Hコース(浅草寿地区健康推進委員おすすめ)吉原仲之町通りルート  

浅草寿地区健康推進委員より一言
浅草寿地区の特徴

江戸開闢(かいびゃく:国などの始まり)以来の町並が残る寿地区。中でも静岡安倍川に由来する阿部川町は、町会名として、現在も残っている。徳川家康に纏わる孫三稲荷御座すこの町を西に見て、新堀通りを北へ歩く。文化の髄(ずい:物事の中心)、浅草の原点である。

歩行距離:4.8km、歩行時間:72分、消費カロリー:216kcal、歩数:6、858歩


コース 踏破記  

今日は台東区の「Hコース(浅草寿地区健康推進委員おすすめ)吉原仲之町通りルート」を歩きます。台東区南部区民事務所をスタート地点として、浅草名所七福神のうち五社を巡ります。  

スタート地点:南部区民事務所
@矢先稲荷神社
A鷲神社
B吉原辨財天
C吉原神社
D玉姫稲荷神社

ゴール地点:石浜神社


スタート地点の南部区民事務所から歩き始めます。台東区には西部・北部・南部の3ケ所の区民事務所があります。また、西部区民事務所には谷中分室、北部区民事務所には清川分室があります。この他、6ケ所の地区センターもあります。区民事務所とその分室では、殆どの証明書の発行、税金・保険料の納付、各種届出ができます。地区センターではこれらの業務は行なっていませんが、区民館の受付や町会との連絡・調整を行なっています。南部区民事務所の建物には寿区民館も入っています。区民館は、地域の人達の文化・創作活動やサークル活動など、自主的な活動を行なうための施設です。商店や企業の会議・研修にも利用できます。



南部区民事務所から新堀通りを北上します。「新堀通り」という通り名は、かって合羽橋道具街通りから新堀通りにかけて流れていた新堀川という掘割を暗渠にして、その上を道路にしたことに因んで名付けられました。



新堀通りに面して、都立白鴎高等学校・附属中学校があります。高等学校の附属というのは違和感がありますが、元々あった白鴎高等学校に中学校を併設して中高一貫校となり、このような名称になりました。都内では初の公立中高一貫校で、その母体となった東京府高等女学校は1888年12月に創立され、戦前から名門の高等女学校としてその名を全国に知られていました。東京府全域から才媛が通学し、「浅草の一女・小石川の二女(竹早)・麻布の三女(駒場)」と並び称されました。戦後に白鴎高等学校と改称されて男女共学になり、都立高校の中では日比谷高校(1878年)、戸山高校(1888年9月)に次いで3番目に古い歴史を持っています。日本の伝統芸能の継承を特長として打ち出しており、中学入試では囲碁・将棋・邦楽・邦舞の分野での特別募集枠を設定しています。卒業生には、漫画家の池田理代子・自由学園設立者の羽仁もと子・女優の沢村貞子・声優の野沢那智・将棋棋士の佐々木勇気/三枚堂達也など、多彩な人材を輩出しています。



都立白鴎高等学校・附属中学校の外壁の前には、かって存在した学校の記念碑が建っています。新堀小学校は明治三十四年に開校しましたが、戦後間もなく廃校となりました。

記念碑碑文

新堀小学校は明治三十四年六月尋常小学校としてこの地に開校され、前を流れる新堀川に面したることから、新堀の名を校名に冠したものである。大正年間には新堀実業補習学校(夜間)をも併設されたこともあるが、昭和二十年三月戦災を蒙って校舎の復旧開校に至らぬまゝ終戦を迎えたが昭和二十二年四月廃校に至ったのである。現在の台東区立台東中学校がその校地である。新堀の校名を永久に残すため、教職員並びに卒業生あいはかってこれを建てる。




台東中学校は昭和二十二年4月に都立第一女子高等学校(現在の白鵬高校)の敷地内に開校し、二年後に廃校となった新堀小学校の校舎を修復して移転しました。その台東中学校も平成十四年に閉校し、跡地に都立白鴎高等学校の附属中学校が設置されることになったのです。長い歴史がありますね。

沿革

昭和二十二年四月一日
新制中学校として、都立第一女子高等学校(現都立白鴎高等学校)内に設置。
昭和二十二年五月七日
第一回新入生百六十五名で開校式並びに入学式を挙行。
昭和二十四年四月十一日
旧新堀小学校校舎を修復し授業を開始する。
平成十四年三月二十五日
台東区立台東中学校閉校式。五十四年の歴史を終える。




