンド東北隅に池の一部らしい円形の囲いと大きな木が枝を広げています。桜の木のように見えますが、あれが大イチョウの木でしょうか?



蔵前橋通りを挟んで、南側は浅草橋・北側は鳥越の町域になります。

旧町名由来案内 旧浅草鳥越二丁目

本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(1185年)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉二年(651年)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀つた。その後、永承(1046年〜1053年)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事渡ることができた。義家公はこれ白鳥大明神のご加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。
「鳥越夜祭り」
六月九日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なかでも見ものは宵の宮入である。火入れ式のあと氏子衆によってかかげられた百数十の高張提灯と担ぎ手の熱気によって祭は最高潮に達する。




鳥越二丁目には町名の由来となった見所ポイントAの「鳥越神社」があります。千貫神輿で知られていますね。

鳥越神社

当神社は、白雉二年(651年)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1046年〜1052年)、奥州の安倍貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義、義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名付けた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前四丁目十六番付近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑い、また正月八日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。

TORIKOE SHRINE

The Torikoe Shrine, founded in about 651, is an establishment dedicated to Yamato-takeru-no-mikoto. Amanokoyano-no-mikoto and Tokugawa leyasu. Its festival is held on the Sunday near June 9, and the passage of a gigantic portable shrine, which is called a 1,000-kan (quite heavy) portable shrine, attracts many people as the Night Festival of Torikoe. The Tondo-yaki held on January 8 is an event in which New Year decorations, the preceding year's charms, etc. are gathered and burned in the compounds of the shrine.




大鳥居の前には「白鳥橋」が架かっています。白鳥大明神が祀られた「白鳥山」または大川の浅瀬を教えた「白い鳥」に由来するものと思われます。



蔵前橋通りの北側に並行して延びる鳥越本通りは、「おかず横丁」と愛称されています。総延長230mに及ぶ通りには、日用食料品を取り扱う店が並んでいます。特に惣菜を扱う店が多いので、おかず横丁と呼ばれるようになりました。



明治から大正時代にかけては店が点在する程度でしたが、関東大震災後に商店街として発展しました。戦前は東西に分かれたふたつの商店街(東側は鳥盛会・西側は商正会)でしたが、昭和二十四年に一本化して、現在の鳥越本通商盛会が誕生しました。おかず横丁の東には鳥越神社が鎮座しています。この付近一帯には印刷業・帽子製造業など町工場が多かったため、ご飯のおかずの需要が多く、それで惣菜のお店が並ぶようになりました。明治時代創業という歴史ある魚屋「魚米(うおよね)」では、「刺身と焼き魚・味噌漬けが人気」とのことです。昭和四十年代以降は店主の高齢化や後継者不足などで閉店する店も増えましたが、イベントの実施など商店街活性化策により、提灯の下る下町風情あふれる商店街として再注目されています。



蔵前橋通りを西に進みます。民家の間に挟まれた細い参道の奥に見所ポイントBの「桜稲荷」が鎮座しています。小さいながらも朱の鳥居が目立ちます。案内板には、伊勢の津藩主藤堂邸にあった稲荷に、戦後になって京都伏見稲荷本社から御本体を遷座したとあります。「桜(櫻)」は何に由来するんでしょうか?

桜稲荷神社縁起

大正十二年、東京大震災の後、当時藤堂家邸内ニ鎮座マシマセシ稲荷神社ノ放置荒廃ヲ案ジ、岡本悟一氏世話人トナリ、現在境内ニ建立シアル石碑ニ記名奇特ノ方々ト相ハカリ、昭和三年十一月新ニ神祠ヲ建立、遷座ヲ奉ジ桜稲荷神社ト奉称、今日ニ至ル。以後、大東亜戦争ノ末期、昭和二十年二月二十五日、空爆ニヨリ神祠破壊焼却セルモ、昭和二十四年春岡本悟一氏再建ス。次デ昭和二十七年四月、隅井菊生氏御本体ヲ京都伏見稲荷本社に詣デ奉受シ、コゝニ改メテ鎮座ヲ拝ス。昭和五十五年五月、川西惟隆氏ノ尽力ニヨリ祭礼用器具並ニ防災用具ノ倉庫構築、昭和五十六年四月祠屋ノ修理改築ヲ行フ。




蔵前橋通りはJR線の高架下を通りますが、山手線・京浜東北線の秋葉原駅〜御徒町駅間の高架下には、2010年12月10日に開業したJR東日本都市開発が運営する商業施設の「2K540 AKI−OKA ARTISAN」があります。名称の「2K540」は東京駅を起点としたJR東北本線の距離(キロ程)で、東京駅から2、540m=2K540m付近に位置することを示し、「AKI−OKA」は秋葉原駅と御徒町駅の中間にあることを、「ARTISAN」はフランス語で「職人」をそれぞれ意味します。この周辺には古くから職人が多く住んでいて、近年は自ら「モノづくり」を行うクリエイターが増えてきていることから、こうした「モノづくり」の土壌を生かし、職人的なクリエイターによる店舗を入居させ、従来型の商業施設と異なるコンセプトで運営を行っています。第一期として入居している32店舗はアトリエや工房を構えたものが中心となり、カフェなどもあります。見たり購入したりするだけでなく、訪れた人が「モノづくり」を体験できるワークショップも開催しています。2011年9月29日には、第二期として北側に新たに20店舗がオープンしました。商業施設は高架下とは思えないほど広々としていて、天井や高架を支える柱も神殿のような雰囲気を醸し出しています。お店の飾り付けもお洒落で、まるで高級ブティックが並ぶ高級モールのような感じです。



末広町駅角で蔵前橋通りを右折して中央通りに入ります。2番目の路地は錬成公園通りと呼ばれています。通りの中ほどに練成公園があります。芝と樹木に包まれた緑あふれる都心の公園です。公園の中に松浦武四郎居住地跡の案内板が立っています。

松浦武四郎居住地跡

松浦武四郎は、文化十五年(1818年)に伊勢国(現在の三重県)に生まれ、日本全国を旅し見聞を広めました。その後、蝦夷地に渡り、蝦夷地の豊かな原始の自然に魅せられ、アイヌの人たちとともに全6回、13年にわたり、山川草木の全てを調査しました。明治時代になると、政府が設けた開拓使の役人となり、明治二年(1869年)に蝦夷地に代わる名称を政府に提案しました。武四郎の名称案の中から「北海道」が選ばれ、命名されました。明治六年(1873年)に神田五軒町に屋敷を構え、明治二十一年(1888年)に亡くなるまで、この地で暮らしました。武四郎が屋敷に建てた一畳敷の書斎は、現在は国際基督教大学(三鷹市)に移築保存されています。

Remains of Matsuura Takeshiro's Residence

Matsuura Takeshiro was born in Ise Province (now Mie Prefecture) in 1818, and travelled all around Japan, making discoveries as he went. Later, he went across to Ezo (modern-day Hokkaido), and was enchanted by the rich, original nature there together with the Ainu, the indigenous people of Japan, he investigated all of the natural world of Ezo on six separate occasions over thirteen years. In the Meiji Period (1868-1912), he became an official in the Hokkaido Development Bureau set up by the government, and in 1869 proposed alternative names for Ezo to the government. "Hokkaido" was chosen from among these proposals, and so it was named. In 1873, he took up residence in Kanda Gokencho, and lived there until his death in 1888. The study he constructed for his residence, a room with the area of a single tatami mat (approximately 1.82 square metre), has been reconstructed and preserved in the International Christian University (Mitaka City).




錬成公園に面して、旧千代田区立練成中学校の校舎が建っています。現在は、「3331 Arts Chiyoda」の拠点施設として使用されています。施設は、2005年に統合により閉校した千代田区立練成中学校の校舎を改修して、2010年3月14日にプレオープンし、2010年6月26日にグランドオープンしました。運営は区が公募で選定した運営団体「合同会社コマンドA」が行い、アーティストの中村政人氏(東京藝術大学教授)が統括ディレクターを務めています。施設名称の3331とは、“シャン・シャン・シャン”と3回手を打つことを3度、合わせて「九(苦)」となり、最後の“シャン”でその苦を払い、「九」に一画加えて「丸」になる=丸くおさまるという、おめでたい席で感謝の意を表す風習として江戸時代から受け継がれてきた「江戸一本締め」の音を数字で表したものです。かつて教室として使用されていた部屋をギャラリーに改修し、体育館として使用されていた建物を多目的スペースとして貸し出すなどして活用しています。建物の老朽化による大規模改修のため、2023年3月31日で閉館しました(訪れた当時は開館していました)。



中央通りに面したビルの角に案内板が立っています。ここに日本初の喫茶店があったそうです。

日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地

明治二十一年(1888年)4月13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名・西村鶴吉)によりこの地に設立された。二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。一階には「トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋」を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室・化粧室・シャワー室・調理場などの設備の他に、「内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縱覧に供す」部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル・角テーブルを配置、椅子は籐であった。コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理・パン・カステラなども出していた。ちなみに当時、「もりそば」は八厘であった。設立者の鄭永慶は、近松門左衛門作の「国性爺合戰(こくせんやかっせん)」で有名な鄭成功の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場(コーヒーハウス)とすることを理念としての開店であった。