菊屋橋交差点から北に延びる道路に沿って、かっぱ橋道具街があります。近年、外国人観光客にも人気で、飲食店関係者はもちろん、料理好きの人達にも重宝されています。ちなみに、菊屋橋という名称は、下谷と浅草を結ぶかっての新寺通り(現在の浅草通り)と、南北に流れていた新堀川が交差するところに架かっていた菊屋橋に由来します。



菊屋橋交差点の角に面して、「ニイミ」というテーブルウエア・調理機器・厨房用什器備品を扱う専門店のビルが建っています。店名は知らなくても、屋上に巨大なコックさんの像が鎮座するお店といえば分かるでしょう。コックさんの正式な名称は、「ジャンボコック像」で、高さ11m・重さ10tもあるそうです。ちなみに、コック像のモデルとなったのは、ニイミ店の二代目店主だそうです。現在の三代目社長室には、1/10サイズのオリジナルモデルが置かれているとのこと。巨大な像をどうやって屋上に取り付けたのでしょうかね?



調理道具の中でも外国人観光客に人気なのは包丁などの刃物類です。切れ味鋭い日本の包丁は外国の料理人にも好評のようで、一人で何本も買っていくそうです。調理道具だけでなく、飲食店を彩る各種厨房用什器備品のお店もあります。暖簾とか提灯とか、お客を呼び込むには必須のアイテムですからね。かっぱ橋道具街は、飲食店のプロの人達はもちろん、一般の人にもあらゆる調理道具・備品を取り揃えています。



正定寺は、慶長十八年(1613年)に伝国によって開山されました。当初は神田にありましたが、その後下谷に移転し、正徳四年(1714年)に松が谷の此の地に移転しました。



墓地には、幕末の剣豪と称された島田虎之助と、漆喰細工の名人として知られる入江長八(伊豆の長八)の墓があります。

島田虎之助の墓

虎之助は直心影流島田派の剣客。文化十一年(1814年)に豊前国中津(現大分県中津市)藩士、島田市郎右衛門親房の子として生まれた。十歳頃から、中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学んだ。上達が早く数年後には、藩内で相手になる者はいなかったという。十六歳の春および翌年には九州一円を武者修行し名声をあげた。天保九年(1838年)に江戸へ出て、男谷精一郎の内弟子となった。一年余で、師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。同十四年、東北方面に武者修行の後、浅草新堀で道場を開く。その道場には、勝麟太郎(のちの海舟)も通った。虎之助は男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれたが、嘉永五年(1852年)九月十六日に三十九歳で病没。墓碑には、「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と男谷精一郎の銘文が刻まれている。

伊豆長八の墓

長八は鏝絵(こてえ)を描き、「異本日本絵類考」に、「最古の技に長ぜり」「柱等に種々に絵画を泥装するをもて、専門の業となし、又花瓶額面等に、花卉鳥獣の形を塗る、世人以て絶妙の技となす」と評された人物。鏝絵とは漆喰を塗った上に、鏝で絵を描き出したもので、石灰絵ともいう。文化十二年(1815年)八月五日、伊豆国松崎で誕生した。俗に伊豆長八と呼ばれ、世に知られた。天保元年(1830年)に江戸へ出て、左官棟梁源太郎の弟子となった。修行のかたわら、狩野派の画法を学び、乾道と号した。また晩年には仏教学も学んで天佑と号したという。明治三年(1870年)に名字の名乗りが許されると、最初上田と名乗り、後に入江と改姓した。明治二十二年十月八日に七十八歳で、深川に没すると、遺骨は正定寺に埋葬され、同時に松崎の浄感寺にも分骨された。正定寺の墓石には、「入江家先祖の墓」と刻まれ、台石には「深川播磨屋」と養家の家号が刻まれている。




徳川幕府第三代将軍徳川家光は京都の三十三間堂に倣って、江戸版ともいえる「浅草三十三間堂」を創建しました。その守護神を祀ったのが見所ポイント@の「矢先稲荷神社」で、寛永十九年(1642年)に創建されました。寺名は、通し矢の的の向こう側にあったことから名付けられました。元禄十一年(1698年)の勅額火事により三十三間堂は深川に移転しましたが、矢先稲荷神社はそのまま残りました。ちなみに、深川に移転した三十三間堂は廃仏毀釈の影響を受け、明治五年(1872年)に廃寺となりました。拝殿の格天井には、日本乗馬史をモチーフにした絵が奉納されています。矢先稲荷神社は浅草名所七福神の一社で、福禄寿を祀っています。

当たり矢の矢先稲荷神社

御由緒
当社は寛永十九年(1642年)十一月二十三日に三代将軍家光が、当地に浅草三十三間堂を建立した際、その堂の鎮守として稲荷神を祭ったのに始まると伝えられています。社伝によると、その神像は、上野東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正の寄進であるといわれております。浅草三十三間堂射術稽古場の的先に奉納されたために、その社名も矢先稲荷神社と称されました。

浅草、寺社景跡三十三間堂絵図

寛永十九年(1642年)「弓師備後」「上野寛永寺天海僧正」の発企、武術奨励を願う三代将軍「家光公」の命により、浅草三十三間堂は創建されました。同じく鎮守社「矢先稲荷神社」が建立され三377の崇敬を集めています。明暦大火(明暦三年、1657年)後、「火除地」に設定された当地域に寺院が建て始め、新堀川が開削された寛文十一年(1671年)「浅草三十 三間堂」を中心とする長閑な時代を「田中辰斎絵師」が描いています。南北百二十メートル丹碧の大伽藍で行われる一昼夜の「通し矢」は、江戸名所として一世を風靡した華やかな時代でした。残念なことに元禄十一年(1698年)「勅額火事」と呼ばれる大火で焼失しました。存続すれば松葉町の様相も違ったものであったと思われます。




絵図の左下に浅草三十三間堂が描かれ、射術稽古場の的先(左端)に矢先稲荷神社の鳥居と本堂が位置しています。正に「矢先」ですね。



浅草三十三間堂跡の案内板も立っています。

浅草三十三間堂跡

「文政町方書上」によると、寛永十九年(1642年)十一月二十三日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。元禄十一年(1698年)九月六日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸火火が起こり、三十三間堂も焼失。跡地は公収された。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。

REMAINS OF ASAKUSA SANJUSANGEN-DO

Asakusa Sanjusangen-Do was built at this archery practice range by Yumishi (bow maker) Bingo in 1642 along the lines of the famous Sanjusangen-Do in Kyoto. The sport of shooting arrows from one end of the building to the target at the other end was very popular at that time. A fire destroyed the building in 1698 and three years later, it was reconstructed at Fukagawa in Koto Ward.




矢先稲荷神社が立地する松が谷町一帯は、かって松葉町と呼ばれていました。

旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧松葉町

本町は明治二年(1869年)、それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は、新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。寛永十九年(1642年)、この地域に「通し矢」で有名な京都東山の三十三間堂にならって浅草三十三間堂が建てられた。元禄十一年(1698年)に勅額火事といわれる大火に見舞われ、お堂は焼失したが、深川で再建されたことから跡地に下谷あたりの寺院が移転して寺院街を形成した。そしてこれらの寺院に門前町が開かれるに伴って、新寺町と呼ばれるようになった。浅留町と浅草坂本町ができたのもこの頃である。矢先稲荷神社は、三十三間堂の鎮守として稲荷神を祭るのに始まった。そして、社名は弓術練習のために造られた三十三間堂稽古場的先に奉祭されたことから、このように呼ばれた。




合羽橋交差点にやってきました。合羽橋交差点の南西側に小さな広場があり、「歴史と文化の散歩道」の碑が建っています。そこに「合羽橋」の名前の由来について解説がしてあります。

かっぱ橋の由来

合羽橋の由来には二つの説がある。その一つは、今から160年ほど前の文化年間のころ、この一帯は、水はけの悪い土地でたびたび出水を起こしていた。そこで、合羽川太郎(本名:合羽屋喜八)は、私財を投じて排水工事に着手したが、工事はことのほか難航した。昔、川太郎に助けられたことのある隅田川の河童たちは、これを見ていたく同情し工事を手伝ったおかげで、掘り割り(当時は新堀川と呼ばれた)は見事に完成した。この故事にちなんで「合羽橋」としたというものである。もう一つの説は、今の金竜小学校のあたりにあった伊予新谷の城主、加藤家下屋敷に住む侍や足軽が、内職に作った雨合羽を近くの橋で乾かしたことで、「合羽橋」と呼ばれるようになったというものである。