中央通りに面した「うさぎや」という和菓子屋さんの看板商品は「喜作最中」と「どらやき」だそうで、「喜作」は二代目店主のお名前だとか。なみなみならぬ思いがあるのでしょう。藤井聡太先生が「うさぎまんじゅう」を注文したら爆売れででしょうね。



歩道脇に旧町名由来案内板が立っています。「黒門」の町名は、上野に寛永寺が創建され、その門前町として発展してきたという由来があるのでしょう。

下町まちしるべ 旧西黒門町

東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永三年(1626年)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が「東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と述べられているのに由来する。上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869年)御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。明治五年、上野西黒門町は伊勢亀山藩上屋敷と武家屋敷を合併して町域を広げ、明治四十四年には上野の二字を略し、西黒門町となった。




見所ポイントCの「黒門小学校」は明治四十三年5月7日に創立され、江戸時代から日本を代表する繁華街である上野の街がそっくり学区になっています。校舎は都内でも少なくなった関東大震災後の復興小学校(1930年竣工)を現役の校舎として使用していて、重厚な雰囲気を醸し出しています。現存する震災復興校舎の中でも名建築として高く評価されている校舎を文化財・歴史的建造物として保存し、また現役の校舎として永く使い続ける為に、平成二十六年(2014年)から平成三十一年(2019年)までの期間、東京芸大などの専門家が監修して耐震化を含めた改修工事を実施し、創建当時の優美な佇まいを取り戻しました。卒業生の殆どが私立・国立の有名中学に進学する為に、千代田区の番町小や中央区の泰明小などと共に都内を代表する公立小学校の名門として広く認知されていて、都内や近県からの区域外就学児が児童の半数以上を占めています。校歌は卒業生の山田耕筰が作曲しました。その他の卒業生には、歌手の小椋佳や演出家の石井ふく子がいます。



御徒町から湯島天満宮へ通じる黒門小学校の前の道路には、「学問のみち」という愛称が付いています。

「学問のみち」は湯島天満宮(湯島天神)の東参道として栄えたといわれ、古くより存在する由緒ある「道」です。この地域は、幕末の上野戦争の舞台であり、広小路界隈(現・松坂屋上野店あたり)に西郷隆盛率いる薩軍を主力とした部隊が陣を敷き、「学問のみち」を進軍したといわれています。



ゴール地点の旧岩崎邸庭園に着きました。長い石垣の上には煉瓦塀が再現されています。桟瓦とは、断面が波形をした瓦のことで、S字の山の部分の連なりが障子の桟のようなのでこの名前が付けられました。

煉瓦塀

当初は、煉瓦積み黒漆喰仕上げの塀であり、桟瓦が葺かれていた。黒漆喰仕上げは耐水性と耐火性に優れた工法で商家や蔵に用いられることが多かった。耐震補強工事の際に発掘された瓦を使用し、当初の様子が一部復原されている。

Brick wall

At first, it was a wall of the brick with black plaster finish and San-Gawara (the crosspiece roof tile) was put on the top. The black plaster finish was often used for the merchant's house and the warehouse by an excellent industrial method in the water resistance and fireproof. A part of first appearance has been restored by using the tile excavated when earthquake resistant reinforcement is constructed.




旧岩崎邸庭園は、三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を都立公園として整備したものです。

旧岩崎邸庭園の歴史

旧岩崎邸庭園内の建物は、三菱の創業者岩崎家本邸の旧宅です。庭園内の建物のうち洋館と撞球室は、近代日本の建築界に大きな足跡を残したJ.コンドルの設計で、明治二十九年に建築されました。洋館は木造2階建て、地下室付で、イギリス17世紀初頭のジャコビアン様式を基調とし、明治洋風建築を代表する建物です。洋館に併置された和館は書院づくりを基調とし、棟梁は政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられています。和館内には橋本雅邦が下絵を描いたとつたえられる障壁画が残っています。昭和三十六年(1961年)に洋館と撞球室が重要文化財に指定されました。昭和四十四年(1969年)には和館大広間と洋館東脇にある袖塀が、平成十一年(1999年)には宅地、煉瓦塀、実測図が国の重要文化財に指定されています。

Kyu-Iwasaki-tei Gardens history

Kyu-Iwasaki-tei Gardens is the former main residence of the Iwasaki family, the founder of Mitsubishi. This garden consists of three buildings built in the Meiji era- a western-style residence, a Japanese-style residence, and a billiard room, as well as a lawn garden. It has been designated by the national government as an important cultural property. The western-style residence and separate billiard room were designed by Josiah Condor, who has been described as "the father of modern architecture in Japan". They are some of the most representative examples of Japan's western-style architecture of the Meiji era. The design of the Japanese-style residence, which was built alongside the Western-style residence, was based on the classic Shoin style. This prestigious building was created by the master Japanese carpenter, Okawa Kijuro, who was a famous craftsman of the era. Screens and fusuma sliding door paintings, the sketches of which are believed to have been the work of Hashimoto Gaho, a well-known painter of the period, can still be found in the residence.