広場の奥には「かっぱ河太郎」の像が建っています。この像は、「合羽橋道具街」が誕生してから90年を迎えるにあたり、平成十五年10月にこれを記念して建立されたものです。「合羽橋道具街」は、明治末期から大正初期に古道具を取り扱う店の集まりから発生し、第二次世界大戦後に主に料理飲食店器具や菓子道具を販売する商店街へと発展しました。現在では、和・洋・中華食器、漆器・和洋菓子機器・厨房設備器具・ショーウインド・和洋家具・店舗装備デザイン施工・サンプル・看板・食料原材料・包装用品などを取り扱う170店舗余りから構成され、約800メートルにも連なる世界でも珍しい専門店街に成長しました。像を制作したのは、彫刻家の西村祐一氏と工芸作家の北村真一氏です。現在は暗渠となった道具街通りの下を流れる新堀川などの堀割工事を手伝ったとされる河童伝説に基づいて、道具街中央ポケットパーク再整備を契機に合羽橋商店街振興組合が主体となって像を建立しました。

かっぱ河太郎像の碑

古来合羽橋は商売とは深い縁で結ばれていた。今から約二百年前の文化年間、商人として財を成した合羽屋喜八は、このあたりの水はけが悪く、僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀をしていることを見かね、私財を投げ出し、治水のための堀割工事を始めた。ところが工事は困難を極めなかなか捗らない。その様を見ていた隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ、夜な夜な現れては人知れず工事を進め、さしもの難工事もついに完成した。そして、その河童を見た人はなぜかそれから運が開け、商売が繁盛したという。この故事に鑑み、合羽橋道具街の誕生九十年を迎えるにあたり、ご来街のお客様ともども幾久しい商売繁盛を祈念し、台東区の協力を戴き、この地にかっぱ河太郎像を建立する。




見所ポイントAの「鷲神社」は「おとりさま」の通称でも呼ばれ、11月の例祭は「酉の市」として江戸時代中期から広く知られています。足立区花畑の大鷲神社の「おおとり」に対し、鷲神社は「しんとり」と称されました。明治初年の神仏分離に伴い、隣接する長国寺から独立し鷲神社となりました。

鷲神社

鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十一月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑いをみせた。一の酉、二の酉、年によって三の西とあり、世俗に三の酉があると火事が多いと言われる。酉の市は、当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊手は幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ツ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。

OTORI SHRINE

There are two gods to which the Otori Shrine is dedicated Amenohiwa-shi-no-mikoto and Yamato-takeru-no-mikoto. According to the legend of the shrine, Yamato-takeru-no-mikoto felicitated his victory on his wayback from his expedition by hanging a rake on the small shrine for Amenohiwashi-no-mikoto. It occurred on the Day of the Cock in November, so that the day was subsequently chosen as the date of the festival. The Cock Fair was developed in the middle of the Edo era as the poetical feature foreboding the arrival of winter. There is the First Cock Fair, the Second Cock Fair and, depending on the year, the Third Cock Fair. The year having the Third Cock Fair is said to have many fires. Originally, the Cock Fair was a fair to sell rakes for practical use as a kind of agricultural product or implement. Subsequently, a rake was said to be useful in collecting fortune and assets. Therefore, it has been regarded as the charm for bringing about commercial prosperity or luck.




今日は10月の半ばですが、境内では早くも縁起物の熊手を売る露天の木組みが始まっています。



見所ポイントBの「吉原辨財天」は、弁財天本宮(吉原神社奥宮)とも呼ばれ、昭和十年に吉原神社に合祀されたため、正確には独立した神社ではありませんが、現在も鎮魂碑等多くの遺構を残しています。



鳥居をくぐり奥へ進むと弁財天の御影が描かれた弁財天の社殿があります。拝所前に花園池(弁天池)の名残をとどめる小さな池があり、鯉や金魚も放たれています。

新吉原花園池(弁天池)跡

江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(1657年)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和三十三年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正十二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正十五年に造立されたものである。昭和三十四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。

SITE OF THE SHIN-YOSHIWARA HANAZONO POND (BENTEN POND)

Until the early 17th Century, this area was marshland with many lakes. In 1657, the wetland was reclaimed and the pleasure district, Shin-Yoshiwara, was established. This pond was left alone and from a certain period, Benten Shrine was worshipped on its shores. Presently, this Benten Shrine is considered one of the shrines on the Seven Lucky Gods of Good Fortun in Asakusa and many come to worship it on New Year's. The pond was called the Hanazono Pond or the Benten Pond. In the Great Kanto Earthquake of 1923 many people sought refuge by its shores and 490 of them perished. The giant statue of the Bodhisattva Avalokiteshvara near the Benten Shrine was built in 1926 in memory of their souls. Most of the pond was filled up in 1959 when the Yoshiwara Building was constructed and now only traces of it remain.




観音様は、関東大震災で溺死した人々の供養のために大正十五年に造立されました。



吉原遊郭は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼を担いました。昭和三十三年に成立した売春防止法によって遊郭は廃止され、昭和三十五年にその名残りを記す碑が地域有志によって建てられました。碑文は共立女子大学教授で俳人・古川柳研究家の山路閑古によるものです。

花吉原名残碑

吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊廊で、元和三年(1617年)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。明暦三年(1657年)の大火を契機に、幕府による吉原遊廊の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊廊を「元吉原」という。新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「売春防止法」の成立によって廃止された。その名残を記す当碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。

Monument in Memory of Hanano Yoshiwara

Yoshiwara was the only red-light district approved by the Edo government, and was set up in 1617 at what is now Ningyo-cho in Nihonbashi situated in Chuo-ku (Fukiya-cho Higashi-donari). The name of Yoshiwara is said to originate from the fact that the town was created by reclaiming a marsh area where ditch reed (Yoshi) grew in abundance. The government executed the order to move the Yoshiwara red-light district to a suburban area due to the disastrous fire in 1657, and Yoshiwara was moved to the location of present-day Senzoku in Taito-ku (Senzoku-mura in Asakusa) in August of the same year. The Yoshiwara in the new location was called "Shin-yoshiwara" as opposed to "Moto-yoshiwara", the original red-light district. Shin-yoshiwara was extremely prosperous as one of the greatest entertainment district in Edo. became a part of the splendid Edo culture, and was the scene of many historical events, before it was abolished in 1958 with the establishment of the Anti-Prostitution Act. This monument in memory of Shin-yoshiwara was set up by local volunteers in 1960. The epitaph is written by Yamaji Kanko, a haiku poet, a researcher of the old senryu (old satirical seventeen-syllable poems), and a professor at Kyoritsu Women's Education Institution. Until the residence indication was changed in 1966, various town names that were related to Yoshiwara, such as Shin-yoshiwara Edo-cho, Kyo-machi, Sumi-cho and Ageya-cho, remained.




見所ポイントCの「吉原神社」は、明治五年(1872年)に新吉原遊郭の四隅に祀られていた開運稲荷大神・九郎助稲荷大神・榎本稲荷大神・明石稲荷大神と、往昔よりの玄徳稲荷社を合祀して創建されました。江戸時代から吉原廊はたびたび大火に遭いましたが、明治八年(1875年)の全焼後、吉原大門外の高札場の所に社殿が造営されました。その後も数回の火災に遭い、大正十二年(1923年)の関東大震災で焼失後、昭和九年(1935年)に新社殿を造営して現在地へ遷座しました。昭和二十年(1945年)の空襲で再び焼失し、昭和四十三年(1968年)に再建されたのが現社殿です。昭和十年(1935年)には吉原弁財天を合祀しています。

YOSHIWARA SHRINE

This shrine is dedicated to Inari, the god of business prosperity and Benzaiten, the goddess of protecting women.




拝殿の向かって右に末社のような小さな社があります。説明書きには「お穴様」と書かれていて、なんでも神様は社の中ではなく地中にいらっしゃるのだとか。お穴様の横には、天燈鬼・龍燈鬼の石像が建っています。天燈鬼・龍燈鬼とは、四天王に踏みつけられる邪鬼を独立させ、仏前を照らす役目を与えられた鬼のことです。



吉原大門交差点の脇に一本の柳の木が植わっています。大井町の浜川橋や南千住の泪橋は罪を負った人達が親類縁者と別れを惜しんだ別離の場所ですが、吉原大門の見返り柳は人生の悲哀は全く感じられませんね。柳の袂に石碑と案内板が立っています。

見返り柳

旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廊の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、

   きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
   見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。

MIKAERI YANAGI(Looking-back willow tree)

This is one of the memorial spots in the Yoshiwara licensed red-light district, a willow tree which is said to have been planted following another willow tree at the gate of Shimabara red-light district in Kyoto. This tree was called "Looking-back willow tree" because visitors returning home from the district looked back at this spot feeling painful reluctance to leave. This tree has been subjects of many Senryu poems such as

Kinuginu no usirogami hiku yanagi kana
Mikaereba ikenka yanagi kao wo uchi

New trees have taken its place several times because of the Great Kanto Earthquake and air-raids during World War II. The tree now standing used to be a little northward of its present site. It was transplanted due to road construction and re-zoning.