旧岩崎邸は明治二十九年(1896年)に岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸として建てられました。往時は約1万5000坪の敷地に20棟もの建物が並んでいました。現在は3分の1の敷地となり、洋館・撞球室・和館の3棟だけが現存しています。木造2階建・地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で、近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが往事のままの雰囲気を漂わせています。

旧岩崎家住宅(重要文化財)

明治から昭和にかけての実業家、岩崎久弥のかつての住宅。明治二十九年竣工した。設計者はイギリスのジョサイア・コンドル。上野の博物館(現在の東京国立博物館)や鹿鳴館など数多くの官庁の建造物の設計監督にあたり、十九世紀後半のヨーロッパ建築を紹介して日本の近代建築の発展に指導的役割を果たした。同一敷地内に洋館・社交の場、和館・生活の場を併立する大邸宅は明治二十年頃から建てられたが、岩崎邸はその代表例であり、現存する明治建築として貴重である。洋館(木造二階建地下室附)正面に向かって左半分が主屋でスレート葺の大屋根をかけ、その右にやや規模の小さい棟が続く。両者のあいだの玄関部には塔屋がたち、角ドーム屋根となっている。南側のベランダには装飾を施された列柱が並び、全体的にはイギリス・ルネッサンス風となっている。洋館左側に建つ撞球室(ビリヤードルーム、木造一階建地下室附)とは地下道でつながれている。洋館と撞球室は昭和三十六年に重要文化財の指定を受け、昭和四十四年には、和館内の大広間と洋館の袖塀一棟が追加指定を受けた。

FORMER IWASAKI RESIDENCE (IMPORTANT CULTURAL ASSET)

The former residence of Iwasaki Hisaya, who was an industrialist from the Meiji to the Showa periods. Constructed in 1896. Designed by English architect Josiah Conder. He played a leading role in introducing 19th Century European architecture into Japan and contributing to the development of modern architecture in Japan by designing many structures such as the Museum (now the Tokyo National Museum), Rokumeikan, and various government buildings. The palatial home which consists of the Western wing for social events and the Japanese wing for living space was based on a style that began in The Iwasaki residence was typical of this style and is an important example of Meiji architecture. The Western wing and the pool room was designated as important cultural assets in 1961 and in 1969. Also designated were the grand hall of the Japanese wing and another section of the Western wing.




旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家の屋敷地でした。その時からあったと思われる推定樹齢400年といわれる大銀杏の木が聳えています。12月上旬には大銀杏の葉が黄色に色づき、洋館とのコントラストを楽しむことができます。

推定樹齢400年 イチョウ 雄、幹周7.4m

江戸時代、越後高田藩榊原家屋敷時代よりこの地にあったと思われる大イチョウ。イチョウは老木になると幹枝から「乳」あるいは「垂乳」と呼ばれる乳房状のこぶが垂れ下がることがあり、このイチョウにも見られます。12月初旬の黄葉の季節には、洋館正面玄関のステンドグラスを黄金色に染め上げ、やがて降り積もる落葉は、またたく間に車寄せ広場を黄金色の絨毯で埋めつくします。




正面に聳える洋館は、建築面積が160余坪・木造2階建・地下室付の建物です。下見板張りペンキ塗り仕上げの外壁、天然スレート葺の屋根、玄関上部が角ドームの塔屋、庭に面した南側には二層のベランダが付いています。1階にはホールを中心に諸室が配され、主に接客に利用されました。例外的に当主久彌の書斎があり、日常的に使用されていました。通路の西端は、和館へとつながる渡り部と連結しています。2階には婦人客室や集会室など、来客用ではありますが比較的プライベートな空間が配されていました。現在はない浴室には、バスタブとともにシャワー設備がありました。洋館の地階には、都市ガスを利用したボイラー室や倉庫などが設けられていました。地階と撞球室はタイル張りの通路で結ばれていました。

洋館

明治二十九年(1896年)、三菱を創設した岩崎家の本邸として竣工。設計は英国人建築家、ジョサイア・コンドル。当時としては珍しい木造2階建て地下室付きの建物は、イギリス・ルネサンス様式を基調とし、主にゲストハウスとして用いられた。玄関のある建物北側と館内には、随所にジャコビアン様式の装飾が見られる。また、米国ペンシルベニアのカントリーハウスのイメージも取り入れられ、南側にはコロニアル様式の2層のベランダと列柱が見られる。東側サンルームは明治四十年(1907年)以降に増築されたものである。

Western Residence

This structure, design by the british architect Josiah Condor, was built as the Iwasaki family's residence in 1896. The wooden two-story building, including a basement which was very rare in those days, embodies the basic style of British renaissance architecture. It was mainly used as a guest house. Jacobian-style ornaments can be seen at the north entrance of the building and elsewhere inside the residence. In addition, Pennsylvania country-house architecture was adopted, and colonial double-layer verandas and pillars can be seen on the south side. The sun room on the east side was added after 1907.




折角なので邸内を見学してみます。旧岩崎邸の概要を記した案内板が立っています。

旧岩崎邸概要

本邸は、明治二十九年(1896年)、三菱を創設した岩崎家の本邸として建てられた。ジャコビアン様式を基調にした洋館と木造ゴシック風デザインの撞球室は、ともに英国人建築家のジョサイア・コンドルにより設計されたものである。和館は大名建築の流れをくみ、現存する大広間は書院造りを基調に建てられている。建物及び庭は、いずれも和洋の両様式が併置され、明治時代以降の日本の上層階級の住宅を知るうえで貴重な遺構である。

Facts about the former Iwasaki residence

The Iwasaki Garden, built in 1896, was one of the residences of the Iwasaki family, which founded the Mitsubishi Financial Group. A unique feature of the estate is the combination of both Japanese-style and Western-style structures. The Western-style residence was designed by the British architect Josiah Condor and is based on Jacobian-style. The Japanese-style residence was designed in the Damiyo style. Iwasaki Garden remains an important monument of the Meiji-era to understand the living arrangements of upper-class people of that time.




洋館各部の説明が続きます。

正面玄関 [洋館1階]

ステンドグラスは当時のもの。床には目地のないモザイクタイルが敷き詰められ、賓客を迎えるにふさわしい装飾を見ることができる。ファサードの列柱は、バンド飾りをまわしたジャコビアン様式となっている。玄関のある北側の装飾にも、ジャコビアン様式のデザインが多数見られる。

Main Entrance [Western Residence 1st Floor]

Stained glass and jointless tiles are employed, resulting in a building suitable for accommodations for distinguished guests. Jacobian-style pillars can also be seen here.

ホール [洋館1階]

鹿鳴館時代を彷佛とさせる1階中央のホール。天井の意匠、床の木組、暖炉のしつらえなど、随所に手の込んだデザインが施されている。各室に暖炉が設けられているが、こうした設備の有無が本格的な洋館の証のひとつとされる。日常は西側通路で結ばれた和館から移動する際にスリッパを使用し、外国からの来客があったときにだけ靴を履いたという。

Main Hall [Western Residence 1st Floor]

The same type of design can be found at Rokumeikan, a famous Jance hall from the Meiji Era. Luxurious decorations are seen in various places, especially on the ceilings, on the wooden floors and at the Areplace. Similar fireplaces can be seen in many rooms here, proof that this home was designed in true Western style. The Iwasaki family would usually wear slippers here when coming from the Japanese residence. However, they would change into shoes when guests from abroad visited.

大食堂 [洋館1階]

主に来客の際の食堂として用いられ、日常は和館の食堂が用いられました。ときとして岩崎家の子弟が当主久彌に呼ばれて、ナイフやフォークを並べてテーブルマナーを教わることがあったといいます。食堂と厨房を結ぶ扉はノッカーがあり、上下が別々に開く造りで、食事の進み具合を見て料理が出されていたことが想像されます。

Main Dining Room [1st Floor of Western-Style Building]

This was used mainly as a dining room when there were guests. The Japanese-style building was used for everyday dining. The master of the house at the time, Hisaya, is said to have summoned the Iwasaki family children here on occasion to set out arrays of knives and forks and teach them table manners. There is a knocker on the door between the dining room and the kitchen. The top and bottom halves of the door are fashioned to open separately, and it is easy to imagine the cooks and waiters watching the progress of a meal to judge when to serve the next dish.

ベランダ [洋館1階]

南側1、2階には、コロニアル様式の大規模な二層のベランダが設けられている。1階にトスカナ式の列柱、2階にイオニア式の列柱が立っている。床には多色象嵌のビクトリアン・タイルが、一面に敷き詰められている。

Verandas [Western Residence 1st Floor]

Colonial-style verandas were built on both the first and second floors on the south side. Tuscan-style pillars on the first-floor veranda and lonian-style pillars on second-floor veranda are featured here. Various colors of Victorian-style tiles are used on the floors.