吉原大門交差点を渡り、日の出会商店街とアサヒ商店街を進みます。どちらも道路の両側に昭和レトロなお店が建ち並んでいます。



見所ポイントDの「玉姫稲荷神社」は、天平宝字四年(760年)に創建されました。武蔵国豊島郡王子村(現・北区)の王子稲荷神社とも関係があるといわれています。また新田義貞が北条高時を追討すべく鎌倉に進撃(鎌倉の戦い)する際に、玉姫稲荷神社で戦勝祈願したという故事もあり、歴史ある神社であるといえます。

TAMAHIME INARI SHRINE

The festivals called "Kon-Kon Kutsu Ichi" and "Kutsu no Megumi Matsuri Ichi," the festival of shoes, are held every year at this place.




玉姫稲荷神社の社殿は昭和二十年(1945年)の東京大空襲で全焼し、戦後まもなくは台東区立田中小学校(現在は閉校)の奉安殿を譲り受けて祭祀を行い、昭和二十八年(1953年)に各社殿が再建されました。玉姫稲荷神社の氏子には地場産業である製靴業者も名を連ねており、毎年11月に「靴のめぐみ祭り市」と題して、靴の大安売り市が開かれています。



明治通りに面して、平賀源内の墓碑が建っています。平賀源内は江戸時代中頃の人物で、本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家など、多彩な人物として知られています。発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介や火浣布(石綿を布にしたもの)の開発があります。また、土用の丑の日にウナギを食べる風習は源内が発祥との説があります。商売がうまくいかない鰻屋(源内の知り合いの鰻屋という説もあります)が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の元に相談に赴きました。源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めました。すると、その鰻屋は大変繁盛しました。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したというものです。



路地に面した小さな広場に巨大な地蔵尊が建っています。

HAUNTED JIZO

So-called, because in olden days it is said that the steel hat on his head would move, and the Jizo (a guardian deity of children) himself would speak to passers-by.




手前のお地蔵様と比べても、その巨大さが実感できます。

お化け地蔵

「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ三メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治四十年刊「東京名所図会」には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保六年(1721年)の建立。関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政二年(1790年)に建てられた。総泉寺は、昭和四年板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。

OBAKE (BOGY) JIZO

Once upon a time, this area was within the premises of Sosenji Temple. The bogy Jizo is located at a corner of the Sosenji Temple and initially it was called "baby-raising Jizo." But the Jizo, an image in stone, had a large hat and a large height of more than 3 m. So, some people said that the hat moved in direction, and then they used to call it obake (bogy) Jizo. According to the foundation stone of the Jizo, it is recorded that the Jizo was built in 1721 and broken into two pieces after the Great Kanto Earthquake but it was repaired with the head portion replaced.




橋場不動尊は、天平宝字四年(760年)に寂昇によって開山されました。当初は法相宗の寺院でしたが、長寛元年(1163年)に教円坊(もしくは長円)によって、天台宗に転宗しました。江戸時代には、玉姫稲荷神社の別当寺になっていました。橋場不動尊の本尊は、良弁の作といわれている不動明王です。ただしこの像は秘仏であり、代わりに前立本尊としての不動明王が安置されています。この前立本尊は鎌倉時代に作られたものと推測されています。



明治通りの先に巨大なガスタンクが三基並んでいます。かってはこの地でガスを製造していたそうですが、今はどこから入ってくるのでしょうか?私は都市ガスは海外から輸入された天然ガスをそのまま使っているものとばかり思っていました。



隅田川に架かる明治通りの橋が白鬚橋(白髭橋ではありません)です。



白鬚橋の袂に「対鴎荘跡」の案内板が立っています。

対鴎荘跡

隅田川畔の橋場一帯は、風光明眉な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もそのひとつで、明治時代の政治家三条実美(一八三七年〜一八九一年)の別邸であった。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(一八七三年)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れている。隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鴎荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛末五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。対鴎荘は、昭和三年(一九二八年)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。

(注記)対鴎荘の「鴎」の字は当て字です。本当の文字はUnicode形式になるので便宜的に「鴎」の文字を使いました。

REMAINS OF TAIOSO

Taioso was the villa of sanjo Sanetomi (1837-1891), statesman in the Meiji Era. He fell ill in Octoder of 1873 and rested quietly in this villa. the Emperor Meiji was very anxious about his health and visited this villa himself to comfort Sanjo. This monument was created by a citizen who owned the villa later to commemorate the Emperor's visit . The villa was relocated to the Tama-Seiseki-Kinenkan at Tama City to allow the construction of the Shirahige Bridge in 1928.