旧岩崎邸のタイル(ミントン製)

旧岩崎邸庭園の洋館南側ベランダ床に用いられているものと同じタイル。旧岩崎邸庭園のタイルは、長い間ヴィクトリア朝時代のものとしか知られていなかったが、最近この1枚が発見されたことによって、裏面の刻印が確認され、ミントン製のタイルであることが明らかになった。

来歴

洋館の設計者であるジョサイア・コンドルは、来日前、母国英国での修業時代に、ヴィクトリアン・ゴシック派建築家の中有心的人物の一人であったウィリアム・バージェス(William   Burges【1827年〜1891年】)の事務所で働いていた。師であるパージェスは、ピュージンの建築理念が基となって設立されたケンブリッジ・キャムデン協会の会員で、後期ヴィクトリアン・ゴシック建築をリードした人物として広く知られている。こうした関係からコンドルは、久彌の理想をかたちにしようとしたのだろう。その方法のひとつとして、ヴィクトリアン ゴシック様式を壮麗に彩ったミントンのタイルをイメージ、前庭への重要なアプローチであるベランダの床をミントンのタイルで飾ったのである。さらに、部屋の用途によりデザインの異なる暖炉を各部屋に配置し、そのいくつかもまたミントンのタイルで装飾を施している。こうした装飾の数々は、洋館がもつ静謐な様式美をより特徴づけることになった。

ミントン(MINTON)

1793年、ロンドンやストーク・オン・トレントで活躍した銅版彫刻師のトーマス・ミントンにより創立され、1798年よりボーンチャイナの製造をはじめる。1840年、初めてミントン社を訪れたヴィクトリア女王から賜った最初の注文により高い評価を得て、1856年には英国王室御用達となった。以来、世界の王室で愛され続ける陶磁器ブランド。19世紀にミントンのタイルは建築用の材料としてだけではなく、そのデザインのバリエーションの見事さで知られていた。英国内では、ロンドンのウェストミンスター・国会議事堂などに用いられ英国以外でも、米国ワシントンの国会議事堂などの重要な建築物に使用されている。個人邸にミントンのタイルが用いられた例は非常に少ないとされる。




洋館婦人客室の天井刺繍

天井を飾る華やかな花鳥文様の刺繍は、建築と共に今日までオリジナルな形で伝えられている貴重な例であり、室内装飾用刺繍としても注目に値します。明治二十年〜明治三十年頃は優れた美術織物が作られた時期で、その大きな原動力となったのが明治二十三年に竣工した皇居造営に伴う内装や家具に用いるための装飾染織品のご用命であったとされています。従来の日本人の生活の中に無かったカーテン・卓布・壁貼布・椅子貼布などを新しく、しかも世界に誇ることができるものを作る。その要請に応え、室内装飾としての染織品が開花していきました。この天井刺繍もそうした時期に作製されたものです。図案のモチーフは小鳥やアーカンサス葉をあしらったバラの花束と、大輪の菊花の2つですが、32面のパネルの図様表現はそれぞれに異なっています。修理のために天井から下ろしたところ、裏面には退色していない鮮やかな色彩が保たれていました。丹念な美しい刺繍で、こよりや綿を用いて立体感や輪郭をはっきりと出す技法がとられています。




サンルーム [洋館1階]

明治後期に増築されたといわれる東側のサンルーム。室内から台形に角度をもって張り出したベイウィンドーがデザインに採り入れられている。館内には暖炉、スチームがあるが、サンルームには暖房を補う役割もあった。

Sunroom [Western Residence 1st Floor]

This room is thought to have been added in later years. It features a uniquely-shaped bay window. Though there is a fireplace and heater in the room, the windows would have provided heat as well.




洋館地下に広がる空間

このらせん階段を下り左手に進むと、洋館の東側に位置する撞球室(ビリヤード場)へ移動するための地下道へつながっています。地下は洋館地上部分とほぼ同じ面積があり、スチームストーブ用の蒸気を生み出すボイラー室や調理室、倉庫、使用人用の水洗トイレなどのバックヤード機能も備えていました。




洋館と撞球室をつなぐ地下道

窓の外に見える井戸のような四角形の石組は、地下道のための通気口です。この下には洋館と撞球室(ビリヤード場)をつなぐ地下道が設けられています。通路には白い焼き付けタイルが全面に貼られ、天井には光取りのためのガラスがはめ込まれています。




小岩井農場は岩崎久彌が創設したのですね。

岩崎久彌が愛した小岩井農場

小岩井農場は明治二十四年(1891年)、岩手山南麓に開設されました。共同創設者の小野義真(日本鉄道会社副社長)、岩崎彌之助(三菱社社長)、井上勝(鉄道庁長官)3名の頭文字をとって「小岩井」と命名しました。その後、明治三十二年(1899年)、岩崎久彌が岩崎家の事業として引き継ぎ、近代日本の農牧業の発展に寄与しました。農牧業に造詣の深かった久彌は、小岩井農場を愛し毎年夏には家族と一緒に避暑に訪れました。朝早くから、農場の中を歩き回ったり、馬に乗って遠出をしたり、農場での生活を楽しんでいたそうです。




洋館と結合された書院造りの和館は当時の名棟梁大河喜十郎の手によるものと言われています。



和館に入ります。床の間や襖には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画などが残っています。現存する大広間を中心に 巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。

和館内部と橋本雅邦

洋館は主にゲストハウスの役割を持ち、和館が岩崎家の日常生活の場となっていました。和館は、往時は14部屋もの居室が並ぶ豪壮な屋敷でした。現存する和館は、書院造りを基調とした広間、次之間、三之間、待合室の4室からなります。主に岩崎家の冠婚葬祭に使用されました。床柱、鴨居、長押、欄間、天井板など部材には、檜や杉の大木が使用されています。また、和館建具の意匠として、岩崎家の家紋である「重ね三階養」を基調にした装飾が随所に配されています。床の間の壁絵、襖絵、板絵には、春から冬までの四季折々の景観が描かれています。その障壁画のほとんどは、明治期日本画壇の巨匠、橋本雅邦に岩崎久彌(三菱三代社長)が制作を依頼したと伝えられています。本邸完成の前年、明治二十八年(1895年)の第4回内国勧業博覧会に際して岩崎彌之助(三菱二代社長)の後押しにより「龍虎図屏風」(重文・静嘉堂文庫美 術館収蔵)を出品するなど雅邦と岩崎家とのつながりが見てとれます。金泥や銀泥を用いて描かれた障壁画には、随所に雅邦らしい筆致を見ることができます。狩野派の伝統的な画法の上に遠近や明暗など、西洋の合理的な空間処理を用いたといわれるように、穏やかながらも新鮮な空間構成が漂っています。床の間の絵に描かれた「富士山に波」の図は、こうした画風をよく表しています。雅邦の功績は大きく、フェノロサや岡倉天心らの支援を受けながら、東京美術学校(現東京芸術大学)に奉職し、伝統絵画の近代化に重要な役割を果たしました。また、職を辞してのちに日本美術院創立に参画するなど後進の指導にも尽力し、日本画壇に大きな功績を残しました。門下には、横山大観、下村観山、菱田春草、川合玉堂など、日本画壇に名を残す多数の画家がいます。

橋本雅邦(はしもとがほう)
天保六年(1835年)、江戸木挽町狩野晴川院の邸内に生まれる。父は川越藩主松平周防守の抱絵師橋本晴園養邦。弘化四年(1847年)、幕府絵師狩野勝川院雅信の門に入る。号は勝園雅邦、別号に十雁斎、克己斎、酔月画生などがある。同門に狩野芳崖がいた。明治十五年(1882年)第1回内国絵画共進会で銀賞。この頃フェノロサの知遇を得る。同二十一年(1888年)、東京美術学校奉職。翌年、岩崎邸そばの本郷区龍岡町に居を移す。同二十三年(1890年)、内国勧業博覧会で一等。同三十一年(1898年)、岡倉天心とともに日本美術院を創立して主幹。明治四十一年(1908年)、逝去。