明治通りを渡って、川の手通りを北に向かいます。隅田川の土手にふたつの案内板が立っています。

対鴎荘跡

対鴎荘は白鬚橋西詰の地に明治六年(1873年)明治の元勲三条実美の別邸として建築された。

   いそがしき つとめのひまを
   ぬすみ来て 橋場の里の
   月をみるかな

三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。

Former Site of the Taioso Residence

The Taioso was built around here in 1873 as a suburban residence of Sanjo Sanetomi, a leading politician in the Meiji period. He sought elegance similar to that of Kyoto and wrote poems expressing his admiration for the landscape in Hashiba. Hashiba has a long history and was a quiet area until the early years of the Meiji period. From this riverbank, people were able to enjoy the idyllic scenery of the Mukojima area where a row of cherry trees stood on the bank in front of a dense forest.

これより東へ約二十メートル
橋場の渡し

対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約百六十メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。「江戸名所図会」によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、「伊勢物語」の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。大正三年(1914年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。

Hashiba Ferry

This is a ferry crossing from Hashiba to Terajima in Sumida City on the opposite bank some 160 m away. It was also called "Shirahige Ferry". According to "Edo Meisho Zue", it was called "Sumida River Ferry" in the olden days and story has it that Ariwara no Narihira, whose romancing is said to have inspired the "Ise Monogatari" (The Tales of Ise), crossed the Sumida River via this ferry. However, the boat launch had moved several times around here and it is difficult to determine the exact position. It was used by many people until the bridge was built in 1914.




明治通りを渡った角に、石浜城址公園があります。石浜城は、中世の武蔵国に存在した日本の城ですが、正確な所在地については意見が分かれています。現在の台東区浅草七丁目付近、あるいは荒川区南千住三丁目付近が候補地となっています。石浜(石濱)は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国(千葉県)の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされています。築城年代は不明ですが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、南北朝時代の文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けています(武蔵野合戦)。室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉氏の庇護下に入り、石浜城を拠点としました(武蔵千葉氏)。この際、弟の自胤も赤塚城に逃れています。ですが、下総回復は達成できず、扇谷上杉氏の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、豊臣秀吉による天正十八年(1590年)の小田原征伐によって没落し、石浜城も廃城となりました。石浜城は、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」にも登場しています。

あらかわの史跡・文化財
石浜神社と隅田の渡し

ここより北方に石浜神社がある。石浜神社は聖武天皇の神亀元年(724年)に創祀され、中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また朝日神明宮とも称し、伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。隅田の渡しは、平安時代の編纂物の「類聚三代格」や、歌物語である「伊勢物語」にも記される渡しで、この辺りは古くから交通の要衝の地として賑いをみせていた。石浜神社境内には、隅田の渡しを背景にした歴史と光景を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」(区指定文化財)が残る。

Ishihama Shrine and Sumida Ferry

From here you can see Ishihama Shrine. It was founded in 724 and is said to have prospered greatly in medieval times being an object of worship by the Chiba Clan and others. Ishihama Shrine was also called Asahi Shinmei-gu, and there were a number of people who visited this shrine instead of making a pilgrimage to Ise Shrine. The Sumida ferry was recorded in the collection of laws and regulations compiled during the Heian period and in the narrative "Ise Monogatari (The Tales of Ise)". This area has long been prosperous as a hub for transportation. On the precinct of Ishihama Shrine, there are the Poetry Monument of Ise Monogatari, and the Poetry Monument of Kameda Hosai (designated cultural property of Arakawa City) that remind us of the history and site of the Sumida ferry.




石浜神社は神亀元年(724年)に創建され、隅田川の西岸(石浜と呼ばれた長く伸びる微高地)に鎮座しています。源頼朝が奥州征討の折に戦勝を祈願し、また元寇の際には朝廷から鎌倉幕府七代将軍・惟康親王を勅使として戦勝を祈願させました。いずれの戦役にも勝利したことから、中世以降は関東武士を始め多くの人々の崇敬を集めることになりました。この地域には中世の鎌倉・南北朝時代から安土桃山時代頃にかけて石浜城が存在し、石浜神社付近が城跡候補地のひとつとされていて、東京都の遺跡地図上では石浜神社北側が埋蔵文化財包蔵地となっています。



境内にふたつの案内板が立っています。

石浜城址(石浜神社)

石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573年〜1591年)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。石浜神社は、聖武天皇の時代・神亀元年(724年)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・宇都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の祓(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(1838年)刊行の「東都歳事記」の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。

Site of Ishihama Castle (Ishihama Shrine)

Ishihama Castle was home to the Musashi Chiba Clan in the middle of the Muromachi period and lasted for more than 100 years in the war-torn era. The castle was thought to be abandoned after the lord Chiba Tanemura's residence from 1573 through 1591. Although there are various arguments about the location of Ishihama Castle, the area around Ishihama Shrine is considered to be one of the more likely places. Ishihama Shrine is an ancient shrine that is said to have been founded in 724 during the rein of Emperor Shomu and revered by Minamoto no Yoritomo, Chiba Clan, Utsunomiya Clan, and others. The "Nagoshi no Harae (annual Shinto ritual of purification)" held on June 30th in the Edo period was famous for its splendor and was introduced as a summer feature in the illustration of the 1838 edition of "Toto Saijiki (Eastern Yearbook)".

真先稲荷と田楽茶屋

真先(崎)稲荷は、天文年間(1532年〜1554年)、石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦七年(1757年)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んで、おおいに繁盛した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。

Masaki Inari Shrine and Dengaku Teahouses

Masaki Inari is said to have been worshipped by the Chiba Clan, the lords of Ishihama Castle, from 1532 to 1554. Originally, it existed on the Sumida River bank and the area in front of it was known as a scenic spot. Also, it is said that the emerging fox from the hole of the rear shrine was famous along with the fox in Mimeguri Inari Shrine on the opposite bank. The number of people visiting Masaki Inari Shrine increased from the middle of the Edo period and, by the middle of the 18th century, there were many teahouses such as Kinoeya and Kawaguchiya that prospered selling dengaku (tofu baked and coated with miso) made from Yoshiwara tofu. Visitors to Yoshiwara often came to this place, and the Senryu Verses make references to Masaki Inari, Dengaku and Yoshiwara.




都鳥は在原業平の和歌ですが、その案内板が藤棚の脇に立っています。

都鳥

   名にし負はば いざ言問はむ 都鳥
   わが思ふ人は ありやなしやと

この有名な和歌は、平安時代初期の歌人である在原業平が京の都から、石浜の辺りを訪れた際に詠んだもので「伊勢物語 東下り」と「古今和歌集」に収録されて(い)ます。業平が隅田(橋場)の渡しにて隅田川を渡る際に京都では見慣れぬ鳥を見かけ、渡守に問いかけたところ「都鳥です」と答えた。そこで、「都という名を負っているならば、さあ尋ねよう都鳥よ。私の恋い慕う人は無事に過ごしているであろうか」と望郷の念を込めて詠みました。当社境内には、文化二年(1805年)に建立された都鳥の歌碑があり、碑には波をあしらった渡し船の図を配し、流 れるような見事な仮名書きで「伊勢物語」本文の一節も刻まれています。古代から「都鳥」と呼ばれ親しまれてきたこの鳥は「ゆりかもめ」のことで東京都の鳥に指定されています。現在も毎年冬になると石濱神社付近の隅田川川畔にも数多く飛来して来ます。




石浜神社は、少し変則的な鳥居(笠木の断面がカマボコ型の神明鳥居)がある事で知られています。第一鳥居は1780年に建立され、荒川区の登録有形文化財になっています。笠木(一番上の横棒)の断面がカマボコ型の靖国鳥居になっていて、おそらく全国でも石浜神社だけで、石浜鳥居と俗称されています。749年建立の第二鳥居も荒川区登録有形文化財になっていて、第一鳥居と同じく、笠木の断面がカマボコ型の石浜鳥居です。



力石がずらりと並んでいます。38貫は142.5kgに相当します。



ということで、長かった「Hコース(浅草寿地区健康推進委員おすすめ)吉原仲之町通りルート」を歩き終えました。「吉原仲之町通りルート」には短い派生コースがあり、引き続きこちらも歩きます。






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