Hashimoto Gaho and the Japanese-Style Building Interior

The Western-style building served mainly as a guest house, and the Japanese-style building was where the Iwasaki family lived their daily lives. In former times, the Japanese-style building was a grand mansion with 14 sitting rooms. As it exists today, the Japanese-style building consists of four rooms in the classic Shoin style: the main audience hall, adjacent second and third chambers, and a waiting room. These were used primarily for Iwasaki family weddings and other such ceremonial events. The materials used for the alcove pillar, lintels, tie beams, transom panels, ceiling panels, and other such structural components are taken from great logs of Japanese cypress and cedar. The sliding doors and other such fixtures in the Japanese-style building are also liberally decorated with designs based on the motif of the Iwasaki family crest, which consists of triple overlapping diamond shapes. The surface paintings in the tokonoma alcove, on the sliding paper doors, and on the wooden panels depict seasonal scenes from spring to winter. most of the surface paintings are said to have been commissioned by Iwasaki Hisaya (the third-generation president of Mitsubishi) from Hashimoto Gaho, a noted painter in the Japanese style during the Meiji Era (1868-1912). The nature of Gaho's connection with the Iwasaki family can be seen, for example, in the support given by Iwasaki Yanosuke (the second-generation president of Mitsubishi) to a submission by Gaho to the 4th National Industrial Exhibition in 1895, the year before the mansion was completed. The work Gaho submitted, a set of folding screens depicting a dragon and tiger, has been designated an important cultural property and is housed in the Seikado Bunko Art Museum collection. Painterly touches typical of Gaho can be seen throughout the surface paintings made using gold and silver pigments. The use of perspective and chiaroscuro in paintings of the traditional Kano school style has been said to demonstrate the application of a Western, rational handling of space, and the effect of the rooms is at the same time serenely traditional and freshly modern. The scene of "Mount Fuji and Waves" painted in the tokonoma alcove is a fine example of this painting style. Gaho was an artist of great accomplishments. While receiving support from such cultural figures as Ernest Fenollosa and Okakura Tenshin, he also held a position at the Tokyo Fine Arts School (now Tokyo University of the Arts), and performed a major role in the modernization of traditional Japanese painting. After resigning his position, he played a part in founding the Nihon Bijyutsuin (Japan Art Institute), devoted himself to guiding the next generation of artists, and left a major record of accomplishments in the Japanese art world. The disciples of Gaho include numerous artists renowned in Japan, including Yokoyama Talkan, Kanzan Shimomura, Hishida Shunso, and Kawai Gyokudo, among others. Hashimoto Gaho Gaho was born in 1835 in the mansion of Kano Seisen'in in the Kobiki-cho area of old Edo. His father was Hashimoto Seien Osakuni, an official painter for Matsudaira Suo-no-Kami, the Daimyo of Kawagoe. In 1847, he became a disciple of Kano Shosen'in Masanobu, who was an official painter to the court of the Shogun. His nom de plume was Shoen Gaho, and he also used the names Jugansai, Kokkisal, and Sulgetsu Gasel, among others. Kano Hogal was also a member of the same school. In 1882, Gaho won a Silver Prize at the 1st Naikoku Kaiga Kyoshinkal (Domestic Painting Competition). It was around this time that he began receiving significant support from Fenollosa. In 1888, he took a position at the Tokyo Fine Arts School. The next year, he moved to Tatsuoka-cho in Hongo Ward, near the Iwasaki mansion. In 1890, he won First Prize at the National Industrial Exhibition. In 1898, he founded the Nihon Bijyutsuin (Japan Art Institute) with Okakura Tenshin and became its head. Gaho died in 1908.




庭園は生憎と工事中でした。大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。



別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の木造建築で、洋館から地下道でつながっていま す。

撞球(どうきゅう)室(ビリヤード場)

設計は洋館と同じく英国人建築家のジョサイア・コンドルで完成は明治三十年(1897年)以降とされる。日本には珍しいスイスの山小屋風の木造建築で、校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、木造ゴシックの流れをくむ建物である。

Billiard Room

This room, also designed by Josiah Condor along with the Western residence, was built sometime after 1897. It was designed to resemble a Swiss-style wooden mountain hut, which is very rare in Japan. The wooden Gothic structure, with its Large roof, deep eaves, and engraved pillars, is rare in Japan.




プレイはできませんが、建物の内部を見ることができます。

撞球室(ビリヤード場)

建築面積138u、地上1階と地下室からなり、明治三十年(1897年)以降に完成したと言われています。洋館と同じくジョサイア・コンドル設計の木造建築です。校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカの木造ゴシックの流れを汲むデザインで す。コンドルが「スイス・コッテージスタイル」と呼んだように、玉突場の天井のトラス構造などにスイスの山小屋のような特徴が見られます。壁には、3種類の金唐革紙が貼られており、平成二十四年度の修復工事により往時の姿に蘇りました。当時ビリヤードは紳士の嗜みごととされ、同じコンドル設計の鹿鳴館や旧古河庭園洋館にも撞球室が設けられています。しかし、別棟で撞球室が造られることは極めて稀なことで、洋館とは地下通路でつながっています。ベランダの前のガラスがはめ込まれた部分は、地下通路の明かり取りになっています。昭和十年代には、図書室として使うようになったとのことで、ビリヤード台は残念ながら残されていません。

Billiard Room

The exact date of construction of the billiard room is unknown. However, it was built sometime after the completion of the Westernstyle building in 1896. It was also designed by Josiah Conder. The wooden building is representative of the Gothic style, with its flat log walls and carved columns, and resembles a Swiss mountain lodge. Conder himself called it the "Swiss Cottage Style". It was designated as a nationally-important cultural property along with the Western-style building in 1961. Brown-embossed "Kinkara-Kawashi" style wallpaper was used in Billiard room. It is connected by an underground walkway to the Western residence.




ということで、台東区で七番目の「Gコース」を歩き終えました。ゴール地点の旧岩崎庭園が見所満載でした。次は台東区で八番目となる「Hコース(浅草寿地区健康推進委員おすすめ)」を歩きます。Hコースは途中に分岐するルートがあり、ふたつに分かれています。最初に、「吉原仲之町通りルート」を巡ります。




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